きっぷ

永遠の未成線・名松線を全駅訪問~徒歩で迷い大ピンチ

権現前駅の駅名標

2023年3月15日

伊勢八知9時49分→上ノ庄10時54分

伊勢八知から一気に松阪のひとつ手前となる上ノ庄まで戻ります。途中、例によって家城で長めの停車があるため、約30キロを1時間近い乗車

すっかり平野部。その中にホームと待合所のみの駅がポツンとある。松阪から家城までの各駅はほとんど、そんな感じです

こうして改めて地図を見ると、松阪からしばらくは近鉄とほぼ並行して線路が走っていることが分かります。徒歩3分ほどの一志と川合高岡の乗り換え以外は、すぐに徒歩で行ける距離ではありませんが、それでも近鉄とJRの各駅はいずれも徒歩30分ほどで行き来できる距離感です。もっとも利用人員も列車本数も競合というレベルには達しておらず、野球だと「コールドゲーム」のような状態

上ノ庄駅の駅名標

ホームと逆側を県道が走っています。駅には県道から踏切を渡った小径から入る。名松線で唯一の「戦後生まれ」の駅で1960年開業。つまり最も新しい駅で、今後もずっと、その立場は変わらないはず

この駅のポイントは県道を渡った至近にコンビニのミニストップがあること。松阪から1駅というのが、どうかという感じですが、ホームから見えるのは当駅だけ(伊勢八知駅のコンビニは車窓から分かる)

飛び出し注意でコンビニに向かう。松阪から1駅といっても、私は7時から活動開始しているので11時前と良い時間。ありがたい存在でした

伊勢八知11時→徒歩→権現前11時35分

ということで、お隣の権現前駅までは再び徒歩(泣)。この後もまた徒歩が出ますが、こればっかりはどうしようもありません。松阪~家城間は名松線の駅と駅を結ぶバスというのが、ほとんどなく、ここは徒歩しかないのです

ということで県道をトボトボ歩きます。最初の比津駅付近とは異なり、こちらは交通量は多い。そしてほぼ平坦道路。名松線というと秘境の山中を走る路線というイメージの方が多いのですが、それは家城~伊勢奥津間のこと。松阪から家城までは住宅街と農地が続く平野部を走ります

上ノ庄と権現前は列車で2・8キロ。そして道路も2・8キロ。ほぼ並行しているので同距離となります。次の権現前発伊勢奥津行きは11時43分。おそらくいい感じで間に合うはず。ただ上ノ庄と同じく駅の入口は県道には面していないため、どこかで線路を渡る必要があります

それでもこのあたりはずっと住宅地が続いている場所。どこかの踏切を適当に渡れば駅に連れていってくれるだろうと携帯アプリにも頼らず進んでいくと、早めに渡りすぎたようで線路沿いの道が消えて焦る

途中、古典的な広告看板を見たり

寺社の参拝道のような所を通りますが、見とれている暇はない

何とか駅の入口に到達したのは自分の予測時間をはるかにオーバーしてからでした。ここで逃すと2時間待ちになってしまうので冷や汗でした

歴史を感じるそそる駅名

権現前駅も単式ホームと待合所のみの駅ですが、上ノ庄駅とは少し趣を異にしていて、1929年に松阪から線路が伸びてきた時、半年ほどは終着駅だったこと。そのためかつてはすれ違い可能だった面影が残ります

ホームの裏側には広い空き地。柵で入れませんが貨物を取り扱っていた跡のようにも思えます。ローマ字表記は「gongemmae」なんですね

「権現前」という、妙にそそる駅名は近くにある須加神社に基づくもの。駅の住所は松阪市嬉野権現前町。2005年まであった旧嬉野町の町役場も神社近くですが、町の中心駅というと少し離れてはいますが、近鉄特急も停車する伊勢中川になるようです

とにかく間に合ったので、再び伊勢中川方面へと向かいます

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永遠の未成線・名松線を全駅訪問~昭和、平成と廃線危機乗り越え

伊勢八知駅の駅名標

2023年3月15日

比津9時→徒歩→伊勢八知9時35分

朝の気温は10度ぐらいで晴天、無風と徒歩には絶好の天候となったことが、この日最大の幸運でした

私の見立てでは下り坂を40分もかからず伊勢八知駅に到達できて9時49分発の松阪行きに乗り込めるはずですが、ちょっと道に迷うと大変なので急ぎ足

鳥のさえずりが聞こえます。そしてもっと暖かくなると、いろいろな動物に会えるのでしょうが(会いたい会いたくないは別として)、頭上でガサゴソと音がするので身構えたら親子と思われるシカが山の崖に沿って歩いている。器用に歩くなぁ、と感心しながら歩を進めていきます

それでも30分近く歩くと人里に突入。ゴールは近いようです。ホッとする瞬間です

グーグル地図で徒歩を選ぶと国道を迂回する3時間超コースが出てくるので車コースで表示します。おそらくそう広い道路ではないので歩くと危険という判断なのかもしれませんが、平日の朝9時という活動的な時間にもかかわらず、車にはほとんど出会いませんでした

赤字83線と特定地方交通線で唯一の存在

国鉄全盛期と言われた昭和む30年代から10年近くが経ち、国鉄は赤字のローカル線の廃止を検討し始めます。全国に鉄道網を広げることで拡大されていった国鉄において「廃線」という言葉は、ある意味タブーでしたが、極端に赤字となっている盲腸線が対象となった「赤字83線」が発表されたのは1968年(昭43)。その中に名松線も含まれていました。理由は「使命を終えた」。先に近鉄が名張を経て大阪までの路線を開設したので、もう要らないということです

この83線は一気に廃線となったわけではなく、地元からの反対もあって廃線となったのは10路線ほど。ほとんどが10キロほどのミニ路線でした。83線の中には今もJRとして存続している路線がいくつもあります

そもそもこの83線指定には矛盾も含まれていて、赤字83線を発表する一方で、開業してもおそらく赤字だろう、という路線の工事が進められていたことも事実

その後、国鉄は巨額の赤字が社会問題化して、さらに強烈な「特定地方交通線」を指定します。1980年(昭55)の国鉄再建法が成立したことによるもので、ここから国鉄民営化の前後までに全国で多くの国鉄線が廃線または三セク転換となりました

83線では廃線を免れた名松線ですが、特定地方交通線の対象にもなりました。しかし「沿線の道路整備が不十分」ということで対象から外れました。このころテレビのニュースでは何かと名松線が取り上げられていました。赤字83線と特定地方交通線の両方で指名を受けながら、現在もJR路線として存続しているのは名松線のみ

そして2009年の台風被害。家城~伊勢奥津間が6年以上も運休することになりましたが、こちらは地元の努力で2016年に復旧。現在に至ります

もっとも私が快適に歩いてきたように現在は道路ができています

旧美杉村の中心駅

大きな集落に出ると、コンビニもあって、すぐ伊勢八知駅

大変立派な駅舎は1988年(昭63)に改築されたもの。左側が研修施設で右側が駅。現在は津市ですが、当時は美杉村の中心駅。美杉村の特産品である美杉杉で造られています。近くには旧村役場(現在は津市美杉庁舎)

こちらが研修施設の玄関

美杉村の機能がほぼ、駅付近に集約されています

駅舎の入口には、これもまた美杉杉の立派な駅名板

簡易委託駅で、窓口では主に近距離のきっぷを販売しているようです。名松線の各駅できっぷ販売をしているのは松阪を除くと家城、伊勢八知のみで貴重な存在

私を終日悩ませる2時間おきのダイヤ

ホームは1面1線。右側の部分にもうひとつホームがあって交換可能駅だった跡が残っています。左側には貨物ヤードの跡地もあります。かつては木材運搬でもにぎわっていたのでしょう

駅で困ったのは自販機がないこと。30分以上歩き、駅にはお手洗いもあることから、安心して缶コーヒーでも、と思ったのですが見当たらず。コンビニの前を通り過ぎてきたのですが、戻る時間はない。そんな人がいるかどうか分かりませんが、比津から歩いてくる場合はコンビニでの買い物を強く推奨します

松阪行きがやってきました。私の他に利用者は一人。乗り込んで次の駅を目指します

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永遠の未成線・名松線を全駅訪問~いきなりの山中徒歩

比津駅の駅名標

2023年3月15日

家城8時25分→比津8時44分

松阪から家城までは平地部分を走っていた名松線は家城から車窓が一転、山中の路線となります。ここからの車窓だけで見どころ十分と言えるかもしれない

約20分で比津に到着。終点・伊勢奥津のひとつ手前の駅

すっかり山中。これは日本全国の駅に言えることなのでしょうが、今回の名松線は、もう少し後に来ていたら桜がきれいだったんだろうなぁ、という駅が多かった

比津駅も多分に漏れませんが、この駅は少し角度を変えると別の眺望がありました

詳しいことは分かりませんが、この時期に花をつけるもののよう。列車を構図に入れ込んだ写真なら、もっと美しいのでしょうが、乗ってきた列車はここまで私が来る間に去ってしまうし、今から乗車する列車では間に合わない

こちら「駅前通り」。細い道が駅につながっています

駅周辺は小さな集落となっています。駅の開設は伊勢奥津まで線路が延びたのと同時期の1935年。戦前からの歴史を持ちます

実際に降りてみて大きな勘違いをしていたことに気付きました。名松線は過去3回ほど乗車して、もちろん比津駅も通っていますが、ずっと「いい駅舎があるなぁ」と思っていました。そうではなくポツンとある感じの民家でした。誠に失礼。比津は単式ホームと待合所のみの駅です

ここからお隣の伊勢八知駅に向かうわけですが、いきなり

徒歩となりました(泣)

あらゆる手段を考慮した結果

黙々と歩きます

名松線の各駅訪問を行うにあたり、いろいろな手段を考えました。最初の手段はコミュニティーバス。山深い部分にも走っていて、私が利用しようとしたのは月・水・金の週3本運行のバス。週末利用の青空フリーパスではなく青春18きっぷにした理由はそれなんですが、ダイヤを見ると、なかなか微妙なのです。これから向かう伊勢八知駅は旧美杉村の中心駅で当地に向かうコミュニティーバスももちろんあるのですが、バスの時刻はうまく名松線に合わされていて、例えば今回乗車する時間だと伊勢八知駅着は列車の発車3分前とか。渋滞などないので時間通りに到着するのですが、これだと駅舎の写真のみを撮影して終わり、ということになってしまう。ですから利用はちょっと難しい

次に考えたのはレンタサイクルです。伊勢奥津、伊勢八知、家城に自転車貸し出しがあるようで、ポイントが高いのは「乗り捨てOK」なこと。実際は利用していなくてHPを見ただけですが、伊勢奥津で借りた自転車は普通、伊勢奥津が返すところを家城で返しても大丈夫な制度のようです

これはなかなか魅力的で地形的に伊勢奥津から家城にかけては、基本的には下り坂なので、伊勢奥津で借りれば、家城まで20キロほどですが、天候にさえ恵まれれば楽しいサイクリング日和にもなりそうです

しかし考えた末、こちらも却下。これだとマイカーやレンタカーで回るのと、ほとんど変わらないから。やはり現役の駅なのですから、少なくとも乗車や下車のどちらかは利用したいものです。閑散区間では徒歩で訪れ、バスで去るという手段も何回か使っていますが、3駅や4駅続けて乗降なし、というのは北海道以外では過去なく、しかも自宅から2時間もあれば来られるこの地で行うのは、ちょっと筋が違うな、と考えました

その結論が徒歩。伊勢八知まで線路だと3・1キロ。おそらく40分ほどで歩けて伊勢奥津から折り返してくる列車を捕まえられるはずです

渓谷沿いを歩いていきます。予想通り、ずっと下り坂。車はほとんどやって来ません。夜だととてもじゃないけど歩けない。景色にほんの少しだけ癒やされながら歩を進めていきます

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永遠の未成線・名松線を全駅訪問~見どころだらけの家城駅

家城駅の駅名標

2023年3月15日

松阪7時32分→家城8時11分

松阪からの始発は家城行き。ただし家城で伊勢奥津行きに連絡するので実質的には伊勢奥津行きのようなものです

家城に到着(写真は1月8日のもの)。名松線の運行の要です

5年前の夏の甲子園に春夏通して初出場を果たした三重県立白山高校の最寄りとあって、この時間は多くの高校生でにぎわいます。沿線にある高校は基本的にこちらだけ。家城は運行の要だけでなく通学駅としても貴重な存在

列車発着時に窓口の閉まる全線きっぷうりば

旧白山町の町役場最寄り駅は、お隣の関ノ宮駅ですが、戦国時代は家城城があり、駅の周辺は実質的な中心地

名松線はほとんどが待合所のみの駅ですが、当駅は立派な駅舎が健在で松阪を除くと唯一の駅員さんがいる駅。JR東海のみどりの窓口である、全線きっぷうりばもあります

おそらく開業時の1931年来と思われる駅舎が健在で、沿線の写真も展示されています

ただユニークなのは1日上下合わせて列車の発着は十数本しかないにもかかわらず、到着時と発車時は閉鎖されること。私が到着したのは、もちろん列車の到着直後なので窓口は閉鎖されていました

これはどういうことかというと、当駅が名松線で唯一列車交換(すれ違い)できる駅(松阪を除く)だから。名松線の家城~伊勢奥津は現在もスタフ通票による閉塞方式が採用されています。これはJR東海では唯一の存在で、JR全体でも越美北線の越前大野~九頭竜湖とこちらの2カ所しか残っていません

唯一の交換駅でスタフ閉塞が採用されているため、列車の到着時と発車時は駅員さんは、大忙しで基本的らずっとホームにいるため窓口は必然的に閉鎖される。この駅には何度も来ていますが、当然のことながら、私は窓口が開いているところを見たことがない。ある意味、幻の光景

「遮断機」も手動

ホーム間と駅舎への行き来は構内踏切。列車の到着時と出発時はブザーが鳴りますが、それ以外にも「遮断機」があります

遮断機はチェーンブロックで出発間際に駅員さんが渡し

列車が過ぎ去るとチェーンを外すという手作業。なかなか他には見られません

ぜひ一度、見てほしい光景です。家城では必ず列車交換が行われ、通票の手渡しもあるため、長時間停車となるので、名松線に乗車さえすれば確実に見られますよ

ただ、家城のみでの列車交換というシステムが全駅訪問の難易度を高めています

家城発伊勢奥津行きに乗って、目指すのは比津駅となります

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永遠の未成線・名松線を全駅訪問~独特のダイヤに苦戦必至

家城駅では必ず列車交換がある

2013年3月15日7時15分

青春18きっぷでの全駅訪問に向け松阪泊

朝の松阪駅。今や全国でも貴重な存在となった「JRと大手私鉄の中間改札のない共同駅」。三重県には津、松阪、伊勢市がまだ残っています。立派なJR側と比べ、かわいい近鉄側の駅舎。ただ列車の本数と利用客は近鉄が圧倒しているあたりがおもしろい

本日は名松線の全駅訪問を達成するため、松阪からスタート。前日、名古屋で用事があったので、松阪まで移動して宿泊しました。水曜日の朝7時過ぎなので、駅はにぎわっています

手には青春18きっぷ。名松線はJR東海が週末に販売している青空フリーパスのエリアでもあるのですが、水曜日ということに価値があるため、青春18きっぷの使用となりました

昨秋から2度にわたり、沿線を訪れています

昨秋は名松線と近鉄大阪線の乗り換えをどうしてもやってみたくなり、一志駅→川合高岡で乗り継ぎ体験。寝過ごすてしまって、一足先の伊勢八太駅から川合高岡まで歩くという余話までついてしまいました

もう1回は年明け早々で、この時は終点の伊勢奥津まで行って前回、乗降のなかった一志駅で下車。再び川合高岡から近鉄に乗車しました

年明け1月8日のことです

この時は廃駅の池の浦シーサイドを訪問した翌日でした。伊勢奥津には過去何度か訪れていて、台風による被害で2009年から2016年まで家城~伊勢奥津間が長期運休する前にも足を運んでいます

伊勢奥津といえば、この給水塔ですね

名松線とは

名松線は松阪と伊勢奥津の43・5キロを結ぶローカル線です

松阪を出るとしばらく近鉄と併走。その後、山中へと入っていきます。名松線の「松」は松阪ですが、「名」は名張です。名張といえば近鉄大阪線の駅で、三重県と奈良県の県境付近の都市。元々はこちらを目指していたため、名松線と名付けられたものの、1935年に線路が伊勢奥津に到達した時点で工事は中断。現在に至ります

なぜ工事が中断したかというと近鉄(当時は参宮急行電鉄)が先に松阪からの線路を敷設したため。名松線は計画段階では「桜松線」。名張を経て奈良県の桜井までつなげる計画でしたが、その桜井までも近鉄によって敷設されたため、工事をする意味がなくなってしまいました

地図を見ると、名張へ向けては近鉄の線路が真っ直ぐ進んでいるのに対し、名松線は随分と山中へと入っています。地図だけ見ると、こんな調子で名張までたどり着くのかと思ってしまいますが、これには現在の津市と伊賀市の間にある青山峠の存在が大きい。分水嶺があるような峠を避けて名張に向かった国鉄に対し、近鉄は長大トンネルを完成させることで名張に到達。このまま名松線の延伸工事をしても近鉄の方が圧倒的に有利になることは分かっていたため、伊勢奥津から先は工事すら行われていません。つまり名張の名前は残されているものの「永遠の未成線」となったわけです

ラッシュ時のないダイヤ

全駅訪問を決めたのは、1月に車窓を見てから。特に家城~伊勢奥津の車窓には強くひかれるものがありました

ただダイヤがなかなか難関で

これは松阪から1駅目の上ノ庄の時刻表ですが、上りも下りもほぼ2時間おきの運行となっていることが分かります。1日に8往復あるダイヤで、こういう均等パターンは珍しい。同じ8往復でも朝の通勤通学時間帯に本数を増やして、お昼は休みというのが多くの形。早朝のまだ暗いうちから宿を出て駅巡りをするのは、比較的本数の多い朝の時間帯を狙ってのもので、このダイヤはちょっと困ってしまう。しかも松阪からの始発が7時32分と結構遅い

時刻表を眺めて困ってしまいましたが、とりあえずは作戦を考えて始発で出発です

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25年ぶりの下灘駅

下灘駅の駅名標

2023年5月12日11時30分

九州から四国へはフェリーで

11日の朝、九州とはお別れ。別府港からフェリーで愛媛県の八幡浜港に渡りました。別府港は別府駅から歩いて行けないこともありませんが、徒歩だと30分ほどかかります

バスが便利。路線には大学があるようで本数も多い。困ることはありません。バスの乗車は9時前で、ちょうど学校の時間だったようで、車内は国際色豊かでした

離れていく別府の街とお別れ。愛媛県と大分県には複数の航路がありますが、アクセスや利便性を考えると、このコースが分かりやすいと思います。初夏の季節は甲板への風が心地よかった。1年のうちにわずかしか味わえない感覚です

金曜のお昼すぎにもかかわらず

八幡浜からは「瀬戸大橋線開業35周年記念 帰ってきた 四国満喫きっぷ」を利用します。5月19日に既に販売が終わっているので簡単に説明すると、JR四国の3日間が特急自由席を含め乗り放題というすぐれもの。この日は松山に宿泊。12日の午前中は駅巡りを行い、お昼前に下灘駅に行くことにしました

時刻は11時半すぎ。金曜日のお昼前だというのに、下灘に向かう列車には、すでにこれだけの人が並んでいました

来秋に高架駅へと生まれ変わる松山駅。2面3線ですが、ひとつのホームを縦に使い分けるユニークな構造となっています。こちらの跨線橋も、あと1年ちょっとです

下灘駅の思い出

乗り込みが始まっていました。JR四国ではおなじみ、超ロングシートの1両編成、キハ54。座席は何とか確保

私は96年2月から98年6月まで四国で働いていました。生活拠点は高松でしたが、四国全体を受け持っていたので、各地を訪れています。鉄道利用も自動車移動もありましたが、「難敵」のひとつが宇和島で、当時は高速道路が伊予市までしかなく、そこから宇和島までの90キロを国道で走るのは、なかなか厳しい道程で、特に大型トラックに囲まれながら走る宇和島手前の法華津峠は正直、二度と走りたくありません。基本的には現在も同行程の特急「宇和海」を利用いるのが楽なのですが、宇和島から、さらに他に移動する時などは車利用しかありません。国道で行くと鉄道と同じ内子線に沿った56号が基本コースですが、たまには気分を変えて海を眺めようと海沿いの378号を行く時もあり、その時によく立ち寄ったのが下灘駅。後述しますが、当時はこの区間を走る予讃線はすでに幹線としての機能を失っていて誰もいない駅で、休憩がてら、ぼんやり海を眺めていました

最後に訪れたのは98年の6月で、既に離任が決まっていたため、いつものようにボーッと海を見ていました。その後、こんなににぎわうなんて想像すらできません

多くの人でにぎわう

下灘到着は12時30分

こんなに人がいます。青春18きっぷのシーズンの週末は一体どのぐらい来るのでしょう。列車だけではなく、車で訪れる人ももちろん多い。中にはタクシーを待たせっぱなしの剛の者も

皆さん、競ってこの写真を撮っているので「例の写真」を撮るタイミングが大変

おなじみの駅舎の写真

こちらもおなじみですね

駅舎内は記念館のようになっています。もちろん無人駅ですが、多客が予想される時は応援の駅員さんがやって来るようです

お手洗いはあります

ホーローはブームになってからのものです

下灘駅へのアクセス

時刻表が、いろいろな情報を雄弁に語っています

路線図が描かれていますが、予讃線は松山から来ると向井原で分岐して伊予大洲で合流するのですが、元々は青く描かれているコースが本線で伊予大洲~内子は内子線という盲腸線でした(当時の分岐駅は五郎)

それが国鉄からJR四国への手向けの工事で民営化前年の1986年に向井原~内子の新線が完成。優等列車はオレンジの短絡線経由となり、青のコースはすっかりローカル線となってしまいました

ですから「伊予長浜経由」の列車に乗車する必要があります。松山から向かうケースが多いでしょうが、これは何度も繰り返しアナウンスがあるので間違うことはないと思われますが、本数は限られていてチャンスは1日に5回ほど。時刻表で見ると分かりやすいのですが、私がやって来た12時30分の列車だと13時1分で松山に戻る形になり、滞在時間を1時間程度までと考えると

6時59分着→7時35分発

7時50分着→8時48分発

12時30分着→13時1分発

16時38分着→17時49分発

18時37分着→19時38分発

となります

なかなか考えられたダイヤの注意点

本数はわずかですが、これはなかなか考えられたダイヤで、下灘駅の「売り」は何と言っても夕陽ですから、夕方以降の2本でカバーできるようになっています。ちなみにこの記事を書いている時点で愛媛県伊予市の日没時間は19時24分

ひとつ留意しなければならないのは、一部の列車が伊予市発着となっている点で、16時38分着は伊予市始発、7時35分発と13時1分発は伊予市終着となっていますが、いずれも伊予市での接続が考慮されています

また伊予市駅というのは、なかなか「使える駅」で駅の向かいに伊予鉄道の「郡中港(ぐんちゅうこう)駅」があり、ここから松山の中心部である松山市駅へ15分に1本という高頻度で電車が出ています。JRの松山駅は街の外れにあるため、華やかな松山の中心部へは(もちろん中心部からも)当駅利用がおすすめ

ちょっとしたみどころ

かつて下灘駅の真下は断崖の海でした。国道ができたのは30年ほど前のことで、それまでは波が打ち寄せる駅でした。駅前の細い道路がかつてのメインルートで、鉄道の優位性があったことが分かります。そのかすかな痕跡が伊予大洲方面へ少し歩いたところにあります

この道路を経て伊予市中心部へ向かう車はほとんどないと思いますが、わずかに残る名残です

一瞬のスキをついて、ようやくこの写真が撮れました

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九州のフリーきっぷ~思わぬ結果が待っていた

宮崎神宮駅を出発

2つのフリーきっぷ比較

宗太郎駅やリニア実験線訪問で紹介している通り、5月8日から3日間、九州に行ってきました。正確には10日夜は別府に宿泊して3泊4日の行程ですが11日は別府港からフェリーで四国に渡ったため、実質は3日間。その間はフリーきっぷのお世話になります

利用で二択となったのは

旅名人の九州満喫きっぷ

ぐるっと九州きっぷ

どちらも3日間(旅名人-は3回)の利用で通年発売ですが料金や中身は異なります。まず「旅名人-」ですが、料金は1万1000円。いわばJR九州の青春18きっぷでJR九州の普通や快速が乗り放題。ただし新幹線や特急券には乗車には乗れません

こちらの大きな特色は路面電車や地下鉄も含め、九州のほぼすべての鉄道に乗車できること。どちらかというとJRだけでない利用に向いていて、昨年6月はJRはもちろん、松浦鉄道、島原鉄道、甘木鉄道、西鉄を利用。大いに元をとりました

もうひとつの「ぐるっと-」は1万4300円

少々値段は高くなりますが、新幹線や特急に乗車する場合も運賃は有効で、特急券を別に買えば乗車できます

写真があるのですから、今回はこちらを利用したわけですが、ちょっと悩んだのも事実。旅程は日豊本線の別府~都城の間にほぼ限られていて、この区間の運賃は5280円。言い方は悪いですが安すぎます。まぁ、降り鉄の行動として行ったり来たりを繰り返すので、何とか料金的には大丈夫だろうと予測。そして、もうひとつの大きな理由は宗太郎越えです。宗太郎~延岡間は早朝と20時台の1・5往復しか普通の運行がなく、宗太郎に行くのが目的のひとつですから、佐伯~延岡は必然的に特急利用となります

佐伯~延岡は運賃1130円、特急料金1000円で計2230円。この間を往復することになるので4460円が必要です。となると「旅名人-」で必要なのは1万1000円+4460円で1万5460円。「ぐるっと-」だと1万4300円+2000円で1万6300円となります。もっとも、これは他に特急利用しなかった場合の話で、出発時点ではもう少し特急に乗車する予定でしたので「ぐるっと-」の購入となりました

なお、こちらのきっぷには重要な注意点があり「ネット購入だと1万4300円、窓口購入だと1万5800円」と1500円も値段が違うこと。当日予約でも購入できますので、こちらはぜひ留意してください。現に私は大分空港へと出発する大阪空港での搭乗前に予約、購入しました

それでは実際の経路をたどりながら、普通運賃を支払った場合と比較します。往路は大分~都城、帰路は都城~別府を購入した上で途中下車する形になります。また戻る場合は途中下車駅からの往復または下車した駅同士の運賃が必要となります。経路上の途中下車だけで済んだ駅については運賃計算の対象から外しています

1日目

宿泊地・延岡

大分~都城 4840円

熊崎~下ノ江 往復210×2=420円

浅海井~日代 往復210×2=420円

計5680円(他に佐伯~延岡の特急券1000円)

2日目

宿泊地・宮崎

延岡~宗太郎 往復570×2=1140円

都城~別府 5280円

南宮崎~田吉 往復170×2=340円

計6760円

3日目

日向住吉~宮崎神宮 往復230×2=460円

東都農~高鍋 380円

高鍋~都農  280円

都農~東都農 210円

計1330円(他に延岡~佐伯の特急券1000円)

結果にがく然

ということで3日間の運賃は

1万3770円で560円の赤字

となりました。旅をしながら「少ししかプラスにならなかったかな」と思っていたのですが、まさかの回収できずとは。計算してみてビックリしました。長年、鉄道を利用していますが、この手のきっぷで赤字になった記憶はありません。行ったり戻ったりを繰り返せば運賃というのは、かさばるもので3年前の春にコロナ禍で青春18きっぷの権利を2回残して放棄した時も元はとっていたはず。負け惜しみですが、いちいち細かく運賃を払っていては小銭入れが重たくなって仕方ないので、その面倒がなくなったことでプラス思考に…と無理やり考えることにします(笑)

リニア実験線の南端にどうしても行きたくなり、もっと遠くまで特急に乗ることになっていた旅程を急きょ変更したこともありますが、がく然としています。まぁ上陸した四国で「帰ってきた四国満喫きっぷ」(3日間で特急乗り放題の1万500円)で大いに回収しているので旅全体としては大幅プラスですが、異なる会社で回収するのも複雑な心境です

考えてみれば「ぐるっと九州きっぷ」でありながら、全くぐるっとしていないのですから、このような結果もありかも。この記事を読んでいただいている皆さんも、旅程を組む際は、参考にしていただければと思います

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夢の原点、リニア実験線を訪ねる(終)

田んぼの向こうにリニア実験線の南端が見える

※動画音声注意

2023年5月10日10時20分

「最寄り駅」からの距離は?

都農駅に到着しました。小倉から298キロ。数字だけを見るとかなりのものです。北海道や九州はひとまとめの地図になるので、近く感じてしまうのですが、東京~豊橋とほぼ同距離。リニア実験線がかなり遠くにあるということが実感できます

駅名標です。都農町の中心駅で、かつては貨物輸送でもにぎわったことをしのばせるヤードが残ります

駅舎は6年前に新築されたもので、かつての駅の雰囲気を残す造りになっていて、駅名板の文字は明らかに国鉄文字

ここからリニア実験線の「南端」を目指すわけですが、距離的なものがさっぱり分からない。跡地の高架橋なんでグーグル地図に存在もしていない。日豊本線の車窓から見えていて私なりの推測では徒歩30分ぐらいでしょうか。駅前にタクシーがいれば乗ってしまって、30分以上の徒歩が必要なら現場で待ってもらおうとも考えましたが、残念ながら、いない時間帯でした

平坦コースということは判明

そこで都農駅で尋ねてみることに。朝夕の通勤通学時間帯に一部の特急が停車する同駅には都農町の観光協会が入っていて、都農町がきっぷ販売も委託しています

といってもリニア実験線の「終点」は、今や観光地でも名所でもありません。「30分あれば行けますかね?」と質問すると「う~ん、そのぐらいあれば大丈夫かな」との答えがあった後、突然現れた男の無茶なお尋ねに対し、事務所内で他の方にも聞いてくださいました

「車だとすぐなんで15分もあれば行けるのでは?」という回答もあり、結論としては30分あれば大丈夫ということ、そして予想通り現地までの道は平坦であることは判明。何気にこれが一番重要な情報です。前日の美々津駅からの徒歩コースでも分かるように、距離以上に坂のあるなしで難易度は大いに変わってきます。昨年訪問した名古屋の南方貨物線もすべてがほぼ平坦コースだったので、少々の距離は苦になりませんでした

感動の対面

ということで歩き始めます。道路は県道で歩道もあり、歩くのには問題ない。10分ほど歩いたでしょうか

遠くに構造物が見えてきました。感動の対面

後は高架の橋脚のふもとまで行けるかどうかですが、うまい具合に折れる道路がありました

手前に見えるのは日豊本線の線路で、ここをくぐると

ここがゴール、つまり南端。実験線ですから、前日の研究所の建物の場所とは異なり、唐突に高架が終わっています。都農からの電車までは余裕があるので時刻表で高鍋駅の特急の発着時間を調べて通過を待ちます

逆方向からは動画でどうぞ

太陽光パネルが並ぶ

役割が終わって四半世紀。実験線にはソーラーパネルが並んでいます。2011年から発電を開始しているので、すでに10年以上の実績。2008年に宮崎県と都農町が公募によって会社が選ばれました。他になかなか例を見ない細長い太陽光発電所となっています。実験線としては約20年だったので、あと何年かで太陽光発電所としての歴史が上回ることになります

リニアモーターカーは現在、東京~名古屋間の実用化に向けて工事が行われています。ここ宮崎の実験線は工事着工が1974年で利用開始が77年。ここ宮崎で夢の原点としてスタートしてから半世紀近くが経過して、ようやく商用化が見えてきました。最近は話題になることすら少なくなりましたが、太陽光発電所に姿を変えても、繰り返された実験の跡が、そのまま残っていることに意義があるのではないでしょうか

都農駅からは徒歩で15分でした。普通に歩ける距離です。そして今回の記事を書くにあたり、グーグル地図を開けたところ、史跡として「リニアモーターカー宮崎実験線跡」が記入されていることに気付きました。私の訪問時はなかったはずで、その後に記入されたのか、それとも私が気付かなかったのか。いずれにせよ都農駅からの道程が分かりやすくなったことだけは間違いありません

どのぐらいの訪問者がいるのか定かではありませんが、一応、駅に戻って観光案内所の方に「徒歩15分」であることだけは報告

何も知らないアヒルは遺構を背景に求愛中でした

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夢の原点、リニア実験線を訪ねる3

東都農駅に到着

2023年5月10日9時10分

昨日で完了のはずが…

リニア実験線訪問の翌日の朝、東都農駅で降りていました

前日の訪問時は実験線の基地を見られたことで満足。次の目的に向けて移動しようと電車に乗り込みました。もちろんリニア実験線訪問は完了です

ただ車窓を見ているうちに気持ちが変わりました。日豊本線に並行して走るリニア実験線。これって一体、どこで終わるのか?と食い入るように見ていると東都農駅と都農駅の間で唐突に終わっています

「終点を近くで見たい」

好奇心がふつふつと湧き上がってきました

前日は宮崎市内で宿泊。他に予定はしていたこともあったのですが「リニア実験線の南端を見に行くツアー」に急きょ変更です

朝に宮崎駅を出発。東都農で9時過ぎに下車しました

実際の行程はもっと南の宮崎から来ていますが、美々津と東都農は海にほぼ並行して線路が敷かれているので、その傍らをリニア実験線が走っています。線路だけだと4・4キロ。道路だと前回までに説明した通り、国道が少し離れた所を走っているため、約5キロ。ただ実験線は現役の路線ではないためグーグル地図には表示されません

かつては資料館でにぎわう

東都農は待合所のみの無人駅。戦後の1952年に営業を開始しています。両隣の美々津、都農はいずれも大正期の開業で歴史は新しい

一見、随分立派な「駅舎」があるように見えますが、そうではありません。立派なお手洗いです。かつては、ここに「リニア資料館」があり、屋上が見学施設となっていて、多くの人でにぎわいました。つまり「リニア最寄駅」だったわけです

今は施設も撤去され、もちろんリニアをお目当てに訪れる人もいません

ただ駅の跨線橋からは実験線を俯瞰できます

新緑の中、さっそうと車両が走れば格好いいのですが、ここには何も走りません。高架から顔を出して並んでいるのはソーラーパネル

田んぼの中を走る実験線なので周囲に高い建物はない。そのため東都農駅は、今も実験線を眺める一等地です

逆側にはのどかな風景が広がっています

ひとつ危ないことがあり、宮崎側からやって来た電車は待合室側のホームに到着したので、宮崎方面への電車は向かい側から出るものとばかり思い込んで待っていたら、その電車も待合室側ホームに入線してくる。すれ違いがない限り、駅舎側ホームのみ使用いるのは単線区間でよくあることですが、完全に油断していました

時刻表に番線が書かれていますが、完全に思い込みで跨線橋をひたすらダッシュ。乗り遅れたら1時間以上の待ち時間となるので必死です。もしかしたら私の姿を見かけて少しドアを閉めるのを待ってくれたかもしれません。ぜーぜー言いながら、お礼を言いました

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夢の原点、リニア実験線を訪ねる2

ここからリニアモーターカーの実験車が出発していた

2023年5月9日11時

田んぼに映える高架

リニア実験線は田んぼの中を突っ切っています。地元の方でさすがに知らない人はいないと思いますが、初見だと「この構造物は何?」と思ってしまうでしょう

ここからリニアの車両が飛び出していった

大阪万博の目玉商品

もう現実の工事が始まっているリニアモーターカーですが、超電導電磁石の仕組みを利用して高速列車を走らせる理論は、東海道新幹線の開発時にはすでにあり、後はどう実用化するかでした

世間一般に「リニアモーターカー」という言葉が浸透したのは1970年の大阪万博。日本館の目玉商品がこの模型。個人的な話となりますが、物心ついたばかりの私は両親に連れられ、3時間も並んだ末にようやく入館。その姿に目を見張った記憶があります。余話となりますが、世界各国のパビリオンが並んだ万博では日本館以外では、アメリカ館、ソ連館が大人気。1ドル360円時代の当時(学校で繰り返し教えられ、今も覚えているぐらい)は日本人が気楽に海外旅行に行ける時代ではなく、海外情報を生で体感できる万国博覧会というのは、現在よりはるかに注目度の高い一大イベントでした

当時は東西冷戦のまっただ中で、米国、ソ連ともに国の威容を誇示する重要なイベントでもあり、日本館を含めた3カ国のパビリオンはいずれも延々と並ばなければならないものでした。まだ10歳にも満たないころなので、それほど多くの記憶はないのですが、今も鮮やかに覚えているのはアメリカ館の「月の石」と日本館の「リニアモーターカー」です

地方に建設した理由

そのように一般にも言葉が広く知られるようになったリニアですが、単純に時速500キロを走らせればいいというものではなく、安全、安定の定時運行は当然の前提として黒字化しなければ意味はない。そのための具体的な実験が必要となります。国分寺の研究所で浮力など実用に向けた研究を経て、いよいよ実用に向けて動き始めた時に長距離の実験線の候補地として、「振動騒音」「電磁波」の問題が考えられるため、地方が良いとされ、地元も協力的であったことで、この宮崎の地が選ばれました

南方貨物線の項でも記しましたが、当時は社会全体が環境問題や騒音問題に目覚めたころで国鉄も場所選定には慎重でした

そして77年に完成したのが宮崎実験線。この7キロを利用した(すべてが完成したのは79年)開発と研究が続けられましたが、研究が進むにつれ、さらなる調査も必要となってきます。カーブもない直線だけのコースは勾配もトンネルもない。東京~大阪に建設するには、そんなことはあり得ないわけで96年に山梨の実験線にバトンを渡すことになりました

現在の姿はかなり風雪を経たものになっていますが、廃墟となっているわけではありません

鉄道総合技術研究所の宮崎実験センターとして施設の管理は行われています

夢のスタートは残る

宮崎の実験線では79年に最高時速517キロという、その後山梨の実験線まで破られなかった記録を達成。当時は大きなニュースとして取り上げられました

そんな時速500キロの夢が伸びています

電車の時間もやって来たようなので美々津駅へと戻ります。来た道なので帰路は分かる

この景色だけでもかなり満足できます。左奥に駅の跨線橋が見えます。その向こうには遙かな海。初夏の優しい風が心地よかった

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