わたらせ渓谷鐵道

わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その9(最後を締めるのは素のままの木造駅舎)

上神梅駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

最後の訪問はもちろんこちら

トロッコ列車を大間々で降りて1駅折り返し。わ鐵訪問最後の駅となりました。ラストを締めるのはここしかないでしょう。上神梅駅。時間は17時15分だが、1年で最も日の長いこの時期はまだまだ夕刻の気配すらない

単式ホームを降りると駅舎の内側がお出迎え。これだけでもう十分すぎる

ラッチもおそらく一度も手が入っていないもの

こちらは正面からの様子

1912年(大正元年)の開業時からの駅舎がそのままの形で残る。「そのまま」と記したのは、窓枠や入口などのガラス部分にアルミ補強が一切施されていないからだ。古い木造駅舎は全国各地に残るが、アルミ補強が一切ない駅舎は、さらに絞り込まれ少数派となる。これはやむを得ないことで木造の建築物を維持するためには、ガラス部分は強度を保つためアルミで補強するしかない

ちょっと変わったところでは、2年前に訪れた松浦鉄道の蔵宿駅

こちらは駅舎内に店舗を開店させるため、扉や窓枠をアルミ補強したが、その後撤退する際に元の「木」だけの姿に戻したという、さらに珍しい例だった(その後、再び店舗が入居しているようで現状は不明)

住所は「大間々町上神梅」。町村制施行前は上神梅村と下神梅村があった。「神梅(かんばい)」の地名については諸説あるが、崖地が多い渡良瀬川沿いの地を「かんば」と言い、当て字として「神梅」が採用されたという説もある

日々の清掃のたまもの

わ鐵は大間々以北は本数が大きく減ることは以前も伝えた通りだが、ここ上神梅も大間々から1駅進んだだけで駅周辺は静寂となる

当駅は水の神様として知られ、県内一の初詣客でにぎわう貴船神社と直線距離では目と鼻の先となっているが、渡良瀬川にさえぎられ徒歩だと遠回りを余儀なくされる。駅の利用者数は1日20人ほどで神社へはみどり市の中心部からの車利用が多いようである

駅舎前から線路に沿って歩くとアスファルトの広場があり駐車場になっているが、ここはかつての貨物線跡らしい。なぜ知っているのかというと近所の方が教えてくれたからだ。駅前で写真を撮っていると「いい写真撮れましたか?」と話しかけてくれた。当駅にはいつも同業者(鐵道ファン)が来るようだ

駅舎内はきれいに清掃されていて駅前の花壇もきれいに手入れされている。近所の方々が毎朝、きれいに清掃するという。これも過去何度も書いていることだが、地方の無人駅を日々きれいに清掃する地元の方には、その度に頭が下がる思いだ

廃校となった駅近くの小学校の話など、いろいろな話を聞かせていただいた

だからこそ駅名板、入口、改札とゴミひとつ落ちていないこんな写真も撮ることができる。少し傾いたラッチが趣を高めている

駅舎そしてプラットホームはもちろん登録有形文化財となっている

足尾銅山との歴史や駅名の由来や変遷、そしてホームのレストラン、トロッコ列車。サルとの思わぬ対面もあった。短い時間ではあったが、濃度の高いわ鐵の旅だった。次回は日光を経由する行程で訪れてみたい

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その8(登録有形文化財の駅舎からトロッコ列車乗車)

足尾駅のホーロー駅名板

※訪問は2024年6月15日

開業以来の駅舎

足尾駅の駅舎は開業した1912年(大正元年)以来のもの。わ鐵の駅舎の多くは三セク転換後に新たに建て直されたが、当駅はそのまま残されている。木造駅舎の駅でよく見かけるが、丸いポストが残されているのも景観を損なわないようにするためだう

駅舎は登録有形文化財となっていて、当駅ではその他にも

レンガ倉庫やプラットホームが登録有形文化財となっている

駅舎は基本的には無人。「基本的」と記したのは

営業時間が短いから。旧足尾線時代からの中心駅のはずなのになぜ、と思われるかもしれないが、それは旧足尾町の中心地はお隣の通洞駅となっているからで、足尾銅山の観光などは通洞駅が拠点となっている。もっとも厳密に言うと、この両駅間に足尾の街並みが広がっていて

両駅間はほぼ線路に道路が並行していて歩いても10分ほどの距離である

古典的な多くの駅と同じく改札と手荷物受付が並んでいる。もちろん手荷物受付は現役ではないが、木製の凝った形が往時を物語る

当駅はいろいろな賞を総なめにした映画「海街diary」のロケ地でもある。私も見たこの作品は鎌倉が舞台となっているが、足尾駅も山形県にある温泉地の駅という設定で登場するので、あらためて見る機会があれば、ぜひ見逃さないでいただきたい

トロッコ列車で大間々へ戻る

構内には貨物車の入れ替え作業に使用されていた機関車であるスイッチャーも、役割を終えて保存されている

足尾駅訪問を終えたら、ここからはトロッコ列車に乗車する

わ鐵の人気観光列車であるトロッコ列車には「わたらせ渓谷号」「わっしー号」の2種類があり、前者は機関車によるけん引式で冬季は休業、後者は自走式のディーゼル車で通年の運行。機関車の機回しが必要な渓谷号は大間々~足尾のみの運行だが、わっしー号はその必要がないので桐生~間藤の全区間で運行が可能となっている

乗車には整理券が必要で1回の乗車ごとに一律520円(子どもは半額)

整理券はわ鐵の有人主要駅や旅行会社で販売しているが、ローソン、ミニストップでも購入が可能。予約状況はわ鐵HPで公開されているが、人気列車なのでかなり埋まっている。旅の予定が決まったら、事前にコンビニで購入するかHPで購入するのがオススメ

また整理券があれば車内は自由席のわっしー号と整理券を提示して乗車時に座席指定を受けるわたらせ渓谷号の違い、季節ごとの運行本数やダイヤなど詳細は、わ鐵HPを参照していただきたい

もうひとつ重要なことは乗車券+整理券で乗車できるトロッコ列車は、群馬県内の私鉄、JRで広く利用できる「ぐんまワンデーローカルパス」では乗車できない。別途乗車券もしくはわ鐵の1日フリーパスが必要になるので留意していただきたい

美しい車窓を見ながら大間々に到着。時刻はすでに17時になろうとしているが、1年で最も日が長いこの季節はもう少し時間がある。最後にもう1駅訪問する場所が残っている

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その7(静態と動態、思わぬすぎる出会い)

足尾駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

10年超の遭遇

間藤からひとつ戻っていよいよ足尾駅に到着

いきなり古典的なホーローそして、いつ設置されたのか考えるだけで興味をそそる「海抜六四〇米」の木板のお出迎え。開業は1912年(大正元年)。沢入駅から当駅までが延伸した際に終着駅として設置された。前記事でも紹介したが、足尾本山まで延伸されたのは2年後。これは貨物専用線だったが、途中に間藤駅が設置され、当駅までが旅客輸送の対象となった。つまりは栃木県に鉄路が入ってきた。旧足尾線のわ鐵は群馬県と栃木県にまたがるが、全線の4分の3が群馬県となっていて敷設の目標だった足尾銅山を含む栃木県側の部分は少ない

そんな歴史ある駅で出迎えてくれたのが

キハ35ではないか。静態保存の状態はお世辞にも良いとは言えないが、貨物ヤードに停まっている。東京時代の2011年の久留里線以来の再会だ

駅訪問の際は基本的に予習はせずに行くことにしている。初対面の気持ちを大切にしたいから。こうやって記事を書いている時のデータや歴史は駅に着いてからの待ち時間や、下手すると帰宅してからの調べたものがほとんど。だからその分、見落としも多いが、それも一期一会だと思っている

だからその分、このような「出会い」の感動も大きい。もっともこんな大きなものを見落とすはずもないが

SLが役割を終え、ディーゼル車の需要が高まったころ、非電化の通勤通学路線に多く投入された列車。ご覧のように戸袋がないのが特徴で、ドアは吊り下げられたような形になっている

現在は旧車両が使用されているローカル線の駅も、扉の高さに合わせて列車が停車する部分だけホームがかさ上げされているが、以前はそうではなく「よっこらしょ」とホームから昇るように車両に入る必要があった。写真は貨物ヤードのホームなので旅客用ホームとの高さの違いは分からないが、かなり高低差がある。バリアフリーの発想がない時代、お年寄りは大変だったと思う。それを少しでも緩和するため、ドア入口に段差を設けたため、強度や重量の問題があって戸袋を作れなかった。それでこのような特徴ある姿になったのだ

私にとってのキハ35はなんと言っても和田岬線。和田岬線に乗車したことがある方は分かると思うが、兵庫と和田岬の2駅しかない同線はドアが開く方向も片側しかない。そのため開かずの扉側は完全に閉鎖された上、一部の座席が取っ払われて立席専用のようなスペースとなっていた。わずか5分で到着するので問題なかったのだろう。この車両は2001年の電化まで使用された

解説文があった。「現在でも久留里線で活躍」と記されている。久留里線でも10年以上前に運用が終わっているので少なくとも十数年前から、このままの状態だったことが分かる

「動態」との出会い

足尾駅は2面2線構造だが、キハ35が保存されている貨物ヤードは駅舎側で、逆側の森となっている部分にもかつての貨物列車の栄華を物語るように多くの側線が残る

駅名標とともにキハ35を撮ろうとしたら、その間に何かが登場。よーく見ると

おサルさん。カメラを構えていると森の方から線路を横切りホームにひょいと乗ったと思うと一心不乱に花を食べている。花に実があったのかもしれないが、さすがに近づく気はしない。この写真はズームで撮ったもの

少なくとも私が駅でサルと出会ったのは、これが2回目

昨年3月の名松線・伊勢竹原駅以来だ。この時は駅前の民家にある農作物を失敬するために現れた1匹のみだったが側線が残る森の方を眺めると

いることいること。森の中にサルの集団が生息しているのか。ひょっとして最初に目撃したサルにならって花を食べるためゾロゾロと線路を渡ってくるのではないかと身構えたが、皆さんルールがあるのか「勝手踏切」の利用者は1名のみだった

ということで、ソロソロとおサルさんたちから離れて駅舎へと向かう

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その6(鉄道紀行バイブルの終着駅)

間藤駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

一気に終点へと向かう

一気に終点の間藤駅に到着した。これでわ鐵は全線完乗となった。終着駅らしく奥に車止めが見える

三セク化されるまでは、ここからもう1区間線路が続いていた。足尾本山駅という貨物駅だった。足尾鉄道によって敷設された路線は1912年(大正元年)に足尾まで延伸された後、2年後の1914年に足尾本山まで延伸。これをもって足尾線の全通とされるが延伸が8月で3カ月後の11月に間藤駅が開業。足尾~足尾本山はあくまでも貨物支線の扱いだったが、中間に設置された間藤で旅客営業を始めたことで間藤から足尾本山の約2キロは長らく貨物専用線として利用されることとなった

足尾銅山は1973年(昭和48)に閉山したが精錬事業用の貨物運行は続けられ、終了したのは国鉄がJR民営化された1987年のこと。以降は休止扱いの駅となり、そのままわ鐵に引き継がれたが、三セク転換と同時にJR東日本のみならずJR貨物の駅としても廃止。そのまま放置され1998年(平成10)に鉄道免許が失効して自動消滅となった。線路が途切れたのはその後のこと

終着駅としては珍しく勾配標が残るが、間藤駅は写真で分かるように20パーミルを越える坂の途中に設置され、昭和半ばのSL時代までは当駅でスイッチバックして足尾本山へと向かう必要があったという。勾配標はその名残ともいえる

駅舎内に張られる時刻表2万キロ

駅舎内には「時刻表2万キロの終着駅」の展示コーナーがある。作家の宮脇俊三さんの記した全国乗りつくし(完乗)の「時刻表2万キロ」は当駅が最後に降りた駅ということで、全国からファンが訪れるようになった。宮脇さんは続く「最長片道切符の旅」と合わせ「完乗」「最長片道切符」の存在を広く世間に認知させた。時刻表2万キロが1978年(間藤駅で降りたのは1977年)、最長片道切符の旅が1979年の発刊。現在のようにスマホ片手に情報を集められる時代ではない。いわばこの2冊の本は鉄オタのバイブルでもあった

展示コーナーには間藤駅を描いた時刻表2万キロの部分や宮脇さんの年表、自筆原稿などが飾られている

日光までバスでつながる

現在の駅舎は三セク転換後のもの。無人駅だが立派な駅舎を有する。当駅までもかなりのお客さんが乗っていたが、かなりの方が当駅でそのまま折り返す観光客のようだった

駅舎内の時刻表は終着駅らしく到着時刻と出発時刻を併記したもの。朝は数分滞在しただけで、すぐ折り返してしまうものが多いが。昼間は駅を堪能する時間が十分あるダイヤとなっている。私は14時45分着の15時9分発で折り返した。駅訪問なら昼間を推奨する

この間藤駅のもうひとつのポイントは駅から日光までバスでつながっていること

これも知名度の高いコースで所要時間は30~40分。わ鐵と日光を同時に楽しめるようになっている。間藤駅の所在地は日光市なので当たり前のことのように思えるが平成の大合併までは足尾町だった。途中は山ばかりなので、ある意味貴重なルートである

その分、本数は決して多くはなく1日6本(訪問時のダイヤ)。これからの紅葉の時期は渡良瀬川沿線の車窓も含め、利用者が多い路線になるという。訪問の際は時刻を調べてから出かけてほしい

駅名標にはニホンカモシカが描かれているが「ニホンカモシカに出会える(かもしれない)」が駅のウリのひとつ。ただあくまでも「かもしれない」を忘れずに

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その5(神戸と書いて「GODO」の列車レストラン)

神戸駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

「KOBE」の方が難読

「ごうど」駅に到着。有名すぎる存在になっているが、「神戸」と書いて「ごうど」と読む

古い駅舎が残る。わ鐵の駅舎は三セク転換後に建て直されたものが多いが、こちらは木造駅舎がそのまま使用されている

駅名板もかなり古いものが使用されているが

よく見ると漢字の「戸」の部分に修正された跡がある

開業は1912年(大正元年)。名前は「神土駅」だった。開業時は東村(現在はみどり市)に所在。その東村は明治の町村制施行時に神戸村などが合併して誕生したもの。つまり地名は昔から神戸だった。現在も駅の所在地は「みどり市東町神戸」である。ただ駅を設置するにあたり、兵庫県の神戸駅と同じになってしまうということになり「神土」の文字を充てた。以来80年近く「神土駅」を名乗ってきたが、JRから切り離され、三セクとなった際に本来の地名である「神戸」となった。このあたりは「そおり」だった読みが地名の本来の読みぶある「そうり」となった前記事で紹介した沢入駅と似ている。駅名はもちろん、読みだけの場合でも全国とつながるJRの駅名変更はとても手間のかかるものだ。そのあたりの対応はわ鐵内でも相老駅とは対応が異なる

こちらは接続駅ゆえの対応だろう

ただ俯瞰的に見ると神戸育ちの私からでも「こうべ」と読むのは難読の部類に入る。人名も含め、最も多いのは「かんべ」だろう。「ごうど」さんも私の周囲にいたが「こうべ」さんは、私は会ったことがない。「博多」「札幌」なども大都市ゆえに誰でも読めるが、ローカル線の普通のみの停車駅だったら難読駅となっていただろう

途中下車のできる駅

神戸駅のもうひとつの特徴として私鉄や第三セクターでは例が多くない「途中下車可能駅」だということが挙げられる。整理券では当駅までの料金を徴収されて無理だが、乗車券を持っていれば途中下車が可能。それは、こちらも有名な

構内に「列車のレストラン 清流」が設けられているから

かつて東武を走っていた特急車両をそのまま利用している。週末のお昼時ということで多くの利用がありレストラン内の写真は撮れなかったが

舞茸ごはん定食をいただくことに

こちらは駅舎に張られていた清流の案内。当駅は無人駅なので列車利用がなくてもレストラン利用は可能

こちらは清流入口だが、入店した際にいた団体さんらしき人々が一斉に出たと思ったら、また入ってくる。列車の利用者と合わないな、と思っていたら駅の外には貸切バスの姿。大間々駅でもトロッコ列車に乗車するための団体バスが広場に待機していた。列車の本数が限られているため、施設利用もしくは観光列車の最寄りへは団体バスの運行。これは1日3往復しかない只見線でも旅行会社が採用している方法。鉄道とバスをミックスしての観光は今後のローカル線やローカル私鉄の在り方のひとつだと思う

ホームの構造は元々は2面3線。わ鐵となってレストランができた時に1線をレストラン用の車両を置くようになった

またレストランは使用せずとも当駅に列車が到着した際は売り子さんが飲み物や弁当などを販売する

お腹も満たされ、この後は栃木県に入っていこう

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その3(本社と車庫の温故知新駅はみどり市の中心部)

大間々駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

別の場所にもあった大間々駅

大間々駅に到着。桐生を発ってから2駅目の相老駅、さらにそこから2駅の大間々と順に来ているが、途中にある下新田、運動公園の両駅は、いずれも三セク転換後に設置された駅で、元々のJR(国鉄)足尾線だと2駅順番に降りたことになる

写真に車庫が見えるが、大間々は車庫そしてわたらせ渓谷鐵道の本社がある中枢にあたる駅。そして桐生からの列車の半分ほどは当駅止まりとなる。わたらせ渓谷鐵道は路線全体が44キロだが、桐生~大間々はわずか7キロ。車窓を眺めていると桐生から大間々までは桐生市の郊外(大間々駅はみどり市)という雰囲気だが、大間々から先は急に山深くなる。広大な関東平野の一端に来た感がある。旅客輸送でも当駅までが中心を担っているのだろう

大間々町は平成の大合併でみどり市となった。足尾銅山からの銅山街道の宿場町または生糸の集散地として栄えた。つまり足尾線のコース

ただ1911年(明治44)の開業時は「大間々町」を名乗っている。なぜかというと別に大間々駅があったからだ。現在のJR両毛線「岩宿駅」である

大間々駅と岩宿駅はかなり離れていて、現在の道路と車でも15分もかかる。徒歩だと1時間以上。しかも所在地は笠懸村(後に笠懸町)で自治体も異なっていた。両毛線を敷設した両毛鉄道は、大間々の街を走らせる予定で先に駅名を決めたが、工事の都合で大間々を通らなくなった。それでもすでに決まっていたからと大間々駅とした。足尾線が走る20年以上前のことだ。ということで20年以上続いた(初代?)大間々駅だが、実際に大間々に駅ができ「大間々町」と名乗ると、実態に合わないとなり、わずか1カ月で駅名を返上して岩宿に。その翌年、大間々町駅もめでたく大間々を名乗るようになった。ただし平成の大合併のため、現在は両駅とも同じみどり市に所在する

ただ地図でも分かる通り、赤城駅は徒歩でも十分可能な距離(乗り換えなら相老駅を利用するだろうが)。1928年の開業時から戦後まで「新大間々」を名乗っていたほどで、両駅の間はかつての大間々町の中心部でみどり市となった今もそれは変わらない(ただしみどり市役所は岩宿が最寄り)

所々に残るたたずまいと現代ならではのもの

駅舎は木造で昭和になってから改築されたと伝わる。正面下部のものは、この写真では見えにくいが

歴史を感じさせるもの。字体から国鉄時代のものと推察される

荷物受付は駅舎の外側で対応していたようだ

こちらはちょっと現代寄り。わたらせ渓谷鐵道開業時に走っていた車両が駅舎の隣に設置されていて

こちらはもう現代。大間々はコンビニが隣接している路線では貴重な駅だが、こういうものを見せられると、こちらで買わなければしょうがないだろう

改札にはホーローのようでホーローでない駅名標が並ぶが、あえてそれっぽく作ったのだろう

もちろんちゃんと本物もある

もうひとつ

本社の駅らしく当然の有人駅。グッズ販売も行われている

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わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その1(両毛線の桐生駅から歴史の旅に向かう)

桐生駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

小山駅からスタート

朝の小山駅。見た通り、工事中だった。前日は結構な量のアルコールが体内に入って、まだ後遺症が残る(専門用語で二日酔いという)が、本日はここからスタート。関西の人間にとってあまりなじみのない小山だが、知人が当地にいることもあって10年以上前から結構来ている

昨年3月も来た。その時は「JR東日本3日間全線乗り放題」という鉄道150周年の夢のようなきっぷ(もう二度と登板はないらしい)で仙台から東北新幹線の各駅を巡った後に新青森から秋田、山形をぐるりと回って東京着。翌日は「休日おでかけパス」で東北本線をウロウロしながら小山泊。翌日は「青春18きっぷ」(青森県の川部駅の旧社屋で窓口がギリギリ残っていた時代に購入した)を登板させて両毛線の各駅巡りを行った。まだ記事化していないのは、いくつかの駅を回りきれなかったため。いつの日にか「全駅めぐり」が始まるはずだ

東北本線のホームから少し距離がある両毛線ホームからクラシックな車両に乗り込み

桐生で下車。本日の目的はここからわたらせ渓谷鐵道に乗車すること

JR桐生駅の券売機で1日乗車券を買う

沿線のいくつかの駅で1日フリーきっぷを販売しているが、自動改札機を通れるのは桐生駅販売のものだけらしい。おそらく理由は当駅の自動改札機を通るため。先に述べると沿線内は自動改札機もなければ、IC乗車もできない

1989年(平成元年)発足の第三セクターわたらせ渓谷鐵道はJRホームの一角を間借りしている。元々は同じ国鉄でJR移管後もしばらくはJR足尾線だった。駅の高架化が先に行われたため、別の駅舎ができることなく、ホームはそのまま。そもそも桐生を出ると、しばらくは同じ線路を走る

注目は「鐵」の文字。階段の注意書きには「鉄道」が使用されているが、フリーきっぷの券面でも分かる通り「鐵道」と旧字体が使用されている。これは戦前からのならわしのひとつで「鉄」という文字は「金を失う」と書くので縁起が悪いとして企業では旧字体を使用することが多かった。有名なのは「新日本製鐵」で長らく旧字体が使われてきた。ただ旧字体が難しく、子どもはもちろん大人も書けないということで企業チームの野球やラグビー、バレーボールなどを扱う際、メディアでは「鉄」の文字が使用されていた。新日本製鐵も企業合併後の新会社は「日本製鉄」となっている。鉄道各社も大手から順に「鉄」となった。その一方で大井川鐵道のように近年になって旧字体を使用するようになった会社もある。わたらせ渓谷鐵道はスタート時から旧字体だ

ホームではすでに単行のわたらせ渓谷鐵道の列車が待っていた

桐生駅で改札の外に出ることなく両毛線とわたらせ渓谷鐵道をIC利用する際は簡易式のリーダーに読ませることが必要。沿線には足尾線時代の駅舎や施設が数多く残る。今回はそれらに触れる旅で当社ならではのトロッコ列車にも乗車する予定。半日旅のスタートである

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