JR九州

夢の原点、リニア実験線を訪ねる2

ここからリニアモーターカーの実験車が出発していた

2023年5月9日11時

田んぼに映える高架

リニア実験線は田んぼの中を突っ切っています。地元の方でさすがに知らない人はいないと思いますが、初見だと「この構造物は何?」と思ってしまうでしょう

ここからリニアの車両が飛び出していった

大阪万博の目玉商品

もう現実の工事が始まっているリニアモーターカーですが、超電導電磁石の仕組みを利用して高速列車を走らせる理論は、東海道新幹線の開発時にはすでにあり、後はどう実用化するかでした

世間一般に「リニアモーターカー」という言葉が浸透したのは1970年の大阪万博。日本館の目玉商品がこの模型。個人的な話となりますが、物心ついたばかりの私は両親に連れられ、3時間も並んだ末にようやく入館。その姿に目を見張った記憶があります。余話となりますが、世界各国のパビリオンが並んだ万博では日本館以外では、アメリカ館、ソ連館が大人気。1ドル360円時代の当時(学校で繰り返し教えられ、今も覚えているぐらい)は日本人が気楽に海外旅行に行ける時代ではなく、海外情報を生で体感できる万国博覧会というのは、現在よりはるかに注目度の高い一大イベントでした

当時は東西冷戦のまっただ中で、米国、ソ連ともに国の威容を誇示する重要なイベントでもあり、日本館を含めた3カ国のパビリオンはいずれも延々と並ばなければならないものでした。まだ10歳にも満たないころなので、それほど多くの記憶はないのですが、今も鮮やかに覚えているのはアメリカ館の「月の石」と日本館の「リニアモーターカー」です

地方に建設した理由

そのように一般にも言葉が広く知られるようになったリニアですが、単純に時速500キロを走らせればいいというものではなく、安全、安定の定時運行は当然の前提として黒字化しなければ意味はない。そのための具体的な実験が必要となります。国分寺の研究所で浮力など実用に向けた研究を経て、いよいよ実用に向けて動き始めた時に長距離の実験線の候補地として、「振動騒音」「電磁波」の問題が考えられるため、地方が良いとされ、地元も協力的であったことで、この宮崎の地が選ばれました

南方貨物線の項でも記しましたが、当時は社会全体が環境問題や騒音問題に目覚めたころで国鉄も場所選定には慎重でした

そして77年に完成したのが宮崎実験線。この7キロを利用した(すべてが完成したのは79年)開発と研究が続けられましたが、研究が進むにつれ、さらなる調査も必要となってきます。カーブもない直線だけのコースは勾配もトンネルもない。東京~大阪に建設するには、そんなことはあり得ないわけで96年に山梨の実験線にバトンを渡すことになりました

現在の姿はかなり風雪を経たものになっていますが、廃墟となっているわけではありません

鉄道総合技術研究所の宮崎実験センターとして施設の管理は行われています

夢のスタートは残る

宮崎の実験線では79年に最高時速517キロという、その後山梨の実験線まで破られなかった記録を達成。当時は大きなニュースとして取り上げられました

そんな時速500キロの夢が伸びています

電車の時間もやって来たようなので美々津駅へと戻ります。来た道なので帰路は分かる

この景色だけでもかなり満足できます。左奥に駅の跨線橋が見えます。その向こうには遙かな海。初夏の優しい風が心地よかった

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宗太郎駅に行ってきました(後編)

2023年5月9日6時40分

周辺には民家が数軒

宗太郎駅の駅名標です。山中の峠越えの駅だけに両隣の駅も7キロ前後離れています

駅からの俯瞰。奥に見えるのが国道10号。日豊本線はこの国道沿いに走っていて幹線国道だけに駅への訪問は比較的容易(ただし見る限り、国道からの道路は決して道幅は広くない様子)です

ユニークな地名

かつては駅舎が存在したと思われる場所にポツンと、きっぷの回収箱がありました。一応、ラッチ(改札)に囲まれています。年間にどれだけの切符が投入されるかは分かりません

この駅が有名なのは「宗太郎」という愛らしい駅名によるものも大きい。大分と宮崎の県境付近の峠越えは古代から交通の難所として知られ、江戸時代に管轄の岡藩(「荒城の月」で知られる豊後竹田城で有名)に命じられた洲本宗太郎という人が付近の調査、管理をしていたことにちなみ「宗太郎峠」と名付けられ、以降、列車や車の時代が到来しても難所の横断は宗太郎越えと呼ばれ続けています

記念碑や井戸も

駅は2面2線構造。1日1・5往復はあくまで停車列車の話で、当駅を通過する特急列車は終日バンバン走っています。そのため、佐伯~延岡間は特急の停車駅はないものの、すべての駅がすれ違い可能な構造です

駅の出入り口は小さな階段。ただ前述した通り、通過列車は多いため、上下ホームは跨線橋での移動が必要

跨線橋から見ると、長大編成のすれ違いに備え、構内の複線部分は大きくとられていることがよく分かる

駅入口側には

井戸がありました。現役ではない様子

跨線橋を渡ったところには

記念の石碑。手前まで入れるようになっているので近づくと

肝心な部分が歳月のおかげで読めません。左側にうっすら残る文字からは「大分保線事業所長」によるものだと分かりました。宗太郎駅は大正期に信号場として開設され、戦後間もなく駅に昇格。おそらくその時のものだと推察されます

駅の入口側とは逆側のホーム(延岡方面)には待合所がありますが、ここには駅ノート入れとともに石がズラリ。ひとつひとつにメッセージが書き込まれていて、風変わりな「駅ノート」となっているようでした

宗太郎駅に対するダイヤの誤解

駅を去らなければならない時間がやってきました。わずか15分の滞在。もう少しいたかったですが、さすがにこれに乗らないわけにはいきません

手元に2017年3月の時刻表(ダイヤ改正版)があります。当時は現在と同じ早朝の1往復のほかに南延岡発16時43分の佐伯行き、佐伯発17時14分発の南延岡行きがあり、それに乗車すれば17時20分に宗太郎に到着して18時10分に離れられるという、今の季節なら十分明るいうちに行動できる運行がありました。また夜の20時台も0・5往復ではなく1往復運行されています。それ以外にも南延岡から宮崎県の端にあたる市棚まで朝に1往復の設定がありました(ただし市棚からの折り返しが8時37分発で延岡着が9時1分と微妙に通勤通学帯からは遅い時間です)。それらの運行は2018年3月のダイヤ改正で姿を消し、現在のダイヤとなっています

宗太郎駅のダイヤについては多少の誤解があって、先日紹介した羽越本線にも存在した「普通列車も多くが通過する駅」と一部で思われているようですが、それは違って、そもそも運用がこれだけしかないのです。つまり宗太郎だけがクローズアップされるのであって宗太郎~延岡の5駅はすべて同じダイヤなのです

ただ少し驚いたのは延岡行きの宗太郎6時54分発の列車には数人の乗客がいたこと。今回の旅は青春18きっぷの期間でもないGW直後の平日という最も旅客の少なそうな日を選んでいます。宗太郎にやって来る時とは逆で1号車部分のみが開放されているため、車両の半分を占めるグリーン座席も座れるようになっているため(グリーン券は車内で購入のシステムだが、当然のように誰も乗っていない)、普通座席部分が狭くなっていることもあるのでしょうが、宮崎県に入ると駅に停車する度に通学の高校生が何人かずつ乗り込んできました

こちらは列車交換のために3分間停車した日向長井駅でホームに降りて撮影したもの

高校生は全員が延岡で降りていきました。延岡発の佐伯行きは20時7分発。高校生の帰宅としては、ちょっと遅い。おそらくコミュニティーバスを利用するのでしょうが、どうやって帰宅するのだろう?と思ってしまいました

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宗太郎駅に行ってきました(前編)

宗太郎駅の駅名標

2023年5月9日午前6時

早朝から注釈付き列車に乗車

前夜のうちに宮崎県の延岡に入り駅近くのホテルに宿泊

そして朝の6時には駅にいました。5月上旬ですが、西国だけに、まだ夜が明けつつある雰囲気でした

乗車するのは6時10分の普通佐伯行き。奥に見えているのは6時2分の宮崎方面行きで、今から乗車する電車とは違います。そもそも電車の形が違います

今から乗車する列車には注釈があって

何やら不思議なことが書いてあります。文脈だけを読み取ると4両編成で、そのうち1両にしか乗れないことになっている。2両編成で、うち1両が送り込み用の回送扱いというのはJR四国でよく見かけますが、4分の3が乗車不可というのは、あまり聞いたことがありません

やって来たのは特急列車

間もなく乗車列車がやって来ました。6時6分南延岡始発の佐伯行き。なんと特急車両が運用に入っています

九州ではおなじみの787系。 1両分しか客扱いしませんが、車掌さんも乗車しています

30分ほどですが、優雅に特急車両の旅を楽しむことにします。1両分しかお客さんがいないので乗車状況は分かりやすい。南延岡はひとつお隣の駅で、ここからの乗車はなかったようで無人で入線。延岡から乗車したのは私を含め3人。一目で分かりますが、当の私を含め3人とも目的地は同じ「同好の士」です

宮崎県からしか行けない大分県の寝坊厳禁駅

普通という名の特急車両に揺られること30分。目的地の宗太郎に到着しました

延岡から25キロ。宮崎県から大分県に入ったところにある県境の駅。「宗太郎」という駅名と県境ならではの雰囲気に加え、1日の利用者が1人にも満たないことで鉄道ファンの中は知らない人がいないほど有名ですが、特筆すべきは時刻表

ご覧の通り、1日1往復半。しかも朝の6時台に大分方面と宮崎方面の列車が1本ずつあった後は20時35分の佐伯行きがあるだけ。延岡方面に至っては6時54分が始発にして最終電車です。日本中に閑散路線は数多くありますが、これはもう究極のダイヤ

時刻表もあまりに余白部分が多すぎて告知ボードのようになっています

そしてこれが何を意味するかというと、当駅を訪れようとすると私が乗車した列車に乗り、15分後の延岡行きで引き返すしかない。つまり大分県にあるにもかかわらず宮崎県からしか行けず、寝坊は絶対に許されない。もっと言うと、日常的に当駅に行く(人がいるかは不明)には南延岡~宗太郎間に住むしかなく、それ以外の地域からだとホテルが多数ある延岡に前日から宿泊するしかないわけです

なおバス路線ですが、大分県にあるため延岡側からのバスはなく、宗太郎のバス停は地元の方向けの予約制デマンド運行。県境を越えて1時間ほど歩けば延岡市のコミュニティーバスが来ていますが、週3回の運行で、なおかつ延岡まで直接は行けないという状況。また両隣の重岡、市棚両駅にも徒歩では1時間半以上かかる上、駅まで行ってもダイヤ的には変わりがない(重岡駅からは佐伯中心部まで行けるバスがありますが本数は少ない)ので、まさに「脱出困難」駅

貴重な15分間を堪能することにします

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島原鉄道で「あの駅」に行った 長崎~諫早

6月18日8時

長崎駅の今しか見られない光景からスタート

この記事は実質的に

超難読駅で感慨に浸る(大村線・南風崎)

の続きとなります

前日、大村線から長崎本線を経て長崎に到着した私は長崎電気軌道つまり長崎市内の路面電車を完乗。旅の3日目で最終日。「旅名人の九州満喫きっぷ」(もちろん長崎市の路面電車も乗り放題です)を手に長崎駅へ。長崎新幹線開業を3カ月後に控え、前夜感が漂います

長崎駅に来たのは14年ぶり。当時走っていた寝台特急「あかつき」が3月いっぱいで廃止になるというので2月に乗って訪れました。今では信じられないことですが、廃止まで2カ月を切っているにもかかわらず、乗車の1週間ほど前にみどりの窓口に行くと「どの部屋にしますか?」なんて窓口の職員さんとの会話があって早い話が選びたい放題。ある意味、当時の寝台特急の状況を物語っていますが、当時は地上櫛形ホームで終着駅の風情が漂っていました

今は高架駅

特急列車しかも電車特急が並んでいて、これはまさに今しか見られない光景です。並行在来線となって優等列車がなくなるのは全国で見られる光景ですが、架線も外して電化→非電化になるというのは驚きでした。経費がかかるので電化部分は貨物に任せ旅客運搬は気動車で、というのは各地で見られますが、せっかく張った架線を外すという例はなかなかありません

諫早へと向かう

ただ私のきっぷでは特急には乗れないので

奥の切り欠きホームから普通列車に乗り

30分ほどで諫早に到着です(写真は前日17日のもの)

こちらも前夜感いっぱいです(写真は17日のもの)

島原鉄道へ乗車

ただ私はJRの改札口から駅ビルを降りる形で別の改札となっている島原鉄道へと向かいます

ホームはJRと並んでいて直通運転をしていたなごりからか番号も順番に振り当てられています。島原鉄道は0番線の切り欠きホーム

明治以来という歴史を持つ島原鉄道の歴史パネルも展示されています

約1時間揺られ

到着です

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超難読駅で感慨に浸る(大村線・南風崎)

6月17日 12時

難読駅多し

大村線には難読駅がいくつかあります

佐世保線との分岐となる早岐そして彼杵。先に紹介した千綿もなかなか難しい。その中でも当駅は「超一線級の難読駅」となります

駅舎は

ご覧のようにコンクリート製。ステンドガラスが美しい。19世紀開設の古い駅ですが現在のものは戦後の2代目のようです。現在は無人駅

駅名板の下に解説があります

付近の港が有名だったとか。駅の住所は佐世保市南風崎町で地名です。「東風」と書いて「こち」と読むのは知っていましたが「南風」を「はえ」と読むのは知りませんでした

望郷の駅

読んでいくと最後の方に戦後、多くの引き揚げ者がこの駅から故郷に戻っていったという説明がありました

佐世保港に復員された方、引き揚げてこられた方は、近くに設けられた佐世保引揚援護局に一度収容され、数日過ごした後に当駅まで歩いて故郷を目指しました

ホームにも解説があるというので早速行ってみましょう

………

………

これはないでしょう。すれ違いによく使用されるようで現在ホームは千鳥状に造られています。ワンマン時にはお客さんが先頭車両から降りるため千鳥が便利です

改造工事のためか、長い編成がなくなったからか時期は私には分かりませんが、この位置のフェンスはどうなんでしょう?いたずらや落書き防止もあるのですかね

しかも草で覆われてこの角度からはしっかり読めません。こういうモニュメントはすぐ読めるようにした方がいいと正直思いました。いろいろ工夫してなんとか

佐世保港へ引き揚げてこられた方が140万人近くもいて、それが戦後4年半も続き、1147本もの引揚列車が当駅から運行されたというのはすごい数です

かつては貨物輸送も盛んだったようでヤードとなった引き込み線が、残っています。奥に見えるのはハウステンボスの社員寮らしい

千鳥になる前のホームだったであろう場所にはまだ駅名標が残っていて、この季節らしくあじさいが咲いていました

駅舎に戻って自販機の缶コーヒーで一休み。どうも昼間の時間は当駅ですれ違いを行うようで、列車で訪れると1時間待機することになるので、もし訪問される方がいらっしゃれば留意をお願いします

さてハウステンボス駅から歩いてくる道中、数人の方とすれ違いました。買い物にでも出かける様子で、おそらくハウステンボス駅が新設されたことで、南風崎駅を利用していた方の一部がハウステンボス駅を使うようになったのでしょう。てっきりハウステンボス駅はテーマパークへの訪問者だけが利用するものだと思い込んでいましたが、ちょっと違うようです。いろいろな発見が駅間徒歩ではあって、それは楽しみのひとつです

名残惜しいですが、列車がまだ新しいホームにやってきました

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先生の指示に反抗しての隣駅までの徒歩移動(大村線の誰もが知る駅と超難読駅)

6月17日11時半

ハウステンボス駅

ハウステンボス駅まで戻ってきました

テーマパークへの最寄り駅。誰でも知っていますね

来たのはいつ以来でしょう。とにかくハウステンボスは2回した訪れたことがなく、記憶が薄いのですが20年ぶりなんてものじゃない。とにかくかなり前です。ハウステンボスの開業に合わせて30年前に開業しました

みどりの窓口あり。全列車が停車します。1面2線ながらユニークな構造で

1面は行き止まりですれ違いはできません。この切り欠きホームは基本的に当駅始発特急「ハウステンボス」の折り返しに使用されます

ただ私は今回テーマパークに来たわけではなく、そこそこでお別れです

隣の駅が目的地なんですぐに向かいます。といっても列車に乗り込むわけではありませんよ。大村線は1時間に1本。地方の非電化区間としては運行の多い方ですが、また逆戻りする隣の駅に向かう列車も結構時間が空いています。しかしひとつポイントがあって今から向かう南風崎とはレールで1キロもないのです。戦前からの路線である大村線にテーマパークのため、平成になって強引に駅を設けたため、こんなことになりました。これは歩く一手です。千綿に向かう時、そして戻る時と目を凝らして車窓を見ていました。私は徒歩の予定がある時はいつもこのようにしています。距離数以上に坂の有無を見なければならないので。どうやら線路はほぼ国道と並行しているようです。これは分かりやすそう

グーグル先生、勘弁してください

早速グーグルを開いてみます

なんと徒歩10分。楽勝じゃん。しかも「ほぼ平坦なルート」と、ただし書きがあって心強い。国道に出るには橋の上にある駅舎から1度海と同じ面まで降りなければならないようです。もちろん軽快なステップで階段を降りましたよ

が、そこで見たものは

写真では分かりづらいかもしれませんが強烈な上り坂なんです。奥に小さく見えるのが国道

どこが「ほぼ平坦なルート」なんですか(怒)

確かに国道まで出れば平坦ぽいですが、これはねぇ。グーグル先生、勘弁してください(泣)

ひょっとして私が初手を間違えたのか?しかしもう遅い

ここで考える。季節は6月中旬の長崎県。盛夏とは言いませんが、かなり暑い。還暦前にこんな坂を登れるのか。いや絶対ムリ

もう一度地図を見る。海沿いに道があるじゃないか。これで行けるんじゃない?

ちょっと遠回りすれば行けそう。時間はたっぷりあるので、このコースにしましょう。坂を登るのはイヤですから

ハウステンボスの向かいを歩く。この光景も本当はなかなかいい。川のように見えるのは早岐瀬戸という有名な運河ですが、そんな余裕はありませんでした

初めて歩いて知ったのですが、こちら側は普通に住宅街なんですね。ずっと家が並んでいます。テーマパークの周囲は何もないと勝手に思い込んでいましたが、考えてみると明治時代からの路線沿いなんで、そんなことはないはずです

すると分岐に出くわしました。地図によると安全策なら海沿いを真っ直ぐ進んで戻る感じで行くと、駅に行けそうですが、こちらからも行けるかもしれない

では今度はナビタイム先生の出番です

立ち止まって検索すると、先の踏切を渡って右に折れると、すぐ駅、という導線が鮮やかに現れました

ナビタイム先生ありがとう~(うれし涙)

ということで無事駅に到着。さすがナビタイム先生や、なんてこの時は思っていましたが、後々書いていきますが、私はこの夏、ナビタイム先生に2度大変な目に遭わされます

目的の南風崎に着きました。文章の都合上、これまで漢字だけでさらりと書いてきましたが、これは読めと言われてもなかなか読めません。しかし超難読だからこそ、やって来たのです。深い歴史がある駅なんです

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ホームから大村湾を望む(大村線・千綿駅)

6月17日午前9時半

佐世保駅で松浦鉄道からJRに乗り換え

最短距離にすっかり浮かれていて佐世保バーガーを食べるのを忘れていて構内のファミリーマートのコーヒーで時間をつぶす

大村線に乗ります。ホームで待っていたのは

JR九州のYC1です。蓄電池搭載の気動車。今回初乗車となりました

ちなみに佐世保線区間である佐世保~早岐は青春18きっぷで特急自由席に乗れるはずで持参の旅名人きっぷでも乗れると思うのですが、ダイヤがこちらに合っていたので大村線直通のこちらに乗りました

列車についての知識はなんとなくありましたが、YC1が「やさしくて力持ち」の略だというのは初めて知りました

折り返し列車にいち早く乗車したので、お客さんはほとんどおらず中はこんな感じ

落ち着いた空間です

その落ち着いた車両に揺られること約50分

千綿駅に到着。ここからはあまり文字による説明は必要ありません

大村湾にビッシリ面しています。青春18きっぷのポスターにもなって有名になりました

今回の旅で気づいたのですが、JR九州って国鉄時代の駅名標をかなり残してくれているのですね

駅舎は

約30年前に改築されたものですが、昭和初期からの駅舎をほぼ復元したものになっているとか

駅舎の入り口から小さな階段と海が見えています

階段を登るとホームで大村湾が広がります

ホーム側から見た駅舎

以前はカフェが入居していたそうですが現在はフラワーショップが入っています。簡易委託できっぷの販売も行っているようです

旧駅舎のドアの吊金具が展示されていました

他にも行きたい駅があるので逆戻りして佐世保方面の列車に乗ります

願わくは今度は夕方に訪れたいですね

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