大糸線

大糸線全40駅訪問最終章~黒部ダム建設の拠点を担った駅で2時間待ち

北大町駅の駅名標

※訪問は2024年10月9日

稲尾駅と誕生日は同じ

北大町駅に到着。駅名標で分かる通り、信濃大町駅のひとつ北隣の駅。信濃大町駅以北は国鉄によって敷設された区間となる。そのため路線内では、国鉄建設による1つ目の駅となるが、開業は全通後の1960年(昭和35)の7月20日で先に紹介した稲尾駅と同じ誕生日。構造も同じく単式ホームと待合所のみの簡素な構造となっている

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2時間電車が来ない

駅の紹介より、先に時刻表を紹介しよう

簗場から12時56分でやって来た。同方向つまり信濃大町、松本方面は16時24分で、なんと3時間半後、南小谷方面も15時12分で2時間以上後と、まぁまぁ困る運行状況となっている。ただ駅の周辺は大町市の市街地域でもあり、住宅や商店もある。時間的にはランチタイムなので、あまりアテはないが、食事をして時間を潰せそうなら、ここに居座り無理そうなら30分ほど歩いて信濃大町駅を目指すつもりだ

ということで時間はいくらでもあるので駅をじっくり見ていこう。じっくりといってもすぐに終わってしまいそうだが、基本的には2両編成の列車しかやって来ないためホーム有効長は短い

住宅街の中に戦後10年以上も経って設けられたことから駅前広場といったものはなく、この階段のみが駅の内外を結ぶ導線だ

貨物の重要拠点

駅の南側には踏切があり、ホームと逆側に街が広がる。音楽ホールでもある大町文化会館は駅に隣接した形となっているが、この場所が北大町駅にとって大きな意味を持つ

この場所は関西電力の資材置き場だった。大町そして関西電力といえば、ピンと来る方も多いだろうが、資材は黒部ダム建設用のものだった。やがてここから県道が造られる

長野県道扇沢大町線。立山黒部アルペンルートと言った方が分かりやすい。関電トンネルの扇沢駅までのバスが信濃大町駅から出ているが、県道そのものの起点はここ文化会館。現在は観光ルートだが、もともとは黒部ダム建設用の資材を運ぶ道路として建設された。貨物列車で当駅付近まで運ばれた資材はトラックで現場まで運ばれた。駅としては旅客専用の駅だったが、大プロジェクトを担う駅だったのだ

ふらり入ってカフェで

さて肝心の時間つぶしだが、町をウロウロしているとカフェを発見

ホットサンドのセットで昼食としたのだが、地元のおなじみさんばかりの店内で会話は大いに盛り上がり、あっという間に時間が過ぎ去った。12月にも加古川線に乗車した際、西脇のカフェでこちらも地元トークに花が咲いた。地方の喫茶店にはこんな楽しみがある。西脇の場合は神戸からすぐの場所なので土地柄的な部分は共通点も多いが。さすがに大町には土地勘は全くない。初めて知ることばかりだったが、ひとつ分かったのは今日のように地元の方もビックリの急に寒くなる日があるということ。それがたまたまこの日だったようだが「立派なセーター用意して来るなんて偉いじゃない」と褒められた。お漬物やフルーツのお裾分けもあって楽しいひとときを過ごせた。ごちそうさまでした

信濃大町駅近くにあるのかなぁ、とちょっと困っていたドラッグストアも付近にあって助かった。あっという間の2時間で町の散策はほとんどできなかったが満足して駅に戻る

近年のデータはないが、おそらく100人は切っているであろう1日の利用者数の駅だが立派なお手洗いが設置されている。よく見ると「電源立地地域対策交付金」の文字。その前に立ち寄った簗場駅にも

年代は異なるが同じものがあった。観光地としての黒部ダムは認識していても建設については、ついつい忘れがちになってしまう。北大町の駅に来ても面影はほとんどないが、このようなプレートを見ると、当時のことをいろいろ思い巡らせてくれるのだ

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大糸線全40駅訪問最終章~湖畔観光、スキーの駅としてにぎわう

簗場駅の待合所にある方面案内

※訪問は2024年10月9日

ロッジ風駅舎は平成になってから

バスを降りて簗場駅へ。駅舎はロッジ風でおしゃれな感じだが

中に入ってみると簡易的なもの。もちろん無人駅

財産票によると2004年からのもの。「待合所」とされているので駅舎という感覚ではないようだ

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大糸線での最高標高

最近の数字は分からないが、おそらく現在の1日あたりの利用者は20~30人ほど。しかし以前の当駅はもっとにぎわいを見せていた

駅の前はすぐ中綱湖で湖畔の旅館街までは徒歩で10分もかからない。私の訪問時はシーズンオフだったが、旅館街のすぐ向こうにスキー場が見える。鹿島槍スキー場で、駅から歩いていけるスキー場である

簗場駅は1929年(昭和4)の開業。信濃大町以北の建設を行った国鉄が信濃大町から北へと線路を伸ばす際の一時的な終着駅だった(翌年、神城まで延伸されている)

転機を迎えたのは戦後となった1957年の大糸線全通以降。元々は国防用に敷設が始まり、全通時には終戦から10年以上が経過していた大糸線をレジャーに活用することになって、最初に着手したのが輸送力を充実させるための電化だった。松本から信濃大町までは信濃鉄道の手によって大正期に電化されていたが、信濃大町以北も一気に電化させようというもの。信濃大町~信濃四ツ谷(現白馬)までが1959年には電化される

以前の記事で白馬駅について紹介したが、最も脚光を浴びたのはスキーだった。沿線では、それまであったスキー場の拡充や新規オープンが相次いだ。その意味では夏場のレジャーにもなる仁科三湖を有する簗場駅は格好の対象だった。当駅の標高は827メートル。大糸線内で最も高い場所にあり、道理で肌寒いはずだが、電化後間もなく鹿島槍スキー場がオープン。当時は何本も乗り入れていた大糸線の優等列車も停車する駅となった

はがれた地図にあった駅

駅前にあったトレッキングコースの地図に目が行ってしまった

赤丸で囲った部分。紙で塞いだ部分がはがれていた。駅の部分を覆っていたようだが「ヤナバスキー場前」と書かれている。簗場駅の駅名標も

かつてあった隣駅を変更した跡が明白だが、簗場と南神城の間にはかつてヤナバスキー場前という駅があった。スキーの季節だけ営業する臨時駅だった

こちらは青木湖畔にあった。グーグル地図を拡大すると、もちろん駅はないが、今も「出入口」という表記だけが残る。1985年という昭和終わりごろのスキーブームのころに開業したヤナバスキー場だったが、2016年度に営業を中止しており、臨時停車もなくなり、やがて廃駅となった。存在していれば簗場駅よりも標高の高い位置にあったようだ。また現在は大糸線を北上すると簗場駅が大町市最後の駅となっているが、この駅も大町市にあった

簗場駅が簡易化されたのは、ちょうどそのころ

優等列車の停車があったことを物語るように、かつては長いホームがあったようだ

側線が保線用に残されている。かつての貨物ヤードだったのだろうか

ホームの待合室は古いものが残る

この時間帯は当駅で列車交換が行われる。再び信濃大町方面へと向かう

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大糸線全40駅訪問最終章~アテのないかもしれないコミュニティバスに乗車

簗場駅の駅名標

※訪問は2024年10月9日

稲尾駅前のバス停

稲尾駅を出た国道にある停留所

かわいい停留所があった。大町市のコミュニティバスである

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今回もお世話になります

駅巡りで困った時の強い味方、コミュニティバス。9月に中央西線の最北部分で塩尻市のコミュニティバスにお世話になって以来のことだ。列車がなければコミュニティバスである

これが時刻表。1日3・5往復で平日のみ運行というのはコミュニティバスの鉄則のひとつ。私が乗るのは青木・木崎方面。最初の写真で分かるかもしれないが、停留所があるのは稲尾駅を出た国道の向かい側。稲尾駅側にバス停はないが、注意書きに「道路の反対側で手をあげて運転手にお知らせください」と書いてあり、なかなか親切。過去の体験ではこのような案内はなく、ただバス停の向かいで「お~い」と手を振って停まってもらった

稲尾駅に到着したのが10時56分でバスの発車が11時32分。1日わずか3本ながら、まるで私のためにあるような運行だ。稲尾駅で降りたのは私一人、そしてバス停で待つのも私一人。電車がなければバスである

間もなくバスがやって来た。ただ「私のためにある」と言っておきながら、実は不安だらけなのだ。この路線は途中からデマンド化されるようで、簗場駅近くの停留所はデマンド路線の中にある。大町市の中心部から出るこのバス(もちろん信濃大町駅も通る)は付近の集落をクネクネと入念に回るようで、路線バス扱いの最も近い停留所で降りたとすると

線路沿いに30分ほど歩く必要があるらしい。しかしバス用の携帯アプリ(地方に行くと使用頻度が高いのでインストールしている)によると、簗場駅近くの停留所は乗ることはできないが、到着時間は書いてある。ひょっとして降車だけなら可能なのか? 時間はたっぷりあるので30分歩いても電車には楽勝で間に合うが、わざわざバスに乗って、その後30分も歩きたくはない

乗客は私のほかにはご老人の女性。明らかに地元の方で、コミュニティバスによくある運転手さんも顔を知っているお客さんのパターン。乗車時におそるおそる尋ねてみた

「湖端で降りたいのですけど」

事前に「こばた」と読むことを調べておいた。すると

「分かりました」

平静を装っていたが、この時の気分といったらなかった。心の中で何度もバンザイを繰り返していた

中綱湖畔の旅館街を通る

これで安心してバスの車窓に専念できる。どうやら千国街道の旧道を通っているようで、国道148号=千国街道と思い込んでいた私は認識が微妙に異なることを教えられた。また簗場駅は仁科三湖のひとつである中綱湖にほど近く、湖畔の旅館街をバスは抜けていった。実は今回の旅において、この付近の旅館への宿泊も考慮したこともあり「予約しかけた旅館は、ここなんだ」と思いながら車窓を眺める

先客のご婦人は、そのあたりで降りて残ったのは私一人。そして間もなく

無事、湖端に到着。このあたりはフリー乗降区間らしく簗場駅と言えば降ろしてくれたかもしれないが、駅とは目と鼻の先なので全く問題はない

大町市街行きは、やはりデマンドバスになっているが、大町市内から来る時は乗れたので良かった

中綱湖が美しい。私はバスに揺られて湖の向こうの集落のある場所からやって来た

ちなみにバスはこの先、簗場という停留所を通るが、駅名と同じながら、ここは駅からはやや遠い。もしバスで簗場駅を訪ねる人がいれば留意してほしい。まぁ、この記事を読んで訪ねる人はほとんどいないと思いますが

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大糸線全40駅訪問最終章~木崎湖ほとり2駅のひとつに残る駅名板

稲尾駅の駅名標

※訪問は2024年10月9日

「恒例」のホーム+待合所の駅

稲尾駅に到着。本日最初の訪問駅だが、名古屋を7時に出て最短距離で来たものの、すでに11時前となっている。ただダイヤ的に、どんなに早く行動しても名古屋からスタートする限りこの時間になってしまう

そして駅は大糸線ではおなじみのホーム+待合所のみの構造だ

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木崎湖ほとりの2駅

大糸線の車窓のハイライトのひとつである木崎湖畔の2駅のうちのひとつである海ノ口駅についてはすでに紹介済みだが、もうひとつの駅が、ここ稲尾駅。そして私の駅訪問については、ちょっと失敗している

両駅間は極めて近いのだ。しかも平坦コースで線路に沿った道路を歩くことができるので駅間距離の1・3キロとほぼ同じと、駅間徒歩のための大切な要素がそろっているのに前回思いつかなかった。しかも木崎湖が最も接近する景観の良い場所を歩くことができた。限られたダイヤで、これは見逃しのひとつだろう

地図で分かる通り、駅ホームからの眺望は農地を挟んでの木崎湖という形になる。10月上旬ということでまだ夏の香りも多少は残るが、山にかかった霞などもう少し早い時間帯なら、もっと美しかったと思う

全通後にあらためて新設

当駅は1960年(昭和35)の開業。大糸線の全通が1957年なので、その3年後に新規開業した。このタイミングで北大町、飯盛と同時に3駅が開業している。いずれも信濃大町より北の駅だが、このころは大糸線にとってエポックな時代で、戦前から国鉄によって敷設された信濃大町以北の電化が急ピッチで進んでいた時だった。全通からわずか2年後には信濃四ツ谷(現白馬)までが電化され、稲尾駅設置の1960年には信濃森上までが一気に電化。そのタイミングでの新駅誕生だった。地元からの請願があっての開業で、海ノ口駅までの距離が短いのもそのためだ。逆側の隣駅である信濃木崎駅までも2・2キロしかない

急ピッチで建設されたこともあり、ほぼ並行する国道に面していて簡素な入口があるだけで国道側からも分かるように駅名標は外向けの駅名板も兼ねるリバーシブルな形式だ。ホーム有効長も3両分しかなく4両編成の場合はドアカットが行われるという

そんなシンプルな構造の稲尾駅だが、ひとつ目を引くものがこちら

待合所に掲げられている駅名標。形式はクラシックなものに見えるが、随分真新しいと思ったら解説があった

うれしい気遣いというか心配りだ。わざわざモニュメントとして掲示しているという。電車から下車したのは私一人だけだった。最近のデータが調べても出てこなかったのだが、10年以上前で1日の利用者が10人ほどだったそうなので、おそらく今はそれ以上の数字ではないだろう。そんな小さな駅で出迎えてくれた駅名標に敬意を表したい

さて待合所の中にある時刻表を見ると

10時56分の電車でやって来たので上りも下りも1時間半運行がない

ちょうどあずさがやって来たが、もちろん当駅に停車するはずもない。さすがにここで時間をつぶすわけにはいかないので、ここからは別の交通手段で別の駅へと移動することにする

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大糸線全40駅訪問最終章~予想を上回る寒さに震える

信濃大町駅の跨線橋にある駅名標

※訪問は2024年10月9日

スタートは名古屋から

朝6時の名古屋は栄付近。まだ暗い。前夜は名古屋泊だったが朝方にかなりの雨が降って気温は低い。とはいえ残暑厳しく前日の昼間は長袖シャツ1枚で暑いぐらいだった。この時間帯でもその服装で十分だった

本日から秋の乗り放題パスを使用して大糸線の全駅訪問の総仕上げを行う予定。最後は1カ月前と同じく大糸線増便バスなどを利用しながらJR西日本区間の大糸北線のいくつかの駅を再訪して糸魚川から北陸新幹線に乗車するつもりだ

もっとも名古屋から乗り放題パスでトコトコ北上しては間に合わないので松本までは特急「しなの」で向かう。7時発のしなので松本着は9時すぎ

おなじみの「ま~つもと~」のアナウンスとともに下車したが「さ、寒い」。それが感想だった

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1年前に学んだこと

この時間帯の松本の気温は9度。身体が一ケタの気温に慣れていないので、ことのほか寒いが、とにかく大糸線に乗り継ごう。乗継ぎ時間はわずか10分ほど。大糸線ホームに向かうと

大きな置き案内が通路にあった。行く手をさえぎるように置かれているが、これは大いに助かる。何も知らず大糸線ホームまで行っていたら時間的に危なかったかもしれない

ということで無事乗車。行先を見ていただくと分かるが、1日3本しかない松本から南小谷への直通列車の1本(ダイヤ改正で2本になったようである)。これを逃すと悲惨というか今日の1日がほぼムダになってしまう

そしてバッグからセーターを取り出してシャツの上から着る。冬物の厚手のセーターだ。実は昨年の同時期にも高山本線の全駅訪問の仕上げを同じきっぷで行ったのだが、前日に氷見線や城端線で各駅訪問をしていた時は暑いぐらいだったにもかかわらず、早朝に富山から高山本線に乗り込み県境の猪谷で降りると寒さに震え上がってしまった。その時はシャツを2枚重ね着するという緊急対策を行ったものの、それでも寒い

県境付近にある簡易型ながらシェルターのようになっている打保駅の待合所で、ずっと身を潜めていた。その体験があるのでセーターを用意したのだが、これが大正解。おかげでこの後は寒いと感じることなく旅程をこなすことができた

信濃大町以北は工夫が必要

列車は約1時間で信濃大町に到着。ここで25分ものいわゆるバカ停車を行う(ダイヤ改正で15分ほどに短縮された)ので外に出てみる。当然だが松本よりさらに寒い。1カ月前に当駅に来た時は1時間半ほどの待ち時間の間、エアコン完備の待合室だったにもかかわらず、朝の9時前という時間帯で、暑い暑いと自販機の冷たい飲み物に2度もお世話になったことを考えると、わずか1カ月で隔世の感がある

ただ駅舎の外にあるお手洗いに行くと、その付近にいたご婦人同士が「今日は急に寒いねぇ」と会話していたので急に気温が下がったようだ。その証拠といっては何だが、自販機には「冷たい」しかない。運が悪いといえば悪いが、ホームと待合所のみの駅もこの先には待っている。雨に降られるよりは、はるかによい

そして

こちらが信濃大町駅の時刻表。これまで何度も書いているが松本~信濃大町は、昼間も1時間に1本の運行があるのに対し、信濃大町~南小谷はガクンと本数が減る。私は10時43分に乗車するが、これは7時21分から3時間20分後の運行。次は12時21分で1時間40分運行がなく、さらにその次は3時間近く運行がない。おそらく沿線の高校生に合わせたダイヤと思われるが、夜の駅訪問は基本的にやらない主義なので、18時以降はないのと同じ。このダイヤで途中の12駅(3駅は訪問済みなので9駅)を回らなればならないので、いろいろ工夫が要る。一応、自分なりに考えた作戦はあるので、まだ不透明な部分は残るもののスタートしよう

まずは信濃大町から3駅目の稲尾で降りてみた

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大糸線全40駅を訪問するお話~旧18きっぷ最後の訪問駅はかつての特急停車駅

神城駅の駅名標

※訪問は2024年9月10日

思ってもみなかったルール変更

神城駅に到着。大糸線のJR東日本の閑散区間である信濃大町~南小谷は10月に発売される鉄道の日記念のフリーきっぷで本格的に回収することを決めていて、今回は南小谷から糸魚川までの増便バスに乗車することが大きなテーマだったが、10月を楽にするため時間があるなら、その中でいくつかの駅を回ってみようということになって降りたのが海ノ口と当駅である

さらに言うと旧制度の青春18きっぷで最後の訪問は当駅となった。もちろんこの後、南小谷、糸魚川を経て敦賀から新快速に乗るので下車駅はいくつもあるが、初訪問の駅は含まれていない。「訪問」というくくりでは神城駅が最後となってしまったが、まさか18きっぷのルールが変更になるとは、この時は夢にも思っていなかった

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一時的な大糸南線の終着駅

写真入り駅名標も残る当駅は1930年(昭和5)の開業。当時は国鉄の大糸南線として敷設が進められていた信濃大町から北側の線路が簗場から当駅まで開通して約2年間の間、終着駅だった。当時は神城村に所在し、戦後に北城村と合併して白馬村が誕生したのは前記事で紹介した通りだが、開業当時に神城駅と、2年後に開業する信濃四ツ谷(現白馬)駅に駅の格付けとして大きな差はなかった。ともに農村地帯の駅という扱いだったことは、特に信濃四ツ谷まで建設を急いでいたわけではなく、次の開業が信濃四ツ谷をまたいで信濃森上までだったことでも理解できる

神城駅は

大きなロッジのような駅舎となっている。もうひとつの特徴としては写真の右下を見れば分かるが

なぜかここに旧式の駅名標が設置されている

現在の駅舎は1997年(平成9)に開業時からの木造駅舎を新たに建て替えたもの。地元企業や住民が建設費を出資した。写真入り駅名標で分かる通り、当駅もスキーそして登山の拠点駅となっていて

白馬五竜スキー場の最寄り駅。1980年代からのスキーブームで当駅にも東京、名古屋から乗り入れる特急が停車または臨時停車していた

こちらも最後となるとは

地元の観光協会が入居していて協会による簡易委託駅

私は山のことは全く分からないが、登山補導所という言葉は初めて知った。木製の看板はかなり以前から使用していたものに思える

駅舎内には旧駅名板が保存されているが、板の上は毎年訪れる訪問者の子育て場所となっているようだ

旧式の駅名標はホームにも残る

ホームは2面3線構造だが、うち1面は使用を止められ柵が張られていた。錆びた線路はホームの端で途切れている。特急あずさは2010年から停車がなくなった。スキー場へはマイカーのほか、東京などの大都市のみならず長野県内からもバスで訪れる客が多く、現在の1日あたりの駅利用者数は70人程度となっている

この後は南小谷駅へと向かい大糸線増便バスに乗車することになる

その時に何気なく撮った写真がこちら

南小谷駅での特急あずさ。この記事を書いている今日3月14日で当駅までの乗り入れを終える。南小谷まで乗り入れた40年以上の歴史が終了する。こちらについても、これが最後の姿になるとは思ってもいなかった

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大糸線全40駅を訪問するお話~誰もが知る駅は戦後に急発展した大糸線の救世主

白馬駅の駅名標

※訪問は2024年9月10日

信濃大町から40分

白馬駅に到着。信濃大町から40分の道程。松本から信濃大町にかけては松本や沿線の通勤通学と安曇野観光という2つの性格を持ち合わせる大糸線で、途中の駅も知名度の高い駅が並ぶが、信濃大町から北は知名度という点では、ほぼ白馬の一点集約だろう。逆の見方をすると、当駅以外、一般的にはあまり用のない駅が並ぶ。もっとも鉄オタ的視点では、そういう駅の方が、より関心をそそられる

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元の駅名は「四ツ谷」

白馬村にあるから白馬駅である。誰でも分かりそうな理屈で

写真入り駅名標も健在である。ただ1932年(昭和7)に大糸南線の駅として開業した際の駅名は「信濃四ツ谷」だった。現在の視点からすると意外な事実だが、白馬駅の待合室には

以前の駅名板が保存されている

そこには分かりやすい解説もある。現在の駅名となったのは戦後20年以上が経過してから。当時の所在地は北城村。駅名は解説にある通り周辺の呼び名である四ツ谷が採用された。国名が付いたのは説明するまでもなく四ツ谷駅が先にあったからだ

北城村が現在も駅名がある神城村と合併して白馬村が誕生したのは1956年のこと。有名な自治体名だが意外と新しい。駅名変更の機運が高まったのは、そのころから。1957年の大糸線全通の際にも地元が要望したが、国鉄に受け入れられたのは1968年のことだった。大糸線が全通するにあたって新潟県に所在することになる現在の平岩駅の駅名候補に白馬があり、地元では大変気をもんだという。要望から10年以上が経過していた

現在の白馬駅の存在感を思うと随分のんびりした話だが、国鉄としては、あまり気にする話ではなかったようだ。というのも当時の一帯は単なる農村で地域外から多くの人が訪れる場所ではなかった。戦前からスキー場があるにはあったが、大規模開発が行われるようになったのは駅名変更のころからである

長野五輪で確固たる地位に

駅舎は大きなロッジ風。何度か改修工事を施されているが、現在の姿になったのは1996年(平成8)。長野冬季五輪の2年前で、ロッジ風も何も2階部分はホテルとしての改築だった

昭和後半から訪れたスキーブームのおかげで白馬駅を中心に大糸線沿線は多くのスキー客でにぎわった。今は最盛期ほどのにぎわいはないが、冬場のスキーだけでなく登山、温泉の利用者も年間を通じて訪れ、白馬駅はその中心となっている。長野五輪の会場となったことで地位はさらに高まった。スキーブームがなければ、元々は国防のために人が少なそうな場所にあえて敷設した大糸線だけに、利用者はさらに少なかったと思われる。その拠点駅は、いわば大糸線の救世主となった

跨線橋にはスキー用のスロープが設置されていて

その旨の注意書きがある

管理駅だが、みどりの窓口は営業を終えていて指定席券売機が設けられている。この記事を書いている時点で、特急あずさの南小谷乗り入れはあと2日で終了となるが、当駅までは今後も乗り入れを行う

駅の周辺案内図。鉄道利用の場合、信濃大町から北は食事を摂るのも大変だが、当駅近辺では問題なく食べることができる

ただ少し意外かもしれないが、観光需要の多い駅だけに1日の利用者数は約500人ほどとなっている

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大糸線全40駅を訪問するお話~痛恨を知らずに信濃大町のロング待機と豊科の夜

信濃大町駅の写真入り駅名標

※訪問は2024年9月10日

再び信濃大町へ

信濃常盤から2駅。前日に続いて信濃大町で下車

信濃大町に到着したのは8時55分。ここから白馬を目指して北上するわけだが、ご覧の通り、次の南小谷行きは10時43分。2時間近い待ち時間ができてしまった。早々に回送になってしまった方向幕がうらめしい

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致命的ミスに気付かず

こちらが信濃大町駅の時刻表。松本方面へは1時間に1本の運行があるのに対し、南小谷・白馬方面へはグッと少なくなる。特に朝の7時台の後は3時間以上の空白があり、お昼前から特急あずさを含めて3本の南小谷行きがあるが、その後は再び3時間近い空白がある。高校生の通学が終わった後は帰宅時間まで運行がなくなってしまうローカル線ならではのダイヤになるため、信濃大町から北へ向かおうとすると、朝は7時21分の列車を捕まえるしかないのだが、これに乗ろうとすると、豊科の始発である6時23分に乗るしかない。今回はどちらかというと南小谷からの増便バスに乗ることが目的なので、細かい駅巡りは、また来る予定の来月でも良い。信濃大町以南は今朝の信濃常盤ですべて回収したので、その分の憂いはなくなった喜びで待機しよう…

と、その時は思っていたのだが、実は1駅だけ「忘れ物」があった。翌月には鉄道の日記念のパスで再び当地を訪れているが、その時も分かっておらず、大糸線のシリーズを書き始めてから気がついた。島内駅を忘れていたのだ。島内は松本から2つめの駅で中心部にも近い駅。なぜだかエアポケットになっていた。今にして思うと、ここで2時間待ちをする間に十分回収できたのである

ということで、これ以降の記事は「全駅訪問できた気分」に向かって進んでいくことをご了承いただきたい。それにしても結構な痛恨となってしまった

エアコン完備の待合室で

2時間近い待機になってしまったため、この時間を生かして観光でも、と一瞬思ったが、とにかく暑い。昨日より暑いのではないか。ということであっさりヤメである

なんといってもエアコン完備の待合室という強い武器がある。途中、屋外の自販機を2往復して涼をとったが、喫茶店のお世話になることもなく、時にはうつうつ船をこぎながら時間を過ごすことができた

先の信濃大町駅の記事で「駅名標だらけの駅」と紹介したが、もうひとつあったことに前日気付かなかったむので、追加しておこう

豊科で思わぬサッカー談義

時系列は少し戻るが、前夜の豊科の夜のことも触れておこう。駅の周辺には飲食店がいくつもあるが、お店の看板を見て気になったので入ってみたのが

どう読みます?

「べっかむ」としか読めない。もしや豊科にもサッカーのお店があるのかと思い入店してみると普通の居酒屋さん。サッカーの雰囲気はまるでない

地酒も地のものも美味しかった。すっかりサッカーのことは頭から離れてしまい、カウンター席に座り、ご主人と歓談。かなりお酒も進んだころ、スポーツ新聞勤務の自分の職歴などを話すと、急に話題はサッカーモードへ

やはり、店名は元イングランド代表のデビッド・ベッカムのことだった。ベッカムが所属していたマンチェスターU(ユナイテッド)は、1999年欧州CL決勝でバイエルン・ミュンヘンを相手に0-1の劣勢からロスタイムに2点を奪って欧州制覇。歴史に残る大逆転勝利として名を刻むが、2点はいずれもベッカムのCKから生まれた。その試合に感動して店名の由来になったという。ご主人は海外までサッカー観戦に出かけるという、なかなかのファン。そこからお互いに話が盛り上がってしまった。居酒屋さんで欧州CLの話をしたのは、もちろん初めてのことである

ご主人は格闘技も大好きで、格闘技観戦のためWOWOWに入会したという、これまた私と同じ経歴の持ち主で、そちらでも大いに盛り上がってしまった。なかなか充実の豊科の夜だった

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大糸線全40駅を訪問するお話~開業はこちら先だけどの快速停車駅

信濃常盤駅の駅名標

※訪問は2024年9月10日

18きっぷ「最終日」とは夢にも思わず

前夜は豊科に宿泊。松本でもそう大差はないが、せっかくなのでこれまで宿泊したことのない町に泊まることに。本日は9月10日で青春18きっぷの最終日。そして私が持つ18きっぷも本日が5回目の最終日である。毎度のことながら18きっぷについては、最後にギリギリ頑張って使い切るパターンばかりで、今回については3~5回目を期限ギリギリに3日連続で使う完全な駆け込み利用となり、3回目こそは原価割れ(1日に2410円以下の使用)となってしまったが、前日9日は篠ノ井から松本経由で大糸線内をかなりウロウロしたし、本日は糸魚川まで抜け、そこからは北陸新幹線を利用するものの敦賀からは新快速で再び18きっぷを利用するので、大幅に元をとった。そもそも中央西線の駅巡りでか前夜は豊科に宿泊。松本でもそう大差はないが、せっかくなのでこれまで宿泊したことのない町に泊まることにした

本日は9月10日で青春18きっぷの最終日。そして私が持つ18きっぷも本日が5回目の最終日である。毎度のことながら18きっぷについては、最後にギリギリ頑張って使い切るパターンばかりで、今回については3~5回目を期限ギリギリに3日連続で使う完全な駆け込み利用となり、3回目こそは原価割れ(1日に2410円以下の使用)となってしまったが、前日9日は篠ノ井から松本経由で大糸線内をかなりウロウロしたし、本日は糸魚川まで抜け、そこからは北陸新幹線を利用するものの敦賀からは新快速で再び18きっぷを利用するので、大幅に元をとることになる。そもそも中央西線の駅巡りで、かなり乗降を繰り返したので、なかなかの回収ぶりだったはず。まさか、この時は18きっぷのルールが変わるなど夢にも思っていなかった

朝7時台の豊科駅は無人だった。信濃大町行きに乗車すると車掌さんが乗っている列車だったので、一番後ろに乗ってサインをもらう。無人駅から乗車するとワンマンの運転士さんや車掌さんからハンコやサインをもらうことになるのだが、結果的にその「最終日」となってしまった

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国有化までは常盤駅

約30分で信濃常盤駅に到着。駅だけ見ると全く普通だが、何か違和感を感じたのは松本以来の交換可能駅はすべて島式ホームだったからかもしれない

当駅は1915年(大正4)の開業。信濃鉄道が池田松川(現信濃松川)から信濃大町(初代)まで到達した際、常盤沓掛(現安曇沓掛)とともに設置された。当時の駅名は常盤。命名の理由はシンプルで、この2駅が当時の常盤村に所在したからだ

そのあたりは安曇沓掛駅の記事でも触れたが、1937年(昭和12)に国有化されると両駅とも名称変更となってしまった。現在、JRで単に「常盤」だけの駅は宇部線(山口県)にあるのみ。宇部線の駅は1925年(大正14)の開業。大糸線の駅が10年先に開業しているが、まだ国鉄ではなかった。国鉄になった時にはすでに宇部線の常盤駅があったという解釈なのだろうか

植木は立派に手入れ

駅舎は令和になったから建て替えられたもの。以前は開業時からとされる駅舎だったが、簡易的なものへと変化した。ただしちょっとした高台にある駅舎への階段脇の植木は立派に手入れされている

大糸線は朝に1本、快速が運行されている。上りのみの運行(夜には南小谷~信濃大町の上り快速が1本ある)で、信濃大町を出ると安曇追分までが快速運転を行い、後は松本から篠ノ井線、中央本線に乗り入れ延々と各駅に停車するものだが、最初の停車駅が当駅となっている

北アルプスの2647メートルの餓鬼岳は当駅が鉄道における最寄りとなっているが、登山口までの公共交通機関は乏しく、マイカー利用かタクシーに乗りやすい信濃大町駅や信濃松川駅からのアクセスが多いようだ

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大糸線全40駅を訪問するお話~重税と戦った義民の伝説とともに

中萱駅の駅名標

※訪問は2024年9月9日

読める?読めない?

再び松本駅方面まで戻ってきた。とにかく松本~信濃大町の本数が比較的多い区間の駅から先に回収しておかないと、急激に本数が減る信濃大町以北の駅をじっくり回るわけにいかなくなる

ということでやって来たのは中萱駅。難漢字を使用する難読駅で読めない方も多数いそうだが、関西の人間はかなり読める。特に京阪を日常的に利用していると読めるはずだ。大阪府寝屋川市に「萱島」(かやしま)という駅があり、難読駅クイズにしばしば登場するが、大阪市内からの折り返し電車が多数設定されているため、萱島駅に用事がない人でも自然に覚える。またホームを萱島神社の御神木が貫いていることでも有名。「かや」と「がや」で濁音の有無はあるが「なかがや」と何となく読めるはいずだ

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社務所風の駅舎

1面のみの棒状ホーム駅だが、駅舎は一目見ると忘れられないものとなっている

社務所風のつくり。当駅は1915年(大正4)の開業。同年1月に現在の北松本~豊科が開業。やや遅れて5月に当駅が路線内に設置された。遅れて設置された駅ではあるが、旅客のみならず貨物の取り扱いも行われていたようだ

現在の駅舎は国鉄末期の1986年に改築されたもの。近くの貞享義民社を模したもの

駅前に石碑があり

解説文を読めば、事情はすぐに分かる

多田(なかがや)加助は当地で庄屋も務めていた。貞享3年(1686)、不作が続くにもかかわらず重い年貢を課され続けた農民のため、減免を当時の松本藩に願い出たところ、何千人もの農民が松本城へと押し寄せる一揆へと発展。藩はこの願いを聞き入れたものの、1カ月後に約束を反故にするばかりか、加助を含む28人が捕えられ処刑された。刑死の際に「恨みを晴らす」と加助が絶叫した際、松本城が傾いたという伝説も残る

後に藩主が変わって加助を義民として復権。加助らを祀った加助神社が後に貞享義民社となった。周辺には義民ゆかりの地が今も残り、地元で伝説が大切にされ続けたことが分かる。現在の駅舎は一揆から300年の節目に行われた300年祭を記念して改築されたものだ

午前中は簡易委託駅

あらためて中萱駅

訪問時は夕刻で窓口は閉まっていたが、有人駅となっている

午前中のみ駅員さんがいる簡易委託駅。単式ホーム構造ながら、松本まではわずか8・4キロ。当駅周辺から松本市への通勤通学も多く、1日に約700人が利用する駅となっている

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