2024年 12月 の投稿一覧

10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その12 車窓から目をひく駅舎は「鬼」

東栄駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

愛知県最東端の駅

東栄駅に到着。家族を見送るお子さんの姿が絵になる。ここから飯田線は愛知県。ようやくという感じだが、豊橋までまだまだ先は長い。そして駅名標で分かる通り、ここは北設楽郡東栄町。小和田駅から当駅隣の出馬駅までは静岡県だが、静岡県内の飯田線はすべて浜松市天竜区に所在。つまり政令指定都市の「区」にあたるわけだが、平成の大合併が昨日のように感じる私のような世代にとっては政令指定都市=都会のイメージがこびりついていて違和感を持ってしまう

そして当駅は愛知県最東端の駅である

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目が釘付けの駅舎

当駅を語る上で絶対なのが、利用者を迎えてくれるあまりにも特徴的な駅舎。当駅には特急は停車しないが、ぼんやり車窓を眺めていると「エッ!」と身を乗り出してしまう。今回、下車駅に利用したのは、もちろんそれが理由なのだけれど(笑)

東栄駅は1933年(昭和8)に三信鉄道によって開業された。当初の駅名は「三輪村」。三輪村に所在したので三輪村となったのだが、その後「三信三輪」となり、国鉄に戦時買収された際に「三河長岡」となった。長岡とは町村制施行以前にあった村名で、当時の地域名でもあった。1956年に三輪村は編入される形で東栄町の一部となり、直後に駅名も現在のものとなった

地図を見ると、すぐ近くに静岡県との境界があり、愛知県最東端だということがよく分かるが、東栄町の中心部である旧本郷町とはかなり離れている。それでも町内にただひとつの駅ということで、地元で愛される存在だということは駅舎を見れば容易に分かる

車窓からはインパクト絶大な駅だが、外からはかなり普通で、工夫が施されていることがかえって分かりやすい。無人駅だがカフェが入居している

これが財産票のようなものだが、1992年(平成3)に地元の木材を使用して建てられたそうだ

もちろんJR東海らしく「正式な」財産票もしっかり張られていることは言うまでもない

モチーフは鬼

ホームに降り、構内踏切を渡ると駅舎前で待っているのは

チェーンソーを持った鬼。凶器を持った鬼に「WELCOME」と言われても、となるが

傍らに解説がある。この鬼はオニスターという町のゆるキャラ

駅前の観光案内図を見ると、鬼は木を切るだけでなく、山に登ったり温泉に入ったりと大忙しである。鬼は地域に伝わる花祭で鬼の舞を行う重要な役割を担う。花祭は奥三河の重要行事で各地で11月から1月にかけ各地で開催。また東栄町はチェーンソーアートでも知られ、駅にチェーンソーを持った鬼がいるわけである

こちらは駅舎内のカフェ入口。駅前には民家以外、これといったものはないが、町の中心部まではコミュニティバスが運行されていて、このバスは豊根村まで運行されている。豊根村といえば、飯田線では静岡県にあるのに愛知県の村の入口として有名な大嵐駅があるが、豊根村は旧豊根村、旧富山村と2つの村域に分かれていて、旧豊根村は東栄駅が、旧富山村は大嵐駅がそれぞれの最寄りとなっている

かつての貨物用線路が今も残る当駅の1日あたりの乗降客数は108人(2022年)となっている

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その11 私が「秘境駅」の言葉を使用しない理由

平岡駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

当駅は秘境駅ではありません

小和田から15分ほどで平岡駅に到着。再び長野県に戻った。山中の飯田線をウロウロしていると、運行がしばらくないという時刻表の壁に必ず直面する。その時間をうまく昼食の時間に充てられたらベストなのだが、当然ながらそううまくはいかない。これだけの規模の町なら何とかなるだろう、と思って何もないというのは全国のローカル線(かなり利用者の多い駅でも直面する)あるあるで、その場合は主要国道のような幹線が近くを通っていれば、コンビニも含め何とかなるケースが多いが、天竜峡~本長篠の県境部分はそうもいかない。その意味では

温泉、宿泊施設の龍泉閣と一体となった当駅は心配無用。ここでは11時36分に着いて13時25分に去るという日程で、もちろんレストランもある。水窪で降りれば何とかなるかも、という道程も作りかけたががギャンプルは止めておいた。どの駅で降りても2時間潰さなければならないのだから、食事だけでは時間は潰れない。週末は昼間も温泉に入れるという平岡駅が安心である。当然ながら、当駅は秘境駅ではない

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飯田線6駅

平岡駅は1936年(昭和11)に満島駅として開業した。三信鉄道が北から延伸。間もなく小和田まで延伸されたので約半年間の終着駅だった。満島とは明治初期まであった村の名前。明治の町村制施行と同時に平岡村が誕生。それでも当初の駅名は満島だったが、1952年(昭和27)に現駅名へと変更された。自治体としては、その後の1956年に天龍村となった。特急「伊那路」であることはもちろん、秘境駅号の停車駅でもある。早朝と夜には当駅始終着の設定もある

駅舎には構内踏切で向かう

飯田線には「秘境駅6駅」と呼ばれる駅があり、それは「小和田」「田本」「金野」「中井侍」「為栗」「千代」の各駅。うち中井侍と為栗が天龍村に所在し、最近になって伊那小沢駅も秘境駅号の停車駅となったため、天龍村にある5駅のうち3駅が秘境駅になったことになる(もう1駅は難読駅として名高い鶯巣〈うぐす〉駅だが、こちらもなかなかである)

私は当ブログやX(旧ツイッター)でも秘境駅という言葉は基本的に使用しない。とても素敵な言葉だと思うし、名付け親とされる牛山さんの本はすべて楽しく読み、旅の情報源として大いに役立っている。CSで放送された番組も録画して見たほどだ。ただ地元の方や、(ほとんどいないだろうが)その駅を利用する方が「秘境」と呼ばれてうれしいのか、という気はする。だから「周囲に何もない」「利用者はほとんどない」という表現にしているのだが、飯田線については少し事情が異なる。JR東海公認なのだ。豊橋駅では秘境駅弁当という駅弁も売られている。これは秘境駅と表記しても問題ないだろう

大谷選手の応援で活気

お昼はトンカツ。レストランは大いに繁盛していた。お客さんの様子を見ると地元ナンバーの車で日曜のランチタイムを楽しんでいらっしゃるようだった

駅は無人化されているが、駅舎内には売店や土産物売り場もある。秘境駅号の到着時は大いににぎわう。価値があるのは三信鉄道の歴史を記した大きなパネル。過去の写真も含め、鉄オタならずとも歴史として見入ってしまうもの

そして肝心な時間つぶしだが、食事以外の時間も実は全く問題なく過ごすことができた。というのは、ちょうど野球のワールドシリーズ第2戦の開催日、開催時間となっていて駅舎の休憩スペース、レストランともに中継中。しかも大谷選手がスライディングの際に肩を負傷した、ちょうどそのタイミング。応援にも熱が入る。試合は食事の時間には終わったが負傷の具合は気になるところである。秘境路線でもこれだけの応援と関心があるのは凄いことだと思った

ということで2時間はあっという間に経過。午後になって時間はあるようでない。愛知県へと向かおう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その10 そして駅舎が残った

小和田駅に放置されたカブ

※訪問は2024年10月27日

※動画あり。音声注意

風格ある駅舎を支える

鉄道ファンを引きつける風格ある駅舎。そんな木造駅舎を支えるように足下にはしっかり点字ブロックが存在するところに妙に感心してしまった。かたわらに放置されているカブとの対比が何ともいえないが、5年前の写真にはなく、見た目とは違い意外と最近になってから置かれたもののようだ。ただ産業廃棄物のようなものを一体誰が何のために、ここに置いたのか?しかもどうやってここに運んだのか?電車に乗せると車掌さんに怒られる。まさか、この山道を延々と運んだのか?

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5年前はできなかったことを…

こちらが小和田駅の時刻表。10時11分に到着して11時16分の天竜峡行きで飯田方面へと戻る。戻らないと次の列車は3時間半後。次も2時間半ない。天竜峡~中部天竜の長野と静岡の県境区間はとにかくダイヤが薄いので、さすがに時刻表の見誤りは許されない。実は金野から当駅への道中で行き違い列車に遅れが出ているとのことで10分近く遅れたが、元々1時間の滞在時間があるので影響はない。5年前は豊橋方面から13時19分着の電車で来て同42分で戻るという楽々コースを利用。駅が駅だけに20分の滞在では物足りなかったので本日は周辺も見てみよう(ただ5年前は20分で良かったといえば良かった。それについては後述)

一躍「時の駅」に

駅名標の隣には「恋成就駅」の木柱。説明するまでもないが、当駅は1993年(平成5)のロイヤルウェディングの際、一躍時の人ならぬ時の駅となった。当時皇太子妃となった雅子さまの旧姓は「小和田(おわだ)」で厳密には違うが、漢字が同じということで多くの人が押し寄せることとなった。今のようにネットがある時代ではなく情報の拡散は遅いはずなのに、多くの人がやって来る映像が連日ワイドショーで報じられた

かなり色あせてしまったが「愛」と記されたベンチが登場。ここに座るためにこぞって人がやって来たが、今は汚れが目立ち座るには勇気が要りそうだ

探索開始直後に足がすくむ

ここから少し歩くとお茶の廃工場と廃屋がある。5年前は時間がなく行けなかったので、今日は行こうと、このベンチ前を通り過ぎようとした瞬間のことだった。目の前の小径を悠然とヘビがニョローリ。灰色のサイズ大のもの。これには足がすくんでしまった。慌てて駅舎へと戻る。駅舎には「ヤマビル注意」の看板も掲げられている。実は5年前に来た時は、ちょうど雨というタイミングもあってか、空中を舞う虫が凄かった。トンボや蝶のような優雅なものではない。どちらかというと人間にまとわりつく系統のものだ。6月終わりなので、もちろん半袖である。これには参った。人の営みも全くなくなった山中。大型の哺乳類だけでなく昆虫もは虫類も生息するのは当然なのだが、いきなり都会から放り込まれると、こういうことへの対応力はゼロである。現在はプラチナきっぷと化している秘境駅号は現在、春と秋のみの運行。以前は8、9月の夏も運行があったが、いつの間にかなくなった。もしかすると生物の活動が影響しているのかもしれない

ということで駅舎でおとなしくすることに。当駅で結婚式を挙げたカップルの写真が飾られている

今はオフィスでもなかなか見られなくなったデスクとパイプイス。立派な駅ノート入れがある

古い駅名標も残されている

特急「伊那路」が通過。駅舎と良い並びだ。考えてみれば私にとってはテレビに映る騒ぎは昨日のことだが、現在35歳以下の人にとってはリアルタイムで体験していない歴史上の事実でしかない。ただ歴史がこの駅舎を残したことは、まぎれもない事実だと思う。ロイヤルウェディングがなければ、おそらく駅舎は残らなかっただろう。もちろん核となる小和田駅の駅舎がなければ秘境駅号も運行されていない。なぜこんなところに駅があるのかを含め、いろいろな価値を残してくれた駅である

5年前の動画を置いておきます

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その9 5年前の思い出と変化

小和田駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

5年ぶりの訪問で「あれ?」

いよいよ小和田駅に到着。「いよいよ」と記したのは、この駅が鉄道ファンだけでなく一般的にも認知度の高い駅だという思いがあったからだ

かつては2面の対面式ホームがあったが、今はレールがはがされ棒状化している。当駅には2019年6月にも訪れているので5年ぶりの訪問となるが、ホームに降り立つと金野駅の自転車置き場と同様の違和感があった

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移動した3県境標識

小和田駅は1936年(昭和11)の開業。三信鉄道の一時的な終着駅だった

車では絶対にたどり着けず、最も近い集落までも徒歩で1時間かかる山中の駅として知られる。グーグル地図を拡大しても道は出てこないほどの場所にあるこの駅が、なぜ終着駅となったのかというと、もともとは天竜川に近い場所を線路が走っていて、当時は天竜川を利用した物流の拠点ともなっていた大きな小和田集落があったからだ。だが佐久間ダムの建設のため集落は湖底に沈み、駅が高台に移されたのが1955年(昭和30)。車では行けない駅となった。もっとも当時はまだ「マイカー」の時代ではなく、それなりに駅の意味はあったようだが、周辺に残ったわずかな家も1軒また1軒と減っていき、日常的に使用される駅ではなくなっていった

当駅の特徴のひとつは地図で分かる通り、静岡、愛知、長野3県の県境近くに位置すること。駅があるのは静岡県だが、天竜川の向こうは愛知県で、天竜川沿いまたは線路沿いですぐ長野県に入る

ということでホームの3県境標識(2019年6月の写真)が当駅のウリのひとつ…のはずだったが、この木製の標識が見当たらないのだ。私の探し方が悪いのか、ウロウロしても見つけられない

その代わりなのかホームから駅舎に入ろうとすると

この位置に県境境界駅の標識があった。5年前の写真はこちら

間違い探しクイズのようだが、当時はなかったので、この位置に「移転」したようだ。ホームの木柱が危なくなったのだろうか。細かいことだが、入口の左側にも新たな木の駅名標が置かれている。このような駅は、そう大きな変化はないものと思い込んでいたので、ちょっと面食らった

5年前の貴重な思い出

秘境駅号に乗車したのは、何度も触れているが2012年の11月。そして秘境駅号の停車駅でそれ以降に訪問したのは、この時に同時訪問した中部天竜ぐらいである。メインは解体が決まっていた湯谷温泉駅訪問だったが、少し足を伸ばして小和田まで来た。その時に利用したのが

大阪~小和田の往復乗車券。片道の距離は350キロにも満たず、往復割引の恩恵に預かる距離ではないが、帰路の乗車券は車内で車掌さんから買うしかないので、となると豊橋以降でいちいち係員のいる改札を通らなければならない。日帰りの道程はサクサク帰りたいので、あらかじめ往復で買っておいた。当たり前の話だが、大阪駅の券売機で「小和田」と行先指定すると、ちゃんと買えて、なぜか感動した。ただあらためて眺めると途中下車した新城駅で途中下車印を押されている。その手の作業は駅員さんの仕事を増やすだけなので「途中下車印要らない派」なのだが、駅員さんの仕事として押してくれたのだろう。思い返すと、ここ数年で何も言わずとも途中下車印を押してくれたのは、すべてJR東海の駅である

最近の小和田駅の1日あたりの平均利用者は、ずっと1ケタ。正規の乗車券で小和田で乗降したわけで、駅利用者のカウントにしっかり入れたことに大いに満足したことを覚えている

駅付近の散策をしよう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その8 今はなき自転車置き場

金野駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

真っ先に感じた違和感

田本駅から3駅目の金野駅に到着。ご覧の通り、こちらも単式ホームと待合所のみの構造。「きんの」と読むのはちょっと意表を突かれる

待合所に掲げられた時刻表。9時2分に到着して同22分で去る。20分の滞在。ここまではダイヤの妙でうまく駅を回った来られたが、上り下りとも、この後は3時間以上、ダイヤはぽっかり空いている。工夫を要する時間帯に突入する

短時間なので駅周辺を散策しようとホームから降りると、そこには初訪問でも分かる違和感があった

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12年前の強烈な印象

小さな階段を降りると草むらの広場となっている。先に顔をのぞかせているガードレールが突き当たりで右に折れて、その後はほぼ一本道だ

違和感というのは、この角度では分かりにくいが近づくとすぐ分かる

まるで下着の跡のような空間。形状で想像できるが、ここには自転車置き場があった

12年前に秘境駅号で来た時の写真。この駐輪場は日常的に使われているのだろうか、と思ったので真っ先に撮ったことを覚えている。このような小さな駅の施設が消えたのだから、それは大きな変化だ。この数年後に撤去されたようだが「今は見られない鉄道風景」となってしまった

もっともこの写真のみを掲載すると静寂だが、実際は

人わんさかである

駅は飯田市、金野は泰阜村

先まで進んでいくと折れた道は川にかかっている。米川という天竜川の支流のひとつで、このあたりは天竜川との合流地点となる。そしてこの橋は金野駅と外部を結ぶ唯一の道路にもなっている

金野駅は飯田から飯田線を南下していくと飯田市の南端の駅。お隣の唐笠駅から泰阜(やすおか)村に入る。ただ金野駅は飯田市だが、金野の街は泰阜村にある。泰阜村のHPによると金野諏訪社は武田家の家臣が子孫繁栄を願って創建した由緒ある神社だという。今でもかなりの山奥だが、戦国の時代に、このような山中に武士がいた(おそらく農家と兼業)とは、ちょっとしたロマンである

開業は1932年(昭和7)。門島~天竜峡が開通した際に設置された。敷設にあたった三信鉄道は当初から金野に駅を設置する予定だったというから、大きな集落として認知されていたのだろうが、地形の厳しさに金野の中心地に敷設することができず、天竜川に面したこの地に駅を設けたのだという。そんな経緯もあって駅周辺には何もない

駅名標に触れると金運がアップされるといい、12年前も大変な人気だった

訪問の理由は

時間も列車本数も限られているので、山中の飯田線ならではの駅すべてで降りるわけにはいかないが、この金野駅を選んだのは「利用者最少」の駅だから。2022年の利用者数を見ると1日の平均利用者数は「1」で最少。田本の「2」よりも少ない。「0」がないので「1」は最少となるが、これはおそらく小数点以下を切り上げた数字だと思われ、1がいくつか並んでいる

線路の脇にはロープが張られ、侵入できないようにされているが、またぐというレベルにもないほどの低さ。1日に1人も利用しないのだから、わざわざ線路内に立ち入る人もいないだろうけど

駅前の原型が怪しくなっているこの注意看板は12年前もあったかどうか記憶に残っていない

田本と同じく待合所の財産票は開業から1カ月以上が経過してのもの。開業からというよりは1年でどのぐらいの人の目に触れるかというレベルだが、当駅は車で駅前までアクセスできる貴重な存在で、それがかえって田本駅などと比べてコアなマニアの人気を下げているという一面もあるようだ

それでも写真で分かる通り、駅前の草はきれいに刈り取られている。このような環境なら、少し放置するだけで雑草が生い茂り、車が入れるスペースなど確保できない状態になってしまうはず。1日1人も利用しない駅での現状維持活動に頭が下がる思いしかないのである

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その7 ようやくかなった「ぼっち」訪問

田本駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

※動画あり。音声注意

「本来の姿の駅」に訪問

田本駅に到着。12年ぶりの訪問だが、状況は全く異なる。前回は秘境駅号でやって来たので、駅を味わうなどということはなく、駅を訪れた記録だけが残った感じだ。今回は本来の田本駅の姿と対面

ということで、静寂感漂う駅へ「ぼっち」の下車となった

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誰も降りない超有名駅

田本駅の2022年の1日の利用者数は「2」。そしてこれは最下位ではない。「1」があるのでビックリするが、それはこの後に出てくる。この数字には今回私が使用している青空フリーパスや青春18きっぷのような、いわゆるフリーきっぷの利用者は含まれない。もちろん秘境駅号の利用者も入らない。この駅から正規の乗車券で乗車または下車するとカウントされる。だから秘境駅号で田本までの乗車券と急行券を買って下車するとカウントされるのだが、そのような秘境駅号の客はまずいないだろう

ただ利用者数と反比例するように知名度は抜群だ。田本駅で検索すると駅紹介や訪問記、動画が数え切れないぐらい表示される。鉄道ものではない一般メディアでも紹介される。その意味では私の訪問記は甘いものかもしれないが、ここはお付き合いを

田本駅といえば、狭いホームと断崖絶壁のコンクリート壁。停車中の電車があると分かりやすい。ホーム幅は2メートルは絶対にない。ちゃんと点字ブロックがあるのが素晴らしいが、これより後ろで電車を待つとすれば、幅1・5メートルほどだろうか

知名度が高すぎるので説明するまでもないが、駅舎などというものはなく、単式ホームと扉のない待合所があるのみ。背後はコンクリートで固められた壁で線路の向こうは天竜川への絶壁。つまり断崖絶壁に囲まれている。いくらでも木の葉が舞い込んできそうだが、待合所はきれいに清掃されていた。足下にあるのは「ここで待て」サインだろうか

JR東海は待合所にもちゃんと財産票を張ってくれている。「昭和10年」というのは開業時のものだが、データによると開業は11月。少し遅れて設置されたことになる。開業させたのは三信鉄道。もともと駅の設置予定はなかったが、地元住民の懇願で門島~温田が開業した時に同時開業となった。線路の敷設とともに設置された。環境が環境だけに後からだと設置はなかったかもしれない

駅の前後はともにトンネル。かなりのスピードが出るようだ

唯一の出口からは山道

出入口は豊橋側に1カ所のみ設けられている

きっぷを入れるポストがあって、その先は

人が1人ずつすれ違うのがやっと、という細い階段。線路をまたぐ形で「下界」へと出る。途中まではハイキングコースというか山道のようだが、途中で分岐があり泰阜村、阿南町どちらへも行けるようになっている(阿南町へ向かう際は橋で天竜川を渡る)

こちらは田本の集落へと向かうコース。途中の道は険しいが、意外と近い。県道まで10分ほど山道を歩くと、もう「安全」らしい

田本駅を俯瞰で見る

田本駅といえば

階段を登り切ったところからの俯瞰だろう。列車の写真が写り込んでいれば、なお素晴らしいが、いかんせんダイヤというものがある

列車が写り込んでいるといえば12年前の写真

2012年11月のものだが、これは人が多すぎる。知らない人が見ると、いったい何の写真かということになる

こちらは階段の順番待ち。階段が狭いので初詣の本殿参拝待ちのような状況だった。ただ列車はホームに止まったままなのでホーム縁を歩いても危険はない

こちらは田本駅の時刻表。1日に8・5往復の停車と、この環境では多い方だが、事前に時刻表をチェックしないと2時間以上の待ちとなる。当然だがお手洗いも自販機もない(県道まで出れば自販機があるようだが、一度行った山道を帰ってくるのが面倒そうだ)

私は8時11分着で来て同47分で去るという、1日のうち上下ともここしかない1時間に2本のダイヤを利用した

とにかく雨にならず良かった。次の駅へと向かおう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その6 朝から普通も通過の洗礼

温田駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

青空フリーパスを手に

朝の飯田駅。路線内では貴重な光る駅名標がまぶしい。そして手にあるのは

正確に数えてはいないが、当ブログではおそらく青春18きっぷの次に利用頻度が高い青空フリーパス。今日は飯田から豊橋まで徐々に南下して帰路に着くので心強い味方。飯田から豊橋までの運賃は2640円(なかなか絶妙な料金設定だ)なので、どこかで1駅でも後戻りすれば、元はとれる。そもそも豊橋から名古屋までは在来線に乗車して名古屋から新幹線に乗るつもりなので、その時点で元はとっていることになる

本当は飯田駅で買ってあげたかったが、窓口の休憩時間などがあるかどうかも分からなかったので念のために前日の新幹線からしなのへの乗り換えの際、名古屋駅で買っておいた(結論としては飯田駅の窓口はずっと開いているようだった)

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時刻表の小文字に注目

単色の案内表示が新鮮に見える朝7時前の飯田駅。7時5分の豊橋行きに乗る。当然だが豊橋に直行するわけではない。この列車の豊橋着は11時16分で4時間という鈍行旅。1時間も同じ乗り物に乗ると飽きてしまう私には無理。目指すは鉄オタ界隈では新幹線の駅並みに著名な田本である。ただ案内表示には赤文字で「停車しません」と流れている

文字が小さくて分かりにくいかもしれないが、時刻表には何やら書き込みがある。当該列車には※印が打たれていて、いくつかの駅を通過する旨が下にあり、その中には当然のように田本もある。「各駅停車」はすべての駅に停車するものだが「普通」は通過駅も存在する。つまり、この列車に乗っても田本は通過してしまうのだが、方法はあり、ひとつ向こうの温田まで行って引き返すと比較的簡単に田本まで行ける。もっともこのような方法で「簡単に」田本に行くのは同業者(鉄道ファン)しかいないだろうけど

貸切列車で向かうと…読めません

ということで約1時間かけてまずは温田へと向かう

日曜の朝7時とあって、私が乗った車両は見事に貸切だった

飯田や駒ヶ根、そして豊橋近辺など生活圏の電車という側面と全くの山中を走る秘境列車という2つの側面を持つ飯田線だが、飯田市の郊外を過ぎるとすっかり山中の鉄道となった。そして

温田に到着。当駅では列車交換の待ち合わせがあり、8時1分に到着した豊橋行きがしばらく停車。飯田行きを待ち受け、すれ違いをした後にまた別れていく。飯田行きの発車は8時8分なので、少しだけ時間がある

渋い木造駅舎が残る。1935年(昭和10)に三信鉄道によって設置された。飯田線の元の形が複数の私鉄なのは有名だが、辰野から天竜峡までを伊那電気鉄道が、豊橋から三河川合までを豊川鉄道と鳳来寺鉄道が敷設。そしてその間を結んだのが三信鉄道である。三河と信州を結ぶので1文字ずつとって鉄道名とした。つまり静岡県も含む県境の山深い部分を担ったため、飯田線の「有名駅」は、ほとんどが三信鉄道が開業させた駅である。駅舎は戦後に改築されたもののようだ

そしてサムネの写真を改めて掲載する

駅名は「ほ~」という感じがするが、自治体名にはルビがない。「やすおか」村と読む

そして、ここ温田は村役場ともうひとつ、天竜川の向こうとなる阿南町の玄関口としても機能している

駅の場所が泰阜村のかなり南の方にあるため、JRの駅としては門島の方が近いが、道路事情などから温田駅が2つの自治体の玄関口となっている。病院や学校は徒歩圏内。特急「伊那路」停車駅で2022年の1日あたりの乗降客数は302人と付近の駅と比べるとかなり多い。上下列車が同時刻発車ということもあって、駅にはかなりのお客さんがいた

駅からの天竜川の眺め

上下列車が格好良く並んだところで、いよいよ田本に向けて出発しよう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その5 リニアの到着を待つ県第5の都市

飯田駅の駅名標

※訪問は2024年10月26日

14年ぶりの訪問

飯田駅に到着。伊那上郷からは桜町をはさんで2駅目だが、5分もかからず到着してしまう駅間の短さが飯田線ならではである

飯田駅は路線名が表すように200キロ近い全線の根幹をなす駅だが、当駅始終着の列車は意外と少ない。辰野方面からやってくる列車は天竜峡止まりが多く、言い換えれば天竜峡止まりから南側は閑散地域ということになる。ただし飯田線に入ってくるJR東日本車両については飯田駅が南限となっている

2010年以来、14年ぶりの訪問となった

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焼肉を食べよう

飯田駅の訪問はこれが2回目。2010年の東京勤務の時代、夏季休暇をとって神戸まで帰ってきたのだが、当時は諏訪、松本と訪問した後、飯田線を貫いて豊橋経由で名古屋で途中下車した後、帰路についた。その後は秘境駅号で天竜峡で折り返したほかは、湯谷温泉駅の駅舎が取り壊しとなる寸前の2019年に小和田駅とセットで訪れたぐらいだ。もっとも豊橋~豊川の都市部近郊は何度も乗車しているが、こちらの都市路線は「別物」としておこう。つまり辰野~天竜峡は2回目の乗車となる

飯田駅は1923年(大正12)の開業。伊那電気鉄道によって設置された。現在の駅舎はJR移管後のもの。X(旧ツイッター)のフォロワーさんに教えてもらったのだが、赤く丸みを帯びた屋根や正面の装飾はリンゴをイメージしたものだという。もちろん管理駅で全線きっぷうりばもある

構内も広い。2面3線構造で列車によって発着ホームは変化するようだが

偶然出くわした出発を待つ特急「伊那路」は、跨線橋を渡らずに済む改札のある1番線から発車する。飯田~豊橋を結ぶ1日2往復のみの飯田線唯一の定期優等列車。14年前、豊橋へと向かうべく駅で特急券と指定席券を買おうとしたら「自由席でも十分座れますよ」と言われた記憶がある。確かに観光のシーズンオフで悠々の自由席だった

駅前には渋めの建物が並んでいるが、駅から数分歩いた場所が繁華街の中心のようだが、ずっとにぎやかな場所が続く

飯田市はかつては飯田城の城下町、宿場町として栄えた南信州の中心地で生糸、精密機器でも有名となった。人口は約10万人で県内第5の都市である。伊那上郷駅でも学んだことだが、飯田駅から坂を下っていく形で繁華街が形成されている

前回は馬肉を求めて街を歩いたが、テレビで焼肉店が多いことを知った。確かに検索すると、たくさんのお店が並ぶ。人気店を1週間前から予約してお腹を満たした

リニア後の交通体系に注目

駅前の高速バス乗り場で時刻表を眺めて分かるのは東京、名古屋へのバス便の多さ、特に東京への本数の多さだ

こちらは東京(新宿)行き

そしてこちらが名古屋行き

特に東京行きの午前中の多さが目につく。このバスは飯田線に沿うように駒ヶ根、伊那、辰野などで細かく乗客を拾って八王子や三鷹を経由して新宿へと向かう。所要時間は4時間から4時間15分で料金は平日と休日及び休日前日で異なるようだが、平日なら4600円、ネット割引なら4000円からとなっている。停留所があるため、辰野まで1時間かかるが、それでも岡谷経由の中央本線、豊橋経由の東海道新幹線と比べても速い(豊橋経由は時間はほぼ同じだが特急が1日2本しかない)。そして何よりも安い。これは本数も多くなるはずだ

だが、リニア新幹線が開業すると現在の想定では品川まで45分、名古屋までは25分と大幅どころではない短縮。運賃の方はまだ発表されていないが、想定では8000円ぐらいになりそうだ。もちろん日帰りも可能となる

現在、飯田駅始発で駒ヶ根や伊那などは高速道路上に停留所がある便とは別に、駒ヶ根の街中を始発とするバスも数多く運転されていて東京への輸送はバスが圧倒している状態だが、リニア開業となると飯田のみならず、飯田線沿線の主要都市とリニア駅最寄りを結ぶ優等列車や快速が運行される可能性もある。まだまだ先の話だが、現状の力関係がどうなるかは注目ポイントのひとつである

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その4 過酷な下山ダッシュを垣間見る

伊那上郷駅の駅名標

※訪問は2024年10月26日

飯田線のアトラクション

リニア新幹線の長野県駅予定地の後は飯田の中心地へと向かう。無難なのは元善光寺駅へと引き返すことだが、それではあまりにも普通なので、ひとつ先にある伊那上郷駅を目指す。この駅に行ってみたかったのは、飯田線を語る上で、必ず出てくる話題のひとつ「下山ダッシュ」の舞台のひとつだからだ

そもそもの渓谷美や全く誰も利用しないような駅や渡らずの鉄橋など、鉄オタにはたまらない路線の飯田駅だが、この下山ダッシュについてはアトラクション(?)という特殊性を持っている。体感が重要な鉄オタの本筋からは、やや離れたものだが、それについては後述するとして、まずは伊那上郷駅へと向かおう

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想像をはるかに超える1・9キロ

リニア新駅の予定地を離れたのが15時15分。この後は宿泊地の飯田駅へと向かう。伊那上郷駅発の電車は15時44分。グーグル先生に道を尋ねると

表示されたのは「1・9キロ」「徒歩30分」の表示。この日は昼間は20度をやや下回る気温で、歩くには適した季候。のんびり歩いても30分はかからないだろう。距離数だけ見れば楽勝だ。だが今、地図を貼り付けるべくPCのグーグル地図を開くと左隅の欄にさりげなく高低差65メートルと記されている。住居用マンションとテナントビルでは1フロアの高さが異なるが、マンションだとおそらく1フロアが3メートルぐらいだろうから、20階分はありそうだ。いやいや、そんなの知らんて。当時目に飛び込んできたのはスマホの1・9キロと徒歩30分の画面である

地図に沿って解説すると左手にイオンを見ながらの道路は緩やかな坂となっていて、急に右に折れるようになっているが、ここからがつづら折りの急坂。写真を撮るのも忘れてしまうほどキツかった。途中で休憩をはさんでしまったほどだ

道路は堀削となっている飯田線の線路の頭上をまたぐ形となっていて、このあたりが徒歩コースのピーク

15時40分になんとか伊那上郷駅に到着。間に合った。飯田線のこの付近はおおよそ1時間に1本ほどの運行があるが、この時間帯だけは次の電車は30分後。今日は17時から夕食の予約をしていて、そちらでもギリギリ間に合ったが、この電車に乗れたのは大きかった。途中で休憩しても30分かからないコースだったということか

息ゼーゼーだったが、当駅はご覧のように単式ホームと待合所のみの構造。開業は1923年(大正12)で伊那電気鉄道によって設置された。その後、国有化された飯田線の一部となるが、戦後も含め利用に制限があり、当初は飯田線の路線内や飯田線に接続する中央本線や東海道本線の一部区間からの旅客しか使用できない駅だった。利用制限がある国鉄の駅とは意外な感じもするが、名松線などでもあった制限である

日本全国どこからでも利用できるようになったのは1971年(昭和46)とかなり遅い。そのころに無人化され、やがて貨物専用線も撤去されたと記録にはあるが、もともと駅舎があったのか、貨物線はどこにあったのかは痕跡を調べることはできなかった。というかハーハー言いながら駅に着くと、すぐ電車が来たので、そんなことはできなかったというのが実情だ

下山ダッシュとは

ということで下山ダッシュの説明となるが、これは下山村駅で一度降りた電車に徒歩やランニングで先回りして伊那上郷駅で追いつくという飯田線の線形を利用したアトラクションである。この区間は線路だと6・4キロ。とても電車に追いつける距離ではないが

飯田線は飯田市の市街地をグルリと回り込む線形となっていて、両駅の直線距離は2キロしかない。飯田線の列車は飯田駅で長時間停車するパターンもあり、最短なら15分ほど、最長なら30分ほどで、15分はとても間に合わないが、電車で20分以上のパターンなら追いつける、それが下山ダッシュである

ただ今回よく分かったのは飯田の街はとにかく坂が多く、夜の繁華街も坂ばかり。両駅の高低差は70メートルと、私が歩いた区間より大きな差がある。また下山村という駅名から想像するのどかな田園風景とは異なり、この間は飯田市の市街地で住宅街や店舗が並んでいて道も多く、ちょっと迷うともう追いつかない上、交通量の多い道路を横切ったり併走したりしなければならない。事前に地図アプリなどで道を何度も確認しておく必要もある。そもそも「その行動に何か意味があるのか」という究極のツッコミも生じる

カーブ状にある伊那上郷駅

JR東海らしく待合所にもきっちり財産票が張られていた

この下山ダッシュは最寄りの飯田高校の生徒が考案したとされるが、実際は分からない。電車に乗り遅れても学校には間に合う、というところから派生したものという意見もあり、都市伝説のレベルだ。そんな「原点」もあってか、伊那上郷からの下り坂は下山ダッシュとは認定されず、あくまでも下山村からの上り坂を下山ダッシュだというそうだ

電車がやって来たので飯田に向かう。ちなみに当駅からひとつ隣の桜町を挟んでも飯田駅までは1・8キロしかないが、もう歩きません。ホテルに到着するとシャワーを浴びて上着も着替えた。まさかこんな行動をとるとは予想もしなかった10月終わりの1日

なお簡素な構造ながら、もともと停留所としたスタートした戸上は飯田高校や飯田女子高校の最寄りということもあって、2022年度の1日の利用者数は1219人。92駅(豊橋駅と辰野駅をのぞく)もある飯田線で7位という最上位に近い数字であることを付け加えておこう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その3 空き地にたたずみ歴史を振り返る

元善光寺駅の駅名標

※訪問は2024年10月26日

元善光寺駅から徒歩20分

元善光寺からリニア駅予定地を目指して歩き始める

まだどこまで形になっているか分からないが、元善光寺駅からだと徒歩15~20分ほど。実際は元善光寺の参拝をしてからの訪問なので、県道229号で示された徒歩21分コースを行ったことになる

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美乃坂本駅との違い

元善光寺から歩を進めて踏切を渡る

名称は座光寺踏切。元善光寺駅は飯田線が戦時中に国有化された際、しばらく座光寺駅を名乗っていたのは前記事で記した。座光寺は地区名なので、そこから付けられたものなのか、駅名が座光寺だった際に設置されたためなのかは分からない

県道は地方都市ならではののどかな地域。県道を折れ、さらに進むと

空き地が現れ「中央新幹線長野駅県新設工事」の看板がある。発注者として東海旅客鉄道の文字もある

何か心躍る。しかし

付近は空き地が広がるのみ。周辺はそれなりに民家や店舗もある場所で、立ち退きもあって整地に着手したという感じだ

岐阜県駅の工事が進む美乃坂本駅付近とは状況が異なる。岐阜県駅は車庫も併設される予定なので工事の進ちょくが早いのかもしれない

空き地には残土処理場があった。ここで初めて「リニア」の文字を見る。先ほどの看板では中央新幹線という正式名称だったが、関連の文字はこの2カ所のみ。これを見落とすと、一体何の工事が行われている場所か分からないぐらいだ

中津川線そして中央自動車道

リニアの計画が発表されたころから長野県内はどこに駅が設置されるのか、当然ながら県内では大論争となった。周辺で最も大きな都市といえば松本となるが、そもそもが東京と名古屋を最短で結ぶことが使命の新線。松本まで回っていられないのなら岡谷、諏訪、まとまらないのなら複数の駅を、という声も出たが、結局はJR東海が推奨する飯田を通る案となった。地元がまとまらないと長野県内を通らないルートに変更されてしまうという危機感があったとされる。地元の希望は飯田駅での併設だったが、ビッシリ市街地ができているため、JR東海は無理と判断。現在の場所へ設置されることとなった。現在の案では高架駅となる予定。ちなみに地下駅の品川から発進するリニアは神奈川県駅は地下駅で山梨県、長野県、岐阜県はいずれも地上に姿を現わす高架駅、そして名古屋は再び地下駅となる予定だ

南アルプスを貫いて一気に岐阜県の中津川付近目指すリニアだが、実はこのルートは在来線の敷設が予定されていた。中津川線という名称で飯田駅と中津川を結ぶ。地図だけを見ると中央本線と飯田線は近い場所を走っているが、2つの路線を結ぶ鉄路はない。南アルプスの存在があるからだ

それでも何とかしようと計画されたのが中津川線。戦前から地元の要望が出ていたが、戦後に正式に建設が決定。中央本線と飯田線を接続するため、当初から電化路線として1960年代の終わりに工事が始まった。総距離36キロという短い距離だったが、予想以上の難工事に手間取っている間に、ほぼ同コースの中央自動車道が1975年に完成してしまい、建設は凍結となってしまった

ただし中央自動車道には県境に恵那山トンネルという8000メートル以上のトンネルがあり、5000メートルを超えると危険物を輸送できないという規定のため、石油の運搬ができない。そのため、名古屋方面から長野県への石油運搬は今も中央本線での鉄道貨物が使用されている。中津川線は石油輸送にも利用されることになっていて、もともと石油会社の専用線があった元善光寺駅は石油ターミナル駅となる予定だったが、もちろんその計画もなくなった(ただし元善光寺駅は今も臨時貨物駅として登録は残っている)

駅予定地では周辺の整備から先に進められているようだ。開業までは10年以上の歳月がある

長野県駅は一時、飯田線に新駅設置の話も出ていたが現時点では不明。現地に行ってみると線路とリニア駅の距離は徒歩で5分以上はある。単独駅になることが有力とされるが、幻の路線となった未成線がリニアに姿を変えて結ばれるとは、当時は思いもよらないことだろう

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