きっぷ

貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その10 強引な近鉄への分岐の理由は?

富田駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

車窓から分岐を眺める

何度か触れてきたが、三岐線の正確な路線情報は起点がJRの富田駅で終点が西藤原駅である。ただしわれわれ一般旅客は近鉄富田駅からしか乗れない。これはどういうことかというと途中で分岐があり、近鉄とJRへそれぞれ線路が別れていて旅客列車は近鉄へ、貨物列車はJRへと向かっているからだ

西藤原から近鉄富田へ向かう電車の先頭かぶりつきに陣取ってみると

分岐が分かる。右下に見えるのはJRの関西本線。右へと折れる線路は、この後もう一度関西本線をまたいで近鉄富田へと向かう。なかなか強引な線路構造だ

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2度もまたぐ理由は

このあたりは近鉄富田駅前の周辺案内図で見ると分かりやすい

駅前地図だけに南北が逆になっているが線路はかえってよく分かる

右側からやって来た三岐線のJRへの合流はスムーズで、そのまま真っ直ぐ降りて関西本線と合流。富田駅へと入る。それに対し近鉄への合流は先述したように2度も関西本線をまたいで近鉄富田駅へと入る。いかにも無理やり近鉄へ合流していかのように見えるが、実は無理やりなのだ

まずは両方の富田駅の移動を確認してみよう

両駅は徒歩5分の距離で「5分」だけを考慮すると、ご近所のように感じるが、真っ直ぐな一本道ではなく初見ではちょっとウロウロしてしまう。なぜそう言えるかというと、3年前に実際に歩いたからだ。関西本線の駅巡りを行って大阪へ帰る時に近鉄富田からの近鉄を選択したため。近鉄の駅が近ければどこの駅でも良かったのだが、富田から歩いてみようとなったはいいが、結局は地図アプリのお世話になった。そんな便利なものがない時代だったら遠回りしていたかもしれない

要望強く近鉄へと合流

1931年(昭和6)に全通した三岐鉄道が電化されたのは戦後の1954年。そのころから沿線は宅地開発も進み始め名古屋や四日市方面への通勤通学利用が増えてきたが、それとともに富田駅での乗り換えの不便さを訴える声も大きくなっていく

近鉄の名古屋線は狭軌で標準軌の大阪線とは規格の違いがネックとなっていたが、1959年にすべて標準軌となり、同時に全線が複線化されて利便性が増した。非電化単線だった国鉄の関西本線とは差が広がる一方。三岐鉄道の利用者の多くは国鉄に乗り換えることなく、わざわざ近鉄の駅まで歩いて乗り換えを行っていた

さすがに多くの声を無視するわけにはいかず、三岐鉄道では富田と近鉄の富洲原(現川越富洲原)駅の免許を取得。用地買収も行い近鉄駅へ向かう線路を造ろうとした

これは富田からスイッチバックする形で富州原で三岐鉄道を結ぼうという計画だったが、スイッチバックの効率が悪すぎることと当時にぎわっていた貨物輸送に支障をきたすということで断念。代わりに近鉄との交差部分に富田西口駅を設けたのが1965年だったが、それでも不便さを訴える声は変わらず、ようやく近鉄富田駅に乗り入れ、現在の形となったのは1970年のことだった。だから正式には今も三岐線とは富田~西藤原のことで、分岐から近鉄富田への路線は近鉄連絡線という名称である

その後は近鉄富田行き、そして国鉄富田行きと2種類の列車が運行されていたが需要の差は歴然で、1985年のJR民営化直前の1985年に関西本線の富田への旅客列車はすべて廃止。富田西口も廃駅となった。このようにして珍しい貨物線用の私鉄線が誕生した

現在、近鉄富田駅には近鉄と三岐鉄道の2つの電車が入っているので、たまに勘違いする人もいるのだが、三岐鉄道は近鉄から独立した会社ではない。また軌間が異なるので同じホームにいながら直通運転はできない

3年前の思い出

JRの富田駅を訪問したのは3年前の3月のこと

駅舎は立派だが

すでに無人駅となっていて駅舎内はガランとしていた

ただ構内は広く三岐線の貨物列車も停車していた

三岐線のホームは残っているが柵が設けられていて、わずかにのぞくことしかできない

もっとも東口の前にはイオンモールができていて食事の選択は近鉄より、こちらの方が多くなっている

さて紹介してきた分岐には、かつて三岐線の駅があったという。これはぜひ見に行きたい。ということで駅の跡地まで歩を進めることにする

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その9 終着駅は蒸気機関車

西藤原駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

ついに終着駅へ

終着駅の西藤原へとやって来た。26キロほどの路線で事実上の始発駅である近鉄富田から乗車しても50分ほどで着いてしまう(三岐線に快速はない)が、終着駅というのは趣がある

1面2線の島式ホームだが乗車してきたのは右側の電車。左に見える車両については後ほど触れたい

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いつものホーロー駅名標から

まずは駅を降りるたびに楽しませてくれるホーロー駅名標から

字体の名称は分からないが特徴ある文字。「し」が強く印象に残る

駅舎へと向かおう

これは…

誰が見てもSLと客車をあしらったものだということが分かる。SL仕様の駅舎は真岡鐵道の真岡駅(栃木県)が有名だが、サイズこそ違うもののこちらも負けてはいない。現在の駅舎は2002年(平成14)からのもの

先に線路が伸びているように見えるが、もちろんすぐに終わっている

グーグル地図では線路が残っていれば点線で示してくれるが、それもない

岐阜県への進出は早々に断念

西藤原駅は1931年(昭和6)の開業。西野尻駅の記事でも触れたが、同年の7月に東藤原駅までが開業。12月に当駅まで延伸されて全線開業となった

三岐鉄道の会社名で分かるように、もともとは三重県と岐阜県を結ぶ予定だった。主な目的はセメント輸送。終着駅は関ヶ原を予定していたというが、県境の山越えの急峻な地形は難工事が予想され、しかも敷設した路線には重量級の貨物列車が走らさなければならない。県境部分にほとんど民家がないこともあり、工事費に割が合わないということで先の工事は行われず、間もなく鉄道免許も失効。会社名だけが残った

もともとセメント輸送はすでにあった北勢鉄道(北勢線)の利用が検討されていた。岐阜県へと結ぶルートに適していると考えられたためだが、ナローゲージの路盤では重量の鉄道貨物輸送には無理と判断されて三岐鉄道の建設となった。2つの路線が近い所を並行するように走っているのは、このような経緯があるためだ。そのおかげで西藤原駅は三重県最北の駅となった。出発地は北勢線の桑名の方が北だが、北勢線の終着駅である阿下喜駅より西藤原駅の方が、かなり北にある

当時は西藤原村に所在した。戦後の1955年に東藤原村などと合併して藤原村が誕生。後に藤原町となり、平成の大合併でいなべ市となっている

外側からの駅舎もまたSL+客車仕様。2つの車両が並んでいる構造だ。足下に丁寧に車輪が描かれているあたり、なかなか細部にこだわっている

最初にホームで見た車両の説明へと移ろう

島式ホームの片側は展示スペースとなっている。西藤原駅はSL公園となっていて、そこから保存車両が眺められるようになっている。三岐鉄道HPによると、最初の写真に写っているのは「ディーゼル機関車DB25号」機で「電気機関車ED222号機」をはさんで、こちらは「蒸気機関車E102号機」。三岐線が電化されたのは1954年。それまで三岐線で活躍していたSLは住友大阪セメント伊吹工場で保存されていたが、2001年に三岐鉄道が開業70周年を迎えたタイミングで里帰りしたという

駅舎内には郵便局が入居している。もちろん有人駅。北勢線が貨物列車に対応できる規格であれば、三岐線の建設はなかったかもしれない。そんな経緯でできたすぐ近くの2つの会社と路線が今は同じ会社となっている。そんなことを考えながら保存車両を眺めていると、なかなか感慨深いものがある

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その8 日本で唯一の博物館がある駅

丹生川駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

こちらも手づくり感があふれる

西野尻から3駅戻って丹生川駅に到着。ご覧の通り「にゅうがわ」と読む

島式ホームの1面2線構造で駅舎とは構内踏切で結ばれている

駅舎に向かうと花壇や鉢植え。いずれもきれいに手入れされていて路線内の他駅と同様に手作り感を出している

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貨物鉄道博物館の最寄り

当駅は1931年(昭和6)の開業。かつては鉱山が最寄りで貨物輸送も行っていた。当時の所在地は丹生川村。1956年に石博村と合併して石加村となり、その後の合併で大安町そしていなべ市となり現在に至る

貨物輸送を行っていたためかつては貨物ヤードがあり、その場所を利用しているのが

貨物鉄道博物館である。同館のホームページによると鉄道貨物が始まったのが1873年(明治6)9月15日で、2003年(平成15)年に130周年を迎えることを記念して同年の9月15日に開館した。日本で唯一の貨物鉄道に特化した博物館。運営はボランティアが行い費用も寄付によってまかなわれている

展示品やジオラマについてはHPに記載されていて寄付金先についても同様。開館日は毎月第一日曜日で訪問日は当然、開館日ではなかったが、外から雰囲気を感じることはできるし機関車を眺めることもできる

柵があってその横は開いているので入ることもできなくはないが、そこから先の部分のベンチがある場所に入って良いものかどうか分からなかったので柵のギリギリまで近づいてみた

外から見えるのは1898年(明治31)に製造された英国製で、最後は1966年まで東武鉄道で活躍していた車両とのこと

偶然ながら、ちょうど貨物列車の運行時間と重なったようで博物館の傍らを駆け抜けていった

駅舎内で初めて知った時刻表

駅舎に戻る

いつからの駅舎か分からないが、おそらく開業時からのものと思われる。「丹生」という地名は三重県内にもいくつか見られ、また全国各地でも見られる。読みは微妙に異なることもあるが、「丹」とは「丹砂」つまり水銀のことで「丹生」とは古代からの鉱山に基づくものが多いようだ

こちらはホーム側からの改札部分。ひとつひとつの文字が愛おしい。おそらく一斉に取り付けられたものではなく、コレクションのように少しずつ増えていったものだろう

駅舎内には三岐線で活躍した車両の写真が並べられている

このようなポスターもあったので

さっそく購入。有人駅とは良いものである

さて駅舎内で私が驚いたのが

貨物時刻表。私は貨物については全くの門外漢なので時刻表が公開されているとは知らなかった。私が先ほど見たのは12時36分の四日市行きということになる

多くの発見があった丹生川駅

そういえば北勢線阿下喜駅の軽便鉄道博物館の開館日は毎月第一、第三日曜日である。同日に2カ所を回ることも可能である(ただし1カ所に滞在する時間は短くなる)

少なくとも今度は第一日曜日に来たい、と思いつつ、こちらも味わいのある斜めなホーロー駅名標とお別れである

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その7 異彩を放つ路線内唯一の駅

西野尻駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

大きな特色が

西野尻駅に到着。こちらは東藤原駅と終点の西藤原までの間にある駅で、三岐線の特徴である貨物列車は東藤原までしか行かないため、西野尻と西藤原には貨物列車は行かない。つまりは旅客営業のみの駅だが、当駅はもうひとつの特色がある

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ホームと待合所のみ

ご覧のように棒状駅。それだけなら路線内でもよく見かける姿だが、ホームに降りてみると他駅と事情は異なる

訪問時は年末で学校も午前中のみになっていたようで高校生3人が下車した。駅まで出迎えてくれた家族の車に乗って去っていく。地方ではよく見かける光景だ。そして駅の構造はというと、写真で分かるように駅舎はなく小さな待合所があるだけ。これもよく見かける光景で、先日までお伝えしていた大糸線などではその形式が多いためPCで「単式」と入力しただけで「単式ホームと待合所のみの簡素な構造」という予測文章が出てしまうぐらい地方に行けば普通に見かける姿だが、三岐線では事情は異なる

三岐線の全14駅(近鉄富田のぞく)の中で駅舎のない駅はここ西野尻駅だけなのだ。駅舎はあっても無人という駅も枚挙にいとまがないが、すべての駅が有人である。もちろん早朝や深夜帯などに無人となる時間帯はあるが、基本的には有人駅。駅の管理が近鉄である近鉄富田はのぞくと注意書きを入れたが有人。正式な起点駅であるJRの富田駅は駅舎はある無人駅ではあるものの、駅の管理はJRだし当駅に入る三岐線の列車はすべて貨物列車なので旅客とは無縁だ

こちらが西野尻駅の全景。正面の階段と先の写真で高校生が降りていたスロープと2つの出入口がある。駅前広場は比較的大きい

謎解きの案内板

西野尻駅は1931年(昭和6)の開業。同年6月に富田~東藤原が開業して12月に東藤原~西藤原が開業。全通となったが、その時に設置されている。後からできた駅ではなく敷設と同時の駅だが、最初から現在の構造だったようだ。当時は東藤原村。明治の町村制施行までは西野尻村と呼ばれる区域で現在の住所もいなべ市藤原町西野尻である。野尻という地名は全国にあり、人名から来ていたり地形に基づくとされる。そういえば城端線で全駅訪問をした際、最後に訪れたのが東野尻駅だった

こちらも単式ホームと待合所のみの駅だった

また西野尻があるのだから東野尻もあるのだろうと思いがちだが、地域名としてあったのは西野尻村と下野尻村だった。

当駅では出札を乗務員が行う。ワンマン運転が多いのでその場合は運転士が行うのだが、入札はどうなのかというと

待合所の壁に案内板が。ただ肝心なところが消えてしまってクイズ形式となっている。私はフリーきっぷを持っているので問題ないが、初めて来た人は困るだろうと思っていたら

待合所の中に「正解」があった。ただその「乗車駅証明」はどこにあるのか、ちょっと探した。すると

同じ室内にも同様の案内があり、こちらの表記は「無札証明」で初めて聞く言葉。その下に

ぶら下げられているもの。それが無札証明である

品切れになったりしないのかと思ったりもする。またワンマンが多い三岐線での出札に運転士自らがあたるのは、2両もしくは3両編成のドアがすべて開くシステムでは大変そうに思えるが、おそらくそうは心配はない

駅周辺は小さな集落があり、多くが農地。1日あたりの利用者数(2023年)は26人しかなく、これは14駅中で最下位。下から2番目が東藤原の98人なので、かなりのぶっちぎりとなっている。当駅には1日上下それぞれ30本の列車が到着するため、私が目撃した3人の下車姿はかなり貴重なものということになる。高校生はいずれも定期使用だったため、実際にお金を払って当駅で降りる人はそう多くはないと思われる

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その6 歴史は紡がれると知った味わいある駅舎

伊勢治田駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

広大な側線が広がる

東藤原から1駅戻って伊勢治田で下車

ご覧のように広い測線がホームの前に広がる。東藤原駅では収まらない貨物列車や旅客車両が留置されているようだ

微妙に尺が足りなくなっているホーローの駅名標にそそられる

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沿線で唯一「伊勢」の付く駅

「治田」と書いて「はった」と読む。知り合いに同名の名前がいないとなかなか読めないが、全国にはところどころある名前と地名で滋賀県から山を越えて三重県まで地名、人名とも分布している。各地とも田んぼの開墾に由来しているとされるが、三岐線の沿線には三重県のいたる所で見られる「伊勢○○」という駅はここだけ。開業時の1931年(昭和6)にあった治田村に由来するが、県内では伊賀市の奈良県との県境あたりに治田という地名があり、名阪国道には治田ICがある。県内での重複を避けるために「伊勢」という国名が付けられたのだろう。そういえば伊勢鉄道には「伊勢上野」という駅がある

「たたずむ」という表現がピッタリの駅舎がある。手は入っているが、おそらく開業時からのものと思われる。駅からすぐの場所が旧治田村の中心地。1日あたりの利用者数は328人(2023年)で14駅(近鉄富田のぞく)中8位。治田村は1955年に北勢町の一部となり、現在はいなべ市である

三岐線の駅に共通することだが、古い駅舎は少しずつ付け加えられていったと思われる手作りの文字や備品が多い。注意書きひとつを見ていても楽しくなる

治田には室町時代に治田氏によって築かれた治田城があったが、織田信長に攻められて降伏。その後、廃城となり現在は遺構のみが残る

当地が脚光を浴びたのは江戸時代に入ってすぐのことで銀や銅が採掘される治田鉱山が開発され、幕府の直轄領となった時代もあった。その後に当地を領有したのは八田藩だった(治田とは表記しなかったようである)。鉱山があったことも含め、滋賀県へつながる治田越えは鉱物の運搬も含め重要な道路だったが、鉱山の没落とともに重要性は薄れ、道路は現在に引き継がれていない。また近年の水害によって鉱山跡も土砂に埋まってしまったという

鉱山から引き継がれたもの

留置線には貨物車が留置されていたが、時系列的にいっても先ほど東藤原駅で目の前を通り過ぎていったものだろう

ホームへは構内踏切を経て入る。1面2線の島式ホームとなっている

さて歴史に埋もれてしまった感のある治田鉱山だが、現代でしかも誰しもが知る存在へとつながっている。鉱山の管理を任されていたのが岡田氏。この時点でピンと来る人もいるかもしれないが、鉱山管理で財をなした岡田氏が始めたのが四日市の呉服商「岡田屋」。後にスーパーのジャスコになる。ジャスコがイオンの祖であることはご存じの通り。駅の待合所で調べていて歴史が紡がれていることを知り、ちょっと感慨深かった

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その5 いきなりのメインイベントはプチホテル?

東藤原駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

ようやく三岐線をじっくり

時系列的にはこちらの続きになる

北勢線の全駅訪問を終えて近鉄富田へと移動。前回はほんの少ししか回れなかった三岐線に本腰を入れる

近鉄富田から乗車して45分

東藤原駅に到着である

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目を見張る駅舎

構内にはさまざまな列車がいる。こうしてあらためて写真を見ると、JR東海から譲り受けた車両がすでに待機していたことが分かる。もっとも当時は別のことに関心がありすぎて、あまり目に入らなかった

そのひとつはなんといっても美しい駅舎だろう

あまりにも美しすぎる

小高い丘の上にあるので離れてみるとこんな感じ。「東藤原」の駅名板がなければパッと見るとプチホテルおおしゃれなレストランにしか見えない

2017年(平成29)にできたばかりのピカピカ

正面からの姿も、もちろん美しい。上屋を支える柱も凝っている。当駅訪問がこの日のハイライトのひとつだった

路線の意義を体現する駅

ハイライトだったのは駅舎だけではない。どちらかというと、ここからが本題である

駅前にはかつて当駅で活躍したセメント用の貨物車が保存されている

解説文で貢献度が分かる

東藤原駅は1931年(昭和6)の開業。三岐線は富田から当駅までがまず開業。その年のうちに残る東藤原~西藤原までが開業して全線開業となったが、まずは東藤原までの開業が優先事項だったのだ

東藤原駅は太平洋セメント藤原工場へと直結している。車窓からもよく分かるが、三岐線はこちらの工場と富田駅を結ぶことが、まず最初の仕事だった。富田駅というのは近鉄富田ではなく国鉄(当時)の富田駅。今も当駅から貨物列車が出る。私鉄でありながら旅客輸送だけでなく貨物輸送も担う特別な路線を体現する駅だ

西側には大きめの踏切があるが、太平洋セメント藤原工場への案内板もある。そしてこの踏切はふだん見かけない案内がある

ひんぱんに遮断機が降りる時間帯を記したおことわりである。地元の方は理解されているだろうが、初めて来るとイライラするかもしれない。1時間に1本ぐらいの割合で10分ほど踏切を渡れない。それは単純に通過列車が多いだけでなく車両が行ったり来たりするからだ。ぼんやり見ているだけで踏切にかからない場所でも車両が動いていることが分かる

私のいた時間帯でも分岐を渡って貨物列車がやって来た。私は貨物列車については専門外だが、それでも見ているだけで楽しい

当然構内では多くの人が作業に従事している。駅舎についてプチホテルのようだと形容したが、あながちそれは間違っているわけではなく、駅舎は作業にあたる方の休憩所としても機能しているのだ

こちらは改札口

こちらは保存車両も含めた俯瞰したところ。セメント工場があるぐらいなので周辺に民家は少ない。駅の重要性の高さや立派な駅舎に相反するように1日あたりの駅の利用者は2023年のデータで98人と100人を切っていて、この数字は実は路線内14駅(近鉄富田はのぞく)で下から2番目。ただ三岐線訪問の際は、最優先でリストに入れてほしい駅である

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大糸線全40駅訪問最終章~急坂を昇った宿で各駅訪問を振り返ってみる

南小谷駅の改札

※訪問は2024年10月10日

宿まで徒歩の大後悔

白馬八方バスターミナルから宿までは歩いてみることにする

ホテルは「パイプのけむり」さん。グーグル地図を開けると徒歩20分で、まだ時間も早いしのんびり歩くのも悪くない、と最初は思ったのだが肝心なものを見落としていたことに途中で気付いて後悔することになる

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高低差60メートルに気付かず

歩き始めるとホテルや旅館、飲食店が集まっている。今は10月だがスキーの季節になると景色だけでなく人の数も変わるのだろう。途中の案内板で白馬が民宿発祥の地であることを教えられる

スキーコースへのアクセスも考慮するように道路と宿泊施設があることが分かるが、スキーとは無縁だった時代からのものもある。こちらにも諏訪神社があるのだな、と思いながら歩く。白馬駅の標高は697メートル。このあたりは駅より50メートルほど高くなっているが、時間は15時で歩いていると寒さは感じない

と、このあたりから突然急峻な坂道となる

掲載した地図はPCで開けたもので、そちらには分かりやすくバスターミナルとホテルの高低差が60メートルと表示されているが、スマホで開けると目に入るのは距離と時間である

積雪の冬場は車通行の制限もかかるという坂を歩いてきたことに後悔したが、ここまで来るともう遅い。肌寒い気候ながら汗だくでホテルに到着。徒歩で来たことを告げると驚かれたが、とにかく無事にたどり着けた。朝夕バイキングで、この後は外に出る必要はないため風呂に入ってのんびりするした

国鉄区間は閑散路線

大糸線のイメージは福塩線(広島県)に似ている。大糸線は松本~信濃大町を私鉄が敷設した残る区間を国鉄が引き継いだ。福塩線は福山~府中までを私鉄が敷設して府中~塩町は国鉄が建設した。ともに私鉄部分は早くから電化されていた。福塩線については国鉄部分は非電化で、大糸線は信濃大町から南小谷までを国鉄が電化しているが、残る部分は非電化。そしてともに共通するのは国鉄部分は、今は閑散路線ということだ

安曇野、大町、白馬という全国的にも有名な観光地やレジャー拠点を持つ大糸線は、福塩線ほど運行頻度が減るわけではないが、それでも国鉄路線は本数が少ない。これはともに私鉄区間が松本、福山という都市部への通勤通学圏に入っているからだ

JR西日本管轄の非電化部分ばかりが存続について何かとクローズアップされる大糸線だが、信濃大町を境に乗客はグンと減る。さらに白馬から北の3駅(信濃森上、白馬大池、千国)については、ほぼ私の貸切状態だった。レジャー季節の端境期だった側面はあるが、地元住民の利用はあまり感じられなかった

大糸線増便バスにいては春から週末運行と変わったようだが、南小谷~白馬についてはすでに昨年12月からの冬季ダイヤで途中の各駅はすべて通過し、八方バスターミナルのみの停車となっていて、今春からは八方バスターミナルや栂池高原など観光地を回るコースに変わっている。閑散駅というのは鉄オタ的には心躍るものだが、それは線路や駅が現役だからこそであって、なくなってしまっては意味がない

また来ます

ホテルでは夕食、朝食をとり翌朝は8時1分発の南小谷行きに乗車。さすがに駅まではタクシーである。「朝は混むので前日に予約した方がいいですよ」とのホテルのアドバイスで前日のうちに7時半にタクシーを呼んでもらったら、駅まで10分とかからず到着

鉄道ファンに限らず全国的な知名度を誇る白馬駅だが、実は1日の利用者数は500~600人でしかない。国防路線からスタートして観光レジャー型に変化した大糸線。道路事情の向上によるマイカー利用の増加や、北陸新幹線の開業からは、沿線の観光地やスキー場へは長野からのバスという強力なライバルが出現している。ただ雪の3月からスタートした各駅訪問では山々だけでなく仁科三湖の車窓も素晴らしかった。沿線には温泉もある

この後はこちら

全駅訪問と言いながら1駅取りこぼしてしまったが、松本から近いため、それほど苦になる場所ではない。むしろもう一度路線内を行けることが幸運だともいえる。おそらく秋になるだろうが、その日を楽しみにしよう

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大糸線全40駅訪問最終章~全国の村の数を数え「日本一の村」で宿泊

白馬駅の写真入り駅名標

※訪問は2024年10月10日

白馬そのもので泊まってみる

飯森駅から1駅。白馬駅にやって来た。本日はここで宿泊する。前日は木崎湖温泉で宿泊。今回の旅はふだん宿泊しそうにない宿を利用すると決めていた。というのも翌朝の便を考えて駅までのアクセスが良い場所を中心に選ぶことが多いのだが、旅程に余裕を持たせた分、駅から少々遠くてもゆっくり風呂に浸かって宿でのんびりする方を選択した

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駅前=観光街ではない

こちらを読まれている方はどのぐらいの知識をお持ちか分からないが、多くの宿がある白馬といっても駅前に宿が並んでいるわけではない。かといって駅からはるか遠いのかというとそうではなく、白馬八方バスターミナルを中心として宿泊施設やレジャー施設があり、車だと5分もあれば着いてしまう

グーグル地図での表示は1・7キロ。分かりやすい一本道で徒歩だと26分と表示されるが、こちらの徒歩は全くおすすめできない。スキー場に行くのだから、かなり急峻な坂である

というとこで駅からバスに乗車。白馬駅から各方面へと向かうバスはバスターミナルを経由する便も多いので、それほど困らない。白馬乗鞍へと向かうバスは立派なバスでバスターミナルまでの短い区間を乗せてくれるのかと心配したが、無事に乗車。10月という夏季レジャーでも冬季スキーでもない季節で閑散期かと思っていたが、バスターミナルは大にぎわい。マイカーでの訪問者はさらに多いと思われるので繁忙期はもっと人であふれるのだろう

日本の村の数

昨秋までの1年間、長野県へと随分おじゃました。すでに紹介しているが中央本線のJR東海区間であるいわゆる中央西線そして飯田線。篠ノ井線、飯山線に今回の大糸線。その度に駅名標を眺めては「長野県は村が多いな」と思っていた。これはJR東海に多く乗車したから実感できるものであり(JR東日本区間でも旧式の駅名標を残している)、その意味では気付かせてくれたJR東海さんに感謝しかないのだが(やはり駅名標に自治体名は必須だと思う)、長野県の村の数を調べてみることにした

まず日本政府が認める「村」は日本に189ある。「政府が認める」としたのは北方領土にある6つの村を含めているからだ。政府の統計サイトでは注釈付きで表記していて、現実的に今日思いついてすぐ向かえる村の数は183ということになる

村がない都道府県も存在していて13県もある。すべて県で都道府にはすべて村がある。ひとつしかない府県も12あるのだが、最も多い県はというと長野県で35村で2位北海道の21村を超えてぶっちぎり。しかも前述した通り、北海道の数には北方領土の6村を含めているので現実的な2位は沖縄県の19村と。2ケタの村がある道県は5つしかないので、かなりの数となる。全国の村の約5分の1が長野県に集まっていることになる

そんなことを考えていくと、おそらく白馬村は「日本で一番宿泊施設が多い村」になるはず。もちろん私は全国すべての村を訪れたわけではないし、冬季のみ営業の宿もあるだろうが、白馬村観光局に加盟の宿泊施設だけで200軒を軽く超える。村というくくりを外してもそれだけの宿泊施設がある自治体はそう多くはないはずだ

ということで本日「日本一の村」でのんびりすることにする

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大糸線全40駅訪問最終章~最後の駅は武田、上杉の争いの場として名を残す宿場町

飯森駅の駅名標

※訪問は2024年10月10日

電化と同時に開業

飯森駅に到着した。これが大糸線全駅訪問のゴール(実際は島内駅が残っているが、気付くのは旅から戻ってかなりの後である)

写真で分かる通り、単式ホームの駅ですっかり恒例となっているが駅舎はなく待合所があるのみ。1960年に信濃大町~信濃四ツ谷(現白馬)が電化された際に設置された3駅(他は北大町、稲尾)のうちのひとつだ

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白馬とセットで宿場町を構成

塩の道と呼ばれた千国街道の整備が進んだのは江戸時代。当地は飯田・飯盛宿のひとつだった。飯田とは現在の白馬駅方面にかけてで、2つの街がひとつの宿場町とされていた。もちろん駅名は飯盛の地名から来ているが、行政区分的には旧神城村にある。ただ開業時にはすでに白馬村となっていた

「敵に塩を送る」の語源となった千国街道沿いは武田と上杉の領地争いの場でもあった。鎌倉時代から当地を治めていたのは飯森氏で、戦国時代に一族が武田、上杉の狭間に置かれた際、一族内で唯一上杉に臣従。ここ飯森城で武田勢と対峙したところ一夜で現在の小谷村方面へと逃げ出したため一夜山城と呼ばれる

もっとも駅の設置は城址や旧宿場町の観光が目的だったわけではなく、やはりスキーを中心のレジャーである

城址のある山は故事にちなんで一夜山と呼ばれ地図にも記載されているが、そこには白馬五竜スキー場のいいもりゲレンデがあり、ふもとにあたる飯森駅近辺は旅館街がある

簡素なホームと周辺の景色

そんなレジャー客を迎える駅はというと

小さな階段でホームと出入りする。電化の際に設置された他の2駅と同じ構造

小さな待合所の中ではすでに冬へ向けての待機が行われていた

こちらが時刻表。12時26分で降りて同57分で白馬方面へと向かう。滞在30分と、ここは理想的だが、1本ずれると3時間運行のない、お昼休みの時間帯となるので朝から無事に回れて良かった。大糸線増便バスの力は甚大だった

こちらは駅の全景。道路から分かりやすいように赤く目立つ文字で案内があり、そこが駅前の広場となっている。もっともこれまで紹介してきた駅と同様、この駅を使用してスキーを目指す人はほとんどいないようだ。当駅は白馬駅よりも神城駅の方が近く、わずか1・5キロ。規模が大きめの神城駅の利用者が1日で60人程度とみられることを考えると、正確な数字は分からないが、さらに少ないことは間違いない。ただし写真の左側で分かる通り立派なお手洗いがある

駅の前には美しい稜線が広がる。これで3月の積雪の中から始まり酷暑の9月上旬を経ての大糸線の全駅訪問はすべて終了だと思うと達成感はあった。ここから今日は通過ばかりだった白馬駅に立ち寄ることにする

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大糸線全40駅訪問最終章~南小谷の手前で複線化も間もなく棒状に戻る

千国駅の駅名標

※訪問は2024年10月10日

全線開通後の開業

再び白馬駅を越えて今度は白馬大池駅も越えた。千国駅に到着。電化区間の「終点」、JR東日本区間の「終点」である南小谷は隣駅だ。ちなみに白馬大池駅の記事では自治体入りの駅名標も掲載したので分かっていただけていると思うが、白馬大池という駅名だが所在地は小谷村。大糸線は大町市の信濃大町から北へ向かうと簗場までが大町市、南神城から信濃森上までが白馬村、そして白馬大池から小谷村へと入り、JR西日本区間となると、平岩から新潟県となる(平岩駅は新潟と長野の県境部分にあることは平岩駅の記事で記した)

駅の開業は1961年(昭和36)。南小谷と白馬大池の間に仮乗降場として設置され、翌年に正式駅に昇格した。大糸線の全通が1957年なので、全通後にいくつか開業した駅のひとつだが、1960年に信濃大町から信濃四ツ谷(現白馬)までが電化した際に設置された電化区間内からも外れていて、当駅付近が電化されるまでは1967年を待たなければならない

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南小谷まで近く

その千国駅の現在の姿は

このような形。簡易的な駅舎が建っていて真新しい。2016年に建て直されたものだが、ではその前はどうだったのかというと、待合室があるだけで、規模は現在とあまり変わらない。駅舎にぶら下がっているかわいいポストも前駅舎と同様のようだ

白馬より北にある信濃森上、白馬大池についてはすでに記事で紹介された通り、最寄りのスキーや高原観光の拠点駅としての利用が期待された。両駅の紹介では70年代、80年代の時刻表を参照して説明したが、当時のレジャー目的の特急や急行は白馬から信濃森上、白馬大池と各駅に停車して千国のみを通過して南小谷へと向かっていた。駅周辺は特にこれといって何もなく南小谷駅へも比較的近い。千国駅は開業から一度も有人駅にはなっていない

利用者数は開業時から多くはなかったとみられる。大糸線というとJR西日本管轄の非電化区間ばかりが話題になるが、白馬から北についても何度も行ったり来たりした実感からすると乗客はかなり少ない。電化、非電化の境界から別の鉄道会社になってしまったが、同じ小谷村にある駅の利用がそれほど大きく変わるはずはないのだ。大糸線のJR東日本区間は最近のデータがない駅が多いのだが、千国駅については10年以上前、すでに1ケタの利用者となっているので現在それ以上の数字にはなっていないて思われる

ホームの跡

駅舎の中には街道時代の休憩所のような風情の小さな待合所がある。寒さは防げる。料金表と時刻表掲げられて貴重な写真も張られているようだ

ホームの向こうは村営グラウンドのようだが、その手前にホーム跡とレールをはがした跡がある。開業以来、旅客駅のみで貨物駅になることはなく単式ホームだった当駅に変化が訪れたのはJR民営化後の1989年(平成元年)。当時はスキーブームでスキー客を乗せた列車が運行され、信濃森上と白馬だけではさばききれなくなりつつあった。白馬大池は構造的に2線化できないため当駅に白羽の矢が立ち、すれ違い可能な駅となった(もちろん優等列車や臨時列車は運転停止)

だがスキーブームが去ると列車本数は減って交換設備の必要もなくなった。JR西日本区間でも交換設備が多く撤去され、千国駅も2005年に棒状ホームに戻った。わずか15年の交換可能駅だった

駅舎からホーム上の駅名標を挟んで右側に見える建物はお手洗いだ。こちらも真新しいが、廃止された向かいホームへの入口部分を塞ぐようにして設置されている。白馬大池駅でピンチとなった話はすでに紹介したが、まさか利用者数のさらに少ない千国駅にきれいなお手洗いがあるとは想像できなかった

時刻は正午前。すっかり日が昇って気温も上がってきた。そもそも朝7時にホームに立った信濃木崎駅より標高が200メートルも低いのだ。朝もやのかかっていたころと比べると山と雲が美しい

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