JR東海

10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その6 朝から普通も通過の洗礼

温田駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

青空フリーパスを手に

朝の飯田駅。路線内では貴重な光る駅名標がまぶしい。そして手にあるのは

正確に数えてはいないが、当ブログではおそらく青春18きっぷの次に利用頻度が高い青空フリーパス。今日は飯田から豊橋まで徐々に南下して帰路に着くので心強い味方。飯田から豊橋までの運賃は2640円(なかなか絶妙な料金設定だ)なので、どこかで1駅でも後戻りすれば、元はとれる。そもそも豊橋から名古屋までは在来線に乗車して名古屋から新幹線に乗るつもりなので、その時点で元はとっていることになる

本当は飯田駅で買ってあげたかったが、窓口の休憩時間などがあるかどうかも分からなかったので念のために前日の新幹線からしなのへの乗り換えの際、名古屋駅で買っておいた(結論としては飯田駅の窓口はずっと開いているようだった)

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時刻表の小文字に注目

単色の案内表示が新鮮に見える朝7時前の飯田駅。7時5分の豊橋行きに乗る。当然だが豊橋に直行するわけではない。この列車の豊橋着は11時16分で4時間という鈍行旅。1時間も同じ乗り物に乗ると飽きてしまう私には無理。目指すは鉄オタ界隈では新幹線の駅並みに著名な田本である。ただ案内表示には赤文字で「停車しません」と流れている

文字が小さくて分かりにくいかもしれないが、時刻表には何やら書き込みがある。当該列車には※印が打たれていて、いくつかの駅を通過する旨が下にあり、その中には当然のように田本もある。「各駅停車」はすべての駅に停車するものだが「普通」は通過駅も存在する。つまり、この列車に乗っても田本は通過してしまうのだが、方法はあり、ひとつ向こうの温田まで行って引き返すと比較的簡単に田本まで行ける。もっともこのような方法で「簡単に」田本に行くのは同業者(鉄道ファン)しかいないだろうけど

貸切列車で向かうと…読めません

ということで約1時間かけてまずは温田へと向かう

日曜の朝7時とあって、私が乗った車両は見事に貸切だった

飯田や駒ヶ根、そして豊橋近辺など生活圏の電車という側面と全くの山中を走る秘境列車という2つの側面を持つ飯田線だが、飯田市の郊外を過ぎるとすっかり山中の鉄道となった。そして

温田に到着。当駅では列車交換の待ち合わせがあり、8時1分に到着した豊橋行きがしばらく停車。飯田行きを待ち受け、すれ違いをした後にまた別れていく。飯田行きの発車は8時8分なので、少しだけ時間がある

渋い木造駅舎が残る。1935年(昭和10)に三信鉄道によって設置された。飯田線の元の形が複数の私鉄なのは有名だが、辰野から天竜峡までを伊那電気鉄道が、豊橋から三河川合までを豊川鉄道と鳳来寺鉄道が敷設。そしてその間を結んだのが三信鉄道である。三河と信州を結ぶので1文字ずつとって鉄道名とした。つまり静岡県も含む県境の山深い部分を担ったため、飯田線の「有名駅」は、ほとんどが三信鉄道が開業させた駅である。駅舎は戦後に改築されたもののようだ

そしてサムネの写真を改めて掲載する

駅名は「ほ~」という感じがするが、自治体名にはルビがない。「やすおか」村と読む

そして、ここ温田は村役場ともうひとつ、天竜川の向こうとなる阿南町の玄関口としても機能している

駅の場所が泰阜村のかなり南の方にあるため、JRの駅としては門島の方が近いが、道路事情などから温田駅が2つの自治体の玄関口となっている。病院や学校は徒歩圏内。特急「伊那路」停車駅で2022年の1日あたりの乗降客数は302人と付近の駅と比べるとかなり多い。上下列車が同時刻発車ということもあって、駅にはかなりのお客さんがいた

駅からの天竜川の眺め

上下列車が格好良く並んだところで、いよいよ田本に向けて出発しよう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その5 リニアの到着を待つ県第5の都市

飯田駅の駅名標

※訪問は2024年10月26日

14年ぶりの訪問

飯田駅に到着。伊那上郷からは桜町をはさんで2駅目だが、5分もかからず到着してしまう駅間の短さが飯田線ならではである

飯田駅は路線名が表すように200キロ近い全線の根幹をなす駅だが、当駅始終着の列車は意外と少ない。辰野方面からやってくる列車は天竜峡止まりが多く、言い換えれば天竜峡止まりから南側は閑散地域ということになる。ただし飯田線に入ってくるJR東日本車両については飯田駅が南限となっている

2010年以来、14年ぶりの訪問となった

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焼肉を食べよう

飯田駅の訪問はこれが2回目。2010年の東京勤務の時代、夏季休暇をとって神戸まで帰ってきたのだが、当時は諏訪、松本と訪問した後、飯田線を貫いて豊橋経由で名古屋で途中下車した後、帰路についた。その後は秘境駅号で天竜峡で折り返したほかは、湯谷温泉駅の駅舎が取り壊しとなる寸前の2019年に小和田駅とセットで訪れたぐらいだ。もっとも豊橋~豊川の都市部近郊は何度も乗車しているが、こちらの都市路線は「別物」としておこう。つまり辰野~天竜峡は2回目の乗車となる

飯田駅は1923年(大正12)の開業。伊那電気鉄道によって設置された。現在の駅舎はJR移管後のもの。X(旧ツイッター)のフォロワーさんに教えてもらったのだが、赤く丸みを帯びた屋根や正面の装飾はリンゴをイメージしたものだという。もちろん管理駅で全線きっぷうりばもある

構内も広い。2面3線構造で列車によって発着ホームは変化するようだが

偶然出くわした出発を待つ特急「伊那路」は、跨線橋を渡らずに済む改札のある1番線から発車する。飯田~豊橋を結ぶ1日2往復のみの飯田線唯一の定期優等列車。14年前、豊橋へと向かうべく駅で特急券と指定席券を買おうとしたら「自由席でも十分座れますよ」と言われた記憶がある。確かに観光のシーズンオフで悠々の自由席だった

駅前には渋めの建物が並んでいるが、駅から数分歩いた場所が繁華街の中心のようだが、ずっとにぎやかな場所が続く

飯田市はかつては飯田城の城下町、宿場町として栄えた南信州の中心地で生糸、精密機器でも有名となった。人口は約10万人で県内第5の都市である。伊那上郷駅でも学んだことだが、飯田駅から坂を下っていく形で繁華街が形成されている

前回は馬肉を求めて街を歩いたが、テレビで焼肉店が多いことを知った。確かに検索すると、たくさんのお店が並ぶ。人気店を1週間前から予約してお腹を満たした

リニア後の交通体系に注目

駅前の高速バス乗り場で時刻表を眺めて分かるのは東京、名古屋へのバス便の多さ、特に東京への本数の多さだ

こちらは東京(新宿)行き

そしてこちらが名古屋行き

特に東京行きの午前中の多さが目につく。このバスは飯田線に沿うように駒ヶ根、伊那、辰野などで細かく乗客を拾って八王子や三鷹を経由して新宿へと向かう。所要時間は4時間から4時間15分で料金は平日と休日及び休日前日で異なるようだが、平日なら4600円、ネット割引なら4000円からとなっている。停留所があるため、辰野まで1時間かかるが、それでも岡谷経由の中央本線、豊橋経由の東海道新幹線と比べても速い(豊橋経由は時間はほぼ同じだが特急が1日2本しかない)。そして何よりも安い。これは本数も多くなるはずだ

だが、リニア新幹線が開業すると現在の想定では品川まで45分、名古屋までは25分と大幅どころではない短縮。運賃の方はまだ発表されていないが、想定では8000円ぐらいになりそうだ。もちろん日帰りも可能となる

現在、飯田駅始発で駒ヶ根や伊那などは高速道路上に停留所がある便とは別に、駒ヶ根の街中を始発とするバスも数多く運転されていて東京への輸送はバスが圧倒している状態だが、リニア開業となると飯田のみならず、飯田線沿線の主要都市とリニア駅最寄りを結ぶ優等列車や快速が運行される可能性もある。まだまだ先の話だが、現状の力関係がどうなるかは注目ポイントのひとつである

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その4 過酷な下山ダッシュを垣間見る

伊那上郷駅の駅名標

※訪問は2024年10月26日

飯田線のアトラクション

リニア新幹線の長野県駅予定地の後は飯田の中心地へと向かう。無難なのは元善光寺駅へと引き返すことだが、それではあまりにも普通なので、ひとつ先にある伊那上郷駅を目指す。この駅に行ってみたかったのは、飯田線を語る上で、必ず出てくる話題のひとつ「下山ダッシュ」の舞台のひとつだからだ

そもそもの渓谷美や全く誰も利用しないような駅や渡らずの鉄橋など、鉄オタにはたまらない路線の飯田駅だが、この下山ダッシュについてはアトラクション(?)という特殊性を持っている。体感が重要な鉄オタの本筋からは、やや離れたものだが、それについては後述するとして、まずは伊那上郷駅へと向かおう

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想像をはるかに超える1・9キロ

リニア新駅の予定地を離れたのが15時15分。この後は宿泊地の飯田駅へと向かう。伊那上郷駅発の電車は15時44分。グーグル先生に道を尋ねると

表示されたのは「1・9キロ」「徒歩30分」の表示。この日は昼間は20度をやや下回る気温で、歩くには適した季候。のんびり歩いても30分はかからないだろう。距離数だけ見れば楽勝だ。だが今、地図を貼り付けるべくPCのグーグル地図を開くと左隅の欄にさりげなく高低差65メートルと記されている。住居用マンションとテナントビルでは1フロアの高さが異なるが、マンションだとおそらく1フロアが3メートルぐらいだろうから、20階分はありそうだ。いやいや、そんなの知らんて。当時目に飛び込んできたのはスマホの1・9キロと徒歩30分の画面である

地図に沿って解説すると左手にイオンを見ながらの道路は緩やかな坂となっていて、急に右に折れるようになっているが、ここからがつづら折りの急坂。写真を撮るのも忘れてしまうほどキツかった。途中で休憩をはさんでしまったほどだ

道路は堀削となっている飯田線の線路の頭上をまたぐ形となっていて、このあたりが徒歩コースのピーク

15時40分になんとか伊那上郷駅に到着。間に合った。飯田線のこの付近はおおよそ1時間に1本ほどの運行があるが、この時間帯だけは次の電車は30分後。今日は17時から夕食の予約をしていて、そちらでもギリギリ間に合ったが、この電車に乗れたのは大きかった。途中で休憩しても30分かからないコースだったということか

息ゼーゼーだったが、当駅はご覧のように単式ホームと待合所のみの構造。開業は1923年(大正12)で伊那電気鉄道によって設置された。その後、国有化された飯田線の一部となるが、戦後も含め利用に制限があり、当初は飯田線の路線内や飯田線に接続する中央本線や東海道本線の一部区間からの旅客しか使用できない駅だった。利用制限がある国鉄の駅とは意外な感じもするが、名松線などでもあった制限である

日本全国どこからでも利用できるようになったのは1971年(昭和46)とかなり遅い。そのころに無人化され、やがて貨物専用線も撤去されたと記録にはあるが、もともと駅舎があったのか、貨物線はどこにあったのかは痕跡を調べることはできなかった。というかハーハー言いながら駅に着くと、すぐ電車が来たので、そんなことはできなかったというのが実情だ

下山ダッシュとは

ということで下山ダッシュの説明となるが、これは下山村駅で一度降りた電車に徒歩やランニングで先回りして伊那上郷駅で追いつくという飯田線の線形を利用したアトラクションである。この区間は線路だと6・4キロ。とても電車に追いつける距離ではないが

飯田線は飯田市の市街地をグルリと回り込む線形となっていて、両駅の直線距離は2キロしかない。飯田線の列車は飯田駅で長時間停車するパターンもあり、最短なら15分ほど、最長なら30分ほどで、15分はとても間に合わないが、電車で20分以上のパターンなら追いつける、それが下山ダッシュである

ただ今回よく分かったのは飯田の街はとにかく坂が多く、夜の繁華街も坂ばかり。両駅の高低差は70メートルと、私が歩いた区間より大きな差がある。また下山村という駅名から想像するのどかな田園風景とは異なり、この間は飯田市の市街地で住宅街や店舗が並んでいて道も多く、ちょっと迷うともう追いつかない上、交通量の多い道路を横切ったり併走したりしなければならない。事前に地図アプリなどで道を何度も確認しておく必要もある。そもそも「その行動に何か意味があるのか」という究極のツッコミも生じる

カーブ状にある伊那上郷駅

JR東海らしく待合所にもきっちり財産票が張られていた

この下山ダッシュは最寄りの飯田高校の生徒が考案したとされるが、実際は分からない。電車に乗り遅れても学校には間に合う、というところから派生したものという意見もあり、都市伝説のレベルだ。そんな「原点」もあってか、伊那上郷からの下り坂は下山ダッシュとは認定されず、あくまでも下山村からの上り坂を下山ダッシュだというそうだ

電車がやって来たので飯田に向かう。ちなみに当駅からひとつ隣の桜町を挟んでも飯田駅までは1・8キロしかないが、もう歩きません。ホテルに到着するとシャワーを浴びて上着も着替えた。まさかこんな行動をとるとは予想もしなかった10月終わりの1日

なお簡素な構造ながら、もともと停留所としたスタートした戸上は飯田高校や飯田女子高校の最寄りということもあって、2022年度の1日の利用者数は1219人。92駅(豊橋駅と辰野駅をのぞく)もある飯田線で7位という最上位に近い数字であることを付け加えておこう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その3 空き地にたたずみ歴史を振り返る

元善光寺駅の駅名標

※訪問は2024年10月26日

元善光寺駅から徒歩20分

元善光寺からリニア駅予定地を目指して歩き始める

まだどこまで形になっているか分からないが、元善光寺駅からだと徒歩15~20分ほど。実際は元善光寺の参拝をしてからの訪問なので、県道229号で示された徒歩21分コースを行ったことになる

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美乃坂本駅との違い

元善光寺から歩を進めて踏切を渡る

名称は座光寺踏切。元善光寺駅は飯田線が戦時中に国有化された際、しばらく座光寺駅を名乗っていたのは前記事で記した。座光寺は地区名なので、そこから付けられたものなのか、駅名が座光寺だった際に設置されたためなのかは分からない

県道は地方都市ならではののどかな地域。県道を折れ、さらに進むと

空き地が現れ「中央新幹線長野駅県新設工事」の看板がある。発注者として東海旅客鉄道の文字もある

何か心躍る。しかし

付近は空き地が広がるのみ。周辺はそれなりに民家や店舗もある場所で、立ち退きもあって整地に着手したという感じだ

岐阜県駅の工事が進む美乃坂本駅付近とは状況が異なる。岐阜県駅は車庫も併設される予定なので工事の進ちょくが早いのかもしれない

空き地には残土処理場があった。ここで初めて「リニア」の文字を見る。先ほどの看板では中央新幹線という正式名称だったが、関連の文字はこの2カ所のみ。これを見落とすと、一体何の工事が行われている場所か分からないぐらいだ

中津川線そして中央自動車道

リニアの計画が発表されたころから長野県内はどこに駅が設置されるのか、当然ながら県内では大論争となった。周辺で最も大きな都市といえば松本となるが、そもそもが東京と名古屋を最短で結ぶことが使命の新線。松本まで回っていられないのなら岡谷、諏訪、まとまらないのなら複数の駅を、という声も出たが、結局はJR東海が推奨する飯田を通る案となった。地元がまとまらないと長野県内を通らないルートに変更されてしまうという危機感があったとされる。地元の希望は飯田駅での併設だったが、ビッシリ市街地ができているため、JR東海は無理と判断。現在の場所へ設置されることとなった。現在の案では高架駅となる予定。ちなみに地下駅の品川から発進するリニアは神奈川県駅は地下駅で山梨県、長野県、岐阜県はいずれも地上に姿を現わす高架駅、そして名古屋は再び地下駅となる予定だ

南アルプスを貫いて一気に岐阜県の中津川付近目指すリニアだが、実はこのルートは在来線の敷設が予定されていた。中津川線という名称で飯田駅と中津川を結ぶ。地図だけを見ると中央本線と飯田線は近い場所を走っているが、2つの路線を結ぶ鉄路はない。南アルプスの存在があるからだ

それでも何とかしようと計画されたのが中津川線。戦前から地元の要望が出ていたが、戦後に正式に建設が決定。中央本線と飯田線を接続するため、当初から電化路線として1960年代の終わりに工事が始まった。総距離36キロという短い距離だったが、予想以上の難工事に手間取っている間に、ほぼ同コースの中央自動車道が1975年に完成してしまい、建設は凍結となってしまった

ただし中央自動車道には県境に恵那山トンネルという8000メートル以上のトンネルがあり、5000メートルを超えると危険物を輸送できないという規定のため、石油の運搬ができない。そのため、名古屋方面から長野県への石油運搬は今も中央本線での鉄道貨物が使用されている。中津川線は石油輸送にも利用されることになっていて、もともと石油会社の専用線があった元善光寺駅は石油ターミナル駅となる予定だったが、もちろんその計画もなくなった(ただし元善光寺駅は今も臨時貨物駅として登録は残っている)

駅予定地では周辺の整備から先に進められているようだ。開業までは10年以上の歳月がある

長野県駅は一時、飯田線に新駅設置の話も出ていたが現時点では不明。現地に行ってみると線路とリニア駅の距離は徒歩で5分以上はある。単独駅になることが有力とされるが、幻の路線となった未成線がリニアに姿を変えて結ばれるとは、当時は思いもよらないことだろう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その2 「善光寺駅」は山梨県にあり

元善光寺は多くの参拝客がいた

※訪問は2024年10月26日

今も見られる風景

元善光寺駅に到着。現在どんどん姿を消しつつある車掌さんが駅のホームで集改札にあたるシーン。JR東海ではIC乗車区間以外ではワンマン運転でない限り、まだまだこのような姿が多く見られる。特に飯田線は駅の数が多く、出発した途端に次の駅に到着という場面もあって車掌さんは大変そうだ

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大正期からの駅舎

善光寺の駅舎。木造駅舎が健在だが、JR移管後に取り付けられたであろう駅名板もかなりおつかれのようだ。JRになって37年という時の流れを感じさせる

無人駅で窓口もふさがれているが1日の利用者数は2022年のデータでは369人

財産票は駅舎が開業時からのものであることを示している

当駅は1923年(大正12)の開業。飯田線の原型は3線の私鉄だったことについては後に触れていくことになるが、当時敷設にあたった伊那電気鉄道が辰野から南下していき当駅までたどり着いた。それが3月のことで8月には飯田駅まで延伸されたので半年にも満たない終着駅だった

やがて戦時中の1943年(昭和18)には戦時買収によって国有化されるが、その際、駅名を「座光寺」に変えている。国鉄内に「善光寺駅」が先にあったため、変更されたのかもしれない。ただこの善光寺駅は有名な長野市内の善光寺の最寄りではなく、山梨県甲府市に今もある。身延線の駅で甲府から2駅目。甲斐善光寺の最寄り。善光寺は日本各地に数え切れないほどあるので、各地に「善光寺駅」があっても不思議ではないが、今も営業している「善光寺駅」は4駅。日豊本線に「豊前善光寺」(大分県)があり、そしてもうひとつが長野電鉄の「善光寺下」。こちらが最も有名な善光寺の最寄り。ただし大正期の開業以来、ずっと駅名は善光寺下である

元善光寺に参拝

リニアの駅予定地は線路を挟んで逆側となるが、せっかく来たのだから元善光寺に参拝しよう

駅前に案内があるので分かりやすい。道も広くて迷うコースではない

グーグル地図では徒歩10分となっているが、徒歩の場合は山門の階段から昇っていけるのでそんなにはかからない

どちらも行先が「元善光寺」となっている途中の標識がユニークだった。文字だけにすると、まぁこうなる

山門に到着。写真だとはるかかなたにあるように見えるが、実際はそうでもない。階段が苦手な方はスロープでも上り下りができる

本堂に到着。駅から歩く人は見かけなかったが、土曜日とあってかなり人がいる。マイカー訪問が主体なのかもしれない

解説を読んで善光寺のルーツが大阪にあることを知る

また先述したように、駅は一時「座光寺」を名乗っていたことがあり、現在も周辺の住所は「飯田市座光寺」だが、お寺が座光寺と呼ばれるゆえんについても記されていて、いろいろ勉強になった

両方をお参りするべき、ということである

珍しく観光などをしてしまったが、こちらは駅を知る上でも大事なことだったので来た甲斐は大いにあった。いよいよリニア駅の予定地へと向かおう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その1 元善光寺はどんなところ?

元善光寺駅の駅名標

※訪問は2024年10月26日

思い出す2年前のグルグル回り

こちらの続きとなります

塩尻から岡谷へ。10分ほどで到着する

ちょっとだけ懐かしい。というのは

ちょうど2年前の10月にも、ここにやってきたから。フラリと立ち寄ったら、本当に沼にはまってしまった。新幹線も乗り放題のきっぷを手に一体、何を思ってこのような行動になったのか、理由が今も思い出せない。なんとなく、から急に点火したいつもの行動だろうけれど

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辰野をまたぎ飯田線へ

2年前と同じく切り欠きホーム0番線乗り場へ。当駅始発の飯田線は原則的にはここから出る。前回はJR東日本区間のフリーきっぷだったので、乗車は中央本線旧線の辰野までだったが、今回はJR東海の飯田線が目的なので辰野から先まで向かう。岡谷~辰野はJR東日本の中央本線区間だが、実際は飯田線の一部のような運用となっているため、この区間を走る電車はJR東海の車両が多い

今回は別会社をまたげるフリーきっぷの季節ではなかったため、乗車券を購入

芦屋から東海道本線に乗車し、新大阪から新幹線に乗って名古屋まで。中央本線を北上して塩尻から岡谷を経由して飯田へと向かう。JR西日本からスタートしてJR東海→JR東日本そして再びJR東海という経路。このコースのきっぷは初めて購入したが、経由の岡谷を入れるのではなく「川岸」を入れることで飯田線の文字はない。ちょっと感心。川岸というのは、沼にはまる前から気になっていた岡谷~辰野にある唯一の駅で

これはいろいろな意味で盛り上がった。JR東日本の駅にもかかわらず、やってくる列車はほとんどがJR東海の車両ばかり。大正期の開業以来の駅舎も素晴らしかった。そして訪問直後に駅舎の改築が発表され、簡素駅舎となった、という悲しい結末もあった

リニア駅を訪ねてみよう

今回の目的は「リニア中央新幹線の駅予定地を見に行こう」である。この景色が、その後にこうなった、という移ろいは、ある意味貴重。開業までは10年以上かかりそうで、かなり時間があるが、私は以前、後に北海道新幹線の新函館北斗駅となった渡島大野駅に2年続けて行ったことがある。とにかく今のうちに行ってみよう

ただしどこに設置されるのかぐらいは予習して旅立たなければならない。調べてみると既存の駅に併設、または駅名変更したり、既存の線路上に設置されるのではなく単独の新駅らしい。リニア新幹線の駅予定地としては、最初から飯田が挙がっていたが、飯田駅に併設ではなく、最も近い駅は元善光寺らしい

こちらも興味のあるところだ。長野市にある善光寺については誰もが知っているし、私も行ったことがあるが、同じ県内の元善光寺については知識はあるものの、訪れたことはない。ならば元善光寺から飯田で宿泊して、その後はトコトコ飯田線を南下、豊橋まで行ってみよう

ということで岡谷から元善光寺へ勇躍向かったのだが、12時29分岡谷発の列車に乗り込み、到着は14時41分と、なんと2時間超。この間の距離は76キロで、すぐご近所というわけではないが、とにかく駅数が多い。さすが元私鉄だけある、と感心するよりグッタリしてしまった。いつも言っていることだが、私は同じ乗り物に1時間以上続けて乗っているとイヤになってくる

中央本線である岡谷~辰野は9・5キロあって、その間にあるのは川岸だけだが、辰野から元善光寺の66・4キロは31駅目。駅間距離が1キロそこそこの区間がかなり出てくる

ちなみに全く同じ区間を車で走ると中央道経由で半分の時間で着いてしまう

最終的に飯田には16時ごろに着かなければならないので、途中駅での下車は断念(この区間の飯田線は、おおよそ1時間に1本の運行)

とにかくヤレヤレの到着である

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塩尻駅の旧駅舎跡はハロウィーンでにぎわう街の中心部にありました

塩狩駅の駅名標

※訪問は2024年10月26日

貴重な特急も乗継割引廃止の余波で

朝8時半すぎの名古屋駅在来線ホームでの朝食はきしめん。これはこれで十分美味だが、乗継割引の影響はこんなところにも出ている。少し前なら割引分で千円以上の駅弁を食べられたのだが

9時発の特急「しなの」乗車。本日は10両編成というサービス編成だが、2日前に指定席が満席だということを知り、いずれにせよ2両しかない自由席の列に並ぶ。駅員さんも複数で自由席の案内。8時45分から並んで何とか通路側の座席を確保。多くの立ち客をデッキに積んで名古屋駅を出発。ちなみに途中駅でポツポツ下車があり、塩尻到着時は全員が着席できていた。ちょっと不思議だったのは、多治見や中津川でも下車があったこと。私より前に並んでいた人だったので、少なくとも20分はホームで待っていたことになるが、20分もホームで立っているなら在来線の快速なり普通に乗った方がいいのでは?

ただ私も過去数え切れないぐらいしなのに乗車しているが、しなのの自由席の混雑具合というのは年に数回の乗車では全く想像できない。今回は8両もある指定席が満席だったことで想像できたけど

約2時間で塩尻到着。当駅からJR東日本の区間に入るので必ず行われる運転士と車掌さんの引き継ぎ儀式。しなのという列車は名古屋と信州を結ぶ幹線らしい特急だが、長野~松本という県内の重要な移動も担う列車にもなっている。だからこその1時間に1本という頻発ダイヤだが、この区間は完全なJR東日本エリアでありながら、特急車両はすべてJR東海という貴重な乗り物にもなっている

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今のうちに見ておこう

塩尻駅には、ここ2、3年の間にも散々来ているが行ったことのない場所がある。旧駅跡だ。先に地図を示すと、この位置となる

1982年(昭和57)まで駅は地図で示されたロータリーの位置にあった。点線のように描かれているのが今も残る線路だが、旧駅のあたりの線路が多いことが分かる。そして中央東線と中央西線を結んでいる短絡線が、かつての中央本線だった。現在は中央東線と中央西線を直通しようとすれば、必ず塩尻駅でスイッチバックを強いられるが、駅移転までは中央本線の東西はそのままスルーできて、名古屋方面から松本方面に行こうとすれぱ(特急しなののコース)、塩尻駅でスイッチバックする必要があった

残った旧線は臨時列車や団体列車に使用されてきたが、今はほぼ使われていない。廃止の話もある。だったら今のうちに見ておこうと今回の訪問となった

駅前ロータリーを右に向かい、突き当たりを左へ折れると街がにぎやかになってきた。銀行があり商店街がある。このあたりが塩尻の中心部だということが分かる

それにしても人が多い。家族連れが目立つ。週末ということもあるのだろうが、何やら仮装ムード。この時点でも塩尻旧駅しか興味のない私は何のことやら理解していなかったが

先の道路が通行止めの歩行者天国となっていることで、ハロウィーンイベントだということをようやく理解した次第

そして通行止めとなっている大門八番町の交差点を右に折れると、そこに見えたのが

時計とロータリー。これは分かりやすい。どう眺めても駅前ロータリーの跡地だ

住所は大門一番町の1。駅の住所が1丁目1番地というのは、よくある事例だが、こちらも例に漏れなかったようだ

駅近くには、いわゆる駅前旅館があり、郵便局もある。商店街の近さから、駅が街の中心部にあったことが分かる

東線と西線がスルー構造だった理由

近づけるところまで近づくと、ここが貨物ホームのあったと思われる場所。旧駅付近の線路は貨物機関区となっている

特急「あずさ」が通過していった。旧駅の様子は中央東線に乗っているとよく分かる

踏切はもちろん渡れないが、奥に見える斜めにカーブしている架線が短絡線

現在というより、駅移転のかなり前から中央東線と西線を直通する定期列車は時刻表から消えていた。手元に1978年10月の時刻表(復刻版)がある。特急しなのはすでにあったが、新宿から松本へ向かう東線の特急あずさは塩尻通過列車があったにもかかわらず、しなのについてはスイッチバックの関係で全列車停車である。しかも塩尻駅では5分以上の停車を強いられていた

なぜ同じ中央本線なのにこのようなスイッチバック構造が生まれたかというと、長野から塩尻まで篠ノ井線を経由しての東京方面行きが中央本線だったのだ。長野と東京を結ぶ路線を信越本線と、もうひとつ設けようという目的だった。塩尻駅の開業は1902年(明治35)と古いが、松本から延伸された現在の篠ノ井線の終着駅だった。その後、岡谷からの線路(旧線)がつながった。現在の中央西線の登場は、さらに後。要は長野から松本を経由して東京へと向かう線路が先にできたので、松本から名古屋方面は塩尻でスイッチバック構造になった。名古屋までの全通を機に中央本線と篠ノ井線という路線名が付けられ、東京からだと松本へも名古屋へもスイッチバックなしで行けるようになっていた

ただ東京方面からも名古屋方面からも主要客は松本や長野を目指す。需要とは異なる不便なスイッチバックだったが、ずっと残っていた理由のひとつは中央本線が東海道本線のバイパス的な役割を担っていたため。日本の大動脈である東海道本線でトラブルがあった場合、旅客輸送も貨物輸送もストップしてしまう。そのための保険として中央本線は東西がスルー運行できるようになっていた。ただ東海道新幹線の開通によって、バイパスとしての存在感は薄れ、定期列車もなくなった

旧駅からの新駅まで、歩行者は線路沿いに歩いていくことができる。こちらが近道だ。現在、東西からの貨物列車も塩尻駅ホームに入る運行となっている。近年、わずかに短絡線を結ぶ臨時列車の運行があったが、ここ数年は運行されていない。短絡線の存在意義も薄れている

駅へ戻って気付いたのだが、改札近くの窓もズラリとハロウィーン仕様だった

旧駅跡は塩尻駅から徒歩10分もかからない。機会があれば、ぜひ訪れてみてほしい

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中央西線の駅をすべて訪問してみよう~1カ月遅れで本当のゴール 初めて知った「木曽」

日出塩駅の駅名標

※訪問は2024年9月8日

1駅の積み残し

青春18きっぷを利用しての中央西線各駅訪問から1カ月。無事に全駅を訪問した…はずだが実は1駅だけ回収しきれていない駅があった。塩尻の2駅手前の日出塩である。これは8月の時点で分かっていたことだった。自分の立てた旅程だと、どうしても贄川と日出塩のどちらかに行けなくなる。ちょっと迷ったが、洗馬から塩尻市のコミュニティバスに乗車する際、下車するのは「贄川駅前」か「日出塩上」のどちらか。これは当該記事でも書いたが、乗下車するなら「贄川駅前」の一択でもある。「○○駅口」や「○○駅上」という停留所は、駅から離れていることが多い。こういう時は無難な方を選択する

もともとはあまりの暑さに2024年夏の青春18きっぷは購入しない予定だった。それが9月上旬に全く別件で長野に行くことになり、ならば18きっぷを買ってみるか、となった次第。つまり9月の予定が入ったからこその8月の中央西線だったのだ。後から出てくる話だが、18きっぷの期限は10日で残り3回の権利を持っていたこの日が8日。強制的に今日から3日間は18きっぷの旅となる

日出塩訪問の後は篠ノ井線を北上して篠ノ井で下車するつもり。日出塩に立ち寄った後は後戻りするのではなく前身あるのみなのだが、ここで懸案事項がある。前夜は春日井に宿泊(名古屋のホテルが満員だった)し、8月と同様に6時13分に名古屋を出る中津川行きに乗車すると松本行きに接続して日出塩まで連れていってくれるのだが、先に当駅の時刻表を披露すると

このようになっている。日出塩到着が9時33分。その場合、次の塩尻行きは2時間以上後の11時42分で、ちょっと空きすぎだ。最初はそれでもいいと思っていた。なぜなら8月にコミュニティバスに乗車した際、日出塩と贄川の間に「これより木曽路」の石碑があることを知ったからだ

日出塩駅から徒歩約30分。ちょうど良いではないか。行って帰ってこよう、9月になれば暑さも多少は和らぐだろう、と考えていた。だが直前になっても暑さは相変わらずで、いくら標高800メートルとはいえ往復1時間歩くなんて絶対無理となった。そこで、ややゆっくりめに宿を出て中津川から塩尻まで特急ワープし、塩尻から普通で折り返し10時58分に日出塩着、11時42分に再び松本方面へと向かうことに。これなら滞在40分ほどだ

簡易駅舎がお出迎えもしっかり残る「S7年」

と、そんな思いをしてたどり着いた日出塩駅は

ご覧の通りの簡易駅舎

一応、扉は閉まるようになっていて寒さはしのげるようだ。中央西線では簡易駅舎は今のところ珍しい存在で、中津川以北の今回のシリーズでは落合川と当駅のみである。以前は開業時以来の木造駅舎があったが、10年以上前に現在の形となった。駅の歴史は1913年(大正2)に洗馬と贄川の間に信号場として設置されたことに始まる。1926年に駅に昇格した

ただ駅には古い建物も残されている。駅舎と反対側の中津川方面ホームにある

木造の待合所には

昭和7年(1932)の財産票が張られていた

「国」でないことを初めて知る

駅は高台にあり、ふもとには公民館。2022年度の1日あたり乗降者数は16人で、中央西線では37駅(塩尻、金山をのぞく)中の最下位だが、案内で分かるようにお手洗いの設置はある

ということで無事に全駅訪問が完了。とても恥ずかしいことだが、60歳を過ぎるこのトシまで「木曽」という旧国があると思っていた。「木曽路」はあっても「木曽国」はない。各駅のことを調べているうちに初めて知った。このように駅巡りは年寄りに、さらなる勉強をさせてくれる

また多くの明治からの古い駅舎が今なお残るという事実もあらためて知らされた。これらの駅がいつまで残るかは分からない。旧中山道の宿場町にちなんだ駅は大丈夫という気はしないでもないが、これはあくまで私の楽観的予測だ。耐震性を持ち出されるとどうしようもないのが古い駅舎の宿命でもある。基本的には普通しか停まらない駅ばかりだが、明治を表す「M」の入った財産票とともに、その目に焼き付けてほしい

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中央西線の駅をすべて訪問してみよう~ゴールは事実上の長野県入口

南木曽駅の駅名標

※訪問は2024年8月7日

列車本数が大きく変わる

原野駅から南下して南木曽駅で下車。この間も電車で50分揺られた。駅で降りる度にまた50分移動を南北で繰り返していて生産性があるようなないような行動をとってきたが、もう北へ向かう列車に乗ることはない。ここがゴールだからだ

到着時刻は16時44分。朝6時13分に名古屋駅を出たのだから10時間以上が経過している。まずはこの日のダイヤが通常通り運行されたことに感謝である。6月の訪問ではダイヤ乱れがあって、予定が予定でなくなって困った。その時に学習したこともあってダイヤが乱れても対応できるように各駅を巡る度に30分以上の電車旅をした側面もあったのだが、とにかくホッと一息。安堵したのは無事に道程をこなせたことも大きいが、当駅から南は列車本数が増えるということもより大きい

これまでの記事でも書いてきたが中央西線は名古屋~中津川と中津川~塩尻(多くの列車は松本まで直行)で運行が分断される。と同時に中津川以南と以北で本数も大きく変化するが、本数が減る中津川以北でも岐阜県で最も北となる坂下そして南木曽と二段階で列車が減少する。つまり、南木曽まで来れば当駅発の列車もあるため名古屋方面そして新幹線経由での帰宅がほぼ確定となる。現行ダイヤでは当駅発の中津川行き普通18本のうち8本が当駅始発となっている。もっとも8本のうち5本は5時台、6時台のもので。これは坂下駅の項でも記した通り、2年前まで存在した早朝の南木曽発名古屋行きの名残である

元々は読書村

今さらだが「なぎそ」と読む「みなみきそ」ではない。コンクリート製ながらも観光地としての雰囲気を壊さないようにデザインが工夫された大きな駅舎を持つ。たまたまいなくなった時間に撮った写真だが、駅前にはタクシーが常駐している。駅前には商店や飲食店、土産店が並ぶ。中央西線で駅近くで、すぐ飲食店や商店が見つかるのは、他には木曽福島と奈良井ぐらいで、旅人には貴重な存在

駅周辺は中山道の三留野(みどの)宿が広がり、約4キロ離れた場所には妻籠(つまご)宿がある。妻籠宿へは当駅からの路線バスも発着していて観光客には当時の雰囲気が今も色濃く残る妻籠宿の方が人気があるようだ

駅は1909年(明治42)の開業。坂下から当駅まで岐阜県と長野県の県境を越え鉄路が入ってきた際に設置された。当時の駅名は宿にちなんで三留野駅。岐阜県側から入って長野県最初の駅は田立だが、田立駅は信号場としてスタートし戦後に駅昇格している。事実上、長野県の入口の駅となる。もちろん南木曽町の中心駅。長らくこの駅名が使用されてきたが、戦後の1961年(昭和36)に周辺の村が合併して南木曽町が発足。これに伴い1968年に駅名も南木曽に変更された

ちなみに駅の所在地は「南木曽町読書」。一体どう読めばいいのか戸惑ってしまうが、普通に「よみかき」。かつては読書村だった。明治初頭に「与川(よかわ)村」「三留野(みどの)村」「柿其(かきぞれ)村」の頭の3文字をとって「よみかき=読書」としたという

現在、駅は簡易委託化されている

観光案内所が入居する一部特急停車駅ではあるものの、窓口は無人の時間帯も多いが、昭和50年代を感じるステンレスの改札が残る

国鉄時代を感じる事務室の表示。そしてもうひとつ、これはぜひ注目してもらいたいのは跨線橋

いわゆる「団子鼻」の新幹線のイラスト。開業から長らく新幹線といえば、この顔つきだった。年代的に駅舎改築の時に描かれたものと思われるが、新幹線が近くを通るわけでもないのにわざわざ描かれている。それほど国鉄を象徴する乗り物だったのだろう

さぁ帰ろう。ダイヤ的には、たまたま特急が停車する時間だったが、手にある青春18きっぷをギリギリまで使用するため、数千円の出費は惜しんで、その後の普通で帰ることにする。中津川まで行けば、後は何とでもなる。帰宅は数時間後となるが、南木曽駅が長い1日の終わりだった

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中央西線の駅をすべて訪問してみよう~残念ながら参拝はかなわず

原野駅の駅名標

※訪問は2024年8月7日

近づく旅の終わり

原野駅に到着。今回も野尻から50分かけての移動(ただし上松で10分以上の長時間停車があった)。効率がいいような悪いような

ただ今日の旅はそろそろ終わりにさしかかろうとしている。時間は15時40分。まだまだ日没まで時間はあるが、単純にここから名古屋まで青春18きっぷのみで向かうと名古屋着は19時ごろとなる。今日中に帰宅することを考えると、かなりいい時間だ(さすがに名古屋からは新幹線である)

原野駅は塩尻側から見ると木曽福島のひとつ手前にあたる。現在は木曽町だが、平成の大合併までは日義村にあった。日義村については宮ノ越駅で紹介した

木曽義仲にちなんだ村名。開業は1955年(昭和30)と戦後10年を経てから。この駅については、どこで学んだことか忘れたが知識があった

ホームと神社が直結しているということ。野尻から来たので乗車電は塩尻方面行き。どんな形でつながっているのかは全く分からない。というか、例によって調べていない。そして私が降りた側のホームにあることは下車してすぐ分かった。しかし

あれ?

立ち入り禁止のロープが張られていて入れない。理由は不明。こちらは「原野八幡宮」。相撲場もあって、ぜひ参拝をと思ったが、とても残念。ということで「駅への参拝」としよう

公道でつながれている上下線

原野駅は跨線橋も構内踏切もない駅。公道を介して上下線を移動することになる

これは中津川方面側にある駅舎に掲げられた解説板

私は塩尻方面ホームら到着したので公道からだと案内板がある

その駅舎は

戦後生まれの割には年季を感じる

財産票が開業当時からの駅舎であることを記している

駅舎側に街が広がり、旧中山道に出る。少し歩くと中山道の中間点があるようだ

国鉄時代末期にはすでに無人駅となっていた。窓口、手荷物受付ともに塞がれている

中津川方面ホームから駅舎へは階段を利用する。こう書いてくると、寂しい駅のようにも感じるが、2022年度の1日あたりの乗降客数は60人で木曽平沢駅、須原駅の66人とあまり変わらない。実際に駅の乗降時は地元の方の乗降が何人かあった

名所案内で最も目を引くのは木曽駒ヶ岳。当駅から16キロと比較的近いようにも感じるが、ここから駒ヶ岳登山という話はあまり聞かない。そもそも海抜2956メートルなんて簡単に言うなよ、と思ってしまうが、ここ原野駅の標高は実は837メートル。3分の1ぐらいの高さにはなっている

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