青空フリーパス

参宮線、今のうちに~「参宮」の名が許される唯一の存在

二見浦駅の駅舎

10月29日11時

ほぼ全員が下車

列車は二見浦に到着

乗っていたお客さんのほぼ全員が降りてしまいました。参宮線にIC乗車券は導入されておらず、ワンマンの運転士さんも忙しそうです。考えてみれば隣駅は単式ホームのみで駅舎もない松下、その次が終点の鳥羽。快速「みえ」だったら名古屋を含めた主要駅から鳥羽への利用者もあったでしょうが(二見浦は快速停車駅)、私が乗っていたのは普通。鳥羽へは近鉄が圧倒しています。付近の主要観光地で立地的にJRが唯一、有利となっている駅。当日は土曜日で観光客も多かった。と同時にJRと近鉄の関係性を雄弁に物語る光景ともなっています

ご覧のようにこの付近では人の多そうな海沿いをJRが走るのに対し、近鉄は山の中を走っています。乗れば分かるのですが、近鉄の車窓はひたすら山中で人里の雰囲気はほとんどない。伊勢市から鳥羽に向け真っ直ぐ敷設されています。なぜこんなことになっているのかというと、近鉄がずっと後から線路を敷いたからです

正式名称は「神宮」

この関係を語ると、とても長くなるのですが、できるだけ短く説明すると、まず「お伊勢参り」が、移動手段が徒歩しかなかった古来から「一生のうちに一度は行きたいものだった」ことだったことに由来します

伊勢神宮の正式名称は「神宮」。最高の格式を持つため地名が入らない唯一の神社です。「伊勢神宮」とは他の神社と区別するための通称

そんな「神宮」ですから鉄道が日本にやって来た時に放っておかれるはずがない。参宮鉄道という会社が、まず宮川まで線路を伸ばし、やがて現在の伊勢市駅まで到達したのは明治のまだ19世紀。ちなみに、この参宮鉄道は現在の関西本線を作った関西鉄道という会社とも縁が深く、亀山から津まで関西鉄道が敷設したものを継続する形で津~伊勢市までを建設しました。ちなみに関西鉄道という会社は草津~柘植の現在の草津線も建設しています

少し話はそれますが柘植の駅に行くと奈良方面に向かう関西本線が大きくカーブを描いて離れていくのが分かります。そこだけを見ると草津線が本線のように見えてしまうほど。それは草津線が先にできたため

また地図を見ると名古屋からの関西本線と紀勢本線の接続は、かなり内陸にある亀山で、名古屋から、なんでわざわざこんな遠回りをして伊勢方面に向かうのかと思うかもしれませんが(三セク伊勢鉄道の前身となる国鉄伊勢線は戦後に開通)、それは大阪や京都からスムーズに伊勢神宮まで行くためです

この路線はやがて国有化されるのですが、明治のうちに、こちらも観光地である鳥羽まで延伸。当初は亀山~鳥羽が参宮線とされ、関西からだけでなく東京方面からの優等列車も乗り入れ、大いににぎわいました。需要に応じるため複線化が計画され、一部は実現しました

近鉄の追撃

ただ、こんな「おいしい路線」を他が放っておくわけがありません。その後、参宮急行電鉄という、こちらも「参宮」を冠する現在の近鉄の前身が大阪から伊勢までをつなげたのが昭和初期。先行する国鉄に対抗するため「特急」を運行。これが、その後「近鉄特急」となります

ただこの時点では国鉄側もまだまだ余裕があったのですが、戦後の伊勢湾台風からの復旧工事の際に名古屋~伊勢中川を狭軌から標準軌に改軌。大阪からだけでなく名古屋からも乗り換えなしで伊勢まで行けるようになり立場が完全に逆転。国鉄にとって不幸だったのは戦時中の金属供与でせっかく複線化した区間を単線に戻していたこと。複線電化と単線非電化では、なかなか勝負になりません

さらに近鉄は戦前から細々と走るローカル私鉄だった鳥羽~賢島間の志摩電鉄を買収。これが現在の志摩線。しばらくは国鉄の鳥羽駅から発車する飛び地路線でしたが、その後に鳥羽までの線路がつながり賢島へも直接行けるようになったため、亀山~多気が紀勢本線に組み込まれたことで、わずか30キロの路線になっていた参宮線は完全なローカル線になってしまいました。それが大阪万博と同じ1970年のことです

小学生の前半を三重県の名張というところで暮らしていた話は前記事でも触れましたが、当時「近鉄で直接、鳥羽と賢島へ行けるようになったので行ってみるか」という両親の話し合いがあって鳥羽と賢島まで泊まりがけの家族旅行に行ったことを今でもよく覚えています。「かしこじま」と読めるようになったのもその時。近鉄延伸がきっかけで鳥羽、賢島まで足を運ぶようになった人は多かったと思いますよ

そもそも近鉄大阪線沿線に住む小学校低学年の私はお伊勢参りは近鉄で行くものと覚えていて国鉄の駅があることすら知らなかった。当時SLが走っていたなんて前記事の田丸城に保存されている車両の説明書きで今年初めて知ったぐらいです。近鉄の鳥羽線はたった13キロしかありませんが、すでに差があった国鉄と近鉄の競争にさらにダメージを与えたわけです

ただ繰り返しますが「参宮線」を名乗れるのは唯一ここだけなのです。沿線には歴史がちりばめられています

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参宮線、今のうちに~田丸駅と最後のお別れとSL

田丸城の歴史解説板

1月7日14時10分

3ヶ月ぶりに再訪

年が明けて田丸駅を再訪。最後のお別れをしてきました。連休中でしたが何かイベントがあったのか高校生が多数下車していきました

前回も紹介しましたが惜別のメッセージがズラリ

駅前のロータリー。ちなみにタクシー会社もあります

駅前にはかつての旅人のオブジェがあります

江戸時代の当地は紀州藩(広大だったのですね)で各街道の合流点。お伊勢参りを終えた旅人は各街道を経てそれぞれ帰路または次の目的地に向かったそうです。合流点、分岐点として田丸宿は大いに栄えました。にしても、文字にすると簡単に「熊野詣」となりますが、えらく遠い。吉野、高野にも向かったと書かれていますが、現在、車で向かっても何時間もかかりそうな距離です

ちなみに翌日、名松線に乗って伊勢奥津駅も訪れたのですが、そこで見たものは

田丸にも記されていた伊勢本街道の解説。こちらは大阪へと向かう道で田丸宿もあります。現在のJRや近鉄の駅名と同じものも見られ、こういうものを見ると鉄路が敷かれた理由や、途中で未成線となった名松線のように敷かれようとした理由もよく分かります。ただ多気の次が奥津とは…。ここは歩くだけで1日かかりそうです。昔の人は皆さん健脚だったのですね

珍しく周辺散策

次の列車まで1時間あります。ということで今回は珍しく観光というか周辺の散策を行うことにしました。幸いなことに駅は玉城町の中心部にあるので城跡の訪問も含め、ちょうど良い環境です

5分ほど歩くと

町役場(右手の建物)と保育所が見えてきます。堀の内側に建てられているのが分かります。役場の向こうはすぐ城郭への入口です

登っていきましょう

相当な攻防の歴史があったようですが、各地の城郭と同様に明治維新とともに廃城となり、現在は城跡となっています

坂を登っていくと玉城中学校

駅から学校までは徒歩10分ほど。こうして見ると学校は完全に城の中です

写真で見るとよく分かる

そして天守の場所へ。途中、この季節とは思えない薄着のご婦人2人連れとすれ違いました。私より明らかに年上です。地元の方で日課なんでしょうね。お元気です。ここまで簡単に登ったように書いていますが盛夏だったら、途中で引き返したかもしれません(笑)

石垣の上に天守があったのですね

眺望は素晴らしい。桜の季節は華やかだろうし、四季それぞれの顔があるのだと思いました

SLは北海道から

城から降りていくとSLが展示されていました。もちろん静態保存ですが屋根もあって状態はとてもいい。てっきり参宮線で活躍していものかと思ったら

北海道で活躍していたものが町政80周年でこちらにやってきたそうです。確かにそう言われると先頭部分には雪かきが付いていて納得。初めて知ったのですが昭和13年から19年までの6年間で382両も製造されたのですね。戦時下の需要がうかがい知れます

参宮線では昭和48年つまり1973年までSLが走っていたと記されています。これも初めて知りました。私は67年から72年まで三重県で幼少期を過ごしていて、つまりはSLがバリバリの頃に県内にいましたが、住んでいたのは名張という近鉄しか走っていない町だったので全く知らなかったというか縁がありませんでした。ただ私が名張にいるころに近鉄は鳥羽まで延伸して賢島まで直接行けるようになり、近鉄特急もバンバン走っていました

参宮線の歴史については後述しますが、近鉄の鳥羽延伸が大きなダメージを被ったという事実は知っていたものの、まだSLが走っていたとは初耳です。郷愁というより近鉄特急にSLでは、とても対抗できないな、と思ってしまいました

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参宮線、今のうちに~このために来た

田丸駅にはさよならメッセージがビッシリ書き込まれていた

2022年10月29日10時10分

いよいよメインイベント

宮川からひとつ戻って田丸駅に到着。この日は6時24分名古屋発の列車に乗り、亀山経由で参宮線に入り、出発すらすでに3時間半。車内でウトウトする時間帯になっていますが、しっかり目覚めた。ここに来るためにホテルを早めに出てきたのですから

跨線橋を昇り降りして、まずは駅舎を拝見

うーん、これはほれぼれするような立派な駅舎だ

駅名板は宮川の巨大ホーローに対して、こちらは筆書き。かなり古いものであることは間違いない

柱は赤く塗られています

財産票によると大正元年(1年と書かれているところがまたいい)ですから1912年。昨年で110歳の誕生日を迎えたことになります。駅の開設は宮川まで線路が伸びた1893年なので、1回改築されていることになります

100年以上の歴史。間もなく姿を消す

田丸駅の所在地は三重県の玉城町。駅の開設時は田丸町で、伊勢神宮への要路となる当地の田丸城は古くから攻防が繰り広げられ、江戸時代になってからは、お伊勢参りの宿場町として栄えました。駅の設置も当然だったのですが、この歴史ある駅舎がなくなる、というのが今回の訪問の趣旨。その時点では解体の時期を知らず(今年の春ごろとされる)、慌てて駆けつけたのでした

玉城町には鉄道駅は、ここひとつしかなく町でも風格のある駅舎を引き取っての保存、管理も検討されたそうですが、調査の結果、耐震性に問題があるとされ、やむなく解体となりました。建て替えを行い、空洞の超簡素な駅舎にはならない予定です。現在、駅にあるものが、いくつか残されるといいですね

有人駅として10年前まで頑張ってきましたが、現在は無人

駅舎内の細かい造りに目が行きます

レンガの土台の上にコンクリートそして、その上に木造駅舎というのも独特な造りのようです

実は年明け早々にも最後のお別れのため再訪問してきました

駅舎内に設けられたメッセージボードには感謝と惜別の文字がびっしり書き込まれていました

参宮線については近鉄との比較や詳細な現状をさらにゆっくり見てから記事にしようと思っていたのですが、解体間近ということで今回の紹介となりました

まだ少し時間はあります。ぜひ田丸駅に足を運んでみてください

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参宮線、今のうちに~大みそかに開業した駅

宮川駅の柱駅名標

2022年10月29日10時

最初の終着駅、伊勢神宮参拝の拠点として栄える

前日、名古屋に宿泊した私は早朝から関西本線、紀勢本線といくつかの駅を巡りながら10時前に宮川で降りました

宮川駅の歴史は古く、開設は1893年というから明治26年。そして開業日が12月31日の大みそかというのが、特別な駅だということを物語っています

年明けを目前にした大みそかに開業というのは、あまり聞いたことがない。ただどんなに遅くても新年を前にスタートする必要があったのです

こちらが伊勢神宮参拝の「最寄り駅」となったからです

現在も伊勢市駅つまり伊勢神宮の最寄りまで徒歩で1時間近くかかります。そして鉄道の工事は宮川に阻まれ、やや遅れ気味でしたが日本に初の鉄道が走ってまだ21年しか経っていません。車なんてまだまだ。そんな時代に徒歩1時間の場所まで行けるのですから、当時としては画期的なこと。参拝の拠点駅として大いににぎわった記録が残っています。伊勢神宮への参拝は当時の人々にとって大きなイベントだったのですから

面影が残る。ビッグホーローも

木造駅舎が残ります

財産票によると昭和になってあらためて再築されたもののようですが、駅前のロータリーの大きさにも名残が感じられ

跨線橋から構内を眺めた様子。カーブ状にホームが設けられていますが、規模は大きい。駅舎新築のタイミングでカーブも緩やかになったようです

そして長い。参宮線が延伸された後も長大列車の到着や行き違いがあったため、構内は広いものとなっています。長大列車対応でホームの外まで複線区間が伸びています

そして何と言っても

この巨大なビッグホーローの駅名板。とても価値のあるものだと思います

ただそのように栄華を誇った宮川駅ですが、国鉄時代の末期に早々に無人化されています。参宮線そのものが近鉄に圧迫されたというか、伊勢や鳥羽に向けての導線として大きく水をあけられたためです

参宮線の沿線はどこも名所が多く、こちらも駅に隣接して離宮院跡があります

無人駅となっているため駅舎と逆側にある離宮院の側にも出入り口が設置されています

写真でお分かりのように参宮線にはIC乗車は導入されていません

実は駅リポートしては不完全な状態なのですが、早めに紹介しなければならない事情があります。また歴史と格式としては指折りともいえる参宮線について次回以降も報告させていただきます

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