2025年 2月 の投稿一覧

大糸線全40駅を訪問するお話~路線内最大の駅にして最重要駅は駅名標でいっぱい

※訪問は2024年9月9日

大糸線はここから

信濃大町駅に到着。久しぶりに自動改札機を見た、というか駅員さんを見た気がする。大糸線で最も規模の大きな駅で、なおかつ最重要駅。列車の運行本数も当駅を境に大きく変化するのは何度も触れてきた通り。1日に2000人以上の利用がある。そして、こちらも触れたきたが、大糸線の「大」は、当駅から付けられているのである意味、大糸線はここからである

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駅名標を見つけよう

当駅には数多くの駅名標がある。こちらはJR東日本の管内で今もよく残る形のもので、駅によっては、この形式しか残っていない所もある

当ブログでは駅名標についてはあまり一般的ではないので第一種、第二種などの表記はせず、このように両隣の駅が記された、ホームに設置してあるものを駅名標、駅舎の入口に張られている駅名を記したものを駅名板と表記していて、ホームの柱で見かける縦のものを縦式駅名標などとしたり、あえて平仮名の読み、という表現で使用するようにしているが、基本的には駅名が記されているものは、すべて駅名標である

こちらは跨線橋に掲げられたもの。跨線橋に印字されたような形になっているものをスタンプ式駅名標と勝手に名付けて過去の駅で紹介してきたが、それも姿を消しつつある。こちらは立派な木板で作られている

写真入り駅名標。自分の中ではJR東日本名物なのだが、最近取り外しが進んでいるようで、どちらかというと生き残りの印象が強い。駅からの風景が変わると更新が面倒なのか、維持にお金がかかるのかは分からないが、JR東日本の駅で降りると楽しい気持ちになれたので残念なことではある

駅名標については良い機会なので私的な意見を言うと、かつてホームの両隣要りの駅名標には、当記事の最初のもののように必ず所在の自治体名が記されていたが、JR東日本とJR東日本、JR北海道については自治体名を記していない。平成の大合併で見られたように自治体名は合併などで変化していくもので、その度に更新するのは手間も経費もかかる、ということなのだろうが、駅に降りることはなくても車窓に見える駅名標の自治体名を見て「こんな名前の自治体があるのか」「このあたりは村なんだな」「どう読むのだろうか」などと考えるのは鉄道旅の楽しみのひとつだと思っているのだが、どうだろう

観光拠点としても有名

時間は13時半になっている

待合室の駅そばでお昼とする

長野らしく山菜そばをいただく。当日は猛烈に暑い日だったが、待合室はエアコンが効いて熱いそばでも美味しく食べられる

開業は1916年(大正5)。実はこれより先に別の場所に初代の信濃大町駅があった

初代の駅はさらに南の松本側から見ると高瀬川を渡る手前あたりに1915年に設置。川を渡る前の最も大町の町に近い場所で暫定的に開業したようだが、翌年に現在の位置であらためて信濃大町駅が開業すると、仏崎と駅名変更された上に1917年に廃止となった

信濃大町駅が脚光を浴びるようになったのは1971年(昭和46)のこと。当駅からの立山黒部アルペンルートができて多くの観光客が訪れるようになった。観光客だけでなく多くのスキー客も運ぶ大糸線優等列車の全盛期もこのころからやって来る

現在は長野からのダイレクトコースも

ホームにあるこちらも駅名標のひとつ

ホームは国鉄らしい2面3線構造。駅舎側の1番線と島式ホームの間にはホームのない線路があるため、2番線のホームはなく島式ホームは3、4番線となっている。特急は上下とも1番線からの発着だが、上り下りともすべてのホームが使用されるため乗車の際は注意が必要

また島式ホームからの発車は跨線橋の片側からしか出ないため、こちらも注意を要する

駅舎には当駅を拠点に登山を行う人のための登山届入れがある

こちらは島式ホームの写真入り駅名標

大糸線の路線名は信濃大町と糸魚川から1文字ずつとられている。中間駅が路線名に入るのは珍しい例で、信濃鉄道が松本~信濃大町を敷設したところで延伸をあきらめ、国鉄がそれ以降を引き継いだために「大」の文字が入ったもの。敷設については福塩線(広島県)の成立と似ている

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大糸線全40駅を訪問するお話~各地で見られる地名の意味は?

※訪問は2024年9月9日

再び信濃大町以南へ

海ノ口駅から松本方面へと折り返し、7駅目の安曇沓掛駅で下車。大糸線は信濃大町駅を境に本数が大きく減ることについては何度か触れているが、松本から南小谷まで乗り換えなしで行ける列車と信濃大町での乗り換えが必要な列車に分かれている。この直通列車については上下で変則的な運行が行われていて、ともに昼間のみの運行だが、訪問時のダイヤでは松本→南小谷が3本だったのに対し、逆は1本しかなかった。といっても信濃大町での長時間停車があったり、スムーズな乗り換えがあったりで、それまで座っていた座席に座れないこと以外は乗車にそれほど問題はない。沿線の高校の行事次第だが、平日の昼間に信濃大町で座れないことは少ないだろう

そしておなじみの棒状ホーム+待合所のみの駅の登場である

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いろいろ工夫を凝らされた駅名

真っ直ぐの線路と棒状ホームそして待合所。1915年(大正4)の開業。信濃鉄道によって信濃大町(現在の信濃大町とは場所が異なり、松本寄りにあった)まで延伸された際に設置され、当時の駅名は「常盤(ときわ)沓掛」。これは駅の場所が常盤村にあったため(常盤村は1954年の大町市発足で自治体としてはなくなった)

駅の位置としては大町市の最も南側にある

沓掛の「沓」とは、馬に履かせるわらじのこと。かつて旅人や兵士は馬に休息を与える際、古い沓を木の枝にかけ、旅の安寧を祈ったという。各地の街道ではこの地名が残り、駅名では日豊本線の日向沓掛がある(こちらは戦後生まれ)。有名な地名では軽井沢の沓掛宿があり、中軽井沢駅(しなの鉄道)はかつての駅名は「沓掛」だった(1966年に現駅名に改称)。現在のしなの鉄道と大糸線を敷設した信濃鉄道は全く別の会社だが、軽井沢の沓掛駅は明治生まれで当時から国鉄の駅。こちらは信濃鉄道という私鉄駅で、気にせず沓掛駅にしても良さそうなものだが、同じ長野県内で同名駅はまぎらわしいということで村名の常盤が付けられた

駅名変更は1937年(昭和12)に信濃鉄道が国有化された際のこと。頭には村名から地域名の安曇が付けられた。ちなみに同じタイミングで両側の隣駅は単なる「常盤」から「信濃常盤」へと、「池田松川」は「信濃松川」へと変更された。こうして「信濃○○」駅の間に「安曇○○」が誕生することとなった。常盤というのは沓掛以上に日本中にある地名。パッと見た目で間違いやすい常磐と合わせると数え切れないぐらいある。どうも国鉄としては、あまり常盤という文字を目立つようにしてがらなかったようだ。信濃2駅の間に安曇駅ができたのは、当時はまだ軽井沢の沓掛駅が現役で、同じ長野県内に「信濃沓掛駅」とするわけにはいかなかったからと思われる

ちょっと事情は異なる

安曇沓掛駅にも駅の外にお手洗いが設置されているが、その前は駐車場となっている

駅周辺は農地と住宅街となっていて、駐車場があるのはどうも不自然な感じで、他の待合所のみの駅とは異なり、かつては駅舎を有していたと思われる

植え込みや花壇はきれいに整えられていた

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大糸線全40駅を訪問するお話~信濃大町を越えて広がる景色と見どころ十分の駅

※訪問は2024年9月9日

大糸線の見どころのひとつ

海ノ口駅で下車。信濃大町をずっと越えた。何度も記しているが、大糸線は旧信濃鉄道が敷設した松本~信濃大町は観光と同時に松本へと通う生活路線にもなっているため、昼間も1時間に1本の運行があるが、信濃大町から北への白馬を経ての南小谷にかけてはグンと本数が減ってしまう。南小谷から糸魚川へのJR西日本による非電化区間はさらに本数が減り、山岳路線のようの車窓が広がる。大糸南線の松本~信濃大町、信濃大町~南小谷そして大糸北線の南小谷~糸魚川と3つの性格があると考えていい

ただ全駅訪問をしようというのだから、本数が少なかろうと多かろうと、そこは行くしかない。すでに信濃大町駅から北にかけてき10月に鉄道の日記念きっぷで巡ることを決めていたが、最終的には南小谷から大糸線増便バスで糸魚川まで行くのだから、時刻表が合えば、いくつかの駅は回収しておきたい。ということで選んだのが、ここ海ノ口だが、当駅は車窓やホームからの景色、駅内の展示だけで原稿がかけてしまう駅である

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車窓に広がる木崎湖

ホームの前には木崎湖が広がる。松本側から木崎湖、中綱湖、青木湖の3湖が並び、大糸線の車窓のハイライトにもなっている。大糸線が糸魚川静岡構造線に沿っているのは、大糸北線の根知駅付近で学習できるが、この3つの湖は活断層の動きでできた溝が湖となったそうだ。もちろんレジャーのメッカにもなっていて、湖畔にはレジャー宿や温泉宿も多い。結果的に10月になって、そこに宿泊するのだが、それについてはその時に報告させていただこう

海ノ口駅は1929年(昭和4)の開業。国鉄大糸南線の駅として設置された。信濃鉄道が信濃大町まで敷設し、信濃大町~糸魚川にかけては国が開業させた大糸線だが、大糸南線は現在の感覚とはやや異なっていて、信濃大町~中土のことだ。戦後に糸魚川~小滝の大糸北線がつながって大糸線となった

長野県に海はないのに駅名に海が付くことについては、ここまでの説明で十分だろう。海とは木崎湖のこと。駅の住所も海ノ口

電車から降りて立ち止まってしまう

電車を降りて駅舎に向かう時点でまず立ち止まってしまう

国鉄時代からの駅名標に加え、目を引く駅名板そして解説

詳しすぎる解説がある

無人駅ながらきれいな駅舎には、ホーム側とはやや異なる駅名板があり、白鳥の写真がある。その下には付近を描いた手書きのイラスト

いつもはグーグル地図を掲載するところだが、今回はこれで十分だろう。ただ白鳥の写真の解説には、ちょっと複雑な気持ちになった

駅名板ができたころには毎年飛来して越冬していた白鳥が、ある年から来なくなってしまったという。私は給餌を行っていれば、毎年白鳥はやって来るものだと思っていただけに、柄にもなくセンチメンタルな気分になってしまった

こちらが駅舎。木造で内外とも、かなり手が加えられているが開業以来のものだと思われる

駅舎に掲げられている駅名板は、それこそ開業以来のものかもしれない

冒頭に書いた通り、降り立つだけで、ほとんど調べもなく記事が1本書けてしまう駅である。ということは魅力が高い証明でもある

時系列は前後するが、海ノ口駅へ向かう電車の外を走りながら手を振ってくれた方がいたので、そう多くはない車内の人々も皆で手を振った。季節は稲の収穫前の晩夏。田んぼだけでなく湖そして山並みも四季に応じて、それぞれの景色を見せてくれるのだろう。ぜひ訪問をおすすめしたい駅である

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大糸線全40駅を訪問するお話~田んぼの中の簡素な駅でちょっと凝らされた風景

※訪問は2024年9月9日

棒状ホーム+待合所が続く

南大町から松本方面へ折り返すこと5駅目。細野に到着した。写真で想像がつくように単式ホーム+待合所のみの駅である

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こちらも隣駅とは極めて近い

簡素な構造で最初から旅客扱いのみの駅だった細野だが、歴史は古く信濃鉄道が有明から池田松川(現信濃松川)まで延伸した1915年(大正4)に開業した、つまり最初に敷設した際に設置された時に開業した駅のひとつ。おそらく設置時から駅の構造は変化していないと思われる

ホームからの光景は田んぼ。美しい稲穂が収穫を待っている。田んぼが広がる景色からは、ここに駅舎があったと想像しにくい。そして前記事の南大町以上に隣駅との距離が近い。北細野駅とはわずか1キロの距離しかない

こちらは比較的線路に近いところに道路があるので徒歩15分ほど。大糸線の松本~信濃大町は昼間は1時間に1本の運行。駅を回るには絶好の距離で、もし3月にここまで来ていたら雪で多少足下が悪くなるのを承知の上で歩いたはずだが、今回はやめておいた。とにかく暑いのだ。時間にして正午前。体感での気温はとっくに30度を超えている。老体に10分以上の徒歩は無理である

ちなみに北細野駅は当駅より10年以上後の開業だが、設置の経緯については北細野駅に到着してから紹介することにする

ちょっとした工夫が

松本から22・8キロのキロポスト

気持ちいいほどの直線ホームだが、少し小高いホームは鉄やコンクリートの柵ではなく、2枚の写真で分かるように植え込みが並べられている。きれいに整えておくには、駅舎の維持以上にかなりの手間がかかると思われる。所在地は松川村。開業時から変わらないが、松川村ができる前の明治初期までは細野村が存在した。駅はその地名に基づく。地図を見れば一目瞭然だが、すぐ近くには高瀬川があって大糸線の敷設にも大きく影響した。川の対岸へは、今も行けそうで行けない。細野という地名は川沿いにできた細長い集落にちなんで付けられたという

待合所から階段で道路に降りると(今、写真を見て気付いたのだが、窓も出入口も全開。虫もやって来る季節にもかかわらず、開いているのは相当暑かったのだと思われる)、そこは道路

ホームの裏側もきれいに草は整えられている

毎度毎度で申し訳ないが、個室1個ながらもお手洗いは設置されている。この時期は暑いからまだいいが、降り鉄にはお手洗いと自販機の情報は極めて重要なので掲載しておく。特に待合所だけの棒状駅では本当に助かる。その手前には歌碑とベンチが置かれていた

真新しいもののようだ。細野駅に娘さんの姿を読んだものなのか。出典や設置の経緯を知りたかったが、こちらについては今も調べきれずにいることが、やや残念である

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大糸線全40駅を訪問するお話~名称変更の小さな駅は思わぬ神駅だった

※訪問は2024年9月9日

松本から1時間

南大町駅で下車。時刻は11時を過ぎている

キロポストで34キロと表示されているから、それなりの距離をトコトコやって来たことになる。松本からちょうど1時間の電車旅となった

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短距離区間にわざわざ駅を設置

安曇追分駅までで一度大糸線の旅を打ち切ってからちょうど半年。雪景色はすでにない。ここから残った駅の回収となるが、いつものことながら、いくつかの駅で降りているうち急に全駅訪問のスイッチが入るので、残った駅はホームと待合室のみという駅が多い。そして元々は信濃鉄道という私鉄によって開業した路線だけに、その構造の駅がこれから次々と登場する

当駅はログハウス風の待合室と棒状ホームを持つだけの構造で、しかもホームはカーブ状に半ば強引に設置された形になっていて、さらに言うとお隣にある地域の中心駅でもある信濃大町駅からは線路距離は1・1キロしかない

線路に沿って道路があるわけではないので、歩くと1・6キロのコースになってしまうようだが、それでも徒歩20分と近いところにわざわざ駅が設けられた

開業は1934年(昭和9)。現在の松本~信濃大町が信濃鉄道として全通したのは1916年(大正5)のことで、18年も経ってから頑張って駅が設置されたのは今も駅前にある「レゾナック・グラファイト・ジャパン」の存在だ。2023年に現在の社名となったが、それまでは昭和電工の大町事業所。社名(工場名)は、最初の昭和アルミニウム工業所から昭和電工大町工場を経て大町事業所と変遷している。日本で初めて国産アルミニウムの工業的生産に成功した工場でもある(レゾナック・グラファイト・ジャパンHPから)。この工場ができたのが1933年。当駅は工場への通勤目的で設置され、当時の駅名は「昭和」。1937年の国有化の際に現在の駅名となった。この後も出てくるが、路線内には他にも名称変更された駅があり、特定の固有名詞は避けられたようだ

背中しか見えないが

こちらは待合所内にあった時刻表。11時8分に到着して32分の松本行きで折り返す。信濃大町までは昼間も1時間に1本が確保されているので、駅訪問もそれほど頭を悩ますことはない。もっともその分、信濃大町から北はかなりの予習と準備が必要となる

立派なお手洗いがある。自治体による設置だろうが、大町市内の駅はホームと待合所のみの駅でもお手洗いの設置が多く助けられた。早速お借りして出たところに建物が見えた

コンビニだった。ローカル線沿線でバッタリ出くわす貴重なコンビニ。その最寄り駅を個人的に「神駅」と呼んでいるが、その神駅だった。コンビニのさらに向こうには国道147号があり、国道を挟んでレゾナック・グラファイト・ジャパンの大町工場がある。工場で勤務する人の利便性もあってのコンビニかもしれないが、後でこの存在がとても貴重だということに気付く。なぜなら松本を除くと路線内で最も大きい駅である信濃大町の駅近くにはコンビニはない。構内に売店はあるが、コンビニを求めようとすると10分近く歩くことになる。そのような事情は全く知らない私だったが、たまたまサンドイッチなど、ちょっとした食料を買いそろえたため、この後、大いに助けられたのだった

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大糸線全40駅を訪問するお話~雪景色から半年後は残暑というより猛暑

※訪問は2024年9月9、10日

屋代高校前駅からスタート

9月9日の朝8時すぎ。私はしなの鉄道の屋代高校前駅にいた

月曜の朝なので

ちょうど通学時間帯となったため、電車が到着するとホームは高校生で埋め尽くされる。長野県の友人宅を訪問すると、いつもこの駅まで送ってもらうのだが、通学時間帯の訪問は初めて。しなの鉄道は三セクの優良企業なのだが、このような光景を見ると納得する。私は逆方向の篠ノ井方面行きホームにいたが、こちらはこれから長野市内へと通勤する人でにぎわう。しなの鉄道の路線はお隣の篠ノ井までだが、列車は長野駅まで運行される

今日はここから松本経由で大糸線の各駅訪問を行い、そのまま大糸線増便バスで糸魚川まで抜ける予定だ

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18きっぷのルール変更を先取り?

9月の声を聞いて10日近くが経つというのに、この日も朝から猛烈に暑い日だった。この記事を書いている傍らのテレビでは全国を覆う寒波と豪雪のニュースが繰り返し流れていて、季節は真逆になってしまった。季節に合わないと秋以降、記事化を先送りしてきた。その間、前回までお伝えしてきた「サンキュー♥ちばフリーパス」や阪神淡路大震災と加古川線のように、先に伝えなければいけないことが多かったのも事実ではあるが、そろそろ記憶も薄れてマズい。結局は寒波の中での振り返りとなってしまった

時系列から振り返ろう。長野入りしたのは前日の8日

中央西線で最後に1駅だけ残った日出塩を訪問。その足で塩尻から篠ノ井へと向かい、篠ノ井駅まで友人に迎えに来てもらった。昨夏の青春18きっぷの使用期限は9月10日までで8日の時点で残り3回分の権利があった。つまり3日連続の使用である。この時はまだ18きっぷのルール変更は発表されていなかったが、知らず知らずのうちにルール変更に対応していたことになる

ただ何か予感が働いていたわけではなく、もともとあまりの暑さに夏の18きっぷは購入をやめようと思っていたところに、9日から友人の元を訪れることが決まり、だったら買いましょうとなった次第。最初の2日分は中央西線に充て、最後の3日間は大糸線から増便バスに乗ることを決めた。もっとも3連投の初日は春日井からスタート(名古屋市内のホテルが空いていなかつた)。篠ノ井での待ち合わせ時間を考慮すると中津川から特急でのワープ作戦を使わざるを得なかったため、18きっぷ1日あたりの料金とを考えると「元本割れ」となってしまった(ただし残る4日で大幅に元はとっている)

半年前とは全く異なる松本駅へ

屋代高校前駅では篠ノ井までの1区間だけのきっぷを購入。改札でそのきっぷを手渡すと同時に4回目のハンコをもらい、ホームへと逆戻り

トコトコと篠ノ井線を走り松本に到着。屋代高校前のホームに立ってから2時間近くが経過していた

ホームからアルプス口を見る。半年前は3月だというのに松本駅前は積雪に見舞われていて、足下のおぼつかない中、北松本駅まで歩いた。まさに真逆の季節。ここから大糸線各駅の回収をスタートさせる。好天で足下を心配する必要もなさそうだが、これだけ暑いと、いくら足下は良くても前回のように1駅徒歩とかは絶対に無理である

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1日2000円の元を簡単にとれる北総鉄道~その6 まとめ「瞬時に運賃も回収でき楽しい半日でした」

※訪問は2025年1月15日

千葉駅まで移動してきた

新鎌ケ谷で再び新京成に乗り換え千葉まで移動。初めて千葉駅北口で降りてみた(写真は翌朝のもの)。千葉駅といえば多くの人が足早に移動するイメージがあったが、あまりにも静かな場所でちょっと驚く。最近、チェーン店ホテルはこのような場所に建てられることが多い

こちらは印旛日本医大駅の運賃表。千葉駅まで成田湯川駅から頻発しているバスで成田駅まで行っての道程もチラリ頭をよぎったが、サンキュー♥ちばフリーパスを使えば「タダ」なのだから、ここは一度新鎌ケ谷まで出て新京成線経由で千葉へと向かうことにした

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高額運賃の都市伝説

今回、北総鉄道と成田空港スカイアクセス線で下車した駅は千葉ニュータウン中央以東の4駅。新鎌ヶ谷を起点なしているので、2日間乗り放題で3970円というサンキューパスの1日のノルマである2000円をこの区間だけで軽く回収できたことになる

北総鉄道の高額運賃を巡る逸話は関西に住む私でも度々耳にしていた。定期代が10万円もするため「財布は落としても定期は落とすな」。子どもの通学定期代が家計に負担となるため「電車通学でなく市自転車通学」「子どもが高校進学のタイミングで転居」などなど。都市伝説なのか実話なのかは分からないが、あまりの高額に民事裁判が起きたり、沿線自治体の首長が運賃値下げの依頼を公言したのは事実である

都内で勤務する私と同じ年の友人がいた。結婚と同時に千葉に居を構え、子どもができたタイミングで賃貸から持ち家への移行を考えた。30年ほど前の話だ。都心まで1本、一軒家の価格としては手頃ということで北総鉄道沿線へ転居することを考えたが、自分は会社からの定期があるからいいものの、家族がちょっと移動するだけで何かとお金がかかるし、それこそ子どもが都内の学校へ進学したら大変だと断念。千葉市郊外のマンションとした。その際、千葉に長らく住む親族の言葉がダメ押しになったという。「あの鉄道そのものが、いつまであるか分からんぞ」

運賃が高いどうこうより、当時はそのように見ていた人も地元にはいたというエピソードである

現実に当時の千葉ニュータウンの状況を見ると、当初は34万人を見込んでいた人口が増えず、半分に下方修正したものの、それでも伸び悩み、現在もそこまで至っていない。北総鉄道の業績が上がらない要因のひとつとなっていた。また建設に伴う土地取得がバブル期と重なってしまったため、建設費がかさみ2000年には累積赤字が400億円超まで膨らんだ。また小室以東の千葉ニュータウン鉄道が第三種鉄道事業者になっている部分で、北総鉄道が千葉ニュータウン鉄道に支払う線路使用料が年間25億円にもなることも高額運賃の理由とされた。成田空港スカイアクセス線の開業後、京成電鉄が千葉ニュータウン鉄道に支払う使用料が4億円にも満たなかったことで批判も受けた。25億円という金額の設定については、当初は利用客の少なかった路線の運賃収入をすべて使用料とする、いわば弱者救済のシステムだったが、利用が増えるとともに高額になったものだ

経営の改善から住みやすい町へ

経営難問題はスカイアクセス線の開通から上向き始めた

現地でよく分かったのはアクセス特急の乗客の多さだ。平日の昼間にもかかわらず、スーツケースを持った多くの人が、スカイライナーではなく追加料金無料のアクセス特急を利用している。京成電鉄からの線路使用料が北総鉄道にも入るようになり、千葉ニュータウンの人口も少しずつ増えて累積赤字は2022年に解消。また千葉ニュータウン鉄道へと支払う使用料も一定金額へと変更された。鉄道会社の多くが値上げに踏み切る現状で2022年に値下げを行ったことは特筆すべきこと。特に通学定期に関しては60%を超える値下げで(元の値段が一体いくらだったのかとツッコミが入るレベルだ)、全国区のニュースとしても大きく取り上げられた

それでも首都圏で多くの人を運ぶ鉄道会社のものとしては、運賃はまだまだ高く、さらなる値下げを求める声は多い。私なんぞはフリーパスなしでは、二の足を踏んでしまう料金である。ただ運賃値下げもあり、印西市は各種の「住みやすさランキング」で千葉県内の上位を占める都市となっている

JRの津田沼駅で降り、新京成電鉄の新津田沼駅から新京成、北総鉄道、成田空港スカイアクセス線と巡った旅、なかなか充実した1日だった。実は翌日も京成に乗車したが、それについてはまた別の機会に

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1日2000円の元を簡単にとれる北総鉄道~その5(番外編) 気になっていた「成田」駅へ

※訪問は2025年1月15日

印旛日本医大から1駅

印旛日本医大駅から成田空港方面へと1駅。成田湯川駅で降り立った。印旛日本医大から成田空港方面はすでに北総鉄道ではない。京成電鉄の成田空港線(成田空港スカイアクセス線)のみの駅となっている。その意味では北総鉄道のシリーズに組み込むのは正確には間違っているが、改札の外に出ることなく訪問でき、しかもサンキュー♥ちばフリーパスでともに訪問したということで番外編として紹介させていただく

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気になる駅も運賃に尻込み

印旛日本医大駅や印西牧の原駅は駅の発車案内や方向幕で繰り返し見せられるため、気になる駅だった。当駅は別の意味で気になる駅だった。こちらは千葉ニュータウン中央駅の路線図を拡大したものだが

印旛日本医大から先のスカイアクセス線にある「空港第2ビル」「成田空港」はどのような駅か想像がつく。しかし、その手前にある「成田湯川」はどんなところなのか。以前から気にはなっていたのだが問題がある。経費の問題だ

当駅からの最低運賃が成田湯川までの470円。空港や京成本線方面からはさらに高い。日暮里と京成上野からの料金は1210円もする。長らく悩んでいたところ、サンキュー♥ちばフリーパスに京成が参加の報せ。これまで北総鉄道は参加していたが京成は参加していなかったため、これは朗報だ。次のサンキューパスから京成が離脱しては困る。ここは新京成、北総鉄道とともに一気呵成の訪問となった

利用者数69駅中67位の立派な駅舎

念願かなった成田湯川駅の駅舎は大変立派なものだった。開業は2010年(平成22)で、京成電鉄の駅では最も若い

改札口は広くとられている

コンコースも広く、改札から2つのエスカレーターを乗り継いで(エレベーターもあり)3階にあるホームへと向かう。写真の左手を見れば分かるがステンドグラスも使用されている。成田高速鉄道アクセスという会社が第三種事業者として施設を保有する

という豪華な施設を持つ駅だが、2023年の1日あたりの乗降客数は1495人で、これは京成電鉄全69駅のうち67位の数字。注意点としては69駅の中には北総鉄道と共同で使用する印旛日本医大や千葉ニュータウン中央などの駅のアクセス特急、スカイライナーの利用者数もランクインしていること。68位は印旛日本医大の1388人だが、実際の駅の利用者数はもっと多いので、駅そのものの利用者は実質下から2番目となる(最下位は大佐倉駅の311人)

運行の重要駅

当駅の特徴のひとつとして

停車するのは特急だけという事実がある。いずれも追加料金の要らないアクセス特急。そのため本数は少ないものの、印旛日本医大方面の列車に乗れば、必ず乗り換えなしで都心まで連れていってくれる。空港方面は説明不要

時系列は逆になるが、ホームに上がると対向式の2面ホームの間にホームのない通過線がある。まるで新幹線駅のようだが、通過線を走るのはスカイライナー。160キロという高速走行を可能にするための措置。そのまま本線を行けるように分岐器は日本最大級のものとなっている

スカイアクセス線は当駅から成田空港方面が単線となっているため、アクセス特急の待避は当駅でしか行えない。またいざという時のために印旛日本医大方面からの列車は当駅で折り返しが可能となっていて運行上は重要な役割を果たす駅となっているのだ

駅の隣にはJRの線路が

駅を降りると路線バスの姿。主にJRの成田駅と結ぶものだが1時間に2本から4本と数は多い

駅までは4キロもなく、バスはニュータウンの中を通るためグルリと回るが、車で真っ直ぐ行けば10分もかからない距離で近い

近いといえば、ホームの下をJR成田線の我孫子支線が走る。たまたま駅前にいると電車がやって来たので分かったが、予備知識なしで訪問してぼんやりしていると気付かないかもしれない。とはいえ、ここにJRの駅はない。最も近い駅は下総松崎で線路だけなら2キロを切る

ちなみに「松崎」は「まんざき」と読む難読として知られる駅だが、住居表示としては下総松崎駅が成田市大竹、成田湯川駅は成田市松崎である

スカイアクセス線で唯一の単独駅として興味深かった成田湯川駅。このようなブログを連日書いていると1日の利用者が一ケタとか限りなくゼロという駅も決して珍しくないというか、感覚がマヒしているところがあるが、周辺は静かながら千人以上の利用がある駅だということをあらためて強調しておこう。とにかく訪問して良かった

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1日2000円の元を簡単にとれる北総鉄道~その4 ニュータウン発展の遅れが世界のINZAIに

※訪問は2025年1月15日

両隣は京成の駅も当駅は違います

印西牧の原駅に到着。両隣の千葉ニュータウン中央、印旛日本医大の両駅は京成電鉄の駅にもなっているが、当駅は京成の駅ではなく「北総鉄道の単独駅」になっている。なぜかというと、当駅には成田空港行きの追加料金なしのアクセス特急は停車しないため。アクセス特急に乗車すると印西牧の原駅には停車しない旨がアナウンスされる。利用者のほとんどが、どの駅が京成の駅かというのは気にしてはいないはず。単に特急通過駅との認識だと思われる。どちらかというと「成田空港から各駅に停まって、なんで1駅だけ飛ばすのか?」と思っているだろう。私も乗ってみてそう思った。優等列車としての運転は千葉ニュータウン中央からでいいのでは、と。ただその理由は分からない。とにかく、そこそこ知名度のある当駅に都心からやって来るとアクセス特急は停車しないので、初めて訪問する方は注意が必要だ

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かつては現在の印旛日本医大の立ち位置

印旛日本医大駅の記事で「気になる駅」と表現したが、かつてはここ印西牧の原駅が気になる駅だった。というのも羽田空港からの電車は当駅が終着だったからだ。開業は1995年(平成7)。千葉ニュータウン中央駅から1区間延伸された。千葉ニュータウン中央の開業が1984年(昭和59)なので11年後のこと。すでに時代は昭和から平成へとなっていた。以降、印旛日本医大まで延伸される2000年まで終着駅だったので「印西牧の原」の方向幕や発車標を都内の各駅で見かけることになる。つまり気になる駅である

ただ「気になる状態」は現在も若干残っている。車両基地の最寄りとなっているためで、当駅を始終着とする列車の設定がある。また印旛日本医大延伸後も、多くの列車は終点まで行かず、印西牧の原での折り返し運転を行っていたため、都内で交互に見かける両駅は「なんで2つの行先があるんやろ?」と別の意味で気になる駅だった

なぜ延伸したにもかかわらず、その手前で折り返す列車が多かったのは現地訪問と数字を見るとよく分かる。2022年度の両駅の1日あたりの利用者数は印西牧の原の1万4526人に対し、印旛日本医大は4346人と圧倒的な差がある。これは駅周辺の開発と人口増が十分に進んでいないため。20年前はさらに格差があると思われる。ほとんどの列車が印旛日本医大まで行くようになったのは成田空港まで線路が延伸されて以降のことだ

軍馬の育成地からデータセンターへ

ホームはアクセス特急の停車駅である両隣より大きく2面4線。延伸を見込んで計画的に造られ、開業直後はうち2線を使用しなかったが、始終着列車や通過列車の待避のために現在は4線すべてを使用している

駅舎はおしゃれな採光となっていて

正面の姿もアーチ型。夜は美しく映えるという

駅名の「牧」とは、かつて江戸幕府が軍馬育成のために千葉県内にいくつか設けた牧場。ここにあったのが印西牧である。そして今、当駅と千葉ニュータウン中央駅付近はデータセンター(DC)が集まる「DC銀座」として名をはせている。DCとはスマホやPCと連動するコンピューターがズラリ並ぶ場所のこと。厳重なセキュリティーが求められるのはもちろん、所在地に自然災害のリスクが低いことが求められる。その点、この一帯は活断層がなく、はん濫の可能性がある川からも比較的離れているため自然災害は少ない。東京から約40キロと比較的行きやすい場所にあると同時に成田空港からもすぐで海外企業や専門家の訪問も容易だといういくつかの条件がそろっている。そして北総鉄道の高額運賃の原因のひとつともなっていた、造成地のニュータウンにおける人口増が今ひとつで土地が余っていという要素がダメ押ししたという

駅舎は正面よりも外側から眺めた方が美しさがよく分かる

DCについては地元が誘致活動を行ったわけではなく、自然に内外の企業が集まることになり、グーグルもやって来たことはニュースにもなった。その業界では「世界のINZAI」として名が知られているという

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1日2000円の元を簡単にとれる北総鉄道~その3 幻の新幹線駅の痕跡が残る

※訪問は2025年1月15日

文字通りの中心駅

時系列は異なるが、北総鉄道の訪問駅紹介をしていきたい。降り立ったのは千葉ニュータウン中央駅。文字通り、千葉ニュータウンの中心地で周辺は住宅地や商業施設が並ぶ。2022年度の1日の利用者数は2万1451人。これは北総鉄道の全14駅(京成高砂)の中では第2位の数字。1位は新鎌ヶ谷駅の2万3188人だが、コロナ禍でやや落ち込んだ数字であり、新鎌ヶ谷より多く首位となった年もある。3位は東松戸駅の1万9213人だが、新鎌ヶ谷、東松戸という他路線との乗り換え駅ではなく、単独駅(厳密には京成の成田空港スカイアクセス線との共同使用駅で2路線が乗り入れているが、同じ線路と同じホームを使用している。写真は私が乗車してきたスカイアクセス線のアクセス特急)だけに、数字の多さが目立つ

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正式には千葉ニュータウン鉄道の駅

当駅は1984年の開業。北総鉄道は成田空港スカイアクセス線で成田空港までつながっていることから、近年の駅と思われがちだが、当駅まで到達したのは昭和59年。鉄道の歴史と並行させるとまだ国鉄があった時代だ。昨年40歳の誕生日を迎えたことになる。印西牧の原までの延伸は1995年なので10年以上、終着駅だった

そのためか前記事で紹介した印旛日本医大駅と比べるとクラシックな駅舎だ。そして、この駅舎を所有するのは「千葉ニュータウン鉄道」という会社である。施設のみを所有する、いわゆる第三種鉄道事業者となっていて、北総鉄道や京成電鉄はそれを利用する第二種鉄道事業者となっている

北総鉄道の京成高砂~小室は同社が建設にあたったが、小室から当駅を含む印旛日本医大までを敷設したのは「住宅・都市整備公団」と、その前身となる「宅地開発公団」。大都市近辺で宅地開発を行っていた、いわゆる特殊法人だが、当地においては千葉県の宅地開発の大事業ということで鉄道建設も行った。だから当駅の開業時の路線名は「住宅・都市整備公団千葉ニュータウン線 」という、新交通システムのような路線名だった。当時の北総鉄道は「北総開発鉄道」という、こちらも開発にこだわった会社名だったので、後に第二種鉄道事業者となったことで、1988年という昭和最後の年に京成高砂からの路線名すべてが「北総・公団線」に。その後、沿線の人口増が当初の見込みより鈍く、高額の運賃などもあって客足が伸びなかった公団は経営が苦しくなったため、京成電鉄が子会社化することになり、2004年に千葉ニュータウンが発足。路線名は現在の北総線となった。同年に北総開発鉄道も北総鉄道となった。なお住宅・都市整備公団は自社の車両も保有。現在も現役で走っている

新幹線駅の予定地は

駅の周辺案内図。千葉ニュータウンの中心地らしく公共施設だけでも、かなりビッシリ書き込まれていて

駅からは高層ビルや商業施設も見えるが、ふと見下ろすと

背後のマンション群と比べると、ソーラーパネルがビッシリ並べられている違和感のある空き地がある。どう見ても鉄道の用地だが、これは成田新幹線駅のために確保された土地だ。成田空港(当時は新東京国際空港)と東京駅を結ぶ予定だった成田新幹線。東京駅は新幹線駅の施設を利用して京葉線の駅が造られているのは有名な話だが、空港~東京で唯一の途中駅として予定されていたのが、千葉ニュータウン駅だった。当地で現在の北総線と接続の予定で、当初の計画では北総線到達の前、新東京国際空港の開港となった1978年より前に新幹線の駅ができる予定だった。ただ新幹線は走ることなく、千葉ニュータウン中央駅は国鉄があった時代に開業したと先述したが、それより少し前となる1987年のJR民営化の際に成田新幹線は未成線となることが決定した

もちろん当時、ソーラーパネルによる大規模な発電所があったわけではなく、40年近く前に消滅した成田新幹線の計画そのものを知らない世代は、この空間をどのように眺めているのか、ちょっと考えてしまった

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