きっぷ

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その8 西脇市中心部近くにひっそりたたずむ古駅舎

新西脇駅の駅名標

※訪問は2024年12月10日

路線内では貴重な存在

新西脇駅に到着。当駅は路線内において戦前からの駅舎が残る貴重な存在となっている

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財産票には「大正」の文字

ホームは単式構造で過去においても交換施設があった雰囲気はない。そして入口の屋根の部分がさびかかった駅舎が印象的だ

こちらが駅舎。決して大きなものではないが、たたずまいが古風である。外壁は近年になって張り替えられたようだが

財産票もしっかり残されていて「大正」の文字が見える。隣には改修が平成になって施された印もある。「大正14年10月」の後に日付が空欄となっているが、これは最初からのもののようだ。開業日は1925年(大正14)の10月1日となっている

西脇市~谷川の各駅は日本へそ公園を除いて、同区間が開業した1924年12月のものばかりで、どの駅も昨年12月に100周年を迎えたわけだが、新西脇については1年近く後になっての設置となった。駅名については周辺の地名とは関係なく、周辺に新たな市街地が広がっているわけではないにもかかわらず、当初から新西脇。開業当時、現在の西脇市駅は野村という名前で当時存在した西脇駅は市の中心部にあってJR移管後に廃駅となった。西脇から新西脇へ鉄道で行くには野村経由でしか行けなかった。現在の「新○○駅」とは、やや感覚が異なる

加古川線では電化後、多くの駅で大幅な改築が行われていて古くからの駅舎は姿を消した。さらに言うと、加古川~西脇市の各駅は立派な新駅舎になったものが多いのに対し、西脇市~谷川についてはこれまでの記事でも触れた通り、バス停のような簡易駅舎となっている。その意味でも貴重な駅舎なのだが、駅のにぎわいという点はまた別だ

市役所も近いが、1駅の格差

新西脇駅を降りてすぐの加古川を渡ると、そこは西脇市の中心部となっている

西脇市役所も当駅が最寄りだが、2023年の1日の利用者数はわずか16人。お隣の西脇市が1408人ということを考えると差がありすぎる。市役所については移転、新築の新庁舎が2021年にできたばかりなので最寄りとなったのは最近のことだが、新庁舎の前後で利用者数はほとんど変わっていない。新西脇駅周辺もそれなりの住宅街で、川を渡ると西脇の中心部であるにもかかわらず寂しい数字なのは、列車本数が少なく住民に鉄道を利用するという習慣がないからだと思わざるを得ない

私は9時26分の西脇市行きで到着したが、その後3時間も列車がない。西脇市から神戸、大阪方面へと向かうには西脇市駅から加古川行きに乗車し(所要約50分)、加古川から新快速というのがポピュラーな手段で、西脇市からは昼間も1時間に1本の電車があるのとは差がありすぎる。しかもほとんどの電車で西脇市での乗り換えが必要となる。まさに「1駅の格差」である

駅名板も歴史を感じるもの

国鉄末期に無人化され、以来そのままの駅舎内。窓口のカーテンは40年近く閉ざされたまま。駅舎の未来もやや不安に感じるが、大正以来の歴史に別れを告げて西脇の中心部へ徒歩で向かうことにする

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その7 「唯一」の立派な駅舎で寒を凌ぐ

黒田庄駅の駅名標

※訪問は2024年12月10日

寒さで予定変更

比延駅から2駅谷川方面へと戻り黒田庄駅で下車。ここで降りたのには理由がある。寒さに耐えられないと思ったからだ

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元々は本黒田の予定

もともとはもうひとつ向こうの本黒田に行く予定だった。というのは西脇市~谷川の間にある7駅で本黒田が最も利用の多い駅だからだ。といっても1日の利用者数は本黒田が72人、黒田庄が32人と2ケタ止まりだが、他の駅が20人を下回っていることを考えると多い数字だ

しかし本黒田に向かうに際して問題は、はっきり書くと生理現象である。7駅とも訪問したことはあるが、黒田庄以外の駅でお手洗いの存在に全く自信がない。冷えてきたので熱い缶コーヒーを、とも思うが、それもお手洗いあってのものである

その点、黒田庄駅は立派な駅舎を持つので、その点は安心して降りることができる

8時33分に到着して9時16分で西脇市方面へ向けて出発するので40分以上の滞在時間があるが問題ない

西脇市~谷川で多くの駅が簡易化される中、当駅は2005年(平成17)に開業以来の駅舎に代わって新たな駅舎へと生まれ変わった

電化、新駅舎そして合併

黒田庄駅は1924年(大正13)の開業。播丹鉄道が設置した。周辺の駅とともに昨年100歳の誕生日を迎えた

電車を降りると100周年の看板がお出迎えしてくれる

駅舎内には今も黒田庄町時代の地図が残されている。開業時の所在は黒田庄村。戦後に黒田庄町となり、2005年に西脇市と合併した。加古川線の電化は2004年なので、電化の後に新駅舎が誕生。間もなく西脇市となったという移り変わりの激しい1年半を過ごしたことになる

黒田官兵衛とも深いつながり

地名で想像できるように当地は黒田官兵衛で知られる黒田氏とのつながりが深い町でもある。当の官兵衛の生まれについては姫路説、黒田庄説とあるようだが、黒田庄にある荘厳寺(しょうごんじ)は、黒田家そして官兵衛ゆかりの寺として知られる

駅の周辺はかつて町役場が置かれていた。一方、黒田の地名が残るのは本黒田駅周辺となっている

駅前にはロータリーがあるだけで自販機はないが、歩いてすぐの県道まで行けば古くからの街並みが広がり商店もある。かつて訪問した時もこのあたりまで歩いて自販機のお世話になったので、知識はある。熱い缶コーヒーを買って駅へと戻る。霧も晴れてきた

駅舎は正確に言うと駅の機能を果たしているのは片側の部分で主な部分は交流施設「あつまっ亭」となっているが、吹きさらしよりとは格段に違う

すっかり自然に還りつつあるが、かつての貨物ヤードも姿をとどめる

「加古川線を残そう」のポスターも

西脇市~谷川は、かつて交換施設のあった駅もすべて棒状化され、列車のすれ違いはできない。当駅もそのひとつだが、こちらはかろうじて線路だけは残されていて使用されなくなったホームもそれなりに整備されている。「いざ」に備えて復活の余地を残しているのだろうか。そう感じてしまった

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その6 由緒ある地名

比延駅の駅名標

※訪問は2024年12月10日

※動画あり音声注意

あらためて比延駅

比延駅の紹介をあらためてしよう

なかなかの難読だが、由緒ある地名となっている

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シカの鳴き声から

時は4世紀から5世紀のころ。西脇市HPによると、当地に狩りに訪れた応神天皇がシカが「ヒヒ(比比)」と鳴いたことを哀れに思い、狩りそのものを中止したことで、狩り場となった山を「比延山」と名付けられたことに由来する

駅の開業は1924年(大正3)。播丹鉄道が野村(現西脇市)~谷川を開業させた際に設置された。当時は比延庄村。戦後の1952年(昭和27)に西脇町などと合併して西脇市が成立。自治体としての「比延」は終了した

現在は簡易駅舎というより、ベンチと屋根があるだけの停留所のような風貌で風はもちろん、横殴りの雨でも防ぐことはできないが、数年前までは由緒ある名前にふさわしい立派な駅舎があった

そのことを物語るかのように敷地は広い。足下はきれいにされていて、駅というより公園のようなたたずまいとなっているのが逆に寂しさを募らせる。背後に桜の木が見えるが、駅の開業時に植えられたものらしく、木の成長とともに100年間、当駅を見守ってきたことになる

駅周辺は住宅街そして旧比延庄村の中心地が広がる。駅の裏手には播州織工業協同組合があり、加古川を渡った場所にはコンビニもあり、周辺人口は比較的多いように見えるが、2023年の1日の利用者数は16人と、やや寂しい。私がここまでやって来た電車でも乗ってきたのはわずかに1人で高校生はいなかった

寒い寒い

現在は単式ホームだが、かつては列車交換が可能だったことを示すように対抗ホームが残っている。深い霧に包まれた8時過ぎはさすがに身体の芯から冷える

こちらは時刻表。谷川から西脇市行きに乗車して8時5分に到着。8時26分の谷川行きに乗車して、せっかくだからもう1駅降りてみよう。再びここへ9時22分に来る西脇市行きで西脇市の中心部を目指す。で、その後はというと、時刻表で分かる通り、本日はもう無理である。とにかく寒い。風がないのは幸いだが、それでもこれだけ寒いのは、かなりの低気温でスマホで確認すると2度だという。駅舎(というのか)は寒さを凌ぐ空間が全くないので20分の待機時間が1時間ぐらいに感じる

深い霧に超簡易駅舎、失われた対抗ホームと体感をさらに下げる要素が多い

遠くでかすかに列車の音が聞こえてきた。静寂すぎると小さな音でもよく耳に入る。出発の数分前に1人の乗客がやってきた。私よりは若そうだが、それなりの年の男性で今から通勤のようだ。実は「もう1駅」は別の駅を考えていたが、こうも冷えるのでは予定変更である

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その5 気になる閑散区間の今後は

比延駅に入線する125系

※訪問は2024年12月10日

簡易駅舎というより公園

比延駅到着は8時すぎ

簡易駅舎のさらに上を行く超簡易駅舎。背景にホームが見えなければ完全にバス停。ホームにはベンチはないので、座席定員は「3」ぐらいか

ここには立派な屋根を持つ駅舎があったが、約5年前に解体された。元の敷地が大きかっただけに遠目で見ると駅というより公園である

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大都市近郊区間の路線

私以外にもう一人の方が下車した。地元の方らしく、どんどん歩いていく

周辺は深い霧に覆われていて、あっという間に霧の中に姿を消していった。ご覧のように周辺は住宅街だが、2023年の当駅の1日の利用者は16人である

こちらは運賃表。大阪や神戸の中心部までも100キロ圏内に入っていて、駅の利用者数からのイメージとは違い意外と近い。大阪へ行くには谷川経由、加古川経由と2つの行き方があるが、そこは触れられていない。というのは、加古川線は大都市近郊区間の路線で大阪近郊区間に含まれているからだ。つまりどちら側から乗っても同じ料金となるわけだが、大阪近郊区間に含まれる100キロを超える駅から乗車しても、そのきっぷでは途中下車ができない

閑散区間の駅が大都市近郊区間となるのは東京の近郊区間でよくクローズアップされるが、加古川線の駅も同じ。現在、JR西日本では大阪近郊区間において常態のフリーきっぷを出していないので、加古川線で駅巡りをしようとすると青春18きっぷの季節に行うしか手段がない。ただその一方、大阪近郊区間における「大回り乗車」では、もちろん有資格者である。降り鉄である私には専門外のことだが、1日8・5往復(週末は8往復)の西脇市~谷川をどう乗りこなすかが、カギを握るようだ

JR西日本の発表資料

JR西日本は2023年12月に加古川線の利用状況を発表した。それによるとコロナ禍で利用者数が大きく減る中、西脇市~谷川の区間はそれほど影響を受けなかった。と書くと実に立派な数字のように思えてしまうが、実体は違って元々の数が少なすぎるので、影響が少なかった

同じ加古川線内でも西脇市~加古川は、コロナ前に6000人の乗車人員があったものが5000人になっているのに対し、西脇市~谷川はコロナ前の時点で100人ちょっとしかなく、コロナ禍で100人をやや割り込んだ。2022年の1日の輸送密度は21%で、運んだ人員は237人しかいない。JR西日本の電化区間ではワースト1位だという

別の資料では2022年の各駅の利用者数は西脇市~加古川では、いずれも3ケタを超えていて4ケタ利用の駅が5つもある(加古川駅のぞく)のに対し、西脇市~谷川では3ケタの駅はひとつもなく、20人に満たない駅が7駅中5つもある(谷川駅のぞく)

こちらの記事で私が見た乗車人員を掲載したが、朝の電車でさえ、高校生がいなければ利用者は限りなく1ケタになっていた

閑散区間におけるJRの資料は時として少なさを強調したがるものになりがちで、まるまる鵜呑みにするわけにはいかないものもあるが、わずか7駅のことで、自身も体感したものだけに信頼性は高い。そしてわざわざこのような資料を出すからには、狙いとしては「やめたい」ということなのだろう。もしそうなれば電化から20年で廃線という異例の結末となる

ただこの区間を廃線にするというのは、つまり30年前と同規模の自然災害は二度と起きない、という前提に立つものとなる。そのような前提は誰も断言はできないだろうが、未曾有の大震災から30年が経ち、いろいろなものが風化しつつあるんだな、と思ってしまう。福知山線の大阪近郊区間は谷川までで、30年前に山陽本線、東海道本線のバイパスを果たした時の路線をたどっている。私は大阪近郊区間の路線図を見るたびにあの時のことを思い出す

もっとも閑散すぎる路線の放置は、さすがに問題だろう。おそらく上下分離的な議論になる。しかし沿線の自治体に、それを支えろというのは、とても無理な話で、自然災害への対策というのなら、もっと大きな公費で支えるべき、というのが私の意見

明日17日、あれから30年の日がやってきます

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その4 阪神間の迂回路として集まった注目

黒田庄駅に張られていた加古川線のポスター

※2024年12月10日

一度比延駅へ

利用客数を調べつつ、比延駅で下車。時刻は8時過ぎ。霧の中の到着だ

これまで加古川線の現状について語ってきたが、歴史についても触れてみたい

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水運の代替路線としてスタート

車窓からの眺めだが、加古川線の特徴は加古川に沿って走っていることだ

ピッタリ寄り添うように敷設されている。それもそのはずで、元々の目的は水運の代替手段だった。最初は播州鉄道という会社が加古川から西脇までの線路を敷設した。1913年(大正2)のことだった。この西脇とは現在の西脇市駅とは異なる。西脇市駅から北へ2キロ弱いの場所に存在し、今はない。後になってみると加古川線にとって重要な駅だったが、後に路線の運命を変えることが起きる。現在と同じ谷川への直通で、開業が1924年(大正13)12月27日のことだった。つまり100周年は、ここからスタートしている

ただ敷設にあたっての問題は谷川へは野村駅と名乗っていた現在の西脇市駅で分岐していたことだった。分岐が西脇でなかった要因は線路の設置予定地まで川を2回渡る必要があり、またすでに市街地を形成していた西脇の街の中に線路を通すことは難しかった。この部分の工事を請け負ったのはシリーズの最初で触れた播丹鉄道という会社で、播州鉄道はすでに播丹鉄道に吸収された形となっていた

このため野村駅で分岐する形となった西脇からは、さらに線路が延伸され途中駅となった

現在の路線名となったのは1943年(昭和18)に行われた戦時買収。加古川~谷川が国鉄の加古川線となり、西脇を含む路線は鍛冶屋線という加古川線の支線となった

分岐点は国鉄民営化

大きな転換期となったのは鍛冶屋線の特定地方交通線指定(1986年)と国鉄民営化(1987年)。鍛冶屋線の廃線は避けがたいものとなったが、野村(現西脇市)~西脇の1区間については業績堅調で、加古川からの列車は多くが西脇まで直通されていて、どちらかというと加古川~西脇が加古川線の主力の扱いとなっていて、この区間のみの存続も検討されたものの結局は廃線。西脇市を境に運行本数が大きく変わるほぼ同じ形となった。「ほぼ」としたのは、当時は非電化だったからだ

加古川線そのものの利用者は西脇駅を失ったことで、さらに減少していた状況で迎えたのが1995年1月17日の阪神淡路大震災。阪神間の線路は寸断され、西明石以西は間もなく運転したものの、姫路方面から大阪へ行くことはままならない。そこで迂回路として注目されたのが加古川線だった。単線非電化路線の上、谷川駅で福知山線への直接乗り入れができないという欠点はあったものの、多くの人が加古川で乗り換え谷川を目指した。JRも臨時便を増発。4月1日に全線復旧(当初の見込みより、かなり急ピッチだった)するまで多数を運び続けた

この一連の経過、つまり加古川線が非電化で、緊急時に山陽本線、東海道本線のバイパスとして不便だということが電化の機運を高めた。費用を地元が負担するという形で2004年に電化が行われた。つまり昨年は電化20周年の年でもあったのだ

だが利用者数の低迷で近年、西脇市~谷川の閑散区間は再び危機が報じられるようになっている

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その3 早朝から単行電車に乗車したわけ

黒田庄駅の加古川線100周年を祝う張り紙

※訪問は2024年12月10日

薄いダイヤ

福知山線の分岐駅である谷川駅の時刻表

パッと見ただけで本数の違いは一目瞭然。福知山線も昼間は1時間に1本の運行となっているが、さらに少ない

拡大するとこのようになるが、時刻表の空白部分に告知などを掲載するのは全国共通である

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9時発では次がない

このダイヤを見ると利用状況の調査うんぬんよりも、これに乗らざるを得ないことがよく分かると思う。平日のみ運行の6時9分は物理的に乗車できないし、次の9時ちょうどでは単純に西脇市まで乗って終わりになってしまう。「次」がないのである。西脇市以降は1時間に1本の運行が確保されているが、過去に全駅訪問済みとはいえ、せっかく来たのだから、特に本数の少ない谷川~西脇市はいくつかは降りてみたい

9時ちょうどに乗ってしまうと次は3時間以上空いて12時10分、さらにその次は再び3時間以上の空白で15時13分。朝が終わると夕方までほとんど運行がない、これまでも当ブログでたびたび出てきた典型的なローカル線の運行パターンだ。西脇はそう遠い場所ではなく、神戸の中心部からだと車なら1時間ちょっとで行けてしまう場所なのだが、もちろんそれは高速道路の使用があるからで、鉄路でも神戸の中心部である三ノ宮からだと15分に1本の新快速に乗り加古川まで30分、加古川からの乗り換えも1時間に1本の運行があって西脇市まで50分と、乗り換えを入れても90分もあれば行ける場所のイメージがあるが、少し離れただけで、このような現状が待っている

JRでは貴重な単行可能な新車の電車

今回主に乗車したのはJR西日本の125系である。ご覧のように単行での運転が可能で加古川線内では主に単行の運用となっている

電車というのは車内にいろいろな装備を詰め込む必要があるため、長らく最低の運行単位は2両とされてきたが、近年は技術の進歩で単行でも可能な車両が生まれたり改造されたりしている。ただJRでの新車となると四国の7000系と、この125系しかない

JRの単行電車といえば

今も現役で宇部線、小野田線を走るJR西日本の123系が有名だが、これは余剰戦力となった郵便荷物用の電車を改造したもので新車ではない。JRで単行可能な電車の新車が生まれない理由は、基本的な考えとして電化区間=利用客の多い路線だからだ。古くから電化されていて現在は乗客の少ない区間や路線はできるだけ最低単位の2両で運行するか、古い車両の改造で対処するというのが基本的なスタンスである。電車の新車を投入するなら利用の多い路線となる。近年は蓄電方式の車両も登場しているが架線は不要である

だが、この125系は2003年デビューと近年になってからのものだ。投入は小浜線と加古川線。JR四国7000系は四国内で電化が進む中で製造されたもので、同じ路線には特急列車も走る。特急車両が電化なら、普通用も電化となる道理だが、小浜線と加古川線に優等列車は走らない。ではなぜ21世紀になって新車が投入されたかというと、両線がほぼ同時期に電化され(小浜線が2003年、加古川線が2004年)、しかもそれは地元負担によるものだった。加古川線に話を絞ると、当時すでに西脇市~谷川は利用者の少ない区間だったが、それでも電化された。それには30年前の阪神淡路大震災が大きくかかわってくる

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その1 新生18きっぷの旅は早朝から

谷川駅の駅名標

※訪問は2024年12月10日

早朝の尼崎駅からスタート

時刻は朝の6時前。冬至目前のJR尼崎駅前は真っ暗だ

手には改訂されて初めて手にする青春18きっぷ。たまたま18きっぷ期間の初日となったわけだが、それは今回の件とあまり関係ない。少しでも寒さがマシなうちに、というのが本音である。さらに言うと3日間利用のこの日がメインイベントであって、朝の時点では翌日と翌々日のことは考えていなかった。前日の時点では天気が悪ければ、訪問日を翌日か翌々日に変更してもいいと思っていたほどだ

前記事で三岐鉄道北勢線での自動改札機におけるオペレーターとの通話システムについて記したが、その時に例として挙げたJR西日本の同システムは尼崎ほどの大きな駅にもある。西口は有人だが、東口はほぼ無人状態で、ここを通らなければならないが、新生18きっぷはここでの面倒な作業は必要なくなった

とにかく6時1分の福知山線福知山行きに乗車して出発である

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多くの高校生でにぎわう

大阪から福知山に行くには、この列車が事実上の始発となる。福知山線のさらに早い便もあるが、宝塚や新三田止まりで福知山まで行かない。また時間が経つと福知山線は篠山口での乗り換えが必要となるため貴重な1本。過去何度乗ったか分からない。ただ4両編成という窮屈さで朝の5時台という時間ながら、かなりのお客さんがいる。今日は座れないということはないだろうが、18きっぷの最盛期は大阪から乗らないと着席に危険信号が灯る列車である

何とか座席にはありついて篠山口も通り過ぎて下車したのは

1時間半後の谷川駅。「たにがわ」ではなく「たにかわ」と読む

広い待合室がある。5年以上前に来た時は自販機が並んでいる場所が売店だったはずだ。待合室で多くの人がテレビを見ていた。今もテレビはあるようだが、訪問時は消えていた

それでも1899年(明治32)の開業で昭和初期に改築された立派な駅は多くの高校生でにぎわっていた。過去、高校生の記憶がないのは当駅訪問が週末ばかりだったからかもしれない。自宅からご両親に駅まで送ってもらう地方都市ではおなじみの光景

緑の窓口もあって一部の特急も停車する

にぎわうホームの片隅に

ただ私が用事があるのは

跨線橋の隣を抜けての切り欠きホーム

西脇市行きの電車が待っていた。100周年のヘッドマークが付いている。加古川線は昨年暮れの12月27日に100周年を迎えた。式典のニュースもテレビで流れていたが、厳密に言うと全通100周年で、野村(現西脇市駅)~谷川が開通して現在の加古川線の形となった。手がけたのは播丹鉄道という播磨と丹波から1文字ずつとった会社である。国鉄の谷川駅に間借りの形となった。それゆえ福知山線と加古川線の線路はダイレクトにはつながっていない

線路そのものはつながっているが、スイッチバックのような形をとらなければならないので旅客列車は直通できないのに等しい。それが問題になるとは、30年前の阪神淡路大震災まで誰も予想だにしていなかっただろう

加古川線ホームは現在、番線の数字も与えられず単に「加古川線のりば」となっているだけで、まるで別会社のようで現状を物語っているようでもある

30年前は多くの人が谷川線と福知山線の間にあるホームを慌ただしく行き来していた。今回は再確認の半日旅である

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その9 通年販売フリーきっぷの利用方法

西別所駅の駅名標

※訪問は2024年11月20日

敷設から開業の駅

馬道から1駅戻って西別所駅に到着。ご覧の通り狭いカーブ状のホームに張り付くように電車が着く。1914年(大正3)の北勢鉄道開業時に設置された110年の歴史を持つ駅である

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今回利用したきっぷ

西別所駅の改札。これまでずっと紹介してきたように、三岐鉄道移管後、北勢線の各駅には自動改札機が設置され、ここを通らないとホームには入れない。当駅は無人駅でご覧のように窓口も閉鎖されているが、無人駅の自動改札機も遠隔操作で必要に応じて開閉できるようになっている

今回利用したのは「三岐鉄道1日乗り放題パス」。西桑名駅で購入した。通年販売されている。1200円で三岐鉄道の北勢線と三岐線の両方が乗り放題。北勢線の西桑名~阿下喜が510円、三岐線の起点となる近鉄富田から終点の西藤原までが560円なので、どちらか片方の路線だけでも終点まで行って、途中どこかの駅1つだけで降りても元が取れるなかなかお得なきっぷである

ただ西桑名駅で購入した際、利用の注意を同時に渡された。一体何のことかと思っていたが、最初に降りた穴太駅で理解できた

各駅の自動精算機横にはインターホンときっぷを乗せる台があり、ここにきっぷを置いてインターホンを押し「フリーきっぷです」と告げると、オペレーターの「確認できました」の声とともに自動改札機を通れるようになる

JR西日本の幹線でよく見られる

この形式と同じである。このシステムの難点はオペレーターがなかなか出ないことがあってイライラさせることで、昨夏までは「青春18きっぱーの敵」とも言われていたが、同じシステムでもJRで利用するのと北勢線で利用するのでは、こちら側の意識もなぜか大きく変わる。北勢線にオペレーター役を何人で担当しているかは分からないが、おそらく小規模の兼任だろう。駅の出入りで必ず2度使用することになるが、駅によってはダイヤの都合もあって10分ほどで呼び出しボタンを押すこともある。先ほど手を煩わせたばかりなのに、すぐにまた仕事をさせることになるので申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。と同時に私のように各駅を細かく回る利用者はオペレーターの人も「またこの人か」と、なるだろう。ちょっと気恥ずかしかった。だから有人駅で降りるとホッとする。12月にも当地を訪れているので、結果的に十数回この作業を行ったというか、行わせてしまったことになる

すぐ隣をバイパスが通る

西別所駅の駅舎は三岐鉄道移管後に新たに建てられた。単式ホームで駅舎が線路に沿って建てられていることで想像できるように、馬道駅と同様に駅前は狭くパーク&ライドの駐車場は設けられていない。西別所は昔の村名で古い文献で名前が見られる。町村制施行で在良村となり、戦後桑名市に編入となった

駅のすぐ東側を国道バイパスが通り、駅からすぐの場所には新興の住宅街が広がる

時刻はお昼の12時半を回った。三岐線にも乗ってみたいので、残る駅はまた次回の宿題として一度北勢線から離れることにする

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その8 唯一ホームにフリーで入れる駅

馬道駅の駅名標

※訪問は2024年11月20日

西桑名駅から1駅

終点の阿下喜から、ぐーんと戻って西桑名の手前の馬道で下車。一見どう読むのかと身構えてしまうが普通に「うまみち」と訓読みが並ぶ。当駅を出るとJRと近鉄をオーバーパスしながら、回り込むようにして「標準軌」「狭軌」「ナローゲージ」の3線が並ぶ有名な踏切を経て西桑名に滑り込む

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近鉄時代の面影がそのまま

私が降りたのは西桑名方面ホーム。駅舎はご覧のように逆側にある。木製の柱や屋根の瓦は近鉄時代とほぼそのまま

阿下喜方面のホームにある駅舎の入口は狭いが、奥行きはある

縦長の待合室からホームへ入る形となっていて、お手洗いはホーム上にある

1914年(大正3)に北勢鉄道が開業した際に同時設置された。当時の所在自治体は益生村。益生といえば、近鉄名古屋線の益生駅は目と鼻の位置にある

もっとも現実的に急行通過駅の益生駅と馬道駅での乗り換えは、そう多くはない

豆知識となるが、益生駅は開業した1929年(昭和4)には西桑名駅を名乗っていた。現在の北勢線の西桑名駅は当時、大山田駅を名乗っていた。近鉄の西桑名駅は1930年に現在の益生駅に改名。その翌年には北勢線(当時は北勢鉄道)の大山田駅が西桑名駅となった。つまり名称交換となったわけだが、西桑名駅の記事でも紹介した通り、桑名駅の東側にあるにもかかわらず西桑名駅となっているのは大山田村に変わって西桑名町という自治体が誕生したため

近鉄の駅も自治体名になったことになる。益生村は1933年に桑名町に編入されて、そのまま桑名市になった。西桑名町も1937年に桑名町となった。つまり現在はともに桑名市に所在するわけだが、桑名市の地図だけを見ると益生駅が西桑名駅を名乗っていた方が、どちらかというと自然なのが歴史のおもしろさである

西桑名行きホームは出入りフリー

当駅の最も大きな特徴は西桑名行きホームが自由に出入りできるようになっていること。北勢線の駅は三岐鉄道移管後、駅舎の建て直しも含め、すべての駅で自動改札機が設置され自由に出入りできないようになった。無人駅で改札機を通れないきっぷを所持している場合は、遠隔操作によって開閉が行われるのだが、残り1区間の当駅にでは西桑名行き列車に限り、降車時は乗務員が集札にあたる。乗車の際は乗車証明書の発行機を利用して桑名西駅で精算するか、駅舎側に設置されている券売機できっぷを買ってこちらのホームに来ることになる。ただし阿下喜方面のホームは自動改札機を抜けないと入れない

かつては構内踏切で両ホームは結ばれていたようで跡も残るが、柵で入れないようになっている。西桑名方面のホームを利用する人は絶対に1区間のみの利用しかないのだから、駅舎の逆側に住んでいる人の利便性を考慮しての措置だろう

駅周辺は古い街並みが残る場所で慣れた人でないと自動車で侵入するのも、ためらわれる立地で北勢線特有のパーク&ライドは不可能だが、西桑名までは1区間しかなく、そもそも徒歩でも行ける距離である

話はややこしいが、北勢線の線路が大きく回り込むようになっているため、桑名駅の「西口」までは歩いても大した距離ではない。それでも当駅の利用者は2023年のデータで1日あたり560人で13駅中6番目の数字となっている

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カワイイ電車は開業110年 北勢線を行く~その7 終着駅ならではの雰囲気

阿下喜駅の駅名標

※訪問は2024年11月20日

終着駅は日本最西端のナローゲージ駅

北勢線の終着駅、阿下喜に到着。車止めを見ると心がときめいてしまう「終着駅フェチ」として、全国どこに行っても櫛形ホームの景色は心躍るものがある

ホームにはこのような表示も

「日本最西端のナローゲージ駅」とある。ある意味マジで、ある意味ちょっとシャレている。シリーズの最初で記した通り、現在ナローゲージを運行するのは、北勢線の他には四日市あすなろう鉄道(三重県)、黒部峡谷鉄道(富山県)しかない。最西端争いをするとしたら同県内で比較的近い所にある四日市あすなろう鉄道しかないことを分かった上での表記だろう。両社ともに、ずっとコトコト電車を走らせてほしい

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古くからの町の証明

北勢線の項で何度も繰り返しているような気もするが、ここ「阿下喜」(あげき)も、なかなかの難読。三重県のHPなどによると、阿下喜には「上木」の表記もあり、ヒノキの大木が生い茂っていて御用木に上げたから上木となったとか、ウグイスをお上に献上したところ、年貢を減らされたので阿(あまね)く下に喜んで阿下喜になったなどの説があるようだが、難読の地名というのは、古くから存在する町の証明でもある

風格ある駅舎は三岐鉄道に移管されて新たに建てられたもの。立て書きの駅名に風情を感じる

当駅は1931年(昭和6)の開業。前記事でも述べたが、北勢線は阿下喜へ至る最後の1区間が難工事で、1区間だけの開業まで10年以上を要した。旅人にとっては、山中を行くナローゲージの車両は車窓も含め趣深いものだが、こうして調べるまで、その努力は知らなかった

開業時は阿下喜町(直前に村から町になった)。戦後に町村合併で北勢町となり、平成の大合併を経ていなべ市。北勢というのは、もともとは自治体名ではなく地域を指す言葉で、敷設した北勢鉄道そして北勢線の由来にもなっている

駅の周辺には阿下喜の町が広がる

表現は正しくないかもしれないが、難工事を経てもこの地まで鉄道を通したことがよく理解できる。駅前にはすぐコンビニ。当然お世話になったが、降り鉄にとって駅からすぐのコンビニは大いに勇気づけられる存在だ

いなべ市役所の最寄りともなっている。かつては駅から徒歩10分程度の現在の北勢庁舎が市役所だったが、2019年に新庁舎が誕生して駅からは少し遠くなった

有人駅でエアコン完備の待合室を有する。駅前広場は新駅舎誕生の際に拡張されタクシー、バスの発着所となっていて

3つ並ぶ地域バスの停留所を前に「これに乗って三岐線の駅まで行きたい」と思った

軽便鉄道博物館

当駅で忘れてはならないのが

軽便鉄道博物館

ホームと並んで転車台があり

かつて活躍した車両が残されている

解説によると阿下喜延伸に合わせて製作され、昭和50年代まで同じ近鉄だった現在の四日市あすなろう鉄道で走っていたという。開館日は月に2日。いつかはそれに合わせて必ず来たい

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