三岐鉄道三岐線

貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その7 異彩を放つ路線内唯一の駅

西野尻駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

大きな特色が

西野尻駅に到着。こちらは東藤原駅と終点の西藤原までの間にある駅で、三岐線の特徴である貨物列車は東藤原までしか行かないため、西野尻と西藤原には貨物列車は行かない。つまりは旅客営業のみの駅だが、当駅はもうひとつの特色がある

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ホームと待合所のみ

ご覧のように棒状駅。それだけなら路線内でもよく見かける姿だが、ホームに降りてみると他駅と事情は異なる

訪問時は年末で学校も午前中のみになっていたようで高校生3人が下車した。駅まで出迎えてくれた家族の車に乗って去っていく。地方ではよく見かける光景だ。そして駅の構造はというと、写真で分かるように駅舎はなく小さな待合所があるだけ。これもよく見かける光景で、先日までお伝えしていた大糸線などではその形式が多いためPCで「単式」と入力しただけで「単式ホームと待合所のみの簡素な構造」という予測文章が出てしまうぐらい地方に行けば普通に見かける姿だが、三岐線では事情は異なる

三岐線の全14駅(近鉄富田のぞく)の中で駅舎のない駅はここ西野尻駅だけなのだ。駅舎はあっても無人という駅も枚挙にいとまがないが、すべての駅が有人である。もちろん早朝や深夜帯などに無人となる時間帯はあるが、基本的には有人駅。駅の管理が近鉄である近鉄富田はのぞくと注意書きを入れたが有人。正式な起点駅であるJRの富田駅は駅舎はある無人駅ではあるものの、駅の管理はJRだし当駅に入る三岐線の列車はすべて貨物列車なので旅客とは無縁だ

こちらが西野尻駅の全景。正面の階段と先の写真で高校生が降りていたスロープと2つの出入口がある。駅前広場は比較的大きい

謎解きの案内板

西野尻駅は1931年(昭和6)の開業。同年6月に富田~東藤原が開業して12月に東藤原~西藤原が開業。全通となったが、その時に設置されている。後からできた駅ではなく敷設と同時の駅だが、最初から現在の構造だったようだ。当時は東藤原村。明治の町村制施行までは西野尻村と呼ばれる区域で現在の住所もいなべ市藤原町西野尻である。野尻という地名は全国にあり、人名から来ていたり地形に基づくとされる。そういえば城端線で全駅訪問をした際、最後に訪れたのが東野尻駅だった

こちらも単式ホームと待合所のみの駅だった

また西野尻があるのだから東野尻もあるのだろうと思いがちだが、地域名としてあったのは西野尻村と下野尻村だった。

当駅では出札を乗務員が行う。ワンマン運転が多いのでその場合は運転士が行うのだが、入札はどうなのかというと

待合所の壁に案内板が。ただ肝心なところが消えてしまってクイズ形式となっている。私はフリーきっぷを持っているので問題ないが、初めて来た人は困るだろうと思っていたら

待合所の中に「正解」があった。ただその「乗車駅証明」はどこにあるのか、ちょっと探した。すると

同じ室内にも同様の案内があり、こちらの表記は「無札証明」で初めて聞く言葉。その下に

ぶら下げられているもの。それが無札証明である

品切れになったりしないのかと思ったりもする。またワンマンが多い三岐線での出札に運転士自らがあたるのは、2両もしくは3両編成のドアがすべて開くシステムでは大変そうに思えるが、おそらくそうは心配はない

駅周辺は小さな集落があり、多くが農地。1日あたりの利用者数(2023年)は26人しかなく、これは14駅中で最下位。下から2番目が東藤原の98人なので、かなりのぶっちぎりとなっている。当駅には1日上下それぞれ30本の列車が到着するため、私が目撃した3人の下車姿はかなり貴重なものということになる。高校生はいずれも定期使用だったため、実際にお金を払って当駅で降りる人はそう多くはないと思われる

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その6 歴史は紡がれると知った味わいある駅舎

伊勢治田駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

広大な側線が広がる

東藤原から1駅戻って伊勢治田で下車

ご覧のように広い測線がホームの前に広がる。東藤原駅では収まらない貨物列車や旅客車両が留置されているようだ

微妙に尺が足りなくなっているホーローの駅名標にそそられる

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沿線で唯一「伊勢」の付く駅

「治田」と書いて「はった」と読む。知り合いに同名の名前がいないとなかなか読めないが、全国にはところどころある名前と地名で滋賀県から山を越えて三重県まで地名、人名とも分布している。各地とも田んぼの開墾に由来しているとされるが、三岐線の沿線には三重県のいたる所で見られる「伊勢○○」という駅はここだけ。開業時の1931年(昭和6)にあった治田村に由来するが、県内では伊賀市の奈良県との県境あたりに治田という地名があり、名阪国道には治田ICがある。県内での重複を避けるために「伊勢」という国名が付けられたのだろう。そういえば伊勢鉄道には「伊勢上野」という駅がある

「たたずむ」という表現がピッタリの駅舎がある。手は入っているが、おそらく開業時からのものと思われる。駅からすぐの場所が旧治田村の中心地。1日あたりの利用者数は328人(2023年)で14駅(近鉄富田のぞく)中8位。治田村は1955年に北勢町の一部となり、現在はいなべ市である

三岐線の駅に共通することだが、古い駅舎は少しずつ付け加えられていったと思われる手作りの文字や備品が多い。注意書きひとつを見ていても楽しくなる

治田には室町時代に治田氏によって築かれた治田城があったが、織田信長に攻められて降伏。その後、廃城となり現在は遺構のみが残る

当地が脚光を浴びたのは江戸時代に入ってすぐのことで銀や銅が採掘される治田鉱山が開発され、幕府の直轄領となった時代もあった。その後に当地を領有したのは八田藩だった(治田とは表記しなかったようである)。鉱山があったことも含め、滋賀県へつながる治田越えは鉱物の運搬も含め重要な道路だったが、鉱山の没落とともに重要性は薄れ、道路は現在に引き継がれていない。また近年の水害によって鉱山跡も土砂に埋まってしまったという

鉱山から引き継がれたもの

留置線には貨物車が留置されていたが、時系列的にいっても先ほど東藤原駅で目の前を通り過ぎていったものだろう

ホームへは構内踏切を経て入る。1面2線の島式ホームとなっている

さて歴史に埋もれてしまった感のある治田鉱山だが、現代でしかも誰しもが知る存在へとつながっている。鉱山の管理を任されていたのが岡田氏。この時点でピンと来る人もいるかもしれないが、鉱山管理で財をなした岡田氏が始めたのが四日市の呉服商「岡田屋」。後にスーパーのジャスコになる。ジャスコがイオンの祖であることはご存じの通り。駅の待合所で調べていて歴史が紡がれていることを知り、ちょっと感慨深かった

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その5 いきなりのメインイベントはプチホテル?

東藤原駅の駅名標

※訪問は2024年12月17日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

ようやく三岐線をじっくり

時系列的にはこちらの続きになる

北勢線の全駅訪問を終えて近鉄富田へと移動。前回はほんの少ししか回れなかった三岐線に本腰を入れる

近鉄富田から乗車して45分

東藤原駅に到着である

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目を見張る駅舎

構内にはさまざまな列車がいる。こうしてあらためて写真を見ると、JR東海から譲り受けた車両がすでに待機していたことが分かる。もっとも当時は別のことに関心がありすぎて、あまり目に入らなかった

そのひとつはなんといっても美しい駅舎だろう

あまりにも美しすぎる

小高い丘の上にあるので離れてみるとこんな感じ。「東藤原」の駅名板がなければパッと見るとプチホテルおおしゃれなレストランにしか見えない

2017年(平成29)にできたばかりのピカピカ

正面からの姿も、もちろん美しい。上屋を支える柱も凝っている。当駅訪問がこの日のハイライトのひとつだった

路線の意義を体現する駅

ハイライトだったのは駅舎だけではない。どちらかというと、ここからが本題である

駅前にはかつて当駅で活躍したセメント用の貨物車が保存されている

解説文で貢献度が分かる

東藤原駅は1931年(昭和6)の開業。三岐線は富田から当駅までがまず開業。その年のうちに残る東藤原~西藤原までが開業して全線開業となったが、まずは東藤原までの開業が優先事項だったのだ

東藤原駅は太平洋セメント藤原工場へと直結している。車窓からもよく分かるが、三岐線はこちらの工場と富田駅を結ぶことが、まず最初の仕事だった。富田駅というのは近鉄富田ではなく国鉄(当時)の富田駅。今も当駅から貨物列車が出る。私鉄でありながら旅客輸送だけでなく貨物輸送も担う特別な路線を体現する駅だ

西側には大きめの踏切があるが、太平洋セメント藤原工場への案内板もある。そしてこの踏切はふだん見かけない案内がある

ひんぱんに遮断機が降りる時間帯を記したおことわりである。地元の方は理解されているだろうが、初めて来るとイライラするかもしれない。1時間に1本ぐらいの割合で10分ほど踏切を渡れない。それは単純に通過列車が多いだけでなく車両が行ったり来たりするからだ。ぼんやり見ているだけで踏切にかからない場所でも車両が動いていることが分かる

私のいた時間帯でも分岐を渡って貨物列車がやって来た。私は貨物列車については専門外だが、それでも見ているだけで楽しい

当然構内では多くの人が作業に従事している。駅舎についてプチホテルのようだと形容したが、あながちそれは間違っているわけではなく、駅舎は作業にあたる方の休憩所としても機能しているのだ

こちらは改札口

こちらは保存車両も含めた俯瞰したところ。セメント工場があるぐらいなので周辺に民家は少ない。駅の重要性の高さや立派な駅舎に相反するように1日あたりの駅の利用者は2023年のデータで98人と100人を切っていて、この数字は実は路線内14駅(近鉄富田はのぞく)で下から2番目。ただ三岐線訪問の際は、最優先でリストに入れてほしい駅である

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その4 三岐線の運行をつかさどる中枢駅

保々駅の駅名標

※訪問は2024年11月20日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

懐かしい列車

山城駅の次の訪問は保々(ほぼ)駅だが、その際にやって来た電車が

懐かしい塗装の西武車両。おそらく西武の701系。私は1982年春に大学生になった時から4年間、西武新宿線沿線で暮らしたが、今でこそ「赤電」復元塗装としてウリになっているものの、当時はまだ西武線は完全冷房化となっておらず、真夏に赤電(そのような愛称は当然知らない)がやって来ると「わぁ~、これかぁ」と思ったものだ

昭和41年生まれというから間もなく60歳。元気に走り続けているが、三岐鉄道ではこのほどJR東海から211系を大量に導入。間もなくデビューする予定となっている

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車両区にはさまざまな電車

保々駅が近づいてくると車窓には車両基地が現れ、さまざまな電車が目の保養になる

客車だげでなく三岐線らしく機関車の姿も見える

グーグル地図でも線路を表す線が多く描かれていて規模の大きい駅だということが分かる

ホームを降りると、まず目につくのは三岐線のコントロールセンター。当駅は車両区と運転区を備える路線の中枢駅。乗務員の交代も行われ、当駅止まりの運行のみならず、先に行く電車の車両そのものの交代もある

もともとは保々村

当駅は1931年(昭和6)の開業。富田~東藤原が7月に開業した際、途中駅として設置された(同年12月に終点の西藤原までが開業)。当時は保々村に所在した。「保」とは平安時代の公領にある行政の単位をだそうで、明治の町村制施行の際、複数の村つまり保が集まって新たに誕生した村ということで名付けられた。1957年から四日市市となった

運転区や車両区も備わっている駅としては、駅舎はそれほど大きくはない。ただし2023年の1日あたりの利用者数は824人。近鉄富田駅をのぞくと、これは暁学園前に次ぐ路線内2位の数字である

駅名板は駅舎入口にぶら下げられる形になっていて、これは独特

駅前の周辺案内図は保々地区を描いたもの。近鉄富田から朝明川に沿うように西向きに進んできた三岐線が、ここから弧を描くように北上し朝明川を渡ることがよく分かり、当駅に車両区が設けられている理由が分かりやすい。大雨の時、三岐線は朝明川を渡ることなく保々で折り返すことがある

ホームと駅舎は構内踏切で結ばれていて、当駅始発の列車はどちらのホームからも出発できるようになっているほか、貨物車が旅客車を待避できるよう貨物専用の線路も設けられている

本日はここまで。三岐線は少ししか回れなかったが、一度帰宅してまたこの後の駅を回収することにしよう

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その3 原則的にはほぼ全駅が有人駅

山城駅の駅名標

※訪問は2024年11月20日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

読みは「やまじょう」

山城駅にやって来た。ご覧のように読みは「やまじょう」である。当駅の駅舎は路線内の他駅とは、やや異なる雰囲気を持っている

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火災から復活

ホームの先にある構内踏切を渡って駅舎に向かうが、見た目は新しく、かといって前記事の大安駅のように豪華というわけでもない

当駅は1931年(昭和6)の開業。どう見ても当時からの建築物とは言えないが、これは火災に遭ったためである

2014年4月に当駅で不審火が発生。当時すでにコンクリート駅舎となっていたため全焼は免れたが、駅舎の半分ほどが延焼。周辺では他にも不審火があったようで、酷い話である。駅舎はその後、建て替えられたもの

山城駅のかつての所在地は下野(しもの)村。1954年の合併で四日市市となった。駅名はかつてあったお城が地域名となっていたことに基づく

織田信長に滅ばされた城址があったが、三岐線建設の際、中心部が鉄道用地となったため分断される形になっているという

新旧が混じり合う

駅前にはバスの停留所が並ぶ

かつては当駅にバスの車庫があり、華やかな雰囲気があったというが、現在も始終着としての役割を担う。イオンモールを経て北勢線の東員駅に向かうバスもある。地図だと並行して走っているように見える三岐線と北勢線だが、この間を結ぶバス路線は複数あるため、バスを利用しての両路線訪問も頭に入れておきたいところである

待合室は鉄道、バス共通のものとなっていてエアコンも備えられている

こちらは改札口

こちらはフリーパス(現在のものと異なる)の裏側だが、有人駅は黒い丸で表示されている。これで分かる通り、北勢線とは異なり、三岐線は1つの駅を除いてすべて有人駅。もちろん営業時間外で無人の時間帯もあるが、きっぷ販売や定期販売だけでなく改札も行う。現在は都心の大手私鉄の駅でも無人駅が目立つ時代である。そんな中、旅客扱いをしている全15駅中14駅と、ほぼすべての駅が有人というのは、地方の私鉄としては貴重な存在である。ただこうなると、無人となっているたった1つの駅はどんなところだ、というのが気になるところだが、そのあたりは当該記事でお伝えしたい

火災によって大きな被害を受けた山城駅だが、構内踏切の手前には、このようなクラシックな案内も残る。なかなか味のある駅だといえる

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その2 図書館併設の駅には駅名標が並ぶ

大安駅の駅名標

※訪問は2024年11月20日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

最初の駅は立派な造り

記念すべき三岐線の最初の下車駅は大安。漢字だけ見ると「たいあん」と読んでしまうかもしれないが「だいあん」である。歴史ある駅が多いイメージの三岐線だが、単式ホームながらも当駅には降りた時から新しさが漂っている

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三岐の岐は岐阜県の意味

当駅は1931年(昭和6)の開業。三岐線は富田~東藤原が同年7月に開業して同年12月に西藤原までが開業して、ほぼ現在の姿となったが、当初の予定とは違って、今もこの形だ。路線名でおおよその察しはつくが「三」は三重県、「岐」は岐阜県からそれぞれ1文字ずつとったもの。このまま県境の山深い地域を貫いて関ヶ原方面まで敷設されるはずだったが、結果的に西藤原以遠の工事は行われず、早々の1937年に敷設のための鉄道免許が失効。岐阜県に入ることなく路線名だけに岐阜の文字が残った。新たに敷設されたのは戦後に設けられた近鉄富田駅へのわずか1キロの連絡線のみである

このような例は全国にもあり国鉄では越前(福井県)と美濃(岐阜県)を結ぶ予定だった越美線は県境を越えることなく越美北線と越美南線(現長良川鉄道)に分かれたまま終わっているし、山陽地方には行かず兵庫県で完結している山陽電車もある

当駅は最初の開業時に誕生し、当時の所属自治体は梅戸井村。梅戸井駅は今も隣駅として存在するが、駅名となった大安はまだ自治体名としてはなかった。開業時の駅名は地域に基づいて大井田駅だった。その後、1959年に梅戸井村と三里村が合併して大安町が成立。当地がかつて奈良の大安寺の寺領だったことに由来する

一方で駅名はそのまま大井田のままだったが、1986年に現在の駅舎が新たに建てられた際に大安町が建設費を出資して駅名変更となった

大きな駅舎は図書館が併設されている

きっぷ売り場があって、その奥が図書館。大安町は平成の大合併でいなべ市となるが、駅舎が誕生した際は、もちろん大安町の図書館

観光協会も入居している

旧大安町の代表駅

大安町の成立後は、当駅が代表駅の役割を担うようになった

大井田城跡を経て旧大安町役場(現大安支所)の役場の最寄り

駅前の周辺案内図は大安町時代のものが、そのまま残されている

駅へと戻る。窓口の営業時間はかなり長い

駅舎の待合室機能も充実している。そして下車した時にまず思ったのが

かなり「これでもか」と並んでいるホーローの縦型駅名標。まるで北海道の駅のようである。新旧の駅舎が並んでいるのが三岐線の魅力でもある

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貨物を担う私鉄としてもうすぐ100年の三岐線~その1 桑名から富田へ移動

近鉄富田駅の駅名標

※訪問は2024年11月20日

※現在、三岐鉄道の三岐線と北勢線は別々の1日乗車券が必要です

桑名から富田へ移動

三岐鉄道北勢線の西桑名駅へと戻ってきた。北勢線の全駅訪問は次回へ持ち越しとして近鉄に乗り換え、近鉄富田駅へと移動して少し三岐鉄道三岐線に乗車することにする

いかにもハンパな行動だが、理由はひとつでお腹がすいたから。北勢線沿線の駅近くで飲食店を探す気力が今ひとつなかった。今日は最終的には津からひのとりで大阪へと戻る予定なので近鉄で南下することにした

桑名駅にあるレストランで桑名らしいハマグリ入りの天丼を食べて元気も復活。1日乗車券を持ったまま、近鉄富田駅へと移動した

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駅も様変わり

近鉄富田駅に到着。桑名からは急行だと1駅、普通で4駅だが10分ほどで到着する。当駅に来たのは2022年3月以来なので2年半ぶり。何か前回と違うな、と思って当時の写真を探すと

衣替えが行われたようだ。変わったことといえば

特急券売り場があった場所はシャッターが降ろされている

訪問の2カ月前に閉鎖されたらしい。前回の訪問時にここで近鉄特急のきっぷを購入したことを覚えているが、偶然ながら私もその後、近鉄特急についてはネット予約&購入にシフトしている。近鉄においても、特急は停車せずとも利用の多い駅では窓口で特急券を販売していた時代は終わったのだな、と感じてしまう

ちなみに前回はJRの富田駅から5分ほど歩いてやって来た

実はこれも三岐線と密接な関係があるのだが、それは当該記事で振り返りたいと思う。ひとつ言えるのは、三岐線は1931年(昭和6)の開業以来ずっと独立した私鉄路線でありながら貨物列車も走り続けている貴重な存在だということ

フリーきっぷに注意

ここで朝から使用してきた1日乗車券を取り出す

北勢線、三岐線で共通の乗り放題パスとなっていて、直接の接続のないそれぞれ独立した路線ながら、どちらをどのように乗車しても良い形になっていて、私はこの日のほかにも12月に再び当地を訪れて両路線を乗りまくったが、こちらはすでに過去のものとなっている

北勢線では3月からICOCAシステムを導入。このため三岐線と北勢線では別々のフリーパスが必要となった。料金はともに1200円。つまりこの時の私のように1枚のフリーパスで2路線は乗れない。三岐鉄道HPによるとICOCAシステムへの加入が必要なようだ。ちなみに11月の訪問時の私は、このシステム変更について全く知らなかった。発表前だったのか、発表後だったのかも定かではないが、とにかく偶然ながらギリギリ滑り込んだことになる

さっそくホームへと向かうと三岐線の列車が待っていた。近鉄富田駅は2面3線構造で1、2番線を近鉄が、3番線を三岐線が利用するが、近鉄は標準軌、三岐線は狭軌のため両線の列車が相互乗り入れすることはない。三岐線については旅客輸送の始発駅となっているに過ぎない。「旅客輸送の始発駅」というのが三岐線の特徴を表してもいるのだが、それについても今後の記事で触れる

三岐線ではIC乗車ができない旨が駅とホームのあたらこちらで案内されていてホームには乗り換え用のICリーダーも設置されている。見ていると地元の方々は何の違和感もなくリーダーにタッチしている。地方路線や三セクなどでもよく見かける光景だが、初体験の都会の方は戸惑うかもしれない

ホームの前には路線図と全駅紹介。当駅を除くと14駅。もちろん今日一日では終わらないが、まずは出発しよう

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