天応駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

わずか5年だった天応町

天応駅に到着。ご覧の通り、1面2線の島式ホームとなっている

開業は1903年(明治36)年12月。呉線が海田市~呉で開業した際に生まれたので駅としては、前記事の吉浦と同じく、120歳の誕生日を迎えている。呉線はその後、延伸に時間がかかり、呉から東の区間が三原、呉の両側から少しずつ延伸され始めたのは昭和になってから。海田市~呉の先行開業区間の新駅も大正になってから、小屋浦が開業したのが最初で、つまり明治生まれの駅は山陽本線でもある海田市を除く(当時は山陽鉄道という私鉄だったが)と最初に開業した矢野、坂、天応、吉浦そして呉の5駅のみ

天応以外は戦後すべて駅舎の形を変えているので、戦前からというより明治生まれの駅舎が残る唯一の駅ということになる

手は加えられているようだが、屋根や上屋を支える柱などにも歴史を感じる

付近は呉市に編入された1956年(昭和31)まで天応町だった。では駅名も町名にちなんだのかというと、駅の開業時は大屋村だった。大屋村が町制を施行して天応町となったのは1951年なので、自治体としての天応町は、わずか5年間だった。駅名は村名ではなく駅周辺を取り囲むようにしている天応山、天応烏帽子岩山、天狗城山の3つの山にちなんだ

2021年の1日の乗降者数は900人で13位。明治開業の他の4駅がいずれも2000人以上であることを考えると少ない。もっともこれは近い所に新駅が誕生したことにも要因があり、地形的に海に沿った線路に近い場所に住宅地が広がっているため、新駅に利用数が分散したとも考えられ、単純に少ないと言い切るものではないが、明治生まれの他の4駅が快速停車駅なのに対し、当駅は普通のみの停車。別の見方をすると、普通しか停車しない駅だからこそ、明治の駅舎が現役でいられるともいえる

海に近い駅

駅舎にはホームから跨線橋を渡る。山が迫りスペースのない山側にわざわざ駅舎があるのも呉線らしいところ。地図で分かるように当駅は海に近く、跨線橋からの夕陽の美しさでも知られているようだ。「ようだ」というのは、駅の紹介をしたところX(旧ツイッター)のフォロワーさんに教えてもらったから。到着時は15時半を過ぎたあたりで、まだ夕陽の時間には早く気付かなかったこともあるが、ちょっと先を急いでいて駅について調べる余裕がなかったことが大きな原因。今調べると当駅や当駅近くからの夕陽がネット上にいくつもある。ふだんは遅くとも駅に着いてから、いろいろ調べてみるものだが、これは大きな反省点である。だから跨線橋からの写真はない

2018年から無人駅となった。窓口や、かつての手荷物受付と思われる場所は板で塞がれている。無人化された駅でよく見かける「きっぷは正しく目的地まで」の文字はいつからのものかは分からないが、券売機だけでは、もちろんすべての目的地までは購入できない

駅舎内には地元の子供たちの手による展示物があった。花瓶の花も定期的に入れ替えられているようである

先述した通り、ちょっと先を急ぐことになっているため、駅からすぐに離れることになった

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