※訪問は2023年12月14日
海と海を結びたい願望
大原駅に到着。外房線の歴史を語る上で絶対に欠かせない駅である
外房線の原型は房総鉄道によって造られた。明治期に蘇我から伸びてきた線路は大網までが、まず敷設され、逆側の千葉ともつながったのが1896年(明治29)。翌年に上総一ノ宮(当時は一ノ宮)までが延伸され、1899年に大原までがつながった。大原駅の歴史は19世紀からのものとなる。当時は中魚落村だったが、駅の開業に合わせて大原町が発足。鉄道の終着駅にもなり、勝浦までの延伸に14年もかかったこともあって夷隅(いすみ)地域の中心地の座が強まる
さらに変化があったのは木原線の開業。こちらに関しては前回の安房小湊駅の項で触れた通りだが、木更津と大原を結ぶので「木原線」。木更津側からは久留里線として上総亀山までが開通。大原からは上総中野まで延伸されたが、両者がつながることはなく未成線のまま現在に至る。同じタイミングで五井から安房小湊を目指した小湊鉄道も上総中野で力尽き、木原線と小湊鉄道が国鉄と私鉄で乗り換えの接続を行う形で「決着」となった
海と海を結ぶのは全国各地の夢と願望だった。車という交通手段がほぼない時代、徒歩で最も困難な山越えができれば、人も物流も劇的に変化するはずだと。太平洋と日本海、日本海と瀬戸内海と各地で線路が敷かれ、そして今、各地で苦戦が続く。貨物列車の通行がなくなると、元々人の少ない山中での苦戦は必然でもあった。房総半島は距離が短いことで戦前に単独での縦断はあきらめの決断が下されたようだが、それでも木原線を引き継いだいすみ鉄道とともに順調な旅客数とはいえない
当然だがつながっていた線路
大原駅のホーム柵を挟んで右側が内房線、左側がいすみ鉄道。当然だが、以前は同じ駅だった。木原線については1960年代後半に早々と、首都圏で唯一の「赤字83線」に指定され(関東では茨城県と栃木県にまたがる真岡線があった)、その後に特定地方交通線となり、国鉄としての廃止が決定。JR移管後は1年間の引き継ぎ期間を経て三セクのいすみ鉄道となった
一応、線路そのものは現在もつながっているが実際に使用されることはない
駅舎は独立して並んでいるが
中でつながっていて外に出なくても往来は可能。いすみ鉄道の駅舎内には売店があり、グッズや土産物が並ぶ。私はクリアファイルを購入した
いすみ鉄道とともに
すべての特急が停車する有人駅で、昼間の普通は1時間に1本だが、朝夕のラッシュ時には当駅折り返しの運行もある。JRの改札は開閉式の自動改札機。ただ残念ながら私の訪問時から3カ月後の今年3月にみどりの窓口は営業を終えているはず
駅周辺は大原町の中心地。現在のいすみ市役所は旧大原町役場である。駅舎と逆側の海へ進むとイセエビで有名な大原漁港がある。大原=イセエビにはいすみ鉄道も一役買っていて、2年前まで走って好評だったレストラン列車でイセエビを提供したところ大好評で知名度を上げた
こちらは2011年7月に上総中野駅で小湊鉄道といすみ鉄道を乗り換えた時の写真。この後、大原経由で勝浦へと行き、人生で初めてなめろうを食べた
一時は存続が危ぶまれたいすみ鉄道は数々の企画が好評で息を吹き返した。JRからは経営分離となり「他人」となってはいるが、どちらが欠けてもいけないものである
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