青春18きっぷ

成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~雪景色旅のちょっとしたエピローグ

※訪問は2024年3月7日

駅前食堂のある風景

前日からの積雪が残る大糸線沿線だったが、不思議なことに有明駅あたりから雪の量は減って当駅付近はかなり少なくなっていた。この後、松本まで戻ったが松本に近づくにつれ、残雪量は増えていったので、前日の雪は松本中心のものだったようだ

安曇追分の駅前風景。2軒の駅前食堂があった。のれんが出ているので営業中だと思われる。旧国鉄の駅というのは町外れに設置されることが多く、そこそこの都市でも駅を降りてみたら何もない、ということが多く、そんな中で癒やされるのが駅前食堂。ただその風景も失われつつある。お客さんはいても後継者がいない、というのが大きな理由のひとつのようだ

スポンサーリンク

なぜか私が

さて、なぜいきなり駅前食堂の話から始めたのかというと、安曇追分駅の駅舎内が「緊急駅前食堂」になったからである

前記事でも紹介した駅舎内の様子だが、実は写真はこの角度のものしかない。撮ろうにも撮れなかった。というのも私と同じ電車で下車したご婦人の3人組グループが持参のお弁当を広げて食べ始めたから。弁当といっても駅弁ではない。自宅で作ったものだ。もちろんお茶もペットボトルではなく水筒持参である。私も昼食のお時間だが、松本駅近くのコンビニで買った恒例のコンビニおにぎり。外は寒いので駅舎内でほおばる。同世代の男性1人、女性3人が駅舎内でランチタイムというシュールな光景。どこからどうというわけではなく会話になり、話を聞くと今日の朝、神奈川県からやって来たという。この駅近辺の一体どこへ?と尋ねると、ある施設の名前。名前だけなら私も知っているが、徒歩ではちょっと無理な場所だと推測できる上、そこって穂高駅からのバスがあるんじゃないの?

「どうやって行くのですか」と、おそるおそる尋ねると当駅からバスが出ているのだという。なるほど、で、バスは一体何時に?と聞くと

「知らない」

秒で答えが返ってきた。私のあ然メーターはあっという間に振り切れてしまった。そういえば駅前の停留所の時刻表なんて見た景色はなく、即お弁当を広げていた。「大丈夫?」と言うと「なんとかなるでしょ」の回答。もちろんここには観光案内所などないので、私が代わりに調べてあげた

「バスは次は○時○分発で降りるのは○○という停留所。ただ帰りは○時○分に乗らないと戻ってこられませんよ」

だが、出発のバスまではかなりある。「タクシーがあるでしょう」と聞かれたので「ここには常駐してないよ」。ついでにグーグル先生とナビタイム先生の両者による徒歩時間を調べると軽く1時間以上はかかるようだ。伝えると「わー、そんなにかかるんだ。ありがとう」とサラリ。決してつっけんどんな言い方ではなく、自然な感じだったので、それ以上私も突っ込まなかったし、とりあえず施設までたどり着けば、帰る方法は教えてくれるだろう

ただ私が感じたのは、ケセラセラ的な旅の原点である。私も成り行き任せの旅は好きだし、ブログ内でもケセラセラという言葉はよく使うが、さすがに列車の数がどのぐらいあるかは調べている。ましてや地方でバスに乗るとなると、事前準備は入念の上に入念である。今はスマホひとつあれば、沿線情報は入手できるし、タクシーも呼べる。自分の若いころはそうだったなぁ、と思った次第(ただ時刻表は必ず調べていた)

半年あまりでなくなったもの

松本まで戻ってしなのに乗り込む。あずさとの並びだ

手には大阪までのチケット。乗継割引の使用はこれが最後である。もちろん分かった上での購入

名古屋経由のしなのは数多くお世話になった乗継割引のひとつ。在来線特急が半額になることで、ちょうど駅弁代になる。これからは駅の立ち食いそば&きしめんで済まそう

こちらは前々日に新潟駅で買った青春18きっぷ。この時は新潟、松本、一ノ関、三ノ宮、三次と各地でハンコをもらったが、もうそれもできない。半年ちょっとで、長年私の旅を支えてきたものもすっかり姿を消し、ひとつの曲がり角を感じている

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~18きっぷ駅舎とホーム越しの絶景に旧駅名を思う

※訪問は2024年3月7日

リアルすぎる駅舎と財産票

有明のお隣の安曇追分に到着。この日最後の訪問駅だ。大糸線では安曇野市には9つもの駅があるが、最も北にある駅となっている。市内には篠ノ井線の駅も2つあるが、ちょっと意外なことに「安曇」が付く駅は当駅ひとつしかない。ちなみにサムネ写真の駅名標で分かるようにローマ字にすると「azumi」で、こちらは安曇野市も同様に「azumino」だが、ひらがなにすると駅名は「あずみ」で自治体名は「あづみ」となっている

ホームは島式の1面2線。ただ写真で分かるように上り下りでホームは固定されていない。構内踏切の駅でよくある形式だが、すれ違いがない場合は、駅舎と反対側のホームを使用して遮断機ができるだけ降りないようにしている

その構内踏切を渡って駅舎に入ろうとすると、いきなりこのような文字のお出迎え。手書きの明朝体が凄い。否が応でも期待は高まる

そしてまさに期待通りの駅舎。当駅は1915年(大正4)の開業。有明から信濃松川(当時は池田松川)まで延伸された際に設置された

この後の記事を読んでくれなくなるかもしれないので、書くのに躊躇してしまうが大糸線の古い駅舎というのは、数が少なくなっている。元々、ホームと待合所のみの駅が多いのもあるが、この十数年で新しく生まれ変わったり簡易化したりで、この後の記事では年季の入った木造駅舎はほとんど出てこない。その分、こちらで楽しんでいただきたい

JR東日本の駅では見かける機会が減っている財産票が当駅には残る。ただ残ってはいるが判別不能だ。「昭和」の文字の下に、わざわざ「大正」と手書きされているので、もちろん張られたのは昭和になってからだろうが、張ってから竣工期を書こうとしたものかもしれない。「財産票そのものが財産」のたまにある例だが、開業時からのものだと判断しておこう

分岐駅の歴史と絶景

かつて当駅からは池田鉄道という昭和戦前に12年だけ運行された幻の鉄道が運行されていた。鉄道の来なかった池田町への運行を地元有志が担ったものだが、痕跡はほとんどない。わずかに駅舎側にあるホームらしきものの小さい土台がそうではないか、と推察できるぐらい

池田鉄道については、また別の駅紹介で行う予定だ

駅は現在、安曇野市による簡易委託で窓口は午前中のみの営業となっている。安曇野市は篠ノ井線の駅も含め、各駅で簡易委託を担って頑張っているが、それに応えた形になったのが、2022年春の青春18きっぷのポスターら当駅が選ばれたこと。安曇野市のHPによると、大糸線の駅が18きっぷのポスターに選ばれたのは初めてのことだったという

駅を出たところからホームの駅名標を写そうとしたら

いやいや、これは絶景としか言いようがない。昨日は曇天だったが、今日は晴天で北アルプスの山々が美しすぎるし、ホーム周辺の残雪もいい味付けとなっている

実は当駅は開業時の駅名は「アルプス追分」だった。しかし登山者にとっての最寄りは、お隣の有明駅で、間違って当駅で下車する登山者が多く、わずか4年で現駅名に変更されたという歴史がある。ただこうやって景色を目の当たりにすると、ここはまさにアルプス追分である

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~安曇野観光の拠点を譲った駅

※訪問は2024年3月7日

全ドア開閉は当駅まで

有明駅に到着。当駅も大糸線の中で知名度の高い駅である。松本から当駅までの列車は車掌乗務の有無にかかわらず、すべてのドアが開く。当駅を過ぎるとワンマン運転の列車は1両目の後部ドアから乗車、降車時は運転士のいる先頭ドアのみとなり、きっぷの回収と運賃支払いが行われる。列車によっては当駅まで車掌が乗車し、以北はワンマン運転となる場合もある。大糸線の列車は原則2両編成(JR東日本の電車に単行運転はない)。つまり松本~有明でドアをひとつにすると旅客が多く時間がかかりすぎると判断されていることになる。有明折り返しの列車の設定もある

有明駅は島式の1面2線。構内踏切で跨線橋はない。開業は1915年(大正4)。信濃鉄道が穂高から1区間延伸させて暫定的な終着駅とした柏矢町、穂高それぞれの項で説明したが、この年の1月に松本市(現北松本)~豊科が開業すると、6月に柏矢町、7月に穂高と1カ月に1区間のペースで延伸が行われ、有明への到達は8月。現在の信濃松川駅(当時は池田松川)まで延伸されたのは9月のことなので、終着駅としての働きは2カ月未満である

観光拠点としての役割

有明駅に与えられた役割は安曇野観光そして登山の拠点だった。開業当時、有明村があったが、駅の所在地は北穂高村。有明村とは、やや離れていた。戦後に両村は穂高町などと合併して新たな穂高町となり、同じ自治体となっているが(現在は安曇野市)、今も駅の住所は安曇野市穂高北穂高である。このような事情がありながらも有明駅となったのには、穂高の次の駅を北穂高とするよりも、著名な有明山にちなんだ駅名とした方が分かりやすいとの判断だろう

駅舎は木造で戦前からのもの。リニューアルはされているが、山小屋風の駅舎は変わらない。登山の拠点駅を意識したものだろう。駅舎の柱を支える石は重厚である

現在、定期的に大糸線に入る優等列車は1日1往復の「あずさ」だが、以前は多くの優等列車が東京からの直通列車として入っていた。さかのぼり始めるとキリがないが、最も著名なものは急行「アルプス」だろう。こちらはJR移管後も夜行便として残っていたが、新宿方面から中央本線をやってきて一部は松本止まり、一部は大糸線に乗り入れていたが、70年代初期までは穂高に停車する優等列車はなく有明停車だった。それが国鉄末期の80年代に入ると穂高への停車が始まり特急も停車するようになった。一方で有明に停車する急行はどんどん減っていった。バスも含めた観光拠点は穂高となり、大糸線の定期優等列車が1日1往復の特急となった現在、有明に停車する優等列車はなくなった

現在の有明駅は簡易委託駅。1日の利用者は有明駅が約400人、穂高駅が約2000人と大きく差がついている

それでも立派な駅名板が掲げられているのは、重責を担った当駅への敬意だろう

駅舎内にはリニューアル前の駅名板が残る

もう一度ホームへ。優等列車が数多く停車していた時代からの留置線が、かつての名残だが架線は残され、まだ現役。緊急時用に備えられているという

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~109年前は安曇野への唯一の架け橋

※訪問は2024年3月7日

車窓が下車の合図

柏矢町から5駅松本方面へと戻って梓橋で下車。この駅で降りた理由、それは車窓に見えたこの文字のため

当駅が安曇野の入口であることを示した木標。これを生で見るために降りた。例によって、この時点では何の予習もしていないので降車のモチベーションのすべてだったわけである

単式ホームの駅だが、かつては島式ホームだったようで、使用されなくなった片側ホームは留置線となっている

大糸線オリジナル駅のひとつ

当駅は1915年(大正4)の開業。大糸線の前身である信濃鉄道が豊科~松本市(現北松本)を開業させた際に設置された。現在この間の駅数は多い(というかかなり多い)が、スタート時は豊科と松本市以外は明盛駅(現一日市場)そして梓橋の4駅のみ。つまり大糸線のオリジナル駅のひとつw当駅は1915年(大正4)の開業。大糸線の前身である信濃鉄道が豊科~松本市(現北松本)を開業させた際に設置された。現在この間の駅数は多い(というかかなり多い)が、スタート時は豊科と松本市以外は明盛駅(現一日市場)そして梓橋の4駅のみ。つまり大糸線のオリジナル駅のひとつである

なぜ早々に駅が設置されたかというと

私の想像も入るが梓川の対岸にあったから。川を渡れば安曇野である。駅名はここに架かる梓橋からとられた。現在の梓橋は地図で分かる通り、県道にかかる橋を指すことが一般的だが、信濃鉄道が開通した時に道路の橋はまだなく、松本地区と安曇野地区を結ぶ唯一の橋は、鉄道の橋だった

ちなみに当時の所在地は「高家村」。戦後に豊科町となり、現在は安曇野市。今も駅の所在地は「安曇野市豊科高家」だが、読みは高塚と書いて「たきべ」と読む。交通として重要な梓橋があることで駅名になったのだろうが、普通に自治体名を冠していたら、屈指の難読駅となっていたかもしれない

ホームでリンゴを

梓橋の駅舎は真新しいもの

かつては戦前からの駅舎があったが、2015年に改築された

簡易委託駅でホームは森土の高台にあるため、大糸線では珍しく跨線橋ではなく地下通路から入る形。梓川の増水で鉄道橋が大きな被害を受けたため、1967年(昭和42)に橋の付け替えが行われ、ホーム位置もわずかに変化した

目につくのは、この案内板。ホームでの栽培といえば塩尻駅のぶどうが有名だが、こちらはリンゴ

残念ながら季節が季節でお目にかかることができなかったことが残念である

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~クラシックな駅舎にクラシックなホーロー

※訪問は2024年3月7日

こちらも合成駅名

突然、大糸線の全駅訪問を目指すことになり

松本駅の大糸線乗り場へ。とはいえすでに11時になっていて、今日は15時ごろの特急「しなの」で帰宅するため、それほど時間はない。持ち時間の範囲で頑張ろう

松本から14キロ。約30分の電車旅。わずか14キロで30分も要するのは駅数が多いため。松本から9駅目。14キロで9区間もあるのだから、出発するとすぐ到着のイメージだ

ご覧のように1面1線の単式ホーム。右側に「いかにも」のスペースがあるが、かつては島式ホームだったらしい

かつての島式ホームの跡を利用したと思われるスロープで駅舎へと向かう。その駅舎はというと

どう表現して良いのか、いかにも「駅」である。最近見かけなくなりつつある1文字ずつ分離した駅名板がいい味を出している

開業は1915年(大正4)。松本と豊科を結んでいた信濃鉄道が延伸された際に設置された。豊科~松本市(現北松本)から開業したのが1月で柏矢町までの1区間延伸が6月。一時的に終着駅だったが、まさに一時的で1カ月後には穂高まで延伸。その後も続々と延伸され、翌年には信濃大町まで信濃鉄道としての全線が開通した

駅舎は開業時からのものとされる。ユニークなのは駅名で「柏矢町」という地名は当時も今もない

駅の所在地は「安曇野市穂高柏原(かしわばら)」。駅から近い2つの地名である「柏原」と「矢原(やばら)」を合わせて駅名としている。柏原駅といえば、近畿圏に3駅もあって、それぞれ微妙に読み方が異なることで知られるが、そのまま地名を付ければ、もうひとつの柏原駅が誕生していたかもしれない

ただ当時の所属自治体は西穂高村。戦後まで続いた自治体で1954年(昭和29)に合併して穂高町となっているが、それまで自治体としての「町」になったことはなく、なにゆえ「町」が付いたのかは調べても分からなかった。そもそも長野県内の自治体の「町」は「まち」が原則(唯一、阿南町のみ「ちょう」)で、柏を「はく」と読んだことも含め、私にとっては謎のままである

思わぬ発見

駅前には住宅街が広がる。単式ホームの駅とはいえ、1日に1000人以上と利用者も多い

安曇野市の簡易委託駅。安曇野市内の駅は篠ノ井線の駅も含め、営業時間は異なるものの、市の簡易委託でいずれも駅員さんがいる

そして

こちらは駅の窓口利用を促進する案内。来春にはIC乗車ができる区間となるが、駅の将来について現時点での発表はない

駅舎内では

「指差確認」のギリギリ残されたホーロー。いつからあるのかは分からないが、少なくとも10年20年というものではない。そしてもうひとつ

これはもっと貴重だ。思えば城端線の戸出駅で同じようなものを見た

戸出にあったものは「計量器使用事業場」で、やや文言は違うがおそらく同じ意味のもので、旅客の荷物を計る駅に与えられた認可のようだが、富山県から遠く離れた長野県で、ちょっと感動の再会となった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~40駅と知ってがぜんヤル気が

※訪問は2024年3月6、7日

松本駅は気温3度

南豊科駅から松本駅まで戻ってきたのは16時前。本日は松本に宿をとっている。最初に松本駅に到着したのは12時半ごろ。その時はすでに雪はやんでいて、その後も雪には一度も見舞われなかったが、積雪はたっぷり残っている。駅に表示されている気温は3度。あくまで体感だが、この日に限っては豊科あたりより松本駅周辺の方が寒そうだ

ホテルは徒歩5分ほどのところだが、歩道に残る雪を避けていくのに時間がかかる。踏みしめられた後の方が氷のようになっていて油断するとスッテンコロリとなりそうだ。この日、観光で松本を訪れた人は松本城までの徒歩が大変だったと思う。ホテルのフロントの方に尋ねると「たまにありますけど、この時期(3月)の積雪はやはり珍しいですね」とのこと

大浴場付きのホテルにつき

早々に山賊焼きそして信州そばを熱燗とともに

翌朝は6時半の時間開始とともに朝食をモリモリ。いつものことだが、これでしばらくお腹はもちそうだ

篠ノ井線からスタート

昨日あまり降りられなかった篠ノ井線からスタート。この日は青春18きっぷである。松本駅で印をもらう

長野と松本という県内の主要都市を結ぶ幹線だが、道中は深い山の中を走る。道中の自治体も「村」がかなりある

雪と木造駅舎の組み合わせは美しい

難読駅。読めるようで、やはり読めない典型例。旧式の駅名標も残る

西条駅。読みは「にしじょう」。だから広島県の「さいじょう」とは同じ文字のまま。いずれも明治生まれと古い駅だが、広島県の方がわずかに早いため、きっぷについては「(篠)西条」と表示される

こちらは冠着駅のものだが、各駅とも委託化されていて駅員さんがいる時間帯はストーブが灯っていて暖かい

この日の目的のひとつは朝と夜の1日2本しかない快速に乗車すること。通勤用の車両が姨捨駅を通過する。稲荷山は篠ノ井のひとつ手前で長野市内にある。昨日来た時と同様、姨捨から長野方面に雪はない

旧駅名板が駅舎内にきれいに保存されていて、写真駅名標も残る明科駅で一段落

まだ11時になっていない。この日のうちに帰る予定だが、まだまだ時間はある。お次は、となり、昨日の続きでもう少しだけ大糸線に乗ってみるか、で松本駅まで一度戻る。篠ノ井線の各駅は大糸線の駅までタクシーで10分ほどのところもあり、そうすればショートカットで、より多くの駅を回れそうだが、せっかくの18きっぷである。「タダ」なのだから、これはいったん松本まで行く一手だろう

駅の待ち時間と電車内であらためて大糸線について学習。そこで知ったのは40もの駅があること(松本のぞく)。全線105キロで40とは随分と多い。うちJR西日本の大糸北線はすでに全駅訪問済み。今日も朝から篠ノ井線の駅訪問をしているぐらいなので、大糸線への「執念」はそれほどでもなかったが、だったらJR東日本の各駅もいろいろ訪ねてみたいという気になった

今日はお昼になろうとしているので、それほど時間はないが、できる限り回ってみよう

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

中央西線の駅をすべて訪問してみよう~1カ月遅れで本当のゴール 初めて知った「木曽」

日出塩駅の駅名標

※訪問は2024年9月8日

1駅の積み残し

青春18きっぷを利用しての中央西線各駅訪問から1カ月。無事に全駅を訪問した…はずだが実は1駅だけ回収しきれていない駅があった。塩尻の2駅手前の日出塩である。これは8月の時点で分かっていたことだった。自分の立てた旅程だと、どうしても贄川と日出塩のどちらかに行けなくなる。ちょっと迷ったが、洗馬から塩尻市のコミュニティバスに乗車する際、下車するのは「贄川駅前」か「日出塩上」のどちらか。これは当該記事でも書いたが、乗下車するなら「贄川駅前」の一択でもある。「○○駅口」や「○○駅上」という停留所は、駅から離れていることが多い。こういう時は無難な方を選択する

もともとはあまりの暑さに2024年夏の青春18きっぷは購入しない予定だった。それが9月上旬に全く別件で長野に行くことになり、ならば18きっぷを買ってみるか、となった次第。つまり9月の予定が入ったからこその8月の中央西線だったのだ。後から出てくる話だが、18きっぷの期限は10日で残り3回の権利を持っていたこの日が8日。強制的に今日から3日間は18きっぷの旅となる

日出塩訪問の後は篠ノ井線を北上して篠ノ井で下車するつもり。日出塩に立ち寄った後は後戻りするのではなく前身あるのみなのだが、ここで懸案事項がある。前夜は春日井に宿泊(名古屋のホテルが満員だった)し、8月と同様に6時13分に名古屋を出る中津川行きに乗車すると松本行きに接続して日出塩まで連れていってくれるのだが、先に当駅の時刻表を披露すると

このようになっている。日出塩到着が9時33分。その場合、次の塩尻行きは2時間以上後の11時42分で、ちょっと空きすぎだ。最初はそれでもいいと思っていた。なぜなら8月にコミュニティバスに乗車した際、日出塩と贄川の間に「これより木曽路」の石碑があることを知ったからだ

日出塩駅から徒歩約30分。ちょうど良いではないか。行って帰ってこよう、9月になれば暑さも多少は和らぐだろう、と考えていた。だが直前になっても暑さは相変わらずで、いくら標高800メートルとはいえ往復1時間歩くなんて絶対無理となった。そこで、ややゆっくりめに宿を出て中津川から塩尻まで特急ワープし、塩尻から普通で折り返し10時58分に日出塩着、11時42分に再び松本方面へと向かうことに。これなら滞在40分ほどだ

簡易駅舎がお出迎えもしっかり残る「S7年」

と、そんな思いをしてたどり着いた日出塩駅は

ご覧の通りの簡易駅舎

一応、扉は閉まるようになっていて寒さはしのげるようだ。中央西線では簡易駅舎は今のところ珍しい存在で、中津川以北の今回のシリーズでは落合川と当駅のみである。以前は開業時以来の木造駅舎があったが、10年以上前に現在の形となった。駅の歴史は1913年(大正2)に洗馬と贄川の間に信号場として設置されたことに始まる。1926年に駅に昇格した

ただ駅には古い建物も残されている。駅舎と反対側の中津川方面ホームにある

木造の待合所には

昭和7年(1932)の財産票が張られていた

「国」でないことを初めて知る

駅は高台にあり、ふもとには公民館。2022年度の1日あたり乗降者数は16人で、中央西線では37駅(塩尻、金山をのぞく)中の最下位だが、案内で分かるようにお手洗いの設置はある

ということで無事に全駅訪問が完了。とても恥ずかしいことだが、60歳を過ぎるこのトシまで「木曽」という旧国があると思っていた。「木曽路」はあっても「木曽国」はない。各駅のことを調べているうちに初めて知った。このように駅巡りは年寄りに、さらなる勉強をさせてくれる

また多くの明治からの古い駅舎が今なお残るという事実もあらためて知らされた。これらの駅がいつまで残るかは分からない。旧中山道の宿場町にちなんだ駅は大丈夫という気はしないでもないが、これはあくまで私の楽観的予測だ。耐震性を持ち出されるとどうしようもないのが古い駅舎の宿命でもある。基本的には普通しか停まらない駅ばかりだが、明治を表す「M」の入った財産票とともに、その目に焼き付けてほしい

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

中央西線の駅をすべて訪問してみよう~ゴールは事実上の長野県入口

南木曽駅の駅名標

※訪問は2024年8月7日

列車本数が大きく変わる

原野駅から南下して南木曽駅で下車。この間も電車で50分揺られた。駅で降りる度にまた50分移動を南北で繰り返していて生産性があるようなないような行動をとってきたが、もう北へ向かう列車に乗ることはない。ここがゴールだからだ

到着時刻は16時44分。朝6時13分に名古屋駅を出たのだから10時間以上が経過している。まずはこの日のダイヤが通常通り運行されたことに感謝である。6月の訪問ではダイヤ乱れがあって、予定が予定でなくなって困った。その時に学習したこともあってダイヤが乱れても対応できるように各駅を巡る度に30分以上の電車旅をした側面もあったのだが、とにかくホッと一息。安堵したのは無事に道程をこなせたことも大きいが、当駅から南は列車本数が増えるということもより大きい

これまでの記事でも書いてきたが中央西線は名古屋~中津川と中津川~塩尻(多くの列車は松本まで直行)で運行が分断される。と同時に中津川以南と以北で本数も大きく変化するが、本数が減る中津川以北でも岐阜県で最も北となる坂下そして南木曽と二段階で列車が減少する。つまり、南木曽まで来れば当駅発の列車もあるため名古屋方面そして新幹線経由での帰宅がほぼ確定となる。現行ダイヤでは当駅発の中津川行き普通18本のうち8本が当駅始発となっている。もっとも8本のうち5本は5時台、6時台のもので。これは坂下駅の項でも記した通り、2年前まで存在した早朝の南木曽発名古屋行きの名残である

元々は読書村

今さらだが「なぎそ」と読む「みなみきそ」ではない。コンクリート製ながらも観光地としての雰囲気を壊さないようにデザインが工夫された大きな駅舎を持つ。たまたまいなくなった時間に撮った写真だが、駅前にはタクシーが常駐している。駅前には商店や飲食店、土産店が並ぶ。中央西線で駅近くで、すぐ飲食店や商店が見つかるのは、他には木曽福島と奈良井ぐらいで、旅人には貴重な存在

駅周辺は中山道の三留野(みどの)宿が広がり、約4キロ離れた場所には妻籠(つまご)宿がある。妻籠宿へは当駅からの路線バスも発着していて観光客には当時の雰囲気が今も色濃く残る妻籠宿の方が人気があるようだ

駅は1909年(明治42)の開業。坂下から当駅まで岐阜県と長野県の県境を越え鉄路が入ってきた際に設置された。当時の駅名は宿にちなんで三留野駅。岐阜県側から入って長野県最初の駅は田立だが、田立駅は信号場としてスタートし戦後に駅昇格している。事実上、長野県の入口の駅となる。もちろん南木曽町の中心駅。長らくこの駅名が使用されてきたが、戦後の1961年(昭和36)に周辺の村が合併して南木曽町が発足。これに伴い1968年に駅名も南木曽に変更された

ちなみに駅の所在地は「南木曽町読書」。一体どう読めばいいのか戸惑ってしまうが、普通に「よみかき」。かつては読書村だった。明治初頭に「与川(よかわ)村」「三留野(みどの)村」「柿其(かきぞれ)村」の頭の3文字をとって「よみかき=読書」としたという

現在、駅は簡易委託化されている

観光案内所が入居する一部特急停車駅ではあるものの、窓口は無人の時間帯も多いが、昭和50年代を感じるステンレスの改札が残る

国鉄時代を感じる事務室の表示。そしてもうひとつ、これはぜひ注目してもらいたいのは跨線橋

いわゆる「団子鼻」の新幹線のイラスト。開業から長らく新幹線といえば、この顔つきだった。年代的に駅舎改築の時に描かれたものと思われるが、新幹線が近くを通るわけでもないのにわざわざ描かれている。それほど国鉄を象徴する乗り物だったのだろう

さぁ帰ろう。ダイヤ的には、たまたま特急が停車する時間だったが、手にある青春18きっぷをギリギリまで使用するため、数千円の出費は惜しんで、その後の普通で帰ることにする。中津川まで行けば、後は何とでもなる。帰宅は数時間後となるが、南木曽駅が長い1日の終わりだった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

中央西線の駅をすべて訪問してみよう~残念ながら参拝はかなわず

原野駅の駅名標

※訪問は2024年8月7日

近づく旅の終わり

原野駅に到着。今回も野尻から50分かけての移動(ただし上松で10分以上の長時間停車があった)。効率がいいような悪いような

ただ今日の旅はそろそろ終わりにさしかかろうとしている。時間は15時40分。まだまだ日没まで時間はあるが、単純にここから名古屋まで青春18きっぷのみで向かうと名古屋着は19時ごろとなる。今日中に帰宅することを考えると、かなりいい時間だ(さすがに名古屋からは新幹線である)

原野駅は塩尻側から見ると木曽福島のひとつ手前にあたる。現在は木曽町だが、平成の大合併までは日義村にあった。日義村については宮ノ越駅で紹介した

木曽義仲にちなんだ村名。開業は1955年(昭和30)と戦後10年を経てから。この駅については、どこで学んだことか忘れたが知識があった

ホームと神社が直結しているということ。野尻から来たので乗車電は塩尻方面行き。どんな形でつながっているのかは全く分からない。というか、例によって調べていない。そして私が降りた側のホームにあることは下車してすぐ分かった。しかし

あれ?

立ち入り禁止のロープが張られていて入れない。理由は不明。こちらは「原野八幡宮」。相撲場もあって、ぜひ参拝をと思ったが、とても残念。ということで「駅への参拝」としよう

公道でつながれている上下線

原野駅は跨線橋も構内踏切もない駅。公道を介して上下線を移動することになる

これは中津川方面側にある駅舎に掲げられた解説板

私は塩尻方面ホームら到着したので公道からだと案内板がある

その駅舎は

戦後生まれの割には年季を感じる

財産票が開業当時からの駅舎であることを記している

駅舎側に街が広がり、旧中山道に出る。少し歩くと中山道の中間点があるようだ

国鉄時代末期にはすでに無人駅となっていた。窓口、手荷物受付ともに塞がれている

中津川方面ホームから駅舎へは階段を利用する。こう書いてくると、寂しい駅のようにも感じるが、2022年度の1日あたりの乗降客数は60人で木曽平沢駅、須原駅の66人とあまり変わらない。実際に駅の乗降時は地元の方の乗降が何人かあった

名所案内で最も目を引くのは木曽駒ヶ岳。当駅から16キロと比較的近いようにも感じるが、ここから駒ヶ岳登山という話はあまり聞かない。そもそも海抜2956メートルなんて簡単に言うなよ、と思ってしまうが、ここ原野駅の標高は実は837メートル。3分の1ぐらいの高さにはなっている

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

中央西線の駅をすべて訪問してみよう~素朴な駅舎が開業時のまま残る

野尻駅の駅名標

※訪問は2024年8月7日

大いに元をとる

藪原からは野尻へと移動する。両駅の距離は約40キロで所要時間は約50分。大阪から出た電車が京都の手前あたりまで行ってしまうのと同じ長さなので結構な移動である。前記事でも書いた通り、ダイヤが薄く(本数が少ない)、炎天下の中、外で待っているぐらいなら、エアコンの効いた車内で過ごした方がいいとの考えに基づく。もっともこれは正しい「駅訪問」とは言えず、時間が空けば現地で過ごして、駅だけでなく周辺の細かいところまでを「ウォッチする」のが、正統派駅訪問だと思うが、14時過ぎという時間は、いかんせん暑すぎて、わずか数分でも歩く気がしない時間帯となっている

この区間の運賃だけで680円。そもそもスタート地点の名古屋から最初の目的地までの洗馬までの運賃が3080円もして、今日のうちに名古屋経由で帰宅するので、青春18きっぷの1日分の元は大いにとっている。その時は、こんなことを考えながら列車に揺られていたが、既報通りの18きっぷルール変更で、元をとるという基本的な考えは同じでも、今後は3日単位や5日単位で考えていかなければならなくなる

やや話がそれかけたが野尻駅に到着。上屋を支える木柱の擦れ具合がいい感じだ

野尻宿に基づく

野尻駅は大桑村の3駅のひとつ

大桑駅の項でも記した通り、須原、大桑、野尻の3駅が村内にあり、須原と野尻についてはともに中山道の宿場町に基づく。大桑村は町村制が施行された1889年(明治22)以来の村で、もちろん当時は鉄道は走っていないが、3駅とも大桑村に設置されて今も大桑村のまま。野尻駅は1909年(明治42)の開業。南木曽(当時は三留野)から鉄路が1区間北上した。現在、途中駅となっている十二兼駅は信号場にもなっていない。それが9月1日のことで、12月1日には須原まで延伸(十二兼同様に大桑駅もまだないので、こちらも1区間の延伸だった)されたので、3カ月だけの終着駅だった。もちろん路線名は中央西線である

駅舎は開業時からのもの

財産票には「M41年10月」と記されている。開業の1年前ということになるが、すでに建物はできていたのだろう

もちろん窓はアルミ補強されているが、駅舎そのものは塗装もほぼ当時のままだと思われる

駅からすぐの場所に旧野尻宿が広がる。野尻は全国各地にある地名で、当地においては「野路里」「野次里」という表記も古い文献に見られるという。大桑村HPによると、木曽11宿の中でも長さは奈良井宿に次ぎ、外敵を防ぐため道路は曲がりくねっていて「七曲がり」と言われているという

駅前の周辺案内図にも「七曲がりの街並」と書かれている

村で唯一、窓口が残る

駅名板はJR東海という文字で分かる通り、新しいもの

駅構造は2面3線。その向こうは今も貯木場となっていて木材が積まれている

貨物ヤードの跡もくっきり残っていた。構内は広い

そして駅舎内。訪問時は営業時間外だったが、簡易委託駅としてきっぷ売り場がある。大桑駅、須原駅の窓口が9月いっぱいで業務終了となったことはこれまで記した通りだが、野尻駅の窓口は残っている。大桑村HPでも「10月1日以降の乗車券、定期券等の購入については、 野尻駅の窓口をご利用ください」と書かれている。また当駅の管理は中津川駅だが、大桑、須原の両駅は木曽福島駅の管理である

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります