きっぷ

青春18きっぷで冬の内房線を行った~単線区間最初の駅

青堀駅の駅名標

※訪問は2022年12月17日

話題の通勤快速1本のみが東京直通

佐貫町から再び木更津方面へと戻り、青堀で下車。こちらは君津からひとつ南側の駅。内房線は君津から単線区間となる上、東京から、東京への直通列車は君津始終着となるため、利用する側としては急激に本数が減る最初の区間となる

朝の1本のみ上総湊始発で京葉線経由の通勤快速東京行きがあり、青堀を7時10分に出て東京駅の京葉線ホームに8時39分に到着する。こちらは上総湊から内房線区間を各駅に停車し、1時間かけて蘇我までたどり着いた後は、千葉県内は一切停車せず、新木場まで30分間ノンストップという、なかなかユニークな停車パターンの列車だが、昨今のニュースで報道されているようにJR東日本が「やめます」と言っている運行で、将来については不透明である。というか、一度ダイヤ改正として発表したものを撤回するのは聞いたことがないので、おそらく廃止になるのだろう。そもそも私は、今回のニュースが出るまで朝の1本、東京行きがあることは各駅の時刻表で知っていたが、蘇我から新木場までノンストップという停車パターンは知らなかった。しかし快速の有無について県知事や市長が抗議するというのは、あまり聞いたことがなく、さすが大人口を抱える首都圏ならではの話でと感じた。JR東日本もちょっと驚いたのではないだろうか

駅名の由来、町名の由来

話が少しそれたが、君津までのわずか3・7キロで大きく利便性が変わる駅だが、利用者は多い。もちろん人口の多さもあるがイオンモールの存在も頑張りを助けている

マイカー以外の利用者は君津駅からの路線バス利用が多いようだが、20分ぐらいであれば中高生はもちろん徒歩である。私の到着時間はまだ9時20分だったが、土曜日とあって早くもイオンを目指す10代のグループが見られた

そして地図や住居表示を見ると「青堀」の由来もなんとなく想像がつくのである。駅の住所は富津市大堀。1955年に富津町と合併するまで存在した青堀町は旧青木村、旧大堀村を合わせた地名だった。駅の開業は1915年(大正4)。木更津から上総湊まで延伸された際に設置された。後に青堀町となる青堀村の誕生は明治時代。青堀村の駅だから青堀駅となった

現在は富津公園となっている旧陸軍の富津試験場へは戦前、当駅から富津岬に向け専用線が伸びていた

開業時からの駅舎

駅舎は開業当時からのもの。駅を降りるとすぐ国道16号。交通的にも便利な場所にある。駅前ロータリーにはタクシーも停まっていた

訪問時は駅員さんが出迎えてくれた。利用の多い駅ではあるが、みどりの窓口は早々になくなり、その後「もしもし券売機Kaeruくん」が設置された。ちなみに当駅は「もしもし-」が最後まで残った駅(2012年3月撤去)だったという。もう忘れている人も多いかもしれないが、今にして思うとあれは何だったのだろう

年季の入った手入れへの案内文字が残る

この日は週末とあって「新宿さざなみ」との列車交換が行われていた。ちなみに奥に見える跨線橋は駅舎と逆側とを結ぶもので階段以外は何もないが、駅舎のある西口に対し東口と呼ばれている

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~わざわざ「町」が付けられた

佐貫町駅の駅名標

※訪問は2022年12月17日

旧佐貫町の代表駅

再び上総湊の内側つまり木更津寄りの朝は本数の多い区間に戻り佐貫町で下車。もう架線も張られていない線路が見えるが、ほかにも多くの側線跡が残り、かつてはかなりの規模だったことが分かる

ホームの待合室に記された番線の数字はなかなかクラシックなものである

内房線の古風な駅舎で必ず見かける精算所。こちらも現役ではないが、窓口が2つもあることで、かつての利用者数を感じさせる

旧佐貫町の代表駅。大貫駅の項で触れたものと同じになるが、1955年に佐貫町と大貫町が合併して大佐和町が誕生。自治体としての佐貫町は消滅した。ちなみに「大佐和」というのは元々の地名ではなく、合併の際に町名をどうするかで大いにもめ「大貫」「佐貫」の一文字ずつをとった上で「仲良く和をなそう」と「和」が付けられたものである。もっとも、この新たな地名は16年後の1971年に新たな合併で富津町が誕生(間もなく富津市となった)したことでわずかな「使用期間」を終えることになる

開業は1915年(大正4)。木更津から上総湊まで線路が延伸された際に設置された。駅舎は当時からの木造駅舎。かつては特急「さざなみ」の停車駅だったが、現在は週末を中心に臨時特急として走る「新宿さざなみ」も通過する。みどりの窓口は2017年に営業を終了したが、無人駅ではない。私の訪問時は駅員さんのいない時間帯で

券売機もシャッターを降ろしていた

先にあった「佐貫駅」

内房線で、わざわざ「町」が付くのは当駅のみ。理由は常磐線沿線に詳しい人なら分かるだろう。先に茨城県に「佐貫駅」があったからである。千葉県の「佐貫駅」も大正の開業と長い歴史を持つが、茨城県の佐貫駅は明治期の開業。こういう場合は頭に旧国名を付けて「上総佐貫」となるのが一般的だが、そうはならず「佐貫町」となっている

茨城県の佐貫駅は3年前に「龍ケ崎市駅」と改名され、同居する関東鉄道の駅は佐貫のままになったことでニュースになったことが記憶に新しい。なぜなら関東鉄道は龍ケ崎市の中心部に「竜ヶ崎駅」があるからだ

もっともJRにおいては佐貫駅がなくなり、佐貫町という自治体も70年近く前に消滅しているが、駅名はわざわざ変更されることはないと思われる

こちらにも舞子海岸

ホームの名所案内に

新舞子海水浴場の文字。有名なのは東京湾観音だが、神戸の人間としては「舞子」の文字に目が行ってしまった。まさかと思ったが

駅前の案内地図を見ると新舞子海岸について「瀬戸内の舞子の浜に似ているので名付けられたという」とある。北陸本線の各駅訪問でも紹介した

小舞子駅。海ではない琵琶湖に面している近江舞子をはじめ、各地には「舞子浜」が多く存在する

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~絶景の駅は簡易駅舎

竹岡駅前からの景観

※訪問は2022年12月17日

折り返しの多い上総湊から1駅先

竹岡駅に到着。ニャンコの出迎えを受けた上総湊から1駅館山方面へと向かった場所にある。ということは本数もかなり減る。当駅から先の駅すべてに言えることだが、利用者の多い朝の上り(木更津方面)も6時台が3本、7時台が2本あって、後はずっと1時間に1本の運行。下り(館山方面)については朝からずっと1時間に1本で、夜の20時台以降、2本となる時間帯が21時台、23時台にある

その竹岡駅はかなり高台にあり、跨線橋からの眺めが美しい。東京湾を挟んで三浦半島が望める。冬の今にも雨が降りそうな曇りの日だったが、天候に恵まれれば、素晴らしい眺望が見られたのだろう

旧竹岡村に基づく

駅名は明治から1955年(昭和30)年まであった竹岡村に由来する。上総湊駅の項と同じ話になるが、上総湊の湊町、浜金谷の金谷村が合併した天羽町が誕生した際、村としては消滅。1971年に富津町そして富津市の誕生となって今に至る

駅の開設は1926年(大正15)。内房線が上総湊から浜金谷まで延伸されたのが1916年なので、10年が経ってからの設置となった。微妙に遅いが、これは駅の位置に関係がある

旧竹岡村役場は現在、富津市の竹岡地区コミュニティセンターとなっていて、そのあたりが竹岡村の中心部で、江戸時代末期に外国船の監視、攻撃を目的に設けられた竹ケ岡陣屋もその付近にある。駅から中心部までは徒歩30分とかなり遠い。駅が設置されなかった理由もおそらくそれで、当初は手を挙げて列車を止めてもらう仮乗降場扱い。正式な駅に昇格したのは4年後だった

旧竹岡村の中心部は線路も通っているが、上総湊との距離が近すぎることが考慮されたものと思われる。駅の位置は上総湊まで5・1キロ、浜金谷まで3・8キロと中間点を意識した場所にある。また上総湊より南側の当駅付近は高い場所を走っていることもあって強風の影響を受けやすい。今でも運行に影響するのだから、SLが走っていた当時はもっと影響が大きかったはずで、列車を止める場所として選ばれた側面もあった。つまり言い方は悪いが、竹岡村の中に設置したから竹岡駅と名付けられたのだろう

多くのロケが行われる

そんな竹岡駅は簡易的な駅舎となっている。旧駅舎が解体されて現在の姿になったのは2007年なので、かなりの歳月が経過したが、利用者は多くはないものの、高台にあって眺望が良いことから、簡易的な駅舎となった後も多くのロケ地となっている

アクアラインのもたらしたもののひとつとして、出演者やスタッフが大量に移動できるようになったため、ドラマや映画、ミュージックビデオなど房総半島で多くのロケが行われるようになったことだ。駅前の広場から海を目指して下っていく坂道は確かにいろいろな場面に使用されそうである

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~折り返し駅でのお出迎え……

上総湊駅の駅名標

※訪問は2022年12月17日

折り返し列車が多数設定

内房線の2日目。安房鴨川までの道程は長いが、メドはついたので木更津のホテルで悠然と朝食を摂って朝の7時過ぎに出発である

最近のホテルでは珍しくバイキング方式ではなかったが、並ぶ手間もなく、優雅感を味わえる。それでも6時台から朝食のあるホテルを選択した

上総湊到着は7時40分。写真で分かる通りホームはにぎやか。この日は土曜だったが、平日はきっと多数の人であふれているのだろう

当駅は木更津方面からの折り返しが朝夕に多数設定されている。君津を出ると「終着」が設けられている内房線の途中駅は当駅と館山のみ(22時台に1本だけ千倉行きがある)。つまり当駅以降は運行本数が減る。ただし昼間は当駅止まりはなく、すべて1時間に1本の木更津↔上総一ノ宮運行となる。ちなみに内房線と外房線の主に単線区間をグルリと回るこの電車の所要時間は約3時間半。全部乗り通すには「なかなか根性の必要な乗り物」となっている

無人の時間帯も「お出迎え」あり

そのような上総湊駅だが、改札を出ると週末の7時台ということもあってか無人の時間帯。券売機もある駅だがシャッターが閉まっている。JR各社によって対応は異なるのだろうが、無人の時間帯は券売機も停止というのは他社ではあまり見ない気がする。最初に見た時に、どちらかというとビックリしたぐらいだ

折り返しが多数あるということで利便性は格段に違う。きっと終日駅員さんがいるのだろう、と思い込んでいたら、全く逆でちょっと驚いた

ただ駅員さんはいないが、ちゃんとお出迎えはあった

「おはようございます」と声をかけようとしたら、プイとされてしまったが、18きっぷを提示せずとも通してくれるお出迎えに感謝です。こうも寒いと暖を求めるのも当然かもしれない。駅から乗る人は多くても、降りる人はほとんどいない時間帯。ホームで待つのは寒いため、ギリギリの時間まで駅舎内で過ごす人が多いが、結構なアイドルとなっていた。ご本人は、ちょっと迷惑そうだったけど(ちなみに私はノネコには絶対触れないようにしている)

旧湊町→旧天羽町の代表駅

上総湊駅は1915年(大正4)の開業。木更津から当駅まで線路が伸びた時に設置された。次に浜金谷までの1区間(当時)が延伸されるまで1年9カ月の間、終着駅だった。駅舎は開業時からのものと思われる。瓦と微妙に傾いたタクシー乗り場の案内がいい味を出している

内房線の各駅でよく見かける精算所。跨線橋を昇るギリギリまで濡れないように屋根が付けられている

そして各駅で見られた待合室ももちろん現役である

駅名は1955年まであった湊町に基づく。「湊町」駅といえば、現在のJR難波駅の旧名として長く親しまれてきた駅名だが、大阪の湊町駅は1889年と上総湊より、はるか前に開業しているので「上総」がつけられたのか

自治体としての湊町は1955年に金谷村などと合併して天羽町(あまはまち)となったが、港を擁する浜金谷よりも町の代表駅はこちらだった。天羽町は1971年に現在の富津町そして富津市となり、それでも市役所は天羽町役場が使用されたため、富津市の代表駅にもなっていた。ただ市役所は1992年に大貫駅を最寄りとする場所に移転したため、駅から至近だった旧市役所は天羽行政センターとなっている

ちなみに駅前の地図で表示されているように海水浴場も近い

ホームの案内によると500メートル

野生のサルはちと怖いかも

さて野生といえば

まだいらっしゃった。どうも皆さんのアイドル役が疲れたようで、その後スタスタと駅舎を後にしていた。私も次の電車で上総湊を後にすることにしよう

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~今さらながら逆の選択だった

君津駅の駅名標

※訪問は2022年12月16日

社会人野球で有名

君津まで戻る。時刻はご覧の通り15時40分。朝の8時半にこの駅で乗り換えて内房線ツアーを開始したから、7時間ぶりの帰還となる。帰還といっても君津駅で下車するのは初めてだけど

君津駅は1915年(大正4)に木更津から上総湊まで線路が延伸された際に開業した。当時の駅名は周西(すさい)で戦後、現駅名となった。ただし同時開業した他駅との現状は大きく異なる。ここから千葉方面へは複線で完全に東京へ向けた首都圏運行となり、本数も急に多くなる

現在、内房線を走る唯一の定期特急「さざなみ」は元々、東京から館山まで運行されていたが、利用者の減少により、2015年からすべて君津止まりとなった。朝は上りのみ、夕方は下りのみ。昼間は走っておらず、停車駅は君津、木更津の後は姉ヶ崎、五井、蘇我と停車して京葉線経由で東京に至る。しかも週末は運行されておらず、完全に通勤に特化したものとなっている(その分、週末は臨時特急扱いで「新宿さざなみ」が館山まで運行される)

また1日に1万人以上が利用する規模の大きい管理駅だが、みどりの窓口は今春、営業を終了した

社会人野球が好きな方にとっては有名な君津。多くのプロ野球選手も輩出しているが、かなり歴史がありそうな出口案内は「新日本製鉄」となっていた(昨年12月の写真)

宿泊は木更津で

さらにもう1駅戻って木更津へ。内房線では君津、木更津と管理駅が並んでいて、それぞれ君津以南、木更津以北を受け持つ形となっている。意外な豆知識としては、かなり都市部となる両駅だが、両駅間は7キロもあり、これは内房線で最長。また君津市内の内房線の駅は君津1駅しかない。君津市の構造が海に面する部分は小さく、山中に広くなっているためで久留里駅をはじめ、以前紹介した久留里線の閑散区間も君津市となる。ただし君津駅から直接行くことはできず、一度木更津まで出ないと同市内の駅に行けない形となっている

冷静に考えると汗をダラダラ流しながら延々と歩くのが8月で、東京湾沿いに海水浴場の紹介をしながら訪ねるのが12月とは完全に真逆の選択である。なんでこんなことをしたのだろう、と今さら頭をひねってみてもどうしようもないが、通年発売のJR東日本「休日おでかけパス」は君津までながら、久留里線はエリア内となっている。東京に行った際、急に思いつくとこうなったのだろう(もっとも8月は青春18きっぷの期間内でもあった)

木更津は君津の倍の利用者がある、さらに規模の大きな駅。自動改札機の数がそれを物語る。もっとも青春18きっぷでは無縁なものではある

16時過ぎというのに、早くも夕闇が迫ってきた。本日は木更津泊。明日は朝から残り駅の回収を目指す

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~南房総市の市役所最寄り駅

富浦駅の改札付近

※訪問は2022年12月16日

7つの町村が合併

浜金谷から4駅館山方面へと向かい、富浦駅に到着。再び南房総市に入ります。南房総市は7つもの自治体が合併して誕生した(2006年)しただけに広大で、房総半島の南端を含んで東京湾にも太平洋にも面している。館山市を取り囲むようになっているのは、当初の合併協議から館山市が離脱したため。市内には館山市内の3駅を挟んで駅が6つもある

中でも富浦駅は市役所最寄り駅で、地図上では「代表駅」となる。ただし、それぞれの地区(旧町村)には、それぞれの歴史があり、突出して大きい都市が中核をなす形にはなっていないため、それぞれの駅が、それぞれ中心駅である

凝った造りの駅舎

とても立派な駅舎でJR移管後の1995年に新駅舎となった。合併の話が出るより、かなり前の竣工。駅としての歴史は1918年(大正7)に内房線が安房勝山から那古船形まで延伸された際に途中駅として開業しているので、100歳を越えている

中は木造。駅舎内の待合室で分かる通り、なかなか凝った構造となっている

このころの各地では、1988年に当時の竹下内閣が行った「ふるさと創生1億円事業」という、全国の各自治体に配った1億円ずつのお金を原資にした駅舎が建てられていて、こちらもその一環かと思い調べたが、富浦駅については分からなかった

ただしホームには旧来の待合所が残っている。1面2線の島式ホーム。こちらは内房線でよく見られるスタイル。跨線橋で出入りする

東京、千葉への移動手段

訪問時は無人状態だったが、必ずしも無人駅ではないようである

こちらは時刻表。主に週末に臨時特急として走る「新宿さざなみ」の停車駅となっている

ホームには乗車位置案内がある

富浦は古くからビワの産地として有名で当地の「房州びわ」は、皇室に献上される歴史を持つ。そのびわにちなんだ名前を持つのが「道の駅とみうら」で1993年に県内初の道の駅として登録され、その後「道の駅とみうら枇杷倶楽部」となった

国道127号に面する道の駅は富浦における交通拠点ともなっていて、館山から千葉、東京、羽田空港~横浜に向かうバスが頻繁に通る。富津館山道路の富浦インターが至近にあるからで、富浦から千葉へはバスが1680円、電車が1520円、富浦から東京へはバスが2550円、電車が2310円と電車がやや有利だが、所要時間だと、千葉までのバスが90分なのに対し電車が110分、東京へは同じく110分と150分で、バスの圧勝となっている。週末は特急があって時間は短縮されるが、その分、特急料金がかかる。運行はともに昼間は1時間に1本。羽田空港や横浜へは、そもそも電車利用の概念がないだろう。停留所にはバス利用者を対象とした駐車場があるのは全国の高速バス停留所で見られる形である

冬至を前にした冬の日は短く、14時半という時刻にもかかわらず、太陽は早くも隠れる態勢をとっている。鉄路は高校生を中心とした内房線内の地域輸送に特化されているようだ

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~東京湾フェリーへつながる最西端駅の飛び出るみどりの窓口

浜金谷駅の駅名標

※訪問は2022年12月16日

絶滅危惧種になりつつあるセールス案内

浜金谷駅に到着。島式ホームに加え側線も残っているが、使用されていないもの。それでも両隣の保田、竹岡に比べると利用者は多い駅である

それを物語るように駅舎内には

みどりの窓口。飛び出す「みどりの窓口」。全国の駅で過去何度か紹介したが、当駅にもある

その傍らには

券売機の上に「定期券は浜金谷駅でお買い求め下さい」の文字。「○○への往復きっぷは当駅で」「新幹線のチケット買えます」などとともに、こちらも全国各地で見られたが、窓口そのものが激減した今は大幅に姿を消している

「帰りのきっぷはいかがですか?」

ちょっと前まで窓口できっぷを買うと、予定調和のようにこのように言われた。私は北東北の駅で大阪までのきっぷを買った際、このように言われたことがある

10年近く前、仕事で出かけた時だ。往路は飛行機で行った。とてもじゃないが、大阪から新幹線を乗り継いで行ける場所ではない。そもそも東北新幹線の駅まで2時間近くかかるので、新大阪を始発で出ても到着は15時ぐらいになりそうな駅だが、その時は帰りに東京で用事があったため陸路移動。途中下車扱いで大阪までの乗車券を買ったのだが、はたして1年に何枚の大阪行き乗車券が売れるのだろう、という地方都市の駅で言われたので、ちょっと驚いたと同時に、妙な安堵感があった

窓口が多かったころは駅同士の営業成績を競っていて、往復きっぷのセールスが普通だった。きっぷの発売日にいち早くチケットを確保する、いわゆる「10時打ち」も駅によってはやる気満々の駅員さんがいて「○月○日に行きますから」と事前に伝えて訪れたこともある

最西端ならではの港

これはちょっと意外に思う方も多いかもしれないが、浜金谷は千葉県最西端の駅である。都内から江戸川を渡って、すぐの市川から内房線をかなり走っていて市川の方が西にありそうな印象だが

房総半島の構造上、浜金谷の方が西にある。そんな地形上の有利さもあって、金谷は東京湾の航路の重要地だった

駅を降りると久里浜港へ向かうフェリー乗り場の案内があった。内房線が浜金谷まで到達したのは1916年(大正5)だが、久里浜への航路は1889年(明治22)と、かなり前。港の重要性もあって、まず金谷までの鉄路が急がれた。当駅は1年近く終着駅だった。当時は金谷村。今も駅の所在地は富津市金谷だが、港の名前が浜金谷だったので分かりやすく駅名も同じにしたのだろう(金谷港との呼び方もある)

人が集まる場所なので、観光地である鋸山(のこぎりやま)へのロープウェーもできた。交通の拠点でもあった

フェリーとロープウェーについては駅を降りると両乗り場へは分かりやすい案内がされている

鉄道が変え、アクアラインが変えた

東京湾の航路は輸送の花形だったが、内房線が開通して鉄路が充実したことにより徐々に衰退。浜金谷~久里浜が残るのみとなった。それでもわずか40分で両者を結ぶ航路としてピストン運航が栄えていた。ただ大きく影響を与えたのがアクアラインの開通そして料金の大幅値下げで、かつてのピストン運航は現在、閑散期の平日は約2時間に1本、週末や繁忙期で約1時間に1本となっている

写真の順番が最後になってしまったが、こらちは駅舎。開業時からのものだ。安房勝山駅でも触れた話になるが、こちらも保田駅とほぼ同じ構造。浜金谷から保田を経て安房勝山まで鉄路が到達したのは、浜金谷到達の翌年のことだが、こちらも同じ施工者によるものだろう

そんな交通拠点の浜金谷だが、みどりの窓口は今年の7月で営業を終了している。内房線の木更津以南は君津が昨年3月に、安房鴨川が今年1月に、館山が今年3月にそれぞれみどりの窓口が営業を終了。浜金谷が「最後の砦」だったが、これですべての駅でみどりの窓口がなくなったことになる

みどりの窓口が残っていた時期は、ある意味、貴重な訪問だったわけだが、船から鉄道そして車と、交通の役割の変化を象徴しているようにも感じさせられる

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~富津市の中心部に入る

大貫駅の駅名板

※訪問は2022年12月16日

安房勝山から24キロ

安房勝山から再乗車。6駅木更津訪問へ戻り大貫駅に到着

房総半島をグルリ回る形となっている内房線は、とにかく駅も多く、木更津以南だけでも21駅もある。1時間に1本のダイヤで効率良く回るのは、結構大変。個人として日没後の駅巡りはしないことにしているので、1年で最も日照時間の少ないこの時期はどこに行っても時刻表とにらめっこ。6駅、24キロも戻って到着した

大貫駅は富津(ふっつ)市の駅。富津市内には内房線の駅が6つもある

東京湾を挟んで向かいの横須賀まですぐで知られる富津岬。もちろん私も知っていたが、読みについては勝手に「とみつ」と読み違えをしていた。正しい読みを理解したのは、昨年放送された「ブラタモリ」なので、長年の勘違いもいいところだ

ただ言い訳になるが、これは「ふっつ」という駅がないことにもよる。岬がこれだけ突出した形をしているので、線路は当然、岬から離れた場所を通る。内房線が木更津から当駅を含む浜金谷まで延伸されたのは1915年(大正4)のこと。岬のある富津の地名は駅名にならなかったのだろう

開業時からの駅舎が現役

大貫駅は1955年まで存在した大貫町に基づく。大貫町は明治期に大貫村からスタート。駅が開業した時は大貫町。佐貫町と1955年に合併して大佐和町となり、1971年に富津町などと合併。富津市が誕生した

駅舎は当時からのもの

みどりの窓口はかなり前になくなっているが、駅員さんのいる駅ではある

旧大貫町の駅ではあるが、富津市の市役所最寄りとなっている

なお地図では徒歩30分となっているが、富津市役所ホームページによると、徒歩20分である。大貫町の市街地は市役所とは逆の海の方向に広がっていた大貫海水浴場がある

駅前には「大貫音頭」の歌碑がある

ホームは島式の1面2線で跨線橋から入る形。定期運行はないが、当駅で折り返し可能な構造で原則的に上りと下りはホームごとに決まっているが、通過列車の待避のため出発ホームを変えることもできるようになっている

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~鋸南町のもうひとつの駅は瓜二つ

安房勝山駅は単式化されている

※訪問は2022年12月16日

隣駅へは徒歩移動

「ばんや」さんで大満足の昼食を摂り、保田のお隣の安房勝山までは徒歩移動である

駅同士を歩こうと思えば、50分ぐらいかかりそうだが、保田からばんやさんまで15分歩いているので、残りは30分ぐらいで行けそうだ

それでも安房勝山発13時2分に乗車しないと1時間の待ちタイムが生じてしまう。現在は12時10分で、楽勝とは思うが、どんなトラブルが待っているかもしれないので、海沿いをサクサク歩くと安房勝山に到着

木造駅舎が残るが、感想は「保田と同じじゃないか」

ちなみに保田駅はこんな感じ

屋根の二重構造や支える柱が全く同じ

昨年、高山本線を巡った時も同じようなことがあった

飛騨国府と上枝は同日開業だったが、内房線の両駅はというと1917年(大正6)8月1日と全く同日。浜金谷から安房勝山までの2区間が開業して1年後に那古船形まで延伸されるまで、しばらく終着駅だった。きっと両駅とも同じ施工者によるものだろう

鋸南町役場の最寄り駅

こちらは駅名板。保田駅とは異なり、6年前に無人駅となった。しかし鋸南町役場の最寄りは当駅である。内房線の駅は現在、当駅と保田駅以外はすべて「○○市」にあるが、両駅については平成の大合併の経緯を経て、そのまま鋸南町にある。両駅付近が鋸南町の主要集落。当駅のすぐ近くにはコンビニもある

歩いてきた保田~安房勝山で少し海沿いに向かえば、源氏再興を目指して挙兵した源頼朝が石橋山の戦いで敗れ、命からがら海を渡って逃れてきた「源頼朝上陸の地」があり、せっかくなので訪れてみたかったが、時間が微妙だったため、立ち寄れなかったのが残念

ホームは単式化

こちらは無人となった駅舎内

島式だったホームは単式化されていて、かつての線路の部分に階段が設けられ、ホームに直接入る形となっている

控えめに設置されたキロポスト。蘇我から70・8キロ。結構な距離だ

千葉、東京方面への乗り換え案内。千葉まで乗り換えなしで行けるのは朝の3本だけだということが分かる。ただ主に君津となっているが、乗り換え時間は「乗ったら即出発」の芸術的タイムである

この手書きの「事務室」は那古船形にあったものと同じ文字。前述した通り、那古船形まで延伸されたのは当駅が開業してから1年後。両駅ができてから設置されたもののように思えるが、さて、いつからのものだろうか

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~複数の窓口…全盛期の名残を残す駅で海鮮の昼食

保田駅の駅名板

※訪問は2022年12月16日

意外と難読である

那古船形から木更津方面へと戻り、保田で下車。那古船形もひらがなだけだとどう書いていいか想像もつかない駅だが

こちらもひらがな2文字だけ示されると、どう書いて良いか分からない駅ではある。また各地を訪れると、日本語の濁音の難しさを感じる。「保田」と示されて正解はなかなか出てこない。もっとも関西の人間にとっては「鋸南町」が、そもそも読めないのだが

駅前の観光地図には「きょなん」と、しっかり記されていて助かった

大正期からの駅舎が残る

せり出した屋根を複数の柱で支えるという凝った形の木造駅舎が現役。開業は1917年(大正6)。塗装は変わったが、当時からの駅舎が残る

駅舎内はみどりの窓口こそ閉鎖されたが、駅員さんはいる。週末に走る特急「新宿さざなみ」の停車駅でもある

駅舎内のベンチもクラシックなものだ

何度繰り返しても

内房線の項で最初に東京から館山への経路地図を掲載したが、この時に何度繰り返してもバスが最初に示されて困った。いろいろな地図検索をすると必ず上位に並ぶのはバスである。平日に館山までの優等列車が走っていないこともあるが、検索条件を鉄道のみに絞らないと鉄路での経路は序列としては低い

1997年の東京湾アクアライン開通は房総半島の鉄道に大きく影響を与えた。当初は4000円という高額な通行料金が敬遠されたが、後に一気に値下げが行われ、現在はETC利用で800円

アクアラインだけでなく、房総半島は有料道路が充実していて千葉市内からの館山自動車道がアクアラインとも接続。館山自動車道は富津館山道路を経て館山バイパスで館山に至る。ほぼ内房線に沿っていて、これは鉄道に影響を与えないはずがない。保田駅にしても、すぐのところに鋸南保田インターがある。アクアライン開通前と比べると利用者は激減しているのが現状である。中国地区の山中でも、嫌がらせのように鉄路に沿って自動車道が建設されているが、地形的に道路を作る場所がないのでは、どうしようもない。優等列車の大幅縮小も利用者のシフト変更よるものだろう

駅にはこのようなものが残っていた

駅舎内ではなく、駅舎外側に向いているものだ。3つも並ぶ「きっぷうりば」の窓口。おそらく海水浴客のために設けられた夏季限定の臨時窓口。3つも窓口が必要なほど、内房線を利用して海水浴場を目指す人が多かったのだろう

今回の昼食は必

駅前の水仙ロードを海の方向に向けて歩く。駅の周辺は鋸南町保田地区の中心部

ここで目指したのは

漁協直営の「ばんや」さん。海を眺めながら徒歩15分で到着

平素の各駅巡りでは朝食を最後に、昼食は「縁があれば食べる」「コンビニがあればラッキー」で、原則的に何も考えていないが、X(旧ツイッター)のフォロワーさんの投稿を見て、必ずここに行こうと、この時ばかりはお店の営業時間を調べた上で予定に組み込んだ

混雑時は避けるため、11時過ぎの到着までしっかり計画したが、平日の11時台というのに店内は大いににぎわっていた

寿司、天ぷら、煮付けの定食が美味しかった(写真掲載については、お店に許可済み)。ごちそうさまでした

駐車場の車も県内だけでなく、神奈川県や東京都のナンバーが並んでいて、あらためてアクアラインのパワーを感じた

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