※訪問は2025年5月27日
路線名ゆかりの駅が第一歩

添田から約20分。BRTのバスは彦山駅に到着した。予定の時刻より5分ほど遅延しているが、ここまでは道路を走るバスだったので、遅延もやむを得ない。写真で見ていただければ分かるが、ここからバスは専用軌道に入っていく。つまり線路跡を利用したコース。ここから約14キロはバスのみが走るコースなのでBRTならではの強みが発揮されるコースとも言えるが、非電化単線の線路跡を走るためバス同士のすれ違いは、かつて駅だった場所でしかできないことが、かえって弱みであるが、これが後に各駅訪問の悩みのタネとなる
そして駅名からも分かるように路線名「日田彦山線」のゆかりになった駅でもある
変遷の末に現在の路線名に
日田彦山線は小倉から3駅目の日豊本線城野駅から分岐。久大本線の夜明を結ぶ路線で68・7キロ。この両駅が帳簿上の起終点だが、現実的には列車は小倉から久大本線の日田まで運行されていた。そのなごりでBRTも夜明を経て日田まで運行されている。つまり日田~夜明は列車とBRTが並行して運行されている区間となる
路線名は日田駅と彦山駅からとられているのは一目瞭然だが、彦山駅は城野から47キロも離れた場所にある途中駅。普通なら起点と終点の1文字ずつをとったり、路線内の代表駅を路線名とするところだが、ちょっと違う。これには路線の成り立ちが変化した歴史が関係している
もともとは小倉の東側にあった東小倉という駅(今も形の上での駅として残るが旅客扱いはしていない)から日豊本線を経由することなく添田までを結んでいた私鉄路線だった。話はややこしいが、この線路は現在のコースとは異なり、田川地域の中心地である田川伊田も田川後藤寺も通っていなかったため別の会社が当地を通って添田に向かう路線を敷いた。その後、両線とも国鉄となり前者が添田線となり、後者が行橋から伸びる田川線の一部となった。田川線は1942年(昭和17)に彦山まで延伸する。このころまでは現在の西添田駅が添田駅を名乗っていた
一方、夜明側からは1937年に大分県と福岡県の県境である宝珠山まで線路が完成。彦山線という名称だったが、戦時下で工事が中断。線路がつながったのは1956年と戦後10年以上も経ってからのことだった。全通したことにより、添田線と彦山線そして田川線の添田~彦山が統合されて日田線が誕生したが、この時点で日田線は田川地区の中心部を通らないコースを通っていた。そのため間もなく日田線と田川線を結ぶ短絡線を設けた上で、4年後には中心部から外れた部分をあらためて添田線と命名。中心部を通る田川線のコースを日田線に組み込み、名称が日田彦山線となった
文字だけだと何のことか分からないかもしれないが、ざっくり言うと小倉から添田、田川から添田、添田から夜明と3つの路線の組み合わせで成立した路線で、そのうちの一部が分離された上で廃線になったということ。また歴史をさかのぼると路線名に使用できそうな名称がことごとく先取りされてしまっているような気がする。ただ1度なくなった「彦山」という文字がすぐ復活しているあたりがおもしろい。なお2代目となった新たな添田線は中心部を通らないことで利用者が低迷。国鉄末期に廃線となっている

路線の紹介をしていると随分と長くなってしまった。ただ専用軌道の部分にもかかわってくる話なので、できるだけ説明してみた
次回でようやく戦時中に誕生した駅の訪問記をお届けしたい


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