日豊本線のもうひとつの難所を訪ねる2~まるで乗り換え分岐駅のような広い構内

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立石駅のホーム

※訪問は2024年4月24日

開業は明治期

あらためて立石駅の紹介を。日豊本線は1895年(明治28)に小倉から大分方面を目指し徐々に開業が始まり、1910年(明治43)に宇佐から立石峠を越えて中山香まで到達。その際に立石駅も誕生した。立石駅が誕生したのは、峠越えの拠点としての駅が必要だったからでもある。立石から中山香まで約5キロ。一方の宇佐までは10キロ以上も離れていた(西屋敷駅はまだない)ため、当時の立石町に当然のように駅ができた

全国の峠越えの駅で見られたように、立石は開業以来、SLの補機を付けたり外したりする重要駅だった。立石峠の逆側にある宇佐駅も広い構内を持つが、同じ理由である。ただ複線電化の時代が訪れると事情は変わってくる。戦後に入って日豊本線に訪れたのは、まず複線化で次が電化。複線化の工事も各地で少しずつ行われ、1966年(昭和41)の7月に宇佐~西屋敷が、9月に西屋敷~立石がそれぞれ複線化。翌年には電化された。現在のいかにも国鉄といったコンクリート駅舎は1965年にできたものだが、真新しい駅舎の完成直後から峠越えの拠点としての機能は失われつつあった

線形の異なる複線

跨線橋からの眺め。2方向に向かって伸びる線路はまるで分岐駅のようだが、目指す場所は同じである。右側が宇佐方面からやって来て大分を目指す下り線で左側は小倉を目指す上り線

立石から西屋敷つまり宇佐へ向かうルート。あえて国道10号での車利用としたのは、国道がぴったり上り線に寄り添っているため。その上に真っ直ぐ敷かれているのが下り線の線路だ。真っ直ぐというか、この区間はほとんどがトンネルである。上り線は開業時のルートでトンネルも約300メートルのものがあるだけ。しかし明治の技術なので何とかトンネル作りを避けるべく川沿いにクネクネと敷設したのに対し、新たに設けられた下り線は3キロ以上ものトンネルを主に走るため、車窓も全く異なる

いずれにせよ複線電化によって峠の拠点としての立石駅は役割を減らしていく。上の写真だと2面4線の構造だが、現在は対面ホームの2面2線

かつては駅舎側から上りホームへ行く際も跨線橋を必要としたが、現在は線路があった部分が埋められバリアフリー化している

駅舎から上りホームへの跨線橋は奥の電柱とともに骨組みだけが残されている

こちらは跨線橋から大分方面を見たもの。左端の線路はすでに現役ではない。線路はこの先、隣駅の中山香まで単線となっている。小倉~大分は原則的に複線だが、当駅~中山香と、その先の杵築~日出の計3区間のみが単線である

駅舎内には地元の手による絵画

駅の周辺は旧立石町の中心地で小さな商店街となっている。まだ朝の8時半で人通りは少ない。駅の1日の利用者は100人を切っている

駅前のロータリー部分も広い。所々遺構が残る

駅舎内には地元の皆さんによる絵画が飾られている。これはかつてのきっぷ売り場と荷物受付の窓口

待合室も同様。とにかく駅前も含め充実した施設だったことは分かる

改札部分には食券式の券売機とICリーダー

ホーム上の木はいずれも伐採されて切り株のみが残る

長大ホームは使用されることのない部分が多くなっている

猛スピードで駆け抜けていった特急を見送り、その後の普通で今度はひとつ隣の西屋敷へと向かう

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