青春18きっぷ

出直し2年がかりの呉線全駅訪問~聞き耳が過ぎて最後の駅で痛恨のやらかし

風早駅のホーム

※訪問は2022年12月27日

駅訪問で必ず行うこと

風早駅に到着。これで広~三原の駅はすべて訪問したことになる。残る広以西は列車本数が多く、昼間き普通が1時間に1本の停車という駅もあるが、朝の通勤通学時間帯は本数が多い上、呉ポートピア駅のように至近な駅間もあって、なんとでもなるはずだ。とにかくひとつの区切りである

話はややそれるが、駅訪問を趣味にしている人なら必ず行うであろうことがある。駅舎と駅名標の撮影。これをしないと駅を訪ねたことにならない。駅舎がない駅はホームと待合所を撮る。当然すぎることだが、まずこれを念頭に置いて以下を読み進めていただきたい

万葉集にも残る地名

風早駅は1935年(昭和10)の開業。竹原~三津内海(現安浦)が延伸された際に設置された。当時の所在地は「早田原(はやたわら)村」。この村名は「風早」「大田」「小松原」という3つの村の名前から1文字ずつとって付けたもの。戦時中の1943年に他の自治体と合併して安芸津町となり、平成の大合併で東広島市となった

「風の郷」という風早自治協議会のHPによると、伊予の国で勢力を持っていた風早氏が海を渡って瀬戸内海の島々にも支配を広げ、当地に定住したため地名となったという説があるという。これが6世紀の話。また万葉集にも船の寄港地として風早の地が詠まれていて、少なくとも奈良時代には風早という地名は定着していたようだ

駅は海に近い

駅舎を出ると、すぐ海である

2面2線構造のホームはカーブ状に設置されている。弧を描きながら入線または去っていく電車を見ることができる

駅から海の方へと向かうと右手に商店があった。早朝に三宮の牛丼店で朝食を摂ったが、時刻はすでに14時前。さすがに腹が減ってきたので

おにぎりとお茶で少しばかり空腹を満たす。ちなみに風早駅には、ちゃんとお手洗いがある(男性視線だが)のでお茶もコーヒーも安心だ

会話に引き込まれ

駅舎で食べようと、駅に戻った。風早駅もキュービック駅舎だが、前記事の安登駅と同じく、1970年代に早々に現在の姿となったため、窓口跡がある

だが駅のベンチには先客が

正確に言うと、安登から風早へと向かう車内から、ご一緒だった。ご婦人の二人連れ。私よりは確実に一回りは上と思えるので70代以上だろう。その時は熱のこもった会話に何とも思わず、風早で「あー、一緒に降りるんだ」と感じた程度だったが、商店でおにぎりを買って駅に戻ると、駅舎内のベンチで延長戦を行っている

で、その会話内容が全く分からない。地方に行くと、お年寄りに限らず方言が全く理解できない、というのはよく体験するが、広島県で会話が分からない、というのは初体験に近い。正確には明治生まれだった尾道(といっても船で尾道から1時間もかかる小さな島)の祖母以来だが、当時は私も子供で理解力に乏しかった。しかも、さすがに目の前の方々は明治生まれではないだろう

ただ会話のディテールは理解できなくても、テーマぐらいは分かる。というか12月27日という年の瀬で、吹きさらしの駅舎内は結構寒い。おしゃべりなら家に帰ってやればよろしい。なぜ、わざわざ寒中行うのかというとテーマが「嫁姑問題」だからだ。それは家ではできんなぁ(笑)。私は明らかにヨソ者なので、いくら聞かれても大丈夫である

数年前、鹿児島の枕崎に行った時も「嫁がネコを拾ってきて…」というあたりまでは分かったものの、その後はちんぷんかんぷんだったことがあったが、ここは広島県である。ちょっと私も何とか理解してやろうとムキになってきて、お茶を飲むふりをしながら耳をダンボにしていると、少しずつ中身が分かるようになってきて「お母さん、そのぐらい大目に見てあげなさいよ」と思えるようになった。大変満足

お二人が去った駅舎内の様子(笑笑)。正しくは次の列車に乗るお客さんがやって来て、どうも顔見知りのようで強制終了となった(笑笑笑)

ということで方言も何とか理解でき、とても満足して次の訪問地である岩国に向かったわけだが、帰宅後しばらくしてから駅舎の写真も駅名標の写真もないことに気付いた。お茶とおにぎりを買って食べたぐらいなので時間はいくらでもあったはず。駅に着いた時、随分と傷みの激しい駅名標を後でゆっくりチェックしようと思ったことは覚えているのだが、いつの間にかすっかり失念していたようだ

ただこの日の旅先で最も印象に残る場面だったことだけは間違いない

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~路線内の駅付近にあるもうひとつの日本一

安登駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

駅員さんもいたキュービック駅舎

安浦駅からお隣の安登駅まではバス移動。名前もそのまま安浦バス。地元の高校生とともに乗り込む。広より東側は駅間が長い区間が多く、ここは4・5キロ。季節的に歩けない距離ではないが、バスの時刻表に合えば、乗車にこしたことはない

かわいいバスに乗り

駅前で下車。バスだと4キロはあっという間だ

ちょっとしたロータリーのある安登駅は

典型的なキュービック駅舎。現在の形となったのは、かなり以前のようで

現在はICタッチと自動券売機のみが設置されている無人駅だが、窓口跡が残る。ちょっと凝った「安登駅」の駅名板は、どう見ても国鉄のもので、1970年代にはキュービック駅舎となりながらも駅員さんはいたようだ

「跡」が「安登」に変化か

駅名は1958年(昭和33)まで存在した安登村に基づく。前記事で安浦駅は設置当時、内海町にあったことで三津内海駅になったと記したが、安登村は1929年まで「内海跡村」という自治体名だった。安登駅は1935年に呉線が全線開通した際、途中駅として設置されたが、内海跡村が安登村へと名称変更された時期がもう少し異なれば、旧村名が駅名になったかもしれない。「跡」の言葉の響きが好きではなかったのかどうかは分からないが、この跡という文字も元々は同読みの村があったともされ「あと」が、いろいろ変化しているようである。安登村は安浦町と川尻町に分割される形で自治体としては姿を消したが、現在は両町ともに呉市となっている

呉線は国道185号と並行していて駅の部分だけ駅前ロータリーを気遣うように、やや山側に曲線を描いているが、この部分が非常に重要で当駅最大の見どころが、そこにある

駅前ロータリーから国道に出る部分にある、よく見かける横断歩道だが、このような看板がある

「日本一短い県道」

駅前ロータリーと国道を結ぶ10・5メートルが「県道204号安登停車場線」。ロータリーの一部にも見えてしまうが、約20年前に拡幅工事が行われ道路幅が道路距離を上回ってしまったが、それ以前はもっとくびれていたという

ただこの「日本一」については、これを上回る(下回る?)県道があり、新幹線駅でもある長野県の上田駅前ロータリーの出口部分の県道が7メートルしかない。ただしこれには注釈が必要で、長野県の県道は、その先が別の県道との重複区間となっていて、重複部を含めると126メートルとなる。つまり微妙な構造なのだが、国道をはじめとする重複区間は、呼称については総延長の長い道路を優先するとのルールに従うと7メートルになってしまうとのことで、これまた微妙である

もっとも最短を巡って両者がもめているわけではなく、むしろ逆で「安浦町まちづくり協議会」のHPでは「総延長が日本一短い県道」という表現を行った上で経緯を説明している。HPによると看板が設置されたのは2007年で、その後に上田駅前の県道の方が短いことが判明。重複区間の存在も解説した上で「実延長では日本一ではないが、総延長では日本一だといえる」と、長野県に丁寧に敬意を表している

駅のホームに戻ると年季の入った名所案内が

最後まで読んで「ここからは行けないんかい」と突っ込みを入れてしまいそうになったが、とにかく話題が多い駅だということにしておこう

ちなみに名所案内にも出てくる先に紹介した「日本一短いトンネル」のある安芸川尻駅は、さらに呉方面へ1駅お隣の駅である

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~戦前からの駅舎が残る貴重な存在は始終着列車もあり

安浦駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

元の駅名は三津内海

安浦駅に到着。駅舎側のホームには駅舎が見えている

戦前からの立派な駅舎が健在。出入口のひさしの部分は手が加えられているようだが、柱は当時のままに見える。和式でありながらの三角屋根を持っている

開業は1935年(昭和10)。竹原から延伸されてきた線路が当駅までやって来て三原側からの終着駅となったのが2月。そして11月には当駅から広が開通。1年にも満たない終着駅としての存在だったが、これで呉線は全通となった。それまで呉~三原は「三呉線(さんごせん)」という名称だったが、全通したことで全線があらためて呉線となった

ちなみに当時の駅名は三津内海(みつうちのうみ)。「うつみ」と読みがちだが「うちのうみ」である。なぜなら内海町にある駅だったからだ。では「三津」とは何か、となるが、これは当時あった三津口町にちなむ。駅の所在地は内海町だが、三津口も近いので両者を合わせた駅名となった。両方の自治体から駅名を付けるのは、新幹線の駅が誕生する時に生まれる戦後だけのものではなかったのである。だが、この両町は戦時中の1944年に野路村と3自治体の合併により、安浦町となった。安浦は特に地名ではなかったが「浦安かれ」という意味を込めて名付けられたとか。安浦町は平成の大合併で呉市に編入となったが、安浦という新しい地名はその後も残り、駅の住所も呉市安浦町となっている

町名の変更に伴い、駅名も戦後間もなく町名と同じものへと変更となった。必然的な流れではあるが、駅名がそのままだったら、由来も残ったと思われるだけに若干残念でもある(住居表示としては内海も三津口も残っている)

2面3線ホームも現役

安浦駅は旧安浦町の中心部にある。2021年の1日の利用者は994人。これは広から東の区間では安芸川尻、竹原に次ぐ3番手(以下三原駅のぞく)で、朝と夜には広方面からの当駅止まり、広方面への当駅始発も設定されている。構造は2面3線で、路線内で3線構造の駅は広、呉、坂の3駅しかなく、広から東では当駅のみ。重要な駅ともなっていて

観光用のイラスト駅名標もある

こちらは駅前の観光案内を兼ねたウォーキングマップ

駅舎は海側にあり、反対側にも街は広がっている。両側の往来にはエレベーターも備わった跨線橋を利用するようになっている

ただ残念ながら2年前にみどりの窓口が営業を終了。と同時に無人化された。ふさがれた板の大きさから立派な窓口だったと思われる。定期券の購入、継続に対応する券売機は設置されているが、この立派ないでたちに無人というのは、ちょっと惜しい気がした

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~真冬のキュービック駅舎で悶絶

大乗駅の駅名標

※訪問は2022年12月2日日

ソロレソロリの絶景区間

大乗駅に到着

呉線の絶景区間については前記事でも触れたが、初めて呉線に乗車すると、この絶景区間を中心にところどころでスピードが緩むことに驚かされる。最初は「景色を見せてくれるためのサービスか?」と思ってしまうほど

だが、これはいわば「JR西日本名物」の制限速度25キロ。呉線は山と海の両方に近い地形もあって、特に平成になってから、豪雨による被害を何度も受けている。集中豪雨による被害は平成になってから各地で頻繁に起きていて、戦前からの脆弱な路盤の被害が相次いでいるが、呉線も例外ではない。特に2010年以降は4度も大規模な災害が発生して、全線復旧へ半年を要したこともある。現在、呉線で使用されている車両は227系という最新の電車に統一されていて、車両性能を考えると25キロ制限というのは、力を大いに持て余しているのだが、盛土上のやや高台に敷かれた線路の上はソロリソロリと走るか、新たにトンネルを掘るなどして線路の付け替えを行うしかないのだが、広~三原の利用者の数を考えると前者しかないのが現状である。もっとも、そのおかげで旅行者は素晴らしい車窓に出会えるのでもあるが

キュービック駅舎になって長く

大乗駅は1932年(昭和7)の開業。安芸幸崎から竹原までが延伸された際に途中駅として設置された。当時は大乗村。竹原のお隣の駅で、当駅から竹原に向けては海沿いではなく、山中をショートカットして竹原に向かうルートが採られている。沖合に阿波島という無人島があり、東に大久野島があることから、戦時中には化学兵器つまり毒ガス兵器の貯蔵庫が設置されていた。大乗村は1954年に竹原町に編入されて自治体としては消滅。現在は竹原市

簡易的なキュービック駅舎だが、かなり以前に現状のものとなったらしく

駅の事務室と窓口も残されている。記録だと現在の形になったのは1979年と、国鉄民営化のかなり前。当時は無人駅ではなかったようだが、現在はICリーダーと自動券売機だけが設置されている

ホームは築堤上にある2面2線。前記事の吉名駅と同じく

こちらは駅舎と逆側のホームからの眺めだが、かなり急峻な階段を降りて駅舎へと向かう。ホームの行き来も同じく築堤下のトンネル経由で行う

呉方面へのホームにはスロープも設けられている

竹原のお隣の駅ということもあって周辺は住宅街

駅舎の向こう側にも住宅が並んでいる。駅前の商店は営業を行っているのかどうか不明だったが、駅の南側の国道に出ると海はすぐそこである

年末の訪問はやはり冷える。ここまで安芸長浜、須波、吉名と駅訪問を行ってきた。駅舎すらもない須波は別として他の2駅はお手洗いが設置してあり、ちょっと油断した私は吉名そして電車内でもお手洗いは利用していなかった。そろそろこちらでもと駅の横にあるトイレらしきものの前まで行った。すると

ドアノブまで外されている厳重施錠で当然、中には入れない。時刻はお昼前で、時間的には暖かくなるころだったが、当駅で過ごした50分は、かなりの悶絶タイムだった。やはりローカル線の駅訪問は油断禁物である

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~キュービック駅舎が続々と

吉名駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

美しい車窓に癒やされる季節は冬場がベスト

瀬戸内海に沿って走る呉線は車窓も美しい。特に三原に近い安芸長浜あたりから東側は国道とともに海沿いを走る区間が多いので、乗り鉄の方も目を凝らして見ていただきたい。私的にオススメは夕陽の沈む時間帯か。こちらは朝のおそらく須波~安芸幸崎間の車窓

さらに言うと、季節的なオススメは冬場である。夏場だと「ブラインドを閉めてください」の圧が半端ない。そして、それは十分に理解できるもの。前回の訪問は、まだまだ暑さの残る10月1日だったが、圧の前に自主的にプラインドを閉めてしまうほどまぶしかった。ずっと南側に向いているので当然のことだが、青春18きっぷの季節に特化するとギラギラ太陽の照りつける夏場はおすすめできない。冬かせいぜい春だと思う。この写真は訪問の年末のものだが、冬の柔らかい日差しが暖かかった

いわゆる簡易的な駅舎

その意味では当日は三原から安芸長浜へと向かってから、須波に戻り、再び呉方面へと乗車したので3回も同じ景色を見られて楽しかった

そして到着したのは

吉名駅。こうして見ると単式の棒状駅に見えてしまうかもしれないが、車両に塞がれているものの、すれ違いの列車交換ができる2面2線構造。広から東側はローカル線のムードが漂う呉線だが、単式ホームの駅は安芸長浜、新広、呉ポートピアの3駅のみ。いずれも平成になって設置された新駅で、他はレールがはがされて単式ホームになったりすることなく2線以上の構造を保っている

ホームは盛土の上にあり、結構急峻な階段で駅舎を抜け外に出る

駅舎は簡易的な立方体の、いわゆるキュービック駅舎である

吉名駅は1935年(昭和10)の開業。同年の2月に竹原から三津内海(現在の安浦)までが延伸された際に設置された。当時は吉名村。同村は1956年に竹原町に編入となり、現在は竹原市である。かつては開業以来の木造駅舎があったが、30年近く前に現在の姿となった

周辺は吉名の町の中心部にあたり、タクシーもいる。吉名村は「所得倍増計画」や、最初の東京五輪時の首相として知られる池田勇人元首相の出身地である

駅前の地図。駅前の道路を道なりで歩いていくと港に出る

こちらは駅舎内の様子。椅子が並んでいてすぐに階段があり、ホームへと向かう。ICリーダーと自動券売機という呉線ではおなじみの光景。もちろん無人駅だ

ちょっと古典的なホーム案内。駅舎と階段を結ぶあたりは柱も木造なので、駅舎の改築以前のものかもしれない

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~三原のお隣のモニュメント駅はヤード跡横断も可能

須波駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

ホーム間移動は公道経由で

須波に到着。三原駅を出てからの呉線は、すぐに山陽本線に別れを告げて左に折れると三原の市街地を見渡しながら南下。河口付近で川幅も広くなっている沼田川を渡ると、すぐ山となるため、再び左に弧を描き、今度は海と山の間の狭いスペースに沿うように右へとカーブして須波へと向かう。車窓的にも海が一望できて見どころのある場所だが、地形的には自然の影響を受けやすい場所となっている

ただしこの日は安芸長浜に一度行ってから戻る形になったため、到着は三原方面のホーム。つまり山側

ここから階段を降りて敷地外に出る

見上げた先にはICタッチのみがあって

やや狭い公道がある。上りホームへの移動はこの公道を介して行う

須波は漁港として栄えた町。駅の開業は1930年(昭和5)。三原から1区間分が敷設されて、ほんのひとときの終着駅だった。1年後に安芸幸崎まで延伸されている。当時は須波村。1936年に三原市に編入されて現在に至る

ヤード跡を横切って駅へ

呉線をくぐって駅の玄関である上りホームへと向かうが

そこに広がるのはかつての構内であるヤード跡

写真で分かるように、いくらでも横切ることができる。全国に残るヤード跡とその中は入れないように柵が設けられていたり、立ち入り禁止の看板があること多いが、こちらは広大なスペースに柵などは設けられておらず、言い方を変えると「入りたい放題」である

ととても貴重な機会ともいえる

なぜこのように開放されているかというと、山側から来ると呉方面へはここを通るのが最短距離だからだと思われる。正面から回り込むと、やや遠回りになる。現実に私以外にも、ここを通って呉方面への列車に乗ろうとする方々がいた

現在の姿はモニュメント駅

呉線ホームへと向かう。ずっと「ホーム」という表現をしてきたが、それは現状がこうなっているから

階段があって「須波駅」の駅名板が立てられているだけ。かつては駅舎があったが、解体されて簡易駅舎すらない。私はこのような構造を「モニュメント駅」と呼んでいる。ポストだけが残されているのも定番のような気がする

呉線は2018年の平成30年7月豪雨で全面運休となった。徐々に復旧して最後に残ったのが安浦~三原。12月に全線再開となったが、この間に開業以来の木造駅舎は解体となった。構内やヤード跡の広さを見ると、かなり大きな規模の駅だったことが理解できる

盛土の上にあるホームで列車を待つ。駅舎があった時代からホーム移動は公道を介して行われていたようだ。年末の朝9時すぎという時間に、ここで過ごすのはちょっと寒かった

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出直し2年がかりの呉線全駅訪問~路線内では異例づくしのUFO駅

安芸長浜駅の駅名標

※訪問は2022年12月27日

帰省ラッシュ前夜の新幹線で再開

年の瀬の早朝6時すぎの新神戸駅

6時38分のさくらで西へと向かう。今日は呉線の再訪。前回から3カ月近くが経っていて当時はまだまだ暑かったが、当然そんなことはなく、この時間でもまだ真っ暗だ。もう数日で新幹線は帰省ラッシュで大いに混雑するのだろうが、世間的には正月前の追い込みモードで新幹線もビジネス客中心のようだ

福山で在来線に乗り換え、青春18きっぷに3回目のスタンプをもらう。購入したのが和泉砂川で、これまでの2回が五反田と木更津。12月に入っての阪和線各駅訪問の際に買って、ここまでの2回は内房線全駅訪問の際に使用。前回の利用時は鉄道の日の秋の乗り放題パスで自動改札機を通ることができるのが最大のストロングポイントだったが、今日の行程については、あまり世話になることがなさそうなので、ほとんど関係がない(笑)

広から東では唯一の戦後生まれ

8時52分、安芸長浜駅に到着。見て分かる通り、単式ホーム

安芸長浜駅は1994年(平成6)の開業。国道そしてホームという構造。他路線でもそうだが、こういう形式は後から強引に設置した駅であることが多い。呉線内で棒状ホームの駅は他に新広、呉ポートピアの計3駅しかなく、いずれも平成になって生まれた。呉線では広島のベッドタウンとして戦後にいくつかの駅が誕生しているが、広~三原では戦後生まれの駅は当駅のみ。この区間はいずれも戦前からの駅ばかりで、駅間もそれなりに離れているが、新駅だけに両隣へは忠海までが2・8キロ、大乗までが1・8キロといずれも近い。そもそもホームからすっきり海が見渡せる駅がほとんどないのだ

駅は火力発電所の中?

駅の場所はというと周囲をグルリと火力発電所に囲まれている

駅舎は盛土の小高い場所にあるが、背後に電源開発竹原火力発電所が見える

というか、駅はその敷地内にある。つまり火力発電所の最寄りとして設置された。駅を出たところの跨線橋を渡れば火力発電所の入口がある。おそらく徒歩で3分は絶対にかからないだろう。ただし車で当駅に行くには山側からグルリと回り込む必要があるので、かなり時間がかかりそうだ

なんといっても駅舎のフォルムが独特だ。何をイメージしたものだろうか。私にはUFOにしか見えなかった。いずれにせよ、戦前というか昭和時代から、このような駅はなかなか想像できない。いろいろな意味で路線内では異質の駅ということになる

無人駅でICカードリーダーと券売機がある。これは呉線ではおなじみの光景。当駅では朝からちょっとした思い出がある。立派な駅舎でトイレももちろん設置されていて冷え込む朝には大変ありがたのだが、その前で私は立ち尽くしてしまった。左右どちらが男性用、女性用なのか分からなかったのだ。これは困ったとトイレを見つめていると、ホームに居合わせたご婦人が「男性はこちらです」と教えてくれて窮地を脱することができた。正確に再現すると「男性は右です」または「男性は左です」と左右を言ってくれたのだが、どうも右か左かが思い出せない。あくまでも1年以上前の情報だが、当駅を訪れる方は、ぜひ留意しておいていただきたい

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「十日天下」も新幹線の全駅利用を駆け込みで目指す~前編・痛恨の通過列車乗車

※訪問は2024年3月5日

旅のスタートは新潟空港

この記事を書いている傍らのテレビのニュースでは北陸新幹線敦賀延伸で持ちきりとなっている。私のX(旧ツイッター)のフォロワーさんも訪れているようだ。という事実を百も承知で2週間ほど前のことについて触れてみたい

8時20分、新潟空港にいた。今日は新潟駅から信越本線、上越本線、飯山線と乗り継いで十日町へと至る。大阪から新潟へはJALタイムセールで。最大目的地は明日の飯山駅で、大阪からだと名古屋経由で長野まで行くのが、おそらくノーマルルートだろうが、それだと往復同じコースになってしまう上、新潟空港はこれまで利用したことがなかったので、新潟から十日町経由で向かうことにした

バスで30分揺られ新潟駅に到着。すっかり変わったな、という感慨に浸る間もなく

春の青春18きっぷを購入。信越本線を南下。道中、いろいろな駅を回りつつ、十日町を目指すが、新潟近辺の駅では少しの雪が道ばたに残っている程度で雪のことなど、この時点では考えてもいなかった。しかし長岡あたりまで来ると、風景は一変。車窓は雪一色となってきた

3月16日より前の訪問が絶対

話は昨年秋にさかのぼる。10月に九州新幹線の全駅訪問を目指していた。この旅で全国の新幹線駅訪問を達成することになっていたが、時刻表の路線図を眺めていた時、あることに気付いた

飯山駅が未訪問だ

それよりさらに1年前の2022年10月、JR東日本パスで東京から北陸新幹線→上越新幹線→北陸新幹線とグルリ回って新幹線各駅を回収。これで本州と北海道の新幹線全駅を利用したことになったと、すっかり満足していたのだが、私が上越妙高から乗車したのは飯山通過のはくたかだった

はくたかは基本的に昼間は金沢から長野までが各駅停車で、長野以降が速達運転となる。だが、その中の一部に「飯山のみ通過」という、全駅訪問の死角を狙った(?)列車があり、私はまんまと、それに乗車していたのだ

これはマズいと思ったが、飯山駅のみの訪問というのは、金銭的にも時間的にもなかなか辛いものがある。そのうち北陸新幹線の敦賀延伸の時が迫ってきた。その時期は3月の青春18きっぷの季節以外ないだろうと今回の旅となったのである

上越線に入り、小千谷駅では2台の除雪車が待機中。飯山線の乗り換えとなる越後川口でも雪一色

乗り換え時間2分という優秀すぎる接続で、単行のため駅名標の位置が車両から、かなり離れたところにあるため、写真を撮るだけでも必死だった。ちなみにこの足跡はすべて私のものである(笑)。地元の皆さんは雪に対応した靴だったが、当然私は違う

幸運だったのは、週末中心の観光列車「おいこっと」の定期運用車両に乗れたこと。JR東日本は観光列車を定期運用に使用することはほとんどないが、飯山線では使用されているようだ

ちなみに「OYKOT」とは東京(TOKYO)を逆さ読みしたもので、大都会とは対照的なふるさとを意識して名付けられた

フリーきっぷ購入が問題

さて今回の移動で課題となったのが、きっぷの購入である。新潟エリアには「えちごワンデーパス」「えちごツーデーパス」、信州エリアには「信州ワンデーパス」という、なかなか優秀なフリーきっぷがある。ただし「えちごー」についてはワンデーとツーデーでエリアが異なり、ワンデーは小千谷までしか行けず1570円。ツーデーはエリア拡大で2740円で十日町まで行けるので自分の行動エリアを考えるとツーデーを購入して1日だけ利用しても十分に元がとれるが、こちらは基本的に週末のみの販売。ということで18きっぷの登板となった。ただし飯山駅利用には信州ワンデーパスが必須である

というのも新潟エリアのパスにしてもそうだが、特急料金さえ払えば乗車券は有効なのだ。青春18きっぷだと飯山から新幹線に乗車した場合、乗車券も含めて当該区間は一から買わなければならないが、フリーパスだと特急券だけ買えば大丈夫。また明日は松本に宿泊することになっているので、長野から特急移動することになっても同じく特急券追加だけで済む。2680円で通年発売。こちらの方がお得となる

ただ、このフリーパスは購入が問題で、発売はエリア内のみどりの窓口または指定席券売機となっている。名古屋または東京から行く場合はそれほど苦労はしないだろうが、新潟から入る時はエリア内最初の駅は越後川口そして十日町となるが、両駅はみどりの窓口はあるものの、指定席券売機はない。みどりの窓口の営業時間はJR東日本のHPに記されているが、休憩時間などについて私的には現地に着いてみないと分からないと思っている。新幹線に乗るだけなら飯山まで行けば何とでもなるが、きっぷの購入については何ともならない時は何ともならない

という理由もあって本日の宿は十日町とした

十日町到着は15時前。そして

無事みどりの窓口は開いていた。結論としては私が乗車する翌日の朝から営業していたが、とにかくひと安心

これで明日に何の憂いもなくなった。十日町で宿をとったのは、へぎそばを食べる目的もあった。過去に2度ほど新潟駅近くのへぎそばのお店に行ったが、いずれも長蛇の列で断念。かねてより本場の十日町で食べたいと思っていただけに

大変満足。二人前でも食べられたかもしれない

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城端線の全駅訪問を思いつく~沿線で最も大きな駅は県内初の橋上駅舎

砺波駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

127年で2度の建て替え

この日、最後の訪問となる砺波で下車

沿線では高岡そして新幹線の接続駅である新高岡を除くと最も利用者の多い駅である。2022年度の1日平均は1866人。コロナ禍前よりもそれほど減っていない

橋上駅舎を持つ。開業は1897年(明治30)5月で、これは福野駅、戸出駅と同じだが、戦後に国鉄コンクリート駅舎になり、1998年(平成10)に現在のものへと2度の改築が行われている。これは富山県内で最初の橋上駅舎だった。また城端線では高岡を除くと唯一の橋上駅舎でもある。127年にわたり、同じ姿の福野、戸出とは真逆の歴史を持つが、これは利用者の多さからのものだろう

みどりの窓口あり。「もちろん」と付けたいところだが、当駅レベルでも近い将来の無人化が決まっている

鉄道のみならず道路交通の中心部

駅の周辺一帯には砺波平野の中心部である砺波の街が広がる。駅は鉄道のみならず、地域の交通の中心にもなっていて地域の路線バスのみならず、白川郷を経由して高山に至る路線のほか、東京、大阪への長距離路線バスも当駅から出ている。また北陸自動車道と東海北陸自動車道の結点でもある

また砺波といえば

道路に描かれているようにチューリップがあまりにも有名

チューリップ公園は駅からも十分に徒歩圏となっている

変わったの駅舎だけではなく

さて駅前の案内標を見るとチューリップ公園ともうひとつ、出町子供歌舞伎曳山会館の文字がある

子供歌舞伎は当地で200年以上演じられているものだが、「出町」とは現在の砺波市の中心部をなした自治体。戦後の1952年(昭和27)に周辺の自治体と合併して砺波町が誕生。「となみ」の自治体はそれまでなく、出町の所在は礪波郡出町。砺波町が発足して東礪波郡砺波町となった。郡の名前は旧字で町名は新字体を使用。砺波町はすぐ砺波市となったが、東礪波郡、西礪波郡の名は平成の大合併まで続いた

自治体名の変更により、駅名も変わった。駅の開業時は自治体名にちなんで出町駅だったが、1954年に砺波町が砺波市となったタイミングで砺波駅へと改称されている。自治体名が変わっても駅名はそのまま、という例は案外多いが、こちらはすんなり移行されたようだ

ということで昨夏の青春18きっぷはここまで。未訪問駅を2つだけ残しての撤退となったが、いずれにせよ秋の乗り放題パスを使用して、10月にまた高山本線に来なければならない。また氷見線にもいくつかの未回収駅があり、そちらを合わせると今日だけでは終われない。城端線の未回収駅のひとつは、じっくり味わいたい駅でもあり、また城端線もゆっくりと再訪したい。1カ月半後の再訪で出直すことにしよう

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城端線の全駅訪問を思いつく~県内最古参の駅舎は復活の駅名板も丁寧に保存

福野駅の駅名板

※訪問は2023年9月10日

「ほどほどに」ゆえの保全

福野駅に到着。見ただけでクラシックな雰囲気が漂ってくる。富山県では北陸本線がやって来る前に現在の城端線である中越鉄道が県内最初の鉄路となったことは以前記した。また国鉄とともに使用する予定だった高岡駅の位置が決まらなかったため、黒田仮停車場を今の新高岡駅あたりに設けて仮開業したことも紹介した。その仮開業は1897年(明治30)5月。その年のうちに線路は城端まで到達しているが、5月の開業は、こちらの福野までだった。設置されたのは仮停車場の他に戸出、出町(現在の砺波)そして福野の3駅。仮停車場は高岡駅の開業とともに消滅したので、残る3駅が県内で最も古い駅となり、当時からの駅舎が今も現存すれば、それがつまり富山県最古の駅舎ということになる

127年前という気の遠くなりそうなぐらい以前のこととなるが、福野駅の写真で見れば想像がつくように、今も当時の駅舎がしっかり残っている。それが当駅と戸出駅。言い方は悪いかもしれないが、これはローカル線ならではの事象。沿線で最も大きい町で利用者も最も多かった砺波駅(高岡を除けば、今も新高岡に次ぐ2位)が、開業後2回も改築されたことでも分かるように、利用者が多かったり幹線上にある駅は改築、改修される運命にある。逆に利用者が少なすぎると今度は簡易化されてしまう。つまり本数、利用者とも「ほどほど」が残りやすい

こういう条件は満たそうとして満たせるもものではなく、それこそ時の流れに任せるしかないのだが、戸出、福野の両駅は条件を見事にクリアしている

さて、次は2駅のどちらが古いのか、という比較になるが

こちらは福野駅の財産票。明治30年5月とは開業時。そして当然といえば当然だが、戸出駅にも全く同じものが張られている。となると「最古」の基準は、いつ建物が完成したかになるが、これについては調べても分からなかった。というか、駅は人または貨物が使用してこそなので、現役であればこそ。開業は同じなので、私としては両雄を並べた上での「最古の駅」としたい

かつてのターミナル駅

現在は南砺市に所在するが、2004年の平成の大合併までは福野町の中心駅だった。さらには加越能鉄道加越線の乗り換え駅でもあった。加越線は北陸本線の石動駅から福野駅を経由、井波町を経て庄川町へ向かっていた路線で、大正期から運行を開始し、1972年(昭和47)まで営業していた。井波駅は寺院風の駅舎で知られ、登録有形文化財として今もバスの待合室などに利用されている。現在は福野駅からバス連絡である

福野駅には、もうひとつ見逃せないものがある

改札を入ってすぐ左手、跨線橋に向かう途中にある、これまたクラシックな駅名板。駅舎に掲げられていたものが、一時破棄されてゴミ扱いとなっていたが、しっかりアクリル板でカバーされて復活した。これだけでも見る価値はある

駅周辺は旧福野町の中心部

有人駅で、みどりの窓口あり。こちらも福光駅と同じく簡易委託ながらみどりの窓口がある(こちらも福光駅と同様に将来は無人化の予定)という珍しい形式。なにげに「自動券売機」の文字がシブい

訪問時はまだまだ暑い9月初旬だったが、冬を感じさせる車両がホームから少し離れた場所に残る駅名標と並んでいた。いつも置かれているのか、冬への準備のために出てきたのかは分からなかったが、きっと今はこちらの車両が、活躍しているのだろう

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