※訪問は2024年12月10日
新西脇駅から旧西脇駅跡を目指す
新西脇駅からすぐの場所に加古川を渡る橋がある。ここを渡れば西脇市の中心街へと入る。前記事でも触れたように新西脇駅は中心部まですぐの場所に位置しながら利用は極めて少ない。不思議なことだが新西脇駅が設置された際、目の前に橋はなく、かなりの大回りを強いられていたらしい
ここから徒歩で旧西脇駅跡へと向かう
徒歩約20分の道程
加古川の景色を見ながら橋を渡るとコンビニがあり、古くからの街並みが広がる
途中から急に一方通行になったりY字路が出てきたりと、古くからの町がアップデートされながら道路ができていったことが分かる
旧西脇駅跡までは徒歩約20分。実際は町の中の狭い道路を進んだが、とにかく県道54号まで北上すれば、そこはかつて西脇駅からのメインストリートだった道路で、真っ直ぐ進めば旧西脇駅跡である
西脇駅跡に到着
いかにも中心部の周辺
周辺には複数の銀行や商工会議所などが並び、ここが駅跡と知らなければ、一体何だと思ってしまう。街路樹のふもとの歩道がいかにも廃線跡
こう見ると、なお分かりやすい
会社員時代の数年間、50歳を超えてから年に一度必ず西脇に来ていた。だからここ10年ぐらいの話で比較的最近のことだが、訪問先が車でしか行けないところだったため、ここに来るのは初めて
西脇駅の歴史が記されている
運命の分岐点
加古川線の基礎となった播州鉄道は、まず加古川から当駅までの敷設を行った。加古川線は加古川の水運の代替交通として計画されたため、沿線の小野や社といった町は中心部から離れたところに駅が設置され、後に苦戦の原因となるが、ここ西脇に限っては町の中心部に駅が設けられた。1913年(大正2)のこと。1921年には北へ向けて延伸が始まり、約12キロ先の鍛冶屋まで到達したのが1923年のこと。この年のうちに経営は播丹鉄道へと変わり、翌1924年に野村(現西脇市)~谷川が開業。西脇を含む野村~鍛冶屋は支線となり、1943年(昭和18)の戦時買収で国鉄の加古川線と鍛冶屋線に分かれるが、後から思えば、これが運命の分岐点だった
ただ加古川線と鍛冶屋線という2つの路線に分かれながらも、流動は鍛冶屋線の西脇までが圧倒的に多く、加古川から西脇までの直通運転が行われていた。JR移管から1年が経過した1988年3月の時刻表(復刻版)を見ると、加古川~西脇は1日に21往復もの運行があり、半数近くが西脇止まり。また西脇から野村を経て谷川に至るという変則運転もあったため、野村~西脇に限れば25往復もの運行があった。そもそも時刻表は加古川~鍛冶屋と野村~谷川が別となっていて事実上、加古川~鍛冶屋が本線扱いだったことが分かる
車止めを模したモニュメントが置かれていて写真入りの解説文もある
歴史も含めとても詳しい。昭和30年代の国鉄全盛期には西脇駅を1日1万5000人もの人が利用していたという
鍛冶屋線は国鉄末期に特定地方交通線に指定され、廃線へと進み始めるが、野村~西脇については利用者数は廃線の基準となるものではなかったため、この区間のみを存続させるという意見も多く出たが、結果的にはすべてが廃線。利用が多いとは言えなかった野村~谷川は残り、廃線対象は盲腸線というパターンがここでも踏襲された。廃線は1990年。野村駅は西脇市駅へと改められた。阪神淡路大震災の5年前のことだった
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