成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~徒歩10分ちょっとのはずが

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※訪問は2024年3月6日

徒歩移動には理由がある

松本から北松本までテクテク歩き始めた理由はただひとつ、両駅間が極めて近いからだ

線路距離にして700メートルしかない。線路に沿って真っ直ぐ歩く道はないため、徒歩も700メートルというわけにはいかないが、いずれにせよ1キロちょっと。ちなみにグーグル先生に道案内をお願いすると、この地図とは異なるお城口からの徒歩を案内される。この地図は実際に私が歩いたものに、ほぼ沿っている

地図を見た時「歩くだけならアルプス口からの方が近いのではないか?」と思い、先生に抗ってこういう経路となった

しかし、まずの難関

川を渡る橋が、線路に近いところには1本しかなく、しかも車道と歩道が分かれている。しかも雪を踏みしめた跡がアイスバーン状になっている。私の靴は普通のウォーキングシューズ。そもそも雪の中を歩いた経験がほぼないので、こんなところでスッテンコロリンしたら危なすぎると、やや尻込み気味になっていると、幸運にも向かいから来たご婦人がスタスタと渡り始めた。明らかに地元の方。ということで、うまい具合に誘導員を得ることができ、橋は渡れたのだが、この後も悪戦苦闘

地図に「ABC松本白坂店」とあるのは、パチンコ店さんだ。できるだけ線路に近い方を、と歩くと駐車場に入ってしまった。客でもないのに誠に申し訳ない。結局、駐車場を横切って路地に入ると、そこは雪が降った後、誰も歩いていない道でズボズボと雪に足を突っ込みながら前進。今思うとその時の画像があると、よりリアルなのだろうが、当時はそんな余裕はない。ちょっとだけ広い道に出ると、泥ハネ注意状態だったりで、それでも何とか20分ほどで

北松本駅に到着した

信濃鉄道本社のあった駅

大糸線は敷設が信濃鉄道という私鉄だったこともあり、駅間は近いところが多いが、歩いてきた両駅の距離が特に近いのは、北松本駅がもともと同路線の終着駅だったから。1915年(大正6)に豊科と当駅間で開通。当時の駅名は「松本市」だった。それが1月のことだが、わずか3カ月で松本駅まで延伸された。そして松本駅と併設されているにもかかわらず、駅名は「南松本」。ちょっとややこしいが、現在の南松本駅が開業したのは随分後のこと。なぜ700メートルのみの延伸を行ったのかというと貨物輸送の便を図るためで、松本駅と併設されても貨物しか運ばないのだから、駅名は松本でない方が区別する上で、むしろ便利だった。と同時に南松本ができたのだから、こちらは北松本にしよう、ということになり、松本市駅はわずか3カ月で現在の駅名に。さらに翌年には貨物駅だけではもったいないので旅客も運ぼうと、旅客輸送も開始したため、駅名は松本に統一された。時系列だけ見ると簡単だが、かなり激動の駅名変更だった

ただし開業時のいきさつから、信濃鉄道の本社は北松本に置かれ、車庫も設置された。今はともに面影はないが、車庫については国鉄末期まで大糸線の車庫として利用されていた

松本駅と同様、北松本駅もアルプス口とお城口がある。地図で分かるように、松本城には松本駅より当駅の方がむしろ近いのだが、駅舎はお城とは逆側の現在のアルプス口側に設けられていた。駅周辺の渋滞が酷いため、道路は地下化、駅舎は橋上化されることになり、本社があった開業時からの駅舎は解体され、2000年に現在の姿となった

こちらはお城口

周辺案内図はお城口にあり、タクシーも停まっていた

こちらは改札口。駅員さんもいて1日に1200人の利用がある。きっぷ売り場の上に掲げられている駅名板は旧駅舎にあったものだろうか

ホームは島式の1面2線。写真だけ見ると3月のものとは思えない

線路だけが見えるのは篠ノ井線。この付近はまだ単線区間で当駅にも篠ノ井線の駅を、という声の実現の妨げとなっている

福島県の浪江駅から延々と続く大都市近郊区間は松本まで。現時点では北松本までのきっぷを買えば途中下車もでき、きっぷの有効期限も延びる駅として有名(変化があるかもしれない)だが、実はそれ以上に大糸線の歴史を語る上で重要な駅である

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