未成線

渥美半島の「途中」まで18キロの豊橋鉄道渥美線~伊良湖という湖はありません

※訪問は2022年6月11日

三河田原からバスに乗り

4年前、現在の姿となった三河田原駅を訪問した話を伝えたが、その時はバスで伊良湖岬を訪れている。その思い出にも触れてみたい

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バスで1時間

駅前からバスに乗車。運行は豊鉄バスである

伊良湖岬行きのバスに乗車。約1時間の乗車である。私は旅気分で楽しく車窓を眺めることができたし、駅前の解説板のおかげで未成線の路盤も眺めることができたが、仮に日常的に利用するとなると、路線バスに1時間乗車というのは、なかなか長い。土曜日の14時という時間帯で、高校生の利用は少なかったが、それでも何人かの高校生が乗車して途中で降りていった。途中に高校があり、そちらからの利用もあった

元々が未成線で、いかも戦前に敷設を断念した路線なので、代替バスという位置づけではない。途中の保美止まりのバスがいくつかあって、伊良湖岬まで到達するバスは1日10往復。保美までのバスは21時台まであるが、伊良湖岬までのバスは18時が最終となっている。4年前のことは忘れてしまったが、現在の運賃は1120円。10往復という本数が多いか少ないかは微妙だが、18時発で終わる現状を考えると、仮に鉄道が通っていても苦戦は免れなかった気はする

伊良湖フェリーターミナルに到着。こちらからは鳥羽港や河和港への船が出ているが、乗船したのは河和港行き

高速船の名前は

「はやぶさ」で、かつての特急列車の名前のような

ここからも約1時間の船旅

無事到着

河和駅までは徒歩7分らしいが、連絡バスに乗って

河和駅へ

名鉄に乗車した

伊良湖の正式な読みは「いらご」

さて、知られているようで意外と知られていないのは「伊良湖という湖はない」こと

地図を前掲したが、渥美半島のどこにも湖はない。そもそも正式な読みは「いらご」である。「いら」というのは急斜面や断崖を呼ぶもので、全国各地にも「伊良」「江良」「永良」など、同じ意味を持つとされる「いら」「えら」は見られる

渥美半島の伊良湖については、古い文献では「伊良胡」「伊良虞」などの表記も見られ、いつの間にか現在の表記に落ち着いたそうだ

かつてフェリーターミナルにあった自治体名は「伊良湖岬村」で戦後の1955年(昭和30)まで存在したが、もともとあった伊良湖村が周辺の村と合併して成立したもの。1955年に再び周辺の自治体と合併して渥美町となり、平成の大合併で田原市となった

湖があるのではないかと思い込んでしまう要因としては、おそらく「伊良湖岬」という文字にあるのではないかと推察される。観光案内などでは「伊良湖」と単独で表現されることはなく、あくまでも「伊良湖岬」と案内されるが、パッと見ると「伊良湖岬」「伊良湖畔」に見えてしまうのではないか

話の本筋には全く関係ないが、河和から名鉄に乗り、東名古屋港で平面交差を見学した

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渥美半島の「途中」まで18キロの豊橋鉄道渥美線~かなわなかった先端への夢

※訪問は2025年9月23日

柳生橋から700メートル

柳生橋駅から1駅で小池駅に到着。1駅といっても、わずか700メートル。ちなみにさらにお隣の愛知大学前駅までも同じような距離。ただ最初の記事でも触れた通り、平日なら15分に1本、休日の今日でも20分に1本の高頻度運転。駅で写真を撮って、付近を少しウロウロしているうちに電車はやって来るので、それはありがたく乗らしてもらう

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以前は学生でにぎわう

駅の構造は2面2線。開業は1925年(大正14)で柳生橋駅と同じで、かつては駅舎があったようだが、現在はない。ただしホーム上には立派な待合室もあって、それとは別にホームに屋根がある。先ほど愛知大学前駅の話が出たが、以前はなかった。いや、休止中だった。その理由については後の記事で触れるが、愛知大学の生徒や関係者は当駅を利用していたため、当駅が最寄りでとてもにぎわっていた時期もあったそうだが、1968年(昭和43)に愛知大学前駅が開業すると静かな駅となった

前述した通り、駅舎はなく券売機とICリーダーが設置されているのみ

半島の途中で終わったわけ

さて渥美線の全線をたどると

終点の三河田原駅は観光名所でもある伊良湖岬に向かって進んでいるように見えるが、それにしては渥美半島の途中あたりで終わっている。現在のように道路やマイカーが発達している現在ならともかく、輸送手段、公共交通機関として鉄道が最上位にあった大正期である。渥美半島の先端まで鉄路を通そうと考えるのが普通だ。そして実際に話はそのように流れていた

伊良湖岬の向かいは三重県の伊勢市がある。当時の寺社参拝の最上位はもちろん伊勢神宮。さらに重要だったのは、豊橋に陸軍の第15師団があったこと。そして伊良湖岬近くには陸軍の射撃試験場があった。明治から昭和初期までの鉄道敷設の理由は基本的には大都市間輸送、貨物輸送、寺社参拝、温泉利用、軍事利用の5つである。その意味では軍事需要もあるし、伊良湖岬から船舶で伊勢参りという需要もあるとのことで渥美電鉄という会社が設立され、敷設が始まった

しかし新豊橋から三河田原の2つ先の黒川原という駅まで開業したところで渥美電鉄が資金切れで工事を中止。それでも射撃場は陸軍の施設だからということで、さらに先の工事は国鉄が請け負うことになった。このあたりは軍の重要コースになるというとで、信濃大町から糸魚川にかけての山中が国鉄の工事となった大糸線と同じ流れだ。そして戦局悪化によって工事が中断したことも同じ。異なったのは、戦後に全通した大糸線と、一部完成した路盤だけを残して未成線に終わった渥美線との結末の違いである

ただし国鉄が工事を行うということは全線開業時は国有化するということだし、30キロ近い未成区間は決して人口の多い場所ではない。今も需要のある伊良湖岬~鳥羽のフェリー航路は戦後に開業したが、三河田原から伊良湖岬までの営業を考慮すると、国鉄に営業体力やサービス気力があったかどうかは怪しいところだ。そもそも延伸区間は電化できたのか、という根本的な問題にも突き当たる

全長18キロの私鉄だからこそできた15分間隔の頻発運転ではないか-それが実感だが渥美半島の先までつながる鉄路を見たかったという気も少しあるのは事実である

構内踏切を眺め次の駅へと向かう

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72キロの長大盲腸線長良川鉄道を行く~再来訪を誓って雨中の旅が終わる

※訪問は2025年10月5日

本社所在の駅

最後の訪問は関駅。長良川鉄道の本社所在地だ。時刻は16時15分。日没まではまだまだ時間があるが、雨のせいか薄暗い。美濃太田~岐阜~米原経由で帰宅することを考えると、時間的にはここまでだ

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かつては名鉄の駅も併設

駅の開業は1923年(大正12)。美濃太田駅から美濃町(現美濃市)駅まで越美南線が開業した際、途中駅として設置された。現在は関市だが、当時は関町に所在。駅名は「美濃関」だった。旧国名がついたのは関西本線の関駅(三重県)がすでにあったため。三セク転換時に国名が外れて現駅名となった

かつては名鉄美濃町線の乗換駅でもあった

名鉄美濃町線は美濃駅から岐阜市内までを結ぶ路線だったが、1999年(平成11)に美濃~新関が廃止となり、美濃市駅での越美南線と美濃町線の乗り換えがなくなった分、当駅での乗り換えが便利になるように新関から当駅まで線路が敷かれ、関駅が新たに設けられた。といっても両駅は徒歩5分の距離でしかなく

すでに乗換駅として利用されていたが、さらに便利になるような措置だった。だが2005年に美濃町線そのものが廃線となり、名鉄の関駅も廃止される。新駅誕生からわずか6年で廃駅という運命をたどることになってしまった

有人駅とジオラマ

本社があるので当然有人駅である。駅舎は古くからの駅舎を改修しながら使っているようだ。新関駅前にあったバスターミナルなど、関市に集まるバス路線を集約させた新ターミナルを駅前に集約させている。このように交通機能を集約させた関駅だが、美濃太田駅をのぞいた路線内のナンバーワン駅ではない

利用4ケタの駅はなし

路線内で最も利用が多いのは、もちろん美濃太田駅。JR高山本線との乗換駅でJRだけで1日に5000人以上の利用があり、長良川鉄道に限ると839人(2022年度)。つまり1000人以上が利用する駅はない

2位は関口駅で494人と3位関駅の320人を上回る。このような逆転現象は美濃市でも起きていて美濃市駅の151人(8位)に対して梅山駅302人(4位)。これは駅の近くに高校があるからだ。学校の存在で利用者数が変動してしまうほど、それ以外の利用が少ないことになる。ちなみに全38駅中100人を超えている駅は9駅しかなく、美濃市駅のひとつ北側の梅山駅より北濃側の駅で3ケタの利用があるのは郡上八幡駅の233人(5位)、美濃白鳥駅の126人(9位)の2駅のみである。昨年10月の減便を経ても予断を許さない状況にあると言っていいのかもしれない

郡上八幡という、集客に優れた地域があるにもかかわらず、利用が低迷するのは線路にぴったり寄り添うように走る東海北陸自動車道の存在も大きい

それでも、ここまで紹介してきたように路線も車両も魅力ある路線である。今回は2日とも雨に遭遇すしたこともあって思ったように動けなかった部分もある。次回は線路が走る予定だった石徹白(いとしろ)まで何とか足を伸ばしたいと思っている

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72キロの長大盲腸線長良川鉄道を行く~三セク転換で2文字→4文字駅名に

※訪問は2025年10月5日

おいでんがな号に乗車

相生駅から次の目的地へと向かう。やって来た列車は「郡上おいでんがな号」

観光名所を紹介するとともに、なかなか楽しい車内となっている

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渋いストーブの出迎え

到着したのは美並苅安駅。相生から3駅目

いきなり渋いストーブの出迎え。駅そのものは平日は有人となっているようだが、ストーブが現役かどうかは不明。もう少し寒い季節に来たら判明したかもしれない

開業は1928年(昭和3)。美濃下川(現大矢)から深戸まで延伸される課程で設置された。瓦屋根に入口の寺社風造りに特徴がある

こちらは簡単に財産票を見つけられた。開業時の年代が示されている

実情に合わせた駅名に

こちらは駅名標。元気に育った樹木で覆われた感じがなかなかいい

開業時の駅名は「苅安」。三セク転換時に現在の駅名に変更された。現在の住所は駅名標で記された通り郡上市美並町だが、平成の大合併までは美並村

みなみ子宝温泉駅でも紹介した「人口重心」の地位にあった村だ

ただ「美並」という自治体名はもともとあったものではなく、発足時に名付けられたもの。1954年に苅安駅があった下川村と嵩田村が合併して誕生。美並観光協会のHPによると、2つの村が合併した際「2つの村が永久に美しく並びたい」「郡上地域の南に位置する」「美濃から1文字をとって美をつける」の意味が込められているという

つまり駅が誕生した時には「美並」という地名は存在せず、三セク転換時に実態に合わせて改名した。苅安は古くからあった地名で戦国時代には城も築かれている

実態に合った駅名変更については

郡上大和でもあった。富加駅もそうである。ただ旧国名や地域名を入れるのではなく、自治体名と旧駅名を組み合わせた変更となった。三セク転換でJRの駅との重複を気にしなくてよくなったことで国名が外れたケースは前記事で紹介した相生駅のように全国に例はあるが、もともと2文字だった駅名が4文字に増えてしまった貴重な例となった

駅周辺は旧美並村の中心部で国道沿いに発展。旧村役場もすぐの場所にあった。駅名に美並の文字は必須だった。ちなみに平成の大合併で郡上市となるまで、美並村は村内に9つもの鉄道駅がある村だった

ヤマト運輸とのコラボ

ホームにはこのようなものがある。長良川鉄道では2018年からヤマト運輸とのコラボを行っている。関駅から荷物を載せ、ここ美並苅安まで列車とともに荷物も運搬して降ろされた荷物を周辺に配達する。バスも含め近年各地で広まっている貨客混載である。写真のものは荷物保管ボックス。車内で固定されるものだ

ホームにはこのような停止表示もある。1日1本の列車が対象となっているようだ

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72キロの長大盲腸線長良川鉄道を行く~雨中の個々パーツにあらためての感慨

※訪問は2025年10月5日

激しい雨の中

美濃白鳥ではやんでいた雨が北濃に到着した途端に激しくなってきた。だが雨宿りをしている余裕はない。「鉄オタ北濃駅ツアー一行」は、15分という与えられた時間をフルに活用すべく、各所にちらばって思い思いの行動をとるのである

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よくぞここまで

北濃駅といえば転車台だろう。登録有形文化財となっている

雨の中でも説明板を撮ったが、写りが悪いので2021年11月10日に訪問した時のものを掲載する。明治期に岐阜駅に設置されたものが、越美南線が当駅まで到達した1934年に移設されたものらしい

ついでにその時に撮った転車台の好天バージョンも

前述したように北濃駅は1934年の開業。前年に美濃白鳥まで到達した越美南線が6キロ延伸されてここまでやって来た。北濃とは当時の北濃村に基づく。美濃の北にあることで明治時代に名付けられた北濃村は1956年に白鳥町となり、平成の大合併で郡上市となった

全くもって鉄オタ的な観点だが、越美南線が美濃白鳥まででなく、ここ北濃まで到達した意義は大きい。美濃白鳥で終わっていれば、駅に行けば分かるが、それなりに大きな街が終着駅となったという、さもありなんの感覚で終わってしまっただろう。山中にポツンと置かれ、なおかつ唐突に線路が終わっているところに旅情を感じる。それは名松線の終点伊勢奥津駅でも感じることだし、山中ではないが、かつて日高本線の終点だった様似駅で降りた時も同じことを感じた

ただ、この区間が営業面の足かせとなっていることは事実で、2022年度の1日あたりの利用者数は29人。青春18などのJRのフリーきっぷはもちろん使用できないわけで、この後の記事でも紹介するが、ここまでやって来る人はかなり高価なフリーきっぶを利用する以外は実費で乗車するしかない。フリーきっぷの利用者は駅や鉄道利用者にはカウントされないことになっているが(カウントされれば芸備線の利用者数は全く異なるものになっているはず)、その意味では29人という数字は実態に近いものだとも言える。もっとも29人という数字は全38駅中で21位と、そう低くはないことが長良川鉄道の厳しさを表すものともなっている

細かい部分にも配慮が

レールの先を見る。ここから先に伸びるはずだった線路は唐突に終わっている。越美南線と越美北線は工期がかなりずれていて、越美南線が1934年に当地まで来たのに対し、越美北線の開業は戦後の1960年。結果的に終着駅となった九頭竜湖駅まで到達したのは1972年。だが南線も北線も工事すら行われることはなかった

この1970年代という時代、昭和40年代と置き換えてもいいが、国鉄の赤字路線が次々と姿を消す一方で、開業して採算がとれるのかという路線の工事が続けられた今にして思うと不思議な時代だった。乗車すれば分かるが、越美北線の末端区間は鉄建公団による連続トンネルでの直線区間となっている。それでも南線と北線を結ぶ工事が行われなかったのは、県境の人口の少ない部分と、それに伴う建設費、何より冬季の維持費が勘案されたからだろう

ホームから駅舎に入る際のお出迎え。ご覧の通り、本来ならもっと気になる看板よりも出迎えてくれたのは猛烈な雨だった

こちらは駅舎内部と改札口。もちろん無人駅

駅のデータもあって、なかなか技が細かい

駅前を長良川が流れる。長良川の源流まではもう間もなくの所だ。越美南線は長良川の源流方面に行くのではなく、地図をたどっていただければ分かるが、県道314号をなぞるように石徹白(いとしろ)へと向かい、県境を抜けることとなっていた。道路だけでも、かなりのクネクネ道。冬場の豪雪を鑑みた上で、ここに鉄路を通すのは、なかなか二の足を踏みそうだ

駅舎にはレストランが入居していて、こちらはバリバリの現役店。テレビなどでも取り上げられている

持ち時間の15分はあっという間。鉄オタツアー一行はそそくさと列車に戻る。私も乗り遅れないよう後につく。特徴ある終着駅は全国に数あるが、北濃駅の到達難易度はそう高くはない。また来たいと思わせてくれる駅である

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72キロの長大盲腸線長良川鉄道を行く~共通の目的地へ同業者ゾロゾロその名は北濃

※訪問は2025年10月5日

終着駅に降り立つ

美濃白鳥を8時半に出た列車はわずか10分で北濃に到着する

構造は1面2線の島式ホームだが、使用されているのは1面のみ

ホームに出ると線路は先に伸びているように見えるが

しっかり「終点」と告げられることになる

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これはいつか見た光景

さて、この朝の車内の光景は昨日見た光景とは異なるものだった。朝の8時半に美濃白鳥から列車に乗り込むとすでに十数人のお客さんが乗車していた。そしてその十数人は間違いなく全員が同業者(鉄道ファン)である。これは確信を持って言える。近年は冊子の時刻表ではなくスマホによる時刻表のチェックが主体になりつつあり、ローカル線で18きっぷの旅をしていても車内で冊子の時刻表を見ることも少なくなったため、同業者の判断がつきにくいが、この時は確信が持てた。カメラを手にする人が多い上に、薄着の人が多い。この列車は美濃太田を6時半ぐらいに出る。どこから来られたかは分からないが、準備していたセーターを着込んだ私とは明らかに異なる。そういえば前日の岐阜駅はすでに雨が降っていたがTシャツスタイルの人も見かけた。実は乗車列車は、15分間北濃駅にとどまって折り返していく。皆さん、15分間だけの滞在だと分かっているので薄着で十分なのだろう

この光景は少し前に名松線でも見かけた

3年前に年明けに名松線に乗車した時のことだ。終点の伊勢奥津で下車しようとしたら全員が18きっぱーだった。そんなことを思い出したが、当時の文章を読み返してみると名松線のタイトルが「永遠の未成線」となっていた。すっかり忘れていたが、まさに今乗車している長良川鉄道=越美南線も永遠未成線である

ただ長良川鉄道はもちろん18きっぷの対象ではないし、そもそも今はその季節でもない。ではなぜ同業者が集合してしまったのかというと、理由はおそらく減便である。10月18~19日にかけて訪問する予定を2週間前倒しにしたのは、18日から減便が実施されるためだということはすでに記したが、末端区間に行けば行くほど影響は大きい。減便後のダイヤには私が乗車した列車は日曜にはなく、美濃太田を8時12分に出る列車が「始発」となっている。しかも、この列車はわずか6分とどまっただけで折り返してしまうのだ。たなみに平日にはこの時の列車が残っているが、8時40分に北濃に到着すると、北濃からの列車は10時28分までない。その他、新ダイヤは何かと北濃駅訪問が不自由になっている。そのようなことを考慮すると、ダイヤ変更前に、となる心境は私もよく分かる

私は数年前に1度ここまでやって来たことがある。その時は越美北線と越美南線の関係はどんなものかと思い、マイカーでやって来て北濃駅から九頭竜湖駅までを車で走ってみた。来る時は東名高速→東海北陸自動車道で、帰りは北陸自動車道→東名高速。もちろん日帰りで車だとあっという間にグルリ1周できてしまうことがよく分かった。今回が2度目なので駅については再確認の意味合いが強いが、与えられた時間が15分であることは間違いない。同業者の皆さんとツアーに来たような格好になってしまったが15分を堪能することにしよう

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わずか6年で破綻した東京への通勤圏の都会路線~消えていない残り約10キロの延伸計画

※訪問した2025年1月16日時点の情報です

上野直通便もあり

京成千原線の運行態勢はちはら台から千葉中央、京成千葉を経て京成津田沼との折り返しで1時間に3本。千葉中央から始発の列車が1時間に3本入ってきて千葉中央からは10分に1本の運行となる。都内を目指すには、京成本線の駅である京成津田沼で成田方面からの特急と乗り換えることになるが、朝夕の通勤通学時間帯は、わずかではあるが、京成上野行きの直通列車も運行されている。もっとも普通に乗車したまま上野まで乗り通す人はいないだろう。1時間半もかかってしまうのだ。いるとすれば私を含めた同業者(鉄道ファン)というか、今この記事を読んでくださっている方ぐらいだろう

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先に伸びる線路

ちはら台駅から先は線路少し伸びている。まるで次の駅があるようで、未成線ならではの光景だ

京成千原線は前身の千葉急行電鉄が小湊鐵道の海士有木駅からちはら台を経て千葉中央を目指したものだった。途中駅は2つ計画されていた。辰巳台と国分寺台である。位置関係はこのようになっている

徒歩ルートにしたが、辰巳台は千原線の計画の初期段階ですでに開発が進んでいた団地で、国分寺台には市原市の市役所がある。辰巳台まではすでに用地は取得済みで、敷設工事がすぐにできそうになっているが凍結されたまま。それ以外は一部の用地は取得されたものの、すぐ工事着手とは言えない状況だ

踏切なし、最速110キロの重厚路線

千原線の工事を手がけたのは日本鉄道建設公団いわゆる鉄建公団である。1960年代から全国の鉄道建設を担った。簡単な表現をしてしまうと「頑丈」「高架」のイメージか。東北新幹線などの東日本の新幹線のほか、京葉線や湖西線も手がけた。地方路線も含めると枚挙にきりがなく、すでに廃線となった路線もある。鉄道ファン的には三江線の宇都井駅を含む最後に開業した区間が有名だ。国鉄のイメージが強いが私鉄も手がけている。近鉄のけいはんな線といえばイメージできる人も多いはず

千原線には踏切がない。線路は高架が中心で、駅も掘削か高架となっている。110キロの速度まで出すことが可能だ。片側ホームしか使用されていない駅を2駅紹介したが、路線内は単線運行ではあるものの、複線にするための用地は確保されていて車窓から確認できる。つまりはそれだけお金がかかっているということ

それゆえに運賃が高いということは以前の記事でも紹介したが、運賃計算も千原線のみ独特のものとなっている

こちらは千葉寺駅の運賃表。これだけではよく分からないかもしれないが、千葉中央までは千原線の運賃で、千葉中央を過ぎると急に高くなる。これは千葉急行電鉄から京成が事業を引き継いだ時に千葉急行電鉄の運賃をそのまま引き継ぎ、京成の他路線とは異なるものとしたため。別々の鉄道会社同士の相互乗り入れの場合、別会社に入った瞬間に運賃が急に高くなることがあるが、それと同じシステム。もちろん割引は適用されるが、同じ鉄道会社の同じ列車に乗っているうちに急に料金が高くなるのでは利用者も首をひねってしまうだろう

2029年まで残る計画

当初の計画では複線化も2000年をめどとするはずだったが、それすらも実現していない。バブル時代は遠距離通勤もひとつの形とされていて、少々遠くてもマイホームが持てるなら、と都内の会社までドアトゥードアで2時間近くかけても通勤する人は珍しくなかったが、現在はどちらかといえば都心回帰である。そもそも少子化で広い家を持つ必要もなくなり、予定地を含む沿線のニュータウン開発は目論見通り進まなかった。そのような現状では延伸はおろか複線化も無理ではないかと思ってしまうが、計画は今も「現役」である

2019年に京成電鉄は2029年までの工事申請の期限を延長。つまり今も事業としては継続していることになる

ニュータウンの中を先に向かっているように見える線路。全線開通にはあと約10キロ。予定の線路は約8キロ。途中に大きな山や川があったりするわけでなく、8キロぐらいなら現在の技術をもってすれば、あっという間に敷設できそうだが、近くて遠い8キロとなったまま30年が経過した

訪問難易度は極めて低いので、機会があれば、路線内の豪華施設だけでもぜひ眺めてほしい。そして私はまだ訪問したことのない難読駅の海士有木(あまありき)が気になってしょうがないのである

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大都会に残る未成線跡~南方貨物線最終項

名鉄常滑線。上に見えるのが新幹線で手前が南方貨物線

2022年11月10日12時

小学校の土地を売却→戻る

堀川を渡れば本日のゴールである道徳駅まではすぐ。そしてハイライトにもなります

新幹線の高架沿いに歩くと

橋脚が復活し

その下に小型の倉庫が並んでいます

レンタル倉庫として利用されています。ただし県道を渡ると、すぐに小学校があって橋脚の北側を迂回して歩く必要があります

こちらの明治小学校は南方貨物線の予定地に敷地の一部があり、建設に協力してその一部を売却したものの、未成線になったことで返却されたという経緯があります

空港連絡線構想?

橋脚に沿って歩くと名鉄の常滑線が見えてきました。この先で交差します。もうゴールは目前

さらに先に進むと

東海道新幹線、名鉄との交差部分となります。ここが散策のハイライトのひとつ。一見、3線が交わるところで、うちひとつが建設中のようにも見えますが、言うまでもなく手前の橋脚は未成線。そもそも見て分かる通り、架線がじゃまして、この高さでは進めません

1983年から84年にかけて名鉄は高架化されています。南方貨物線の工事が再中断(以降、工事が行われることはなかった)した直後。南方貨物線の施設の再利用については名鉄常滑線に合流させて中部国際空港(2004年開業)を目指す、という案もあったそうですが、1989年に新装なった金山総合駅が具体化した後です。名鉄にとって何のメリットもないので、あっさり却下されています

結局、南方貨物線の計画は貨物ターミナル駅が1980年に開業しただけで終わり、投入された400億円近いお金は全くムダになってしまいました

国道側から見ると、国道と名鉄の間の部分だけポツンと残されています。撤去工事を行うには名鉄の運行にも影響しそうです

ここから名鉄の駅は豊田本町も道徳も同じような距離ですが、6月は道徳駅までだったので今回も道徳駅をゴールとします

道徳に到着したのは12時40分。愛知県武道館を出たのが10時ちょうどだったので2時間40分の散策でした。この間、2度の休憩と1度の買い物タイムをはさんでいます

おすすめ散策路

堀川を渡ってからのコースです。実際は公園の中は突っ切って進んでいます

さて昨年11月に全路散策を終えてから今日まで記事にしなかったのは、その後の寒さを考慮したからです。今はちょうど良い季節です

未成線や廃線跡の探索というのは基本的に進み始めたらゴールまで行くか、引き返すかの二択となりますが、南方貨物線についてはJRの笠寺から、あおなみ線の中島駅の間に名鉄、地下鉄の駅があるほか、バス路線もあり、途中離脱が可能。道中に飲食店やコンビニの店舗や公園もあり、お手洗いも含めて休憩ポイントも多い。大都会とはいえ、ここまでの「至れり尽くせり」は他になかなか例がありません

休憩もなく迷うこともなければ、おそらく全行程は徒歩3時間ちょっとだと思われますが、多少迷ったり、食事を含めた休憩を行うのも、ある意味楽しいものです。もちろん、前述した公共交通機関を利用して、ほんの一部だけを見るのも可能。昭和の国鉄時代の遺構がこれだけしっかり残っているのも珍しいことなので、鉄道貨物の栄枯盛衰を感じながら、春の陽気とともにぜひ訪れてほしい場所です

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大都会に残る未成線跡~南方貨物線その9

下部が利用されている部分は南方貨物線の橋脚が残る

11月10日11時45分

またもや川の壁

橋脚再発見で快調な歩み

これは振り返りなのですが、その先は

またもや川で向こう側に行けません。目の前にあるのは堀川。その名の通り、川沿いに北上していくと熱田神宮、大須観音の西側を通って名古屋の中心街へと向かい、納屋橋、錦橋を経て名古屋城のお堀へと至ります。中川運河とは違って庄内川とつながっていますが、都市部分から下流にかけての水質汚染は問題となっています

とにかく渡らないとどうしようもない

迂回して渡る

新幹線が走ります。こうして東海道新幹線沿いを歩いていると、本当に「ひっきりなし」に新幹線が運行されていることが実感できる。正午ごろでこうなのですから、本数の多い朝はもっとすごいのでしょう

血税投入ゆえに

国鉄からJRに管理者が変わる際、ほぼ完成しているこの施設をどうするかの議論になりました。建設は国鉄で国の予算をもらって工事をしている。資金はいわゆる「血税」で、400億円近いお金が投入されています。貨物需要がなくなったからといって放棄します、とは簡単にいかない

有力な選択肢のひとつとして当然、旅客化もありました。貨物線の活用は東京ではうまくいっています。お休み中の線路を生かして東京駅から羽田空港まで直通できる新線の工事も始まっています

大阪では新大阪から分岐して大阪駅を避け、環状線の福島駅で合流する貨物線が「くろしお」や「はるか」の特急運行に利用され、この3月からは地下の新線が建設されて大阪駅近く(駅名は大阪)を通る発展を遂げました

ただそれは現在の状況を見るから言えるのであって、埼京線が山手貨物線を利用して新宿まで到達したのは1986年で成田エクスプレスは91年。JR移管は87年ですから、南方貨物線の議論は、東京でもようやく貨物線利用が開始されたころだったのです

南方貨物線の目的がそうだったように、そもそも貨物線というのは都心の駅を避けるように造られています。池袋、新宿、渋谷と東京駅とは離れた貨物線が走る位置にも大きな流動があるのは東京という巨大都市だからであって、他都市ではなかなかそうはいかない

先日、国鉄色の103系が最終ランで多くの鉄道ファンが訪れた神戸の和田岬線も、その先には港に向けて広大な貨物線が敷かれていました。東側の港には神戸臨港線があり神戸駅の南側を出て三ノ宮のすぐ東側の灘駅~六甲道駅間で東海道本線と合流していましたが、三ノ宮を避ける形になっていたため電化もされていたものの阪神・淡路大震災後に廃線となっています。臨海部の貨物線で生き残ったは旅客利用から始まり、旅客線となった和田岬線だけでした

今回、未成線沿いに歩いていくと多くの住宅街やマンションがありましたが、まだまだ工場と倉庫中心の街並みで、名古屋駅を避ける形の運行では採算がとれない、と旅客化も断念。未成線化が決定しました

迂回して対岸までやってきました

奥は新幹線。再び遺構を利用した構造物が姿を見せます

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大都会に残る未成線跡~南方貨物線その8

南方貨物線の橋脚

2022年11月10日11時

見失ってお買い物

名古屋高速を越えて振り返ると、このあたりの建物が橋脚の幅でできていることがよく分かります

普通に住宅が建てられていますが、幅がずっとそろっています

しかしその先で痕跡らしいものを見失ってしまう。前を新幹線がバリバリと通過していきます

新幹線のところで公園は終わっています。ちょっと困ってしまいましたが、南方貨物線は笠寺から新幹線に沿って建設され、途中で新幹線から別れて、あおなみ線に向かって進んでいったはず。となると、どこかこのあたりに分岐点があったのでしょう。とにかく新幹線沿いに進んでいこう。中島駅側から進んできて初めて新幹線と出会いました。となるとゴールは見えてきたかもしれません

新幹線と近づいたり離れたりしながらウロウロしていると西友ストアがありました。歩いているうちにちょっと事情ができて百均とかないかな、と思っていたのでちょうど良かった。こちらでお買い物。先ほどもスーパーを見ましたが、未成線跡や廃線跡でスーパーというのは、そう多くはありません

新幹線の分岐線?

このあたりは、ここまで見てきた住宅街とは異なり、少し古めの建物も目につきます。それはそれで不安になるのですが、とにかく新幹線を見失わないよう歩いていくと

これは?という建物が見えてきました

こんな風に歩いてきました。大通りの向こうには

新幹線に沿って「いかにも」の形の住宅があります。これは橋脚跡にできたものでしょう。先ほどの建物の向かいですから

大通りを渡ると、その向こうの建物は、もう確定的

その背後に見えてきました。このころは橋脚を見ると本当に安心してしまうようになっていました(笑)

ここも貨物車置き場となっています

こうして見ると新幹線の分岐線でも建設しているのか?と思ってしまいますね

ただこのように2本の線路が並ぶ、というのは1970年代前半の環境問題がクローズアップされた時代では、なかなか受け入れられなかったのかもしれません

幻の新幹線深夜運転計画

国鉄では山陽新幹線が全通した際は新幹線の深夜運行を計画していました。まだまだ寝台列車華やかなころですが、深夜から早朝にかけて新幹線の運転を取りやめるのではなく、深夜は数十キロと大幅に速度を落として博多を目指すというもの。高速で走る新幹線は日々の保守作業が欠かせないのですが、深夜に限っては単線運行とし、空いている線路を点検に充てるというアイデアで、実際その計画に沿って建設されたとされるのが兵庫県の4駅です

開業時から当時の新幹線としては短い区間に新神戸、西明石、姫路、相生と4駅も設けられました。深夜の単線運転なので待避線はできるだけあった方がいい。新神戸が地形上、2面2線でしか建設できなかったことも影響しました。距離や都市の規模を考えると神戸、姫路の2駅でよさそうなものですが2駅を追加。さらに言うと姫路は新幹線の駅としては他にあまりない乗車ホーム部分が2面3線構造となっているのも、そのなごりです

なぜ兵庫県に退避場所が多く設けられたかというと、当時は遠い将来の四国新幹線や中国新幹線の計画も視野に入っていたため。新大阪~岡山間には多くの列車が集中することを見越し待避できる駅を増やしました。姫路については何かトラブルがあった際に列車を留置する場所が必要だ、ということで単なる通過線ではなくホーム部分をひとつ追加する形にしました

もっとも、計画は新幹線以外でも空港や道路の騒音問題、反対運動の盛り上がりや高度経済成長の終焉によって消え去り、現在に至ります。名古屋地区の話ではありますが、新幹線全体に与えた影響は大きかったわけです

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