きっぷ

師走の外房線各駅訪問~岬町のもうひとつの駅は「いかにも」の木造駅舎

太東駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

町名は有名すぎる岬から

冬の柔らかな日差しとともに長者町のお隣の太東に到着。各地を訪れる度に酷い雨に遭って、列車が止まったり、時には帰宅できずにもう1泊を強いられてしまうようなことも多い私だが、なぜか千葉県では好天に恵まれる。四季を通じて数え切れないほど千葉県の各地を訪れているが、仕事も含め、千葉の雨で記憶にあるのは、この1年前の2022年12月に行った内房線訪問の2日目ぐらいだ

その太東駅は旧太東町の駅で駅名もそれに基づくが、駅が開業した1899年(明治32)は太東村だった(長者町駅と同時開業)。自治体の変遷をたどると日本中に自治体が誕生した町村制施行時が太東村で、その後の合併を繰り返していく中で戦後に太東町となり、次いで長者町と合併して岬町に。そして平成の大合併でいすみ市となった

太東村の自治体名は昔からあったものではなく、九十九里浜の南端として知られる太東岬から付けられた

灯台と岬まで歩いて行く人はあまりいないだろうが、車だと10分もあれば十分に到達できる。ただし公共交通機関でのアクセスは悪いようだ。初日の出の人気スポットでもある

国鉄らしい木造駅舎

木造駅舎が健在。豪華すぎず質素すぎず、駅員さんの寝泊まりも可能-という地方の国鉄駅でよく見かけるスタイル。駅の設置は房総鉄道の手によるものだが、少なくとも駅舎は明治からのものではないと思われる。内房線、外房線ともに財産票を見つけられずに苦労した

駅名板は三角屋根の下、入口部分に掲げられている。こちらも年季もの

駅の所在地は「いすみ市岬町椎木」。駅舎は海とは逆側にある。「しいぎ」と読むそうで商店街がある。公共物の所在を見ても線路を挟んだ海と逆側が太東町の中心地だったようだ

駅舎内にも注目

外観とは対照的にホーム側の駅舎の風景は年代を感じさせる。ニャンコが爪とぎでもしたのではないかとも思ってしまう木製の柱も全国で見られる。なお番線案内に「3」とあるが

かつての2面3線構造は形こそ残るものの、中間にある2番線は写真で分かるように錆びたレールがあるだけで、事実上の廃ホームとなっていて1番線と3番線のみの運用となっている

有人の時間帯は長者町駅とほぼ同じの9時20分から16時30分までで、昼休みがある

何気なく貴重なのは精算窓口が有効なこと

駅舎内は有効スペースとして利用されていて

最寄り(といっても歩くのはちょっと遠い)の飯縄寺の解説のほか

や写真。さらには

地元の中学生による「今月の一冊」コーナーまで。いろいろな意味で飽きない駅となっている

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師走の外房線各駅訪問~木造駅舎のたたずまいと屋根の上の駅名板は特Aランク

長者町駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

素晴らしい駅舎紹介していきます

長者町駅に到着

さて駅の紹介は、どの路線も基本的に旅程通りに報告しているのだが、ここまで上総一ノ宮以南の駅を浪花、三門、東浪見と訪問。いずれも簡易的な駅舎ばかりだった。続けて読んでくださっている方は「なんだ、外房線は簡易駅舎ばかりか」と思われかねない。しかし、これはあくまで偶然。外房線の25駅(千葉と安房鴨川をのぞく)のうち、駅舎のない駅は圧倒的に少数で、たまたま電車のダイヤの都合でこうなってしまっただけ。ここからは素敵な駅舎を紹介していきます

そんな駅舎の中で私の中で特Aランクに入るのが、ここ長者町駅

趣のある木造駅舎。開業は1899年(明治32)と19世紀。上総一ノ宮(当時は一ノ宮)~大原が房総鉄道によって延伸された際に設置された。駅舎がいつからのものかは調べられなかったが、かなり古いものであることは間違いない

現役感あふれる

入口に乗っかっている

駅名板がいい感じ

当駅の良さは、時間制限があるとはいえ、基本的には有人駅であることだ。現在はいすみ市だが、平成の大合併まで存在した岬町の町役場最寄り駅で、今も「現役感」にあふれている。地元の観光協会や商工会の看板にもそれを感じる

順序が前後するが

電車を降りたホームからの景色も良い

改札口にもかわいい駅名標。こちらは「おかえりなさい」である

元々は東京の地名

全国で見かける長者町。地域によって由来はさまざまなようだが、こちらの長者町は江戸の地名に由来する。1回目の東京五輪直前まで住居表示として存在した下谷長者町(御徒町駅の南側にあった)は江戸幕府ができる前、「長者」という名前の方の豪邸があったらしく、できすぎの名前ではあるが、そのまま地名となり、江戸時代に入ってからは幕臣の邸宅が並ぶ町となった。幕臣の一人の領地が、ここ千葉県にあったため、江戸の邸宅の地名をいただき長者町となった。ちょっとややこしいが、当時から明治にかけての当地と付近一帯は漁村と農村が続いていたが、それぞれが「○○村」を名乗る中、当地はずっと長者町だった

線路がやってきたころは、いくつかの村と合併し、長者町として統合されていた。1961年(昭和36)に太東町と合併して岬町が誕生している

現在はいすみ市の岬庁舎となっている旧岬町役場までは徒歩10分ほど。駅前は町が広がる

JR東日本のHPによると有人時間帯は9時20分~11時30分と12時30分~16時30分。訪問時は有人時間帯だった

東京の長者町は住居表示から消えてしまったが、当駅の住所は今も「いすみ市岬町長者」である

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師走の外房線各駅訪問~超難読駅は関西人向け?不思議な複線区間上に存在

東浪見駅に到着

※訪問は2023年12月13日

これは読めません

三門から上総一ノ宮の1駅お隣まで戻って東浪見で下車。これで「とらみ」と読む。レベル高の難易度だ。浪花駅を前々記事で紹介したが、「ナニワ」と来て今度は「トラ」である。関西人にはなじみの深そうな感じもするが、こちらにおいては、そもそも読めないのだから、なじみも何もないかもしれない

所在地は一宮町だが、駅が開業した1925年(大正14)は、まだ東浪見村だった。戦後の1953年(昭和28)に一宮町と合併して自治体としての東浪見村はなくなったが、駅の所在地は今も「一宮町東浪見」である

九十九里の海岸に泥がたまり「泥海(どろうみ)」と呼ばれていたものが、なまって「とらみ」となり、当初は「虎見」と表記されていたのものが、やがて「東浪見」になったという。古い文献には虎見の地名も残っているそうで、そのままだったら、浪花→虎見という乗車券が売れる時代が訪れていたかもしれない。とにかく海は東にあって、そこの浪を見るわけだから、西浪見はあり得ないのだ

駅は小高い丘の上に設けられた形となっていて階段とスロープで駅舎へと向かう

駅舎は内房線や外房線でおなじみの簡易的なスタイル。といっても前者も貨車改造タイプなので簡易的駅舎には変わりない。かなり早い段階から無人化されていたようだ。上総一ノ宮からわずか1駅だが、当駅から運行本数が大きく減る

駅のホームは山に面したようになっているが、駅舎を出ると東浪見の街となる。九十九里浜までの距離は両隣の上総一ノ宮駅や太東駅よりも近い

こちらはホーム階段からの眺め

ICリーダーとベンチを備えた簡易的な駅舎。お手洗いもある。ちょっとオシャレな駅名標があるが、暑さ寒さを凌ぐという駅舎ではない。かつては貨物も取り扱いを行っていたようだが、面影は見られない

全線複線化の夢

跨線橋から構内を俯瞰すると複線区間にあることが分かる。外房線は東京からの直通電車がやって来る上総一ノ宮までが複線で、そこから先が単線というイメージだが、実は上総一ノ宮から1駅目の東浪見から複線となる。複線部分は長者町までの2区間、わずか6キロ。その先の御宿~勝浦の1区間約6キロも複線化されているが、上総一ノ宮から1区間が単線で再び複線区間が少し続くという、ちょっと変わった構造となっているが、これは全線複線化の夢の一端である

千葉方面から上総一ノ宮まではベッドタウン化が広がるとともに、部分的な複線化が続けられていたが、全線が複線化されたのは1986年(昭和61)の10月で民営化のわずか半年前。もちろんJR転換は決まっていて、このころは国鉄からJRへの手向けとして各地で追い込み工事や新駅の設置が行われていた時代

これで外房線の複線化は一度終わったが、民営化から数年が経って再び複線化の機運が高まり、1995年から1996年にかけて一部複線化が行われた。この複線化は特急のスピード向上には多少役立ったが、それから30年近くが経過しても複線化は進まず、現在の2両編成による1時間に1本の運行には設備を持て余し気味だ。ある意味、夢の跡となっている

なおマージャン愛好家にとっては、東浪見駅はかつて存在した麻雀博物館の最寄り駅として知られる駅だった

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師走の外房線各駅訪問~印象が強すぎる棒状駅は有名人海岸への最寄り

三門駅に到着

※訪問は2023年12月13日

スマホトラブルで道程変更

浪花駅の次に訪れたのは

茂原。本日の宿泊地だが、時間はまだ10時半。実は全く予定になかった行動で、要因はスマホのモバイルバッテリーのトラブル。旅では2台のバッテリーを持ち歩くようにしていて、よほどのことがない限り、それで事足りるのだが、今日は早朝からの車内でいろいろ調べものをしていたためバッテリーの消費が早く、基本的に予備機となっているもう1台のバッテリーが久々の登板となるので念のために接続してみようとなったのだが、ウンともスンともしない。これはマズい。こういう時に役立つのがレンタルのバッテリーで、かつて紹介したこともある。大手コンビニには大概設置があるし、なかなか容量が大きく、これで1日400円ほどで凌げるのなら言うことはないのだが、ひとつ問題があって地方に行くと貸し出し場所が激減するのだ。コンビニはあっても設置がないというケースが多い

昨年も北海道と長野でピンチに陥って大苦戦した。冷静に考えると、それもそのはずで充電場所が少ない地方ほど必要性が高い、と考えるのは都会からの旅人の発想で、完全に車社会となっている地方では車内で充電できるのでレンタルバッテリーの需要は低いのである。浪花駅への道中でピンチに気づき検索してみたが、設置のあるコンビニはあっても台数が不安だったり、駅からコンビニへの距離が遠かったりで不安が大きい。確実な場所を探したところ上総一ノ宮も飛び越え茂原まで来てしまったという次第。とにかく無事にレンタルできて再び南下。もちろん

上総一ノ宮も強制的に再訪である。このタイムロスは大きかった。茂原駅のロッテリアで道程を組み直した

正確な駅名は?

そして到着したのが

三門駅。ご覧の通りカーブ状に設けられた単式ホームの駅。ただ年季の入った駅名標を眺めアレ?と思ってしまった

駅名は「みかと」だったのか。これは意外な難読駅だと一瞬思ったがローマ字表記は「みかど」である。サムネに使用した縦駅名標も「みかど」になっている。あまりにも濁点が鮮やかに消えすぎて誤読となってしまった。というか駅名標をよく見ると「両隣駅の漢字表記は?」クイズとなっている

だが、その一方で

キロポストはきれいに張り直されていた。大きなお世話かもしれないが、キロポストをチェックするのは鉄オタぐらい。そもそも数字の意味を知っている人の方が少ないのでは? 駅名標の復旧を希望したい

簡易駅舎も周辺の知名度は高い

駅舎は内房線でもよく見かけた簡易スタイル。かなり以前に無人化され、国鉄時代には貨車利用の駅舎となっていたようだが、火災に遭って現在の姿となった

ただし駅の歴史は古く1903年(明治36)の開業。1899年に大原まで敷設していた房総鉄道が長者町~大原に設置した。当初は貨物駅だったが、間もなく旅客駅となった。そのためか長者町までは、わずか1・6キロしかない。ちなみにホームの棒状化が進む内房線とは対照的に外房線の駅で単式ホームなのは当駅と行川アイランドだけである。ホームへは駅舎から、そのまま入る

それでもお手洗いはしっかり設置されている。冬場のローカル線旅では大変重要である

貨物駅としてスタートした面影は駅にはほとんどないが、このあたりで国道128号は駅へと接近している。平日正午の時間帯でも、かなりの交通量だった

棒状ホームにボロボロの駅名標と、ローカル感が強すぎる駅ではあるが、当駅周辺は知名度が高い。駅名は明治初期までの三門村に基づくが(駅舎と逆側は今も岬町三門)、海の方へ向けて歩くと日在(ひあり)海岸へとたどり着く

日在海岸は森鴎外らの文化人が別荘を建てた場所で、映画日活の保養所である「三門日活荘」があった。また房総鉄道生みの親である大野丈助の豪邸もあった。なお現在の日在海岸はウミガメ保護の観点で海水浴などのレジャーは禁止されている

駅へと戻る。特急「わかしお」があっという間にホームを過ぎ去っていった

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師走の外房線各駅訪問~関西人濃度が濃いほど読めない「難読駅」

浪花駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

ローカル線色が急に濃くなる

上総一ノ宮から南下を開始。時間は9時20分。通勤通学帯が終わりつつある時間帯で、しかも千葉とは逆方向。この時間の流動については分からなかったが、前記事にも記した通り、ここから2両編成とあって、あっという間に座席は埋まる。内房線の記事でも触れたが、現在の上総一ノ宮以南の運行の主な形態は房総半島をグルリと回る上総一ノ宮~木更津の内房線と外房線をまたぐ普通列車で、途中駅の停車時間によるばらつきはあるが、すべて乗り通すと3時間~3時間半。「青春18きっぷ修行」とも言える長時間乗り放し区間となっている

私にはとても無理な行程だが、今日と明日の2日間は、この2両編成にお世話になり続ける。6駅目となる浪花で下車。6駅といっても、このあたりまでは駅間が短い区間が多く、約20分で到着する

わずか20分ではあるが、車窓の風景はすっかりローカル線のそれとなっている

跨線橋からの景色。1面2線のホーム周辺は田園風景だ

読みは「なみはな」

さて駅名の読みだが、サムネや最初の写真でも分かる通り

「なみはな」である。「なにわ」ではない。「浪速」「浪華」「浪花」と大阪を表す言葉が多いため、大阪や関西の人間はそう読んでしまいがちだ。また、こちらは関西のものではないが「浪花節」もあるので誤読が多い。かくなる私も最初に駅名を見た時は間違って読んでしまった

駅は1913年(大正2)の開業。前身の房総鉄道が明治期に大原まで線路を伸ばしていたが、やがて国会買収となり、国鉄としての最初の延伸部分となった大原~勝浦が開業した際に設置された。駅名は1955年(昭和30)まで存在した浪花村(現在はいすみ市と御宿町に分かれた形となっている)に基づく。明治時代に複数の村が合併して自治体が誕生した際、海と陸地での豊漁豊作を願って「浪」と「花」を合わせて新たな村名を作ったということで、その経緯から「なみ」「はな」としか読みようがない。もっとも当時は現在よりもはるかに浪曲による浪花節はメジャーな存在だったはずで、当時から誤読は多かったと予想されるが、残念ながら調べきれなかった

広大な敷地が往時をしのばせる

駅舎は簡易的なコンクリート製となっている。見た目では左半分が事務所のようにもなっているが、お手洗い。この駅舎になったのは国鉄時代だが、すでに無人化されていたようだ

目を引くのは広大な駅前部分。かつては開業時からの立派な木造駅舎があったようだが、1980年(昭和55)に現在のものとなったので、もう半世紀が経過しようとしている

駅舎から、かつての浪花村の中心部が広がる。5分ほど歩くと、地域の主要道路である国道128号に到達し、コンビニや飲食店がある

かなり規模の大きな側線があったようだ。最初の跨線橋からの眺めからすると、それなりの規模の貨物ヤードだったと思われる。ホームには立派な待合室が残る。看板で分かるように今もJRの土地だが、頻繁な巡回監視中かどうかは分からない

こちらが時刻表。見て分かる通り、昼間は1時間に1本の運行で、ほぼすべてがワンマン運転。その中で光るのが、上りで1本のみ設定された6時36分発東京行き快速。この時は、この1本を巡って大騒ぎになるとは思ってもいなかった。ちなみに現在、当駅からの上り電車はすべて上総一ノ宮行きか千葉行きの普通である

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師走の外房線各駅訪問~東京からダイレクトで行ける知名度高の一宮駅

上総一ノ宮駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

基本的には強制下車

上総一ノ宮に到着。到着というより強制下車である。外房線は当駅を境に運行や運用が大きく変わる。東京、千葉側から見ると茂原そして上総一ノ宮と二段階で運行が減るが、最も変化するのは当駅から。千葉方面からの電車は、ほぼすべてが当駅止まりで先に行くには乗り継ぎが必要となる。昼間については当駅から1時間に2本の運行が1本へとなるため、列車によっては長時間の待機が求められ、また東京からの最大15両という長大編成の電車もここまでで、当駅から先は主に2両編成。地元の人は、あらかじめ乗り換えに便利な車両に陣取るようだが、私のように慣れていないとホームを延々と歩くことになる。また地元の高校が試験中など早めに終わる日は2両編成が大変混み合うので時によっては座席争奪戦が大変なようだ(逆に東京方面へは昼間は100%座れる)

また千葉からずっと続いてきた複線区間は当駅までである。先にも部分的に複線区間が設けられているが、連続しているのはこちらまで。要衝の駅でもある

終着電車が多いということは、大都市圏にある「知名度の高い駅」である。日々通勤通学に利用していると、そこまで行かなくてもホームや車内のアナウンスで駅名がすり込まれる。首都圏なら「籠原」「小金井」は都市名でもないのに知名度は高い。関西圏なら「野洲」「網干」は結構な難読駅であるにもかかわらず、日常的に東海道線や山陽線を利用している人は、ほとんどが読めるはずだ

文字通り「一宮」の町

ただ読めても、そこに何があるか分からない駅とは異なり、当駅については想像が容易である。「ここに上総の国の一宮神社があります」と教えてくれているからだ

玉前神社が上総の国の一宮

駅から徒歩で10分もかからない。元々は玉前が付近の地名だったようだが、いつの間にか付近一帯が一宮と呼ばれるようになり、地名となった。自治体名も一宮町。駅から神社にかけてが町の中心部で裁判所などの国の施設も道中にある

京葉線の朝の快速廃止問題が全国ニュースになった際、千葉市長の声とともに一宮町長のインタビューも流れていた。やはり「一宮」という言葉のメジャー感は大きい

落ち着いた表情の駅舎は東京五輪を前にリニューアルされた。1897年(明治30)に当時の房総鉄道が大網から当駅まで鉄路を伸ばし開業した。全国各地そうだが、寺社仏閣というのは鉄道敷設の大きな要因のひとつである。最初の駅名は「一ノ宮」。後に「上総一ノ宮」となった。駅の住所も「一宮町一宮」だ

東京行きの発着駅なので、もちろん無人駅ではないが、みどりの窓口は2年前に営業を終了。指定席券売機が設置されている

東京五輪の会場にも

跨線橋の奥に自動改札機がある。こちらは新設された東口のもの

こちらは駅前の地図だが、駅舎と逆側には九十九里浜が広がって東京五輪のサーフィン会場になったため、新たにIC乗車のみ対応の東口が設置された

戦国時代には一宮城を巡る大攻防戦が繰り広げられるなど、見どころの多い町でもあるが鉄オタ的には長大編成から2両編成の乗り換えを体感してほしい駅でもある。ここから1時間に1本区間に入る

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師走の外房線各駅訪問~沿線の発展を物語る戦後生まれのコンクリ駅舎

永田駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

本納から1駅戻る

本納から1駅千葉方面へと戻り永田で下車。本納は茂原市だったが、こちらは大網白里市。漢字4文字の都市として認知度の高い同市の中心駅は大網で、東金線との分岐駅でもあり、千葉方面から来運行運行本数が減少する境目となる駅でもあるが、元々は同市(当時は大網白里町)には大網しか駅はなく、1959年(昭和34)に、もうひとつの駅として永田駅が設けられた

明治期に房総鉄道という会社によって工事が始められ、最終的に千葉から大原までが鉄路で結ばれた後に国鉄となった外房線(当時の名称は房総線)は1929年(昭和4)には全通しているが、全通以降の新駅は少なく5駅しかない(うち1駅の大巌寺は戦前にできてわずか3年で廃止されている)

永田駅の後に開業したのは観光目的の行川アイランドのみなので、周辺人口の増加という必然性で設置された最後の駅となっている。千葉そして東京までの時間と距離、ベッドタウン化を考えると、やや意外でもある

昭和30年代を物語るようなコンクリート駅舎。このころ全国には規模は違えど国鉄の手によって同様の無骨な駅舎がいくつも造られた。建設費用や強度、耐火性を考えると最も効率が良かったのだろう。と同時にそれまでの主力だった木造駅舎は姿を消していく

周辺は住宅街

ホームから、やや低い場所に駅舎がある。構造は2面2線

駅入口から千葉方面ホームへはすぐ入れる。本納駅とは異なり、開閉式の自動改札機はなくIC乗車の場合はカードリーダーにタッチする

無人駅ではないが訪問時は無人の時間帯だった。営業時間を見ると朝夕の通勤通学を避けるようになっている。最も利用者の多い時間帯になぜ?と思われるかもしれないが、JR東日本のHPによると2022年度の当駅の1日あたりの乗車人員は786人で、うち定期利用が612人。利用者数は基本的には、この2倍となる。前記事で取り上げた本納は、もっと利用の多い駅で、1日の乗車は定期利用1093人を含む1402人。本納も、有人となるのは永田とほぼ同様の時間帯だったが、通勤通学帯は、ほとんどの旅客が定期利用者でピッと触れるだけで出入りするので駅員さんの出番はほぼないのである。IC利用時のトラブルについては、おそらく定期利用のもう片方の駅は、終日駅員がいるような、大きな駅である可能性が高いので、そちらで処理してもらおう、という発想だろう

ホームのキロポスト。こちらは駅舎の逆側だが、新興住宅街となっている様子が垣間見える

地図を見ても新しく設けられた駅を中心に住宅街が広がっていることが分かる

先に挙げた利用者数はコロナ禍の影響を受けた数字で、それまでは1日の利用者は1000人を超えていた

跨線橋からの眺め。駅の設置時はまだ非電化単線時代で、利用者も100人に満たなかったという

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師走の外房線各駅訪問~レンガ土台の柱が印象的な木造駅舎は19世紀の開業

本納駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

1年前と同じ電車に乗車

朝6時半の品川駅。こうして見ると、まだ人は少なく感じるが各ホームを結ぶ通路はいっぱいだった

手元には冬の青春18きっぷ。いつもは地方の駅に出かけたタイミングで購入するが、今回はそれに適した旅はなく、神戸市内の駅で購入。それでもやや渋めの駅で買い求めた

6時41分発の総武線快速君津行きに乗車(当時の時刻)。何のことない、1年前に内房線の各駅訪問で乗車した電車と同じ。今回は外房線を目指す。ただグリーン利用を控えたことがやや異なる。なぜかというと蘇我での乗り換えがあるから。蘇我までは約1時間。昨年は終点の君津まで乗り通し、1時間50分の乗車だったためグリーン車に乗ったが、1時間しか利用しないのなら普通車である

蘇我駅でそば&明太子ご飯のセットの朝食。ここから上総一ノ宮方面への列車に乗り換える。ちなみに内房線、外房線そして京葉線と交通の要衝となっている蘇我駅だが、帳簿上の所属は外房線である

いくつもの顔を持つ沿線

外房線は千葉を発して安房鴨川までの約93キロを結ぶ路線。内房線が房総半島を東京湾沿いに走るのに対し、太平洋側を走る。千葉から太平洋までの距離があるため、沿線はさまざまな顔を持つ。内房線が千葉から見て君津までと、それ以遠に二分されるのに対し、外房線は東金線との分岐になる大網までと東京からの直通電車の終点となる上総一ノ宮と、それ以遠で本数が異なり、大網~上総一ノ宮でも途中の茂原止まりがあるため本数がどんどん減っていき、茂原を越えると30分に1本、上総一ノ宮からは1時間に1本が昼間の標準ダイヤとなっている。要は千葉から離れていくと徐々に本数が減っていく運行だ

ということで最初に下車したのは本納駅

外房線は千葉から東に進み、大網から南下して太平洋沿いを進むが、大網から二つ目の駅。現在は茂原市だが、以前は本納町だった。平成の大合併ではなく1972年(昭和47)に茂原市となった

本納駅の開業は1897年(明治30)で19世紀からの歴史を有する。当時は房総鉄道の駅だった

木造駅舎とホーローの案内板

木造駅舎を有する。千葉から大網までは近代的な橋上駅舎が並ぶ外房線だが、大網を過ぎると駅舎の雰囲気が急に変わる。開業時からの駅舎かどうかは判然としないが、かなりの歴史がある駅舎であることは一目瞭然

到着は8時半ごろで既に高校生の通学時間帯は終わっていたが、所要時間約30分の千葉方面への通勤の方で千葉行きは、まだにぎわっていた。上総一ノ宮までは東京からの快速がやって来るが、大網~上総一ノ宮は総武本線経由の快速は通過するが、京葉線経由の快速は停車という駅が複数あって、本納もそのひとつ

開閉式の自動改札機があるが、訪問時は無人。JR東日本のHPによると窓口の営業時間は9時20分~正午と13時~16時となっている。また同HPによると1日の乗車人員は定期利用1093人を含む1402人なので、1日の利用者数は単純計算で約2800人ということになる

ダイヤは東京、千葉方面への通勤通学に特化されていて朝の7時台は6本もの東京、千葉方面列車が運行されているのに対し、上総一ノ宮へは始発から、ずっと1時間に2本態勢。主に昼間に運行される京葉線経由の快速があるため、むしろ昼間の方が停車列車が増える

入口の柱や建物の土台がレンガであることが特徴的。なかなか見ない構造で、これを見るだけでも一見の価値がある

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延岡~宗太郎の5駅完了~その1 いつもの列車で細いホームに降り立つ

北川駅の駅名標

※訪問は2024年4月23日

夜明け直前の延岡駅から

朝の5時40分。この時間の延岡駅は昨年の10月以来だが、何やらいつもの光景になってしまった。ほぼ日の出の時刻だが、昨日夕刻からの雨がずっと降っていて雨雲に覆われ暗い。あまりにも酷い雨だと予定変更もあるかとも考えたが、少なくとも現在は小雨なので決行である。これぐらいの雨で予定変更していたのでは、ここまで来た意味がない

1日1・5往復の列車しか停車しない延岡~宗太郎の5駅訪問を今回で終わらせるつもりだ

初回が昨年5月9日で

2回目が昨年10月5日

この2回で宗太郎、市棚、日向長井の3駅を訪問。きっぷ売り場の運賃表を見ると

残るは北川と北延岡の2駅。とにかく早朝の1往復と夜20時台の上り(延岡→宗太郎)1本しかないので、すべての駅で乗降のどちらもこなそうとすると早朝からのべ5日間、延岡駅に行かなければならない。どちらかだけにまけてもらって、日向長井は3分間の交換停車中の時間を訪問とさせていただき、残る2駅を訪ねることにする

今回はきっぷを買っての乗車となった。前日に空路宮崎に入り、旅名人きっぷで宮崎県内をウロウロして夕刻までに延岡に到着

前日に宮崎空港駅で発券した2種類のきっぷ「旅名人きっぷ」は昨日1回目を利用して宮崎県内をウロウロした。今日は午前中のうちに大分県に入り「福岡・大分DCきっぷ」を利用するのだが、後者はエリアが大分県内つまり宗太郎以北となっている。大分県側から宗太郎まで来て、宗太郎から再び大分県に戻るのは事実上不可能なのだが、大分県内の駅と決まっているため日豊本線の南限は宗太郎。つまり早朝の部のみは現金乗車しかないのだ。1日に3700円分乗らないと元がとれない旅名人きっぷの1回分の権利をそれだけに利用するのはあまりにももったいない

いつもの列車に乗車

早朝の改札口

そして特急車両を利用した普通の佐伯行きに乗る。「3号車自由席」となっているが、過去にも紹介した通り、客扱いをするのは先頭の4号車のみ

本日の乗車は私を含め3人。一人はおそらく同業者(鉄道ファン)で、もう一人はスーツ姿の女性でビジネス客のようだ。この列車は車掌さんが乗っていて検札を行う。きっぷを提示すると「北川ですね」。料金表の写真で分かる通り、宗太郎までのすべての駅で料金が異なる。女性の方は佐伯で特急に乗り継ぐようだ。乗車したこの列車は、車両そのものは特急「にちりん」の大分行きとなるが、列車種別は普通から特急になるという説明をしていた

北川へは路線バスもある。北延岡、日向長井も通り、北川駅から徒歩5分ほどの熊田という停留所が終点で所要時間は30分ほど。もっとも「バスもある」とはいっても平日は1日3・5往復、週末は2往復である

延岡から15分で北川に到着。細長い島式ホームの駅となっている

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完了2年がかりの呉線全駅訪問~最後までとっておいた呉駅で締める

呉駅の駅名標

※訪問は2024年1月9日

26番目の駅はやはり

呉線で最後の紹介となる26駅目(三原、海田市をのぞく)

呉に到着。訪問そのものは初めてではなく、90年代の終わりごろ二河球場によく来たので、その度に呉駅で降りていた。ただし駅周辺は大きく景色が変わっていて、特に南側はかつての巨大な貨物ヤード跡が残っていたが、再開発ですっかり姿を消していた

足かけ2年に及ぶ呉線訪問で、何度も当駅を通過したが、最初は車窓の変化に驚いた

観光で訪れる人の多くは、南側へと向かう。駅と直結となるペデストリアンデッキでゆめタウンを経由して大和ミュージアムにそのまま行けるからだ

観光用の駅名標にも、もちろん戦艦「大和」が描かれているし、列車の接近メロディーは「宇宙戦艦ヤマト」である

戦前にコンクリート駅舎

北側の駅舎は私の記憶にあるものだ

現在の駅舎は4代目。JR移管を翌年に控えた1986年(昭和61)に完成した。呉線以外の乗り入れがないにもかかわらず、1903年(明治36)の開業から4代目というのは、かなりの建て替えの多さだが、これは戦争を挟んでいるため。明治生まれの初代はもちろん木造駅舎だったが、20年後の1923年(大正12)には、早くも2代目駅舎となっている。当時としては画期的なコンクリート駅舎で呉以東の三原への工事が決まったこともあり、軍都・呉にふさわしいものを、と建て替えられた。なお呉駅を出てすぐ東側は高架となっているが、これは建設時からのもので、昭和初期の車も少ない地方路線だということを考えると画期的。「踏切が多いと軍需輸送の際、妨げになる」という軍のアピールで高架化された

地方路線とはいっても、終戦時の人口は40万人と呉市は全国でも指折りの人口を誇った都市だった。市内を路面電車が走っていたことからも都市需要が大きかったことが分かる

しかし立派な2代目駅舎は1945年7月の空襲によって全焼。全焼というより壊滅に近いものだったという。それでも軍都への鉄路は重要だということで空襲の直後には仮駅舎が建てられ、終戦間もない同年8月には3代目駅舎建設が始まり、翌年5月には完成している。早すぎる復興だが、これは呉を占拠した連合軍が鉄道を必要としたからで、東京と呉を結ぶ連合軍の専用列車も運行を開始した。連合軍は呉市電の復旧も手助けしている。さんざん壊滅させておいて、即座に復旧に協力したことになる

呉線の思い出

すでにコンビニおにぎりで昼食は終わっているので、駅ビル内のロッテリアで一休み。呉線の中で駅ビルがあって多数のテナントが軒を並べているのは当駅のみである

前記事でも触れたが、路線内でみどりの窓口があるのは新広と呉だけで、特に呉には立派なものがある。ただ営業時間は短く、お昼休みの間はみどりの券売機を利用する旨が(駅員さんは改札に常駐している)。時計を見ると14時15分。営業再開まで45分もあるが、おそらくきっぷの変更か払い戻しだろうか、お年寄り夫妻がきっぷを手に待っていたことだけを報告しておく

ホームは2面3線構造。広と当駅間は、昼間は快速のみの運転(広~呉は各駅停車で呉から快速運転となる)で普通は当駅で始終着となる。2、3番線は広島方面だが、3番線は一部三原方面への列車も出るので番線案内には何も書かれていない

呉線を初めて利用したのは小学生の広島への修学旅行の時だった。今にして思うと新幹線が暫定的に岡山まで延伸されていた絶妙のタイミングだったが、岡山から広島までは呉線経由の急行。「こんな海沿いを通るんだ」と思ったことだけを覚えている

山陽本線の地図を見ると赤穂線、呉線、岩徳線のバイパス的な3路線があり、それぞれの歴史を背負っているが、幹線は呉線のみで他は地方交通線である

かつて東京や大阪からの直通列車が走っていた経緯もあって、山陽本線の三原~海田市の途中下車可能な乗車券を持っている場合は、呉線内の各駅でも途中下車は可能である。ただし三原近辺の駅へ行く場合は海田市経由か三原経由かで運賃は異なる(IC乗車だと必然的に同料金となる)。また矢野駅が広島市内となっているため、該当のきっぷへの注意書きが大きく書かれている。矢野までが330円で広島までが510円なので目立つよう喚起する必要がありそうだ

これで26駅すべての紹介が終わったが、駅の紹介をしている課程で仁方駅が簡易駅舎になってしまったことを知った。1日に900人もが利用する駅としては寂しいニュースだが、かつては長大編成の列車が走っていた呉線の各駅には戦前からの駅にも平成に入ってからの駅にも、歴史と理由があることを知った各駅訪問だった

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