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宮崎と志布志まで89キロ18きっぷでの日南線3日間~わざわざ内陸部に鉄路がやってきた

※訪問は2026年3月10日

日南駅の後は隣駅を優先的に

飫肥駅に到着の様子。ふだんは道中も大切な記事の要素にしているため、駅の紹介は訪問順にしているが、前記事で日南駅を紹介したからには、飫肥駅か油津駅の少なくともどちらかを紹介しないと話がうまく進まないので、訪問順は日南駅のかなり後になった飫肥駅を紹介する

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要衝、城下町として栄える

まずは予備知識がないと、なかなか難読である。難読駅には大きく2種類に分かれていて「漢字そのものが難しい」「簡単な漢字なのに思わぬ読み」があるが、こちらは前者。ただし飫肥藩、飫肥城で有名な地域でもあるので、知識がある方も多いはずだ

地名については平安時代の文献にすでに登場していて「火に負わせる」「細長い帯状の土地」「肥沃な土地」などの説があるようだが、土地そのものの特徴を表した後者の2つは町の発展に大きく寄与した

駅の位置は町の中心から川を渡った場所にある。地図だけで分かるが、酒谷川が「ひ」の字を描く場所にある。敷設の際は川を2度も渡ることが手間だったのと、すでに街ができていて線路が入り込む余地がなかった2つの理由が考えられる

この独特の地形が町を発展させた。まず都城と港町の油津を結ぶ中継地だった。ここから川を下ると油津の港に出る。川のおかげで土地は肥沃である。そして何よりも川が生み出す地形は天然の要塞として重宝された。豊臣秀吉が全国統一を果たすまで、伊東氏と島津氏が100年にもわたって攻防を繰り広げた100年戦争の場所にもなった。江戸時代から明治維新までは長く伊東氏の飫肥藩としての安定した治世が続き、交通の要衝として九州の小京都と呼ばれるほどの発展を遂げた

ここでようやく鉄道の話となるが、志布志から伸びてきた線路が飫肥までやって来たのは1941年のこと

日南線(当時は志布志線)は南郷から油津までは海沿いを走るが、油津から突然進路を山中に向かってとり、飫肥へと向かうのだが、飫肥は外すわけにはいかない重要な町だった

飫肥の駅舎も飫肥城を模した立派なものとなっている

市民のとった選択

そして前記事からの日南駅、油津駅との関係に戻る

市町村合併の際に飫肥町と油津町がもめ、折衷案としてその間にあった吾田駅に市役所を設置したのは、前記事で記した通り。2つの町が対立した結果の折衷案としては、動橋駅~大聖寺駅の間の加賀温泉駅(北陸本線)や西那須野駅~黒磯駅の間の那須塩原駅(東北本線)が有名だが、これはどちらの駅に特急を停車させるか、新幹線の駅を設置するかの対立に困った鉄道側も間に入っての案だった。それに対し、日南駅の誕生(改名)は市民、町村の話し合いによって生まれたもので、主役が異なる

こちらは駅舎内の様子。日南市の簡易委託駅でベンチとテーブルは飫肥杉を用いたもの

駅名板にも飫肥杉が利用されている

1950年という戦後間もない時期の市町村合併は、後の自治体合併のモデルのひとつにもなったという

当駅に来た時間はすでに夕刻になろうとして高校生が下校する時間にもなっていた

飫肥、日南、油津の3駅だけで、古代から現代までの歴史を学べるのである

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宮崎と志布志まで89キロ18きっぷでの日南線3日間~駅と地域の成立を知る

※訪問は2026年3月10日

快速で1時間、日南駅へ

田吉での乗車から1時間と3分かけて日南駅に到着。田吉から乗車したのは快速「日南マリーン号」。当時は1日1往復の運行で下りは午前、上りは夕刻の運行だったが、現在は下りのみの運行となり、時間も20時台と旅人はなかなか乗車しづらい時間となっている。当時の停車駅は日南の手前の飫肥(おび)まで快速運行で飫肥以南が各駅停車だった。「降り鉄」としては途中の通過駅では下車できない列車なのだが、これを逃すと2時間列車がないので強制乗車となる。もっとも今回の旅の優先事項は日南線の鹿児島寄りの閑散区間なので一気に日南まで運んでくれる列車だ。ちなみに日南までの到達時間は普通よりも20分ほど早く着くことができる

ご覧になれば分かるが、かつては2面あったホームが今は棒状化されている

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駅名標に注目

下車してまず目をひくのが駅名標

随分と派手だ。これからもいくつかの駅で登場するので先に説明すると、「宮崎だいすきポケモン」に任命されている「ナッシー」と「アローラナッシー」を描いた列車が2024年12月に運行を開始。その際に7駅がキャラクター駅名標に変更された。サムネの駅名標は駅舎のホーム側に掲げられたものだ

日南駅の駅舎。基本形は昭和30年代の国鉄コンクリート駅舎だが、正面部分に飫肥杉を使用した駅名板を設けるなどして2020年に大幅なリニューアルが施された

駅舎内も美しく変更

日南市が簡易委託する有人駅できっぷ売場の窓口のほか、コミュニティースペースは待合室としても利用できる。さすが日南市の代表駅としてのたたずまい…と言いたいところだが「代表駅」との表現は微妙に違うかもしれない

紆余曲折の末の「日南駅」

その説明の前に、まずは当駅の歴史を紐解かなければならない。開業は1941年(昭和16)。国鉄の志布志線の一部として開業した。田吉駅の記事でも説明した通り、現在の日南線の北側は、かつての宮崎交通線の路盤を利用した区間だが、北郷~志布志はかつての志布志線区間となっている。志布志線とは1987年3月と国鉄民営化の直前に廃止された路線で、日豊本線の西都城と志布志を結んでいた。まず大正期に西都城と志布志が結ばれ、昭和になって志布志から北上するように北郷まで延伸された。当駅はその過程で設置され、駅名は「吾田」だった

戦後の1963年になって宮崎交通線部分と志布志線の北郷~志布志間がつなげられ、新たに日南線が誕生。そして全国で国鉄線が相次いで廃線となる中、志布志線は廃線となり、もともとは志布志線だった日南線の志布志以北は生き残るという運命をたどった。もし日南線が誕生していなかったら…という話である

そして日南駅のたどった軌跡も日南線とオーバーラップしてくる

日南駅を降りると大通りがあり、すぐの場所に日南市役所があるが、前述した通り、日南駅は開業時は吾田駅だった。それは吾田村に所在したからである。戦後間もなく周辺自治体同士の合併話が持ち上がった。その際、かつて城下町として栄えた飫肥町と漁港など経済の中心地として栄えた油津町との主導権争いとなり、どちらに役場を置くか、自治体名はどちらをとるのかで大いにもめた。最後は折衷案としてその間にあった吾田町(村から町となっていた)に役場を置くことで合意。1950年に日南市が誕生して2年後に駅名も日南駅と改められた。日南というのは日向の国の南という、その時に作られた新たな都市名。プロ野球のキャンプ地としてメディアに登場することの多い日南市だが、実は地名そのものから苦労と知恵を持ち合った産物でもある

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宮崎と志布志まで89キロ18きっぷでの日南線3日間~25年の雌伏から復活した駅とスイトピー

※訪問は2026年3月10日

間に合わなかった場合は

宮崎空港から1駅。田吉駅に到着。宮崎空港線はわずか1・4キロの路線なので出たと思ったら着く。ただ前記事で記した通り、乗り継ぎを考えると、この電車に間に合ったことは大きな意味を持つ

もしこの宮崎空港発8時32分に乗れなかったら、どうするつもりでいたか。答えは簡単

約2キロの道程を歩くことにしていた。この区間は路線バスも走っているのだが、私の行程には合わなかった。目的の日南線列車の田吉発の時刻は9時20分なので時間はたっぷりある。ただ旅の最初に飛行機を降りていきなり徒歩というのは、ちょっとやっていない気がする。そもそも空港からの移動に徒歩という手段をとったことはなかなか記憶にない

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利用者少なく廃止も

田吉駅は公式には1996年(平成8)の開業。ただし1度廃止されてから四半世紀を経て復活した歴史を持つ。もともとは1913年(大正2)に宮崎交通線(当時は宮崎軽便鉄道)の駅として開業したので実は生誕から110年を超えている。今後の記事でも触れていくが、日南線の北側はかつて南宮崎(開業時の駅名は赤江)からの宮崎交通線の路盤を引き継いだもので、駅もおおむね引き継がれているが、1962年(昭和37)に宮崎交通線が1度廃止され、翌年に国鉄の日南線が開業すると、田吉駅も装いを新たに開業した。だが、利用者が低迷したことで、1971年には廃駅となってしまう。このまま時は過ぎていったが、1996年に復活を遂げる。同年に宮崎空港線が開業。その分岐駅としてカムバックしたのだ

無人駅で小さな待合室とも言っていい駅舎と島式ホームだけの駅。ここから志布志寄りで日南線と空港線が分岐するが、南宮崎からの日南線の電化区間はここまで。電車はあくまで宮崎空港線のもの

こちらが訪問当時の時刻表。宮崎方面は日南線と空港線の両者が乗り入れるので本数はもちろん多いが、これだけを見ると日南線も空港線も同じような本数に見えるが、空港線には田吉を通過する特急も走っているので、空港線の方が本数では勝る。ちなみにこれから乗車するのは快速マリーン号(当時)で、途中駅のいくつかを通過し、10時37分の特急は基本的に週末の運転なので、普通列車については3時間以上、快速を入れても2時間運行のない時間がある。そして行き先は青島、油津、南郷と細かく設定があるが、終点の志布志まで行く列車はごくわずかである

ホームの向こう側つまり空港側には建物に制限もあって農地が広がる。1日の利用者数は狭いホームでも分かるように数十人程度とみられるが、空港と逆側の県道沿いにはロードサイド店のほかにスーパーもある比較的大きな街が広がっていて、駅が廃止になってしまうレベルものではない。昭和40年代以降、車社会が浸透していって拡大したものだろう。また当駅は南宮崎にもそう遠い場所ではないことも利用者の少ない要因になっていると思われる

旅の最中の圧倒的一番人気

さて私は旅に出ると3時間おきぐらいにXで状況を投稿するようにしているが、今回の旅で圧倒的な一番人気を獲得したのは、こちらだった

「赤江地区だからあかえスイトピー」。これはなかなか刺さった。どういう工夫があるのかはあえて書かないが

まだスイトピーの季節ではなかったが、これは私の世代にはあまりにもハマリ過ぎだった。かなり気分をよくして、ようやく日南線の旅の本格スタートである

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宮崎と志布志まで89キロ18きっぷでの日南線3日間~宮崎空港ではほぼダッシュで

※訪問は2026年3月10日

まだ暗い三ノ宮駅から

始発で降りた5時半の三ノ宮駅はまだ真っ暗。それでもそれなりの人が乗っている。今回は大阪(伊丹)空港から宮崎へと向かう。目的は宮崎空港からの日南線である

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あらかじめ18きっぷも用意して

空港に移動して7時になると、すっかり夜明けを迎えた

宮崎行きの飛行機は7時15分発である。今回は日南線の各駅訪問を行う。なぜ日南線かというと、3月14日のダイヤ変更(改正とは言わない)での減便が発表されていたからだ

日南線は日豊本線の南宮崎から分岐して鹿児島県の志布志へと向かう路線で全長89キロ。大きな地図を見ると、海沿いを走る風光明媚なローカル線のイメージがあるかもしれないが、こうして見ると海沿いを走る区間は意外と少ない。南宮崎から南下していくと、有名観光地の青島あたりまでは海沿いを走るが、その後はどちらかというと内陸部を走る。また青島までは、まるで私鉄のように細かく駅が設けられているが、青島を過ぎたあたりからは駅間距離も長い

この2つのポイント「途中までは海沿いを走り私鉄のように駅が多い」「青島あたりから駅間距離が長くなり内陸部を走ることが多い」が、日南線の歴史と特徴なのだが、そちらは順番に触れていこう

旅程は3日間

あらかじめ青春18きっぷを用意しておいた。今回は優等列車だけの日南線(厳密には週末に観光特急が走るが今回は無縁)のみの利用なので18きっぷだけで十分である

運命を分ける飛行機の到着時間

18きっぷを全日までに購入したのには理由がある。宮崎空港でのJR接続が微妙なのだ。時刻表では8時20分の到着予定で宮崎空港駅での南宮崎方面の列車は8時32分発。ただご承知のように列車とは違って飛行機というのは到着して5分後に駅の外に出られるというものではない。機外に出るにも時間がかかるし、ロビー通り抜けにもそれなりに時間がかかる

飛行機は無事にほぼ定刻で着陸したが、ロビーへと移動する通路から宮崎空港駅が見える。この時点で8時25分。あと7分しかない。ここから外に出て回り込むと結構な距離があることを過去の経験で知っている

宮崎空港駅からは宮崎駅へ向けて宮崎空港線が出ている。この空港線は帳簿上は隣駅で日南線との分岐駅でもある田吉駅までの総距離1・4キロとJRで最も短い路線として知られるが、実質は田吉から日南線に入って日豊本線と日南線の分岐駅である南宮崎から宮崎と進む運用となっていて空港線のみで完結する列車は走っていない。またこの区間は電化されていて、日南線は南宮崎~田吉の1区間だけが電化区間となっている

行ってみると分かるのは日南線の冷遇ぶりだ。宮崎空港には大分方面からの特急も乗り入れ、特例として宮崎空港~宮崎間は特急自由席に乗車券だけで乗れる特例が設けられているが、この特急は田吉には停車しない

そればかりか、この時のダイヤだと8時32分を逃して次の9時20分に乗ると、田吉到着は9時25分で、その田吉では9時19分発の志布志行きが出発したばかり、次の志布志方面は11時25分までないという、なかなか悲惨な状況になってしまう。つまり何とかして8時32分に乗るか、乗れなければ別の手段で9時19分までに田吉駅まで行かなければならないのだ(3月のダイヤ改正で若干状況が変化している)

自分の立てた道程では順調に行けば、3日目のお昼ごろには全駅訪問が終わるのだが、それにはこの最初の関門を突破しなければならない。もっとも乗れないことも考えて3日間で全駅というゆったり計画にしたのだけれど

超早歩きで、あと3分という時点で駅までたどり着いた。実はこの写真は2024年4月のもの。サムネ写真もそうだが、のんびり写真を撮る余裕はないのである

2年前のことは忘れてしまったが、写真を見返すと最初から8時32分など眼中になかったようで、のんびりと時間を潰し宮崎空港駅で2種類のきっぷをゲット

悠々と日豊本線の青井岳駅に行ったようだ

とにもかくにも最後はダッシュで何とか間に合った。ここまで来れば駆け込み乗車にはならなかったが、しばらくゼーゼーしていた私は奇異な目で見られたことは間違いないだろう

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羽衣界隈から堺までを再確認してみた~鉄道会社同士による仁義なき戦い

※訪問は2026年4月18日

古いアルバムから

2017年9月15日の写真が出てきました

こちらは鳳駅。このころは支線(羽衣線)のみ103系の運用。この半年後に置き換えがあったので貴重な写真に

東羽衣駅。今や羽衣駅のランドマーク的存在になっているホテルが工事中だったことを写真で知った

本文には関係ないが、この時は遅い夏休みをとっていて(まだサラリーマン時代)、このまま南海に乗って和歌山市駅へ行き、和歌山駅へと移動し御坊から紀州鉄道に乗車。御坊に戻り特急で新宮で下車して現地泊。翌朝は熊野市駅まで移動してJR東海の16私鉄きっぷを購入(新宮では買えない)して多気駅で乗り換え鳥羽へ。鳥羽で折り返し名古屋経由で静岡泊。身延線で甲府から小淵沢経由で小海線に乗車。小諸からしなの鉄道に乗って長野で泊まり、翌日は軽井沢まで出て、あえてバスで横川へと向かい高崎線で延々と東京を目指して新幹線で帰るという、今の体力気力ではとてもできない濃い旅を行っていて写真を見返し自分でもビックリした

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後発の阪和電気鉄道の仕掛け

阪和電気鉄道と東羽衣駅についてはこの時も少し触れているが、南海の国有化拒否にあって困ったのは国側で、肝心の和歌山から大阪までがつながらないのでは紀勢本線の意味が全くなくなってしまう。「では」と立ち上げられたのが阪和電気鉄道。国鉄との相互乗り入れを果たす前提で天王寺から東和歌山(現和歌山)が突貫工事で建設され、1930年(昭和5)に全通した。大阪側の起点も国鉄の天王寺駅に隣接する形でもうけられた。海沿いの主要都市を南海に押さえられているため山中を進むしかない分、スピードを重視して最初から複線電化という画期的な開業だった。それでも私鉄のたたずまいはターミナル駅の雰囲気を残す天王寺駅のほかにも残っていて、待避駅は国鉄ならではの2面3線ではなく2面4線構造となっているのは、名残である

立地的に不利な阪和電気鉄道は南海に対抗すべく、遊園地の開業、新規住宅地開発、競馬場開設と人を集められそうなことは何でもやった。そこで目を付けたのが南海の羽衣駅の西側に広がる、当時東洋一と言われた浜寺の海水浴場だ。「あの客を奪ってしまえ」と敷設されたのが羽衣線。阪和電気鉄道は1929年に天王寺から和泉府中までが開業したが、同時に支線も開業した

当時は地上駅で、最初に挙げた2017年当時はまだ南海の踏切は残っていたが、踏切の真ん前に堂々と新駅を設けたのだ。駅名はズバリ「阪和浜寺」。明治来の南海の浜寺公園駅(開業時は浜寺駅)は羽衣から北へ800メートルほどの隣駅だが、駅名そのものもちゃっかり「失敬」。ちなみに開業日は7月18日。まさに海水浴シーズンにぶつけたのだ。南海の踏切の向こう側には東洋一の海水浴場でにぎわっている。釣りでいうところの入れ食い状態だ。鉄道駅や路線ができる理由としては寺社仏閣への参拝や温泉が知られるが、娯楽の少ない当時は海水浴も柱のひとつ。マイカーもない時代である。今も全国には海水浴場最寄りの駅がいくつもある

もちろん南海も黙って看過していたわけではない。海水浴客が少しでも不便に感じるよう踏切で電車を徐行運転させて「開かずの踏切」をあえて作り出した。利用者にとってはいい迷惑だが、共存共栄の精神などはこれっぽっちもない抗争だったのだ。実際に両社の社員が踏切近辺で「武力衝突」したという伝説も残る

もちろん今は共存共栄で、互いに車内アナウンスで乗り換え案内が行われる。JRと南海の両駅は、つい最近のことだがペデストリアンデッキで結ばれた

おかげで駅名板はすっぽり隠れて遠くからは見えなくなってしまったが利便性優先である

戦時色が強くなった1940年に阪和電気鉄道は南海に吸収合併される。レジャー施設も次々に休止。戦時中の1944年には国有化され国鉄阪和線に。わずか10年ほどしか存在しなかった阪和電気鉄道という会社だが、大いなる遺産を残していることは、この支線ひとつをとってもよく分かる

関西空港へは南海とJRが線路を共有している。QRコード乗車の登場によって両社ともに使えるフリーきっぷも発売された。たった10年の2つの鉄道会社の密度の濃い抗争史を紐解くと、隔世の感という表現がピッタリ来る

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羽衣界隈から堺までを再確認してみた~唐突感ありありの支線羽衣線から

※訪問は2026年4月18日

昨年の川底トンネルから1年

お昼前の時間。天王寺から阪和線に乗車して約15分

鳳駅に到着。ここでX(旧ツイッター)のフォロワーしんさん(@sin103neko)と合流。昨年の暮れに上六で一杯(というか何杯も)やって以来だが、ともにウロウロするのは

昨年5月に、大阪の隠れ名所である安治川トンネルを歩いて以来のこと。あれから季節がグルリ1周したかと思うと1年は早い

今年はどこに行こうかと話し合っていて、しんさんから提案を受けたのが羽衣を中心とした散策。そういえば高師浜線は工事運休前に訪問して復活後も乗っていない。それは、ぜひぜひということで今回の訪問となった

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やはり支線からスタートしないと

南海の羽衣駅から分岐している高師浜線に乗車するのだから、南海で羽衣まで行けばいいと思うかもしれないが、ここはやはり阪和線支線で鳳から東羽衣まで行くのが「通」(オタともいう)だろう

阪和線の支線で羽衣線という通称も持つ。鳳駅では専用ホームから出発するが、ご覧のように次の駅が終点の東羽衣。距離はわずかに1・7キロ。徒歩でも問題はない距離。出発したと思ったら到着する

ハイ終点。そこには車止めがあって先には行けないし、線路が延伸される予定もない。そこには南海の羽衣駅がある

今でこそ貴重な連絡線だが

こちらは駅にあった振替輸送用の案内図だが、阪和線と南海本線の位置関係が分かりやすいので掲載してみる

南海と阪和線は途中一切交わることなく、なんばと天王寺から和歌山を目指す。和歌山も南海の和歌山市駅と和歌山駅は離れている。2つの和歌山駅については説明を始めると長くなるので今回は触れないが、ここで目立つのは鳳~東羽衣の支線の存在。こうして見ると「なぜここだけ?」との唐突感さえある。しかも戦前から存在する路線だ(関空とを結ぶ両社の空港線はもちろん近年のもの)

実際に両社に乗っていると堺や岸和田あたりで連絡線があれば便利なのに、と思うが。連絡路線はここ羽衣線だけ。というのもこちらは利便性のためにできた路線ではないからだ

大阪と和歌山を結ぶ鉄道は、かつては南海しかなかった。1903年(明治36)には大阪~和歌山(なんば~和歌山市)で早くも全線開通している。両都市を結ぶだけでなく、沿線には人口も多く、古くからの街や港があったため利用者はどんどん増えた。優良企業だった

そのころ紀伊半島に敷設が進められていたのが紀勢本線。部分ごとに開業し、現在の和歌山駅ができたのは大正も終わりになったころ。将来的には鉄道国有法を持ち出して南海を国鉄にすれば大阪まで鉄路はつながる…と関係者が思い込んでいたところで、大いにもうかっていた南海が国鉄にされてしまうことを強硬に拒否。これが阪和線の誕生へとつながっていく

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小浜線の全24駅訪問を終えて 後編~沿線の高校生と北陸新幹線

※最終訪問は2025年8月9日

電化の経緯

小浜線の電化にあたってJR西日本は全く費用負担をしていない。約100億円以上の電化費用は福井県、京都府や沿線の各自治体が半分、原発を持つ電力会社が残る半分を負担している。沿線の自治体も原発設置によるお金が入っていたので負担費用を捻出できたともいえる。また電化のさまたげとなる長大トンネルがほとんどないことも電化を容易にした

目的は電化によるすビードアップも含めた地域の活性化や需要の掘り起こしが挙げられる。また電化という手段は、一定の運行本数があれば維持費の削減にもつながる。さらに後に触れるが、将来的に北陸新幹線が小浜に乗り入れれば大きなインフラになるとの期待もあった

こちらは小浜駅の時刻表だが「一定の本数」という観点では微妙な運行本数で、スピードアップという点では、古い路線で路盤が悪いことから最高時速は85キロに抑えられ、JR西日本ならではの25キロ制限の場所もあるなど、敦賀~東舞鶴の所要時間は数分の短縮にとどまり、短縮電車性能をフルに生かしているとはいえない状況となっている

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沿線の学校の多さ

そのような事情からJR西日本は「持続についての地域との話し合い」をチラつかせているが、6月に乗車した時にバス転換は無理だと感じた。小浜線に乗車していると分かるが、旅客の大多数は沿線の高校生である。沿線には複数の高校があって、高校生でにぎわっていることを該当する駅の紹介でも織り込んできた。3月の春休み期間に訪れた時も多かったが、6月は全くの平日で朝夕のにぎわいは凄かった

こちらは6月の気山駅(美方高校最寄り)そして

3月の東小浜駅(若狭東高校最寄り)。これでも控えめに撮った方で、実際はもっと多い。当然だが沿線の学校だけでなく敦賀の高校に通う生徒も多いわけで、登下校特に登校の時間帯は凄い数になる

4年前に岩徳線の各駅訪問を行った時も

朝の登校時間の車内はすさまじく、周防花岡駅では当駅最寄りの学校に行く生徒と当駅から徳山の学校に向かう生徒でホームはごった返し、しばらく列車が発車できない状況となっていた

全国各地で見られる光景だが、朝にこれらり生徒をバスで運ぶためには一体何台のバスが必要なのか分からないぐらいの数である

北陸新幹線という新規参入

地域の大きな鉄道の話題は北陸新幹線の延伸問題だ。小浜線が電化される際には敦賀から新大阪までどうやって新幹線がたどり着くのか全く決まっていない。小浜線の一連の記事で東小浜駅を紹介した昨年12月に「自民党が大幅に議席を失ったおかげで、1度決まった北陸新幹線の小浜ルートが元の8ルート選択に戻ってしまった」と書いたが

先日の選挙で自民党が圧勝したことで再び小浜ルートに戻りそうな雰囲気にもなったが、地下を走ることが多く多額の費用がかかることと、水源問題もあって一番負担を強いられそうな京都府は簡単にウンと言いそうもない。そもそも京都駅をどこにするのかも確定していない状況で、この区間に新幹線を走らせることが京都府にどれだけのメリットがあるかも微妙である

そして小浜線はというと、整備新幹線のルールら照らし合わせると並行在来線となってしまう可能性もある。並行部分は敦賀~小浜となるが、この区間のみまたは全線三セク化というのは、地元にとっても飲める話ではないだろう

いろいろな事情が絡み合う北陸新幹線の延伸問題。ひとつ言えることは私が元気に新幹線に乗れる時期までには開業しそうにないということ。土俵で関係者がにらみ合ったまま、小浜線は現在の姿でしばらくいそうである

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小浜線の全24駅訪問を終えて 前編~電化わずか20年ながら先行きは不透明

※最終訪問は2025年8月9日

輸送密度2000人以下の区間のひとつ

昨年の3月、6月、8月と3度の訪問で敦賀、東舞鶴の起終点を含む小浜線の全24駅訪問を終えた。それから半年以上が経過しているが、現状や感じたことを記していきたい

2022年にJR西日本は管内の輸送密度2000人以下の区間について発表。2019年のコロナ禍以前のデータだ。輸送密度とは区間における1キロあたりの利用状況を示す数字で、国鉄時代は4000人をバス転換(つまり廃線)の基準にしていたが、全国に自動車専用道が張り巡らされている現在、JR各社は2000人という数字を基準にしているようだ(JR東海は非公表)

JR西日本では中国山地や日本海側を走る多くの路線が2000人未満となっている。ただ輸送密度という概念は発表する側が恣意的に区間を切って数字を出すことが可能で、そのあたりは対象線区とその前後も慎重に見る必要があるが、小浜線については84キロの全線を対象にした数字となっていて991人。1987年のJR民営化時の数字も発表されていて2712人。つまり当時の37%しか旅客がいないことになる

これには複数の理由があるが、大きいのは舞鶴若狭自動車道だろう。1987年の時点では予定線だったものが、どんどん工事が進んで2014年に全通

小浜線だと2時間近くかかる行程が自動車だと70分となった。ローカル線と並行する自動車専用道の競合は中国自動車道や山陽自動車道など各地で見られる要因のひとつとなっているが、小浜線と舞鶴若狭自動車道は、ほとんどの区間を寄り添うようにピッタリ走り、小浜線がカーブを描いて海から山中そしてまた海へと戻る区間も道路はほぼ真っ直ぐに貫いているので、それは早いはずである。また小浜線の最高速度は85キロでJR西日本ならではの徐行区間もある

営業係数は678

100円稼ぐのにいくらかかったかという営業係数は678。つまり100円を得るために678円が必要だったということで、この数字をどう評価するかだが、関西本線の非電化区間である加茂~亀山が全長61キロで、輸送密度が1090人、営業係数が685なので、同じような数字だといえる。ただ輸送密度2000人以下の路線で電化されているのは小浜線のほかには加古川線の西脇市~谷川、紀勢本線の白浜~新宮そして小野田線ということを考えると、2000年代に入ってわざわざ電化した小浜線(2003年)と加古川線(2004年)がここに入っているのは、ある意味目を引く数字となっている。言い換えれば「利用者は多くないのに電化された路線」である

小浜線と加古川線に共通するのは125系電車で運行されていること。電化について地元の出資があったということで投入された車両で、この2路線でしか走っていないのも特徴

基本的に最低編成数が2両となっていた電車で単行運転を可能にした新型車両だが、小浜線では現実的に2両編成のみが走る。加古川線の西脇市~谷川は17キロで輸送密度321人、営業係数1567人とさらに悪い数字となっている。数字だけを見ると両線の将来は不透明だということになる

加古川線の電化理由は阪神淡路大震災の教訓から得た迂回路造りだった。一方の小浜線は地元の出資の多くは電力会社である

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小浜訪問の必須コース利用で盛夏の小浜でサバをいただく日帰り旅 後編

※訪問は2025年8月9日

約40年ぶりの車窓

バスに乗車。10人ほどの並び客とともに乗車。平日や時刻、繁忙期などそれぞれの事情に分かれた利用者数は分からないが、土曜日の朝としては人が多い方ではないだろうか。当然座れた

前記事でも触れたが、乗るのは昭和以来の約40年ぶり。出張だった。このバスの存在を知ったのもその時で、そもそも当時はインターネットというものはなく「大阪から小浜まで」と検索すると、パッと画面に表示される時代ではなかった。たまたま会社に小浜出身の先輩がいて、小浜に行くにはどうしたらいいのか尋ねたところ、このバスの存在を教えられた。てっきり敦賀経由か舞鶴経由でしか行けないと思っていた私にとっては、まさに「目がウロコ」だった。ただし若江線の2度の乗車はいずれも真冬。横殴りのみぞれが降っていたことだけは覚えていて真夏の今日とは景色は全く異なっているし、そもそも出張と言われただけでドキドキしていた社会人1、2年目の私には車窓を眺める余裕など全くなかった

貴重な県境越え路線

写真で分かるようにこの日の利用者は皆さん軽装で、旅行者というより地元の方が多かったようだ。近江今津と小浜を結ぶ若江線は路線バスとしては貴重な県境を越える路線となっている。小浜線沿線でも以前紹介した

福井県の若狭高浜と京都府の東舞鶴を結ぶ路線バスはあるが、全国に残る県境越え路線は、元々が同じ国だったり、地域の結びつきが強いものがほとんど。若江線のように山を越えて別の国、別の県へ行く路線は今や希有な存在といえる

山中での乗客の入れ替えもあり

熊川まで来れば小浜線の上中駅はすぐそこ。熊川宿で知られる鯖街道の古い町並みが残る熊川は、もし鉄道で結ばれていれば主要駅のひとつとなったに違いない場所

上中に到着してからも乗客の入れ替わりはあり(小浜線の本数が少ないため上中~小浜のバス利用もあるようだ)

私も区間利用したなぁ、などと思っていたら、小浜の街に入り

無事、10時半に小浜駅に到着。この日の朝は近江今津付近も小浜付近も比較的涼しかったので、皆さん上着を羽織っている

小浜での行動はもちろん

1日の利用者数が1554人(2023年度)と、路線内で唯一4ケタの利用を誇る(敦賀、東舞鶴をのぞく)最大の駅、小浜駅に到着。2016年の10月以来、9年ぶりの訪問だ

大きな駅だが、ガランとしている。それは当然で

10時半というこの時間は全く運行のない時間なのだ。そして私に与えられた時間も限られている。この後は敦賀経由で帰路に着く予定だが(帰りも若江線を利用すると18きっぷの意味がなくなる)、11時57分を逃すと2時間半も運行がなくなる

そして私へのミッションは

マンホールにもある通り、サバをいただくこと

いやいや、美味しかった

11時57分の列車にも無事に間に合って敦賀へと向かう

3月以降に何度も見た

敦賀駅の駅名標ともしばらくお別れである。当然だが、朝の涼しい気候はとっくに終わっていて8月の猛暑が訪れていた。この後、湖西線の未回収のいくつかを回って帰宅

鉄路で結ばれることはなかったが、90年も続くバスは鯖街道が今も昔も重要路線として存在していることを物語っている。近江今津駅から小浜駅までの運賃は1350円である

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小浜訪問の必須コース利用で盛夏の小浜でサバをいただく日帰り旅 前編

※訪問は2025年8月9日

手には青春18きっぷ

朝7時の尼崎駅。土曜日ということで人は少ない

そばに卵かけご飯の朝食をかき込んで出発

手には青春18きっぷ。ご覧のように本日が最終日。このきっぷを基本にバスを利用して小浜を目指す。もちろん日帰りだ。千葉駅発行となっているが7日に千葉からスタートして総武本線や成田線、東海道本線や御殿場線を経由して帰宅。道中、沿線トラブルによる運行停止などいろいろなことがあったが、9日の行動計画については最初から譲らないつもりだった

もともとは未成線の代替バス

尼崎から新快速に1時間半乗車して近江今津に到着。湖西線を進む新快速は近江舞子から各駅停車となり、多くの列車がここ近江今津で12両→4両へと編成が大幅に縮小される。そのため長時間停車を行うことも多い。当駅には朝夕に一部のサンダーバードも停車する。つまり湖西線の重要駅のひとつとなっている

近江今津駅の開業は湖西線の開通した1974年(昭和49)と比較的新しいが、それ以前から当駅は重要駅だった。湖西線の開業前に重要駅だったとは、どういうことかと思われるかもしれないが、それ以前は大津方面からの江若鉄道の終着駅だった(駅の場所は異なる)。江若鉄道とは会社名を見て分かるように「近江」と「若狭」を結ぶ路線。大津市からの敷設は大正期から始まり、昭和初期に近江今津までやって来たが、近江今津から小浜(正式には現上中駅)を目指すための資金が不足してギブアップ。そこから先は国鉄が工事を引き継ぐことになった

そして鉄路が完成するまでの代替手段としてバス路線が設けられた。代替交通なので国鉄バスが運行にあたった。もちろん戦前の話。戦後になってもこの区間は鉄道を通す計画は残っていたが、今度は国鉄が経営難に陥る。JR移管後もいろいろ動きはあったが、結果的には湖西線と引き換えに江若鉄道が廃線となり、バス路線はそのまま残った。未成線を行く34キロのバス路線は90年もの歴史を持つ路線となった

大阪・京都からの最短ルート

ちなみに廃止となった鉄道は江若鉄道だが、バスの路線名は若江線である。そしてこのバス路線がずっと続いているのは大阪や京都から小浜に向かう際の最短ルートとなっているからだ。近江今津駅にやって来る新快速は1時間に1本。この新快速と約10分で連絡するようになっていて、小浜まではちょうど1時間。大阪から新快速に乗車すると2時間半で小浜まで行くことができる。敦賀経由や東舞鶴経由より便利だ。小浜線を全く利用しないコースは小浜線にとっては、いわばライバルの存在となっているが、運行がJR西日本バスなので、どうしようもない

と同時に小浜線全駅訪問をしながら、小浜への最短ルートであるこのバスに1度も乗らないのはどうか、との思いも強くあって今回の乗車となった。実を言うと最後に乗車したのは「昭和」で、約40年ぶりの乗車となる

運行は1日11本

写真で分かるようにすでに乗車の列はできている。昭和以来のバス旅を楽しもう

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