JR西日本

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その5 気になる閑散区間の今後は

比延駅に入線する125系

※訪問は2024年12月10日

簡易駅舎というより公園

比延駅到着は8時すぎ

簡易駅舎のさらに上を行く超簡易駅舎。背景にホームが見えなければ完全にバス停。ホームにはベンチはないので、座席定員は「3」ぐらいか

ここには立派な屋根を持つ駅舎があったが、約5年前に解体された。元の敷地が大きかっただけに遠目で見ると駅というより公園である

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大都市近郊区間の路線

私以外にもう一人の方が下車した。地元の方らしく、どんどん歩いていく

周辺は深い霧に覆われていて、あっという間に霧の中に姿を消していった。ご覧のように周辺は住宅街だが、2023年の当駅の1日の利用者は16人である

こちらは運賃表。大阪や神戸の中心部までも100キロ圏内に入っていて、駅の利用者数からのイメージとは違い意外と近い。大阪へ行くには谷川経由、加古川経由と2つの行き方があるが、そこは触れられていない。というのは、加古川線は大都市近郊区間の路線で大阪近郊区間に含まれているからだ。つまりどちら側から乗っても同じ料金となるわけだが、大阪近郊区間に含まれる100キロを超える駅から乗車しても、そのきっぷでは途中下車ができない

閑散区間の駅が大都市近郊区間となるのは東京の近郊区間でよくクローズアップされるが、加古川線の駅も同じ。現在、JR西日本では大阪近郊区間において常態のフリーきっぷを出していないので、加古川線で駅巡りをしようとすると青春18きっぷの季節に行うしか手段がない。ただその一方、大阪近郊区間における「大回り乗車」では、もちろん有資格者である。降り鉄である私には専門外のことだが、1日8・5往復(週末は8往復)の西脇市~谷川をどう乗りこなすかが、カギを握るようだ

JR西日本の発表資料

JR西日本は2023年12月に加古川線の利用状況を発表した。それによるとコロナ禍で利用者数が大きく減る中、西脇市~谷川の区間はそれほど影響を受けなかった。と書くと実に立派な数字のように思えてしまうが、実体は違って元々の数が少なすぎるので、影響が少なかった

同じ加古川線内でも西脇市~加古川は、コロナ前に6000人の乗車人員があったものが5000人になっているのに対し、西脇市~谷川はコロナ前の時点で100人ちょっとしかなく、コロナ禍で100人をやや割り込んだ。2022年の1日の輸送密度は21%で、運んだ人員は237人しかいない。JR西日本の電化区間ではワースト1位だという

別の資料では2022年の各駅の利用者数は西脇市~加古川では、いずれも3ケタを超えていて4ケタ利用の駅が5つもある(加古川駅のぞく)のに対し、西脇市~谷川では3ケタの駅はひとつもなく、20人に満たない駅が7駅中5つもある(谷川駅のぞく)

こちらの記事で私が見た乗車人員を掲載したが、朝の電車でさえ、高校生がいなければ利用者は限りなく1ケタになっていた

閑散区間におけるJRの資料は時として少なさを強調したがるものになりがちで、まるまる鵜呑みにするわけにはいかないものもあるが、わずか7駅のことで、自身も体感したものだけに信頼性は高い。そしてわざわざこのような資料を出すからには、狙いとしては「やめたい」ということなのだろう。もしそうなれば電化から20年で廃線という異例の結末となる

ただこの区間を廃線にするというのは、つまり30年前と同規模の自然災害は二度と起きない、という前提に立つものとなる。そのような前提は誰も断言はできないだろうが、未曾有の大震災から30年が経ち、いろいろなものが風化しつつあるんだな、と思ってしまう。福知山線の大阪近郊区間は谷川までで、30年前に山陽本線、東海道本線のバイパスを果たした時の路線をたどっている。私は大阪近郊区間の路線図を見るたびにあの時のことを思い出す

もっとも閑散すぎる路線の放置は、さすがに問題だろう。おそらく上下分離的な議論になる。しかし沿線の自治体に、それを支えろというのは、とても無理な話で、自然災害への対策というのなら、もっと大きな公費で支えるべき、というのが私の意見

明日17日、あれから30年の日がやってきます

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その4 阪神間の迂回路として集まった注目

黒田庄駅に張られていた加古川線のポスター

※2024年12月10日

一度比延駅へ

利用客数を調べつつ、比延駅で下車。時刻は8時過ぎ。霧の中の到着だ

これまで加古川線の現状について語ってきたが、歴史についても触れてみたい

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水運の代替路線としてスタート

車窓からの眺めだが、加古川線の特徴は加古川に沿って走っていることだ

ピッタリ寄り添うように敷設されている。それもそのはずで、元々の目的は水運の代替手段だった。最初は播州鉄道という会社が加古川から西脇までの線路を敷設した。1913年(大正2)のことだった。この西脇とは現在の西脇市駅とは異なる。西脇市駅から北へ2キロ弱いの場所に存在し、今はない。後になってみると加古川線にとって重要な駅だったが、後に路線の運命を変えることが起きる。現在と同じ谷川への直通で、開業が1924年(大正13)12月27日のことだった。つまり100周年は、ここからスタートしている

ただ敷設にあたっての問題は谷川へは野村駅と名乗っていた現在の西脇市駅で分岐していたことだった。分岐が西脇でなかった要因は線路の設置予定地まで川を2回渡る必要があり、またすでに市街地を形成していた西脇の街の中に線路を通すことは難しかった。この部分の工事を請け負ったのはシリーズの最初で触れた播丹鉄道という会社で、播州鉄道はすでに播丹鉄道に吸収された形となっていた

このため野村駅で分岐する形となった西脇からは、さらに線路が延伸され途中駅となった

現在の路線名となったのは1943年(昭和18)に行われた戦時買収。加古川~谷川が国鉄の加古川線となり、西脇を含む路線は鍛冶屋線という加古川線の支線となった

分岐点は国鉄民営化

大きな転換期となったのは鍛冶屋線の特定地方交通線指定(1986年)と国鉄民営化(1987年)。鍛冶屋線の廃線は避けがたいものとなったが、野村(現西脇市)~西脇の1区間については業績堅調で、加古川からの列車は多くが西脇まで直通されていて、どちらかというと加古川~西脇が加古川線の主力の扱いとなっていて、この区間のみの存続も検討されたものの結局は廃線。西脇市を境に運行本数が大きく変わるほぼ同じ形となった。「ほぼ」としたのは、当時は非電化だったからだ

加古川線そのものの利用者は西脇駅を失ったことで、さらに減少していた状況で迎えたのが1995年1月17日の阪神淡路大震災。阪神間の線路は寸断され、西明石以西は間もなく運転したものの、姫路方面から大阪へ行くことはままならない。そこで迂回路として注目されたのが加古川線だった。単線非電化路線の上、谷川駅で福知山線への直接乗り入れができないという欠点はあったものの、多くの人が加古川で乗り換え谷川を目指した。JRも臨時便を増発。4月1日に全線復旧(当初の見込みより、かなり急ピッチだった)するまで多数を運び続けた

この一連の経過、つまり加古川線が非電化で、緊急時に山陽本線、東海道本線のバイパスとして不便だということが電化の機運を高めた。費用を地元が負担するという形で2004年に電化が行われた。つまり昨年は電化20周年の年でもあったのだ

だが利用者数の低迷で近年、西脇市~谷川の閑散区間は再び危機が報じられるようになっている

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その3 早朝から単行電車に乗車したわけ

黒田庄駅の加古川線100周年を祝う張り紙

※訪問は2024年12月10日

薄いダイヤ

福知山線の分岐駅である谷川駅の時刻表

パッと見ただけで本数の違いは一目瞭然。福知山線も昼間は1時間に1本の運行となっているが、さらに少ない

拡大するとこのようになるが、時刻表の空白部分に告知などを掲載するのは全国共通である

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9時発では次がない

このダイヤを見ると利用状況の調査うんぬんよりも、これに乗らざるを得ないことがよく分かると思う。平日のみ運行の6時9分は物理的に乗車できないし、次の9時ちょうどでは単純に西脇市まで乗って終わりになってしまう。「次」がないのである。西脇市以降は1時間に1本の運行が確保されているが、過去に全駅訪問済みとはいえ、せっかく来たのだから、特に本数の少ない谷川~西脇市はいくつかは降りてみたい

9時ちょうどに乗ってしまうと次は3時間以上空いて12時10分、さらにその次は再び3時間以上の空白で15時13分。朝が終わると夕方までほとんど運行がない、これまでも当ブログでたびたび出てきた典型的なローカル線の運行パターンだ。西脇はそう遠い場所ではなく、神戸の中心部からだと車なら1時間ちょっとで行けてしまう場所なのだが、もちろんそれは高速道路の使用があるからで、鉄路でも神戸の中心部である三ノ宮からだと15分に1本の新快速に乗り加古川まで30分、加古川からの乗り換えも1時間に1本の運行があって西脇市まで50分と、乗り換えを入れても90分もあれば行ける場所のイメージがあるが、少し離れただけで、このような現状が待っている

JRでは貴重な単行可能な新車の電車

今回主に乗車したのはJR西日本の125系である。ご覧のように単行での運転が可能で加古川線内では主に単行の運用となっている

電車というのは車内にいろいろな装備を詰め込む必要があるため、長らく最低の運行単位は2両とされてきたが、近年は技術の進歩で単行でも可能な車両が生まれたり改造されたりしている。ただJRでの新車となると四国の7000系と、この125系しかない

JRの単行電車といえば

今も現役で宇部線、小野田線を走るJR西日本の123系が有名だが、これは余剰戦力となった郵便荷物用の電車を改造したもので新車ではない。JRで単行可能な電車の新車が生まれない理由は、基本的な考えとして電化区間=利用客の多い路線だからだ。古くから電化されていて現在は乗客の少ない区間や路線はできるだけ最低単位の2両で運行するか、古い車両の改造で対処するというのが基本的なスタンスである。電車の新車を投入するなら利用の多い路線となる。近年は蓄電方式の車両も登場しているが架線は不要である

だが、この125系は2003年デビューと近年になってからのものだ。投入は小浜線と加古川線。JR四国7000系は四国内で電化が進む中で製造されたもので、同じ路線には特急列車も走る。特急車両が電化なら、普通用も電化となる道理だが、小浜線と加古川線に優等列車は走らない。ではなぜ21世紀になって新車が投入されたかというと、両線がほぼ同時期に電化され(小浜線が2003年、加古川線が2004年)、しかもそれは地元負担によるものだった。加古川線に話を絞ると、当時すでに西脇市~谷川は利用者の少ない区間だったが、それでも電化された。それには30年前の阪神淡路大震災が大きくかかわってくる

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その2 朝の通勤通学帯の利用者数は?

加古川線の100周年ラッピング車

※訪問は2024年12月10日

乗継ぎを待って出発

同一ホーム乗り換えができる谷川駅での福知山線と加古川線の乗り換え。谷川駅の福知山線列車は上下とも駅舎側つまり加古川線ホームのある側のホームに到着するが、列車交換の時間帯では跨線橋を渡ったホームも使用される。ちょうどその時間帯だったようで、私が乗ってきた福知山線の普通は7時32分に到着して6分間停車する。その間に大阪行きの快速がやってきて7時38分に上下列車が同時に出発。加古川線列車は乗継ぎを待って7時42分に出発する

私が車内で出発を待っていると、おそらく大阪行きからの乗継ぎだろう。あわただしく2人の夫婦らしき方が乗り込んできて、その直後に出発となった

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出発時の利用者数は?

さて、その出発時の乗車人員はというと

6人

である。もちろん私も含まれている

私が最初に車内に乗り込んだ時の様子。1人死角に入っているが、私を入れて4人。ここに前述の2人が加わった。18きっぷの初日だが、同業者(鉄道ファン)はいない。最初の3人は地元の方のようだ。後からのご夫婦は、どうも跨線橋を降りて一度逆方向に行ってしまったようで「危なかった」と話しているので地元の方ではないようだ

今回のテーマは加古川線の西脇市~谷川の利用状況を見ること。後に触れるが、全線50キロに満たない加古川線は、加古川~西脇市と西脇市~谷川で歴史も異なれば、利用者数も大きく異なる。ほとんどの電車は西脇市で運行が分断される。利用者の少ない後者は7駅しかない(西脇市と谷川をのぞく)が、過去の体験でも着席が困難だった記憶はない。ちなみに全駅訪問済みである

中吊り広告の位置に素晴らしいものがあった。途中7駅のうち久下村だけが丹波市に所属し、他はすべて西脇市にある。現地の校区のことは分からないが、西脇の高校に通うのなら船町口あたりから高校生が乗ってくるのだろうか。乗車車両の西脇市到着は8時12分。まさに通学に乗ってください、という列車でだ。次の電車は1時間以上後なので高校には行けない。この電車に乗るための早起きだった

結果を書くと

久下村 乗車1 降車0

船町口 乗車2 降車0

本黒田 乗車6(すべて高校生) 降車1

黒田庄 乗車7(高校生6) 降車0

日本へそ公園 乗降ともに0

比延 乗車1 降車2

で、いったん下車。つまり降車客のうち1人は私だ。西脇市までは、この後は新西脇駅のみしかないが、新西脇駅近辺からなら自転車通学だろう。結論から言うと高校生の12人を含めても20人ちょっとの利用者だった

比延で下車した後の私は一度黒田庄まで戻り、黒田庄から再び西脇市行きに乗車して新西脇で降りた。このあたりの過程は後に記すが、その道中の利用は

8時26分比延発谷川行き

先客8人

比延 乗車2(私を含む) 降車0

日本へそ公園 乗車0 降車2

黒田庄 乗車0 降車1(私)

9時16分黒田庄発西脇市行き

先客4人

黒田庄 乗車1(私) 降車0

日本へそ公園 乗降ともに0

比延 乗降ともに0

新西脇 乗車1(私) 降車0

という状況。周囲は公園のみの日本へそ公園で朝の8時台に2人降りたのは驚いたが、公園内で働いている方々だろうか

それを除くと「私」がドアの開閉に重要な役割を果たすことになってしまった。これは想像を大きく下回る結果だった

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大糸線の増便バスに再乗車、キハ120と組み合わせる~その6 やっぱり列車でゴールしなきゃ

糸魚川駅に到着

※訪問は2024年10月11日

2つの駅名板

中土駅の駅舎には2つの駅名板がある。ひとつは前記事のサムネで掲載したもの。そしてもうひとつは

年季が入ったもの。前者は駅舎の外に、そしてオールドバージョンは

駅舎の外側つまり列車で降り立つと、こちらが迎えてくれる

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シールを張って一路糸魚川へ

中土駅ともサヨナラの時間が来たようだ

南小谷駅でも同じものがあり、1カ月前に張った。今回ももちろん張る。来た全員が張り付けるとは思わないが、南小谷より利用者が圧倒的に少ない当駅なので、見かけたら思わず張ってしまうのではないか。首都圏や近畿圏は重ねて張るしかないのだが、遙か彼方からの人もいるようだ。対馬はビックリ。福岡からの方は「ネタじゃねぇぞ」との書き込みも

駅でともに降りた同業者の青年は、この後北小谷まで行き、増便バスの停留所まで歩き(徒歩10分ほど)、白馬から松本経由で東京に帰るという。前日からの旅程を聞いたが、若いとパワフルでいいな、と思った

中土から1区間、同乗してお別れである。私はこのまま糸魚川へと向かう。ふと顔を上げるとキハ120の車内は私を含め4人

そういえば中土駅ではこのような注意書きがあった

頭の中が鉄道だらけになると「通過」という意味が間違って脳内に伝わってしまうが、バスの世界では、ここには立ち寄らないという意味になる。今は国道から離れてしまうと、何かと不自由な時代である

大糸線の現状

私が乗車したのは中土を10時10分に出て11時3分糸魚川着のキハ120。10時4分に南小谷を出ているが

こちらの記事でも記したように白馬方面からの接続が極めて悪い列車で乗車が少ないのもうなづける。この後、根知で2人、姫川で1人の乗車があった

ここで糸魚川と南小谷をのぞく2022年度の非電化区間である大糸北線各駅の利用者数を記すと

中土 2人

北小谷 4人

平岩 4人

小滝 4人

根知 8人

頸城大野 16人

姫川 4人

この中には今回私が使用した秋の乗り放題パスや青春18きっぷなどのフリーきっぷの利用者は含まれていない。また中土で出会った同業の青年は途中下車を繰り返していたが、そちらも含まれないので実際に乗降した人の数とはかい離があるが、日常ということを考えると決して良い数字とは言えない

一方、増便バスについては長野県のHPに9月12日の記載があり、6~8月の利用状況について

6月 1日平均約25人(1便平均3人)

7月 1日平均約48人(1便平均6人)

8月 1日平均約112人(1便平均14人)

となっている。認知度が増して夏休みに入ると利用者が増えていることが分かる。現に9月に私が利用した日も18人の乗車があった。もっともこちらはあくまで白馬~糸魚川全体の利用者であって各駅の利用者数とは異なることに留意が必要。鉄道もそうだが白馬や信濃大町から大糸線を経由して糸魚川から新幹線に乗り換えると各駅利用者には入らない。また私見だが、バスの数字にはフリーきっぷ利用者も含まれている気もする

景色を眺めながら糸魚川へ

平岩駅を過ぎると姫川温泉が見えてきた。3年前に宿泊した際、部屋から「お~い」と手を振った。翌日、乗車すると車窓から部屋で手を振る浴衣の宿泊者がくっきり見え、私もそんな風に見えていたのかと、ちょっと恥ずかしくなったことを思い出す

12月から増便バスは冬季期間となり停留所が変更される。現在は白馬から南小谷までの各駅に停車しているが、南小谷までノンストップとなり、代わりにスキー客の利用が多い白馬八方バスターミナルが新たな停留所となる。また平岩、小滝の両駅は通過するが、駅とは離れた場所の温泉施設や道の駅が停留所となっている中土、北小谷の両駅は停車が続く

大糸線用となっている糸魚川の切り欠きホームに到着。やはり列車の到着は気分が落ち着く。大糸線については非電化区間であるJR西日本の大糸北線ばかりが何かとクローズアップされるが、JR東日本の区間も信濃大町から北上していくと、一定の乗客がある途中駅は白馬と神城ぐらいで、この後の記事でも出てくるだろうが、多くの駅で「ぼっち」を体験した。沿線には多くの温泉があるにもかかわらず、もったいない気もする

手元に1988年3月号の時刻表(復刻版)がある。すでにJRへの移管は行われていたが、南小谷をまたぐJR東日本、西日本の両線を走る列車がまだ1日2往復残っている。大阪から北陸本線、大糸線を経由してのシュプール号も健在。このシュプール号、いつも大阪駅で多くのスキー客が列車を待っていた光景は覚えているが、始発駅が西明石だということを知ってちょっと驚いている

増便バスを出すぐらいなら、大糸線そのものを増便すれば良いではないか、との声も聞こえてきそうだが、平岩、中土の両駅でも紹介したように大糸北線では駅の交換設備がなくなっていき、現在すれ違いができるのは根知駅のみで列車本数を簡単には増やせない状況にある。ただ白馬行きの増便バスで分かる通り、JR東日本と西日本をまたぐ列車があれば需要は少し増えるのではないか。それが無理なら、せめて接続の便を図るべきだと思えてならない

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大糸線の増便バスに再乗車、キハ120と組み合わせる~その5 大糸南線で唯一の非電化駅

中土駅の駅名板

※訪問は2024年10月11日

国道は離れた場所を行く

中土駅の駅前

3年前は「交通 安全宣言」の向こうから南小谷駅へと向かう小谷村村営バスがやって来たことを覚えている

ただ交通安全をうたうほど車の交通量があるわけではない。いわゆる「塩の道」で大糸線とほぼ並行して走る国道148号は中土駅から離れた場所を走る

増便バスは駅前まで来て再び国道に戻るのにはかなりの回り道となるため、停留所は温泉施設「サンテインおたる」に設けられている。同所から中土駅までは1・2キロ離れていて徒歩なら15分以上かかりそうな距離である

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元は合成地名

駅名は、かつてあった中土村に基づく。これはいわゆる合成地名で「中谷」「土谷」の2つの地名の頭文字をとって村名にしたもの。1958年(昭和33)に北小谷村、南小谷村と合併して小谷村が発足した際に自治体としては消滅しているが、駅が開業した1935年(昭和10)はまだ中土村が存在した。ただし駅の所在地は南小谷村だった

村の中心地は徒歩なら小1時間ほど離れた場所にあったが、地形上、中心地に鉄路を通すことは不可能だったのだろう

こちらは駅舎内の様子。きれいにまとめられていてテーブルもある。こちらは少なくとも開業時のものではない。そしてきれいに清掃されている

かつての駅の写真が飾られている。戦争を挟み20年以上も終着駅だったことで写真にも重みがある。駅員さんの姿も写っているが

もちろん現在は無人駅。国鉄末期には無人化されていたがきっぷ売り場の窓口跡に

かつてホームにあったと思われるホーロー駅名標が保存されていた

きれいな駅舎内とともに地元の方の愛情を感じる

電化、非電化の分かれ目

駅前には商店そしてタクシー会社があるが、商店については現役ではない。たばこ店のホーローと遠くからも識別できる「たばこ」の文字はローカル線の定番である

再びホームに出る。時刻は10時を回ってきたが暑くなってきた。先ほどの商店前には自販機はある。冷たい缶コーヒーを買って白馬から着てきたセーターを脱いでバッグにしまう。2時間ほど前、一ケタの気温に白馬駅でブルブルしていたのがウソのようだ

島式ホームだが、平岩駅と同様に片側は役割を終えていて、と同時に構内踏切もすでに踏切ではなくなっている

大糸線では1957年(昭和32)の全通から間もなくして電化の機運が高まった。元より松本~信濃大町の信濃鉄道が敷設した区間はすでに電化されていたため、工事は延伸という形で進めめことができる。当初の目的だった国防の意義はなくなっていたが、温泉、登山、スキーと当時の観光の要素がすべてそろっていたため、国鉄によって敷設されたしなの信濃大町以北も電化して観光路線として強化することになった。工事は順調に進み、白馬(当時は信濃四ツ谷)までは早くも1959年に、翌年には信濃森上までが電化された。その後は少し時間がかかったが、1967年に南小谷までが電化。そして…と言いたいところだが、電化はここまで。現在の形となった

当駅も含め、大糸線の県境部分は数々の自然災害が発生した場所でもある。豪雨に山崩れ、地震。中土駅も豪雨で何度か水浸しになった。駅舎が新しく感じるのは、その度に修復が行われたからだろう。電化に伴う難工事と自然災害への危機感が電化の歩みを止めた。その結果、戦前に開業した松本から当駅までの大糸南線で南小谷~中土のみが非電化区間となった

かつては転車台もあった終着駅に現在やって来る列車はキハ120の単行。民営化時に電化区間と非電化区間で、かつての大糸南線で1駅だけ所属会社も変わることになるとは、電化工事がストップした時点では誰も考えなかったに違いない

2022年度の中土駅の1日あたりの利用者は2人となっている

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大糸線の増便バスに再乗車、キハ120と組み合わせる~その4 3年前の忘れ物

中土駅の駅名標

※訪問は2024年10月11日

3社のJRが乗り入れる長野県

平岩発9時30発に乗車。もちろん、と言っていいのかどうか分からないが、乗車したのは私1人。すると車内には20人のお客さん。自分の予想をはるかに超えていたので、ちょっと驚いた。秋の乗り放題パス期間ではあるが、同業者(鉄道ファン)の姿は少ないようで、観光や登山の方がほとんどのようだ。1駅隣の北小谷では1人が降り、3人も乗車してきたので、これも意外。3年前に訪れた北小谷は乗下車ともに私だけでホームで小1時間ぼんやりしていた記憶があるが、北小谷で降りた人も乗車してきた人も地元の方のようだ

そして平岩駅から2駅目の中土駅に到着。駅名標を見れば一目瞭然だが、隣は南小谷でJR東日本との境界駅でJR東日本管轄。JR西日本の駅名標もここまでということになる

南小谷はJR東日本とJR西日本が接続する在来線唯一の駅。北小谷そして中土は長野県に所在する。考えてみれば、長野県はJR3社の在来線が走る貴重な県である

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JR西日本の最東端駅

平岩と中土は2区間で11キロだが、途中の駅はひとつだけにもかかわらず所要時間は20分と長い。大糸線の難工事部分で山中をぬうように走る線路にはJR東日本ならではの速度制限があるからだ

さて中土駅で降りたのは私ただ1人…という予想だったが、私を含め2人。ただし同業者。私よりもはるかに若く、後で車内も含め話をしたが東京から来たという。ローカル線の駅で同業者と2人きりになった時の「あるある」だが、互いが写らないよう気を遣いながらの撮影会となった(笑)

こちらは時刻表。9時50分に着き、10時10分の糸魚川行きで去る予定。駅にいられるのは20分だが、3年前と比べると十分な時間だ。というのは3年前は小谷村村営バスのお世話になって当駅から南小谷へと移動したのだが、バスの時刻が列車の到着からわずか3分後という慌ただしさで、とにかく写真を撮れるだけ撮っているうちにバスが見えたので即撤退となった

美しい木造駅舎が健在である。中土駅の開業は1935年(昭和10)。信濃大町から徐々に伸びてきた大糸南線の終着駅となった。大糸線は全通までは糸魚川~小滝が大糸北線、松本~当駅が大糸南線という名称が与えられていた。以降、戦争を挟んで1957年に大糸線が全通するまで20年以上にわたって終着駅の役割を果たしていた

駅舎は開業時からのものと思われるが、かなり手は入っているようだ。シャッターは地元消防団のもので、道具置き場となっている

JR西日本最東端の駅でもある。かつては北陸本線の谷浜駅(新潟県)だったが、三セク移管によって中土駅が、その座についている。なおJR西日本が管轄する線路となると北陸新幹線の上越妙高駅(新潟県)が最東端となるが、境界駅である上越妙高はJR東日本の管轄となっているため、最東端の駅となると中土になる

それほど多くの時間はないが、駅舎内とその周辺も見ていくことにする

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大糸線の増便バスに再乗車、キハ120と組み合わせる~その3 山中の県境を駅から楽々と徒歩越え

平岩駅の駅名板

※訪問は2024年10月11日

【動画あり音声注意】

ホームは棒状化

平岩駅のホームから前記事とは逆方向の眺め。昨日までの2日間、ずっとJR東日本の駅名標ばかり見てきたのでJR西日本の駅名標が新鮮に感じる。JR各社の壁を越えて移動できるフリーきっぷ(この時は秋の乗り放題パス)のありがたみを知る瞬間でもある

そしてご覧の通り、始終着列車の設定があるにもかかわらず島式の1面2線構造は1面のレールがはがされ棒状化されている。全国のローカル線で必ず出くわす光景

少し時間があるので再び駅舎の外に出てみよう

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3年前に驚いたこと

駅前の周辺案内図を見る。駅周辺は姫川温泉。姫川をはさんで数軒の温泉宿がある。元々は大糸線の全通に合わせて作られた温泉街だが、全盛期よりは数を減らしている。3年前は

駅舎に向かって左側のこの道を宿へと向かった。平岩駅の開業に合わせて作られた温泉だけに、駅からすぐ到着する

温泉で癒やされ、翌朝の出発前、テレビの天気予報を見て不思議に思った。長野県の天気予報なのだ。ニュースも長野県内のもの。宿に向かって降りた平岩駅は糸魚川市つまり新潟県にあるので、ここは新潟県のはず。首をかしげながらフロントに向かうと置いてあった新聞も信濃毎日新聞。さすがに宿の方に尋ねると「ここは長野県なんです」

宿予約の際、住所をしっかり見ていなかった自分のリサーチ不足ではあるがビックリした

地図で分かる通り、姫川が県境となっていて徒歩5分。つまり駅は新潟県だが、こちらの温泉街は長野県にある。全国の県境は随分と経験したつもりだが、山中の県境は峠か深い渓谷の印象が強く、まさか歩いて楽々と越えられるものとは思ってもいなかった(ちなみに新潟県側には新しい温泉旅館が1軒ある)

そういえば、その時の旅でお世話になった小谷村のコミュニティバスも温泉街を通って

これは3年前の写真だが、部屋や露天風呂から、まるでテーマパークのアトラクションのようにキハ120がよく見えた。実は今回も当地での宿泊を考えたが、旅程の都合で無念の断念となった

キハ120で次の駅へ

ちょうど総選挙前だったので、駅前には立候補者の掲示板が用意されていた。駅は新潟5区となっている

こちらは駅前の看板。平岩駅の開業は1957年(昭和32)で、戦後も10年以上が経過して人々にレジャーの余裕ができ始めていたころだった。大糸線の全線開通を機会に当駅を温泉、登山そしてスキーの拠点としようとしたのだろう。かつて新宿から大糸線経由で糸魚川まで運行されていた急行「アルプス」は、現在の大糸北線内では平岩が唯一の停車駅だった

現在やってくる列車はキハ120の単行のみである

南小谷行きのキハ120がレールをきしませながら入線してきた。ホーム案内の電光掲示の左側矢印は、もはや意味がなく、電光案内そのものが不要となっているが、しっかりと現役である

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大糸線の増便バスに再乗車、キハ120と組み合わせる~その2 駅舎を抜け待っていたのは

平岩駅の駅名板

※訪問は2024年10月11日

新潟県に入って私のみの下車

南小谷から約20分。増便バスは新潟県に入って最初の駅となる平岩に到着。増便バスは当駅前後の北小谷、小滝ではいずれも駅から遠いところに停留所が設けられているが、ここ平岩駅では高台の国道から分岐して一度駅まで降りてくれる。それは駅が新設された国道から離れているという意味でもあり、駅の場所が地元の方の生活圏から離れているという意味にもなるが、平岩はそうではない。駅周辺には民家も多い

駅からどうやって国道に戻るのだろうと思っていたら駅前の駐車場でグルリと方向転換して去っていった。バスには南小谷から私を含め5人が乗車。先に乗っていた3人も含め計8人の利用客がいたが、当駅で降りたのは私1人である

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3年ぶりの訪問を出迎えてくれた景色

平岩には3年ぶりの訪問。2021年9月のことだった

コンクリート駅舎となっているのは、開業が大糸線全通時の1957年(昭和32)のため。先の記事でも記したが、大糸線の信濃大町~糸魚川は国鉄によって敷設された。険しい山中をぬうように敷設されたのは国防上の理由からだが、1935年に南側は中土まで、北側は小滝まで開通した後、難工事となる長野と新潟の県境部分は戦局の悪化に伴い、工事が中断。日本海から東京、名古屋へ向けての国防上重要となる鉄路は艦砲射撃を避けるため、できるだけ山中が良いというのが敷設理由だったが、計画時とは変わって時代はすでに航空機となっていて、山深い場所にわざわざ線路を新設する理由がなくなっていたのだ。工事が再開されたのは戦後がかなり経ってからで大糸線の全通は戦後10年以上も経過していた

駅前には石碑があり、一部は欠けてしまっているが、全通までの苦労が刻まれている

財産票は昭和31年11月となっている。駅の開業は翌年の8月なので駅舎そのものは早々に竣工していたことになる

こちらは駅名板

県境の駅というこで今でも1日に2本の糸魚川との折り返し列車が運行されている。周辺は温泉地で登山客需要もあったため、JR移管後もしばらくは有人駅だった

駅舎からホームへは階段で上がる。すると

なんだ、この素晴らしい景色は。時刻は朝の9時20分。山と雲に溶け込む雑草に囲まれたホームの風情が素晴らしい。右側には除雪車が間もなくやってくる雪の季節を前に出番を待っているようだ。ちなみに

こちらが3年前の写真。ちゃんと動いている。当時の景色の記憶がほとんどないと思っていたら、当日は曇天だった

3年前は当駅からすぐの姫川温泉に宿泊している

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大糸線の増便バスに再乗車、キハ120と組み合わせる~その1

南小谷駅のホーム側改札付近

※訪問は2024年10月11日

1カ月を経ての再訪

前回までの大糸線の各駅訪問は3月の話。なぜ記事化するのに半年も置いたかというと、全駅訪問が終わっていなかったこともあるが、雪景色が全く季節に合わなかったからである。といっても、一昨日あたりから急に冷え込みが厳しくなり、急速に冬の足音が聞こえてきた。大糸線の訪問は9月の上旬、10月の上旬にも行っているため、季節的には真逆になってしまうが、ご容赦ください

そして9月に次いで10月も大糸線増便バスに乗ってきた。季節というより時系列が飛びまくるが、こちらは3月までの限定運行ということで早めに掲載することにする

ちなみに1回目はこちら

スタートは気温8度の白馬から

スタートはハロウィーンムードの白馬駅から。1カ月前にも来ているが、気候がたった30日で全く異なる。前回は汗をダラダラかいていたが、この日の朝は8度。もちろん息は真っ白。前々日から当地は急に寒くなったようで、この2日間、宿では就寝の際、暖房をつけた。季節外れの夏日が続いていた神戸から信州に来て温暖差に身体もビックリだが

8時1分発の南小谷行きに乗車。これを逃すと次は11時23分と3時間20分後なので、絶対に譲れない電車である。白馬駅近辺でお勤めの方もいるのだろう。かなり混み合っていたが、南小谷へ向けてはガラガラとなった。本日は1カ月前と同じく南小谷から大糸線増便バスに乗る。ただ前回は単にバスで糸魚川まで行っただけだったが、今回は駅にも立ち寄り、最後は鉄路で糸魚川へと向かう。手には「秋の乗り放題パス」。毎年、鉄道の日の10月14日前後に登場するきっぷで、使用ルールは青春18きっぷと同じ。ただし3日間の連続利用、グループ利用禁止という決まりがある一方で自動改札機を通ることができる。つまりこの12月に発売される青春18きっぷとほぼ同じ内容だが、この頃はそのような改訂があるなど夢にも思っていない

約20分で終点の南小谷へと到着

南小谷は管理駅で、人はずっといるのだが窓口は9時過ぎからのようで、まだ開いていない

1カ月前はエアコンのお世話になり、冬場はコタツも登場するという待合室もまだ閉まったまま

勝手知ったる増便バス

こちらは駅舎。前回で勝手は分かっているので安心だ

時刻表も理解済み。実は前日、大糸線の駅回りでも利用したのだが、それはその時に紹介する。今から乗車するのは8時47分の1便。時刻表を見てもらえれば分かるが、このバスは白馬を8時30分に出ている。列車の紹介で8時1分に乗り損ねると大変、と記したが、増便バスがあるうちはカバーできる

というか

駅の時刻表で見てもらえば分かるが、白馬発8時1分に乗車しても南小谷着に同20分に着いた後、糸魚川行きは10時4分発で1時間40分もの待ち時間がある。白馬を次に出るのは11時23分で、もちろん10時4分には乗れない。11時23分白馬発は11時42分に南小谷着で、12時7分発糸魚川行きに25分の接続と、ようやく接続らしくなる。ちなみに白馬からだと始発となる6時57分発も南小谷での接続が図られている。要は「痛いところに手が届く」時間帯に設定されているのだ

だったら白馬を8時30分に出ればいいではないか、の声も聞こえてきそうだが、とにかく気温が一ケタの朝である。バスにお手洗いがないのは前回で確認済み。生理現象を考慮すると、ここは電車で南小谷まで行くのが無難というもの

ほんの少し色づき始めた山と川の景色を見ているうちに

数分遅れ気味でバスが到着。まずは大糸北線の駅を目指そう

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