青春18きっぷ

青春18きっぷで相生-岡山途中下車のススメ~縁起駅はビール工場で栄える

万富駅の駅名標

※訪問は2021年12月12日、状況が変化している可能性があります

縁起の良い駅として知られる

万富駅。ここから山陽本線は岡山市内に入ります。所在地は東区瀬戸町万富。駅名は旧万富町に基づきます。万富町は戦後10年で瀬戸町と合併。その瀬戸町は2007年に岡山市に編入となりました

「万富」という名前がとても縁起の良い名前だとして古くから知られていました。訪問時に不思議に思ったのですが、自分の中では有名駅だったのですが、2019年に無人化されて以来、入場券を買うすべがないのではないか、ということ。もっと大々的に、記念入場券を岡山駅などで発売しても良いのではないか、と思いました。いろいろ調べたのですが、見当たりませんでした。以前から、そのような企画入場券は発売されていなかったのでしょうか

現在の駅舎は1937年からのものです。駅としての開業は1897年(明治30)と、こちらも沿線の他の駅と同様に古い。戦前に改築された駅舎が使用されています

戦前からの駅でよく見かける小さな階段を上がって駅舎に入る構造。全国各地で見られるので、こんな階段がおしゃれだったのでしょう。もちろん現在はバリアフリーのスロープが設けられています

ビールの積み出しで繁栄

万富駅に降り立って、まず目に付くのは

ズラリと並ぶビールののぼり

駅舎と逆側の一帯は広大なキリンビール岡山工場となっています。訪問時は12月の真冬だった上にコロナ禍で工場見学は中断していましたが現在は復活しているようです。ただ

駅に隣接しているにもかかわらず駅舎とは逆側にあるため、徒歩だと10分もかかるようです

戦後早々に貨物の取り扱いをやめていた万富駅ですが、1972年にビール工場ができると貨物が復活。以降、もちろんビール運搬そして原料(麦芽)運搬で栄えました

しかしビール関連の貨物は国鉄末期の1986年に終了。わずか15年だけの貨物復活でした。現在はのぼりが並ぶスペースにその名残を感じることができます

写真だと右側の部分ですね

現在は始終着設定なし

以前は漢字のみだった駅名板にローマ字入りで上書きした形跡があります。それでもおそらく国鉄時代から現在の形になっているようです

構内は2面3線。以前は当駅始終着の運用もありましたが、現在はありません。2番線はそのためのホームでしたが貨物列車の待避として利用されているようで、私の訪問時はディーゼル機関車が単機で待避していました。到着時の写真の奥に見えます

万富駅とは直接関係のない話ですが、この日私がたまたま乗車したのが和気が始発で山陽本線を福山まで行った後、福塩線に乗り入れて府中まで到達する電車。山陽本線→福塩線と直接乗り入れる貴重な1本でした

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青春18きっぷで相生-岡山途中下車のススメ~近代化産業遺産が見られる赤磐市唯一の駅

熊山駅の駅名標

※訪問は2021年12月12日、状況が変化している可能性があります

明治期からの跨線橋

熊山駅に到着しました。一見、2面3線構造で貨物列車が待避待ちをしているように見えますが、写真に見える線路は架線が外されていて電車が通ることはありません。たまたま貨物列車が通り過ぎました

かつての貨物ヤードは残っています

とても分かりやすく目立っているものが

跨線橋です。階段入口の「鐵道院」の装飾は、いかにも再現ですが、この跨線橋は

近代化産業遺産に指定されています。解説によると1912年(明治45)に瀬戸駅(当駅から2駅岡山寄り)に設置されたものが、1960年に熊山駅に移設されたもの

明治45年と記されています

今回紹介している区間は明治開業の駅が多いのですが当駅は1930年と昭和5年生まれ。それまではすれ違いのための信号場でした

駅を降りるとすぐに河川

和気から熊山を経てお隣の万富の手前まで山陽本線は吉井川とその支流沿いに敷設されています。和気駅も駅を出るとすぐ川ですが、熊山はさらに川に近く

駅前のロータリーのすぐ向こうは川の堤防で、なかなか駅が設置されなかった理由のひとつと思われます。旧熊山町の中心部は川の向こう側に広がっていますが、そちら側に線路を敷くのは難しかったのでしょう

駅舎は開業当時からのもので、駅前ロータリーへの通路に屋根が取り付けられたため、全景写真は難しい

財産票にも記されています

市役所へは岡山市から

赤磐市はかつての赤磐郡の4自治体が合併して成立したもので、熊山は南端に位置。赤磐市全体を見ると山陽本線は市の南側を通り抜けているため、片上鉄道が廃線となった現在、赤磐市に存在する唯一の鉄道駅となりました。この付近は南北つまり縦長となっている自治体が多い

そして地形上の問題で赤磐市役所の最寄りは岡山市内である2つお隣の瀬戸駅

瀬戸駅から1時間に2本程度とバスが頻発していて所要時間も10分弱と近い

それでも熊山まで来ると岡山までは30分圏内で周辺は岡山のベッドタウンとなっている上、岡山白陵中高の最寄り駅でもあるため、岡山に近い隣の万富駅より利用者ははるかに多くなっています

現在は無人で簡易式のICOCA改札機が設置されているだけですが4年前まではみどりの窓口設置駅でした

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青春18きっぷで相生-岡山途中下車のススメ~片鉄ロマンの駅

和気駅の駅名標

※訪問は2023年4月6日。状況が変化している可能性があります

昭和コンクリート駅舎

和気駅です。兵庫県から岡山県に入って岡山市内までは戦前からの木造駅舎が多いのですが、こちらは「ザ・国鉄」のコンクリート駅舎

1962年に現在の建物になったようですが、それでも60歳超。JR西日本の社員が研修、訓練を行うことで有名岡山総合実設訓練センターがあることでも知られています

構造は2面3線。1日に3往復、当駅を始発着する電車が設定されています

周辺は和気町の中心部

和気駅周辺は和気町の中心部。町役場のほか、吉永駅の項でも紹介した閑谷学校をルーツに持ち350年以上の歴史を持つ県立和気閑谷高校の最寄り駅でもあり、当駅から岡山市内へ通学する生徒も含め、朝夕はにぎわいます

駅前のロータリーにはタクシーも常駐していて駅としての規模も大きい。駅前の観光協会はかつて銀行だった建物に入居しているようです

そして地図を見て分かるのは、駅舎側だけでなく駅舎と逆側にも町が広がっていること。それは片上鉄道の駅があったから

片上鉄道との接続駅

ホームから駅舎と逆側に「片鉄ロマン街道」の文字とホーム跡のようなものが見えます。1991年に廃線となった「同和鉱業片上鉄道」との接続駅でした

柵原鉱山の硫化鉄鉱を瀬戸内海の片上港に運搬することが目的で大正期に敷設された片上鉄道。片上駅は赤穂線の西片上駅の近くで現在はスーパーとなっていますが、0キロポストが残り、今も「片鉄片上」というバス停に名前を残しています

旅客運輸も行っていた片上鉄道はJR(国鉄)との接続駅は、ここ和気のみで利用者は最も多かった

駅舎と逆側へは地下通路で結ばれていて

その通路は片上鉄道とJRのホームを結ぶための通路を転用したもの

線路跡はサイクリングコースとなっています

自転車道は「片鉄ロマン街道」と名付けられ詳細な地図があります

こちらは駅前の和気町の地図。山陽本線をまたぐ点線で描かれているのが片鉄ロマン鉄道つまり片上鉄道跡です。片上鉄道の廃線によって和気駅が町内で唯一の鉄道駅となりました

訪問時は無人

駅舎に戻ります。ガラス張りでターミナル駅の雰囲気が漂う

楷書体の駅名板は駅舎内に。いつからのものでしょうか

古典的な番線案内もあります

みどりの券売機が設置されています。直営駅で無人駅ではないはずですが、訪問時は窓口は閉まっていました。簡易式のICOCA改札機が設置されています

訪問時は青春18きっぷ期間。岡山県内の山陽本線の駅では開閉式の改札機を設置している駅でも「青春18きっぷ利用の方は通ってください」とフリーで通れる部分を設けている姿も目にします

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青春18きっぷで相生-岡山途中下車のススメ~日本初の庶民のための学校

吉永駅の駅名標

※状況が変化している可能性があります

旧吉永町の中心地

吉永駅。直近の訪問は今年の4月

構造は2面3線。かつては国鉄駅の代名詞だった2面3線構造も最近は1線分のレールがはがされたり、有名無実になっていることが多いですが、ここはそのまま残されています。1日に2本、当駅での折り返し電車が設定されていて、そのためのホームとなっています

山陽本線のこの区間は前回の三石と当駅以外にも和気、瀬戸と複数の駅で折り返し電車が設定されています。当駅では7時台と18時台。通勤通学に対応しているのは明らかですが、三石、吉永、和気と1駅ずつ設定されている点がユニーク。ただ三石までは7キロ、和気までは5キロと駅間はかなりあります

2005年まで存在した旧吉永町にあった唯一の駅で同時に町の中心部は駅近辺に集まっています

吉永町は岡山藩主の池田宗家の墓地があることで有名。同時に吉永駅は日本初の庶民のための公立学校である「閑谷(しずたに)学校」の最寄りでもあります

同所には10年以上前に訪れたのですが、どうしても写真が出てこなかったので

閑谷学校を記した駅の案内と

閑谷学校へ行くバス停の時刻表でお許しください

大正からの駅舎が健在

駅は1891年(明治24)の開業

財産票によると現在の駅舎は大正15年(1926年)からのもの。大正のラストイヤーにできたものなので、間もなく駅舎は100歳となります

閑谷学校を訪れた時と駅のイメージが違うな、と感じたのですが、その後調べると駅を覆うように植えられていた何本かの木がなくなっていました

ただし駅舎そのものは手を加えながらも建築時の雰囲気を伝え続けています

三石駅と同じ2016年に無人化されています。簡易式のICOCA改札機がポツンと置かれています

窓口の上部に緑色のものが残っていますね

こちらはホーム側からの写真。駅舎内は広い

当然ながら山陽本線は今も多くの貨物列車が走っていますが、当駅での貨物取り扱いは国鉄時代の末期に終了しています。三石駅の記事でも触れたレンガを当駅でも扱っていたそうです

側線には保線用車両が停まっていました。左奥の建物は大きな病院です

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青春18きっぷで相生-岡山途中下車のススメ~高台にたたずむ県境の駅

三石駅訪問時は桜が満開だった

※駅の状況が変化している可能性があります

岡山県と兵庫県

上郡を出て岡山に向かう電車は距離にして12・8キロ(山陽本線最長の駅間)、電車で10分もかけ、岡山最初の駅である三石に到着します

いかにも県境という車窓には民家はほとんどなく、国道2号線のバイパスが見えるのみ。こういう県境感の車窓が私は好きです

新幹線に乗れば、新大阪から45分、新神戸からは30分で岡山に着いてしまうので、とても近い隣県と思われる方も多いかもしれませんが、私の認識は全く異なります。まず駅を降りるとイントネーションが違います。いわゆる関西式とは逆になります

過去の歴史を見ても、播磨の国と備前の国は攻めて攻められてと、領地争いが繰り広げられ、豊臣秀吉が主役なので描かれ機会が多いのでしょうが、有名な上月城の戦いなど争いの印象が強い

三石は古代より宿場として栄え、南北朝時代から戦国時代までも内紛を含め数々の攻防が行われた地。近代は耐火性のある蝋石を産出する鉱山の町からレンガの町となりました

多くの側線を有する高台の駅舎

今もレンガ関連の会社や倉庫が残る国道2号の旧道沿いにある町の高台に駅はあります

手前でカーブを描いているのが国道2号で駅舎は道路を見下ろすように建てられています

多くの側線が残ります。無人化されていますが、山陽本線では岡山県の東端にあるため、早朝と夜間には当駅始発、夜間と深夜近くには当駅止まりの列車が設定されています

訪問は今年の4月6日。沿線の他の駅では終わりかけていましたが、山中の駅では桜があまりにも美しすぎた

当駅訪問は2017年9月以来。前回と異なるのは駅舎の左側が縮小されて新しい建物が建っていること

財産票を見ると目的は明らか。電車の夜間停泊時の乗務員の宿泊施設となっています

大正時代からの駅舎

これは6年前の様子で無人化されて間もないころの写真ですが、今と大きな変化はありません

窓口の上には列車のヘッドマークが展示されていてユニークなものばかりですが、どの時代のどんな列車のものか私には確認することができませんでした

駅は1891年の明治23年に現在地に設けられました(開業は別の地で1890年)。財産票には大正10年と記されています。大正10年といえば1921年。すでに100歳を超えたことになります

駅舎を入るとホームにはトンネル形式の通路を上がっていくのですが、振り返るとこのような感じ。途中の通路は庭園となっていて、きれいに整えられています

ホームは側線に囲まれた1面2線。電車に乗ると旧三石町の中心部だった街が車窓から一望できます

ぜひ訪れてほしい県境感たっぷりの駅です

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青春18きっぷで相生-岡山途中下車のススメ~知名度抜群の県境駅

上郡駅の駅名標

※状況が変化している可能性があります

何かと見聞きする駅は

相生から西へ向かう山陽本線は有年そして、ここ上郡のわずか2駅で兵庫県と岡山県の県境に到達します

降りたことはないけど駅名だけは知っているという駅というのがあるのではないでしょうか。都市圏で運行される電車の終着駅となる駅によくあるケースで近畿圏では「野洲」「網干」などが挙げられます。上郡もそのひとつ。今は運行がなくなりましたが、赤穂線の備前片上駅は大阪・神戸方面への直通列車が走っていて「一体だんなとこやろ?」と子供心に思っていました

上郡もそんな駅のひとつで鳥取方面へと向かう「スーパーはくと」の停車駅としての案内が必ずある上

近畿圏のフリーきっぷが発売されると一番左に印字されていることが多い。市町村合併の影響もありますが、このきっぷで言うと利用区間の限界で自治体で言うところの「町」にあるのは上郡だけ(関西空港駅は田尻町と泉佐野市にまたがっている)

山陽本線の姫路以西は相生ダッシュの項で触れたように、多くが赤穂線直通へとシフトしましたが夜には大阪方面から上郡が終着となる電車が今も運行されています

古来からの重要地域

と延々説明してきましたが、私がちゃんと同駅に降りたのは2018年6月のことで全くの最近。上郡という駅の存在を知ってから40年以上が経っている

時間は22時前。鳥取から帰る際、それまで乗ったことがなかった「スーパーいなば」にどうしても乗りたくなった私はスーパーはくとではなくスーパーいなばに乗車。ここ上郡で乗り換えました

この時はすっかり夜で、ちゃんと明るい時間帯に訪れたのはもっと遅く2020年の3月で、つい最近のこと。こういう「いつでも行けるようで意外と遠い駅」というのは後回しになってしまうものです(三ノ宮~上郡は約90キロもある)

開業は1895年の明治28年。その5年前に有年から岡山県に入った三石まで線路が延びていて後から設置された形となっていますが、上郡は古来より播磨の国と備前の国の国境として重要な地域でした。駅舎はおそらく大正期からのものがずっと使用されています

有年の駅前を通る国道2号線は岡山方面へは山中を突っ切るバイパスとなっていますが山陽本線は川沿いを一度北へ向かう形で敷設され、大きく弧を描く形になった線路の北側に位置するのが上郡。奈良時代よりさらに前に山陽道の通り道となり、鎌倉時代から戦国時代にかけては国境を巡る陣取り合戦も繰り広げられました

駅前にはこのような観光案内も

ちなみにこの白旗城への最寄りは智頭急行で2つ先に行った「河野原円心駅」となります

山陽本線最長の駅間

鉄道的には山陽本線の兵庫県西端として重要地域となり、今も上郡発着の電車が設定されています。そのため構内も広い

また県境越えとなる三石までは12・8キロもあり、これは山陽本線最長の駅間となっています。ぜひ車窓を楽しんでほしい区間です

1994年には智頭急行が開業。起点駅となりました。スーパーいなばはJRのホームから発着しますが、他は別ホームで

線路はつながっているものの別駅扱いです

上郡は運行の拠点駅で朝と夜に大阪方面への直通電車も運行されていて新快速の出発、終着駅ともなっています。もちろん直営駅で駅員さんもいますがきっぷ販売については一昨年にみどりの窓口が廃止され、みどりの券売機が設置されています

ちなみに最終電車の到着は深夜0時40分でかなり遅い。こちらは20時43分に米原を出て高槻~明石間は快速として運行される電車ですが4時間もの長時間運行。存在はかなり以前から知っていて、ぜひ乗車してみたいと思ってはいるのですが、では着いてどうするんだと言われると、なかなか厳しいものがあり、長らく保留状態となっています

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青春18きっぷで相生-岡山を途中下車~いきなりメインディッシュの有年駅

有年駅の駅名標

※状況が変化している可能性があります

兵庫県最古の駅舎が存在していた

相生のひとつお隣で、すぐに私にとってのメインディッシュとなってしまいます。これを最後にしたいため、岡山側からたどる方がいいのか真剣に悩んでしまったほど

有年駅です。「うね」と読みます。さりげなく難読駅。これは2016年10月22日の写真です

このような木製の解説が建てられていました。ここにも記されている通り、開業は1890年というから明治23年。当時の山陽鉄道によって一度神戸からの終着駅となりました(間もなく線路は岡山県まで延びる)。こり山陽鉄道は現在の山陽電鉄とは異なっていて十数年後に国有化され、山陽本線となりました

駅舎はその当時からのもので、兵庫県最古の駅舎として長らく知られていました

駅舎内の様子。みどりの窓口こそありませんが駅員さんのいる駅

と同時に工事が行われていて新しいホームの付け替え作業は完成に近づき

新たな橋上駅舎もほぼ完成

使用も一部が開始されたばかりという状況でした

塩で大いに栄えた駅

駅の所在地は赤穂市。赤穂といえば赤穂浪士の時代から今に至るまで「塩」が大きな産業です。ただ鉄道黎明時に赤穂の町中や沿岸部には路線がなく、塩の運搬は課題でもあり、儲け話でもありました

そこで既存の山陽本線まで何とか線路で結ぼうと、いろいろな案が練られました。当時の大きな町で岡山側にも便利な場所は上郡ですが、地図を見れば分かるように山陽本線は大きく北側に迂回するように敷設されていて、ここまで線路を伸ばすのは無理となって指名されたのが有年。赤穂市の中心部から真っ直ぐ北にある。ということで1921年の大正10年に敷設されたのが播州赤穂~有年の赤穂鉄道

接続駅として有年が大いに栄えたことは駅前の解説にもあります

大変分かりやすい

地図の部分だけを拡大するとこのような形。駅の周辺はいろいろな店舗だけでなく、映画館やダンスホールまであり、大いににぎわっていたことが分かります。もちろん今はその光景は一変していますが、国道2号線の有年駅近辺は今も住宅が多く片側1車線の細い道路となっていることに、名残があります

全国各地には石炭などの鉱山や林業で栄えた駅は数多くありますが、塩で繁栄した駅というのは珍しい。赤穂ならではの話です

ただ戦後間もなく現在の赤穂線が相生から分岐して播州赤穂まで開通すると同時に存在意義がないとして赤穂鉄道は廃線。この赤穂線の影響は非常に大きく、元々岡山までの延伸を目的にしていた現在の山陽電鉄は計画を止めてしまいました。今は支線となって山陽網干が終点となっている網干線は現在の赤穂線のルートでの岡山到達を狙っていました。兵庫県内で完了しているにもかかわらず「山陽」という社名だったり、姫路駅に向かう際、本線と網干線の分岐駅である飾磨駅で網干線の線路が直線的で、本線が大きく弧を描いているのが、そのなごりです

長らくの静かな駅が

1951年の赤穂鉄道廃線後はひっそりと暮らしていた有年駅に変化が訪れたのは2010年代に入ってから。駅を訪れると分かるのですが、駅舎とは反対側に新たに宅地が造成され、駅へのアクセスの利便性を図るため橋上駅舎の構想が持ち上がります

それに伴い、明治以来の駅舎は解体となるのですが、由緒ある駅舎を残そうという運動が持ち上がり2016年は、まさにそのまっただ中

ただ翌2017年9月の時点でも、そのままでした

しかし同年12月24日に訪れると

このような案内とともにすっかり駅舎は姿を消していました。しばしぼう然

右にある旧ホームの上に駅舎は建っていました。もう土台が残っているだけ

山陽本線なんて未来永劫、廃線になることはない路線ですが、地方都市にある古い駅舎を残す難しさを痛感した瞬間でした

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青春18きっぷでちょっと途中下車~相生-岡山の各駅紹介

青春18きっぷ

※各駅の施設が変化している可能があります

新快速で楽々移動

青春18きっぷのシーズンまっただ中。夏の18きっぷは期間も長いため、1年を通じて最も利用者が多い期間。今年は7月20日から9月10日までが利用期間となっています

「JR全線の普通列車が乗り放題」というルールの避けられない運命として普通列車で延々と揺られなければならないのですが、JR西日本の東海道本線、山陽本線の米原~姫路間は在来線の特急を追い越しそうになるスピードスター、新快速が走る18キッパーにとっての人気区間です。個人的なオススメはこの区間を利用して四国の高松に渡るコース。岡山からは快速マリンライナーで、こちらもストレスなく乗車できます

ただ、兵庫県と岡山県の県境越えとなる区間は普通のみの運行。しかも姫路~岡山をダイレクトに結ぶ電車は朝と夜にしかなく、昼間はすべてが相生での乗り換えとなります。これが名高い「相生ダッシュ」を生む原因となっています

相生ダッシュのメカニズム

こちらは2019年9月の相生駅での一コマ。18きっぷ期間最後の週末で朝の9時半。最も各地からの利用者が多そうな時間です。姫路からの電車とは同一平面で乗り換えられるのですが、写真に「殺気」があふれています

しかしなぜ相生での乗り換えを強いられるのでしょう?

それは相生以西では赤穂線が「本線扱い」を受けているからです

姫路から相生を経て西へ向かう山陽本線の電車は昼間はすべてが播州赤穂行き。観光地でもあり、沿線人口も多い播州赤穂へ姫路から直接行けるようになっています。相生からの山陽本線は有年、上郡の山中の2駅で岡山との県境に入ってしまうので、次第に播州赤穂方面が優先されるようになりました

しかも相生から岡山へ向かう電車は1時間に1本しかありません。この電車は姫路方面からの播州赤穂行きと平面接続ですぐ発車するため、18きっぷのシーズンは、岡山の電車に向けて殺到する場面が見られるのです

コロナ禍以前は相生発上郡行きという兵庫県内の2区間で完結する電車が1時間に1本あり、こちらも播州赤穂行きへの接続があったため、姫路から相生までは30分に1本の運行で、こちらに乗れば、早めに相生駅に着いて確実に着席するという戦法がとれたのですが、今は昼間は1時間に1本。余裕を持って岡山行きに座れる電車がこの時間帯はなくなってしまいました

また新快速は原則12両編成ですが、姫路で播州赤穂行きに乗り換え、また相生で岡山行きに乗り換えると編成数がどんどん減っていきます。大阪方面からの播州赤穂行きの直通がない時間帯は姫路駅でも座席争奪戦が起きるので、こちらも要注意。特に12両編成の後ろの方に乗っていると、かなり前まで移動しなければならないので留意しなければなりません。姫路までは15分に1本の新快速があるので、こちらこそは余裕をもって姫路で乗り換えたいものです

相生駅周辺は

そんな相生駅ですが、新幹線駅も併設している割に街の中心部から離れているため、駅前はホテルがあるだけで大変寂しい場所となっています

私がよく訪れていたのは道の駅であるあいおい白龍城。これは冬場の写真ですが温泉が併設されていて風呂に入った後、カキオコを食べにいつも来ていました

相生駅からは歩くと30分近くかかりますがバスだと10分程度(歩くのなら赤穂線の西相生から15分で行けます)

相生~岡山間は68キロ。電車だと約1時間。県境越えをはさんで途中12の駅があります

18きっぷのシーズンは、ほとんど乗ったまま通過されることが多いのですが、せっかく乗り放題、降り放題の青春18きっぷです。岡山市内に近づいていくと本数も増えます。どこかで途中下車して風情を味わってみてはいかがでしょうか。順番に駅紹介をしていきたいと思います

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永遠の未成線・名松線を全駅訪問~エピローグは坂道

伊勢石橋駅の駅名標

2023年3月15日

全駅訪問完了はいいものの

井関駅で名松線全14駅(松阪駅のぞく)訪問を終えたのはいいものの、大きな問題があります

当然ですが帰宅しなければならないのです。別の言い方をすれば、ここ井関駅からの脱出。とにかく近鉄の駅へと向かわなければ大阪方面へは帰れない。逆に言うと近鉄のどこかの駅へ行ければ、後は何とでもなります

名松線は路線そのものが行き止まり構造で、家城~伊勢奥津の山中の駅から近鉄の駅へはつながりようがない。家城~松阪間の平野部の駅と近鉄の駅とは、車だとすぐの場所にあるのですが、両者を結ぶバスというのがほとんどないのです

そもそもゴール方法に問題があって、伊勢奥津から松阪行きに乗車して井関で降りた以上、次の松阪行きは2時間後でさすがにそれは待っていられません。ということで乗り継ぎが便利な一志そして松阪での乗り換えは不可能。もっとも逆方向の伊勢奥津行きですら1時間半後ですから、現在の時刻が16時過ぎということもあって、それも待っていられないし、乗ったところで先のアテがありません

道中からどうしようと迷っていたのですが、ひとつ薄いながらアテがあったのは、井関駅だからこそあるバスです。山中から、ここ井関を経て近鉄の川合高岡駅を経由、最後は久居駅に行くバスが1時間に1本ある。これは貴重な存在なのですが、下調べでは、なぜかこの時間だけ2時間空いている。ただバスについては下調べと現実が微妙に異なっていることも過去にかなりあって、それに期待したのですが駅前のバス停でチェックすると、当然のように下調べの通りでした

ということで

またもや徒歩

結局は最後も徒歩ということになりました。最も簡単なのは川合高岡まで行くことでバス道に沿って歩けば30分ちょっとで歩けるはず。しかし調べると、もうひとつ伊勢石橋という駅の方が距離的には近いようです。川合高岡は何度か行ったので、ここは一度も行ったことのない伊勢石橋まで歩いてみることにしましょう

こんな感じの行程となります

井関駅から西へ歩き踏切を渡ると、あとはほぽ一本道のようですが、なかなかの茂みが待ち構えていますね。当然のように難問を突きつけられました

凄い坂が待っていました…泣

地図ではそこまでは分かりません。ただここまで歩いてきた以上、引き返すことはもう無理。今日はかなり歩きましたが上り坂は初めて。携帯アプリがない時代だったら、絶対にあり得ないコース

小さい峠のようになっていて、そこを下って雲出川が見えると川に沿って大きめの集落がありました。ただここから近鉄の駅へはまだかなりの距離があって、珍しい光景だな、と思いつつ

夕陽を眺めながら、今日のお友達である雲出川を渡りましたが、後で調べると伊勢川口の項で触れた中勢鉄道は川沿いにこの集落付近を抜けていて途中には駅跡に駅名標のレプリカも建てられているとか。もっとも、この時の私は疲労困憊、先を目指すことばかりを考えていて、そんな余裕はありませんでした

近鉄大阪線の駅とは思えず

その後、再び農村地帯に入り、進んでいくと架線が見えてきました。これで終わりだと思うとドッと疲れが出てきます。電化区間の駅というのは、写真撮影で架線がじゃまになることも多いですが、遠方から見つける時は便利ですね

その伊勢石橋駅。着いて驚いたのですが

全くのホームだけの駅でした。どうもかつてあった駅舎は撤去されたらしい。中勢鉄道との乗り換え駅の役割も果たしていたようですが、そんな雰囲気はありません

もちろん近鉄大阪線の駅なので複線。両側にホームと待合所があるのみ

こちらが時刻表。少し前まではもっと本数があったのですが、コロナ禍で昼間の運行が1時間に1本となりました。私の到着は17時前でしたので30分間隔の時間帯。名松線と比べると夢のような本数です

ちなみに私が滞在する間、17時という帰宅時間帯だつたにもかかわらず、ホームは私の貸切でした

電車がやって来たので、これで全駅訪問の旅は終了です

ホームはずっと貸切でしたが降りる人も誰もいませんでした。なお、この付近の近鉄の駅では当駅のみ極端に利用者が少なくなっています。他の駅では名松線の1日の乗客より多いのではないか、というほど利用者がいるのですが、事前知識なしで訪れた近鉄の駅がピンポイントで「駅舎なし」「貸切」と名松線の駅と同じワードだったことが、何かこの日を物語っているようでした

なお、気になる名松線の将来についてですが、JR東海の社長は昨年の記者会見でJR各社が軒並み路線ごとの収支を発表する中、東海のみが発表していないことについて「収支という形で発表する予定はない」「(JR東海管内でバス転換や廃線についての)予定は当面ない」と話しています

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永遠の未成線・名松線を全駅訪問~ゴールは不屈の路線のかつての終着駅

井関駅の駅名標

2023年3月15日

伊勢鎌倉15時27分→井関16時10分

伊勢鎌倉から松阪行きに乗ります。井関で降りれば、名松線の14駅(松阪のぞく)の全駅訪問となります。家城はどうやっても長時間停車で訪問となるのですが、先に伊勢奥津、一志、伊勢八太の3駅を終えておいて良かったです。特に伊勢八太に関しては居眠りによる乗り過ごしという副産物。当日は「あちゃー」でしたが、その1駅分が効いています

年明けの訪問では乗客全員が…

話を少しだけ戻します

今年1月8日に伊勢奥津を訪ねた時のこと

この時は前日に廃駅の池の浦シーサイドなどを訪問して松阪泊。翌日は始発で出発。伊勢奥津で折り返して一志で下車。近鉄に乗り換えて津に行き、再びJRに乗車。紀勢本線で亀山→柘植を経て信楽鉄道に乗車しました

年明け早々の日曜日でしたが松阪からの乗車は数人。一志でさらに数人が乗り込んできて、これは雰囲気で分かったのですが、おそらくは同業者(鉄道ファン)ばかり。学校もお休みの始発には地元の方の利用が少ないことは理解しているつもりでしたが、誰も途中駅で降りない。となると、ますます同業者色が濃くなり、降りる時に分かったのですが、11人の乗客全員が青春18きっぷの利用者でした。フリーきっぷの利用は路線の実績になりませんので、数字的には、この日、この時間帯の乗客は0人、運賃収入も0円ということになります

この例で分かるように、名松線の利用者はそう多くない、というかかなり少ない。特に家城から山中に入っていく伊勢奥津までの区間は、そもそも住民が少なく、モータリゼーションの浸透とは異なる側面で利用者が大幅に減っています

名松線が何度も廃線危機に面したことは

この時にも触れましたが、最大の危機は2009年10月の台風被害で家城~伊勢奥津の数十カ所で崩落などの被害が出て、JR東海が打ち出したのは「JR運行によるバス代行」。この山中は過去にもたびたび台風被害を受けており、1982年には全線が10カ月にもわたって運休したこともあります

JR側は「今後も同様の被害に遭う可能性がある」としてJR路線そのままの運賃でのバス転換を提案。公式見解にはありませんでしたが赤字路線だったことが大きな要因であることは明らかです。この時点で、赤字地方交通線の対象から外れた、平行する代替道路未整備の問題は、ほぼ解決していました

これに対し、路線維持を望む津市や三重県の対応は迅速でJR側が出した山間部や河川部の修復や将来にわたる維持責任についても受け入れ、治水、治山工事は自治体が行うことで問題は解決。2016年3月に6年半という長期間の運休を経て全面復旧しました。いわば盲腸線ともいえる路線でのこのような復旧は奇跡的。不屈の路線です

以前の終着駅は利用者最小

井関に到着しました。これで全駅訪問完了。付け加えると、すべての駅で乗車もしくは下車を行うことができました

ちなみに「いせぎ」と読みます。微妙に難読です

名松線は1929年8月に松阪~権現前が開通した後、1930年3月に当駅までが開通しました。1931年9月に家城までが開通したので1年半の間、終着駅だったことになります

ただし現状はこのような感じで、基礎部分が残っているため、ここに駅舎があったと考えられますが、正式な記録が出てきませんでした。構内も広く、かつてはすれ違い可能だったような構造ですが、現在は1面

待合所は古いもののようで財産票があったので見ると

1929年(昭4)とありました。駅の開業は1930年3月なので3カ月もさかのぼって待合所ができたことになりますが、古いものであることは間違いないようです

この井関駅ですが、松阪~一志と伊勢大井~家城の平野部のちょうど中間にあり、この部分だけが山中となっていて周囲に民家は少ない。利用者は名松線で最小となっています

ある意味、ゴールにふさわしい場所だったかもしれません

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