2年がかりの呉線全駅訪問~年季の入った駅舎とホーム待合室

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安芸幸崎駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

1時間に1本の運行

忠海から1駅三原方面へと戻って安芸幸崎で下車。忠海は竹原市だったが、こちらは三原市。というか三原から2駅目と言った方が分かりやすい

呉線のダイヤパターンを説明すると、昼間は三原~広間は1時間に1本。広から広島方面に向けては1時間に2本の運行となる。この2本はすべて快速で広~呉までが各駅停車で呉から広島に向けては普通が1時間に1本。三原から広島へと向かうと、多くの列車は広で乗り換えとなり、広を境に運行本数が大きく異なる。広島~呉の普通しか停車しない駅は昼間は1時間に1本の停車しかないが、朝のラッシュ時は1時間に3本の運行があるのに対し、広~三原は本数にあまり変化はない。全線が単線電化区間ではあるが、電車での乗降をしていると広から西は広島の通勤通学圏で、東はローカル線感が漂う、そんな印象だ

もっともコロナ禍を期に山陽本線も都心部を少し離れると運行が1時間に1本と半減されているので、本数そのものは変わらなくなっている。逆に言うと、この1時間に1本という数字がさらに減らされると、路線としては危険水域である

また世の中の印象としては呉が呉線の中心にあるようなイメージがあるかもしれないが、三原~海田市の全長87キロで海田市~呉は20キロしかなく、かなり広島側に寄っている。つまり駅訪問は1時間に1本のダイヤをいかにうまく乗りこなすかになっていて、このように後戻りしてまた進むという、これまで記してきた城端線や内房線と同じ作業となっている

全国各地の駅とは異なる

安芸幸崎駅はご覧の通りの木造駅舎が残る。開業は1931年(昭和6)。三原~須波のみ開業していた路線が1区間延伸された。1区間といっても6・7キロもあり、これは現在も呉線の最長駅間。その時に述べるが、広から西と東では駅間の距離が大きく異なるのも呉線の特徴。新駅の開業がほとんどなかったからだ

呉線の各駅を降りると全国各地の海沿いを走る路線と大きく事情が異なっていることに気付く。町ができる課程というのがあって、海沿いの町はほとんどが漁港を含む港を中心に形成されるため、多少の例外はあるものの、駅舎も海側に設けられることが多い。それが自然な形だ

それに対して呉線の開業時からの駅の多くは海や港とは逆側に駅舎がある。忠海駅も港との位置関係を見ると随分不自然だ。瀬戸内海を望む車窓は美しいが、駅舎を出ると見えるのは山だけで、どうやって海側に行けば良いのか困ってしまう

安芸幸崎駅は1956年まで存在した幸崎町に基づく。国名が付いているのは大正期に開業した日豊本線の幸崎駅(大分県)があるからだと思われる(読みは「こうざき」)。幸崎は古代から漁港として知られた町だったが、駅舎を出ると

こちらは駅前の通りをちょっと進んで振り返ったものだが、駅前は住宅街という感じで静かだ。漁港として栄えたイメージが全くわかないが、幸崎の町は駅から徒歩で10分ほど離れた場所にある

線路から遠いのなら、いざ知らず、線路は町の中を通っているのに、なぜ?と思うかもしれないが、駅のすぐ南側には造船所。駅は当時の工場への通勤の便宜を図るため現在地に設けられた。ただし駅舎は山側に。沿線の多くは海を向いてぼんやりできるような場所ではなかったのだろう

早めの訪問を強く推奨

駅は無人化されて久しい

駅舎入口には快速停車駅になった記念碑がある。現在、広から東の区間には定期の快速は走っていない。1980年に廃止されている。当駅が快速停車駅となったのは1978年のことなので、わずか2年しか快速が停まっていなかったことになるが、石碑は40年以上残っていることになる

駅構造は2面2線で駅舎と逆側のホームにある待合所も年季が入っている。プラスチックの番線表示が私の好みである。だが待合所を支える柱の補強具合が、やや痛々しい

駅舎側の縦駅名標

柱を支える金属もさびが目立つ

屋根を支える柱もこのような様子で特に補強工事は行われていないようだ。これは経験に基づく私の個人的な感想だが、この素敵な木造駅舎を早めに訪れることを強く推奨したい

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