JR東日本

大糸線全40駅を訪問するお話~路線内最大の駅にして最重要駅は駅名標でいっぱい

信濃大町駅の駅名標

※訪問は2024年9月9日

大糸線はここから

信濃大町駅に到着。久しぶりに自動改札機を見た、というか駅員さんを見た気がする。大糸線で最も規模の大きな駅で、なおかつ最重要駅。列車の運行本数も当駅を境に大きく変化するのは何度も触れてきた通り。1日に2000人以上の利用がある。そして、こちらも触れたきたが、大糸線の「大」は、当駅から付けられているのである意味、大糸線はここからである

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駅名標を見つけよう

当駅には数多くの駅名標がある。こちらはJR東日本の管内で今もよく残る形のもので、駅によっては、この形式しか残っていない所もある

当ブログでは駅名標についてはあまり一般的ではないので第一種、第二種などの表記はせず、このように両隣の駅が記された、ホームに設置してあるものを駅名標、駅舎の入口に張られている駅名を記したものを駅名板と表記していて、ホームの柱で見かける縦のものを縦式駅名標などとしたり、あえて平仮名の読み、という表現で使用するようにしているが、基本的には駅名が記されているものは、すべて駅名標である

こちらは跨線橋に掲げられたもの。跨線橋に印字されたような形になっているものをスタンプ式駅名標と勝手に名付けて過去の駅で紹介してきたが、それも姿を消しつつある。こちらは立派な木板で作られている

写真入り駅名標。自分の中ではJR東日本名物なのだが、最近取り外しが進んでいるようで、どちらかというと生き残りの印象が強い。駅からの風景が変わると更新が面倒なのか、維持にお金がかかるのかは分からないが、JR東日本の駅で降りると楽しい気持ちになれたので残念なことではある

駅名標については良い機会なので私的な意見を言うと、かつてホームの両隣要りの駅名標には、当記事の最初のもののように必ず所在の自治体名が記されていたが、JR東日本とJR東日本、JR北海道については自治体名を記していない。平成の大合併で見られたように自治体名は合併などで変化していくもので、その度に更新するのは手間も経費もかかる、ということなのだろうが、駅に降りることはなくても車窓に見える駅名標の自治体名を見て「こんな名前の自治体があるのか」「このあたりは村なんだな」「どう読むのだろうか」などと考えるのは鉄道旅の楽しみのひとつだと思っているのだが、どうだろう

観光拠点としても有名

時間は13時半になっている

待合室の駅そばでお昼とする

長野らしく山菜そばをいただく。当日は猛烈に暑い日だったが、待合室はエアコンが効いて熱いそばでも美味しく食べられる

開業は1916年(大正5)。実はこれより先に別の場所に初代の信濃大町駅があった

初代の駅はさらに南の松本側から見ると高瀬川を渡る手前あたりに1915年に設置。川を渡る前の最も大町の町に近い場所で暫定的に開業したようだが、翌年に現在の位置であらためて信濃大町駅が開業すると、仏崎と駅名変更された上に1917年に廃止となった

信濃大町駅が脚光を浴びるようになったのは1971年(昭和46)のこと。当駅からの立山黒部アルペンルートができて多くの観光客が訪れるようになった。観光客だけでなく多くのスキー客も運ぶ大糸線優等列車の全盛期もこのころからやって来る

現在は長野からのダイレクトコースも

ホームにあるこちらも駅名標のひとつ

ホームは国鉄らしい2面3線構造。駅舎側の1番線と島式ホームの間にはホームのない線路があるため、2番線のホームはなく島式ホームは3、4番線となっている。特急は上下とも1番線からの発着だが、上り下りともすべてのホームが使用されるため乗車の際は注意が必要

また島式ホームからの発車は跨線橋の片側からしか出ないため、こちらも注意を要する

駅舎には当駅を拠点に登山を行う人のための登山届入れがある

こちらは島式ホームの写真入り駅名標

大糸線の路線名は信濃大町と糸魚川から1文字ずつとられている。中間駅が路線名に入るのは珍しい例で、信濃鉄道が松本~信濃大町を敷設したところで延伸をあきらめ、国鉄がそれ以降を引き継いだために「大」の文字が入ったもの。敷設については福塩線(広島県)の成立と似ている

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大糸線全40駅を訪問するお話~各地で見られる地名の意味は?

安曇沓掛駅の駅名標

※訪問は2024年9月9日

再び信濃大町以南へ

海ノ口駅から松本方面へと折り返し、7駅目の安曇沓掛駅で下車。大糸線は信濃大町駅を境に本数が大きく減ることについては何度か触れているが、松本から南小谷まで乗り換えなしで行ける列車と信濃大町での乗り換えが必要な列車に分かれている。この直通列車については上下で変則的な運行が行われていて、ともに昼間のみの運行だが、訪問時のダイヤでは松本→南小谷が3本だったのに対し、逆は1本しかなかった。といっても信濃大町での長時間停車があったり、スムーズな乗り換えがあったりで、それまで座っていた座席に座れないこと以外は乗車にそれほど問題はない。沿線の高校の行事次第だが、平日の昼間に信濃大町で座れないことは少ないだろう

そしておなじみの棒状ホーム+待合所のみの駅の登場である

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いろいろ工夫を凝らされた駅名

真っ直ぐの線路と棒状ホームそして待合所。1915年(大正4)の開業。信濃鉄道によって信濃大町(現在の信濃大町とは場所が異なり、松本寄りにあった)まで延伸された際に設置され、当時の駅名は「常盤(ときわ)沓掛」。これは駅の場所が常盤村にあったため(常盤村は1954年の大町市発足で自治体としてはなくなった)

駅の位置としては大町市の最も南側にある

沓掛の「沓」とは、馬に履かせるわらじのこと。かつて旅人や兵士は馬に休息を与える際、古い沓を木の枝にかけ、旅の安寧を祈ったという。各地の街道ではこの地名が残り、駅名では日豊本線の日向沓掛がある(こちらは戦後生まれ)。有名な地名では軽井沢の沓掛宿があり、中軽井沢駅(しなの鉄道)はかつての駅名は「沓掛」だった(1966年に現駅名に改称)。現在のしなの鉄道と大糸線を敷設した信濃鉄道は全く別の会社だが、軽井沢の沓掛駅は明治生まれで当時から国鉄の駅。こちらは信濃鉄道という私鉄駅で、気にせず沓掛駅にしても良さそうなものだが、同じ長野県内で同名駅はまぎらわしいということで村名の常盤が付けられた

駅名変更は1937年(昭和12)に信濃鉄道が国有化された際のこと。頭には村名から地域名の安曇が付けられた。ちなみに同じタイミングで両側の隣駅は単なる「常盤」から「信濃常盤」へと、「池田松川」は「信濃松川」へと変更された。こうして「信濃○○」駅の間に「安曇○○」が誕生することとなった。常盤というのは沓掛以上に日本中にある地名。パッと見た目で間違いやすい常磐と合わせると数え切れないぐらいある。どうも国鉄としては、あまり常盤という文字を目立つようにしてがらなかったようだ。信濃2駅の間に安曇駅ができたのは、当時はまだ軽井沢の沓掛駅が現役で、同じ長野県内に「信濃沓掛駅」とするわけにはいかなかったからと思われる

ちょっと事情は異なる

安曇沓掛駅にも駅の外にお手洗いが設置されているが、その前は駐車場となっている

駅周辺は農地と住宅街となっていて、駐車場があるのはどうも不自然な感じで、他の待合所のみの駅とは異なり、かつては駅舎を有していたと思われる

植え込みや花壇はきれいに整えられていた

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大糸線全40駅を訪問するお話~信濃大町を越えて広がる景色と見どころ十分の駅

※訪問は2024年9月9日

大糸線の見どころのひとつ

海ノ口駅で下車。信濃大町をずっと越えた。何度も記しているが、大糸線は旧信濃鉄道が敷設した松本~信濃大町は観光と同時に松本へと通う生活路線にもなっているため、昼間も1時間に1本の運行があるが、信濃大町から北への白馬を経ての南小谷にかけてはグンと本数が減ってしまう。南小谷から糸魚川へのJR西日本による非電化区間はさらに本数が減り、山岳路線のようの車窓が広がる。大糸南線の松本~信濃大町、信濃大町~南小谷そして大糸北線の南小谷~糸魚川と3つの性格があると考えていい

ただ全駅訪問をしようというのだから、本数が少なかろうと多かろうと、そこは行くしかない。すでに信濃大町駅から北にかけてき10月に鉄道の日記念きっぷで巡ることを決めていたが、最終的には南小谷から大糸線増便バスで糸魚川まで行くのだから、時刻表が合えば、いくつかの駅は回収しておきたい。ということで選んだのが、ここ海ノ口だが、当駅は車窓やホームからの景色、駅内の展示だけで原稿がかけてしまう駅である

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車窓に広がる木崎湖

ホームの前には木崎湖が広がる。松本側から木崎湖、中綱湖、青木湖の3湖が並び、大糸線の車窓のハイライトにもなっている。大糸線が糸魚川静岡構造線に沿っているのは、大糸北線の根知駅付近で学習できるが、この3つの湖は活断層の動きでできた溝が湖となったそうだ。もちろんレジャーのメッカにもなっていて、湖畔にはレジャー宿や温泉宿も多い。結果的に10月になって、そこに宿泊するのだが、それについてはその時に報告させていただこう

海ノ口駅は1929年(昭和4)の開業。国鉄大糸南線の駅として設置された。信濃鉄道が信濃大町まで敷設し、信濃大町~糸魚川にかけては国が開業させた大糸線だが、大糸南線は現在の感覚とはやや異なっていて、信濃大町~中土のことだ。戦後に糸魚川~小滝の大糸北線がつながって大糸線となった

長野県に海はないのに駅名に海が付くことについては、ここまでの説明で十分だろう。海とは木崎湖のこと。駅の住所も海ノ口

電車から降りて立ち止まってしまう

電車を降りて駅舎に向かう時点でまず立ち止まってしまう

国鉄時代からの駅名標に加え、目を引く駅名板そして解説

詳しすぎる解説がある

無人駅ながらきれいな駅舎には、ホーム側とはやや異なる駅名板があり、白鳥の写真がある。その下には付近を描いた手書きのイラスト

いつもはグーグル地図を掲載するところだが、今回はこれで十分だろう。ただ白鳥の写真の解説には、ちょっと複雑な気持ちになった

駅名板ができたころには毎年飛来して越冬していた白鳥が、ある年から来なくなってしまったという。私は給餌を行っていれば、毎年白鳥はやって来るものだと思っていただけに、柄にもなくセンチメンタルな気分になってしまった

こちらが駅舎。木造で内外とも、かなり手が加えられているが開業以来のものだと思われる

駅舎に掲げられている駅名板は、それこそ開業以来のものかもしれない

冒頭に書いた通り、降り立つだけで、ほとんど調べもなく記事が1本書けてしまう駅である。ということは魅力が高い証明でもある

時系列は前後するが、海ノ口駅へ向かう電車の外を走りながら手を振ってくれた方がいたので、そう多くはない車内の人々も皆で手を振った。季節は稲の収穫前の晩夏。田んぼだけでなく湖そして山並みも四季に応じて、それぞれの景色を見せてくれるのだろう。ぜひ訪問をおすすめしたい駅である

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大糸線全40駅を訪問するお話~名称変更の小さな駅は思わぬ神駅だった

※訪問は2024年9月9日

松本から1時間

南大町駅で下車。時刻は11時を過ぎている

キロポストで34キロと表示されているから、それなりの距離をトコトコやって来たことになる。松本からちょうど1時間の電車旅となった

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短距離区間にわざわざ駅を設置

安曇追分駅までで一度大糸線の旅を打ち切ってからちょうど半年。雪景色はすでにない。ここから残った駅の回収となるが、いつものことながら、いくつかの駅で降りているうち急に全駅訪問のスイッチが入るので、残った駅はホームと待合室のみという駅が多い。そして元々は信濃鉄道という私鉄によって開業した路線だけに、その構造の駅がこれから次々と登場する

当駅はログハウス風の待合室と棒状ホームを持つだけの構造で、しかもホームはカーブ状に半ば強引に設置された形になっていて、さらに言うとお隣にある地域の中心駅でもある信濃大町駅からは線路距離は1・1キロしかない

線路に沿って道路があるわけではないので、歩くと1・6キロのコースになってしまうようだが、それでも徒歩20分と近いところにわざわざ駅が設けられた

開業は1934年(昭和9)。現在の松本~信濃大町が信濃鉄道として全通したのは1916年(大正5)のことで、18年も経ってから頑張って駅が設置されたのは今も駅前にある「レゾナック・グラファイト・ジャパン」の存在だ。2023年に現在の社名となったが、それまでは昭和電工の大町事業所。社名(工場名)は、最初の昭和アルミニウム工業所から昭和電工大町工場を経て大町事業所と変遷している。日本で初めて国産アルミニウムの工業的生産に成功した工場でもある(レゾナック・グラファイト・ジャパンHPから)。この工場ができたのが1933年。当駅は工場への通勤目的で設置され、当時の駅名は「昭和」。1937年の国有化の際に現在の駅名となった。この後も出てくるが、路線内には他にも名称変更された駅があり、特定の固有名詞は避けられたようだ

背中しか見えないが

こちらは待合所内にあった時刻表。11時8分に到着して32分の松本行きで折り返す。信濃大町までは昼間も1時間に1本が確保されているので、駅訪問もそれほど頭を悩ますことはない。もっともその分、信濃大町から北はかなりの予習と準備が必要となる

立派なお手洗いがある。自治体による設置だろうが、大町市内の駅はホームと待合所のみの駅でもお手洗いの設置が多く助けられた。早速お借りして出たところに建物が見えた

コンビニだった。ローカル線沿線でバッタリ出くわす貴重なコンビニ。その最寄り駅を個人的に「神駅」と呼んでいるが、その神駅だった。コンビニのさらに向こうには国道147号があり、国道を挟んでレゾナック・グラファイト・ジャパンの大町工場がある。工場で勤務する人の利便性もあってのコンビニかもしれないが、後でこの存在がとても貴重だということに気付く。なぜなら松本を除くと路線内で最も大きい駅である信濃大町の駅近くにはコンビニはない。構内に売店はあるが、コンビニを求めようとすると10分近く歩くことになる。そのような事情は全く知らない私だったが、たまたまサンドイッチなど、ちょっとした食料を買いそろえたため、この後、大いに助けられたのだった

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大糸線全40駅を訪問するお話~雪景色から半年後は残暑というより猛暑

※訪問は2024年9月9、10日

屋代高校前駅からスタート

9月9日の朝8時すぎ。私はしなの鉄道の屋代高校前駅にいた

月曜の朝なので

ちょうど通学時間帯となったため、電車が到着するとホームは高校生で埋め尽くされる。長野県の友人宅を訪問すると、いつもこの駅まで送ってもらうのだが、通学時間帯の訪問は初めて。しなの鉄道は三セクの優良企業なのだが、このような光景を見ると納得する。私は逆方向の篠ノ井方面行きホームにいたが、こちらはこれから長野市内へと通勤する人でにぎわう。しなの鉄道の路線はお隣の篠ノ井までだが、列車は長野駅まで運行される

今日はここから松本経由で大糸線の各駅訪問を行い、そのまま大糸線増便バスで糸魚川まで抜ける予定だ

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18きっぷのルール変更を先取り?

9月の声を聞いて10日近くが経つというのに、この日も朝から猛烈に暑い日だった。この記事を書いている傍らのテレビでは全国を覆う寒波と豪雪のニュースが繰り返し流れていて、季節は真逆になってしまった。季節に合わないと秋以降、記事化を先送りしてきた。その間、前回までお伝えしてきた「サンキュー♥ちばフリーパス」や阪神淡路大震災と加古川線のように、先に伝えなければいけないことが多かったのも事実ではあるが、そろそろ記憶も薄れてマズい。結局は寒波の中での振り返りとなってしまった

時系列から振り返ろう。長野入りしたのは前日の8日

中央西線で最後に1駅だけ残った日出塩を訪問。その足で塩尻から篠ノ井へと向かい、篠ノ井駅まで友人に迎えに来てもらった。昨夏の青春18きっぷの使用期限は9月10日までで8日の時点で残り3回分の権利があった。つまり3日連続の使用である。この時はまだ18きっぷのルール変更は発表されていなかったが、知らず知らずのうちにルール変更に対応していたことになる

ただ何か予感が働いていたわけではなく、もともとあまりの暑さに夏の18きっぷは購入をやめようと思っていたところに、9日から友人の元を訪れることが決まり、だったら買いましょうとなった次第。最初の2日分は中央西線に充て、最後の3日間は大糸線から増便バスに乗ることを決めた。もっとも3連投の初日は春日井からスタート(名古屋市内のホテルが空いていなかつた)。篠ノ井での待ち合わせ時間を考慮すると中津川から特急でのワープ作戦を使わざるを得なかったため、18きっぷ1日あたりの料金とを考えると「元本割れ」となってしまった(ただし残る4日で大幅に元はとっている)

半年前とは全く異なる松本駅へ

屋代高校前駅では篠ノ井までの1区間だけのきっぷを購入。改札でそのきっぷを手渡すと同時に4回目のハンコをもらい、ホームへと逆戻り

トコトコと篠ノ井線を走り松本に到着。屋代高校前のホームに立ってから2時間近くが経過していた

ホームからアルプス口を見る。半年前は3月だというのに松本駅前は積雪に見舞われていて、足下のおぼつかない中、北松本駅まで歩いた。まさに真逆の季節。ここから大糸線各駅の回収をスタートさせる。好天で足下を心配する必要もなさそうだが、これだけ暑いと、いくら足下は良くても前回のように1駅徒歩とかは絶対に無理である

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大糸線の増便バスに再乗車、キハ120と組み合わせる~その1

南小谷駅のホーム側改札付近

※訪問は2024年10月11日

1カ月を経ての再訪

前回までの大糸線の各駅訪問は3月の話。なぜ記事化するのに半年も置いたかというと、全駅訪問が終わっていなかったこともあるが、雪景色が全く季節に合わなかったからである。といっても、一昨日あたりから急に冷え込みが厳しくなり、急速に冬の足音が聞こえてきた。大糸線の訪問は9月の上旬、10月の上旬にも行っているため、季節的には真逆になってしまうが、ご容赦ください

そして9月に次いで10月も大糸線増便バスに乗ってきた。季節というより時系列が飛びまくるが、こちらは3月までの限定運行ということで早めに掲載することにする

ちなみに1回目はこちら

スタートは気温8度の白馬から

スタートはハロウィーンムードの白馬駅から。1カ月前にも来ているが、気候がたった30日で全く異なる。前回は汗をダラダラかいていたが、この日の朝は8度。もちろん息は真っ白。前々日から当地は急に寒くなったようで、この2日間、宿では就寝の際、暖房をつけた。季節外れの夏日が続いていた神戸から信州に来て温暖差に身体もビックリだが

8時1分発の南小谷行きに乗車。これを逃すと次は11時23分と3時間20分後なので、絶対に譲れない電車である。白馬駅近辺でお勤めの方もいるのだろう。かなり混み合っていたが、南小谷へ向けてはガラガラとなった。本日は1カ月前と同じく南小谷から大糸線増便バスに乗る。ただ前回は単にバスで糸魚川まで行っただけだったが、今回は駅にも立ち寄り、最後は鉄路で糸魚川へと向かう。手には「秋の乗り放題パス」。毎年、鉄道の日の10月14日前後に登場するきっぷで、使用ルールは青春18きっぷと同じ。ただし3日間の連続利用、グループ利用禁止という決まりがある一方で自動改札機を通ることができる。つまりこの12月に発売される青春18きっぷとほぼ同じ内容だが、この頃はそのような改訂があるなど夢にも思っていない

約20分で終点の南小谷へと到着

南小谷は管理駅で、人はずっといるのだが窓口は9時過ぎからのようで、まだ開いていない

1カ月前はエアコンのお世話になり、冬場はコタツも登場するという待合室もまだ閉まったまま

勝手知ったる増便バス

こちらは駅舎。前回で勝手は分かっているので安心だ

時刻表も理解済み。実は前日、大糸線の駅回りでも利用したのだが、それはその時に紹介する。今から乗車するのは8時47分の1便。時刻表を見てもらえれば分かるが、このバスは白馬を8時30分に出ている。列車の紹介で8時1分に乗り損ねると大変、と記したが、増便バスがあるうちはカバーできる

というか

駅の時刻表で見てもらえば分かるが、白馬発8時1分に乗車しても南小谷着に同20分に着いた後、糸魚川行きは10時4分発で1時間40分もの待ち時間がある。白馬を次に出るのは11時23分で、もちろん10時4分には乗れない。11時23分白馬発は11時42分に南小谷着で、12時7分発糸魚川行きに25分の接続と、ようやく接続らしくなる。ちなみに白馬からだと始発となる6時57分発も南小谷での接続が図られている。要は「痛いところに手が届く」時間帯に設定されているのだ

だったら白馬を8時30分に出ればいいではないか、の声も聞こえてきそうだが、とにかく気温が一ケタの朝である。バスにお手洗いがないのは前回で確認済み。生理現象を考慮すると、ここは電車で南小谷まで行くのが無難というもの

ほんの少し色づき始めた山と川の景色を見ているうちに

数分遅れ気味でバスが到着。まずは大糸北線の駅を目指そう

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~雪景色旅のちょっとしたエピローグ

安曇追分駅の駅名板

※訪問は2024年3月7日

駅前食堂のある風景

前日からの積雪が残る大糸線沿線だったが、不思議なことに有明駅あたりから雪の量は減って当駅付近はかなり少なくなっていた。この後、松本まで戻ったが松本に近づくにつれ、残雪量は増えていったので、前日の雪は松本中心のものだったようだ

安曇追分の駅前風景。2軒の駅前食堂があった。のれんが出ているので営業中だと思われる。旧国鉄の駅というのは町外れに設置されることが多く、そこそこの都市でも駅を降りてみたら何もない、ということが多く、そんな中で癒やされるのが駅前食堂。ただその風景も失われつつある。お客さんはいても後継者がいない、というのが大きな理由のひとつのようだ

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なぜか私が

さて、なぜいきなり駅前食堂の話から始めたのかというと、安曇追分駅の駅舎内が「緊急駅前食堂」になったからである

前記事でも紹介した駅舎内の様子だが、実は写真はこの角度のものしかない。撮ろうにも撮れなかった。というのも私と同じ電車で下車したご婦人の3人組グループが持参のお弁当を広げて食べ始めたから。弁当といっても駅弁ではない。自宅で作ったものだ。もちろんお茶もペットボトルではなく水筒持参である。私も昼食のお時間だが、松本駅近くのコンビニで買った恒例のコンビニおにぎり。外は寒いので駅舎内でほおばる。同世代の男性1人、女性3人が駅舎内でランチタイムというシュールな光景。どこからどうというわけではなく会話になり、話を聞くと今日の朝、神奈川県からやって来たという。この駅近辺の一体どこへ?と尋ねると、ある施設の名前。名前だけなら私も知っているが、徒歩ではちょっと無理な場所だと推測できる上、そこって穂高駅からのバスがあるんじゃないの?

「どうやって行くのですか」と、おそるおそる尋ねると当駅からバスが出ているのだという。なるほど、で、バスは一体何時に?と聞くと

「知らない」

秒で答えが返ってきた。私のあ然メーターはあっという間に振り切れてしまった。そういえば駅前の停留所の時刻表なんて見た景色はなく、即お弁当を広げていた。「大丈夫?」と言うと「なんとかなるでしょ」の回答。もちろんここには観光案内所などないので、私が代わりに調べてあげた

「バスは次は○時○分発で降りるのは○○という停留所。ただ帰りは○時○分に乗らないと戻ってこられませんよ」

だが、出発のバスまではかなりある。「タクシーがあるでしょう」と聞かれたので「ここには常駐してないよ」。ついでにグーグル先生とナビタイム先生の両者による徒歩時間を調べると軽く1時間以上はかかるようだ。伝えると「わー、そんなにかかるんだ。ありがとう」とサラリ。決してつっけんどんな言い方ではなく、自然な感じだったので、それ以上私も突っ込まなかったし、とりあえず施設までたどり着けば、帰る方法は教えてくれるだろう

ただ私が感じたのは、ケセラセラ的な旅の原点である。私も成り行き任せの旅は好きだし、ブログ内でもケセラセラという言葉はよく使うが、さすがに列車の数がどのぐらいあるかは調べている。ましてや地方でバスに乗るとなると、事前準備は入念の上に入念である。今はスマホひとつあれば、沿線情報は入手できるし、タクシーも呼べる。自分の若いころはそうだったなぁ、と思った次第(ただ時刻表は必ず調べていた)

半年あまりでなくなったもの

松本まで戻ってしなのに乗り込む。あずさとの並びだ

手には大阪までのチケット。乗継割引の使用はこれが最後である。もちろん分かった上での購入

名古屋経由のしなのは数多くお世話になった乗継割引のひとつ。在来線特急が半額になることで、ちょうど駅弁代になる。これからは駅の立ち食いそば&きしめんで済まそう

こちらは前々日に新潟駅で買った青春18きっぷ。この時は新潟、松本、一ノ関、三ノ宮、三次と各地でハンコをもらったが、もうそれもできない。半年ちょっとで、長年私の旅を支えてきたものもすっかり姿を消し、ひとつの曲がり角を感じている

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~18きっぷ駅舎とホーム越しの絶景に旧駅名を思う

安曇追分駅の駅名標

※訪問は2024年3月7日

リアルすぎる駅舎と財産票

有明のお隣の安曇追分に到着。この日最後の訪問駅だ。大糸線では安曇野市には9つもの駅があるが、最も北にある駅となっている。市内には篠ノ井線の駅も2つあるが、ちょっと意外なことに「安曇」が付く駅は当駅ひとつしかない。ちなみにサムネ写真の駅名標で分かるようにローマ字にすると「azumi」で、こちらは安曇野市も同様に「azumino」だが、ひらがなにすると駅名は「あずみ」で自治体名は「あづみ」となっている

ホームは島式の1面2線。ただ写真で分かるように上り下りでホームは固定されていない。構内踏切の駅でよくある形式だが、すれ違いがない場合は、駅舎と反対側のホームを使用して遮断機ができるだけ降りないようにしている

その構内踏切を渡って駅舎に入ろうとすると、いきなりこのような文字のお出迎え。手書きの明朝体が凄い。否が応でも期待は高まる

そしてまさに期待通りの駅舎。当駅は1915年(大正4)の開業。有明から信濃松川(当時は池田松川)まで延伸された際に設置された

この後の記事を読んでくれなくなるかもしれないので、書くのに躊躇してしまうが大糸線の古い駅舎というのは、数が少なくなっている。元々、ホームと待合所のみの駅が多いのもあるが、この十数年で新しく生まれ変わったり簡易化したりで、この後の記事では年季の入った木造駅舎はほとんど出てこない。その分、こちらで楽しんでいただきたい

JR東日本の駅では見かける機会が減っている財産票が当駅には残る。ただ残ってはいるが判別不能だ。「昭和」の文字の下に、わざわざ「大正」と手書きされているので、もちろん張られたのは昭和になってからだろうが、張ってから竣工期を書こうとしたものかもしれない。「財産票そのものが財産」のたまにある例だが、開業時からのものだと判断しておこう

分岐駅の歴史と絶景

かつて当駅からは池田鉄道という昭和戦前に12年だけ運行された幻の鉄道が運行されていた。鉄道の来なかった池田町への運行を地元有志が担ったものだが、痕跡はほとんどない。わずかに駅舎側にあるホームらしきものの小さい土台がそうではないか、と推察できるぐらい

池田鉄道については、また別の駅紹介で行う予定だ

駅は現在、安曇野市による簡易委託で窓口は午前中のみの営業となっている。安曇野市は篠ノ井線の駅も含め、各駅で簡易委託を担って頑張っているが、それに応えた形になったのが、2022年春の青春18きっぷのポスターら当駅が選ばれたこと。安曇野市のHPによると、大糸線の駅が18きっぷのポスターに選ばれたのは初めてのことだったという

駅を出たところからホームの駅名標を写そうとしたら

いやいや、これは絶景としか言いようがない。昨日は曇天だったが、今日は晴天で北アルプスの山々が美しすぎるし、ホーム周辺の残雪もいい味付けとなっている

実は当駅は開業時の駅名は「アルプス追分」だった。しかし登山者にとっての最寄りは、お隣の有明駅で、間違って当駅で下車する登山者が多く、わずか4年で現駅名に変更されたという歴史がある。ただこうやって景色を目の当たりにすると、ここはまさにアルプス追分である

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~安曇野観光の拠点を譲った駅

有明駅の駅名標

※訪問は2024年3月7日

全ドア開閉は当駅まで

有明駅に到着。当駅も大糸線の中で知名度の高い駅である。松本から当駅までの列車は車掌乗務の有無にかかわらず、すべてのドアが開く。当駅を過ぎるとワンマン運転の列車は1両目の後部ドアから乗車、降車時は運転士のいる先頭ドアのみとなり、きっぷの回収と運賃支払いが行われる。列車によっては当駅まで車掌が乗車し、以北はワンマン運転となる場合もある。大糸線の列車は原則2両編成(JR東日本の電車に単行運転はない)。つまり松本~有明でドアをひとつにすると旅客が多く時間がかかりすぎると判断されていることになる。有明折り返しの列車の設定もある

有明駅は島式の1面2線。構内踏切で跨線橋はない。開業は1915年(大正4)。信濃鉄道が穂高から1区間延伸させて暫定的な終着駅とした柏矢町、穂高それぞれの項で説明したが、この年の1月に松本市(現北松本)~豊科が開業すると、6月に柏矢町、7月に穂高と1カ月に1区間のペースで延伸が行われ、有明への到達は8月。現在の信濃松川駅(当時は池田松川)まで延伸されたのは9月のことなので、終着駅としての働きは2カ月未満である

観光拠点としての役割

有明駅に与えられた役割は安曇野観光そして登山の拠点だった。開業当時、有明村があったが、駅の所在地は北穂高村。有明村とは、やや離れていた。戦後に両村は穂高町などと合併して新たな穂高町となり、同じ自治体となっているが(現在は安曇野市)、今も駅の住所は安曇野市穂高北穂高である。このような事情がありながらも有明駅となったのには、穂高の次の駅を北穂高とするよりも、著名な有明山にちなんだ駅名とした方が分かりやすいとの判断だろう

駅舎は木造で戦前からのもの。リニューアルはされているが、山小屋風の駅舎は変わらない。登山の拠点駅を意識したものだろう。駅舎の柱を支える石は重厚である

現在、定期的に大糸線に入る優等列車は1日1往復の「あずさ」だが、以前は多くの優等列車が東京からの直通列車として入っていた。さかのぼり始めるとキリがないが、最も著名なものは急行「アルプス」だろう。こちらはJR移管後も夜行便として残っていたが、新宿方面から中央本線をやってきて一部は松本止まり、一部は大糸線に乗り入れていたが、70年代初期までは穂高に停車する優等列車はなく有明停車だった。それが国鉄末期の80年代に入ると穂高への停車が始まり特急も停車するようになった。一方で有明に停車する急行はどんどん減っていった。バスも含めた観光拠点は穂高となり、大糸線の定期優等列車が1日1往復の特急となった現在、有明に停車する優等列車はなくなった

現在の有明駅は簡易委託駅。1日の利用者は有明駅が約400人、穂高駅が約2000人と大きく差がついている

それでも立派な駅名板が掲げられているのは、重責を担った当駅への敬意だろう

駅舎内にはリニューアル前の駅名板が残る

もう一度ホームへ。優等列車が数多く停車していた時代からの留置線が、かつての名残だが架線は残され、まだ現役。緊急時用に備えられているという

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~109年前は安曇野への唯一の架け橋

梓橋駅の駅名標

※訪問は2024年3月7日

車窓が下車の合図

柏矢町から5駅松本方面へと戻って梓橋で下車。この駅で降りた理由、それは車窓に見えたこの文字のため

当駅が安曇野の入口であることを示した木標。これを生で見るために降りた。例によって、この時点では何の予習もしていないので降車のモチベーションのすべてだったわけである

単式ホームの駅だが、かつては島式ホームだったようで、使用されなくなった片側ホームは留置線となっている

大糸線オリジナル駅のひとつ

当駅は1915年(大正4)の開業。大糸線の前身である信濃鉄道が豊科~松本市(現北松本)を開業させた際に設置された。現在この間の駅数は多い(というかかなり多い)が、スタート時は豊科と松本市以外は明盛駅(現一日市場)そして梓橋の4駅のみ。つまり大糸線のオリジナル駅のひとつw当駅は1915年(大正4)の開業。大糸線の前身である信濃鉄道が豊科~松本市(現北松本)を開業させた際に設置された。現在この間の駅数は多い(というかかなり多い)が、スタート時は豊科と松本市以外は明盛駅(現一日市場)そして梓橋の4駅のみ。つまり大糸線のオリジナル駅のひとつである

なぜ早々に駅が設置されたかというと

私の想像も入るが梓川の対岸にあったから。川を渡れば安曇野である。駅名はここに架かる梓橋からとられた。現在の梓橋は地図で分かる通り、県道にかかる橋を指すことが一般的だが、信濃鉄道が開通した時に道路の橋はまだなく、松本地区と安曇野地区を結ぶ唯一の橋は、鉄道の橋だった

ちなみに当時の所在地は「高家村」。戦後に豊科町となり、現在は安曇野市。今も駅の所在地は「安曇野市豊科高家」だが、読みは高塚と書いて「たきべ」と読む。交通として重要な梓橋があることで駅名になったのだろうが、普通に自治体名を冠していたら、屈指の難読駅となっていたかもしれない

ホームでリンゴを

梓橋の駅舎は真新しいもの

かつては戦前からの駅舎があったが、2015年に改築された

簡易委託駅でホームは森土の高台にあるため、大糸線では珍しく跨線橋ではなく地下通路から入る形。梓川の増水で鉄道橋が大きな被害を受けたため、1967年(昭和42)に橋の付け替えが行われ、ホーム位置もわずかに変化した

目につくのは、この案内板。ホームでの栽培といえば塩尻駅のぶどうが有名だが、こちらはリンゴ

残念ながら季節が季節でお目にかかることができなかったことが残念である

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