JR

阪和線の日根野以北を足早に回る~難読過ぎて読めるようになった駅

百舌鳥駅の縦駅名標

2022年12月8日12時

漢字3文字読み2文字

百舌鳥駅に到着しました

読みの方はというと

「もず」。漢字3文字なのに、かなにすると2文字。もちろん日本で唯一。当然のように難読駅として知られていますが、鉄道にちょっと興味がある人は、意外と誰でも読める。さらに言うと関西では鉄道に興味がない人も読めます

理由の一つ目は漢字3文字で読み2文字という、特別な読み方でクイズに出されすぎたから。難読駅クイズでは定番となりすぎて読めるようになった人が多いのではないでしょうか

理由の二つ目は関西限定となりますが、南海、泉北高速鉄道、地下鉄御堂筋線と3路線の「中百舌鳥」という駅があるからです。南海と泉北高速鉄道は相互直通運転をしていますが、泉北高速鉄道の線内折り返しもあり、駅のアナウンスではかなり聞かされます。そして昭和の終わりごろには大阪の地下鉄で圧倒的に利用者の多い御堂筋線(かつては日本一でもあった)の終着駅となり、こちらは表記は「なかもず」とひらがなではあるものの、これだけ連呼されると誰でも覚えます。終着駅となっているゆえに誰でも読める駅というのは他にも存在しますが、ラッシュ時は1時間に10回も聞かされるのですから知名度は抜群です

ちょっと年配の方だと、かつてプロ野球南海ホークスの練習場があったため、こちらもニュースでよく流れて読めるようになっていると思います

100種類の声を出す鳥の名前

そもそもが日本中のどこにでもいるモズという鳥の名前なので、そちらから読める人もいるかもしれません。なぜ「モズ」が「百舌鳥」になったかというと、モズは求愛行動の際、いろいろな鳥の鳴き真似をするそうで、それが100種類もの声を持っている、との伝承から「百舌」となり、そのうち「鳥」を付けないと何の名前か分からない、と3文字の漢字が充てられるようになったとか

では、その100の声を持つ鳥が、なぜ地名になったかというと、これは堺市のHPで説明されています

「日本書紀に次の有名な話が見えます。『仁徳天皇が、河内の石津原(いしつのはら)に出向いて陵の造営場所を決め、工事をはじめたところ、突然、野の中から鹿が走り出てきて、工事の人たちの中に飛びこんで倒れて死んだ。不審に思って調べてみると、鹿の耳から百舌鳥が飛び出し、鹿は耳の中を食いさかれていた。このことから、この地は百舌鳥耳原と呼ばれるようになった。』百舌鳥や鹿のことは、百舌鳥耳原という地名が先にあって、それを説明するために後で考え出された、地名起源説話の一つだと思われますが、これから見ると、このあたりは大昔は石津原と呼ばれていたようです。しかし、いつ頃から、また、なぜ百舌鳥と呼ばれるようになったのか、よく分かっていません」

とにかくかなり古くから百舌鳥という地名にはなっていたようです

そして、日本書紀に登場する仁徳天皇の陵が世界文化遺産にもなった日本最大の古墳である仁徳天皇陵です

住所も独特

電車を降りて改札に向かうと

大変分かりやすく案内があります。大仙公園は仁徳天皇陵と履中公園に挟まれた場所にある都市公園です(世界文化遺産は仁徳天皇陵を含む「百舌鳥・古市古墳群」が指定されていて、堺市だけではなく羽曳野市、藤井寺市にもエリアとなっています)

案内はこれだけかと言われそうですが、これは駅前の地図の方が早く

駅前はまさに仁徳天皇陵と大仙公園。駅名も最初は「仁徳御陵前停留場」でした

駅を降りると大きな解説板があって、とても分かりやすくなっています

そして駅の住所は

「もずせきうんちょう」と、難読+難読。しっかり読みを入れてくれています

なお百舌鳥駅は仁徳天皇陵最寄りの西口(上りホーム)と逆側の東口(下りホーム)とは別々の改札でホーム内の移動はできなくなっています

東口はかわいい入口となっています

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阪和線の日根野以北を足早に回る~阪和電鉄最後の駅

富木駅の縦駅名標

2022年12月8日11時30分

意外な難読駅

富木駅に到着しました。「とのき」とは、なかなか読めません

こちらの駅の特徴は東西で大きく表情が変化することです

こちらは東口。阪和電気鉄道独特の三角屋根が、かわいい形で残っています

1940年の開設。阪和電鉄では最後にできた駅です。というのも、阪和電鉄は戦時体制で一度、南海に組み込まれ、戦時中に国営化されたからです

駅は1940年3月に開業し、阪和電鉄は同年12月に南海に吸収合併されたので、阪和電鉄の駅だったのは、わずか9カ月間でした。もちろん阪和電鉄が望んでライバルの南海に吸収合併されたわけではありません

駅ができたのは宅地開発のため。わずか10年しか存在しなかった阪和電鉄ですが、最後の最後まで企業努力をしていたかと思うと、なかなか複雑なものがありますね

他の主要駅もすぐそば

後から設置された駅のため、お隣の快速停車駅である鳳までは1・2キロしかありません。鳳は堺市で富木は高石市ですが、鳳側からの車両区の線路が富木のすぐそばまで来ています

高石市内では南海の主要駅である羽衣駅にも近い。また地図で分かるように周辺はビッシリ住宅街。阪和線沿線の他駅の多くの例と同様、当駅の開設時は取石村でした。阪和線が人工増加に大きく寄与しています

東西で異なる表情

当駅の特徴は東西で駅舎の表情が大きく異なることです

東口は前掲の写真の通りですが西口は

随分と近代的。それもそのはずで、こちらの駅舎は2011年の完成と、まだ10年ちょっとしか経っていません

これも阪和線の特徴ですが、ほとんどの駅は降りるとすぐ踏切があります。それこそ「村」だったころは、それで何の問題もなかったのですが、沿線人口が増え利用者が増加すると「開かずの踏切問題」が各駅で発生します。大阪中心部に近づけば近づくほど電車の種別も本数も多くなるため、これは深刻な問題で、まだこの案件を抱えている駅は多い

そこで当駅では高石市が全額負担して新たに西口を設けました。阪和線の高石市内にある駅は当駅だけ(支線の東羽衣駅はかなり以前に高架化)なので、いろいろスムーズに行ったのかもしれません

西口ができたことで、それまで上下ホームを結んでいた地下通路は改札外の自由通路となって鉄道利用しない人も利用できるようになりました

踏切付近から駅を見ると、こんな感じ。近いのに渡れないというのは、やはりイライラしますね。まだ西口完成から10年ちょっとということで駅には多くの注意書きが目立ちます

板で覆われた部分が自由通路化されたところ。上下ホームが別となったことによる注意喚起

自動改札手前の、あらゆる目につくところに文字が見られます

ただ開かずの踏切のイライラは解消され、こんな文字もしっかり掲げられています

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阪和線の日根野以北を足早に回る~人の名前ではありません

北信太駅の駅名標

2022年12月8日11時10分

神社の参拝道

北信太に到着しました

駅名標で分かる通り「きた・のぶた」さんという人の名前ではありません。「しのだ」と読みます。なかなか読めない

東側、西側と両サイドに改札があり、無人となっている西口を出ると

すぐに鳥居がお出迎えしてくれます

駅が設置された1932年は「信太村」でした。地名の由来となった「信太森神社(葛の葉稲荷)」は至近

最初に駅が開設した時は「葛葉稲荷停留場」の駅名で、阪和電気鉄道の和歌山までの全線開業後に設置されました。駅の位置といい、参拝目的の駅だったことは明らかです

伝説を伝える

メインとなる駅舎は東側にあります

1日に1万人が利用する直営駅で、みどりの窓口は営業を終了しているものの、みどりの券売機は設置されています

こちらは東口の改札。東西改札ともすぐホームに入れるようになっているので便利です。かつては上り、下り両ホームは地下通路で結ばれていましたが、現在は両ホームが独立した形となっていて上下ホームの往来はできません。かつての地下通路が東西自由通路となっていて駅を利用しない人も踏切待ちを避けられるようになっています

その東口には「葛の葉 子別れ」の絵画があります

「平安時代の陰陽師として知られる安倍晴明は、信太の森の白狐(葛の葉姫)を母として生まれたという。葛の葉稲荷はこの「葛の葉伝説」ゆかりの地として広く知られている。境内にある楠の巨木、「千枝の楠」(市指定天然記念物)は、白狐が姿を隠したという伝説をもつ。また、白狐が葛の葉姫に変化したとき姿を映したという姿見の井戸や、狐が化かしたと伝えられる白狐石などがある」(和泉市HPより)

歌舞伎や人形浄瑠璃以外でも、この伝説は多くの作家や漫画家の方が題材として取り入れています

周辺道路を整備

駅前にはこのような案内がありました

今回、いくつかの駅で見たのは駅前の道路整備、駅の改良でした

阪和電鉄が設置した駅はどこも私鉄風で狭い駅前が多く、多数の利用者がある駅では車の流入もしづらくなっています。また駅近くの踏切も利用が多い時間帯は人と車であふれているので、その改良もあるのでしょう。阪和線沿線では快速停車駅から駅及び駅前の改良工事が開始され、もう次の段階に来ているようです

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阪和線の日根野以北を足早に回る~参拝と競馬で発展が始まる

久米田駅の側線は保線車用

2022年12月8日10時50分

新出口を建設中

久米田に到着しました。ご覧のように保線車が停まっています。現在は2面2線ですが、かつては2面4線だったため、ホーム横に側線が残っていて、そのスペースを利用しています

保線車の傍らでは

工事が行われていました。訪問時の昨年12月時点のもので、現在はさらに工事が進んでいると思われますが、明らかに新しいで出口を設置しようとしています

保線車側から撮ってみましたが、こちらの方が分かりやすいかもしれません

駅前は参拝道

久米田の駅舎です。いかにも阪和線の駅、という私鉄テイストあふれる駅は久米田寺への最寄りともなっています

駅を出るとすぐ参拝道となりますが、その分、手狭で逆側にも出口をということになったのかもしれません。利用者は1万人を超える駅で

しっかり、みどりの窓口もあります

競馬集客にも参加

新出口の工事中と思われる方向には、かつて春木競馬場がありました。現在、大きな公園となっています

どちらかといえば、南海の春木駅からすぐの競馬場だったのですが、とにかく集客に熱心だった阪和電気鉄道は、久米田からも十分に徒歩圏内だ、ということで競馬客輸送も「参戦」。臨時列車の運行も行いました

駅舎はどう見ても阪和電鉄ならではの私鉄の空気感なのですが、財産票は国鉄になった戦後のもの。大がかりな改築があったのでしょうか

手前部分の駅名板が乗っかっているあたりは、増築か最初からのものか分かりませんが、駅名板がなければ、普通に家ですね

跨線橋の文字。駅名を強調して文字間隔を空け、1段目も2段目も同じ長さにできる万能ぶりが、とても気に入りました

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阪和線の日根野以北を足早に回る~私鉄の面影を残す

東佐野駅の駅名標

2022年12月8日10時

開業時に付けた地名が今も残る

熊取から1駅。東佐野に到着です

2面2線構造

三角屋根の形はおそらく阪和電気鉄道時代からのもの

屋根は瓦になっているようですが、これは近年生まれ変わったもののようです

最初の駅名は「泉ヶ丘」。戦時中に国鉄になった際、現駅名となりましたが、これは阪和電鉄が宅地造成するために付けられた駅名で、和歌山までの全線開通後から10年近くが経過した1939年に開業しました。まるで現在の新興住宅街のような地名ですが、戦時体制に入りつつあったこの時期にも宅地開発での集客をしようとしていたことが分かります

駅の現在の住所は泉ヶ丘1丁目。駅舎側の住所は、ずっと泉ヶ丘が広がっていて宅地開発が身を結んだ形になっています

ちょっとおしゃれな構造

業務委託駅で営業時間は決まっているものの、窓口はあります。改札は簡易式のIC方式

和歌山方面の下りホームには小さい階段でそのまま入ります。大阪市内方面へは跨線橋で向かうのですが

改札からホームへの階段は、扇状でちょっとおしゃれな構造となっています

私鉄駅の色彩が色濃く残る

続いてお隣の和泉橋本駅へ。阪和線は元私鉄らしく駅間が短いのが特徴ですが、先述した通り、後から東佐野駅(泉ヶ丘駅)ができたため、特に駅間が近くなっています

線路沿いの道路はないようで、徒歩や車だと回り込む必要があるようですが、レールだけだと駅間はわずか1・5キロ。出発したと思ったらすぐ到着してしまう感覚。歩いても30分かからないとグーグル先生は教えてくれますが、もちろん歩きません。電車は15分に1本来るのですから

あっという間の到着

駅舎は、いかにも私鉄らしいもので駅からすぐの踏切と駅前の狭い道路と商店街も、私鉄を感じさせてくれます

改札は開閉式のものが設置されています。東佐野より圧倒的に利用客は多いのですが

みどりの窓口の営業を終えた2015年から設置されていた、みどりの券売機も昨年8いっぱいで撤去されています。張り紙にその旨が書かれています。1日に5000人ほどが利用する駅でみどりの券売機まで営業を終えるのですね。これはちょっと驚きでした。ただ定期券を買える券売機は残されています

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阪和線の日根野以北を足早に回る~近年まであった鉄道国有法

熊取駅の駅名標

2022年12月8日9時50分

関空以前からにぎわう

和歌山で宿泊した翌日は大阪市内へ戻りつつ、いくつかの阪和線駅訪問を行います。紀州路(関空)快速は和歌山から、ここ熊取まで各駅に停車した後は快速運転となるので渋めの駅が中心となる私は区間快速に乗り換えとなります。朝のラッシュ時の終わりあたりから日根野始発で運行が始まり、昼間はここ熊取が始発。鳳まで各駅に停車した後に快速運転となります(朝のラッシュ時は普通の運行)

おおよそ15分に1本の運行で、熊取からは紀州路快速と合わせると1時間に8本の電車が大阪に向けて出発するので、すっかり都会ダイヤです

熊取町は泉佐野市と貝塚市に囲まれた形になっている町で、昭和初期に阪和電気鉄道によって初めて鉄道がやってきました(当時は熊取村)。町内に駅はひとつしかないのですが、京大の原子力研究施設を設置することで快速停車駅に昇格。大阪中心部へのアクセスがグンと上がってベッドタウン化。ひとつお隣の日根野は関空への分岐駅となったおかげで大出世しましたが、当駅はそれ以前からにぎわっています

バスの案内にもある通り、平成になると大阪体育大学も移転。他にも学校が移転するなど、現在は人口4万3000人の「都市」へとなっています

南海が拒んだ鉄道国有法とは

南海が鉄道国有法による国鉄化を拒んだことは

この時にも触れましたが、日清戦争、日露戦争で鉄道の重要性を知ったこともきっかけになった鉄道国有法は、20年も経って昭和初期になると線路を造って収益を上げている私鉄各社にとっては「迷惑なもの」になっていました。せっかく自らの手で建設して育ててきた路線を手放してはたまらない、というわけです

国有化を避けるため、国鉄の狭軌ではなく最初から標準軌で敷設する会社もありました

ただ、この法律、ほとんど有名無実化しながらも何と1987年3月まであったのですから、そちらの方がむしろ驚きです。なぜなくなったかというと「国鉄が消えたから」。JRの発足で国有化しようにもできなくなったのです

戦後、GHQによっていろいろな法律が無効化されましたが、こちらは手つかず。そういえば戦時体制の「国策」で農地や食糧、住宅を統制する「営団」がすべて消えたにもかかわらず「営団地下鉄」は、「帝都高速度交通営団」という、名前だけ聞くと何のことやら想像もつかない名前で残っていました。戦時統制、戦時体制ではない、との理由でした。話はそれますが、営団地下鉄が残ったことで東京都は別に都営地下鉄を造ることになり、現在の地下鉄二重構造につながっています

私も世界中回ってはいないので断言とまではいきませんが、海外に行って分かるのは「私鉄がこんなにある国は日本だけ」ということ。米国については、ほとんどが民間のものですが、他国はほとんど「国鉄」です。国の重要インフラとしての側面が強く、現代においては保線や車両の管理など、金銭的に割に合わない事業のひとつとされているからだと思われます。その意味で現在の日本が「国鉄がない国」となっているのは、すごいことです。GHQが鉄道国有法を残したのは、そんな事情を知っていたのか、有名無実だった法だったのでスルーされたのかは分かりませんが

駆け足気味で北上する

駅前は大きなロータリーが広がります。こちらも阪和電鉄ならではの、こぢんまりした三角屋根駅舎が健在だったのですが橋上駅舎に変わっています

2面4線構造

コロナ前は1日2万人が利用する駅でした。コンコースも広くとられています

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~私鉄から国鉄となって繁栄

和歌山駅の駅名標

2022年12月7日16時

高架線から和歌山駅へ向かう

紀和~和歌山間の高架区間の車窓は市内の様子が俯瞰できて楽しい

ただ高架区間はわずかで阪和線と交差する部分は昔ながらのアンダーパス。ここまで高架しようとすると和歌山駅そのものを高架化しないといけないので、阪和電気鉄道が造った堤築の下を行きます

和歌山駅に到着。夕方なので下校の高校生でにぎわいます。ただ紀勢本線である和歌山~和歌山市間に与えられたホームは和歌山線と同一面。メイン出口である西口に近い阪和線と紀勢本線のホームとは別となっています。阪和線と紀勢本線は特急をはじめ、直通運転が行われていますが、紀勢本線の終点である和歌山市駅へ向かう和歌山~和歌山市は支線扱いです

ちなみにこのホームには中間改札があるので青春18きっぷのシーズンは要注意

発展するJR駅

和歌山駅には東口と西口があり、メインは前述した通り西口です

写真は2018年のものですが、商業施設が入る総合ビルとなっています。また周辺は飲食店が並ぶ繁華街です

それに対し東口は

こぢんまりとしていて周辺に派手なネオンサインはありません(写真は2021年)

しかし近年、多くのホテルが東口に建設され、それに伴い飲食店も増えています。私も最近は和歌山に宿泊の際はもっぱら東口を利用します

このように和歌山駅周辺は発展を続けている印象があります

JRと南海2つの玄関口

さて和歌山市には南海の和歌山市駅という、もうひとつの玄関口があります

「暴れん坊将軍」で有名すぎる和歌山の中心は和歌山城で旧市街地はお城を中心にできています。こうして見ると、旧和歌山駅である紀和駅は街の外れにあり、紀勢本線も中心部を避けるように敷設されていることが分かります

徒歩ルートで表示しましたが、和歌山駅と和歌山市駅は車で10分程度。そしてお城へは和歌山市駅の方が若干近い。先に発展したのは和歌山市駅です。南海が紀ノ川を越えて和歌山市駅までやって来たのは1903年ですから、まだ明治期です。阪和電鉄が大阪から和歌山に到達したのは、それから約30年後なので、大阪から和歌山への「足」と「輸送」は南海が独占していたことになります(当時は車などないに等しい)

駅としての重要度も南海が上で、それはわざわざ終着駅だった和歌山(現紀和)から和歌山市駅へ1区間だけの路線が設けられたことでも分かります

ただ戦時買収で阪和電鉄が国鉄となり、戦後本格的に運用が始まると徐々に状況に変化が出てきます。東和歌山駅が和歌山駅へと改名された1968年あたりには戦後20年が経過して白浜や新宮に直接行ける国鉄利用者が増え、もともと複線電化のスピード優先で建設された阪和線の構造が通勤通学も含め、利用客増加に貢献することになります

2000年あたりから利用者も逆転が始まりました。つまり国鉄と一体化したことが繁栄につながったわけです

南海も挽回に

写真は2017年9月の和歌山市駅。この直前まで津や松阪といった近鉄の駅のようにJRと同一改札になっていたのですが、IC乗車が可能になったことを機に別の改札となりました

当時は105系。ただワンマンの2両編成、昼間は1時間に1本の運行というのは今とあまり変わりません

私が和歌山市駅を初めて訪れたのは15年ほど前と遅く、個人的なイメージで「JR駅より私鉄駅周辺の方がにぎやか」と思って和歌山市駅近くのホテルをわざわざとったのですが、ホテルで飲食店を尋ねたところ「繁華街はJRの駅近くですから」と言われるほど寂しい駅前になっていて驚いたことを鮮明に覚えています

和歌山のような歴史のある大きな都市で駅を中心とした繁華街が戦後数十年も経って「移動する」のは珍しいことです

こちらも2017年の写真。ターミナルビルの建て替えが始まっていました。こちらも1972年完成とは思えない大規模なもので、正面から駅に入る大階段はターミナルとしての威容を十分示すものでしたが、新駅舎が2020年にできました

和歌山の両玄関口の「新たな争い」が始まっています

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~かつての和歌山駅は今

2022年12月7日15時

紀伊中ノ島から徒歩で旧和歌山駅へと向かう

前回記事の最後に紹介した紀伊中ノ島の駅前風景

一連の記事で「和歌山駅(現紀和駅)」と何度も書いています。「東和歌山駅の地位が上がって和歌山駅に昇格し、それまで和歌山の代表駅だった和歌山駅は紀和駅になった」と

しかし紀州藩で有名な和歌山という古くからの都市で代表駅の交代があるというのはあまり聞いたことがありません。これも何度か書いてきましたが、すでに町ができていると線路は街外れに敷くしかなく、大きな都市の代表駅が街の中心部から外れているのはよくあること。別にそのままでもいいのではないか、となりそうですが和歌山の場合は前回の紀伊中ノ島の項でも記した通り、大阪から真っ直ぐやって来た阪和電気鉄道が当時の和歌山駅への乗り入れを拒んだことで現在の形になりました

ただ、その和歌山駅はどうなっているのかを伝えないと、文字と地図だけでは何のことか分からない。ということで紀和駅は阪和線ではなく紀勢本線の駅ですが、リポートすることにします

先に書きますが、ここから紀和駅は実は近い

徒歩10分です。線路があるので携帯のアプリも必要ないでしょう

高架に沿って進む

最初の写真を左に折れるとすぐ紀勢本線の高架が見えてきます。左側にある建物がJRの社員寮で、紀伊中ノ島の旧和歌山線ホーム跡のあたり。その中を突っ切ると早いのですが一応、公道を進みました

後は高架に沿って進むだけです

結論から言うと途中で信号はひとつだけ。大きな通りを渡ります。新しいマンションや住宅街と古い建物が混在しています

時系列的には南方貨物線の探索から、それほど日は経っていなかったので高架ばかりを見ながら歩くと廃線か未成線かと錯覚してしまいますが、もちろん現役の紀勢本線です

すぐ高架下が遊歩道となり

左右が公園となって子供たちの歓声が。公園部分はかつての「和歌山駅」の敷地内だったのでしょう。かなり広い

子供の自転車にビュンビュン追い越される。奥に見える黒い部分が紀和駅です

ムダを省いた姿に

紀和駅に到着しました

15年前に高架化され、ホームへは階段またはエレベーターが向かいます

外から見るとこのような高架駅。かつての駅構内は一帯が公園化され、お手洗いもあります

まずはホームに行ってみましょう

「和歌山・和歌山市方面」と案内されています。駅には、そのどちらか行きしかやってきません

簡易型IC改札と券売機がたったひとつに、1面だけのホームは、もちろん無人駅。よく言えばスタイリッシュ、ムダなものはすっかり省かれていますが、ここが戦後20年経つまで和歌山駅だったとは誰も思わないでしょう

私は紀和駅になってからの地上駅時代に来たことがあります。駅舎はありましたがすでに往時の面影はありませんでした

南海と阪和電鉄の挟み打ちに

紀和駅の駅名標。こうして見ると両サイドが和歌山駅、和歌山市駅ってすごいですね

和歌山駅は1898年に現在の和歌山線の終着駅として誕生。歴史は古い。その当時、南海はまだ市内中心部まで入っておらず、文字通りの中心駅でした。なぜここに駅ができたかというと紀ノ川の存在です。当時の技術では、なかなか渡れなかった広大な河川。和歌山線は紀ノ川に沿って進んでいますし、将来の南方面への敷設も含め、旅客はもちろん、貨物の海運という意味でもここに駅を設置するあったのです

ただ数年後に南海が紀ノ川を越えて和歌山市駅を開設。大阪ともつながったことで優位性がなくなります。和歌山市駅との接続も考慮して当駅~和歌山市駅が開通。中間駅となってしまいます

その後は前記事の通りで阪和電鉄が東和歌山(現和歌山)での接続を選び、阪和線として国有化されると大阪~和歌山、さらには和歌山以南への列車は当駅を通らなくなり、やがては駅名変更。元々、街外れの駅だったので周囲のにぎわいも消えました

現在、周囲は新たな住宅地となっています

昼間は1時間に1本

時刻表を見ると朝夕の多客時間帯でも30分に1本、昼間は1時間に1本の運行しかありません。駅周辺から大阪方面へ向かう人は紀伊中ノ島まで歩いた方が便利なので、やむを得ないところ。紀伊中ノ島の利用者が一時よりは増えているのは、紀和駅周辺にできたマンションや住宅に住む人が利用するようになったからだと思われます

ターミナル駅の面影は

かつては急行「きのくに」という、南海の難波から出て和歌山市~和歌山を経て国鉄に乗り入れ、白浜・新宮に向かう、今では信じられない列車が運行されていましたが、国鉄末期に廃止され、その後は紀勢本線でありながら、当駅付近を通る優等列車はありません。和歌山市~和歌山は区間運転として独立した形になっている支線扱い

広大なターミナル駅だったことを思わせるものは何もありません。現役の駅なので解説文や碑を残すわけにもいかない。わずかに駅正面の通りにのみ面影が残ります

和歌山市行きがやってきました。私は和歌山へと向かうので折り返しを待つためホームにむ和歌山市行きがやってきました。私は和歌山へと向かうので折り返しを待つためホームに向かいます

2両編成のワンマン車がやってきました。実は今回利用しているICOCA定期券利用者の「どれだけ乗っても1000円」エリアには和歌山線も入っているのに当区間は外れていて「別路線」の感を強くさせます

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~ひとつの役割を終えた駅

紀伊中ノ島駅の駅名標

2022年12月7日14時50分

和歌山まで1キロの駅

紀伊中ノ島駅に到着しました。こちらに来るのは3度目。この駅の雰囲気が好きで和歌山方面に来ると自然に足が向いてしまいます

和歌山まで1駅の当駅ですが利用者は多くはなく、1日の利用者は千人にも満たない(これでも以前からは増えています)

理由のひとつとして和歌山までの距離の近さがあります

線路にして1・1キロしかなく歩いても大した距離ではないため、多くの人は利便性の高い和歌山を利用するのでしょう

ではなぜこんな短い区間に駅ができたかは、上記の地図で分かります。当駅を基準に東側には和歌山線、西側には紀勢本線があり、阪和線を含めた3線が和歌山に向かっていますが、和歌山線と紀勢本線の強引なカーブは、どこか違和感がある

これは元々、和歌山線の線路が真っ直ぐ紀勢本線に向けて伸びていたからです。現在の紀和駅は以前、和歌山駅で国鉄の和歌山における中心駅でした。では現在の和歌山はというと東和歌山という途中駅でした。改名は戦後20年以上が経過してからです

南側から東和歌山を経て和歌山(紀和)まで線路が到達したのは明治時代。阪和電気鉄道が和歌山まで到達したのは昭和初期です。当然、当時の国鉄としては和歌山までの鉄路を求めたのですが、ここから直角に和歌山駅まで行くのはイヤだと阪和電鉄が拒否。阪和電鉄としては将来の国鉄との相互乗り入れを目指していたため、和歌山に向かっていてはスイッチバック構造になってしまいます

阪和電鉄は東和歌山での接続、乗り入れを選択。その際の交換条件として和歌山線と交差する最初から少し南側の地点に紀伊中ノ島駅を移設しました。元々近かった東和歌山との距離がさらに近くなり、現在の1・1キロになったわけです

美しい駅舎は国鉄の手によるもの

紀伊中ノ島の駅舎です。美しい形をしています

1935年建築のものが、そのまま残ります。これは国鉄が建設したもの。乗換駅にふさわしいもので、阪和電鉄も国鉄との接続を図って特急を停車させていました

その痕跡は今も色濃く残っていて

和歌山線のホーム跡です。上を行くのは阪和線。こちらは阪和電鉄が建設しました。先に和歌山線ができていたので堤築上のホームからオーバーパスするようになっています

駅舎入口から見ると、このようになっていて直接和歌山線ホームに入れていたことが分かります。国鉄の駅ですから国鉄優先です

現在の改札はホーム跡を左に折れたところに設けられています

急速な地位の変化

戦後になって和歌山駅の地位がどんどん低下していきます。阪和電鉄が国鉄に戦時買収されたため、大阪方面からやって来る列車は和歌山以南へすべて直通できることになり、戦後のレジャー回復による県南部への移動も和歌山駅は通らず東和歌山経由となりました。和歌山県内からの通勤圏の拡大も東和歌山が起点

貨物輸送も東和歌山に重点が置かれるようになり、和歌山線も東和歌山への短絡線が設けられました。やがて東和歌山駅が和歌山駅へと改められると、この短絡線が旅客運輸でもメインルートとなり、間もなく、かつての和歌山駅(紀和駅)へ真っ直ぐ伸びていた線路は不要、廃線となりました

つまり紀伊中ノ島は乗換駅ではなくなったのです。それが1974年のこと。以来、ホームはホーム跡となって現在に至ります

乗換機能を失ってからの流れは急速で国鉄時代のうちに無人化。利用者が増える紀伊、六十谷が朝のラッシュ時の快速停車駅となったのと入れ替わるように通過駅となりました

駅舎内から外をうかがうと、建設時は気合の入ったものだったことが分かります

駅名板は確実に国鉄時代からのものですね

こちらが駅前風景。かつての乗換駅は今は静かにたたずんでいます

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~難読駅のお手本は文教地区に

六十谷駅の駅名板

※当駅の情報は2021年3月のものです

難読駅の条件

難読駅に定義はありませんが、基本的に2つに大別されます

①そもそも漢字が分からない

②簡単な漢字なのに思わぬ読み方をする

①については普段絶対見かけない漢字が使用されているもの。轟木(五能線・青森県)、櫟本(桜井線・奈良県)、岩峅寺(富山地方鉄道)などが有名ですね

②は挙げ始めるとキリがありませんが、小学校の低学年レベルになればなるほど価値が上がると私的には考えています。最たるものが阪急の十三だと思いますが、こちらは駅の規模が大きくて有名すぎる。普通しか停車しない駅だったら、かなり上位に来ると思います

その意味で今回の駅も小学校低学年レベルの漢字。しかも3文字

3文字なので普通の読み方はしないだろうな、とは思うはずですが、3文字目が「た」と読むは、なかなか思い浮かびません

六十谷は地名で有功(いさおと読みます。こちらも難読)村のひとつの地域。諸説あるようですが「墓所谷」(むしょたに)と呼ばれていた地名の名前の縁起が悪いので「六十谷」の文字を充て、読み方が変化したというのが多く語られています

しかし、この難読駅。スポーツメディアで高校野球の取材に携わった人は、ほとんど読めてしまうのです

ドラフト1位を同時に輩出

冒頭に注釈を入れさせていただきましたが、写真などの情報は2021年3月に訪問した時のものです。一瞬ウトウトしている間に通過してしまったらしい。翌日、大阪市内まで戻って駅巡りをしている最中に「あれ?」と気づいたのですが、さすがにもう遅い

ただ開き直りになりますが、当時だからこその情報(写真)も今となっては貴重かもしれません

駅舎は1970年代に改築されたコンクリート駅舎です。国鉄の香りが漂います

そして写真にある通り「祝 甲子園出場 和歌山市立和歌山高等学校」の文字が目に入ります。ちょうどセンバツ高校野球の直前で、最寄りとなる市立和歌山高校が出場を決めていました。後にバッテリーがそろってドラフト1位指名されます。名門とはいえ公立高校で2人同時にドラフト1位というのは、なかなかないことです

「高校野球の取材に携わると読める」というのは、そういう意味。強豪校ですから足を運び、読めるようになります

その他にも私立の学校が進出してきたため、多くの利用者があります。前回、紀伊駅を県内JRで二番目に利用が多い駅と紹介しましたが、激しく2位を争っていて、1999年に紀伊駅と同時に特急以外の全列車が停車することになりました

学校が多いとコンビニも多いですね

しかし、そんな多客の駅ですが

私の訪問は2021年の3月13日。みどりの窓口の終了翌日でした

しかし終日無人というわけではなく、通勤通学時間帯を中心に駅員さんはいるようで、みどりの券売機はないものの、定期券を購入できる券売機は設置されています

構造は2面2線。入口は原則駅舎側にひとつですが、駅舎と逆側にある開智中学・高校の生徒用専用出口があります

跨線橋の文字はおそらく国鉄時代からのもの

駅といえば左側通行が多い印象がありますが、右側通行が徹底されています

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