きっぷ

2年がかりの呉線全駅訪問~テーマパーク閉園も駅も駅名も残る

呉ポートピア駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

至近の駅には徒歩移動

国道を海沿いに歩いていくと呉ポートピア駅の入口に到着した

天応駅で、やや急いでいたのは、お隣の呉ポートピア駅まで徒歩移動するため。といっても駅間距離はレールでも1・3キロ。線路と並行して国道があるため、歩いても、ほぼ同距離である。ちなみに呉ポートピアと隣の小屋浦も1・5キロと駅間は短い

呉線の呉以西は昼間は1時間に3本の運行があり、うち2本が快速で1本が普通の運行となっていることは何度か触れたが、つまるところ普通のみの停車駅は1時間に1本しかない。駅で1時間待つという選択肢もなくはないが、歩けるところは歩いて次の列車を待つ方が合理的だ(乗降の両者を行うことはできないが)。日中はまだまだ暑いころで、かなり汗だくとなった

元々は私鉄だったという路線や都心には歩いてすぐという駅間も多いが、ずっと国鉄だった地方路線(といっても呉線は地方交通線ではなく幹線)としては珍しい。特に広から西側は戦後になって新駅や復帰駅がいくつかあって駅間距離は短くなっている。その都度紹介していくつもりだが、その理由もさまざまで、周辺人口が増えたとは必ずしも限らない

その意味では呉ポートピア駅は新たにテーマパークができたので設置された駅である

テーマパークが全額出資

橋上駅舎を出ると跨線橋があり、そこは「呉ポートピアパーク」という公園となっているが、元々は「呉ポートピアランド」というテーマパークで、さまざまなアトラクションが並んでいた。ポートピアランドといえば、連想するのは神戸ポートアイランドにあった神戸ポートピアランド。こちらは阪急電鉄によるもので、1981年の博覧会であるポートピア81とともに開業し、博覧会終了後も大いににぎわっていた。ならば他にもポートピアランドをと、同じく阪急が呉市と第三セクターを作って1992年に開園した。駅については三セクの全額出資という力の入りようで開園前日の3月19日に開業となった

住宅地と国道の間の狭いスペースに単式ホームが器用に設けられている

すれ違いのできない棒状ホームながら橋上駅舎となっているのは、駅から国道をまたいで直接公園に入れるようにするためだ。これもなかなか気合が入っている。JRも新たな新名所誕生に応える形で、快速停車駅としてみどりの窓口も設置した

テーマパークは終焉も

このころは日本中でテーマパークが流行ったころで、1996~98ごろ高松にいた私は出張でよく呉二河球場を訪れていた私は車窓から見える大観覧車に驚嘆していた。ちょうどその頃、倉敷の駅を出たところにチボリ公園も開業している

だが華々しく開園した呉ポートピアランドはわずか6年で経営悪化により閉園。ちなみに倉敷チボリ公園も2008年いっぱいで閉園した。日本中でテーマパークが流行する一方、アトラクションについてはディズニーランドやUSJのように更新が求められる時代にも突入していて、戦前からの歴史を持っていた阪急の宝塚ファミリーランドや阪神の阪神パークも2000年代に入って閉園し、阪急撤退後も営業が続いていた神戸ポートピアランドも2006年に閉園となった

ということで駅そのものも、もはや無意味…とはならなかった。地図で分かる通り、旧天応町の中心部は天応駅と呉ポートピア駅の真ん中あたりにある。住民にとっては呉ポートピア駅の方が便利なのだ。また当駅は逆側の小屋浦駅とも1・5キロしか離れていない。こちら側からの需要もあった

ということで駅は残り、ポートピアランドの跡地も呉ポートピアパークという公園となったために駅名もそのまま、ということになり、2021年の利用実績では天応駅が1日900人の利用なのに対し、呉ポートピア駅は1326人と大きく上回っている(開園直後の数字よりは少ないが)

現在は無人駅。これはホーム案内ではなく(といっても単式ホームだが)、進行方向を示すもの

ひらがな表記だと当然こうなる

トイレにあった張り紙。やや古めの新幹線が並び、広島駅では見られないものも含まれていて年代不明だが、職員さんの手作りだろうか

列車がやって来た。この日の呉線訪問はここまでである。華々しいテーマパークの開業から数奇な運命をたどったともいえる駅をあとにした

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2年がかりの呉線全駅訪問~沿線唯一の明治生まれ駅舎が現役の駅は夕陽で知られる

天応駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

わずか5年だった天応町

天応駅に到着。ご覧の通り、1面2線の島式ホームとなっている

開業は1903年(明治36)年12月。呉線が海田市~呉で開業した際に生まれたので駅としては、前記事の吉浦と同じく、120歳の誕生日を迎えている。呉線はその後、延伸に時間がかかり、呉から東の区間が三原、呉の両側から少しずつ延伸され始めたのは昭和になってから。海田市~呉の先行開業区間の新駅も大正になってから、小屋浦が開業したのが最初で、つまり明治生まれの駅は山陽本線でもある海田市を除く(当時は山陽鉄道という私鉄だったが)と最初に開業した矢野、坂、天応、吉浦そして呉の5駅のみ

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天応以外は戦後すべて駅舎の形を変えているので、戦前からというより明治生まれの駅舎が残る唯一の駅ということになる

手は加えられているようだが、屋根や上屋を支える柱などにも歴史を感じる

付近は呉市に編入された1956年(昭和31)まで天応町だった。では駅名も町名にちなんだのかというと、駅の開業時は大屋村だった。大屋村が町制を施行して天応町となったのは1951年なので、自治体としての天応町は、わずか5年間だった。駅名は村名ではなく駅周辺を取り囲むようにしている天応山、天応烏帽子岩山、天狗城山の3つの山にちなんだ

2021年の1日の乗降者数は900人で13位。明治開業の他の4駅がいずれも2000人以上であることを考えると少ない。もっともこれは近い所に新駅が誕生したことにも要因があり、地形的に海に沿った線路に近い場所に住宅地が広がっているため、新駅に利用数が分散したとも考えられ、単純に少ないと言い切るものではないが、明治生まれの他の4駅が快速停車駅なのに対し、当駅は普通のみの停車。別の見方をすると、普通しか停車しない駅だからこそ、明治の駅舎が現役でいられるともいえる

海に近い駅

駅舎にはホームから跨線橋を渡る。山が迫りスペースのない山側にわざわざ駅舎があるのも呉線らしいところ。地図で分かるように当駅は海に近く、跨線橋からの夕陽の美しさでも知られているようだ。「ようだ」というのは、駅の紹介をしたところX(旧ツイッター)のフォロワーさんに教えてもらったから。到着時は15時半を過ぎたあたりで、まだ夕陽の時間には早く気付かなかったこともあるが、ちょっと先を急いでいて駅について調べる余裕がなかったことが大きな原因。今調べると当駅や当駅近くからの夕陽がネット上にいくつもある。ふだんは遅くとも駅に着いてから、いろいろ調べてみるものだが、これは大きな反省点である。だから跨線橋からの写真はない

2018年から無人駅となった。窓口や、かつての手荷物受付と思われる場所は板で塞がれている。無人化された駅でよく見かける「きっぷは正しく目的地まで」の文字はいつからのものかは分からないが、券売機だけでは、もちろんすべての目的地までは購入できない

駅舎内には地元の子供たちの手による展示物があった。花瓶の花も定期的に入れ替えられているようである

先述した通り、ちょっと先を急ぐことになっているため、駅からすぐに離れることになった

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2年がかりの呉線全駅訪問~吹き抜けの天井と階段の構造に往時を思う

吉浦駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

変則2面2線ホームの快速停車駅

広から快速に乗って吉浦に到着。ご覧の通り、貨物ヤードの側線が残る。駅名は旧吉浦町に基づく。1928年(昭和3)に呉市に編入された。駅の歴史はもっと古く、1903年(明治36)に海田市~呉の開業と同時に設置。当時の途中駅は他に矢野、坂、天応のみ。120歳を越えている

ホームは変則2面2線構造。こういう形は島式ホームが手狭なので、新たに外にホームを設けたものが多いが、元よりこの形式。島式部分はどちら側にも降りられるが、2012年に柵が設けられた。その年に快速停車(安芸路ライナー)駅となっている(朝の通勤ライナーは通過)

天井からの照明に見とれる

堂々とした駅舎。戦後間もない1946年から現在の形となった

吉浦も貨物で栄えた駅である。元々は芦が生い茂っていて「あし浦」と呼ばれたが、「あし」が「悪し」に通じるとして「吉」が使用されるようになったという説があるという。芦が茂るぐらいなので、のどかな地域だったのだろう。海上保安大学校のHPによると、吉浦全域で874戸の住居があり、推定人口は約4000人だったという

その後、呉が軍港として発展していく過程で火薬庫の場所となり、1888年(明治21)に整地が終了。1894年には一帯の買収で30戸の住民が立ち退いた。火薬の試験場ともなり、レンズ工場や信管の工場も造られ、規模は大きくなったが、戦後は英連邦軍が占領。1950年の返還後にその場所に設置されたのが海上保安大学校である

吉浦駅は駅のすぐ裏に港があり、戦後も貨物輸送でも栄えた。貨物ヤード跡が残り、1本は保線車用に利用されているが、かつてはもっと規模が大きかったのだろう。また火薬庫と逆側の軍事施設とは線路でつながり、その後、海上自衛隊の呉造修補給所貯油所となった専用線として戦後も利用されていた

駅を挟んで東西の関係となっている

駅はひさしも立派。そして外から見ると二階建てのように見えるが

中は吹き抜け。将来的に規模が大きくなることを想定していないと、なかなかこれだけの建物は作れない。長くつり下がった照明にしびれてしまった

こちらは駅舎を逆側から撮ったもの。階段は多くの人を一気にさばけるようになっている構造だ

古風な文字を見上げながら、跨線橋を渡った。2年前にみどりの窓口が営業を終了して現在は無人駅だが、2021年の1日の利用者は2082人。これは呉線内では8位の数字(三原と海田市をのぞく)である

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2年がかりの呉線全駅訪問~広島シティネットワークはこちらから

広駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

運行本数が急増

広駅に到着。お隣の仁方も当駅も呉市内の駅だが、運行本数が大きく変わる。在来線は広島駅を中心に広島シティネットワークと名付けられた愛称が用いられていて、山陽本線は東は白市、西は(山口県に入っているが)岩国、可部線全線、芸備線の狩留家そして呉線の広駅。エリアの移動に複数のルートがあるわけではないので、いわゆる大都市近郊区間には入っておらず、途中下車や選択乗車など特にきっぷのルールに特例が適用されるわけではない(ただし特定都区市内制度による広島市内区間は別に存在する)。言い方を変えると「ここから先は列車の本数が少なくなります」ということでもある。また非電化の芸備線以外は「シティネットワーク広島」のロゴが入った最新の227系で運用されているが、呉線は全線が227系である

三原方面からやって来ると、ほとんどの列車が当駅で乗り換えとなる。昼間は1時間に1本の運行が広から30分に1本で、すべてが快速。この快速「安芸路ライナー」は呉までの新広、安芸阿賀と各駅に停まり、呉から快速運転。呉からは普通が出ていて快速通過駅を補うが、こちらは1時間に1本。つまり快速の方が運転本数が多いという、ちょっと変わった運行形態となっている(夕方以降は)

ただ朝のラッシュ時は事情が変わり、広から多くの広島方面行きが出ていて7時台、8時台は1時間に5本の広島行きがある(それぞれ1本は広以東からの直通)。また朝の通勤通学帯は快速も「通勤ライナー」と名前を変え、呉以遠は矢野の1駅のみ停車という特別仕様。仁方駅の項で「ヨンサントー」のいわゆる1968年10月号の時刻表について説明したが、当時から最も大きく変わったのは、広から西の運行本数で、このころはまだ非電化時代ではあるが、広を境に朝の本数は増えてはいるものの、朝の6時台に3本、7時台に2本、8時台に至ってはわずか1本(ただし広停車の急行と呉始発の急行が別にある)しかない。広~三原については今とあまり変わらない

かつては広村

広駅は1935年(昭和10)3月の開業。呉から線路が延伸されてきた。11月には広から三津内海(現在の安浦)が延伸され呉線は全通している。開業時は広村。戦時色が強くなった1941年4月に仁方町とともに呉市に編入されている

広駅は貨物列車の拠点でもあった。呉海軍工廠は東洋一の軍需工場だったが、後に広海軍工廠が独立する形となり、貨物需要も必要となった。戦後も呉線の貨物輸送は広駅が拠点となっていた。今も夜間停泊などに使用される側線が残るが、かつては大規模な貨物ヤードがあった。広の地名には埋め立て前の海岸が広々としていたとの説もあるようだが、もちろん現在の広駅周辺に村の雰囲気はない

広以西の主要駅には開閉型の自動改札機が設置されている。みどりの窓口は3年前に営業を終えたが、みどりの券売機が導入された。もちろん無人駅ではない。駅舎は戦前からの木造駅舎が使用されていたが、JR移管直前に現在のものへと姿を変えている

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2年がかりの呉線全駅訪問~最長片道切符でマニアに知られた駅の年表が渋すぎる

仁方駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

運行本数減少の最初の駅へは大きなミスの末に

仁方駅に到着。ご覧の通り、バスでやってきた。仁方は安芸川尻駅の隣の駅で、1時間に1本の列車は待ってられないと、ちょうど良いバスを見つけたので乗車したところ、逆向きに乗車してしまう大ミス。10分ほど揺られたところで逆走に気付いたものの後の祭り。しかも戻るバスは30分以上ない。参ったな、と思ったが、たまたま喫茶店が目に入った。前記事で「カープの来季についての番組を見た」と記したのは、この喫茶店でテレビを見ていたのだ

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話を戻して仁方駅である

渋すぎる駅舎がお出迎え

仁方駅は1935年(昭和10)の開業。呉線で最後の開通部分となった三津内海(現安浦)から広が開業した際に設置された。当時は仁方町。仁方町は戦時色が強くなった1941年の4月に呉市に編入されている

仁方の名を残すのは1982年(昭和57)まで存在した仁堀連絡船である。当駅から10分ほど歩いた仁方港と松山市の堀江港を結んでいた航路。運営は国鉄が担っていた。国鉄の航路だったというのが、当時のマニアに注目されていたポイントだったわけだが、それについては後述する

自動車8台の連絡船

手元に1968年10月の時刻表がある(復刻版)。いわゆる「ヨンサントー」のダイヤ改正があった時のものだが、こちらを開くまで仁方という駅は広のひとつ隣で、国鉄運営の連絡航路があったぐらいなので、今のように広で運行は分断されず、仮に航路がもう少し続いていたら、仁方まではもう少し便利になっていたかもしれないと思い込んでいたところがあったが、時刻表を開いてビックリ。当時すでに広が運行の境界だったのだ。正確に言うと、今のように広でほぼ乗り換えというわけではなく、広島と三原を直通する呉線で朝夕のラッシュ時に広折り返しの列車が挟まるという形だった。まだ非電化時代だったが、広~三原の本数は今とほとんど変わらず、広~広島が増えている

ちなみに仁堀連絡線の時刻も掲載されていて、本数はわずか1日3往復。丁寧に船との連絡に便利な列車も記載されているが、たったの3往復では列車本数を増やすことにはならない。船の規模は「定員196人、中型自動車8台」と書かれている。自動車8台とは、今ほど車社会が浸透していない時代とはいえ、規模が小さい。逆に言うと、その程度で十分だったということになる

仁方駅が寂しく感じるのは駅舎の規模よりも、窓の多さからだろう。こちらは荷物の受付か。それなりの規模を誇っていた駅だったことが分かる

仁堀連絡線の開業は1946年。終戦直後の復興期で宇高連絡線が手一杯となり、もうひとつの航路をということで設定された。国鉄の運営はそのためである。今も広島と松山を結ぶ航路は需要があるが、仁方港を含む呉港からも四国へと渡る船の需要はあった。だが仁方、堀江とも町の中心部から離れている上、駅からの距離が遠かったこともあって、間もなく乗客は激減。国鉄でなく民間の経営だったら、もっと早く運休していただろう

仁方駅から港までは徒歩で10分を強いられていた。現在、瀬戸内海の島行きも含め港からの定期航路はなくなっている

最長片道切符では貴重な出入口

ただし国鉄の路線ということで、鉄道ファンには貴重な航路だった。いわゆる「乗りつぶし」もそうだが、さらなるマニアにとっては最長片道切符の出入口として必需品だった。つまり宇高連絡線と仁堀連絡線のどちらかで四国に入り、どちらかで四国から出れば、一筆書きができる。最長片道切符に貢献する航路だったが、1982年に廃止され、最長片道切符から四国の路線は消えた

それでも1968年の時刻表によると、呉線を通る急行6本(厳密には7本だが、1本は呉折り返しの長崎行きで当駅付近は通らない)のうち、4本は仁方に停車していた。駅は連絡線がなくなったころに無人化されている

さて仁方駅について、なぜこのように流ちょうに説明できるかというと、駅舎に仁方駅の歴史が張られていたからだ

手書きの上にガムテープで、しかも駅舎の外側に張られている。「ありがとう」「駅舎さよなら」と記されていることから、南側の駅舎がなくなった2018年の作品らしい。せめて駅舎内に張ってあげれば、と思ったのだが、いろいろ事情があるのだろう

その南側には簡易的な出入口がある。ちなみにホームを結ぶ跨線橋もこの時に撤去され、ホームを含めた南北の往来は駅舎外の歩道橋を渡る

国鉄が運営していたことで、今も時折思い出される航路である

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2年がかりの呉線全駅訪問~日本一短いトンネルへ親切な案内

安芸川尻駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

駅を出るとすぐに分かる

安芸川尻に到着。すでに呉市に入っていて(2004年に川尻町が呉市に編入する)、本数が多くなる広まは2駅目である

JR(国鉄)の駅ではおなじみの名所案内だが、こちらはかなり以前に作られたもののようだ。名所は駅を出るとすぐ分かる

「日本一短いトンネル」への案内板が目に入る。その名もズバリ、川尻トンネル。全長8・7メートルという情報も記されていて分かりやすい。どうやら歩行者用道路で「日本一」へ案内してくれるらしい

さっそく歩いていこう

と考える間もなく、トンネルが見えてきた

もう少し近づくとこんな感じ。トンネルという山の中を貫いているようなイメージがあるが、こちらは上は道路。山を通したというよりも、堀削の中を列車が走り、その上が跨線橋のようになっている

これはトンネルの上の道路。ここを歩いたり、車で走っていると、予備知識がなければ日本一短いトンネルとは気付かないかもしれない

来た道を振り返ってみた。駅のホームはすぐそこ。単線に戻った瞬間にトンネルに突入。そしてすぐ抜ける

さすがのグーグル地図も、線路沿いの歩行者用の道路というか通路は表示されていないようだが、その意味でも駅前の案内板の効果は大きいし、何よりも目立っていて、とても親切である

ホームの名所案内に「日本一」が表示されていないことは最初に述べたが、それもそのはずで2014年まで日本一短いトンネルは吾妻線(群馬県)の樽沢トンネルの7・2キロだった。八ッ場ダム建設によって吾妻線の線路が付け替えられることとなり、川尻トンネルが日本一に「昇格」した。つまり新たに建設されたトンネルではないのだが、このように案内板を掲げてくれると十分に名所アピールとなるし、何も知らずに来た人にも分かりやすい

開業以来の駅舎

さて順番は逆になってしまったが、ようやく駅の紹介

安芸川尻駅は1935年(昭和10)の開業で当時からの駅舎が現役。私が訪問した半年前の2022年3月までは、みどりの窓口の設置駅だったが、みどりの窓口の営業が終了すると同時に無人化された

ちょうど巡回の方が点検を行うタイミングだったが、少し前まで駅員さんもいただけに駅舎内の待合スペースは大きい。そして目に入るのは鯉のぼり。わざわざ「C」と描かれている上、10月の訪問だったので、これは広島カープに依るものと思われるが、現時点で一度きりの訪問なので、「常駐」しているものかどうかは分からなかった。実は訪問の前日、カープはクライマックスシリーズへの道が絶たれていた。県内のテレビで早くも来季の課題特集を行っていたので、鯉のぼりが強く印象に残っている

島式ホームで貨物ヤード跡の側線が残るが保安車両の置き場となっているようだ

こちらは観光列車用の駅名標

名残惜しいがホームから、もう一度日本一短いトンネルを見てお別れとなった

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2年がかりの呉線全駅訪問~港、マッサン、街並みと呉から東側の中心駅

竹原駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

広島~呉開業後に時間を要して竹原開業

竹原駅に到着。1970年に改築された国鉄らしい駅舎。広島から三原に進むと広で多くの運行が分断され、列車本数も減るのはすでに記した通りだが、呉から東側では最も規模の大きい駅となっている。呉線は計画時は「呉鎮守府両翼鉄道」という名称だった。名前から想像できるように軍港の呉への鉄路。呉の海軍鎮守府は1890年(明治23)に設置されたが、陸路が不便なことが指摘されていて、1903年に呉線の原型となる海田市~呉が開業。広島と線路でつながった。だが、呉以東については、海沿いや峠越えなどの難工事が予想されるため、そのまま放置された形となり、ようやく工事が着手されたのは1923年(大正12)と20年が経ってから。もう昭和に入ろうとしていた。工事は呉と三原から進められ、呉~須波が1930年(昭和5)に開業したのを皮切りに、1932年に三原~竹原が開通した。まずは竹原まで鉄路を通すことが重要だった。しばらく竹原は終着駅だったが、1935年に全通。ただし線内の一部では海側が見えないよう柵が設けられたり、ホームや車内は憲兵が目を光らせるようになったのは、その後間もなくのことだった

瀬戸内の中心港としても繁栄

観光列車用の駅名標。竹原市は「かぐや姫サミット」に参加している。平安時代にはすでに竹原という地名があった。京都の下鴨神社の荘園の中に、その名が見られる。地名の由来は荘園の管理者の名前から、竹が生い茂った原があった、と両方の説がある。下鴨神社の荘園だったことで、町を流れる賀茂川のほか、賀茂の名前が多く残る

戦国時代は良港を求めての奪い合いとなり、江戸時代になってからは製塩で繁栄。港は北前船の寄港地となり、当地の塩は全国に運ばれ、港に米が集まるようになったことで盛んとなった酒造りも開始。塩と酒は広島藩に大きな富をもたらしたという。安芸の小京都と呼ばれる歴史は下鴨神社からだが、街並みは江戸時代に形成されている。朝ドラ「マッサン」のモデルとなった竹鶴酒造は、呉線の工事のため持っていた塩田の一部を提供したという

幻の寝台特急停車駅

駅を出ると竹原市の中心部が広がる

現在、竹原駅を始発とする列車は朝の1本のみだが列車によっては長時間の停車も行われる。かつては呉線経由で東京から下関を結び、わずか3年半(1975~78)で廃止となった幻の寝台特急「安芸」の停車駅(上りのみ)でもあった

みどりの窓口は3年前に廃止されたが、みどりの券売機は設置されている。これは広から東側では唯一の設置

さて竹原の到着は11時すぎ。最初からランチに困らないのは竹原だろうと予想して訪問順を決めていた

予想通り、複数の選択肢があったが、目に入ったのはトンカツ屋さん。ボリュームたっぷりで美味だった。これで夜まで十分体力も持ちそうである

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2年がかりの呉線全駅訪問~三津の杜氏で知られる開業以来の駅舎

安芸津駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

「安芸」の「津」ではありません

安芸津駅に到着。全国各地には旧国名を冠する駅が多数あるのは、周知の通りで広島県内にも「安芸」を冠する駅はいくつもある。呉線内にも複数あるが、当駅については事情が微妙に異なる。津という地名があって、そこに国名を冠したのではなく、元々の自治体名は三津。当駅も1935年(昭和10)の開業時は三津駅だった。戦時中に周辺の自治体との合併があり、新たに誕生した自治体が「安芸津町」。戦後になって駅名も安芸津となった。2005年の平成の大合併を経て現在は東広島市となっている

なお三津といえば、愛媛県の松山にも三津駅があるが、こちらは伊予鉄道の駅。同名を避けたのか、後から駅を作った国鉄が「三津浜」と名付けたのは1927年と、安芸津駅より少し早かったが、「浜」が付いたおかげで呉線の駅は「安芸三津」ではなく、堂々と「三津」を名乗ることができるようになった。スタート時が安芸三津駅だったら、駅名は今もそのままだったかもしれない

観光列車の停車駅用の駅名標。忠海はウサギだったが、当駅は杜氏が描かれている。三津町は明治以降、軍用酒として採用されたこともあり、多くの酒蔵で栄え「三津の杜氏」は固有名詞化。県外にも広く流通して呉線も運搬で大いに寄与した。今も構内には貨物の側線が残る

開業時からの駅舎はちょっと変わった構造

駅舎は開業当時からのもの。安芸津町の中心駅だったこともあり、雄大な駅舎で駅前ロータリーは大きく、タクシーも停まっている

こちらは駅舎内

簡易委託の有人駅。かつてはみどりの窓口設置駅だったが、IC乗車が導入されたころにはすでに簡易委託化されていた。自治体が簡易委託を請け負っているようで、無人の時間帯もかなりある

2面2線構造だが、小さな盛土の上にホームがあるため、駅舎側のホームには小さな階段で入り、向かいのホームには地下道で向かう。戦前からの存在で跨線橋のない駅は呉線では珍しいが

駅舎内には、かつてもうもうと煙を吐きながらSLが入線していたころの写真があり、撮影は昭和43年、つまり1968年となっている。駅舎側のホームへの出入りは今と変わらないようだが、ホームの行き来は構内踏切で行っていたようだ。大きな貨物ヤードも写っている。呉線は電化ギリギリまでSLが走っていた路線でもあり、1970年の電化と同時にSLがすべて姿を消すというドラスチックな変貌を遂げている

ただ導線を拡大してみると、これらの案内は字体から、いずれもかなり古く国鉄時代からのもののようである

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2年がかりの呉線全駅訪問~年季の入った駅舎とホーム待合室

安芸幸崎駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

1時間に1本の運行

忠海から1駅三原方面へと戻って安芸幸崎で下車。忠海は竹原市だったが、こちらは三原市。というか三原から2駅目と言った方が分かりやすい

呉線のダイヤパターンを説明すると、昼間は三原~広間は1時間に1本。広から広島方面に向けては1時間に2本の運行となる。この2本はすべて快速で広~呉までが各駅停車で呉から広島に向けては普通が1時間に1本。三原から広島へと向かうと、多くの列車は広で乗り換えとなり、広を境に運行本数が大きく異なる。広島~呉の普通しか停車しない駅は昼間は1時間に1本の停車しかないが、朝のラッシュ時は1時間に3本の運行があるのに対し、広~三原は本数にあまり変化はない。全線が単線電化区間ではあるが、電車での乗降をしていると広から西は広島の通勤通学圏で、東はローカル線感が漂う、そんな印象だ

もっともコロナ禍を期に山陽本線も都心部を少し離れると運行が1時間に1本と半減されているので、本数そのものは変わらなくなっている。逆に言うと、この1時間に1本という数字がさらに減らされると、路線としては危険水域である

また世の中の印象としては呉が呉線の中心にあるようなイメージがあるかもしれないが、三原~海田市の全長87キロで海田市~呉は20キロしかなく、かなり広島側に寄っている。つまり駅訪問は1時間に1本のダイヤをいかにうまく乗りこなすかになっていて、このように後戻りしてまた進むという、これまで記してきた城端線や内房線と同じ作業となっている

全国各地の駅とは異なる

安芸幸崎駅はご覧の通りの木造駅舎が残る。開業は1931年(昭和6)。三原~須波のみ開業していた路線が1区間延伸された。1区間といっても6・7キロもあり、これは現在も呉線の最長駅間。その時に述べるが、広から西と東では駅間の距離が大きく異なるのも呉線の特徴。新駅の開業がほとんどなかったからだ

呉線の各駅を降りると全国各地の海沿いを走る路線と大きく事情が異なっていることに気付く。町ができる課程というのがあって、海沿いの町はほとんどが漁港を含む港を中心に形成されるため、多少の例外はあるものの、駅舎も海側に設けられることが多い。それが自然な形だ

それに対して呉線の開業時からの駅の多くは海や港とは逆側に駅舎がある。忠海駅も港との位置関係を見ると随分不自然だ。瀬戸内海を望む車窓は美しいが、駅舎を出ると見えるのは山だけで、どうやって海側に行けば良いのか困ってしまう

安芸幸崎駅は1956年まで存在した幸崎町に基づく。国名が付いているのは大正期に開業した日豊本線の幸崎駅(大分県)があるからだと思われる(読みは「こうざき」)。幸崎は古代から漁港として知られた町だったが、駅舎を出ると

こちらは駅前の通りをちょっと進んで振り返ったものだが、駅前は住宅街という感じで静かだ。漁港として栄えたイメージが全くわかないが、幸崎の町は駅から徒歩で10分ほど離れた場所にある

線路から遠いのなら、いざ知らず、線路は町の中を通っているのに、なぜ?と思うかもしれないが、駅のすぐ南側には造船所。駅は当時の工場への通勤の便宜を図るため現在地に設けられた。ただし駅舎は山側に。沿線の多くは海を向いてぼんやりできるような場所ではなかったのだろう

早めの訪問を強く推奨

駅は無人化されて久しい

駅舎入口には快速停車駅になった記念碑がある。現在、広から東の区間には定期の快速は走っていない。1980年に廃止されている。当駅が快速停車駅となったのは1978年のことなので、わずか2年しか快速が停まっていなかったことになるが、石碑は40年以上残っていることになる

駅構造は2面2線で駅舎と逆側のホームにある待合所も年季が入っている。プラスチックの番線表示が私の好みである。だが待合所を支える柱の補強具合が、やや痛々しい

駅舎側の縦駅名標

柱を支える金属もさびが目立つ

屋根を支える柱もこのような様子で特に補強工事は行われていないようだ。これは経験に基づく私の個人的な感想だが、この素敵な木造駅舎を早めに訪れることを強く推奨したい

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2年がかりの呉線全駅訪問~「単なる海」というわけではない「ただのうみ」

忠海駅の駅名標

※訪問は2022年10月1日

貴重な「ひかり」で出発

その日の朝は新神戸6時19分発の「ひかり591号」に乗車

そもそも岡山以西を走る「ひかり」は朝と夜にほんのわずかしか見られないが、中でもこの591号は新大阪~博多を走行して新尾道と厚狭の2駅のみ通過し他の15駅に停車。だったら全駅停車のこだまでもいいのではないか、と思えてしまうほど貴重な停車パターンを有する列車である

福山で山陽本線に乗り換え

独特の駅名板が鉄道ファンの心をつかむ糸崎で下車というか乗り換え

これもまた鉄道ファンには周知のことだが、糸崎駅はかつて機関区で栄え、今も留置線と乗務員の休憩所があるため、当駅始終着の列車が数多く設定されている。駅舎や駅近くにいると駅前に唯一の食料調達所とされるコンビニへと向かうJRの職員を多く見ることができる。もちろん私そして同業者もお世話になる鉄分の濃いコンビニである。だが今回は、悠長にしている時間はないので呉線直通の広行きに乗り換え。ちなみに最初に乗ったひかりは三原まで行くが、結局は同じ列車に乗ることになるので福山で乗り換え。なぜなら使用するきっぷは青春18きっぷと同じ機能の秋の乗り放題パスなので、少しでも経費を節約しなければならないのだ

かわいい駅名標がお出迎え

約30分、電車に揺られ

忠海駅で下車

実にかわいい駅名標がお出迎えしてくれる。「忠海」を「ただのうみ」と読む。「ただのうみ」を「忠海」と書くという表現が的確だろうか。

1958年(昭和33)に竹原町と合併して竹原市が誕生したが、それまでは忠海町の代表駅だった。地名については由来がはっきりしていて、平忠盛がこの地の海賊を平定した際、自分の名前から1文字をとって「忠海」と名付けた。平忠盛し平清盛の父であるが、自分の名前を地名にしてしまうとは、もしかすると「おごる平家の-」の萌芽はこのころからあったのか

立派な駅舎がある

こちらは駅名板。駅の開業は1932年(昭和7)。戦前からの駅舎も立派だったようだが、2004年に「ふれあいステーション」と合築の現駅舎となった。「福祉ステーションただのうみ」による簡易委託となっている。駅に隣接してコンビニがあり、実は沿線の各駅では貴重な存在

「ただのうみ」ではない歴史

冒頭のかわいい駅名標はうさぎの島、大久野島への最寄りに基づくもの。島内には千匹のウサギがいて観光客のお目当てとなっている。大久野島へは基本的に忠海の港からの船で向かうため、人の姿は多い。ただし広島市内からのバス便もあるため、必ずしも呉線の利用者とは限らない

駅の裏手から大久野島への船や大三島行きのフェリーが出ている。ちなみにフェリーの行先である盛港は平忠盛の「盛」をとって名付けた地名である

大久野島については、多くを説明する必要がないだろう。戦前は軍による毒ガスの製造工場があり、秘密裏にするため、地図にも記載がなかった島だった。戦後は進駐軍が10年にわたり占拠。除染が行われて観光地化されたが、休暇村はあるが島全体が国有地で定住者はいない。1990年代にヒ素による汚染が確認され、水質や海洋生物などへの影響はないことが調査で分かったが、念のために島内の水は現在、使用禁止となっていて船で運ばれている

1駅目から随分重たい話になってしまったが、ここからのべ2年をかけて呉線の全駅を巡ることになる

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