約80年の歴史と間もなく「お別れ」の新京成線を行く~その5 「習志野」の所在は習志野市にあらず

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※訪問は2025年1月15日

新車に乗って

京成津田沼から松戸を目指す。乗車したのは新京成80000形

2019年末に導入された新車だ。ただしわずか4区間乗車しただけで、あっという間に習志野で下車することになる

去りゆく電車を見送って外に出る

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周辺案内図の「船橋市」の文字

習志野駅に到着。2面2線の対向ホームを持つ。駅の規模はそう大きくはない

そして知らずに降りると駅前の周辺案内図に驚く人も多いかもしれない

最も目立つ場所に「船橋市」と記されている。前記事までも津田沼駅や新津田沼駅、京成津田沼駅について習志野市駅だと記してきた。京成津田沼駅については習志野市役所の最寄りだとも。ただ習志野駅は、このように船橋市に所在している

駅が駅名と同名の最寄り自治体にないケースはいくつかあるが、それは駅の場所が、自治体の端に近い場所に所在している例がほとんど。だが、ここ習志野駅は周囲はグルリと船橋市。駅の住所も「習志野台」。西習志野という住所表示も見える

こちらは習志野駅の入口。1948年(昭和23)に開業した。もしここが人口17万人を抱える首都圏の都市である習志野市の中心駅だとしたら、こぢんまりし過すぎているかわいい駅である

これはどういうことかというと、習志野というのは地名ではなく広域地域名だからだ。そして地域名ができたのは明治以降の話。習志野市のHPによると、地名の由来について「 明治6年(1873年)4月、明治天皇を迎えて行われた陸軍大演習の際、全体指揮をとった篠原陸軍少将のめざましい活躍を称え、『篠原を見習うように』とのお言葉があり、『見習篠原』が『見習志野原』になり、習志野原になったという説があります」とある。他にも諸説あるようだが、明治天皇の言葉が命名になったことだけは間違いない。以降、それまで農地に適さない平原だった一帯には軍の施設と演習場が置かれるようになった。その中に敷かれたのが新京成線の原型となる陸軍演習線である

戦後になって軍の施設や土地が民間利用されると周辺は急速に住宅地や農地のほか、学校や病院、商業施設が広がっていく。特に広大な敷地は学校には適していて人口も増える。そこで津田沼町とその周辺の習志野原にあった自治体が集まって、新たな「習志野市」を作ろうという機運が盛り上がり話し合いもスタートしたが、習志野の演習場の中心部でもあった当時の二宮町は最終的に船橋市との合併を選び、二宮町にあったのが、ここ習志野駅だった。1953年(昭和28)のこと。習志野市の成立は1954年だった

なお国鉄(JR)津田沼駅は一部の敷地が二宮町に属していたため、今も津田沼駅は一部が船橋市に所在する形となっている

全国的に知られる習志野

駅前の郵便局は「習志野駅前郵便局」。習志野郵便局ではない

駅前には商店街がある

戦後になった習志野の地名を高めたのは習志野市立習志野高校の存在だろう。私の世代でも習志野の名を知ったのは高校野球だ。野球以外でもサッカー、バスケットボール、バレーボールで全国優勝を経験している。関西においても「ミスタータイガース掛布雅之の母校」として有名だ。高校野球の名門というと、戦前からの名門校というイメージがあるが、創立は習志野市の成立よりずっと後の1957年

地元の方は、習志野が船橋市にあることや、津田沼を中心にした習志野市のイメージはできていて、不自由なく使いこなしているようだが、高校スポーツで習志野を知った地元以外の方は主要駅としての習志野がないことが不思議に思えるかもしれない。ちなみに習志野高校の所在地は「習志野市東習志野」。また新京成線では習志野駅より後に開業した北習志野駅が、東葉高速線との乗り換え駅となったため、利用者数で圧倒している

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