弘南鉄道大黒様きっぷ

弘南鉄道弘南線を行く~戦前から戦後にかけ23年間の終着駅は大きな駅舎を持つ

※訪問は2025年7月11日

駅員さんの出迎えを受ける

田んぼアート駅から2駅弘前方面へと戻る

到着したのは津軽尾上駅。駅舎へ向かうと駅員さんが迎えてくれた。弘南線も大鰐線と同様、多くは無人駅だが、途中駅にも有人駅があることが大鰐線と異なる点である

こちらはホームから駅舎へと入る際の改札口の様子

ただ後で分かったことだが、駅員さんがいるのは11時まで。私の乗った電車が到着したのが10時52分なので、この日最後のお勤めだったことになる。改札口の写真は無人駅状態になってからのものだ

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渋い忘れ物案内

こちらが改札口ときっぷ売り場。すでにカーテンで閉ざされていた。その右手には

黒板の忘れ物案内。今も利用されているのかどうかは分からないが、現役であることは間違いなさそうだ。定期券の発売も行っているようだ

外に出ると大きな駅舎だということが分かる

鉄路が届いて約100年

津軽尾上駅は1927年(昭和2)の開業。当時は尾上村。間もなく尾上町となり、平成の大合併で平川市となった。弘南弘前(弘前)から当駅までが開業した。当地付近には奥羽本線や川部と黒石を結ぶ黒石線(後に弘南鉄道が引き継ぐが現在は廃線)が走っていたものの、弘前の隣町にあたる現在の平川市一帯は鉄道空白地域となっていた

このため大正期から鉄道敷設の運気が高まり1927年の開業となり、津軽尾上駅は終着駅となった。弘南鉄道のスタートである。弘南鉄道には弘南線と大鰐線があるが、もともとは弘南線のみの路線で、大鰐線は経営難となった弘前電気鉄道という別会社を引き取ったもの。同じ会社でありながら接続駅がないのもそのため。だから路線名も弘南鉄道弘南線と同じ言葉が2つ続く形となっている。同じ会社の路線でありながら、各駅の雰囲気は異なっている

昭和初期の開業で当初はSLによる運行だった。電化は戦後になってから。戦時中そして戦後の物資不足により、石炭の入手が困難になったことが理由で、終戦からわずか3年の1948年に電化が達成された。青森県で初の電車が走った。そして1950年に津軽尾上から黒石までが延伸。現在と同じ形となって全通した。つまり1927年から23年もの間、当駅が終着駅だったことになる。さすがに開業時からの駅舎ではないと思われるが、規模の大きさはそのため。弘南線といえば弘前と黒石を結ぶ路線のイメージがあるが、成立と時期は多少違う

正面からでは分かりにくいので横から見るとこんな感じ。かつてはスーパーが入居していたという

周辺はかつての尾上町の中心部

駅から街が広がる

こちらは駅前の周辺案内図

再び駅舎へ入ると

広い空間が広がっていた

あと2年で100年を迎えるかつての終着駅である

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弘南鉄道弘南線を行く~意外と少ない3種の文字を使った駅名

※訪問は2025年7月11日

独特の時刻表

田んぼアート駅の時刻表。いわゆる「昼間」しか列車が停車しないことが分かる。田んぼアートのためにできた駅なので早朝と夜間は停車がない。いわゆる通勤通学時間帯に用事はないという、なかなか珍しい存在だ。そして冬季は臨時列車を除いて全列車が通過する

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はるばる何しに行ったんだか

駅のホームから展望台が見える。そこは「道の駅いなかだて」。田んぼアートを見るのなら、そこに登る必要があるのだが、結論から先に言うと今回は断念。訪問した7月という季節は田んぼアートが最も見ごろな季節で、2カ月前に飛行機のチケットを確保した時から、もちろんそれは意識していたが、現実にここまでやって来た時点で各駅訪問を優先して時間が足りなかった。ここまで来て田んぼアートを見ずに帰る人は「一部を除いて」ほぼ皆無と思われ「わざわざ神戸から弘前まで何をしに行ったのか」と言われそうだが、鉄オタ、駅オタには優先順位があるのだ

当駅の開業は2013年(平成25)で、弘南線の中では最も若い。というか大鰐線の石川ブール前駅の開業が2002年なので、弘南鉄道の中では最も新しい駅だ。単式ホームと待合所のみの簡素な構造。待合所も吹きさらしだが、冬季休業なので問題はない

駅名標をよく見よう

当駅の注目ポイントは駅名である

田んぼアートと漢字、ひらがな、カタカナの3種類の文字をほ使用しているが、このパターンは意外と少ない。もっともこの適用には「ケ」「が」「の」という「日本語ならではの強力な援軍」がいて、有名な駅では「つつじヶ丘」「ユーカリが丘」「有明テニスの森」「柏の葉キャンパス」など、それなりに駅はあるが、援軍抜きだと一気に希少価値が上がる

抜けがあれば申し訳ないが私が調べたところでは最も有名な駅は京王線の「京王よみうりランド」(東京都)があって、その他では岡山電気軌道の「東山・おかでんミュージアム」(岡山県)があるぐらいだ。岡山電気軌道の停留所は平成になって改名されたので、ふだん目にすることの多い「よみうりランド」は鉄道的には昭和から稀有な存在だったことを今になって知った

もうひとつの最寄り

さて当駅にはもうひとつの最寄り駅としての顔がある

これは田舎館駅にあった張り紙で私もこの時、初めて知ったのだが、当駅はJRAウインズ津軽の最寄りでもある。「一部を除いて」と記したのはこのためだ

ウインズならば、8時台から17時台までしか列車が停車しなくても問題はない。もっとも冬季休業駅なので有馬記念の日は当駅から行けないし、冬季休業の混乱を避ける意味でも田舎館駅に張り紙があるのだろう。そもそも訪問日は平日だったので、競馬目当てで電車でやって来る人がどれぐらいいるのか私には分からない。競馬目的の客が多いのであれば、冬季も競馬開催日は列車が停車するはずだ。ちなみにウインズ津軽のHPを見ると、駐車場のスペースは2032台となっていた

ホームからの景色は見渡すばかり農地である。ぜひ次回は時間を設けて展望台から一望してみたい

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弘南鉄道弘南線を行く~徒歩30分の表示にビビるも実はあっという間

※訪問は2025年7月11日

本日2度目の徒歩移動

今回の弘南線訪問で「ぜひもの」はこれから向かう田んぼアート駅である。開業の季節、時間に制約があるからだ。理由は想像がつくだろうが、田舎館村の名所である田んぼアートは、当然ながら冬場はやっておらず、最寄り駅も休み。早朝や夜間は田んぼアートを見ることができないので、列車はすべて通過する。3月に弘前を訪問した際、大鰐線を最優先したのは、間もなく廃線になるという事実はもちろん大きいが、田んぼアート駅に電車が停車しないことも大きかった

次にいつ弘南線に乗車できるか分からない以上、せっかくやって来た7月という季節に訪問するしかない。今日中に全駅訪問できるかどうか微妙なので、最優先は田んぼアート駅となる。そして田舎館駅からは徒歩移動

「田舎館駅は村の中心部から外れているので目立つものはない」と前記事で記したが、こちらは地元農協の倉庫だと思われ、他にも

倉庫が目立つ。それらを尻目に出発である。歩くのは1時間に1本というダイヤもあるが、駅間距離がわずか400メートルしかないので当然の徒歩だ

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アプリにぼう然も

ここは当然歩く予定だったので、事前に徒歩コースを調べることにした。しかし地図アプリによると「所要時間30分」。自分の予想の倍以上の表記にめまいがしそうになった。そんなことはあり得ないのだが、線路と道路が全く並行していないこともあり得る。途中で川を渡るとか。ということで弘前から田舎館へと向かう車中の田んぼアート~田舎館の1区間は車窓を凝視。車内はガラガラだったが、先頭近くで立ち、右側、左側の両方をチェック。結論は「30分もかかるわけないだろう」というものだった

何のことない。グーグル先生によると、わずか10分である。最初に見たアプリは国道をアンダーパスする徒歩ルートが認識されていなかったようだ。確かに日が暮れると人や車の気配は全くなさそうなコースではある

足取り軽く現地へと到着

ということで倉庫群近くの踏切を渡り、歩を進めていく。所要時間30分が10分に短縮された(というか元から10分なのだが)ので足取りも軽い

どんどん進んで行くと駅が見えた

踏切を渡ってすぐホームに入るのだが、その向こうには展望台が見える

冬季そして朝夕はすべての列車が通過するということは、つまり駅周辺には何もないことを意味する。それなりに民家があれば、田んぼアートを行っていない冬でも列車は停車するだろう。広大な田んぼがあってこその田んぼアートである

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弘南鉄道弘南線を行く~「いなか」の駅舎に入って出会う目を見張るアート

※訪問は2025年7月11日

小休止から再び活動

ホテルの部屋で40分ほど休んで弘前駅へと戻ってきた。夏場でもあるので、たかだか40分といえども貴重な時間である

約30分、電車に揺られて田舎館駅に到着である。朝から大鰐線の駅を回ったおかげで、弘南線のすべての駅を回れるかどうか微妙なところなので、優先順位をつけての駅巡りとなったが、ここ田舎館とお隣の田んぼアートについては「ぜひもの」だろう

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「えっ」と思う駅名だが

当駅は島式ホームで列車交換可能な構造。夏らしい雲も印象的だ

立派な駅舎へは構内踏切で向かう

開業は1950年(昭和25)。弘南線は1927年に弘前~津軽尾上が開業。当時は非電化路線だった。戦争を挟んで電化され、1950年に黒石まで延伸された全通。その際に田舎館駅も開業した

駅名は田舎館村からのもの。明治の町村制施行からある自治体で、その後合併はあったものの、今も田舎館村である。村にあることも加え「田舎」という文字に一瞬「えっ?」と思ってしまうかもしれないが、「稲」つまり「イネ」に由来しているとされ、江戸時代から地名は「田舎」だった。今の意味とは異なる。「館」は有名なところでは「大館」「角館」など、東北地方で多く見られる地名だ

村内で有名な駅は奥羽本線の川部駅だろう。五能線の乗換駅としての知名度が高い

当ブログでも2年前に紹介している。明治以来の駅舎がなくなるということで、押っ取り刀で駆けつけ、窓口で青春18きっぷを購入。今にして思えば、こんな形で「どこかで使うので、とりあえず買っておこう」と18きっぷを購入することはできなくなった。川部駅のみどりの窓口は私の訪問から2週間後に姿を消した。この時の記事では「村にある貴重なみどりの窓口」と紹介している

ただ川部駅も田舎館駅も村の中心部からは、やや離れた場所に位置する。イメージとしては川部駅と田舎館駅の間に中心部がある

駅舎に入ってビックリは確実

ふだんは駅の情報を事前に収集しない私だが、今回についてはその後の徒歩も含め事前に調べる過程で分かっていただけに、見出しの通り「確実に驚くだろう」としておく

こちらはホームと駅舎を結ぶ出入口。そして

こちらは駅舎の様子。いつからのものか正確に知ることはできなかったが、おそらく1950年の開業以来のものだろう。街の中心部から離れている分、周辺にはあまり見当たるものがないのでクラシックな駅舎が目立つ。昭和の終わりごろから無人駅となっている

この古典ぶりを目にした後に駅舎に入ると

中はこんな感じ。まさにそのような表現しか見当たらないが、地元のアーティストの方によるアートで埋め尽くされている。天井、壁そしてイス、ゴミ箱まで。これこそ事前に知ることなく、いきなり出会って腰を抜かしたかった

もっとも、この記事を読んでくださっている方に「行くとビックリしますよ」と伝えても今さらなのだが、それでも訪問の価値は必ずある駅だと思う

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弘南鉄道弘南線を行く~乗車した際は弘前からの1区間は車窓に注目

※訪問は2025年7月11日

午前中は有人駅

弘前東高前駅である

立派な駅舎を持っている。この後も出てくるが、同じ弘南鉄道でも弘南線は大鰐線に比べると立派な駅舎を持つ駅がたびたび登場する。もともと弘南線のみからスタートして、後に大鰐線の経営を引き継ぐことになったという経緯があるので特徴に違いがあっても不思議ではない

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見事になくなったレール

到着した8時45分ごろは有人駅だった。改札付近の注意書きによると平日の7~10時は有人のようだ。学校最寄り駅らしい配慮だ

当駅は1927年(昭和2)の開業。弘前~津軽尾上が開業した際の弘南線のオリジナル駅のひとつ。当初の駅名は「松森町」で間もなく「南弘前」となった。大鰐線に「西弘前」(現弘前学院大学前)、弘南線に「南弘前」があったわけだが、現在は2駅とも異なる駅名となった

60年近く親しまれた南弘前駅だが、1988年に東工業前駅へと改称。東工業とは弘前東工業高校のことで、現在の弘前東高校。2005年に学校名が変更されたことで駅名も変更となった。つまり現在の駅名となって、まだ20年

ホームへと歩を進める

いかにも「線路をひとつはがしました」と訴えているような構造だ。島式ホームへはかつて構内踏切から向かっていたのだろう

単式ホームとなっているため、弘前行き、黒石行きは乗車位置を変えて対応しているようだ

次に向かうのは黒石方面だが、ここで1時間列車を待つのもやることがなさそうなので、前回の記事で紹介した「プランB」を使ってひとつ隣の弘前へと向かう。駅前のホテルは連泊としているので自室に戻ってエアコンの下、休憩である

意外と長い併走区間

電車に乗ると、すぐにJR奥羽本線と併走する。駅舎の道路を挟んだ向かいに奥羽本線の踏切があるため、容易に想像できるが合流してから弘前までの距離が意外とあるように感じる

便宜上、徒歩ルートにしたが線路のみの距離は0・9メートルと1キロに届かない。だからすぐに着くのだが、ゆっくり走るので電車の所要時間は3分もある。ターミナル駅から出たJRと私鉄がしばらく併走する場面は地方都市としては、なかなか貴重だ

ということで弘前に到着。奥に見えるのがJRのホーム

もちろん弘前駅は有人改札。開業時から長らく「弘南弘前」を名乗っていたが、1986年に国鉄(当時)と同じ「弘前」駅となった。現在の駅舎は2004年からのもの。JRの駅とともに大きな駅ビルとなった

電車の到着に合わせて改札口を開放するスタイル。待合所は改札の外にある。この後、体験するのだが、弘南線の有人駅各駅がそのシステムをとっていた

弘前駅はJR側の中央口、弘南鉄道側の城東口があるが、バスターミナルやホテル、飲食店が並ぶ中央口に比べると、かわいい駅舎となっている

しばらく休憩して本格的に弘南線の各駅訪問を行おう

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弘南鉄道弘南線を行く~朝の20分チャレンジからスタート

※訪問は2025年7月11日

大鰐線の後はもちろん

弘南鉄道弘南線の弘高下駅。ここで3月にスタートした大鰐線の全駅訪問を終えた

「終えた」といっても今日は朝の6時過ぎから行動を開始しているので、3月に訪問済みの大鰐から始まって津軽大沢、松木平、小栗山そして弘高下と未回収だった4駅の訪問を終えてもまだ8時20分。ということで、ここから弘南鉄道のもう1本の路線、弘南線の各駅訪問を行うことにする

最初の訪問駅は弘前東高前である

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両駅の位置関係は?

まずは両駅の位置関係

弘南線の始発駅は弘前。つまりJRの弘前駅と同じ場所だ。そして弘高下駅と弘前駅、弘高下駅と弘前東高前駅は同じような距離にある。ということで弘前駅に行くぐらいなら、ここは弘前東高前への訪問である。どちらも移動手段は徒歩なのだから

ただし若干問題があって現在の時刻は正式には8時19分。弘前東高前の時刻表を調べると黒石行きは8時40分である。20分で到達できれば問題はないのだが、グーグル地図によると28分。ちょっと難しいかもしれない

しかし、そんなことは言っていられない。ここはチャレンジの一手だろう。どちらにせよ各駅回収で当駅には行かなければならないのだから。地図によると下り坂が続いていそうだ。もしかしたら時間内に到達できるかもしれない

ということで大鰐線全駅訪問完了の余韻に浸ることもなく歩き始める。ただ大鰐線で何度か行った徒歩とは異なり、ここは弘前の市街地の中心部。一本道ではなく広い道や細い道もあって、選択肢が多いことがかえって経路を惑わせる

そして結論から言うと

ここを渡れば弘前東高前、という奥羽本線の踏切に到着したのが8時42分。チャレンジはむなしく失敗に終わった

途中「路地チャレンジ」したのが敗因で、地図アプリの通りに進んでいけば、もしかすると間に合ったかもしれないが、それはあくまで「電車に間に合った」というもので駅の写真を撮るところまでも行かなかっただろう

まぁしょうがない。そして一応「保険」はかけてあって、黒石行きは1時間やって来ないが、弘前行きは8時50分で弘前にはすぐ行ける。弘前駅前のホテルは連泊となっているため、ホテルの自室で休憩もスマホの充電もできる。最近のホテルでよく行われている連泊の際のエコプラン(部屋の掃除やベッドメイクを不要とすると、いろいろ特典がついてくる。私は缶ビールを1本もらった)を利用しているので部屋に戻っても清掃中ということはない

そして弘前東高前駅。高校生の利用が多いからだろう。自販機がズラリ並んでいる。なかなか立派な駅舎である

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14駅を訪問した春夏の大鰐線を振り返ってみる

季節のコントラストを味わう

3月と7月の2回に分けて青森県まで赴き、2027年3月での廃線が決まっている弘南鉄道大鰐線の全14駅を訪問した

3月上旬の時点では、まだ雪に覆われていた沿線。対照的に7月は夏の空気を存分に味わった

そもそも自販機の高さを超えるほどの雪なんて、ふだんは見たこともないというか、自分の住んでいる所では雪がつもるという場面にすら遭遇しないので、それだけでインパクトは高すぎるのだが、2回にわたった訪問の総まとめをしてみたい

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画期的だった地方私鉄の電化発進

大鰐線の開業は1952年(昭和27)。戦後10年も経っていないそのころ、電化路線としてスタートした。今は並行する奥羽本線も電化され、それが当たり前のように感じるが、実際に奥羽本線の秋田~青森が電化されたのは1971年と、20年近くも後のことだった。かなり画期的なことだ。敷設したのは弘前電気鉄道。電化にあたったのは三菱電機。当然のことだが、電車というのは基本的に都市部や幹線で見られるシステム。一定の旅客数や運行本数がないと元はとれないからだが「これからの時代は電車だ」と電車を普及させたい同社の思惑もあったし、わずか14キロという路線の短さも電化には適していた

また今でこそ弘前~大鰐温泉を12分で結ぶJRに対し、中央弘前~大鰐を40分近くかけて結ぶ大鰐線は遅い上に車両も古いもので乗り心地も正直良いとは言えないが、非電化時代の国鉄には弘前と周辺を走る通勤通学路線の発想はほとんどなく、あくまでも奥羽本線という大動脈の一部で、長距離を走る有料の優等列車の一部区間でしかなく、運行や乗り心地も大鰐線の方が勝っていた

元々はここ中央弘前からさらに先の板柳まで敷設される予定だった。駅の場所が選ばれたのは当地が弘前市の中心部だったからだ。私鉄が国鉄(JR)の代表駅ではなく街の中心部に駅を構える例は珍しいことではなく、福岡市では西鉄は博多駅にはやって来ないし、京都市では近鉄こそ京都駅を発着するものの(後に地下鉄との相互乗り入れで中心部に入ることとなった)、京阪や阪急も繁華街に乗り入れる。京阪に至っては京都駅のすぐ近くを通るものの素通りである。松山市も同様だ

ただ電化と国鉄駅に直結しなかったことが、後に経営に響いてくることになる

相次ぐ事故

2000年代に入って大鰐線は増便と減便を繰り返すことになる。そもそも他に貨物列車が走るわけでもない現行の1時間に1本という運行は電化路線に向いていない運用でもある。特にスピードを求めるわけでもない路線なのだから、この運用なら気動車で十分。それでも過去には弘前の都市部に限っては20分に1本の運行をしたこともある。運転間隔を45分にしたり40分にしたり、多客帯の時間帯に増便させたこともある。いわば試行錯誤の繰り返しだったが、これは2010年代にも1度廃線の危機に直面したことに起因している。この時は地元の支援などで危機を乗り越えることとなったが、その後のコロナ禍でまた利用者は減り、近年の相次ぐ事故で危機は増えた

そして2019年と2023年に立て続けに2件の脱線事故が発生する。いずれも施設の老朽化に起因していた。2件目の事故では国交省から改善要求を受けた。鉄道施設における最大の敵は温暖差。豪雪地帯でありながら、昨今は真夏の気温が連日30度を超える。電化路線の維持費はもちろん改善費も莫大だ。加えて、山形鉄道でも触れた地方の交通機関における人出不足の問題もある

2023年度の利用状況を見ると、最も利用者数の多い中央弘前で251人、次が大鰐の150人で3ケタ利用はこの2駅のみ。学校最寄り駅でも2ケタの数字が並ぶ。路線バスやスクールバスにも原因はあるが、沿線に学校が多い中、地方路線を支えるはずの通学の足としては寂しい数字となっている。当初の計画にあった弘前駅への乗り入れを果たしていれば、と思ってしまう

弘南鉄道は弘南線というオリジナルの路線をもうひとつ抱えており、そちらに力を入れないと共倒れになってしまうという危機感もあったのだろう

数字だけを見るとやむを得ないということにもなってしまうが、沿線で見た素晴らしい景色は一見さまではあるが、旅人に癒やしを与えてくれるのに十分なものだった。まだ1年半ほどの時間はある。それまでにもう一度景色景色を目に焼き付けたいと思っています

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銀世界から盛夏へ移行した大鰐線の残り駅を回収~最後の駅は名門高校のふもとに

※訪問は2025年7月11日

3月のリベンジ

いよいよ最後の駅となった

8時4分に松木平駅を出た電車は同17分に弘高下駅に到着した

本当は3月に訪問予定だったが、膝の痛みが酷くなって断念した

というのも終点の中央弘前のひとつ手前の当駅で終えるとホテルを確保していた弘前の駅前までは徒歩も十分に可能だからだ

大鰐線訪問の記事で何度も触れてきたが、3月の訪問時は徒歩には絶好の気候で、このぐらいは気にならない。また気分的にも街中を歩くのと、誰も歩いていない民家もまばらな道路を歩くのでは気分的に大きく異なる

ということは分かっていたが

鯖石から宿川原までを何とか歩いた時点で、もう限界だった。後で調べると弘高下駅から5分ほど歩けば前記事で紹介した1時間に2本の運行があるバスの停留所があり、その停留所は他路線も走るため弘前駅へ向かうバスの本数も多いが、それを知ったのは後の話で、この時はそんな余裕はなかった。だから無事にリベンジを達成したことになる

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愛称の駅名と上下の感覚に惹かれる

まずは駅舎から。棒状ホームに独特の駅舎。開業は弘前電気鉄道として大鰐線が開業した1952年(昭和27)。駅名板も含め千年駅や石川駅と同じたたずまいとなっている現在の駅舎は弘南鉄道に移管された1970年以降のものだろう

駅名は弘前高校にちなむ。旧制中学時代からの名門校として知られる。「弘高」は地元での愛称だが、旧制中学から現在と同じ新制の高校となったのが1948年だから、わずか数年で愛称が浸透していたことが分かる

学校最寄りの駅名は日本には数多くある。国鉄はあまりそのようなことをしなかったが、私鉄は数え出すとキリがない。近年はネーミングライツとしての駅名もある。ただしそのほとんどが、フルに学校名を使用している。略称や愛称はなかなか見られない。大鰐線には他にも「弘前学院大前」「聖愛中高前」「義塾高校前」と他に3つの学校最寄りの駅があり、義塾高校前は「東奥義塾高校」の最寄りではあるが、略称の愛称とはやや異なる。「弘前高校」と特に学校名が長いわけでもないのにあえて愛称がつけられている

さらに「○○前」ではなく「下」というのも独特だ。それは駅の位置に関連している

学校の敷地までは近いが実際に学校へ入ろうとすると、おそらく10分近くかかるだろう。駅も丘の上にあるが、学校はさらに高い場所にあるので「弘高下」となったようだ

駅そのものは単式ホームの上に待合所が設置されている

かつては日本中の駅で標準装備だった水道つまり水飲み場が残る。ひねってみるようなことはしなかったが、一見現役のようだ

かつては有人駅で現在は無人駅。平日朝の登校時は駅員さんの派遣があるという情報も見聞きしたが、私が到着した8時17分は無人状態だった。それもそのはずで、2023年度の1日の利用者数は34人となっている

とにかくこれで大鰐線の全14駅の訪問は完了となった

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銀世界から盛夏へ移行した大鰐線の残り駅を回収~ひまわりの待合室とライバルの存在

※訪問は2025年7月11日

周辺の景色も変わり

小栗山駅から1駅大鰐方面へと戻って松木平駅に到着。ずっと乗り続けているとあまり気付かないが、小栗山を過ぎたあたりから周辺の景色は弘前市の郊外という雰囲気から農地が多い風情に変化する

駅名標で分かる通り、読みは「まつきたい」。なかなか読めないが有名な岩手県の観光地である八幡平が頭に浮かべば難易度も下がるのではないだろうか。東北地方には「平」を「たい」と読む地名が多いという。当駅の松木平は松の木がある丘が地名の由来だとか

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目を引く待合室とホームのイラスト

ホームと待合所のみという簡素な構造の松木平駅だが、1952年に弘前電気鉄道によって大鰐線が敷設された時の1期生駅として開業している

ただし、その待合所は決して無機質なものではなく十分に意思を持つというか、緑地に派手なひまわりのイラストが入った目を引くものだ

待合所のみをクローズアップすると分からないが駅の遠景は

小栗山駅の周辺は民家でびっしりという感じだったが、先述した通り農地の中にある駅という風情となっている

待合所の中も随分と派手な黄色で塗られている。そして待合所の奥をのぞいてみると、何やらピンク色のイラストが見える

近づいてみるとリンゴのイラスト。リンゴの新たな品種をPRするためのものだそうだ

少し足を伸ばすと

このような雰囲気の松木平駅だが、当駅訪問は電車だけに限らない

駅近くの停留所にやって来るバスは少ないが、少し足を伸ばすと状況は大きく変わる。徒歩10分ほどで弘南バスの営業所に行くことができるが、ここを出て弘前駅へと向かうバスの本数は多い。時刻表を見ると朝の9時台は1時間に5本。10時、11時台も3本あり、昼間も1時間に2本が運行されている。このバスは前記事で紹介した小栗山駅の近くを通った後、大鰐線と並行するように弘前市の中心部へと向かい、弘前市の中心部である大鰐線の中央弘前駅付近を通って弘前バスターミナルそして弘前駅が始終着となっている。つまり弘前駅へ行けないという大鰐線の路線としての短所をカバーしている一方、運行本数でも上回っている。当駅付近について弘前市郊外から農地へと雰囲気が変わると記したが、まさに郊外の切れ目から中心部へと向かうバス路線となっている。以前は大鰐線も1時間に2本の運行を行っていたが、減便の結果、昼間は1時間に1本となり、路線バスに優位な状況となってしまった

ホームに立って周辺を見る。夏の雲が景色に溶け込んでいて素晴らしい。農地にポツンとたたずむホームも、もちろん景色の一部だが、そのピースのひとつがやがて失われるのは少し悲しい

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銀世界から盛夏へ移行した大鰐線の残り駅を回収~かわいい駅名板にひかれる

※訪問は2025年7月11日

今日は歩く必要ナシ

名残惜しいが津軽大沢駅と別れる時間がやって来た

大鰐線には意表を突くような形でホーローの駅名標が残されているが、ここにも残る。随分と高い位置にあるのが印象的だ

さて前記事で津軽大沢駅は列車交換が行われる駅となっていて、当駅で下車すると必ず1時間待ちなければならなくなると記したが、この時間帯についてはその心配は無用である

こちらは当駅の時刻表だが、私が乗ってきた7時7分の中央弘前行きの後、平日に限っては7時36分という電車がある。JRにしろ三セク、私鉄にしろ、やはり駅訪問は全国どこでも通勤通学帯の朝がカギとなる。それにしても当駅には朝の6時台は電車がやって来ないことをこの時、あらためて知らされた。終電もなかなかの早さだ

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高校生でにぎわう車内

こり後は2駅先の小栗山へと向かい、1駅戻って松木平へ。そこから市内中心部を目指し弘高下で下車して大鰐線コンプリートの予定。もちろん時間はまだまだあるので、大黒様きっぷをそのまま利用して弘南鉄道弘南線の各駅訪問も行うつもり

平日のみ運行のこの列車には多くの高校生が乗車していた。7時半過ぎという時間帯は沿線にいくつもある高校への通学列車の役割も果たしているのは容易に察しがつくが、学校数の割に利用客の数が少ない。私は各地のローカル線には、かなり乗っているが、学校の数を考えると座れない乗客が、もっといてもおかしくはない。これは大鰐寄りの義塾高校前でも感じたこと。これについては今後の記事でも考えてみたい

ホームと待合所のみの構造

電車はあっという間に2区間を走り小栗山駅へ。もちろんこの駅で降りる高校生はいないし下車したのは私だけだったが、代わりに何人かの生徒さんが乗ってきた

小栗山駅はご覧の通り単式ホームと待合所のみの構造。大鰐線のこの構造の駅は路線が開業してから設置されたものが多いが、当駅は1952年(昭和27)に前身の弘前電気鉄道が路線を開業した際からある1期生の駅。見る限り過去に貨物の扱いがあったようには見えない

私の写真では農地の中にある駅に見えてしまうかもしれないが、当駅付近まで弘前の郊外化が進んでいる。開業時は千年村に所在。1955年に千年村は弘前市の一部となっている。千年村が成立する前の明治の町村制施行までは小栗山村があった

手書きの文字がなんとも

宅地の横から小さな階段でホームに入る

さて当駅とは無関係の話だが、前日の津軽線訪問でも気付いたことに電話ボックスの形状がある

拡大するとこんな感じ。多くの駅でこのような形だった。近年、電話ボックスのお世話になることなどほとんどないので、じっくり眺めることはないのだが、表彰台に登るような形となっているのは、積雪対策なのだろうか。3月の訪問時はそもそも雪が積もっていたので全く気付かなかった

駅名標は小さな待合所に2つも掲げられている。先に挙げた写真ではホームに着き出すような形での「小栗山」の文字が随分と目を引くが、正面に回ると

板に漢字、ひらがなの並列で手書き文字が並ぶ。この手のものは地元の学校生徒によって描かれたものが多く「○○学校」の案内があるものだが、それはない。板そのものはかなりの年月を感じさせ、ほとんど何もない構内で大いにアピールをしていた

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