JR西日本

阪和線の日根野以北を足早に回る~最終項…頭端駅が美しい天王寺

天王寺駅の駅名標

2022年12月8日12時30分

面影を残す

今回の旅の終着駅である阪和線の天王寺(公式には阪和線の起点)に到着です

梅田付近から和歌山や関西国際空港に直接向かう人は環状線を通って、そのまま阪和線に直通するため、意外と降りることが少ないかもしれませんが

天王寺を起終点とする電車は、こちらから出ます。ご覧の通り頭端構造。阪和電気鉄道のなごりというか、同社の駅だったので頭端式となっています。私鉄の大型ターミナルだったわけです

南海との合併を経て戦時買収

阪和電鉄は戦時体制そして戦争によって大きく運命が変わります。まず私鉄の再編によって南海と合併したのが1940年。元々が南海のライバルとしてできた会社ですが、国策ということで同じ会社となり「南海山手線」と改称。しのぎを削ることはなくなりました

さらに戦時中の1944年に今度は南海山手線の部分が「戦時買収」で国鉄となり、現在に至ります

鉄道国有法がすぐ有名無実化したことは以前に触れましたが、この戦時買収は有無を言わせず国有化するもので「買収」とは名ばかりの強制的な国有化でした。仙台から松島へ向け、JRの路線が2つある不自然さも仙石線が戦時買収によるものだから(東北で唯一の直流方式なのもそのため)です

日本中で多くの私鉄が国有化されました。ただターゲットが物資運搬色の強い路線だったため、阪和線や南武線のようにその後、ドル箱路線になったのは大都市圏周辺のごくわずかで、後に廃線になったものや国鉄を経て引き継いだJRが「もうやめたい」と言っている加古川線や小野田線のような路線が多いのも事実

特筆すべきは飯田線で山中を細々と走るローカル線が、なぜ立派に電化されているかというと複数の会社を戦時買収したからで、戦時買収というものがなかったら、今ごろは廃線となっているかもしれません

話は少しそれますが、この1944年には「国からの要望」と、これもまた半ば強制で南海は大阪から三重県まで幅広いエリアを持つ「関西急行鉄道」という会社と合併して新会社「近畿日本鉄道」が発足しました。戦後、南海は同社から離脱して元の形となりますが、会社名は残りました。言うまでもなく現在の近鉄です

ライバル心が発展に寄与

こちらは鳳駅(2021年3月撮影)。阪和線唯一の支線である羽衣支線が発着します

こちらは東羽衣駅(2021年3月)。「東」とつきますが南海の羽衣駅と同じ場所にあります。詳細は以前、別媒体でも記したので簡単に触れておくと、2キロにも満たない鳳~東羽衣の1区間は今や、JRと南海を結ぶ貴重なアクセスとなっていて乗り換えの案内放送もされていますが、もともとはそんな立派なものではなく、当時東洋一と呼ばれた浜寺の海水浴場の集客に目をつけた阪和電鉄が「客を奪ってしまえ」と南海の線路手前まで強引に1区間のみを敷設したもの

なかなか無茶苦茶な話ですが、和歌山まで高速列車を走らせて沿線では遊園地造営に宅地開発、温泉、さらには南海沿線にある競馬場や海水浴場での利用客争奪と、阪和電鉄は、存在したわずか10年の間に「ありとあらゆる手段」で企業努力をしていたことが、よく分かります

その功績は和歌山駅の現在などにも象徴されています

阪和線へのアクセスは容易すぎるほど容易で和歌山まで15分に1本の電車が走っています(昼間の和歌山への直通はこちらのホームからは出ていませんが)。天王寺の頭端式ホームからスタートして三角屋根の駅舎をはじめ、いろいろな歴史を見ながら鉄路をたどってみるのはいかがでしょうか

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阪和線の日根野以北を足早に回る~阪和電鉄最後の駅

富木駅の縦駅名標

2022年12月8日11時30分

意外な難読駅

富木駅に到着しました。「とのき」とは、なかなか読めません

こちらの駅の特徴は東西で大きく表情が変化することです

こちらは東口。阪和電気鉄道独特の三角屋根が、かわいい形で残っています

1940年の開設。阪和電鉄では最後にできた駅です。というのも、阪和電鉄は戦時体制で一度、南海に組み込まれ、戦時中に国営化されたからです

駅は1940年3月に開業し、阪和電鉄は同年12月に南海に吸収合併されたので、阪和電鉄の駅だったのは、わずか9カ月間でした。もちろん阪和電鉄が望んでライバルの南海に吸収合併されたわけではありません

駅ができたのは宅地開発のため。わずか10年しか存在しなかった阪和電鉄ですが、最後の最後まで企業努力をしていたかと思うと、なかなか複雑なものがありますね

他の主要駅もすぐそば

後から設置された駅のため、お隣の快速停車駅である鳳までは1・2キロしかありません。鳳は堺市で富木は高石市ですが、鳳側からの車両区の線路が富木のすぐそばまで来ています

高石市内では南海の主要駅である羽衣駅にも近い。また地図で分かるように周辺はビッシリ住宅街。阪和線沿線の他駅の多くの例と同様、当駅の開設時は取石村でした。阪和線が人工増加に大きく寄与しています

東西で異なる表情

当駅の特徴は東西で駅舎の表情が大きく異なることです

東口は前掲の写真の通りですが西口は

随分と近代的。それもそのはずで、こちらの駅舎は2011年の完成と、まだ10年ちょっとしか経っていません

これも阪和線の特徴ですが、ほとんどの駅は降りるとすぐ踏切があります。それこそ「村」だったころは、それで何の問題もなかったのですが、沿線人口が増え利用者が増加すると「開かずの踏切問題」が各駅で発生します。大阪中心部に近づけば近づくほど電車の種別も本数も多くなるため、これは深刻な問題で、まだこの案件を抱えている駅は多い

そこで当駅では高石市が全額負担して新たに西口を設けました。阪和線の高石市内にある駅は当駅だけ(支線の東羽衣駅はかなり以前に高架化)なので、いろいろスムーズに行ったのかもしれません

西口ができたことで、それまで上下ホームを結んでいた地下通路は改札外の自由通路となって鉄道利用しない人も利用できるようになりました

踏切付近から駅を見ると、こんな感じ。近いのに渡れないというのは、やはりイライラしますね。まだ西口完成から10年ちょっとということで駅には多くの注意書きが目立ちます

板で覆われた部分が自由通路化されたところ。上下ホームが別となったことによる注意喚起

自動改札手前の、あらゆる目につくところに文字が見られます

ただ開かずの踏切のイライラは解消され、こんな文字もしっかり掲げられています

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阪和線の日根野以北を足早に回る~私鉄の面影を残す

東佐野駅の駅名標

2022年12月8日10時

開業時に付けた地名が今も残る

熊取から1駅。東佐野に到着です

2面2線構造

三角屋根の形はおそらく阪和電気鉄道時代からのもの

屋根は瓦になっているようですが、これは近年生まれ変わったもののようです

最初の駅名は「泉ヶ丘」。戦時中に国鉄になった際、現駅名となりましたが、これは阪和電鉄が宅地造成するために付けられた駅名で、和歌山までの全線開通後から10年近くが経過した1939年に開業しました。まるで現在の新興住宅街のような地名ですが、戦時体制に入りつつあったこの時期にも宅地開発での集客をしようとしていたことが分かります

駅の現在の住所は泉ヶ丘1丁目。駅舎側の住所は、ずっと泉ヶ丘が広がっていて宅地開発が身を結んだ形になっています

ちょっとおしゃれな構造

業務委託駅で営業時間は決まっているものの、窓口はあります。改札は簡易式のIC方式

和歌山方面の下りホームには小さい階段でそのまま入ります。大阪市内方面へは跨線橋で向かうのですが

改札からホームへの階段は、扇状でちょっとおしゃれな構造となっています

私鉄駅の色彩が色濃く残る

続いてお隣の和泉橋本駅へ。阪和線は元私鉄らしく駅間が短いのが特徴ですが、先述した通り、後から東佐野駅(泉ヶ丘駅)ができたため、特に駅間が近くなっています

線路沿いの道路はないようで、徒歩や車だと回り込む必要があるようですが、レールだけだと駅間はわずか1・5キロ。出発したと思ったらすぐ到着してしまう感覚。歩いても30分かからないとグーグル先生は教えてくれますが、もちろん歩きません。電車は15分に1本来るのですから

あっという間の到着

駅舎は、いかにも私鉄らしいもので駅からすぐの踏切と駅前の狭い道路と商店街も、私鉄を感じさせてくれます

改札は開閉式のものが設置されています。東佐野より圧倒的に利用客は多いのですが

みどりの窓口の営業を終えた2015年から設置されていた、みどりの券売機も昨年8いっぱいで撤去されています。張り紙にその旨が書かれています。1日に5000人ほどが利用する駅でみどりの券売機まで営業を終えるのですね。これはちょっと驚きでした。ただ定期券を買える券売機は残されています

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阪和線の日根野以北を足早に回る~近年まであった鉄道国有法

熊取駅の駅名標

2022年12月8日9時50分

関空以前からにぎわう

和歌山で宿泊した翌日は大阪市内へ戻りつつ、いくつかの阪和線駅訪問を行います。紀州路(関空)快速は和歌山から、ここ熊取まで各駅に停車した後は快速運転となるので渋めの駅が中心となる私は区間快速に乗り換えとなります。朝のラッシュ時の終わりあたりから日根野始発で運行が始まり、昼間はここ熊取が始発。鳳まで各駅に停車した後に快速運転となります(朝のラッシュ時は普通の運行)

おおよそ15分に1本の運行で、熊取からは紀州路快速と合わせると1時間に8本の電車が大阪に向けて出発するので、すっかり都会ダイヤです

熊取町は泉佐野市と貝塚市に囲まれた形になっている町で、昭和初期に阪和電気鉄道によって初めて鉄道がやってきました(当時は熊取村)。町内に駅はひとつしかないのですが、京大の原子力研究施設を設置することで快速停車駅に昇格。大阪中心部へのアクセスがグンと上がってベッドタウン化。ひとつお隣の日根野は関空への分岐駅となったおかげで大出世しましたが、当駅はそれ以前からにぎわっています

バスの案内にもある通り、平成になると大阪体育大学も移転。他にも学校が移転するなど、現在は人口4万3000人の「都市」へとなっています

南海が拒んだ鉄道国有法とは

南海が鉄道国有法による国鉄化を拒んだことは

この時にも触れましたが、日清戦争、日露戦争で鉄道の重要性を知ったこともきっかけになった鉄道国有法は、20年も経って昭和初期になると線路を造って収益を上げている私鉄各社にとっては「迷惑なもの」になっていました。せっかく自らの手で建設して育ててきた路線を手放してはたまらない、というわけです

国有化を避けるため、国鉄の狭軌ではなく最初から標準軌で敷設する会社もありました

ただ、この法律、ほとんど有名無実化しながらも何と1987年3月まであったのですから、そちらの方がむしろ驚きです。なぜなくなったかというと「国鉄が消えたから」。JRの発足で国有化しようにもできなくなったのです

戦後、GHQによっていろいろな法律が無効化されましたが、こちらは手つかず。そういえば戦時体制の「国策」で農地や食糧、住宅を統制する「営団」がすべて消えたにもかかわらず「営団地下鉄」は、「帝都高速度交通営団」という、名前だけ聞くと何のことやら想像もつかない名前で残っていました。戦時統制、戦時体制ではない、との理由でした。話はそれますが、営団地下鉄が残ったことで東京都は別に都営地下鉄を造ることになり、現在の地下鉄二重構造につながっています

私も世界中回ってはいないので断言とまではいきませんが、海外に行って分かるのは「私鉄がこんなにある国は日本だけ」ということ。米国については、ほとんどが民間のものですが、他国はほとんど「国鉄」です。国の重要インフラとしての側面が強く、現代においては保線や車両の管理など、金銭的に割に合わない事業のひとつとされているからだと思われます。その意味で現在の日本が「国鉄がない国」となっているのは、すごいことです。GHQが鉄道国有法を残したのは、そんな事情を知っていたのか、有名無実だった法だったのでスルーされたのかは分かりませんが

駆け足気味で北上する

駅前は大きなロータリーが広がります。こちらも阪和電鉄ならではの、こぢんまりした三角屋根駅舎が健在だったのですが橋上駅舎に変わっています

2面4線構造

コロナ前は1日2万人が利用する駅でした。コンコースも広くとられています

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~かつての和歌山駅は今

2022年12月7日15時

紀伊中ノ島から徒歩で旧和歌山駅へと向かう

前回記事の最後に紹介した紀伊中ノ島の駅前風景

一連の記事で「和歌山駅(現紀和駅)」と何度も書いています。「東和歌山駅の地位が上がって和歌山駅に昇格し、それまで和歌山の代表駅だった和歌山駅は紀和駅になった」と

しかし紀州藩で有名な和歌山という古くからの都市で代表駅の交代があるというのはあまり聞いたことがありません。これも何度か書いてきましたが、すでに町ができていると線路は街外れに敷くしかなく、大きな都市の代表駅が街の中心部から外れているのはよくあること。別にそのままでもいいのではないか、となりそうですが和歌山の場合は前回の紀伊中ノ島の項でも記した通り、大阪から真っ直ぐやって来た阪和電気鉄道が当時の和歌山駅への乗り入れを拒んだことで現在の形になりました

ただ、その和歌山駅はどうなっているのかを伝えないと、文字と地図だけでは何のことか分からない。ということで紀和駅は阪和線ではなく紀勢本線の駅ですが、リポートすることにします

先に書きますが、ここから紀和駅は実は近い

徒歩10分です。線路があるので携帯のアプリも必要ないでしょう

高架に沿って進む

最初の写真を左に折れるとすぐ紀勢本線の高架が見えてきます。左側にある建物がJRの社員寮で、紀伊中ノ島の旧和歌山線ホーム跡のあたり。その中を突っ切ると早いのですが一応、公道を進みました

後は高架に沿って進むだけです

結論から言うと途中で信号はひとつだけ。大きな通りを渡ります。新しいマンションや住宅街と古い建物が混在しています

時系列的には南方貨物線の探索から、それほど日は経っていなかったので高架ばかりを見ながら歩くと廃線か未成線かと錯覚してしまいますが、もちろん現役の紀勢本線です

すぐ高架下が遊歩道となり

左右が公園となって子供たちの歓声が。公園部分はかつての「和歌山駅」の敷地内だったのでしょう。かなり広い

子供の自転車にビュンビュン追い越される。奥に見える黒い部分が紀和駅です

ムダを省いた姿に

紀和駅に到着しました

15年前に高架化され、ホームへは階段またはエレベーターが向かいます

外から見るとこのような高架駅。かつての駅構内は一帯が公園化され、お手洗いもあります

まずはホームに行ってみましょう

「和歌山・和歌山市方面」と案内されています。駅には、そのどちらか行きしかやってきません

簡易型IC改札と券売機がたったひとつに、1面だけのホームは、もちろん無人駅。よく言えばスタイリッシュ、ムダなものはすっかり省かれていますが、ここが戦後20年経つまで和歌山駅だったとは誰も思わないでしょう

私は紀和駅になってからの地上駅時代に来たことがあります。駅舎はありましたがすでに往時の面影はありませんでした

南海と阪和電鉄の挟み打ちに

紀和駅の駅名標。こうして見ると両サイドが和歌山駅、和歌山市駅ってすごいですね

和歌山駅は1898年に現在の和歌山線の終着駅として誕生。歴史は古い。その当時、南海はまだ市内中心部まで入っておらず、文字通りの中心駅でした。なぜここに駅ができたかというと紀ノ川の存在です。当時の技術では、なかなか渡れなかった広大な河川。和歌山線は紀ノ川に沿って進んでいますし、将来の南方面への敷設も含め、旅客はもちろん、貨物の海運という意味でもここに駅を設置するあったのです

ただ数年後に南海が紀ノ川を越えて和歌山市駅を開設。大阪ともつながったことで優位性がなくなります。和歌山市駅との接続も考慮して当駅~和歌山市駅が開通。中間駅となってしまいます

その後は前記事の通りで阪和電鉄が東和歌山(現和歌山)での接続を選び、阪和線として国有化されると大阪~和歌山、さらには和歌山以南への列車は当駅を通らなくなり、やがては駅名変更。元々、街外れの駅だったので周囲のにぎわいも消えました

現在、周囲は新たな住宅地となっています

昼間は1時間に1本

時刻表を見ると朝夕の多客時間帯でも30分に1本、昼間は1時間に1本の運行しかありません。駅周辺から大阪方面へ向かう人は紀伊中ノ島まで歩いた方が便利なので、やむを得ないところ。紀伊中ノ島の利用者が一時よりは増えているのは、紀和駅周辺にできたマンションや住宅に住む人が利用するようになったからだと思われます

ターミナル駅の面影は

かつては急行「きのくに」という、南海の難波から出て和歌山市~和歌山を経て国鉄に乗り入れ、白浜・新宮に向かう、今では信じられない列車が運行されていましたが、国鉄末期に廃止され、その後は紀勢本線でありながら、当駅付近を通る優等列車はありません。和歌山市~和歌山は区間運転として独立した形になっている支線扱い

広大なターミナル駅だったことを思わせるものは何もありません。現役の駅なので解説文や碑を残すわけにもいかない。わずかに駅正面の通りにのみ面影が残ります

和歌山市行きがやってきました。私は和歌山へと向かうので折り返しを待つためホームにむ和歌山市行きがやってきました。私は和歌山へと向かうので折り返しを待つためホームに向かいます

2両編成のワンマン車がやってきました。実は今回利用しているICOCA定期券利用者の「どれだけ乗っても1000円」エリアには和歌山線も入っているのに当区間は外れていて「別路線」の感を強くさせます

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~ひとつの役割を終えた駅

紀伊中ノ島駅の駅名標

2022年12月7日14時50分

和歌山まで1キロの駅

紀伊中ノ島駅に到着しました。こちらに来るのは3度目。この駅の雰囲気が好きで和歌山方面に来ると自然に足が向いてしまいます

和歌山まで1駅の当駅ですが利用者は多くはなく、1日の利用者は千人にも満たない(これでも以前からは増えています)

理由のひとつとして和歌山までの距離の近さがあります

線路にして1・1キロしかなく歩いても大した距離ではないため、多くの人は利便性の高い和歌山を利用するのでしょう

ではなぜこんな短い区間に駅ができたかは、上記の地図で分かります。当駅を基準に東側には和歌山線、西側には紀勢本線があり、阪和線を含めた3線が和歌山に向かっていますが、和歌山線と紀勢本線の強引なカーブは、どこか違和感がある

これは元々、和歌山線の線路が真っ直ぐ紀勢本線に向けて伸びていたからです。現在の紀和駅は以前、和歌山駅で国鉄の和歌山における中心駅でした。では現在の和歌山はというと東和歌山という途中駅でした。改名は戦後20年以上が経過してからです

南側から東和歌山を経て和歌山(紀和)まで線路が到達したのは明治時代。阪和電気鉄道が和歌山まで到達したのは昭和初期です。当然、当時の国鉄としては和歌山までの鉄路を求めたのですが、ここから直角に和歌山駅まで行くのはイヤだと阪和電鉄が拒否。阪和電鉄としては将来の国鉄との相互乗り入れを目指していたため、和歌山に向かっていてはスイッチバック構造になってしまいます

阪和電鉄は東和歌山での接続、乗り入れを選択。その際の交換条件として和歌山線と交差する最初から少し南側の地点に紀伊中ノ島駅を移設しました。元々近かった東和歌山との距離がさらに近くなり、現在の1・1キロになったわけです

美しい駅舎は国鉄の手によるもの

紀伊中ノ島の駅舎です。美しい形をしています

1935年建築のものが、そのまま残ります。これは国鉄が建設したもの。乗換駅にふさわしいもので、阪和電鉄も国鉄との接続を図って特急を停車させていました

その痕跡は今も色濃く残っていて

和歌山線のホーム跡です。上を行くのは阪和線。こちらは阪和電鉄が建設しました。先に和歌山線ができていたので堤築上のホームからオーバーパスするようになっています

駅舎入口から見ると、このようになっていて直接和歌山線ホームに入れていたことが分かります。国鉄の駅ですから国鉄優先です

現在の改札はホーム跡を左に折れたところに設けられています

急速な地位の変化

戦後になって和歌山駅の地位がどんどん低下していきます。阪和電鉄が国鉄に戦時買収されたため、大阪方面からやって来る列車は和歌山以南へすべて直通できることになり、戦後のレジャー回復による県南部への移動も和歌山駅は通らず東和歌山経由となりました。和歌山県内からの通勤圏の拡大も東和歌山が起点

貨物輸送も東和歌山に重点が置かれるようになり、和歌山線も東和歌山への短絡線が設けられました。やがて東和歌山駅が和歌山駅へと改められると、この短絡線が旅客運輸でもメインルートとなり、間もなく、かつての和歌山駅(紀和駅)へ真っ直ぐ伸びていた線路は不要、廃線となりました

つまり紀伊中ノ島は乗換駅ではなくなったのです。それが1974年のこと。以来、ホームはホーム跡となって現在に至ります

乗換機能を失ってからの流れは急速で国鉄時代のうちに無人化。利用者が増える紀伊、六十谷が朝のラッシュ時の快速停車駅となったのと入れ替わるように通過駅となりました

駅舎内から外をうかがうと、建設時は気合の入ったものだったことが分かります

駅名板は確実に国鉄時代からのものですね

こちらが駅前風景。かつての乗換駅は今は静かにたたずんでいます

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~難読駅のお手本は文教地区に

六十谷駅の駅名板

※当駅の情報は2021年3月のものです

難読駅の条件

難読駅に定義はありませんが、基本的に2つに大別されます

①そもそも漢字が分からない

②簡単な漢字なのに思わぬ読み方をする

①については普段絶対見かけない漢字が使用されているもの。轟木(五能線・青森県)、櫟本(桜井線・奈良県)、岩峅寺(富山地方鉄道)などが有名ですね

②は挙げ始めるとキリがありませんが、小学校の低学年レベルになればなるほど価値が上がると私的には考えています。最たるものが阪急の十三だと思いますが、こちらは駅の規模が大きくて有名すぎる。普通しか停車しない駅だったら、かなり上位に来ると思います

その意味で今回の駅も小学校低学年レベルの漢字。しかも3文字

3文字なので普通の読み方はしないだろうな、とは思うはずですが、3文字目が「た」と読むは、なかなか思い浮かびません

六十谷は地名で有功(いさおと読みます。こちらも難読)村のひとつの地域。諸説あるようですが「墓所谷」(むしょたに)と呼ばれていた地名の名前の縁起が悪いので「六十谷」の文字を充て、読み方が変化したというのが多く語られています

しかし、この難読駅。スポーツメディアで高校野球の取材に携わった人は、ほとんど読めてしまうのです

ドラフト1位を同時に輩出

冒頭に注釈を入れさせていただきましたが、写真などの情報は2021年3月に訪問した時のものです。一瞬ウトウトしている間に通過してしまったらしい。翌日、大阪市内まで戻って駅巡りをしている最中に「あれ?」と気づいたのですが、さすがにもう遅い

ただ開き直りになりますが、当時だからこその情報(写真)も今となっては貴重かもしれません

駅舎は1970年代に改築されたコンクリート駅舎です。国鉄の香りが漂います

そして写真にある通り「祝 甲子園出場 和歌山市立和歌山高等学校」の文字が目に入ります。ちょうどセンバツ高校野球の直前で、最寄りとなる市立和歌山高校が出場を決めていました。後にバッテリーがそろってドラフト1位指名されます。名門とはいえ公立高校で2人同時にドラフト1位というのは、なかなかないことです

「高校野球の取材に携わると読める」というのは、そういう意味。強豪校ですから足を運び、読めるようになります

その他にも私立の学校が進出してきたため、多くの利用者があります。前回、紀伊駅を県内JRで二番目に利用が多い駅と紹介しましたが、激しく2位を争っていて、1999年に紀伊駅と同時に特急以外の全列車が停車することになりました

学校が多いとコンビニも多いですね

しかし、そんな多客の駅ですが

私の訪問は2021年の3月13日。みどりの窓口の終了翌日でした

しかし終日無人というわけではなく、通勤通学時間帯を中心に駅員さんはいるようで、みどりの券売機はないものの、定期券を購入できる券売機は設置されています

構造は2面2線。入口は原則駅舎側にひとつですが、駅舎と逆側にある開智中学・高校の生徒用専用出口があります

跨線橋の文字はおそらく国鉄時代からのもの

駅といえば左側通行が多い印象がありますが、右側通行が徹底されています

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~「村」の駅は県第2の駅に

紀伊駅の駅名標

2022年12月7日14時30分

長い県境越えを経て

山中渓から南下した阪和線はひたすら山中を走り続けます。県境感が漂います。車窓に見えるのは山肌と阪和自動車道の橋脚のみ。個人的な勝手な観点から言うと景観において橋脚は邪魔。山間部で鉄路と高速道路がぴったり寄り添う光景は各地で見られるですが、ここだけ現代に戻されてしまう気がします

8キロという阪和線最長区間を経て和歌山県で最初の駅となる紀伊に到着。和歌山の旧国名である「紀伊」が頭に付く駅は20軒以上ありますが、紀伊だけの2文字が許されているのだから、県の代表駅かと思ってしまいます

駅の設置は阪和電気鉄道が全線開通した1930年。当時、ここは「紀伊村」でした。紀伊村の駅だから紀伊駅です。もっとも紀伊村は律令時代に国府が置かれていた場所とされ、その意味では代表駅です

利用者は県内第2位

ホームは築堤の高台にあり駅舎もその位置にあります。戦後間もなくから現在の姿になっています

訪問はお昼の14時半でしたが、駅前はロータリーがあり、バス乗り場があります。今や県内のJR駅では第2位の利用者を誇る駅となりましたが(もちろん1位は和歌山駅です)、それを支えているのが大学生の存在

改札へ向かうと複数の注意書きに出会います

1993年に開設された近畿大学生物理工学部に通う生徒さんは、当駅からのバス利用がメインルートのひとつとなっています

近畿大学の和歌山キャンパスというと粉河や岩出など和歌山線沿線のイメージが強かったのですが、大阪府から真っ直ぐ南下してきた阪和線が街並みに沿ってカーブを描くその部分に紀伊駅があるのですね。確かに和歌山線より阪和線の方が利便性は高い

なお南海に対抗するべく、できるだけ直線に引かれた線路がここで急カーブとなるのは用地確保のしやすさに加え、当時の和歌山駅(現在の紀和駅)方面を目指したからです

それにしても改札機の位置まで指定されるということは、朝はバスへの導線が相当混雑するのでしょうね。バスの本数は多いです

駅構造は2面4線

県境の駅ということもあって保線用の側線もあり、構内は広くなっています

改札を入ってすぐの案内文字は年季の入ったものとなっています

昨年、みどりの窓口がなくなりましたが、みどりの券売機は設置され定期券の購入や延長には対応しています

訪問が12月だったため、クリスマスツリーが飾られていました

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~阪和電鉄もうひとつの目玉

山中渓駅に入線する列車

2022年12月7日14時10分

府県境駅の新旧

山中渓に到着しました。阪和線を南下すると大阪府最後の駅。鉄道ファンの中では有名ですが「やまなかだに」と読みます。最後の1文字が難関ですね

ご覧になって分かるように工事が行われていました

駅舎はというと

ピカピカの新駅舎です。昨年4月にできたばかり

旧駅舎です。訪問は2021年3月。同年7月に解体が始まったので滑り込みでした。1930年の阪和電気鉄道全通時からのものでした

かなり早い時代から無人化されていました。JRも入っていない駅名板も雰囲気に一役買っています

こういう歴史ある駅舎が消えるのは残念なことですが、バス停のような簡易駅舎ではなく立派になるのはいいことでもあります。特にトイレがきれいになりました

ハイカーの利用も多い当駅なのでお手洗いが充実したのは意味のあることだと思います

新線の目玉商品

案内板は2021年の訪問時に撮影したもの。旧熊野街道に沿って駅が設置されていますが、ここから和歌山方面の県境は険しい峠が待ち受け、関所と本陣が設けられていました

険しい峠は江戸時代までの旅もそうですが、鉄道にとっても難所です。この先の車窓はひたすら山中ばかりで駅を設けることもありません。当駅と和歌山の最初の駅である紀伊までは8キロもあり、阪和線の最長区間

しかし、この険しい峠の前の閑散とした村の不便さに阪和電鉄は逆に目をつけます。和泉砂川駅の項では大遊園地を造ったことに触れましたが、ここを温泉地としたのです

駅から歩いてすぐのところで山中渓温泉として開発を開始。その戦略は大当たり。戦後になり、レジャーが戻ってくると、もう国鉄になっていましたが、数軒の温泉宿で大変にぎわいました

しかし旧熊野街道が整備・拡張され、国鉄の電化で白浜温泉まで手軽に行けるようになるとレジャー客は白浜そして勝浦を目指し、当地は通過が目立つようになって、温泉旅館も衰退していきました。地図で分かるように今は目の前に阪和自動車道の橋脚。車がビュンビュン通過していきます

現在、山中渓温泉はすべての旅館が営業を終えていて一時は廃墟探索のメッカになってしまったほど

当駅は阪和線だけでなく、大阪府のJR駅で利用者最小の駅となっています(それでも300人ほどの乗降が1日にあります)

新駅舎は当初から無人を前提としたもので券売機と簡易IC改札のみ

こちらは前回訪問時の様子。かつては貨物輸送もあったようで、側線跡の雑草はしっかり刈り取られていました

こちらは今回の訪問時。前回も見えていたホーム跡と基礎部分が分かるようになっていましたが、工事中で現在の姿は不明

駅前の静かな様子は同じでした

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~貴重な戦後生まれの駅

2022年12月7日13時50分

カーブ状に設置

和泉鳥取駅に到着しました

ご覧のようにホームはカーブ状の場所に器用に設置されています

駅前広場もロータリーがあって大きい。手狭な感じの駅前が多い阪和線にあってこのような構造になっているのは珍しいことです

これらは当駅が戦後生まれだからです。1963年の設置。阪和電鉄という私鉄として誕生したため、阪和線は駅が多いのが特徴。沿線は戦後になって宅地開発が進んで大阪中心部へ通勤する人のベッドタウンとして人口も増えていきましたが、従来から駅数が多かったため戦後に新設された駅は3駅しかありません

歴史ある地名

現在は阪南市ですが駅が開設したころは東鳥取町でした。駅が開設される少し前までは東鳥取村。現在は1日に3000人以上の乗降がありますが、当時はそこまでの利用がなかったのではと推測されます

「鳥取」という地名はかつての荘園に基づくもので阪南市のHPによると日本書紀に

『垂仁(すいにん)天皇の第一皇子である誉津別王(ほむつわけのみこと)は30歳になっても稚児のように泣き、ことばを発しませんでしたが、白鳥が空を飛ぶ様子をみて「あれはなにか」と初めて声をあげました。天皇は喜び、臣下に「誰かこの鳥をつかまえてきてほしい」とおっしゃり、天湯河板挙(あめのゆかわたな)が「必ず捕まえて献上しましょう」と白鳥を追って出雲国で捕えました。その後、誉津別王はこの白鳥をもてあそび、物を言うことができました。この功により、天皇は天湯河板挙に鳥取造(ととりのみやつこ)の姓を賜り、鳥取部(べ)を定めました』

との記述があるので歴史は古い。市内には南海の「鳥取ノ荘駅」もあります

地図でカーブ状に駅が設置されていることがよく分かると同時に駅周辺が住宅街として開発されていることも理解できます。また阪和線はここから南海と離れていきます。真っ直ぐ線路が敷かれている阪和線で、ここまでのカーブは珍しい

元々は入口はこちらだけでした。開業時からのものです

駅の東側からの利用者も増えたことで6年前に新たに改札が東口として設置され、従来の出口は西口となりました。東口は開設時から無人。改札内でホームの上下線の行き来はできなくなっています。西口は以前はみどりの窓口がありましたが2年前に営業を終えました

ホームは屋根の後ろに通路というユニークな構造

ホームは築堤上にあり、改札からは階段かエレベーターで向かいます。こうして見てもカーブ状がよく分かります

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