14駅を訪問した春夏の大鰐線を振り返ってみる

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季節のコントラストを味わう

3月と7月の2回に分けて青森県まで赴き、2027年3月での廃線が決まっている弘南鉄道大鰐線の全14駅を訪問した

3月上旬の時点では、まだ雪に覆われていた沿線。対照的に7月は夏の空気を存分に味わった

そもそも自販機の高さを超えるほどの雪なんて、ふだんは見たこともないというか、自分の住んでいる所では雪がつもるという場面にすら遭遇しないので、それだけでインパクトは高すぎるのだが、2回にわたった訪問の総まとめをしてみたい

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画期的だった地方私鉄の電化発進

大鰐線の開業は1952年(昭和27)。戦後10年も経っていないそのころ、電化路線としてスタートした。今は並行する奥羽本線も電化され、それが当たり前のように感じるが、実際に奥羽本線の秋田~青森が電化されたのは1971年と、20年近くも後のことだった。かなり画期的なことだ。敷設したのは弘前電気鉄道。電化にあたったのは三菱電機。当然のことだが、電車というのは基本的に都市部や幹線で見られるシステム。一定の旅客数や運行本数がないと元はとれないからだが「これからの時代は電車だ」と電車を普及させたい同社の思惑もあったし、わずか14キロという路線の短さも電化には適していた

また今でこそ弘前~大鰐温泉を12分で結ぶJRに対し、中央弘前~大鰐を40分近くかけて結ぶ大鰐線は遅い上に車両も古いもので乗り心地も正直良いとは言えないが、非電化時代の国鉄には弘前と周辺を走る通勤通学路線の発想はほとんどなく、あくまでも奥羽本線という大動脈の一部で、長距離を走る有料の優等列車の一部区間でしかなく、運行や乗り心地も大鰐線の方が勝っていた

元々はここ中央弘前からさらに先の板柳まで敷設される予定だった。駅の場所が選ばれたのは当地が弘前市の中心部だったからだ。私鉄が国鉄(JR)の代表駅ではなく街の中心部に駅を構える例は珍しいことではなく、福岡市では西鉄は博多駅にはやって来ないし、京都市では近鉄こそ京都駅を発着するものの(後に地下鉄との相互乗り入れで中心部に入ることとなった)、京阪や阪急も繁華街に乗り入れる。京阪に至っては京都駅のすぐ近くを通るものの素通りである。松山市も同様だ

ただ電化と国鉄駅に直結しなかったことが、後に経営に響いてくることになる

相次ぐ事故

2000年代に入って大鰐線は増便と減便を繰り返すことになる。そもそも他に貨物列車が走るわけでもない現行の1時間に1本という運行は電化路線に向いていない運用でもある。特にスピードを求めるわけでもない路線なのだから、この運用なら気動車で十分。それでも過去には弘前の都市部に限っては20分に1本の運行をしたこともある。運転間隔を45分にしたり40分にしたり、多客帯の時間帯に増便させたこともある。いわば試行錯誤の繰り返しだったが、これは2010年代にも1度廃線の危機に直面したことに起因している。この時は地元の支援などで危機を乗り越えることとなったが、その後のコロナ禍でまた利用者は減り、近年の相次ぐ事故で危機は増えた

そして2019年と2023年に立て続けに2件の脱線事故が発生する。いずれも施設の老朽化に起因していた。2件目の事故では国交省から改善要求を受けた。鉄道施設における最大の敵は温暖差。豪雪地帯でありながら、昨今は真夏の気温が連日30度を超える。電化路線の維持費はもちろん改善費も莫大だ。加えて、山形鉄道でも触れた地方の交通機関における人出不足の問題もある

2023年度の利用状況を見ると、最も利用者数の多い中央弘前で251人、次が大鰐の150人で3ケタ利用はこの2駅のみ。学校最寄り駅でも2ケタの数字が並ぶ。路線バスやスクールバスにも原因はあるが、沿線に学校が多い中、地方路線を支えるはずの通学の足としては寂しい数字となっている。当初の計画にあった弘前駅への乗り入れを果たしていれば、と思ってしまう

弘南鉄道は弘南線というオリジナルの路線をもうひとつ抱えており、そちらに力を入れないと共倒れになってしまうという危機感もあったのだろう

数字だけを見るとやむを得ないということにもなってしまうが、沿線で見た素晴らしい景色は一見さまではあるが、旅人に癒やしを与えてくれるのに十分なものだった。まだ1年半ほどの時間はある。それまでにもう一度景色景色を目に焼き付けたいと思っています

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