JR西日本

福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~超難読駅は開業時からの駅舎が残る貴重な存在

万能倉駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

両隣も全く漢字が浮かばない

万能倉駅に到着。狭いホームでの列車交換が行われると平日の9時半というラッシュ終了後の時間帯でもホームは人があふれる

さてサムネにも使用した駅名標の写真をあえてもう1度使用する

当駅もそうだが既出の「みちのうえ」そして「えきや」。初見で3駅を漢字で書ける人は、まずいないだろう。当駅は、かつてあった万能倉村に基づく。ただし駅が開業した1914年(大正3)には周辺の複数の村と合併して駅家村(駅名標の行先のひとつはこう書く)となっていた。ただ駅家村の誕生は1913年と駅が設置される1年前なので、すでに駅名は決まっていたのかもしれない。駅の所在地は今も福山市大字万能倉で地名として残る

かつての山陽道の宿に近く、多くの倉庫があったことが地名の由来ともされる。またこれは駅家の由来にも通じるものがあるのだが、馬の鞍を作る場所があり「ウマノクラ」がなまって「マナグラ」になったという説もあるという。いずれにせよ超難読であることは間違いない。そもそも最後の「倉」が「グラ」と濁音付きになるのが難読に輪をかけている。かくいう私も、今こうして記事を書くまでは「マナクラ」だと思い込んでいて「えっ?」となった次第

開業時からの駅舎

駅舎それも簡易的ではない古いものが残る。規模は小さくなり、手も入っているが、原型は開業時からのものだろう。これは福塩南線においては重要なことで、沿線には古い駅舎がほとんど残っていないのである。というか、ちゃんとした駅舎を見かけることが少ない。そもそも駅舎があったのか、いつ解体されたのかも調べても分からない駅が多い。その中で当駅については10年以上前に無人化されながら、現在もそのままである

改札は消えたが、窓口の跡もしっかり残る

ひとつの要因として、当駅折り返しの列車が設定されていたことがあるのかもしれない。1日に1本、福山をお昼の13時台に出て当駅が終着、15分ほど待機した後に福山行きとして折り返す電車があったが、2021年秋のダイヤ改正で消滅した。湯田村駅の項でも触れたが、現在の福塩南線は1日3往復の井原鉄道直通乗り入れ以外の電車はすべて福山~府中の運行で、区間運転はない。福山を13時台に出る府中行きはないので注意が必要である(井原鉄道乗り入れが1本あるので神辺までは行くことができる)

大正期からの息吹を難読の駅名と合わせて伝える万能倉駅。勝手な考えかもしれないが、難読駅には古い駅舎が似合う気がする。ただ沿線内の様子を眺めていくと駅舎がこのままの姿で残る可能性は小さい気がしてならない。早いうちに木造駅舎の入口に乗っかる「万能倉 MANAGURA STATION」の文字を見つめにいってほしい

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~情緒ある踏切をまたいでの参拝

湯田村駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

わずか900メートル

道上駅から湯田村駅に到着。福山を出て神辺を過ぎ道上まで行って1駅戻ったことになる。既に1時間に1本の運行時間に入りつつあり、呉線もそうだったが、効率良く回るには行って戻ってを繰り返すことになる

もっとも軽便鉄道をルーツとする福塩南線の特徴は駅間が短いことで、道上から湯田村までの線路は900メートルしかない

線路と並行して道路があるわけではないが、それでも15分歩けば到着してしまう距離。福塩南線訪問にあたり「時刻表も確認せずに出発」と記したが、時刻表の空き時間が多ければ歩いてしまえばいい区間だらけだからだ。ただ「降り鉄」を名乗るからには、できるだけ「乗降」の両方をこなしたいのが性(さが)というもの。せっかくの青春18きっぷである。ここは900メートルをありがたく乗らせていただくことにする

3つの村が集まった湯田村

湯田村は旧神辺町の中心駅である神辺の隣駅。ここからICOCA非対応区間となるが、福塩南線は神辺から分岐する形となっている井原鉄道と相互乗り入れの1日3往復を除くと、すべての列車が福山~府中の運行で途中区間の運行はないため列車本数は変わらない

訪問時は工事中だったが単式ホームと待合所のみの構造

裏側にベンチがある

歴史を振り返ると昭和40年代に無人化されたらしいので、当時は駅舎があったとも思われ、ホーム屋根の形を見ると島式ホームだった雰囲気もあるが、判然としなかった

工事をのぞいてみると簡易駅舎の建築中のようだ。現在は完成していると思われる。駅入口の階段に設けられそうな屋根の骨組みが木製だったので完成形が気になるところだ

駅名は旧湯田村に基づく。駅の住所は「福山市神辺町德田(字)」。明治の町村制施行の際「湯野村」「德田村」「箱田村」が合併。3つの村名を合わせ湯田村とした。1954年(昭和29)に神辺町となった。駅の開業は1914年(大正3)

ちなみに「湯野駅」は現在、井原鉄道に存在する。神辺のひとつお隣。こちらは平成になって開業した駅だが、かつて神辺~井原を結んでいた井笠鉄道にも湯野駅が存在した。話の本筋からやや離れるが、福塩南線を敷設した両備軽便鉄道は「両備」の会社名で分かる通り、備後と備中を結ぶためのもので、井笠鉄道の前身も両備軽便鉄道である。湯野駅の開業は1922年だが工事はかなり前に始まっていて、すでに湯野駅は計画にあったとみられる。箱田も駅から比較的近く、駅名を地名通り德田ではなく「湯田村」としたことに苦労の跡がみられる

ホームからの気になる景色

ホームに立つとお寺が見える。駅舎と逆側にあり、車が入っていくところが見えたが踏切と直結しているようでもある。これは気になる。見に行こう

お寺は賽泉寺。グーグル地図も参道入口からの徒歩コースを指南してくれる

奥に境内が、その手前に踏切が見える

歩を進めると踏切とお寺の入口が見えてくる

名前は、そのまま寺前踏切。湯田村駅の構内扱いになっているようだ。寺社の参拝道や入口前を線路が通っている例は全国に数あるが、どうやっても「勝手踏切」でしか行けない場所も見たことがある。地元では暗黙の了解での参拝となっているようだが、不法を助長することになりかねないので紹介は控えている。ただもちろん、ここは堂々と参拝することができる。踏切と寺社のコントラストって絵になりますね

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~これは貴重なホームからの眺め

道上駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

ICOCA圏外の最初の駅

道上駅に到着。神辺駅から北へ2駅。ICOCAは福山~神辺のわずか3区間のみでしか利用できないので圏外となっている。ただ福塩南線の各駅は1日の利用者が千人を超える駅が14駅中7駅もあり(福山のぞく)、これは2021年とコロナ禍での数字なので、その後は増えている可能性が高い。前記事で述べたように2007年に神辺までがIC乗車対応となってから17年もエリアが広がっていないのが不思議なぐらいだ。IC非対応ということでワンマン電車での運行の際は運転士さんの仕事も増える。道上駅の1日の利用者も1088人で私の訪問時は朝の9時だったが、後に福山方面への電車に乗ろうとするとホームには多くの人が立っていた

当駅は単式ホーム。写真にあるホーム柵と駐輪場の間のスペースは貨物ヤード跡のようである

駅舎といえるものはなく、待合所があるのみ。備後本庄と横尾はICOCA導入で形が変わったが、これが福塩南線の標準形である。国鉄時代、早々に無人化されているので、かつての駅舎についての情報は分からなかった。道路とホームの高低はあまりなく、短いスロープから直接ホームに入る

こちらが駅の全景。踏切の傍らに狭い駅前+ホームという私鉄駅のような風情が残る

元々は道上村

読みは「みちのうえ」。「の」が入るのがポイントで意外と難読。開業は福塩南線の多くの駅と同様に1914年(大正3)と古い。現在は福山市だが、平成の大合併までは神辺町。さらにさかのぼると駅の設置時は道上村だった。1954年(昭和29)に神辺町となっている

周辺には住宅街が広がっていて、駅の所在地は「福山市神辺町字道上」だが、少なくとも「村」の雰囲気はない。1日の利用者が千人を超えるのも納得できる

ビックリの発見に心躍る

各駅訪問のため、ここで福山行きの列車で折り返す。ホームに人も増えてきたので、私もそろそろ…とホームに戻ってぼんやりしていると

先ほどの踏切方面で何やら発見

こ、これは…

「国鉄旅行連絡所」の文字が残っている

国鉄旅行といえば

芸備線の市岡駅で看板がはがされていたことに衝撃を受けたことを記事にした。時系列的には、ここ道上駅が1月、市岡駅が4月なので道上駅が先なので、道後山駅(芸備線)、市岡駅に次ぐ3駅目の「国鉄旅行」の文字発見に大いに心躍り、3カ月後に市岡でガッカリすることになる(道後山の現状は不明)。しかし市岡駅の記事でも述べたように国鉄旅行の連絡所が何をする所なのかは国鉄を20代前半まで利用した私にも分からない。ただ現在は閉店しているこの駅前店舗では一時きっぷの委託販売をしていたようだ

道後山駅の訪問(乗降)は難易度が高いが、道上駅は福山から20分で行けて昼間でも電車の本数は1時間に1本は確保されているので、いつまで残るのか分からない貴重な看板を見に行ってほしい。もっとも看板を近くで撮影しようとすると、明らかに私有地の中となるので撮影はホームからということだけは厳守である

それが「思いやりの駅」にふさわしい行動だと思う

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~利用者数にホーム幅が追いつかず増設

横尾駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

あえて混雑時を狙った結果

横尾駅で下車。ご覧の通り高校生の通学時間と重なり、ホームはあふれんばかり。電車内も一斉にガラガラになってしまった。写真を見れば分かるが、ホームの片側には柵があり、その向こうにも電車が停まっている。これは福山行きの電車で福塩線は全線が単線のため、列車交換可能駅の当駅では同時刻の列車到着が見られる

もちろんすれ違いを行った両方の電車に生徒さんは乗っていて電車が去った後も改札方面へと向かう人の波は終わらない

ようやく波が終わろうとしている時の跨線橋からの様子。ホーム構造は変則2面2線で右側のホームは島式としても使えそうだが、前述した通り柵があって使えない。というか、あまりにも不自然な形である。どう見ても島式1面2線構造に後から駅舎側にホームを新設したとしか思えない

その証拠に

柵の向こうに福山方面への乗車口が今も残っている。柵があって間違うこともないからか、消されていない。今回は混雑ぶりを見るため、あえてこの時間帯を狙ってみた

IC乗車は当駅のため?

横尾駅は1914年(大正3)に福塩南線の前身となる両備軽便鉄道が開業した際に設置された。現在は福山市郊外の住宅地となっていて利用者は多く、2021年の1日の利用者(乗降客)は1538人。福塩線では神辺駅、府中駅に次ぐ第3位(福山駅のぞく)。それを支えるのが高校野球の強豪校としても知られる盈進中学高等学校への通学利用

駅から見ると山の上に学校がある形となっている。学校のHPによると徒歩15分。利用者数は第3位と記したが、井原鉄道との乗換駅である神辺が2068人で、やや突き抜けているものの府中は1544人で横尾とは6人しか変わらない。コロナ禍で大きな影響を受けていたのが学校生活だということを考えると再び逆転している可能性が高い

前記事の備後本庄駅の紹介でレールがはがされ棒状化されたホームを紹介したが、それは列車交換の設備を横尾へ移動させたためである(正式には復活)。通学時に多くの利用があって、どうせ長めの停車を強いられるのなら、すれ違いの駅にしようという考えに基づくものとも思われるが、単式ホーム幅のまま島式ホームにした結果、人の多さでホームが狭すぎ危険な状態となったため、新たにホームが新設された

福塩線では福山~神辺がIC乗車可能区間となっているが、対象となる駅は備後本庄、横尾、神辺のわずか3駅のみ。利用者の多い駅を対象にしたとも言えるが、同時刻に集まる生徒さんを一斉にさばくための措置でもあるようだ。この区間がIC乗車可能になったのは2007年のことだが、それ以降17年が経ってもICエリアは広がっていない

簡素な駅舎からの車窓に注目

駅舎は簡素なものである。元々あった開業時からの駅舎はJR移管後に解体されて待合所のみの駅となったが、後に備後本庄と同じく少し駅舎ぽく改良された

こちらもJR西日本の駅でよく見かける簡易式の自動改札機を設置するにあたって自然から改札機を守るためのものだろう

さて前記事で横尾~福山で線路の付け替えが行われ、現在の線形になった話をしたが、そのため横尾~備後本庄は福塩南線では最長の4・3キロもある。2位が横尾~神辺の2・3キロなので、かなり長い。線路を市街地から川沿いにしたための現象だが、比較的住宅街を走る福塩南線で車窓が楽しめる区間なので乗車の際は、ぜひ注目してほしい

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~化粧直しもされた国鉄時代からの駅名標があまりにも有名

備後本庄駅の駅名標

※訪問は2024年1月10日

逆向き発車に驚くかも

乗車列車は井原鉄道のアート列車だが、私は1駅目の備後本庄で下車した

初めて福山から福塩線に乗ると自分のイメージした方向とは逆に発車するので驚くかもしれないが、それもそのはずで福山を離れた線路はグルリと迂回するかのように進んでいく

福山を離れると間もなく備後本庄に到着するが、その後は芦田川に沿うように北上し、横尾駅へと至る。実に不自然な線路の進み方となっているが、これは開業してしばらく経過してから線路の付け替えが行われたため

福塩南線の福山~府中は両備鉄道という私鉄が軽便鉄道として敷設したもの。開業は1914年(大正3)なので110年もの時を刻んでいる。業績は好調だったようで、昭和の声を聞いた1927年(昭和2)には同社の手により電化されている

その後、国有化して福山と三次をつなげようということになり1933年に国有化。現在の塩町から府中を目指して南下しながら部分開業していったが、すでにあった福塩南線は線路幅762ミリのナローゲージで、そのままでいいはずがない。国鉄と同じ1067ミリへと改軌される。しかしその際に元の線形が問題となった。地図を見れば一目瞭然だが、以前は横尾駅から現在は国道313号となったルートで福山を目指し、市街地に入ったらグイッと西向きに進んで現在の福山駅の北あたりで南下。福山城の堀を埋めて両備福山という始終着の駅が設けられていた

ただこれはあくまで小回りの効くナローゲージならではの線形で、1067ミリの車両は対応できないということとなり現在のルートが新たに敷設された。1935年のことだ。両備福山は廃止され、福塩線は既存の福山駅に入居。しばらく福山~横尾に駅は設けられなかったが、戦時色の強くなった1940年に備後本庄駅が新設開業した。福塩南線の他駅はすべて大正生まれで、当駅が唯一の昭和生まれである

片方だけ残るホームと線路

駅舎は簡素な造りのもの。開業時からの木造駅舎は1990年代に解体され待合所のみとホームのみの駅となったが、ICOCA導入の2007年に入口が設けられて駅舎ぼくなった

対面式だったホームは片方の線路がはがされ廃ホームのみが残るが、ここには貴重なものが残されている

国鉄時代の駅名標。独特の字体で鉄道ファンには有名である。行ったことはないが駅名標の存在は知っているという人も多いのではないだろうか。しかも歳月を重ねると塗装がはがれて読めなくなっていくものだが、明らかに化粧直しの「更新」が行われている。貴重さが認められているということだろう。福塩南線というのは、なかなか興味深い一面を持っていて、線路がはがされ棒状ホームになった駅があると思うと、その一方で利用者の増加対策で新たにホームができた駅もある。また国鉄時代の旧駅名標が残る駅は他にもあるのだが、こちらはあまり話題になっていない

そんな福塩南線を進んでいきます

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福塩南線14駅の全駅訪問を目指す~南線の時刻表は確認せずとも

福山駅始発の井原鉄道はアート列車だった

※訪問は2024年1月10日

スタートは1区間のみ運行の電車

年明け早々に呉線の全駅訪問を終えて三原に宿泊

朝のまだ暗い三原駅-と言っても、真冬の西国の朝は遅めですでに7時を回っている

7時22分三原始発の糸原行きという1区間のみ運行の電車に乗車。乗ったら3分で終点となってしまうが、糸崎には多数の留置線と乗務員のための列車区があるため、この運用はかなり多い。糸崎始発の岡山方面行きにすぐ乗り継ぎできるようになっている。ちなみにこの後すぐ出るのは同じく三原始発だが相生行き。こちらは通勤通学のラッシュを挟んで3時間もの電車旅を楽しめるというか、修行ができる18きっぱー向けの乗り物である

その青春18きっぷは本日が最終日。いつも最後の方でバタバタと使い切ることを繰り返しているが、最後は福塩南線の全駅訪問を行って帰宅の予定である

福塩南線とは

まず最初に触れると「福塩南線」という路線はない。戦前には正式路線としての名称があったが、福山と塩町(ともに広島県)の78キロを結ぶ福塩線が正式な路線名。ただ電化と非電化、本数、駅間距離そして何より利用者があまりに異なりすぎて福山~府中23キロの戦前の名称が今も通称として使われている。簡単言うと私鉄に源流を持ち電化されている福塩南線と国鉄が敷設した非電化の福塩北線という構図。鉄オタ界隈では府中以北の福塩北線55キロの方が人気が高く、かくいう私も福塩南線は過去何度も利用しながら、いつでも行けるだろうと先送りを繰り返し、降りた途中駅はわずか。せっかくここまで来たのだから、今日は全駅訪問を目指すことにした。といっても朝から動けば大丈夫だろうと正直な話、時刻表もロクに見ていない。23キロの間には14もの駅があり(福山のぞく)、10時ごろから1時間に1本の運行になってしまうが、朝からの雨が気になるものの、まず問題ないだろう。その理由は今後述べていく

ただ14駅といっても過去に複数訪れたことのある

神辺駅

新市駅

府中駅は今回はパスすることにした。ということで残る11駅なので、さらに負担は減る。もっともこれも今後の記事内で述べていくことになるが、思いつきのように各駅訪問ができる福塩南線に対し、福塩北線の各駅訪問には「綿密な計画」と「根性」が必要である

今冬の18きっぷ最初で最後の気動車

福山駅のホームで待っていたのは井原鉄道直通の列車。井原鉄道は神辺からの第三セクターだが、1日3往復が福塩線乗り入れで運行されている。午前中の乗り入れ列車はこの1本のみ。偶然ながら貴重な1本に乗れたことになる。今冬の18きっぷ利用は外房線×2、東海道本線、呉線で使用。福塩南線も電化路線なので電車のみの利用となるのかと思っていたら、最初で最後の気動車に乗車できることになった

さらに幸運なことに乗車列車は2両編成で先頭部分が

アート列車だった。井原鉄道HPでアート列車の運行時刻が公開されていて連日福山までやって来るものではないらしいので超幸運

切手をコンセプトにしたもので、これでは車窓が見えないのでは、と思ってしまうが現実にはそんなことはない。また内装も素晴らしいので、ぜひ味わってほしいのだが、いかんせん車両はほぼ女子高校生専用のようになっていて、これでは写真は撮れない(笑)。内装も外装も井原鉄道HPでパノラマ的に見ることができる。何よりぜひ乗車してほしい

ということで、かなり得した気分になって福山を出発である

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~最後までとっておいた呉駅で締める

呉駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

26番目の駅はやはり

呉線で最後の紹介となる26駅目(三原、海田市をのぞく)

呉に到着。訪問そのものは初めてではなく、90年代の終わりごろ二河球場によく来たので、その度に呉駅で降りていた。ただし駅周辺は大きく景色が変わっていて、特に南側はかつての巨大な貨物ヤード跡が残っていたが、再開発ですっかり姿を消していた

足かけ2年に及ぶ呉線訪問で、何度も当駅を通過したが、最初は車窓の変化に驚いた

観光で訪れる人の多くは、南側へと向かう。駅と直結となるペデストリアンデッキでゆめタウンを経由して大和ミュージアムにそのまま行けるからだ

観光用の駅名標にも、もちろん戦艦「大和」が描かれているし、列車の接近メロディーは「宇宙戦艦ヤマト」である

戦前にコンクリート駅舎

北側の駅舎は私の記憶にあるものだ

現在の駅舎は4代目。JR移管を翌年に控えた1986年(昭和61)に完成した。呉線以外の乗り入れがないにもかかわらず、1903年(明治36)の開業から4代目というのは、かなりの建て替えの多さだが、これは戦争を挟んでいるため。明治生まれの初代はもちろん木造駅舎だったが、20年後の1923年(大正12)には、早くも2代目駅舎となっている。当時としては画期的なコンクリート駅舎で呉以東の三原への工事が決まったこともあり、軍都・呉にふさわしいものを、と建て替えられた。なお呉駅を出てすぐ東側は高架となっているが、これは建設時からのもので、昭和初期の車も少ない地方路線だということを考えると画期的。「踏切が多いと軍需輸送の際、妨げになる」という軍のアピールで高架化された

地方路線とはいっても、終戦時の人口は40万人と呉市は全国でも指折りの人口を誇った都市だった。市内を路面電車が走っていたことからも都市需要が大きかったことが分かる

しかし立派な2代目駅舎は1945年7月の空襲によって全焼。全焼というより壊滅に近いものだったという。それでも軍都への鉄路は重要だということで空襲の直後には仮駅舎が建てられ、終戦間もない同年8月には3代目駅舎建設が始まり、翌年5月には完成している。早すぎる復興だが、これは呉を占拠した連合軍が鉄道を必要としたからで、東京と呉を結ぶ連合軍の専用列車も運行を開始した。連合軍は呉市電の復旧も手助けしている。さんざん壊滅させておいて、即座に復旧に協力したことになる

呉線の思い出

すでにコンビニおにぎりで昼食は終わっているので、駅ビル内のロッテリアで一休み。呉線の中で駅ビルがあって多数のテナントが軒を並べているのは当駅のみである

前記事でも触れたが、路線内でみどりの窓口があるのは新広と呉だけで、特に呉には立派なものがある。ただ営業時間は短く、お昼休みの間はみどりの券売機を利用する旨が(駅員さんは改札に常駐している)。時計を見ると14時15分。営業再開まで45分もあるが、おそらくきっぷの変更か払い戻しだろうか、お年寄り夫妻がきっぷを手に待っていたことだけを報告しておく

ホームは2面3線構造。広と当駅間は、昼間は快速のみの運転(広~呉は各駅停車で呉から快速運転となる)で普通は当駅で始終着となる。2、3番線は広島方面だが、3番線は一部三原方面への列車も出るので番線案内には何も書かれていない

呉線を初めて利用したのは小学生の広島への修学旅行の時だった。今にして思うと新幹線が暫定的に岡山まで延伸されていた絶妙のタイミングだったが、岡山から広島までは呉線経由の急行。「こんな海沿いを通るんだ」と思ったことだけを覚えている

山陽本線の地図を見ると赤穂線、呉線、岩徳線のバイパス的な3路線があり、それぞれの歴史を背負っているが、幹線は呉線のみで他は地方交通線である

かつて東京や大阪からの直通列車が走っていた経緯もあって、山陽本線の三原~海田市の途中下車可能な乗車券を持っている場合は、呉線内の各駅でも途中下車は可能である。ただし三原近辺の駅へ行く場合は海田市経由か三原経由かで運賃は異なる(IC乗車だと必然的に同料金となる)。また矢野駅が広島市内となっているため、該当のきっぷへの注意書きが大きく書かれている。矢野までが330円で広島までが510円なので目立つよう喚起する必要がありそうだ

これで26駅すべての紹介が終わったが、駅の紹介をしている課程で仁方駅が簡易駅舎になってしまったことを知った。1日に900人もが利用する駅としては寂しいニュースだが、かつては長大編成の列車が走っていた呉線の各駅には戦前からの駅にも平成に入ってからの駅にも、歴史と理由があることを知った各駅訪問だった

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~路線内で最も新しい駅は利用者数第4位

新広駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

広駅とは至近

新広に到着。時刻は13時40分と平日の昼間だったが、ホームが小さいこともあって利用者が多く感じる

開業は2002年で呉線では最も新しい駅。一番若い駅ながら1日の利用者数(2021年)は5628人で路線内4位(三原、海田市をのぞく。以下の路線内も同様)を誇る。1位はもちろん呉で2位は矢野で、ここまでが1万人以上。3位は広で5760人だから、新広と広はほぼ同数といえる

広と新広は極めて近く

なぜかグーグル先生は徒歩ルートだと、駅舎と逆側にある労災病院経由の歩き方ばかりを指南してくるので自動車ルートにしたが、20分もあれば十分歩ける距離。新広~広は線路だと1・3キロしか離れていない。また逆側の安芸阿賀ともわずか1・4キロ。元々近かった広~安芸阿賀の間で、かゆい所に手が届くように設置された形だ

みどりの窓口は呉以外では当駅のみ

みどりの窓口がある。昼間は長時間の休憩がある(実は呉駅も同様)ものの、この2~3年でバタバタとみどりの窓口が営業終了したため、路線内でみどりの窓口があるのは呉と当駅の2駅のみ

そのみどりの窓口も路線内では最も新しく、設置は2017年と、ついこの間のこと

おしゃれな駅舎である。元々は簡易委託駅としてスタートしたが、利用者が増加したため開閉式の自動改札機とみどりの窓口が設置された

利用者が多いのは駅を降りると分かる

駅前ロータリーを行くと広島国際大学の呉キャンパスがあり、高校もある。正面に見えるのは消防署

呉市の支所や図書館も備えた広市民センター。2007年に完成した。先述した労災病院は駅に隣接する形となっていて、駅舎と逆側にあるが、バリアフリーで移動できる

こちらは駅前にあった周辺地図

いろいろな施設が駅付近に集まっているため、利用者が設置時の想定よりはるかに多くなったため、呉市も出資する形で駅の改良が行われた

2016年の呉市の発表によると設置時は2400人だった利用者の想定が3642人となり、駅の利便性を高める整備事業を行うこととなり、JR西日本と協力してホームの拡幅やみどりの窓口を設置し、1億7461万円(予定)を呉市が負担することになった、とある。つまり自動改札機もみどりの窓口も市の出資によるものだ。とはいえ、昨今の状況からみどりの窓口の営業がいつまでも続くとは限らないが

窓口の営業時間帯の問題もあるだろうが、呉線の全駅訪問で私が駅員さんにきっぷを提示したのは、呉、竹原そして当駅の3駅だけだった

狭いスペースに駅が設置されているため、ホームは単式。乗り間違えがないよう、複数の注意書きがある

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~全線開通へ三原への第一歩は30年経ってから

安芸阿賀駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

路面電車が先行

安芸阿賀駅に到着。駅名標で分かる通り、呉のひとつ三原寄り。呉線は海田市から呉までが1903年(明治36)に開業したが、当駅の開業は1935年(昭和10)。1区間の延伸に30年以上かかったことになる。広島と海軍の呉鎮守府を結ぶことが当初の目的だったため、その後の延伸については動きが鈍かった。しかし「東京から直通列車で海軍基地まで行けないのはどういうことか」と論議が高まり、1927年(昭和2)にようやく三原と呉の両方から延伸工事が開始された。三原からは1930年に須波までが開業したのを皮切りに順調に線路が伸び、1932年には竹原までたどり着いたが、呉側からがなかなか進まなかった。呉と安芸阿賀駅の間の休山(やすみやま)トンネルが2・5キロにも及ぶ長大トンネルで難工事だったため。貫通したのは工事開始から6年も経った1933年のことだった

こちらは駅前の地図。呉線の広以西は新駅や復活駅が多く駅間は短いが、呉と安芸阿賀は4・1キロと比較的長いのはこのためだ。呉市の中心部とは休山を挟んだ位置にあり、元は阿賀町だったが、1928年に呉市に編入され、安芸阿賀駅の開業時はすでに呉市となっていた

もっとも呉の中心部と阿賀とは、山を回り込むように走っていた後の呉市電となる路面電車で1927年につながっていた。路面電車が走るほど呉市は大規模な街だったことが分かる

かつては松山行きのフェリーも

現在の橋上駅舎は2006年(平18)から。それまでは開業時からの木造駅舎だったが、構内の南側にあった側線を撤去する形で従来駅舎があった北側だけでなく南口が設けられた

南側は海側。以前紹介した

松山市の堀江駅。仁方駅との連絡船の四国側の駅だったが、この記事でも紹介したように堀江港と阿賀港とは仁堀航路とは別に呉・松山フェリーが開設され、結果的に仁堀連絡船の客を奪うことになった。その呉・松山フェリーも2008年に安芸阿賀駅から車で10分と、かなり遠い場所に乗り場が変更され、翌年に航路廃止となった。新駅舎から間もなくのことだった

開閉式の自動改札機が設置されている

張り紙にもある通り、昨年9月いっぱいでみどりの窓口は営業を終了した。みどりの券売機が設置されている。無人駅ではないが、昼間と夜間は無人駅になるようだ

ホームは2面2線。後から張り付けた広方面の案内が印象的だった

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~呉線で唯一の特定都区市内に存在する駅

矢野駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

「特定の特例」を生む

坂から1駅広島方面へと進んで矢野に到着。両駅とも快速停車駅(朝の一部広島行きをのぞく)なので移動は楽々である

こちらは駅名標。お隣は山陽本線との分岐駅である海田市。海田市は山陽本線の駅ということになるので、広島から来ると最初の駅となる

駅名標には「広」マーク。これは乗車券のルール上、広島市内の駅であることを示すもの。乗車券には「特例都区市内」という設定があり、201キロを超えるきっぷを買って、その発駅や着駅がこの設定区域に入ると、すべて中心地となる駅からのものとして計算する。大都市で適用され、大都市には駅が多く1駅ごとに発券すると面倒だということで、今回の例だと広島市内にある駅はすべて広島駅発着で計算してしまおうという制度。乗車券は101キロを超えると途中下車できるが(大都市近郊区間内ではできない)、この制度は201キロを超えると適用される。現在は11都市で12の区域(東京は23区と山手線が存在)が指定されている

広島駅に発着が集約されていることで得をすることも損をすることもあるが、今回はきっぷのルールが主目的ではないので、その部分は触れない。ただ201キロを超え「広島市内」と書かれたきっぷを持っていた場合は途中下車ができず、西側から山陽本線を来た場合、海田市で一度降りてしまうと、きっぷは回収され、海田市~矢野の乗車券を別途購入しなければならない。ただ坂までのきっぷだと途中下車は可能となる

矢野は呉線の駅では唯一、広島市内にある駅で当然、広島市内マークが駅名標に付いているわけで、先ほど例に出した海田市にも

広島市内マークが付いているが、海田市駅の所在地は広島市ではなく安芸郡海田町。ちなみに広島寄りの向洋駅も府中町。なぜこのようなことになっているかというと矢野が広島市の飛び地にあるためだ

呉線で2番目に利用者の多い駅

矢野と同じ理由で山陽本線の海田市以東の安芸中野、中野東、瀬野の3駅も飛び地にある広島市内駅となっている。平成の大合併のはるか前、瀬野川町が1973年に広島市となったことで安芸中野、瀬野の2駅が広島市内の駅となった(中野東は広島市となってから開業)。1975年に矢野町も広島市となり、矢野駅も広島市内の駅に。基本的には行政上、広島市にある駅は広島市内駅となるので、そのような扱いとなるが、向洋と海田市を広島市内駅扱いにしないと便宜上、不都合が生じるので安芸中野と同じタイミングで広島市内駅となった

矢野駅は坂駅と同じ1903年(明治36)の開業。呉線の最初の駅のひとつ。当時は矢野村だった。

1日の利用者は1万1924人(2021年)で呉線では2番目に多い。ちなみに呉線内で1万人を超える駅は呉(1万6266人)と当駅だけ

2008年からの橋上駅舎前にはズラリとタクシーが並んでいた。駅舎は矢野の代表産業だった日本髪の添え髪をモチーフにしているという

矢野は天然の良港がある上、海以外の三方を山で囲まれ防御面でも優れているため、古来から時の為政者に重宝され、平安時代末期から街作りが行われ、鎌倉時代末期から戦国時代にかけては幾度も激しい攻防戦が行われた

みどりの窓口は4年前に営業を終え、みどりの券売機にプラスしてオペレーターとの会話機能が付いたみどりの券売機プラスが設置されている。駅員さんは主に昼間の時間帯は不在となるようだ

構内にはセブンイレブンもある。矢野駅到着は12時すぎ。坂そして当駅と昼食を摂る場所はいくらでもあったが

メシよりもダイヤ優先である。いつものパターンでコンビニおにぎりが今日も昼食である

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