城端線

城端線の全駅訪問を思いつく~ハッと思ってしまう意外な難読駅名の由来

油田駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

隣駅とセットで理解

東野尻に次いで油田にやって来た。ご覧の通りの単式ホーム。ただ向かいに廃ホームが残る。かつては、交換設備があったようだ

ただ注目は駅名である。「油田」は「あぶらでん」と読む。多くの人が思うのは「ゆでん」だろうが、いわゆる湯桶読みという訓音読みは、それだけで難読になってしまう

一瞬、富山にかつて油田(ゆでん)があったのか、と思ってしまうが、そうではない。これはお隣の戸出駅とセットにすると分かりやすい

城端線の駅は1駅だけ紹介したことがある。昨年2月にグリーンきっぷで旅をした際、当駅に立ち寄った

「戸出」(といで)だけだと、油田との関係は分からないが、時代ははるか昔の平安時代までさかのぼる。このころから当地は油の産地だったようだが、そのころに石油なんてものが使用されるはずはない。油というのはごま油のこと。付近ではエゴマが多く栽培されていた

それにちなんで「灯油田」(とうゆでん)が地名の由来で、歳月を重ねるうちに「とうゆでん」→「とゆで」→「といで」と変化したとか。隣町となる油田は、文字もそのまま残った

明治の町村制では、それぞれ戸出町、油田村となり油田村は、戦後の1952年(昭和27)の砺波町誕生まで存続。現在は砺波市である

現在は簡易的な駅舎

油田駅の誕生は1900年(明治33)で、1897年生まれの戸出駅より若干若い

現在の城端線が最初に開業したのが戸出駅設置の1897年で、同じくその時に開業した砺波駅(当時の駅名は出町)との間に開業した。少し遅れたとはいえ、もう120歳を超える歴史を持つ

ただし駅舎は簡易的なもの。かつては木造駅舎があったようだが、国鉄末期に無人化され、JRになって間もなくの1989年(平成元年)に現在の姿となった

簡易的とはいっても駅舎には事務室があり(どのぐらい使用されたのかは不明である)、待合室も扉が開閉できるものとなっている。駅舎そのもののデザインも欧州風なおしゃれなものだ

駅からすぐのところには江戸時代から続く若鶴酒造があり、ここには北陸唯一のウイスキー蒸留所がある

そんな油田駅だが、駅舎はあるものの少し気をつけなければならないことがある

最近の流れではあるがお手洗いにはカギがかけられ閉鎖されている。長時間滞在する場合には事前に備えが必要である

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城端線の全駅訪問を思いつく~戦後生まれの棒状駅からスタート

東石黒駅の駅名標

※訪問は2023年9月10日

1時間に1本の運行

高岡から約40分。東石黒駅が本日最初の訪問駅

こちらが当駅の時刻表

城端線は基本的に1時間に1本の運行で高岡~城端を走る。臨時扱いの観光快速を除くと、すべてが普通列車で、平日の朝のみ高岡からあいの風とやま鉄道に乗り入れて富山まで直通する列車が2本運行されている。話はそれるが、この2本は高岡~富山で見られる貴重な気動車ということになる。運用にあたるのは、いわゆる「タラコ」のキハ40、47

1時間に1本というのはローカル線では本数の多い方だ。元々はひとつの路線だった高岡からの氷見線は、城端線より少ない。前記事で記した通り、全体で14駅しかも30キロの中に詰め込まれているので全駅訪問はそれほど難易度は高くない。2キロにも満たない駅間もあるため、徒歩も駆使すれば次の列車に間に合ってしまう。もっとも訪問当日は9月10日と、まだまだ酷暑の日だったので、できるだけその手段は避けよう

駅の開業までは戦争をはさむ

東石黒駅は棒状ホームと待合所のみの簡素な構造

立派なキロポストがホームに建っているが、開業当初から現在の姿

設置は戦後の1951年(昭和26)。駅が造られることは戦前から決まっていたが、戦争をはさんで開業となった。駅の構造が旅客営業のみの対応なので貨物の運用は最初からない

駅名は1954年まで存在した東石黒村に基づく。東石黒村は福野町を経て現在は南砺市。ちなみに東石黒村があったのだから石黒村もあったが、こちらは戦後、福光町に入る形となった。ただし今はともに福光町

福野、福光の両駅は19世紀からの歴史があり、その中間に設置されたため、距離も近い

線路に沿って真っ直ぐ歩くと福野の街に入り、福野駅に着くことができる。線路とともに歩けるという駅巡りでは絶好のルート。ただ繰り返すが、この暑さでは歩かないのである

駅の全景はこんな感じ

自転車置き場があり

踏切横の小さな階段を昇ってホームに入る

ただし駅全体を見ると

その気になれば、小さな土手を上がると柵もなく容易にホームに入れてしまう、よく北海道で見られる構造。もちろん、それが合法的なものかどうかは不明。1日に50人ほどが利用する駅で、滞在中はどのような入り方、降り方を地元の皆さんがされるかどうか注目していたが、ちょうど朝の通勤通学の時間帯が終わったばかりで駅にやって来る人はいなかった。ずっとホームにいたのは明らかに同業者(鉄道ファン)で、なおかつ駅訪問を趣味としているであろう方と私の2人きりだった

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城端線の全駅訪問を思いつく~急きょ行先を変更して富山から高岡へ

城端駅のホーム

※訪問は2023年9月10日

直前のニュースに触発されて

昨年の夏の青春18きっぷ最終日の朝。私は富山の駅前にいた

本来ならここから高山本線の残った駅の回収に向かうはずだったが、前日のうちに急きょ予定を変更した

11月の記事でも記したが、理由は①あと1日では高山本線の全駅回収は不可能だと判断したこと②直前に城端線と氷見線の三セク編入検討のニュースが流れたこと-の2つ

報道では今後、協議に入るとなっていたが、こういうのは話がトントン拍子に進むものである。表現は乱暴だが、JR西日本としては新幹線以外と接続しないローカル線とは、一刻も早く縁を切りたいだろう

ということで富山からあいの風とやま鉄道に乗車して高岡を目指すことにする

わずか30キロに14駅

城端線は高岡駅と城端駅を結ぶ29・9キロのローカル線。この距離は東京~横浜より、ほんの少し長く大阪~三ノ宮より、ほんの少し短い。そして約30キロの間に14もの駅があるという(高岡駅は城端線所属となっている)、まるで私鉄のように路線だが、実際に元々私鉄だった路線である

中越鉄道という会社が1897年(明治30)に福野までを敷設したのが最初だから、130年近い歴史を持つ。ちなみに当時の起点は高岡ではなく黒田仮乗降場で、これは現在の新高岡駅近く。なぜこのような場所が起点となったのかというと、高岡駅の位置がはっきり決まっていなかったから。国鉄が金沢からやって来ることは決まっていて、もちろん接続駅とすることは決まっていたが、駅の場所が未確定だったため、仮乗降場を設けた。高岡までの線路がつながったのは、翌1898年のこと(仮乗降場は廃止)。つまり国鉄より先に開業した路線で、富山県では初の鉄道である

そしてもうひとつのポイントとしては、最初から城端が終点だったことが挙げられる。山中に伸びて行き止まりとなっている路線は、先の延伸計画がありながら、工事が行われず、結果として未成線、盲腸線となっているものも多いが、中越鉄道が目指したものは、どちらかというと海で、豊かな農業地帯の農作物を伏木港へと運ぶことを目的とした。後に現在の氷見線も同社が敷設している

国有化されたのは1920年(大正9)。当初は城端から伏木までが中越線で、伏木から氷見までが氷見線だったが、戦時中の1942年(昭和17)に城端~高岡が城端線、高岡~氷見が氷見線と現在の形となった

駅が多いのは元が私鉄だったことはもちろん、戦後に5つもの駅が新設されたため。30キロしかない区間に5つの新駅なので明らかに多いが、駅舎の有無やホームの形式で戦後生まれかどうかが分かりやすい

高岡から出発

そんな城端線だが、私が過去に訪れたのは高岡、新高岡、戸出、城端の4駅のみ。全線の乗車は果たしているが、駅の経験値が乏しい。それだけに各駅が楽しみである

高岡駅はあいの風とやま鉄道の管轄となっている

構内ももちろんあいの風とやま鉄道の管轄だが、城端線と氷見線は専用のホームが与えられている。ちなみに両線のホームは主に1番線と7番線で間にあいの風とやま鉄道のホームを挟み、中間線も存在すめため遠い

ホームに行ったのは7時半過ぎ。通学の高校生がドッと降りてきた。降りきって間もなく出発である

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グリーンきっぷの2日間~明治生まれの駅舎で締める

戸出駅の駅名標

2月22日14時20分

パンダさんじゃなかった

富山駅の軌道線からの乗り継ぎが大変よく、ギリギリで「つるぎ」に乗車することができました。これに乗ると城端線にうまく乗り継げます。「金沢のサンダーバードの発車までの時間をどうしよう」と時刻表を何度もパラパラめくっていた悩みが一気に解決

富山~金沢の2区間だけを編成車両の一部だけ利用して運行するという、つるぎですが需要の多い区間を1時間間隔から30分間隔に補完する、なかなかのアイデアだと感心します

城端線の新高岡駅は新幹線とは改札外連絡の無人駅で単式ホーム。高岡までは1駅で新幹線からの乗り換えでの需要はかなりあるほか、大きなイオンの最寄りも兼ねています。城端線は昼間は1時間に1本の運行ですが、イオンのおかげもあって高岡~新高岡はバスも頻発しています

10分もかからない絶妙な乗り換えでキハ40に乗ります。昨日の今ごろは鳥取県にいたわけですが、24時間後に富山県で再びタラコに乗るというのは感慨深いものがあります

ホームにいた女子高生が「1両かな、2両かな」と会話していました。確かに容量が2倍違うのですから、その差は大きい。やって来たのは2両編成。下校の高校生でにぎわっていました

車内で目をひいたのは津波の際の注意事項。私が気づいていなかっただけなのかもしれませんが、かなり斬新でした。というのも過去に見たものは

こちらが特急「くろしお」の車内のもので

こちらが紀勢本線の普通で見たもの(ともに2021年12月の撮影)。いずれもパンダさんがモデルになっていて、かわいいな、と思っていたのですが、これが和歌山仕様だったことを知りました。確かにジャイアントパンダがはしごで降りたら相当な時間を要しそう

130歳近い年齢にしびれる

今回向かうのは高岡方面ではなく城端方面。10分で到着したのは

戸出です。旧戸出町の代表駅で、こちらの素晴らしさは

こちらの駅舎

まだ北陸本線もない時代に開業した城端線ですが当駅は、ほぼ1897年の開業時の姿のまま

こちらが明治30年の財産票。まもなく126歳の誕生日となります。長い歴史を持つ城端線ですが、当時からの駅舎が残るのは他に福野と城端の2駅だけです(城端駅の開業は戸出、福野より半年ほど遅い)

一部は手が入っていますが、他はほとんど変わらない

「計量器使用事業場」。これは初めて見ました。調べると、はかりなどの計量器を適切に扱う事業所としての認可だそうです。旅客の荷物を扱う駅に与えられていたもののようですが、考えてみると日本中の駅がそうだったことになります

利用者の多い駅で、今は簡易委託駅としてきっぷ販売を行っています

訪問時は、まだストーブがありました

戸出周辺は灯油(植物油)作りが盛んでかつては「灯油田」の表記もあったそうで、お隣の駅は「油田(あぶらでん)」

駅舎のホーム側に掲げられていた城端線の案内図。JR移管後に設置されたもののようですが、新高岡駅ができる前のもののようで、年季は入っています。ホームには多くの高校生がいたのですが頭上にある写真を撮っていると「わー、こんなのあったんだ」と見上げていました

その後、新高岡に戻って金沢へと向かいました。北陸新幹線と北陸本線の特急をフリーで乗れるきっぷは過去にも利用しましたが、それぞれの駅にローカル線が接続しているので発売されるタイミングは貴重です

サンダーバードで帰ります

最後の指定券

出発前に用意したきっぷは無事すべて使うことができました。パノラマグリーンから始まり、かなり「乗っている時間」が長かったですが、未乗車区間の穴埋めも含め、後半は適当旅でローカル線の乗車や駅巡りもでき、密度の濃い旅となりました

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