東海道本線

桜の季節に150年前の日本初の鉄道トンネルを見にいく

石屋川公園の桜

※訪問は2025年4月1日

昨年の「終点」からスタート

昨日のお話。ここは御影公会堂。ちょうど1年前、昨年の4月にもここにいた

阪神電鉄の廃線跡巡りのゴールがここだった。今回はここからスタート。日本初の鉄道トンネルである石屋川トンネル跡を桜の季節の今、訪れることにした。トンネル跡はずっと残るだろうが、桜については賞味期間の短い記事になるので訪問翌日の公開です

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石屋川沿いに歩くと人だかり

石屋川は灘区と東灘区の境界でもある。東灘区側に御影公会堂、そして灘区側には

神戸市民のソウルフードとも言われるラーメン「もっこす」の石屋川店。まだ11時にもなっていないが、当店は10時開店ですでにこの時間でもお客さんはいる

ニンニクチップスもたっぷり入れて出発である

といっても目指す場所は、ここからそう遠くはない

その場所は東灘区側にあるが、まずは灘区側を北上。まだ満開とはなっていないが、間もなく咲き誇る時を迎えそうだ

石屋川を渡る。先にJRが川を渡る橋が見える。橋の手前まで行くと

何やら人だかり。年配の方々のハイキングの最中のようだが、皆さんが見入っているのが記念碑である

皆さんが去ったタイミングで貨物列車が通過していった。記念碑は桜で覆われる形になるはずだが日照条件が悪いのか、このあたりはまだつぼみも見られる

日本初の鉄道より早い1871年の竣工

記念碑には詳しい解説とかつての写真が並ぶ

石屋川トンネルは1870年(明治3)に着工し、翌1871年に竣工した。日本で初めての鉄道となった新橋~横浜が本開業したのが1872年なので、それよりも1年早い。鉄道を通すためのトンネルが先に造らろれ、日本で最初の鉄道トンネルとなった。使用が始まったのは1874年のこと

このトンネルの特徴は石屋川という天井川の下をくぐったこと。山を掘るのではなく川の下を通るのだから難工事である。もともと東海道線はもっと海側の河口付近を通る予定だったが、灘の酒蔵から汽車の煤煙で酒が腐るとのクレームが入ってこの位置となった。当初の予定通りだと現在の阪神電車もどうなっていたか分からない

だが上流に行くと立ちふさがったのは天井川。天井川は高いところにあるため、その上を走る鉄道橋を造ると当時の機関車の能力では登ることができない。だったら川の下を行くしかない、とトンネルとなった。鉄路のコースには住吉川、芦屋川という天井川があり、その後、同様にトンネルとなった

トンネルは大正期の複々線化の際、川が跨線水路橋へと改良され、トンネルそのものは解体。戦後の1976年には高架で石屋川を越えることになり、トンネルそのものも埋め立てられて姿を消した

その高架下の遊歩道には、かつてトンネルがあった場所に

トンネル跡を示すプレートと記念碑が設置されている。高架下でJR西日本の敷地内にあり、近づくことはできないが、JR西日本が平成15年に建立した地元らしく御影石(当地の住所は東灘区御影)を使用した記念碑がある

公道部分から見上げるとこんな感じ

その公道部分は現在も石屋川の下を通るトンネルとなっているが、鉄道トンネルのイメージはない

住吉川と芦屋川は

石屋川トンネルは完全に姿を消したが、住吉川と芦屋川については、今も当時とは姿を微妙に変えながらも天井川の下を通っている

住吉駅から東に向かって進むと東灘区役所の裏手あたりがその場所(写真は2023年2月)。住吉川に沿って北上してきた六甲ライナーが90度にカーブするあたりなので分かりやすい。両側を道路に挟まれたようになっているが、川の下を鉄道が走り

東灘区による解説がある。酒蔵からの抗議も記されている。芦屋川については割愛するが、JR芦屋駅の北側を神戸市側に歩いていくとすぐ分かる

石屋川トンネル跡は阪神の石屋川駅とJRの六甲道駅が最寄りだが

今回は六甲道駅から一度御影公会堂を経てグルリと回って歩いてみた。真っ直ぐ行くのなら高架沿いに住吉方面へと歩けば15分ほどで行ける。阪神の石屋川駅からは石屋川沿いに10分と、どちらも徒歩コースは分かりやすい

この記事を書いている間にも桜は満開になりそうだ。この季節こそ訪れてほしいポイントである

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大都会に残る未成線跡~南方貨物線その1

笠寺駅から歩くと最初に未成線と会う

2022年6月12日11時30分

完成間近の高架脚?

東海道本線の笠寺駅

こちらは駅名標ですが

音楽やスポーツイベントが行われる日本ガイシスポーツプラザの最寄り駅として有名です。駅の写真は昨年11月のものですが

駅直結でとても便利。このようにイベント告知もあり、快速の臨時停車も行われて多くの人でにぎわいます

当駅はJR貨物、名古屋臨海鉄道の貨物駅としての顔を持ち、多くの側線を持っています。6月でしたが、まだそれほど暑くはない日でした。鉄オタはガイシホール方面には、ほとんど興味を示さず、側線の端はどうなっているかを確認するため、側線に沿ってトボトボと歩きます

すると

側線の切れ目となる道路を挟んだ先に建設中とも思える橋脚が見えてきました

実際には東口から出て線路沿いを歩いてから踏切を渡っているので、徒歩時間は10分ほどですが、側線の端までにしてはかなりの距離と時間で規模の大きさが分かります

しかし、これは建設中のものではありません。「南方貨物線」という未成線跡です

ほぼ完成も列車は走らず

南方貨物線は旅客、貨物ともに好調だった昭和30年代の国鉄黄金時代の香りがまだ残る中、東海道新幹線が開業した少し後の1967年(昭和42)に工事が始まりました。名古屋駅を貨物と旅客の両列車が走ることで名古屋駅は満員状態となって、これ以上需要に応えられないということで、名古屋の南側に新たに貨物駅を設けて貨物列車は名古屋駅を通らないようにしようという計画

言われてみると東京駅や大阪駅に貨物列車はやって来ません。両駅を通らないよう専用貨物線が設けられているからです。名古屋も同様の構造にしようとしたのは自然な流れで計画そのものはかなり前からありましたが、先に新幹線計画と建設が始まったため、一度貨物線計画は凍結。新幹線開業によって東海道本線の優等列車はかなりそちらに振り分けられましたが、結局はゴーサインが出ました

専用線は武豊線との結点となる大府からスタート。笠寺までは既存の東海道本線を複々線とし、笠寺から新貨物駅までは新たに新線を建設するというものでした。複々線計画については東海道線の車窓で確認できます。明らかに複々線の用地と思われる不自然な空白があるからです

笠寺からは貨物新駅の間に建設される新線となります

ただ結論としては施設は国鉄時代にほぼ完成したものの、実際に列車は一度も走ることなく未成線に終わりました。貨物新駅は設けられて運用が開始されたものの(もちろん今も現役です)、そこに至る短絡線は未成線となりました。大都会でほぼ完成しながらの未成線というのは、かなり珍しいですが、35年が経過しても遺構は多く残っていて、中には街の風景に溶け込んでいるものもあります

その遺構見学を昨年の6月、9月、11月と3回に分けて行いました。実際に歩いたルートは微妙に異なりますが、大体こんな感じです

なぜ3回も足を運ぶことになったのかというと、他にやることがあったり、暑くてヘタレたりとかなのですが、比較的お手軽に行けるのは大都会の未成線ならでは

次回から順番に紹介していきます

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