きっぷ

10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その11 私が「秘境駅」の言葉を使用しない理由

平岡駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

当駅は秘境駅ではありません

小和田から15分ほどで平岡駅に到着。再び長野県に戻った。山中の飯田線をウロウロしていると、運行がしばらくないという時刻表の壁に必ず直面する。その時間をうまく昼食の時間に充てられたらベストなのだが、当然ながらそううまくはいかない。これだけの規模の町なら何とかなるだろう、と思って何もないというのは全国のローカル線(かなり利用者の多い駅でも直面する)あるあるで、その場合は主要国道のような幹線が近くを通っていれば、コンビニも含め何とかなるケースが多いが、天竜峡~本長篠の県境部分はそうもいかない。その意味では

温泉、宿泊施設の龍泉閣と一体となった当駅は心配無用。ここでは11時36分に着いて13時25分に去るという日程で、もちろんレストランもある。水窪で降りれば何とかなるかも、という道程も作りかけたががギャンプルは止めておいた。どの駅で降りても2時間潰さなければならないのだから、食事だけでは時間は潰れない。週末は昼間も温泉に入れるという平岡駅が安心である。当然ながら、当駅は秘境駅ではない

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飯田線6駅

平岡駅は1936年(昭和11)に満島駅として開業した。三信鉄道が北から延伸。間もなく小和田まで延伸されたので約半年間の終着駅だった。満島とは明治初期まであった村の名前。明治の町村制施行と同時に平岡村が誕生。それでも当初の駅名は満島だったが、1952年(昭和27)に現駅名へと変更された。自治体としては、その後の1956年に天龍村となった。特急「伊那路」であることはもちろん、秘境駅号の停車駅でもある。早朝と夜には当駅始終着の設定もある

駅舎には構内踏切で向かう

飯田線には「秘境駅6駅」と呼ばれる駅があり、それは「小和田」「田本」「金野」「中井侍」「為栗」「千代」の各駅。うち中井侍と為栗が天龍村に所在し、最近になって伊那小沢駅も秘境駅号の停車駅となったため、天龍村にある5駅のうち3駅が秘境駅になったことになる(もう1駅は難読駅として名高い鶯巣〈うぐす〉駅だが、こちらもなかなかである)

私は当ブログやX(旧ツイッター)でも秘境駅という言葉は基本的に使用しない。とても素敵な言葉だと思うし、名付け親とされる牛山さんの本はすべて楽しく読み、旅の情報源として大いに役立っている。CSで放送された番組も録画して見たほどだ。ただ地元の方や、(ほとんどいないだろうが)その駅を利用する方が「秘境」と呼ばれてうれしいのか、という気はする。だから「周囲に何もない」「利用者はほとんどない」という表現にしているのだが、飯田線については少し事情が異なる。JR東海公認なのだ。豊橋駅では秘境駅弁当という駅弁も売られている。これは秘境駅と表記しても問題ないだろう

大谷選手の応援で活気

お昼はトンカツ。レストランは大いに繁盛していた。お客さんの様子を見ると地元ナンバーの車で日曜のランチタイムを楽しんでいらっしゃるようだった

駅は無人化されているが、駅舎内には売店や土産物売り場もある。秘境駅号の到着時は大いににぎわう。価値があるのは三信鉄道の歴史を記した大きなパネル。過去の写真も含め、鉄オタならずとも歴史として見入ってしまうもの

そして肝心な時間つぶしだが、食事以外の時間も実は全く問題なく過ごすことができた。というのは、ちょうど野球のワールドシリーズ第2戦の開催日、開催時間となっていて駅舎の休憩スペース、レストランともに中継中。しかも大谷選手がスライディングの際に肩を負傷した、ちょうどそのタイミング。応援にも熱が入る。試合は食事の時間には終わったが負傷の具合は気になるところである。秘境路線でもこれだけの応援と関心があるのは凄いことだと思った

ということで2時間はあっという間に経過。午後になって時間はあるようでない。愛知県へと向かおう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その10 そして駅舎が残った

小和田駅に放置されたカブ

※訪問は2024年10月27日

※動画あり。音声注意

風格ある駅舎を支える

鉄道ファンを引きつける風格ある駅舎。そんな木造駅舎を支えるように足下にはしっかり点字ブロックが存在するところに妙に感心してしまった。かたわらに放置されているカブとの対比が何ともいえないが、5年前の写真にはなく、見た目とは違い意外と最近になってから置かれたもののようだ。ただ産業廃棄物のようなものを一体誰が何のために、ここに置いたのか?しかもどうやってここに運んだのか?電車に乗せると車掌さんに怒られる。まさか、この山道を延々と運んだのか?

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5年前はできなかったことを…

こちらが小和田駅の時刻表。10時11分に到着して11時16分の天竜峡行きで飯田方面へと戻る。戻らないと次の列車は3時間半後。次も2時間半ない。天竜峡~中部天竜の長野と静岡の県境区間はとにかくダイヤが薄いので、さすがに時刻表の見誤りは許されない。実は金野から当駅への道中で行き違い列車に遅れが出ているとのことで10分近く遅れたが、元々1時間の滞在時間があるので影響はない。5年前は豊橋方面から13時19分着の電車で来て同42分で戻るという楽々コースを利用。駅が駅だけに20分の滞在では物足りなかったので本日は周辺も見てみよう(ただ5年前は20分で良かったといえば良かった。それについては後述)

一躍「時の駅」に

駅名標の隣には「恋成就駅」の木柱。説明するまでもないが、当駅は1993年(平成5)のロイヤルウェディングの際、一躍時の人ならぬ時の駅となった。当時皇太子妃となった雅子さまの旧姓は「小和田(おわだ)」で厳密には違うが、漢字が同じということで多くの人が押し寄せることとなった。今のようにネットがある時代ではなく情報の拡散は遅いはずなのに、多くの人がやって来る映像が連日ワイドショーで報じられた

かなり色あせてしまったが「愛」と記されたベンチが登場。ここに座るためにこぞって人がやって来たが、今は汚れが目立ち座るには勇気が要りそうだ

探索開始直後に足がすくむ

ここから少し歩くとお茶の廃工場と廃屋がある。5年前は時間がなく行けなかったので、今日は行こうと、このベンチ前を通り過ぎようとした瞬間のことだった。目の前の小径を悠然とヘビがニョローリ。灰色のサイズ大のもの。これには足がすくんでしまった。慌てて駅舎へと戻る。駅舎には「ヤマビル注意」の看板も掲げられている。実は5年前に来た時は、ちょうど雨というタイミングもあってか、空中を舞う虫が凄かった。トンボや蝶のような優雅なものではない。どちらかというと人間にまとわりつく系統のものだ。6月終わりなので、もちろん半袖である。これには参った。人の営みも全くなくなった山中。大型の哺乳類だけでなく昆虫もは虫類も生息するのは当然なのだが、いきなり都会から放り込まれると、こういうことへの対応力はゼロである。現在はプラチナきっぷと化している秘境駅号は現在、春と秋のみの運行。以前は8、9月の夏も運行があったが、いつの間にかなくなった。もしかすると生物の活動が影響しているのかもしれない

ということで駅舎でおとなしくすることに。当駅で結婚式を挙げたカップルの写真が飾られている

今はオフィスでもなかなか見られなくなったデスクとパイプイス。立派な駅ノート入れがある

古い駅名標も残されている

特急「伊那路」が通過。駅舎と良い並びだ。考えてみれば私にとってはテレビに映る騒ぎは昨日のことだが、現在35歳以下の人にとってはリアルタイムで体験していない歴史上の事実でしかない。ただ歴史がこの駅舎を残したことは、まぎれもない事実だと思う。ロイヤルウェディングがなければ、おそらく駅舎は残らなかっただろう。もちろん核となる小和田駅の駅舎がなければ秘境駅号も運行されていない。なぜこんなところに駅があるのかを含め、いろいろな価値を残してくれた駅である

5年前の動画を置いておきます

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その9 5年前の思い出と変化

小和田駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

5年ぶりの訪問で「あれ?」

いよいよ小和田駅に到着。「いよいよ」と記したのは、この駅が鉄道ファンだけでなく一般的にも認知度の高い駅だという思いがあったからだ

かつては2面の対面式ホームがあったが、今はレールがはがされ棒状化している。当駅には2019年6月にも訪れているので5年ぶりの訪問となるが、ホームに降り立つと金野駅の自転車置き場と同様の違和感があった

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移動した3県境標識

小和田駅は1936年(昭和11)の開業。三信鉄道の一時的な終着駅だった

車では絶対にたどり着けず、最も近い集落までも徒歩で1時間かかる山中の駅として知られる。グーグル地図を拡大しても道は出てこないほどの場所にあるこの駅が、なぜ終着駅となったのかというと、もともとは天竜川に近い場所を線路が走っていて、当時は天竜川を利用した物流の拠点ともなっていた大きな小和田集落があったからだ。だが佐久間ダムの建設のため集落は湖底に沈み、駅が高台に移されたのが1955年(昭和30)。車では行けない駅となった。もっとも当時はまだ「マイカー」の時代ではなく、それなりに駅の意味はあったようだが、周辺に残ったわずかな家も1軒また1軒と減っていき、日常的に使用される駅ではなくなっていった

当駅の特徴のひとつは地図で分かる通り、静岡、愛知、長野3県の県境近くに位置すること。駅があるのは静岡県だが、天竜川の向こうは愛知県で、天竜川沿いまたは線路沿いですぐ長野県に入る

ということでホームの3県境標識(2019年6月の写真)が当駅のウリのひとつ…のはずだったが、この木製の標識が見当たらないのだ。私の探し方が悪いのか、ウロウロしても見つけられない

その代わりなのかホームから駅舎に入ろうとすると

この位置に県境境界駅の標識があった。5年前の写真はこちら

間違い探しクイズのようだが、当時はなかったので、この位置に「移転」したようだ。ホームの木柱が危なくなったのだろうか。細かいことだが、入口の左側にも新たな木の駅名標が置かれている。このような駅は、そう大きな変化はないものと思い込んでいたので、ちょっと面食らった

5年前の貴重な思い出

秘境駅号に乗車したのは、何度も触れているが2012年の11月。そして秘境駅号の停車駅でそれ以降に訪問したのは、この時に同時訪問した中部天竜ぐらいである。メインは解体が決まっていた湯谷温泉駅訪問だったが、少し足を伸ばして小和田まで来た。その時に利用したのが

大阪~小和田の往復乗車券。片道の距離は350キロにも満たず、往復割引の恩恵に預かる距離ではないが、帰路の乗車券は車内で車掌さんから買うしかないので、となると豊橋以降でいちいち係員のいる改札を通らなければならない。日帰りの道程はサクサク帰りたいので、あらかじめ往復で買っておいた。当たり前の話だが、大阪駅の券売機で「小和田」と行先指定すると、ちゃんと買えて、なぜか感動した。ただあらためて眺めると途中下車した新城駅で途中下車印を押されている。その手の作業は駅員さんの仕事を増やすだけなので「途中下車印要らない派」なのだが、駅員さんの仕事として押してくれたのだろう。思い返すと、ここ数年で何も言わずとも途中下車印を押してくれたのは、すべてJR東海の駅である

最近の小和田駅の1日あたりの平均利用者は、ずっと1ケタ。正規の乗車券で小和田で乗降したわけで、駅利用者のカウントにしっかり入れたことに大いに満足したことを覚えている

駅付近の散策をしよう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その8 今はなき自転車置き場

金野駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

真っ先に感じた違和感

田本駅から3駅目の金野駅に到着。ご覧の通り、こちらも単式ホームと待合所のみの構造。「きんの」と読むのはちょっと意表を突かれる

待合所に掲げられた時刻表。9時2分に到着して同22分で去る。20分の滞在。ここまではダイヤの妙でうまく駅を回った来られたが、上り下りとも、この後は3時間以上、ダイヤはぽっかり空いている。工夫を要する時間帯に突入する

短時間なので駅周辺を散策しようとホームから降りると、そこには初訪問でも分かる違和感があった

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12年前の強烈な印象

小さな階段を降りると草むらの広場となっている。先に顔をのぞかせているガードレールが突き当たりで右に折れて、その後はほぼ一本道だ

違和感というのは、この角度では分かりにくいが近づくとすぐ分かる

まるで下着の跡のような空間。形状で想像できるが、ここには自転車置き場があった

12年前に秘境駅号で来た時の写真。この駐輪場は日常的に使われているのだろうか、と思ったので真っ先に撮ったことを覚えている。このような小さな駅の施設が消えたのだから、それは大きな変化だ。この数年後に撤去されたようだが「今は見られない鉄道風景」となってしまった

もっともこの写真のみを掲載すると静寂だが、実際は

人わんさかである

駅は飯田市、金野は泰阜村

先まで進んでいくと折れた道は川にかかっている。米川という天竜川の支流のひとつで、このあたりは天竜川との合流地点となる。そしてこの橋は金野駅と外部を結ぶ唯一の道路にもなっている

金野駅は飯田から飯田線を南下していくと飯田市の南端の駅。お隣の唐笠駅から泰阜(やすおか)村に入る。ただ金野駅は飯田市だが、金野の街は泰阜村にある。泰阜村のHPによると金野諏訪社は武田家の家臣が子孫繁栄を願って創建した由緒ある神社だという。今でもかなりの山奥だが、戦国の時代に、このような山中に武士がいた(おそらく農家と兼業)とは、ちょっとしたロマンである

開業は1932年(昭和7)。門島~天竜峡が開通した際に設置された。敷設にあたった三信鉄道は当初から金野に駅を設置する予定だったというから、大きな集落として認知されていたのだろうが、地形の厳しさに金野の中心地に敷設することができず、天竜川に面したこの地に駅を設けたのだという。そんな経緯もあって駅周辺には何もない

駅名標に触れると金運がアップされるといい、12年前も大変な人気だった

訪問の理由は

時間も列車本数も限られているので、山中の飯田線ならではの駅すべてで降りるわけにはいかないが、この金野駅を選んだのは「利用者最少」の駅だから。2022年の利用者数を見ると1日の平均利用者数は「1」で最少。田本の「2」よりも少ない。「0」がないので「1」は最少となるが、これはおそらく小数点以下を切り上げた数字だと思われ、1がいくつか並んでいる

線路の脇にはロープが張られ、侵入できないようにされているが、またぐというレベルにもないほどの低さ。1日に1人も利用しないのだから、わざわざ線路内に立ち入る人もいないだろうけど

駅前の原型が怪しくなっているこの注意看板は12年前もあったかどうか記憶に残っていない

田本と同じく待合所の財産票は開業から1カ月以上が経過してのもの。開業からというよりは1年でどのぐらいの人の目に触れるかというレベルだが、当駅は車で駅前までアクセスできる貴重な存在で、それがかえって田本駅などと比べてコアなマニアの人気を下げているという一面もあるようだ

それでも写真で分かる通り、駅前の草はきれいに刈り取られている。このような環境なら、少し放置するだけで雑草が生い茂り、車が入れるスペースなど確保できない状態になってしまうはず。1日1人も利用しない駅での現状維持活動に頭が下がる思いしかないのである

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その7 ようやくかなった「ぼっち」訪問

田本駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

※動画あり。音声注意

「本来の姿の駅」に訪問

田本駅に到着。12年ぶりの訪問だが、状況は全く異なる。前回は秘境駅号でやって来たので、駅を味わうなどということはなく、駅を訪れた記録だけが残った感じだ。今回は本来の田本駅の姿と対面

ということで、静寂感漂う駅へ「ぼっち」の下車となった

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誰も降りない超有名駅

田本駅の2022年の1日の利用者数は「2」。そしてこれは最下位ではない。「1」があるのでビックリするが、それはこの後に出てくる。この数字には今回私が使用している青空フリーパスや青春18きっぷのような、いわゆるフリーきっぷの利用者は含まれない。もちろん秘境駅号の利用者も入らない。この駅から正規の乗車券で乗車または下車するとカウントされる。だから秘境駅号で田本までの乗車券と急行券を買って下車するとカウントされるのだが、そのような秘境駅号の客はまずいないだろう

ただ利用者数と反比例するように知名度は抜群だ。田本駅で検索すると駅紹介や訪問記、動画が数え切れないぐらい表示される。鉄道ものではない一般メディアでも紹介される。その意味では私の訪問記は甘いものかもしれないが、ここはお付き合いを

田本駅といえば、狭いホームと断崖絶壁のコンクリート壁。停車中の電車があると分かりやすい。ホーム幅は2メートルは絶対にない。ちゃんと点字ブロックがあるのが素晴らしいが、これより後ろで電車を待つとすれば、幅1・5メートルほどだろうか

知名度が高すぎるので説明するまでもないが、駅舎などというものはなく、単式ホームと扉のない待合所があるのみ。背後はコンクリートで固められた壁で線路の向こうは天竜川への絶壁。つまり断崖絶壁に囲まれている。いくらでも木の葉が舞い込んできそうだが、待合所はきれいに清掃されていた。足下にあるのは「ここで待て」サインだろうか

JR東海は待合所にもちゃんと財産票を張ってくれている。「昭和10年」というのは開業時のものだが、データによると開業は11月。少し遅れて設置されたことになる。開業させたのは三信鉄道。もともと駅の設置予定はなかったが、地元住民の懇願で門島~温田が開業した時に同時開業となった。線路の敷設とともに設置された。環境が環境だけに後からだと設置はなかったかもしれない

駅の前後はともにトンネル。かなりのスピードが出るようだ

唯一の出口からは山道

出入口は豊橋側に1カ所のみ設けられている

きっぷを入れるポストがあって、その先は

人が1人ずつすれ違うのがやっと、という細い階段。線路をまたぐ形で「下界」へと出る。途中まではハイキングコースというか山道のようだが、途中で分岐があり泰阜村、阿南町どちらへも行けるようになっている(阿南町へ向かう際は橋で天竜川を渡る)

こちらは田本の集落へと向かうコース。途中の道は険しいが、意外と近い。県道まで10分ほど山道を歩くと、もう「安全」らしい

田本駅を俯瞰で見る

田本駅といえば

階段を登り切ったところからの俯瞰だろう。列車の写真が写り込んでいれば、なお素晴らしいが、いかんせんダイヤというものがある

列車が写り込んでいるといえば12年前の写真

2012年11月のものだが、これは人が多すぎる。知らない人が見ると、いったい何の写真かということになる

こちらは階段の順番待ち。階段が狭いので初詣の本殿参拝待ちのような状況だった。ただ列車はホームに止まったままなのでホーム縁を歩いても危険はない

こちらは田本駅の時刻表。1日に8・5往復の停車と、この環境では多い方だが、事前に時刻表をチェックしないと2時間以上の待ちとなる。当然だがお手洗いも自販機もない(県道まで出れば自販機があるようだが、一度行った山道を帰ってくるのが面倒そうだ)

私は8時11分着で来て同47分で去るという、1日のうち上下ともここしかない1時間に2本のダイヤを利用した

とにかく雨にならず良かった。次の駅へと向かおう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その6 朝から普通も通過の洗礼

温田駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

青空フリーパスを手に

朝の飯田駅。路線内では貴重な光る駅名標がまぶしい。そして手にあるのは

正確に数えてはいないが、当ブログではおそらく青春18きっぷの次に利用頻度が高い青空フリーパス。今日は飯田から豊橋まで徐々に南下して帰路に着くので心強い味方。飯田から豊橋までの運賃は2640円(なかなか絶妙な料金設定だ)なので、どこかで1駅でも後戻りすれば、元はとれる。そもそも豊橋から名古屋までは在来線に乗車して名古屋から新幹線に乗るつもりなので、その時点で元はとっていることになる

本当は飯田駅で買ってあげたかったが、窓口の休憩時間などがあるかどうかも分からなかったので念のために前日の新幹線からしなのへの乗り換えの際、名古屋駅で買っておいた(結論としては飯田駅の窓口はずっと開いているようだった)

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時刻表の小文字に注目

単色の案内表示が新鮮に見える朝7時前の飯田駅。7時5分の豊橋行きに乗る。当然だが豊橋に直行するわけではない。この列車の豊橋着は11時16分で4時間という鈍行旅。1時間も同じ乗り物に乗ると飽きてしまう私には無理。目指すは鉄オタ界隈では新幹線の駅並みに著名な田本である。ただ案内表示には赤文字で「停車しません」と流れている

文字が小さくて分かりにくいかもしれないが、時刻表には何やら書き込みがある。当該列車には※印が打たれていて、いくつかの駅を通過する旨が下にあり、その中には当然のように田本もある。「各駅停車」はすべての駅に停車するものだが「普通」は通過駅も存在する。つまり、この列車に乗っても田本は通過してしまうのだが、方法はあり、ひとつ向こうの温田まで行って引き返すと比較的簡単に田本まで行ける。もっともこのような方法で「簡単に」田本に行くのは同業者(鉄道ファン)しかいないだろうけど

貸切列車で向かうと…読めません

ということで約1時間かけてまずは温田へと向かう

日曜の朝7時とあって、私が乗った車両は見事に貸切だった

飯田や駒ヶ根、そして豊橋近辺など生活圏の電車という側面と全くの山中を走る秘境列車という2つの側面を持つ飯田線だが、飯田市の郊外を過ぎるとすっかり山中の鉄道となった。そして

温田に到着。当駅では列車交換の待ち合わせがあり、8時1分に到着した豊橋行きがしばらく停車。飯田行きを待ち受け、すれ違いをした後にまた別れていく。飯田行きの発車は8時8分なので、少しだけ時間がある

渋い木造駅舎が残る。1935年(昭和10)に三信鉄道によって設置された。飯田線の元の形が複数の私鉄なのは有名だが、辰野から天竜峡までを伊那電気鉄道が、豊橋から三河川合までを豊川鉄道と鳳来寺鉄道が敷設。そしてその間を結んだのが三信鉄道である。三河と信州を結ぶので1文字ずつとって鉄道名とした。つまり静岡県も含む県境の山深い部分を担ったため、飯田線の「有名駅」は、ほとんどが三信鉄道が開業させた駅である。駅舎は戦後に改築されたもののようだ

そしてサムネの写真を改めて掲載する

駅名は「ほ~」という感じがするが、自治体名にはルビがない。「やすおか」村と読む

そして、ここ温田は村役場ともうひとつ、天竜川の向こうとなる阿南町の玄関口としても機能している

駅の場所が泰阜村のかなり南の方にあるため、JRの駅としては門島の方が近いが、道路事情などから温田駅が2つの自治体の玄関口となっている。病院や学校は徒歩圏内。特急「伊那路」停車駅で2022年の1日あたりの乗降客数は302人と付近の駅と比べるとかなり多い。上下列車が同時刻発車ということもあって、駅にはかなりのお客さんがいた

駅からの天竜川の眺め

上下列車が格好良く並んだところで、いよいよ田本に向けて出発しよう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その5 リニアの到着を待つ県第5の都市

飯田駅の駅名標

※訪問は2024年10月26日

14年ぶりの訪問

飯田駅に到着。伊那上郷からは桜町をはさんで2駅目だが、5分もかからず到着してしまう駅間の短さが飯田線ならではである

飯田駅は路線名が表すように200キロ近い全線の根幹をなす駅だが、当駅始終着の列車は意外と少ない。辰野方面からやってくる列車は天竜峡止まりが多く、言い換えれば天竜峡止まりから南側は閑散地域ということになる。ただし飯田線に入ってくるJR東日本車両については飯田駅が南限となっている

2010年以来、14年ぶりの訪問となった

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焼肉を食べよう

飯田駅の訪問はこれが2回目。2010年の東京勤務の時代、夏季休暇をとって神戸まで帰ってきたのだが、当時は諏訪、松本と訪問した後、飯田線を貫いて豊橋経由で名古屋で途中下車した後、帰路についた。その後は秘境駅号で天竜峡で折り返したほかは、湯谷温泉駅の駅舎が取り壊しとなる寸前の2019年に小和田駅とセットで訪れたぐらいだ。もっとも豊橋~豊川の都市部近郊は何度も乗車しているが、こちらの都市路線は「別物」としておこう。つまり辰野~天竜峡は2回目の乗車となる

飯田駅は1923年(大正12)の開業。伊那電気鉄道によって設置された。現在の駅舎はJR移管後のもの。X(旧ツイッター)のフォロワーさんに教えてもらったのだが、赤く丸みを帯びた屋根や正面の装飾はリンゴをイメージしたものだという。もちろん管理駅で全線きっぷうりばもある

構内も広い。2面3線構造で列車によって発着ホームは変化するようだが

偶然出くわした出発を待つ特急「伊那路」は、跨線橋を渡らずに済む改札のある1番線から発車する。飯田~豊橋を結ぶ1日2往復のみの飯田線唯一の定期優等列車。14年前、豊橋へと向かうべく駅で特急券と指定席券を買おうとしたら「自由席でも十分座れますよ」と言われた記憶がある。確かに観光のシーズンオフで悠々の自由席だった

駅前には渋めの建物が並んでいるが、駅から数分歩いた場所が繁華街の中心のようだが、ずっとにぎやかな場所が続く

飯田市はかつては飯田城の城下町、宿場町として栄えた南信州の中心地で生糸、精密機器でも有名となった。人口は約10万人で県内第5の都市である。伊那上郷駅でも学んだことだが、飯田駅から坂を下っていく形で繁華街が形成されている

前回は馬肉を求めて街を歩いたが、テレビで焼肉店が多いことを知った。確かに検索すると、たくさんのお店が並ぶ。人気店を1週間前から予約してお腹を満たした

リニア後の交通体系に注目

駅前の高速バス乗り場で時刻表を眺めて分かるのは東京、名古屋へのバス便の多さ、特に東京への本数の多さだ

こちらは東京(新宿)行き

そしてこちらが名古屋行き

特に東京行きの午前中の多さが目につく。このバスは飯田線に沿うように駒ヶ根、伊那、辰野などで細かく乗客を拾って八王子や三鷹を経由して新宿へと向かう。所要時間は4時間から4時間15分で料金は平日と休日及び休日前日で異なるようだが、平日なら4600円、ネット割引なら4000円からとなっている。停留所があるため、辰野まで1時間かかるが、それでも岡谷経由の中央本線、豊橋経由の東海道新幹線と比べても速い(豊橋経由は時間はほぼ同じだが特急が1日2本しかない)。そして何よりも安い。これは本数も多くなるはずだ

だが、リニア新幹線が開業すると現在の想定では品川まで45分、名古屋までは25分と大幅どころではない短縮。運賃の方はまだ発表されていないが、想定では8000円ぐらいになりそうだ。もちろん日帰りも可能となる

現在、飯田駅始発で駒ヶ根や伊那などは高速道路上に停留所がある便とは別に、駒ヶ根の街中を始発とするバスも数多く運転されていて東京への輸送はバスが圧倒している状態だが、リニア開業となると飯田のみならず、飯田線沿線の主要都市とリニア駅最寄りを結ぶ優等列車や快速が運行される可能性もある。まだまだ先の話だが、現状の力関係がどうなるかは注目ポイントのひとつである

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大糸線の増便バスに再乗車、キハ120と組み合わせる~その6 やっぱり列車でゴールしなきゃ

糸魚川駅に到着

※訪問は2024年10月11日

2つの駅名板

中土駅の駅舎には2つの駅名板がある。ひとつは前記事のサムネで掲載したもの。そしてもうひとつは

年季が入ったもの。前者は駅舎の外に、そしてオールドバージョンは

駅舎の外側つまり列車で降り立つと、こちらが迎えてくれる

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シールを張って一路糸魚川へ

中土駅ともサヨナラの時間が来たようだ

南小谷駅でも同じものがあり、1カ月前に張った。今回ももちろん張る。来た全員が張り付けるとは思わないが、南小谷より利用者が圧倒的に少ない当駅なので、見かけたら思わず張ってしまうのではないか。首都圏や近畿圏は重ねて張るしかないのだが、遙か彼方からの人もいるようだ。対馬はビックリ。福岡からの方は「ネタじゃねぇぞ」との書き込みも

駅でともに降りた同業者の青年は、この後北小谷まで行き、増便バスの停留所まで歩き(徒歩10分ほど)、白馬から松本経由で東京に帰るという。前日からの旅程を聞いたが、若いとパワフルでいいな、と思った

中土から1区間、同乗してお別れである。私はこのまま糸魚川へと向かう。ふと顔を上げるとキハ120の車内は私を含め4人

そういえば中土駅ではこのような注意書きがあった

頭の中が鉄道だらけになると「通過」という意味が間違って脳内に伝わってしまうが、バスの世界では、ここには立ち寄らないという意味になる。今は国道から離れてしまうと、何かと不自由な時代である

大糸線の現状

私が乗車したのは中土を10時10分に出て11時3分糸魚川着のキハ120。10時4分に南小谷を出ているが

こちらの記事でも記したように白馬方面からの接続が極めて悪い列車で乗車が少ないのもうなづける。この後、根知で2人、姫川で1人の乗車があった

ここで糸魚川と南小谷をのぞく2022年度の非電化区間である大糸北線各駅の利用者数を記すと

中土 2人

北小谷 4人

平岩 4人

小滝 4人

根知 8人

頸城大野 16人

姫川 4人

この中には今回私が使用した秋の乗り放題パスや青春18きっぷなどのフリーきっぷの利用者は含まれていない。また中土で出会った同業の青年は途中下車を繰り返していたが、そちらも含まれないので実際に乗降した人の数とはかい離があるが、日常ということを考えると決して良い数字とは言えない

一方、増便バスについては長野県のHPに9月12日の記載があり、6~8月の利用状況について

6月 1日平均約25人(1便平均3人)

7月 1日平均約48人(1便平均6人)

8月 1日平均約112人(1便平均14人)

となっている。認知度が増して夏休みに入ると利用者が増えていることが分かる。現に9月に私が利用した日も18人の乗車があった。もっともこちらはあくまで白馬~糸魚川全体の利用者であって各駅の利用者数とは異なることに留意が必要。鉄道もそうだが白馬や信濃大町から大糸線を経由して糸魚川から新幹線に乗り換えると各駅利用者には入らない。また私見だが、バスの数字にはフリーきっぷ利用者も含まれている気もする

景色を眺めながら糸魚川へ

平岩駅を過ぎると姫川温泉が見えてきた。3年前に宿泊した際、部屋から「お~い」と手を振った。翌日、乗車すると車窓から部屋で手を振る浴衣の宿泊者がくっきり見え、私もそんな風に見えていたのかと、ちょっと恥ずかしくなったことを思い出す

12月から増便バスは冬季期間となり停留所が変更される。現在は白馬から南小谷までの各駅に停車しているが、南小谷までノンストップとなり、代わりにスキー客の利用が多い白馬八方バスターミナルが新たな停留所となる。また平岩、小滝の両駅は通過するが、駅とは離れた場所の温泉施設や道の駅が停留所となっている中土、北小谷の両駅は停車が続く

大糸線用となっている糸魚川の切り欠きホームに到着。やはり列車の到着は気分が落ち着く。大糸線については非電化区間であるJR西日本の大糸北線ばかりが何かとクローズアップされるが、JR東日本の区間も信濃大町から北上していくと、一定の乗客がある途中駅は白馬と神城ぐらいで、この後の記事でも出てくるだろうが、多くの駅で「ぼっち」を体験した。沿線には多くの温泉があるにもかかわらず、もったいない気もする

手元に1988年3月号の時刻表(復刻版)がある。すでにJRへの移管は行われていたが、南小谷をまたぐJR東日本、西日本の両線を走る列車がまだ1日2往復残っている。大阪から北陸本線、大糸線を経由してのシュプール号も健在。このシュプール号、いつも大阪駅で多くのスキー客が列車を待っていた光景は覚えているが、始発駅が西明石だということを知ってちょっと驚いている

増便バスを出すぐらいなら、大糸線そのものを増便すれば良いではないか、との声も聞こえてきそうだが、平岩、中土の両駅でも紹介したように大糸北線では駅の交換設備がなくなっていき、現在すれ違いができるのは根知駅のみで列車本数を簡単には増やせない状況にある。ただ白馬行きの増便バスで分かる通り、JR東日本と西日本をまたぐ列車があれば需要は少し増えるのではないか。それが無理なら、せめて接続の便を図るべきだと思えてならない

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大糸線の増便バスに再乗車、キハ120と組み合わせる~その5 大糸南線で唯一の非電化駅

中土駅の駅名板

※訪問は2024年10月11日

国道は離れた場所を行く

中土駅の駅前

3年前は「交通 安全宣言」の向こうから南小谷駅へと向かう小谷村村営バスがやって来たことを覚えている

ただ交通安全をうたうほど車の交通量があるわけではない。いわゆる「塩の道」で大糸線とほぼ並行して走る国道148号は中土駅から離れた場所を走る

増便バスは駅前まで来て再び国道に戻るのにはかなりの回り道となるため、停留所は温泉施設「サンテインおたる」に設けられている。同所から中土駅までは1・2キロ離れていて徒歩なら15分以上かかりそうな距離である

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元は合成地名

駅名は、かつてあった中土村に基づく。これはいわゆる合成地名で「中谷」「土谷」の2つの地名の頭文字をとって村名にしたもの。1958年(昭和33)に北小谷村、南小谷村と合併して小谷村が発足した際に自治体としては消滅しているが、駅が開業した1935年(昭和10)はまだ中土村が存在した。ただし駅の所在地は南小谷村だった

村の中心地は徒歩なら小1時間ほど離れた場所にあったが、地形上、中心地に鉄路を通すことは不可能だったのだろう

こちらは駅舎内の様子。きれいにまとめられていてテーブルもある。こちらは少なくとも開業時のものではない。そしてきれいに清掃されている

かつての駅の写真が飾られている。戦争を挟み20年以上も終着駅だったことで写真にも重みがある。駅員さんの姿も写っているが

もちろん現在は無人駅。国鉄末期には無人化されていたがきっぷ売り場の窓口跡に

かつてホームにあったと思われるホーロー駅名標が保存されていた

きれいな駅舎内とともに地元の方の愛情を感じる

電化、非電化の分かれ目

駅前には商店そしてタクシー会社があるが、商店については現役ではない。たばこ店のホーローと遠くからも識別できる「たばこ」の文字はローカル線の定番である

再びホームに出る。時刻は10時を回ってきたが暑くなってきた。先ほどの商店前には自販機はある。冷たい缶コーヒーを買って白馬から着てきたセーターを脱いでバッグにしまう。2時間ほど前、一ケタの気温に白馬駅でブルブルしていたのがウソのようだ

島式ホームだが、平岩駅と同様に片側は役割を終えていて、と同時に構内踏切もすでに踏切ではなくなっている

大糸線では1957年(昭和32)の全通から間もなくして電化の機運が高まった。元より松本~信濃大町の信濃鉄道が敷設した区間はすでに電化されていたため、工事は延伸という形で進めめことができる。当初の目的だった国防の意義はなくなっていたが、温泉、登山、スキーと当時の観光の要素がすべてそろっていたため、国鉄によって敷設されたしなの信濃大町以北も電化して観光路線として強化することになった。工事は順調に進み、白馬(当時は信濃四ツ谷)までは早くも1959年に、翌年には信濃森上までが電化された。その後は少し時間がかかったが、1967年に南小谷までが電化。そして…と言いたいところだが、電化はここまで。現在の形となった

当駅も含め、大糸線の県境部分は数々の自然災害が発生した場所でもある。豪雨に山崩れ、地震。中土駅も豪雨で何度か水浸しになった。駅舎が新しく感じるのは、その度に修復が行われたからだろう。電化に伴う難工事と自然災害への危機感が電化の歩みを止めた。その結果、戦前に開業した松本から当駅までの大糸南線で南小谷~中土のみが非電化区間となった

かつては転車台もあった終着駅に現在やって来る列車はキハ120の単行。民営化時に電化区間と非電化区間で、かつての大糸南線で1駅だけ所属会社も変わることになるとは、電化工事がストップした時点では誰も考えなかったに違いない

2022年度の中土駅の1日あたりの利用者は2人となっている

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大糸線の増便バスに再乗車、キハ120と組み合わせる~その4 3年前の忘れ物

中土駅の駅名標

※訪問は2024年10月11日

3社のJRが乗り入れる長野県

平岩発9時30発に乗車。もちろん、と言っていいのかどうか分からないが、乗車したのは私1人。すると車内には20人のお客さん。自分の予想をはるかに超えていたので、ちょっと驚いた。秋の乗り放題パス期間ではあるが、同業者(鉄道ファン)の姿は少ないようで、観光や登山の方がほとんどのようだ。1駅隣の北小谷では1人が降り、3人も乗車してきたので、これも意外。3年前に訪れた北小谷は乗下車ともに私だけでホームで小1時間ぼんやりしていた記憶があるが、北小谷で降りた人も乗車してきた人も地元の方のようだ

そして平岩駅から2駅目の中土駅に到着。駅名標を見れば一目瞭然だが、隣は南小谷でJR東日本との境界駅でJR東日本管轄。JR西日本の駅名標もここまでということになる

南小谷はJR東日本とJR西日本が接続する在来線唯一の駅。北小谷そして中土は長野県に所在する。考えてみれば、長野県はJR3社の在来線が走る貴重な県である

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JR西日本の最東端駅

平岩と中土は2区間で11キロだが、途中の駅はひとつだけにもかかわらず所要時間は20分と長い。大糸線の難工事部分で山中をぬうように走る線路にはJR東日本ならではの速度制限があるからだ

さて中土駅で降りたのは私ただ1人…という予想だったが、私を含め2人。ただし同業者。私よりもはるかに若く、後で車内も含め話をしたが東京から来たという。ローカル線の駅で同業者と2人きりになった時の「あるある」だが、互いが写らないよう気を遣いながらの撮影会となった(笑)

こちらは時刻表。9時50分に着き、10時10分の糸魚川行きで去る予定。駅にいられるのは20分だが、3年前と比べると十分な時間だ。というのは3年前は小谷村村営バスのお世話になって当駅から南小谷へと移動したのだが、バスの時刻が列車の到着からわずか3分後という慌ただしさで、とにかく写真を撮れるだけ撮っているうちにバスが見えたので即撤退となった

美しい木造駅舎が健在である。中土駅の開業は1935年(昭和10)。信濃大町から徐々に伸びてきた大糸南線の終着駅となった。大糸線は全通までは糸魚川~小滝が大糸北線、松本~当駅が大糸南線という名称が与えられていた。以降、戦争を挟んで1957年に大糸線が全通するまで20年以上にわたって終着駅の役割を果たしていた

駅舎は開業時からのものと思われるが、かなり手は入っているようだ。シャッターは地元消防団のもので、道具置き場となっている

JR西日本最東端の駅でもある。かつては北陸本線の谷浜駅(新潟県)だったが、三セク移管によって中土駅が、その座についている。なおJR西日本が管轄する線路となると北陸新幹線の上越妙高駅(新潟県)が最東端となるが、境界駅である上越妙高はJR東日本の管轄となっているため、最東端の駅となると中土になる

それほど多くの時間はないが、駅舎内とその周辺も見ていくことにする

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