※2024年12月10日
一度比延駅へ
利用客数を調べつつ、比延駅で下車。時刻は8時過ぎ。霧の中の到着だ
これまで加古川線の現状について語ってきたが、歴史についても触れてみたい
水運の代替路線としてスタート
車窓からの眺めだが、加古川線の特徴は加古川に沿って走っていることだ
ピッタリ寄り添うように敷設されている。それもそのはずで、元々の目的は水運の代替手段だった。最初は播州鉄道という会社が加古川から西脇までの線路を敷設した。1913年(大正2)のことだった。この西脇とは現在の西脇市駅とは異なる。西脇市駅から北へ2キロ弱いの場所に存在し、今はない。後になってみると加古川線にとって重要な駅だったが、後に路線の運命を変えることが起きる。現在と同じ谷川への直通で、開業が1924年(大正13)12月27日のことだった。つまり100周年は、ここからスタートしている
ただ敷設にあたっての問題は谷川へは野村駅と名乗っていた現在の西脇市駅で分岐していたことだった。分岐が西脇でなかった要因は線路の設置予定地まで川を2回渡る必要があり、またすでに市街地を形成していた西脇の街の中に線路を通すことは難しかった。この部分の工事を請け負ったのはシリーズの最初で触れた播丹鉄道という会社で、播州鉄道はすでに播丹鉄道に吸収された形となっていた
このため野村駅で分岐する形となった西脇からは、さらに線路が延伸され途中駅となった
現在の路線名となったのは1943年(昭和18)に行われた戦時買収。加古川~谷川が国鉄の加古川線となり、西脇を含む路線は鍛冶屋線という加古川線の支線となった
分岐点は国鉄民営化
大きな転換期となったのは鍛冶屋線の特定地方交通線指定(1986年)と国鉄民営化(1987年)。鍛冶屋線の廃線は避けがたいものとなったが、野村(現西脇市)~西脇の1区間については業績堅調で、加古川からの列車は多くが西脇まで直通されていて、どちらかというと加古川~西脇が加古川線の主力の扱いとなっていて、この区間のみの存続も検討されたものの結局は廃線。西脇市を境に運行本数が大きく変わるほぼ同じ形となった。「ほぼ」としたのは、当時は非電化だったからだ
加古川線そのものの利用者は西脇駅を失ったことで、さらに減少していた状況で迎えたのが1995年1月17日の阪神淡路大震災。阪神間の線路は寸断され、西明石以西は間もなく運転したものの、姫路方面から大阪へ行くことはままならない。そこで迂回路として注目されたのが加古川線だった。単線非電化路線の上、谷川駅で福知山線への直接乗り入れができないという欠点はあったものの、多くの人が加古川で乗り換え谷川を目指した。JRも臨時便を増発。4月1日に全線復旧(当初の見込みより、かなり急ピッチだった)するまで多数を運び続けた
この一連の経過、つまり加古川線が非電化で、緊急時に山陽本線、東海道本線のバイパスとして不便だということが電化の機運を高めた。費用を地元が負担するという形で2004年に電化が行われた。つまり昨年は電化20周年の年でもあったのだ
だが利用者数の低迷で近年、西脇市~谷川の閑散区間は再び危機が報じられるようになっている
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