JR

高山本線全駅訪問のシメ行脚~閑散区間で最後に残った駅には沿線唯一のスノーシェッド

打保駅の駅名標

※訪問は2023年10月19日

震える寒さにちょっと後悔

打保駅に到着。ダイヤが薄い(本数が少ない)上に他の交通機関もなく、坂が多かったり、駅間距離が長かったりして(お隣の坂上までは10キロもある)徒歩移動も困難な岐阜県と富山県の県境4駅(角川、坂上、打保、杉原)を、これでようやく訪問完了となった

そして朝からの実情として

「めちゃくちゃ寒い」

私の服装は夏からのズボンに長袖の薄いシャツ1枚。昨年は夏が終わってもいつまでも暑かったのはご存じの通りで、前日の私はというと城端線や氷見線を乗り、駅間徒歩では汗をダラダラかいていた。朝5時の富山駅周辺でもそれほど寒いと思わなかったが、猪谷駅で寒気を感じ始め、7時26分に飛騨細江に到着して外に出ると震え上がった。猪谷から飛騨細江に至る列車には途中駅から通学の高校生が次々乗り込んできたが、皆真冬の格好。コートを着ている生徒さんもいる。車内で私の服装は完全に浮いていた。こんなに気候が違うものなのか。これは全くの予想外で上着も持ち合わせていない私はシャツを2枚重ね着して何とか寒さをしのぐことにした。そして最後の駅に打保を選んだことを後悔し始めていた

1カ月前、まだ気候は夏の9月上旬、訪問は打保か坂上の二択となった。どちらか一方は次回へ持ち越し。その時に選んだのは坂上駅である

選択の理由は「駅舎内にエアコンが完備されているから」。90分も過ごすのだからと当時は自画自賛的なチョイスだったが、それについては完全に後悔

なぜなら

打保駅は簡易型の駅舎なのである。写真を見ただけではどのぐらい寒さを防いでくれるのか分からない。当駅には8時34分に到着して9時26分の高山行きで折り返す。つまり約1時間。寒さと暑さのどちらを我慢するかとなると、駅間徒歩ならともかく、周辺の散策だけで終わるこのシチュエーションとなると、避けるべきは寒さである

難読にしてさまざまな語源

「うつぼ」と読む。意表を突かれるというか、なかなか難読である。そう言われると、この4駅のうち3駅は「つのがわ」「さかかみ」と、意表を突かれる読みが並ぶ

駅名、自治体名については順番に遡る必要があり、現在当駅は岐阜県飛騨市にあるが、飛騨市が誕生したのは2004年。それまでは宮川村にあった。その宮川村の誕生は戦後の1956年(昭和31)で、坂上村と坂下村が合併したもの。坂上村の駅が坂上、坂下村の駅が打保である。坂下村は明治初期の1889年(明治22)から1956年まで存在。ちなみに読みは「さかしも」だ。さらにその前に打保村、杉原村と現在の駅名の村名が見られる

「打保」の「保」は集落の意味で「山の内側にある集落」の「内保」が「打保」になったという説や、岩などにできた空洞を意味する「うつほ」が語源という説などがあるようだが、江戸時代にはすでに名前が見られる地名だったという

写真としては順番が逆になってしまうが、駅舎は猪谷方面ホームと直結している。対面式の2面2線ホーム

駅の開設は1933年(昭和8)。線路が富山との県境を越え、猪谷からお隣の杉原まで来たのが1932年で、当駅を挟んで坂上まで延伸された際に開業した。現在の駅舎は20年前からのもの。簡易型となるのは早かった。手前から3つの扉が並ぶが一番奥が出入口。駅舎は倉庫も兼ねているようで手前2つはロックされている。駅舎内は小さな待合室となっていて、つまりお手洗いはない

これは覚悟していたことで列車内でお手洗いは済ませ、持参の水にも一切手をつけないことを決め、周辺の散策を行う

駅の周辺は小さな集落となっていて

立派な郵便局もある。こうやって地図を見ると公営のトイレがあるようだが、訪問時は全く気付かなかった

スノーシェッドに守られる

宮川に沿ったカーブ状にある駅の前後の分岐はスノーシェッドに守られている。176・4キロのポストが岐阜からの距離を感じさせ旅情を誘う。降雪に見舞われる高山本線沿線だが、ここが唯一のスノーシェッド設置なのは少し意外

こちらは逆サイドつまり猪谷方面

解けたナゾ

前回の訪問時前から当地のバス路線については何とかならないかと随分調べたが、デマンド制(予約制)かどうか分からず結局断念したのだが、待合室内の張り紙でようやく解決

デマンド制と路線バス扱いの2種で構成されていた。「お出かけレシピ」とは分かりやすい表現で高山本線との接続時間も明記されている。しばらく訪問の機会はなさそうだが、すっきりしたと同時に役に立つ情報だった

かつては貨物の入線もあったようでヤードが残る。待合室はかなりの密閉状態で保温も良かった。これで無事に県境の4駅を訪問。ちなみにグーグル地図で打保駅を検索すると以前の木造時代の駅舎を見ることができる。また私のX(旧ツイッター)のプロフィール写真は杉原駅のものです

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~開業以来の棒状駅への道中で現状を知る

杉崎駅の駅名標

※訪問は2023年10月19日

1区間分は路線バスで

飛騨細江から杉崎は線路に沿った平坦な直線コースを徒歩30分と前記事で書いたが、実際はというとちょうどよい時間に路線バスがあったので、その方が圧倒的に楽なのでバスに乗車すことに

ただバス停が見つからず、とても焦る。地方のバス停については片側にしか停留所が設置されていなかったり、結局その場所が正しいのかどうか分からず乗せてもらったりと、過去いろいろな経験をしているが、ここはかなりの町中で、困ることはないと思っていただけに焦燥感が募ったが、これでは行き過ぎだろうと来た道を振り返ると

あった

写真だと駅は奥側にあり、そこから歩いてきたのだが、器用に商店の軒下に設置されているため、気付かず行き過ぎてしまったのだ

バスはほぼ定刻にやってきた

この路線は1年前にもお世話になった

上枝駅から飛騨古川駅に移動の際に乗車。高山から飛騨古川までは1時間に1本の運行があり、そのうち約半数が神岡まで至る。つまりその半数に今回乗車した。1年前はほとんど下調べもせずの旅だったが、今回はさすがに入念に調べている

杉崎までは徒歩30分、2キロしかないのでバスだと5分も経たずに到着。バスは1年前と同じで観光バスを使用したもの。その時は30分近くバスに揺られ、座席で携帯の充電もできてとても快適だったが、その時と大きく異なることがあった

ほぼ満員なのである

乗客はほとんどが高校生。すぐに降りることが分かっていたので、できるだけ前の方に座りたかったが、奥の方にようやく空席を見つけたと思ったら降車の時間。「降りま~す」と声を出しての下車となった。もちろん降りたのは私だけ。入れ替わって数人の高校生が乗車した

猪谷から飛騨細江までの道中でも通学の高校生はそれなりにいたが、ここまで多くはなかった

2022年の3月の芸備線でも同じような経験をしている。この時はもっと極端で小奴可駅と備後八幡駅を訪問した時のことだ

朝の7時2分小奴可発の新見行きに乗車すると旅客は私と高校生の2人のみ。2つ隣の備後八幡駅で降り、次の列車は8時間後なのでバスで東城へと向かったところ、バスはスクールバスかと思ったほどの超満員だった。その高校生は芸備線で通学する貴重な生徒ということで、後にテレビの取材を受けていた

またひとつ地方における公共交通機関の現状を知ることになり、ようやく駅の話となる

戦後生まれの棒状駅

杉崎の駅舎。年季が入っているように見えるが、戦後生まれである

駅名板は飛騨細江駅と同じ系列のもののようだが、傷みが激しい

開業は1952年。仮乗降場としてスタートして3年後に駅に昇格した。現在も駅を含めた周辺の住所は飛騨市古川町杉崎

前記事でも記したが、明治初期にあった杉崎村はその後の合併で細江村となり1956年に古川町となるまで存続した(平成の合併で飛騨市となる)。どちらかというと飛騨細江駅より当駅の方が細江村の中心部にあたる

駅にあった周辺の案内図

ただし戦後生まれの仮乗降場ということもあって当初から棒状の単式ホーム。全国各地で元々2面あったホームが単式になるという事案が見られるが、岐阜県内における高山本線今も設置当初からホームが2面だった駅は、そのまま2面で開業から単式で今も同様の構造の駅は当駅と、こちらも戦後生まれの飛騨宮田の2駅しかない(禅昌寺駅は単式で戦前にスタートし、現在は通過線のみ付け加えた変則型)

仮乗降場なので貨物設備もない

ホームと駅舎は屋根付きの小さな階段で結ばれている

今から富山方面へと後戻りする形になるが、乗客は私ともう一人

今から乗車するのは8時6分の猪谷行き。猪谷から乗車し、飛騨細江で下車したのは当駅7時29分発となる高山行きだが、通勤通学にはほぼその一択のようだ

まだ猪谷方面で未回収の駅があるので、再び山中に分け入ろう

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~山深い区間を越え市街地へ到着

飛騨細江駅の駅名標

※訪問は2023年10月19日

富山から約2時間

猪谷からJR東海区間に入り、飛騨細江に到着。富山を出発したのが5時38分、当駅に着いたのが7時26分なので70キロの移動で所要時間1時間48分と結構な道程となった。本来なら宿も多い高山あたりに宿泊した方が効率が良いのは分かっているず、この区間の本数の少なさから富山泊になってしまった。富山から普通のみで高山まで行こうとすると富山発15時58分を逃すと、次は19時50分と4時間も運行がない。この間に17時14分発の特急があるが、所持する「秋の乗り放題パス」では一から課金になってしまうので今回はハナから選択肢になかった。19時50分に乗ると高山着が21時45分となるので、ちょっと遅すぎる。そもそも猪谷の乗継ぎ(わずか2分)以外、ひたすら夜の車窓を眺めながら4時間揺られるというのは私にはちょっと無理である

それほど飛騨古川~猪谷は、ダイヤ的には「薄い」区間で(飛騨古川~高山は区間運転が行われている)、1日8往復(もう1本、夜の下り最終として高山始発の坂上止まりがある)。昼間は3~4時間運行がない時間帯もあるなど全駅訪問の難所だが、飛騨細江まで来ると山岳地域というより市街地となって開けている。神岡からの路線バスが当駅付近を通るため、比較的訪問は容易となる

また飛騨細江~杉崎は線路に沿った国道を行けば、ほぼ平坦コースで徒歩移動も可能な距離

同様のことは杉崎~飛騨古川にも言えるため、全駅訪問を決めてから、最後までとっておいた

旧細江村に基づく

なかなか渋い駅舎が現存する

駅舎入口に掲げられている駅名板にも歴史を感じる

JR東海は待合所やトイレ、倉庫に至るまで、こまめに財産票を張ってくれる。高山本線が一気に飛騨小坂から坂上まで延伸された1934年(昭和9)の開業。もちろん駅舎は当時からのもの

駅名は1956年まで存在した細江村に基づく。ただ駅を出るとすぐ宮川が迫っていて村としての中心部は国道に沿った杉崎駅寄りだったようだ。明治初期に杉崎村などが合併して細江村が誕生したが、鉄路ができた時、すでに細江村の中心は飛騨細江駅と杉崎駅のどちらかというと杉崎駅に近い場所だったようだ。上記の地図だとファミリーマートや杉崎公園のあたり。今も残る付近の町名は飛騨市古川町杉崎で細江という住所は残っていない(駅近くの飛騨細江郵便局にその名を残す)。そのあたりが考慮されたのか、杉崎駅の設置は戦後になってからである

もちろん、といっては何だが無人駅。それでもきっぷ販売の窓口だけでなく手荷物、小荷物扱い扱い窓口も残る

2面2線のホームに加え、行き止まり形式となっている貨物ヤードも残る

こちらは貨物ヤード裏側の様子。あまりにも国道が近すぎるためか、本数の少なさからか、周辺の町の規模を考えると利用者は少なく1日30人程度にとどまっているが、以前は規模の大きな駅だったことがうかがえる

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高山本線全駅訪問のシメ行脚~猪谷駅「大きな変化あり」の報に驚く

猪谷駅に到着

※訪問は2023年10月19日

まだ暗い富山駅から出発

富山駅は青春18きっぷの最終日となった9月10日以来。1カ月以上が経過して季節も秋へと移り変わり、いつまでも暑い2023年だったが、朝の5時過ぎはまだ暗い上に肌寒い

今日明日で、ようやく高山本線の全駅訪問を終えるつもりである

昨年の18きっぷ最後の2日間でフラリ高山本線に乗ってみたのがことの起こり。当時は主要駅や気になった駅だけを訪問するつもりだったが、妙に気持ちに火がついてしまい、その後

2月 西日本グリーンきっぷで北陸新幹線の各駅訪問をした際にJR西日本管内の2駅訪問

4月 青空フリーパスで岐阜~下呂の8駅を訪問

9月 青春18きっぷでJR西日本&JR東海の7駅を訪問

のべ5日もかけている。2月は西富山から日本で最も長い駅名となった「トヨタモビリティ富山 Gスクエア五福前(五福末広町)停留場」まで歩くという目的もあったが、それでも2駅を訪れている。4月と9月はそれなりに「ガチ」で早朝から臨んだつもりだが、1日では意外と回れていない。なぜこのようなことになったのかというと、最初につまみ食いのように回ってしまったため、相互に訪問しづらい駅ばかりが残ったためだ。当初から計画的に回っていれば、もっと早く終わったと思われるが、終わったものはしょうがない

本来なら9月の青春18きっぷで終わらせるつもりだったが、どう考えても2日では終わらないことに気付いた。そこで高山本線は1日で終え、18きっぷの残る1日は城端線に充てることに。城端線と氷見線の三セク化ニュースが出たばかりで、こういうのはまとまり始めると早いと高岡へ

そして今回は秋の乗り放題パスを使用。城端線、氷見線の未回収駅を訪れた後に富山で宿泊。さすがに今日明日の2日間で回り終えることになる。その後は名古屋方面へと向かい、名鉄を2日間、満喫する予定となっている

駅数が増えた高山本線

新幹線は6時を回ってからということで、まだシャッターが降りているが

あいの風とやま鉄道と高山本線の改札はすでに営業を始めている

高山本線については、北陸新幹線の開業で「新駅が開業したわけではないのに駅数が増える」という現象が起きている。これは富山駅の所属によるもの。2015年の北陸新幹線延伸まで駅としては北陸本線の所属だったが、同線が三セクのあいの風とやま鉄道に移管されたため、必然的に残る高山本線の所属になった。だから高山本線は現在45駅で所属は44駅(岐阜駅の所属が東海道本線となるため)。44という数字を見ると、なかなかの数だが、とにかく今日と明日で終わらせよう

2両編成のキハ120で降りた衝撃

高山本線のJR西日本区間である富山~猪谷はキハ120が担当する。同じ富山県の氷見線、城端線はいわゆるタラコのキハ40の運行だが、こちらはキハ120。キハ120というと山中を走る単行のイメージが強いが、こちらは常に2両編成で通勤通学の時間帯は多くの人であふれる。また直線部分では、かなりの猛スピードを見せてくれるなど、他地域とは違う姿を見せてくれる

猪谷駅の衝撃ニュース

列車は50分で猪谷に到着

乗車しているうちに、すっかり夜は明けた

ここまでが富山県、ここまでがJR西日本で両社をまたぐ普通列車は現在、運行されていないので必ず乗り換えとなる。乗り換え時間は列車によってさまざまで、すぐに乗継ぎ列車が出発するパターンもあれば、しばらく待機、さらには数時間にわたって普通がないこともある。私の乗車列車は18分の接続。昨年から何度となく降り立つことになったこのホームもしばらくは来なくなるかもしれない、とこれまた何度も撮った駅舎を記念撮影

やがてやって来たJR東海の車両に乗り継ぐ

同一ホームで前後の乗り換え。このパターンに出会うのは初めて。これまでは島式の向かいホームへの乗り換えばかりだった。頻度は分からないが、私にとっては貴重な体験。この後、JR区間を目指して山中に入っていったが、つい先日、X(旧ツイッター)のフォロワーさんから年明け訪問した際、特徴ある駅名板が変わっていたとの投稿があってビックリ

これは9月のものだが、猪谷駅の存在感を際立たせていたこの駅名板が普通の「JR 猪谷駅」という板に付け替えられていたという。猪谷で降りて、まず目に飛び込んでくるのはこれだろうという存在感を放っていたものがなくなったとは。新年から衝撃のニュースだった

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~「上り列車」しかない途中駅が終着

安房鴨川駅の駅名標

※2022年12月17日

ゴールはちょっとあっけなく

太海からひとつ進んで安房鴨川に到着。内房線の終着駅で前日から始めた内房線の木更津以南の全駅訪問のゴールである。階段でも「お出迎え」があった

ただ個人的には「ようやく着いた」という達成感はあっても、駅構内の風景に感慨は生まれにくい。というのも乗車してきた電車は外房線の上総一ノ宮行き。現在、内房線を走る列車は木更津~上総一ノ宮の直通運転がほとんどで安房鴨川で多少の待ち時間はあるものの、内房線と外房線を乗り越す際、なにごともなかったように去ることになるからだ。「終着駅」ではあるが途中駅。東海道本線と山陽本線の境界駅となっているが、始終着がほとんどない神戸駅のようなものである。2021年3月、コロナ禍のまっただ中、新型車両の投入と同時に直通運転、ワンマン運転がメインとなった

ただ房総半島をグルリと回る内房線と外房線の特殊な事情から、安房鴨川は「当駅を出発する列車はすべて上り列車」というユニークな特徴を持つ。これは房総半島の東側と西側でそれぞれ少しずつ延伸されてきた「房総線」が安房鴨川でつながった後、あらためて「房総東線」「房総西線」(戦後に現在の名称に変更)という2つの路線に分けられたからだ。前者が千葉が起点で終着は安房鴨川、後者は蘇我が起点で終着は安房鴨川と、安房鴨川が2つの終着駅となったため、安房鴨川から出る列車はすべて上り列車となっている

安房鴨川駅の開業は1925年(大正14)。線路が太海から1区間延伸されてたどり着いた。現在の外房線がやって来たのは、その4年後である。もちろん拠点駅。周辺は鴨川市の中心部で、経済だけでなく観光の拠点駅となっている

全国ニュースで取り上げられることも鴨川シーワールドまでは無料の送迎バスで10分。天候に恵まれれば、歩いても行ける距離にある。またかつては駅裏の印象が強かった西口にはイオンができている

変化の30年

そのイオンがある西口が長距離バスの発着場になったことで発展した場所でもある。安房鴨川から千葉、東京までは外房線の特急「わかしお」を利用するのがメインルートだったが、90年代に入ってわかしおが京葉線経由となり、千葉に立ち寄らなくなったあたりから潮目が変わり始める。アクアラインもできて車との競合も増える。鴨川から県都の千葉へは長距離バスのカピーナ号、東京へは八重洲口、渋谷への便もあり、私も、訪問の数ヶ月前の夏にお世話になったことがある

久留里線の末端にあたる、閑散区間の3駅を通って千葉もしくは東京に行くことができる。このバスがなかったら、その3駅訪問を試みようとはしなかったかもしれない。内房線や外房線だけでなく、久留里線にとってもライバルとなっている

安房鴨川はもちろん管理駅だが、昨年の1月をもってみどりの窓口の営業は終了した。その後、館山、浜金谷と、みどりの窓口が閉鎖されたため、内房線の君津~安房鴨川でみどりの窓口がすべてを消した。というか、所属が外房線となっている蘇我駅を除くと現状、120キロにも及ぶ内房線の全29駅でみどりの窓口があるのは木更津ただ1駅である

AKB48の「会いたかった」という曲があり、このMVは今も容易に見ることができ、那古船形駅がロケ地となっている。チラリとしか出てこないが、駅舎は現在の塗装ではない1918年(大正7)開業時のそのままの姿。メンバーが追いかける列車もいわゆる「スカ車」である。AKB48というと、ついこの間のことのように思えるが、リリースは2006年10月で17年前。たった17年というか、わずか17年というか、走る電車を見るだけで隔世の感がある

帰路につく。わかしおを利用。安房鴨川~東京と完乗するのは、これが初めて。もちろん自由席だが、こちらも今春に全車指定席という変革がある。また内房線、外房線から京葉線経由でダイレクトに東京を目指す朝の快速廃止問題は、もはや全国ニュースである

ここからは青春18きっぷの出番はない(新大阪に到着してから再登板するが)ので乗車券は大阪市内まで。この乗車券は年間にどのぐらい売れるのだろうか

東京着。18時ちょうど発の新幹線に乗車したが、この時間にホームに降りても駅弁を買ったりしていると、すぐ新幹線の発車時間となった

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~豪華な簡易的駅舎のお披露目直後

太海駅の縦駅名標

※訪問は2022年12月17日

安房鴨川まであと1駅

太海に到着。郵便局と一体となった江見までたどり着いた後、少し戻ってまた進んでを繰り返しながら、太海へ。駅名標で分かる通り、隣駅は内房線の終点である安房鴨川。こうした各駅訪問にふさわしい表現かどうか分からないが「リーチがかかった」状態である

その太海駅は独特な駅舎となっている

なかなか立派ではあるが、簡易型の駅舎である

手前の青いものは波を表していると思われる。JR東日本のプレスリリースによると

「駅から海を眺められる環境を活かし、自然を感じ取ることができる駅としています。電車をお待ちいただきながら、駅前広場側からは海を、待合室側からは山を眺めることができます」とある

また「構造体に木材を採用することで、潮風による塩害に強い駅としています」「壁材にも木材を使用し、炭素固定の量を増やし、環境負荷を削減しています」「周辺の風を取り込み、風が抜けやすい駅形状とすることで、待合室等の温熱環境を改善しています」とも

要は最近流行りの簡易駅舎とは、ひと味違う細かい気配りが随所にちりばめられているということだろう

駅舎内のベンチに驚き

そして、もうひとつ「新駅舎のベンチは、(公社)土木学会・東京大学・會澤高圧コンクリート(株)と連携し、最新の技術を用い、コンクリート3D プリンタで製作しています」とあるが、そのベンチがこちら

最初に見た時「わー!駅舎内にソファーがある」と思ってしまった。もちろんプレスリリースにある通り、コンクリート製である。同じくプレスリリースにある通り、木がふんだんに使われている。これは簡易的な駅舎では珍しい。とくに最近のバス停のような簡易駅舎とは大きく異なる構造だ

そして全くの偶然だったが、駅舎の使用開始は12月14日。私の訪問は、まだお披露目から4日目のことだったのだ。写真で分かる通り、到着直後から雨が激しくなり、外にはいられなくなって駅舎内で過ごすことになったのだが、どこで聞いて、どんな関心を持ったか分からないが、わざわざ駅舎を見にきたグループが私の滞在中に2組もあった。ともに車でお越しになっていて、どう見ても同業者(鉄道ファン)ではなかったので、車でわざわざ立ち寄ったのだろう

雨のため一堂が駅舎内に居座ることになり、人を避けて写真を撮るのが大変だった。できれば、駅を見にきたついでに列車にも乗ってみよう、となれば鉄オタの私にとってはうれしいのだが、さすがにそれはかなわなかった

観光資源に恵まれた場所

太海駅は1924年(大正13)の開業。江見からの1区間、4・6キロが開通して一時的に終着駅となった。ただ安房鴨川までのたった3・4キロの開通は、さらに1年後だった。以前の記事でも触れたが、シャクトリムシ的なジワジワした前進である

太海駅は1955年まで存在した太海村に基づく(江見町を経て現在は鴨川市)。いくつかの村が合併した際に「太平洋」と「海産物」が複合された村名が付けられたという。ただ、村ではあるが、観光資源にも恵まれていて、海水浴場はもちろん、漁港や変化に満ちた海岸線、千葉県で最も大きな島である仁右衛門島があり、宿泊施設も多い。新駅見学に来た方々も、観光や宿泊のついでだったと思われる。それだけに開業時からの駅舎を解体しての簡易型駅舎への移行は意外といえば意外だが、観光地に敬意を表した精一杯の簡易型移行だったのかもしれない

もっとも駅舎は新しくなったが、ホームはそのまま。枕木の柵などは鉄道風景の古典に属するものだ。さて、お次の安房鴨川でゴールである

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~全国各地にある「おめでたい駅」

千歳駅のきっぷ回収箱

※訪問は2022年12月17日

千葉の「千歳」

千歳駅で下車

千歳というのは「鶴は千年亀は万年」に基づいたもので、とてもおめでたい言い伝えにちなんだ地名が全国に数多くある。駅名も「千歳烏山」(京王線)、「千歳船橋」(小田急線)とあるが、単なる「千歳駅」は当駅と、北海道の空の玄関口である新千歳空港を持つ都市の千歳駅の2つしかない。2つしかない、というより「2つもある」と言った方が正しいのか。国鉄そしてJRの駅は同名駅を避けるため、国名を入れるなどして区別するようにしているが、北海道の駅については平然とダブらせていることが多い。歴史だけを見ると、開業は北海道の千歳駅が1926年(大正15)、千葉県の千歳駅が1927年(昭和2)と、わずかに北海道の駅が先だが、ともに駅名の変更はなく今日に至る(その一方で「落合」については何も付かないのは北海道の駅だけで、その駅が来春になくなり、JRには「単なる落合駅」がなくなってしまう)

北海道はアイヌ語に源を発する地名が多いが、千歳については、それまでの地名の「シコツ」(アイヌ語で「大きな窪地」の意味)の響きが悪いと、鶴が多く住んでいたことから、江戸時代末期に現地名となったという

千葉県の千歳駅は1954年まで存在した千歳村に基づく。千歳村が千倉町と合併する形で新たな千倉町が誕生したが、翌年に旧千歳村の一部が千倉町から「脱退」する形で周辺自治体と合併。「丸山町」が誕生した。結果的には半世紀後の2006年に丸山町は千倉町などと合併して南房総市ができ、同じ自治体となったが、そのような経緯もあって「千歳」の名は駅名と海岸ぐらいしかとどまっていない

歴代が簡易的駅舎

駅舎は簡易的なもの。内房線で見てきた竹岡駅、九重駅と同じ形だ。1921年(大正10)に南三原まで延伸された際に駅は設置されず、6年後に仮乗降場として開業。3年後の1930年(昭和5)に正式駅となった。単式の棒状ホームだが、過去に1度も構内ですれ違いができるようになったことがない、ある意味貴重な駅で、現在の姿になった2007年より前は貨車利用の駅舎という、首都圏では貴重な存在でもあった

待合所のような駅舎から小さな階段を昇ると、すぐホームである

千歳発富浦行きに注目

駅前にはポツンと商店がひとつ。時間はすでに13時半。朝食を7時前に摂って以来、何も食べていなかったので

ポテトチップスと暖かいボトル缶が本日の昼食である

簡易的な駅舎だが、お隣に立派なトイレはある。12月の冷たい雨が降ってきた。正直、この環境では相当冷えるが、安心して暖かい飲み物を摂取することができる

ちなみに内房線には既に紹介した南房総市役所の最寄りである富浦駅があり、当然ながら千歳発富浦行きの列車がある。そして北海道の千歳駅は千歳線にあるのだが、室蘭本線にも富浦駅があり、こちらにも1日1本だけ千歳発富浦行きの列車がある。「富浦駅」もまた全国で2つしかない。北海道の千歳駅には若干知名度で劣り、利用者数でも相当差がついているが(富浦駅は千葉県の圧勝である)、なかなか存在感を見せている駅だと思う

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~よく見てください その読み違いますよ

南三原駅の駅名板

※訪問は2022年12月17日

パッと見ではなく凝視しよう

南三原に到着。このあたりまで来ると、ゴールが見えてくる。奥に見えるのが駅舎

駅舎紹介の前にまずは駅名標

パッと見ると、何でもないようで素通りしそうである。「ハイハイ、『みなみみはら』ね」

だが、もう一度よく見る必要がある

縦のひらがなだけの駅名標を見ると、よく分かる。駅名は「みなみはら」

実は「ハイハイ、『みなみみはら』ね」と思い込んだのは私自身。駅でしばらく滞在したが気付かず、次の列車に乗り込む寸前に気付いたので、よく覚えている

開業は1921年(大正10)。先に紹介した千倉を含む安房北条(現在の館山駅)~当駅が開業した時に設置され、1年半にわたって終着駅だった。内房線の歴史を見ると、長い区間が一気に開業という例は少なく、シャクトリムシのようにジワジワ延伸されたことが分かる。1日でも早く鉄道を、という願いが強かったのだろう

駅名は当時の南三原村から。南三原村は戦後10年が経過した1956年に丸山町と和田町に分割されるような形でそれぞれ合併して自治体としては消滅したが(結果としては両町とも南房総市となったので同じ自治体に戻ったことになる)、村名は「みなみみはら」だった。では、なぜ駅名が「み抜き」になったのかというと、とてもいい加減な回答になってしまうが、現地ではどちらの読みも存在した、ということになる

このような例で有名なのは岐阜県の各務原市で、自治体は都市名と同じものを利用してもらうよう各所に要請しているが

JRの高山本線の駅名はご覧の通り、異なる。JR東海は今もきっちり駅名標に自治体名を入れるようにしているので、縦に並ぶと違和感を感じてしまう。読みも異なる。高山本線の全駅紹介がまだ終わっていないので、その時に詳しく扱うつもりだが、そのおかげで各務原市はテレビなどでよく特集される場所となっている

南三原も同じように歴史を深掘りして特集すれば、おもしろいものになると思う

太陽光発電を備えた駅舎

南三原駅は千倉駅へと「寄り道」した鉄路が再び館山からの主要国道128号と合流した地点にある。駅舎は海側つまり国道側に面しているため、各商店やコンビニも近い

駅舎は開業時からの駅舎が2003年に新築されたもの。当時の和田町が出資した。屋根には太陽光発電があり、小規模ながらも駅舎内にある多目的ホールなど、駅内の電力をまかなっている

駅舎内は木のぬくもりを感じさせるもの。業務委託駅で無人駅ではない

跨線橋から俯瞰すると、かつては2面3線構造だったようだ。レールは残るが架線もない雑草に覆われたレールの上を列車が走る予定はなさそうである。ただ保線車用の車庫は現役で、こちらは日常的に使用されている

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~千葉県最南端の駅は南房総観光の拠点

千倉駅の縦駅名標

※訪問は2022年12月17日

多目的ホールも備えた合築駅舎

千倉に到着。内房線の駅は「大正期の開業以来の駅」「簡易化された駅」そして「立派に建て替わった駅」の3つに分類されるが、ここは3つ目に該当。中でも最も大きな規模の駅舎を持つ駅となっている

立派な改札口で訪問時は駅員さんが出迎えてくれた

立派なコンクリート製の駅舎は2007年からのもの。開業は1921年(大正10)。安房北条(現在の館山)~南三原が延伸された際に設置された。当駅は旧千倉町の中心駅だが、2006年3月に周辺自治体と合併して南房総市が誕生。新駅舎が完成したのは2007年8月なので、新しい都市の誕生とほぼ同時期ということになる

駅舎内には観光協会が入居するほか、多目的ホールもある大きなもの。フォルムは千倉の風や波をイメージしていて町のシンボルにはふさわしい造りとなっている

最南端の駅と最南端の観光

そんな千倉駅は千葉県最南端の駅。そして館山駅と並ぶ房総半島南部の観光拠点のひとつでもある

船舶にとって東京湾の入口を示す野島埼灯台へは車で20分。灯台があるのは千倉町などとともに南房総市に参加した旧白浜町にあり、もちろんバス路線もある

駅の名所案内にも、しっかり野島埼灯台は記されているが、張り紙はバス会社が替わったからだと思われる。めくれている部分がかすかに「R」と読めるのは「JR」のようだ。白浜町は鉄路のない町ではあったが、かつては国鉄バスが主要路線となっていて、町の中心のバスターミナルは今も「安房白浜駅」と「駅」が付けられている。白浜だけでは和歌山の白浜とダブってしまうので、わざわざ「安房」を付ける念の入れよう。国鉄バスからのJRバスが主要路線となっている駅は今も大きく「乗り換え」案内があることが多く

以前紹介した嬉野温泉へのJRバスが出ている大村線の彼杵駅や

大島へ渡るJRバスが出ていた山陽本線の大畠駅(山口県)には、今も「のりかえ」と鉄道路線でもあるのかと勘違いしてしまう案内が残っているし

同じく山陽本線の光駅(山口県)には、目立つように光市の中心部である室積と記されているのは、当地への路線バスがJRの運行だからだ

白浜町のJRバスは現在、主に長距離を担い、かつての国鉄バス路線は日東交通に引き継がれている。千倉駅からのJRバスも東京行きである

わざわざ鉄路が立ち寄った規模の大きい構内

千倉駅の構内は広い。ホーム構造は2面3線。夜の最終と早朝には当駅始終着の列車も設定されている。跨線橋からの俯瞰や

ホームからの景色で駅の位置がカーブ途中にあることが分かる

こちらは駅前の観光案内図だが、こうして見ると内房線がわざわざ千倉に寄り道するかのように敷設されていることが分かる。重要な町だった。千葉県の最南端にして関東最南端の駅。内房線と同じく、わざわざ下車する価値のある駅である

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青春18きっぷで冬の内房線を行った~クジラをイメージした駅舎

和田浦駅の駅名標

※訪問は2022年12月17日

旧自治体名に「浦」が付いた

和田浦駅に到着

内房線と外房線は路線としては、もちろん別で外房線の特急「わかしお」は外房線の終着となる安房鴨川での折り返しとなるが、昼間を中心とした普通は東京・千葉への直通がある外房線の上総一ノ宮、内房線の木更津を結ぶ列車が運行され、「接続駅」となる安房鴨川は、あくまで途中駅となっている(長時間停車もあり)。安房鴨川が房総半島の南端でない以上、ある意味、合理的な運用で東京や千葉を目指す際は、どちら側からもアプローチできる選択制となっている

和田浦は、そんな選択が可能な位置にある

開業は1922年(大正11)で、南三原~江見の2区間が開通した際、途中駅として設置された。当時の和田町の駅。駅名に「浦」が付いたのは奥羽本線の「和田駅」が明治期に開業していたためと思われるが、旧国名ではなく「浦」が付けられた

首都圏唯一の捕鯨基地

駅舎は開業時からの駅舎を1996年に改築したもの。和田町は2006年に周辺自治体と合併。南房総市となったが、改築は和田町時代である。コンクリート製ではなく、美しい木造の駅舎となっているが、イメージはクジラ。和田町は捕鯨の町として知られ、現在も首都圏で唯一の捕鯨基地がある。江戸時代からの歴史を持つ

駅の入口と駅名板。入口の照明は細かくおしゃれなものだ

旧和田町役場の場所には「道の駅和田浦WA・O!」ができていて、市役所の支所である地域センターと隣接。そこには鯨資料館もある。コンビニも近くにあり、駅からも見えるが、駅舎は町の中枢である海岸沿い、国道沿いとは逆側にあり、到達するには回り道が必要で徒歩5分以上を要する。線路がやや高台を走っているため、海側に駅舎を設けられなかったようだ。そのためか駅前はロータリー以外はひっそりしている

現在は無人駅

駅としては国鉄時代に無人化されていたが、新駅舎の完成後、自治体委託によるきっぷの販売が再開。そのための窓口もあるが、その後再び無人化されている

完全に無人化されてから数年が経つので、他の駅の過去のパターンから考えると駅から海側に直接出られる出入口の設置も期待できそうだ。またそうしないと「無人駅の意味」がなくなる

駅舎内は広い待合室があり、ギャラリーにもなっている

駅前のオブジェ。基礎の部分はクジラをイメージするもので、そこにいるのはイルカである。おそらく単独の和田町時代からのものだろう

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