阪神電鉄

今もくっきり残る阪神電車の廃線跡をたどる その4~貴重な高架車庫と阪神淡路大震災

※訪問は2024年4月16日

かつての駅名がところどころに残る

急な用件が入ったため、散策を打ち切ることになり一夜明け。新在家駅から再スタートである。といっても、おそらく30分もかからず終わるのだが

右側に国道43号の防音カバーがある。国道に食い込むように走っていた線路は再び43号から離れることになる。奥に公園が見えるが

またもや「いかにも」の公園が現れる

浜田公園。近所の幼稚園か保育園の子どもたちが遊んでいたが、先生たちもここが線路だったということは知らないだろう

この先に東明(とうみょう)郵便局があり

東明交差点がある。国道43号から六甲アイランドに向かう交差点で東西南北とも交通量は多く、大型車両が走る

新在家駅は1905年(明治38)の開業時は東明駅を名乗っていた。現在の新在家と大石の間に別の新在家があり、あまりにも駅間が近すぎたためか(現在も大石~新在家は1キロしか離れていない)昭和に入って間もなく廃駅となったそうだが、その痕跡はさすがに今は分からない。初代の新在家駅が廃止され、東明駅が新在家駅に名称変更。つまり場所も含めると現在の新在家駅は3代目ということになる

そして東明という住居表示は現在消滅していて郵便局や交差点の名称に名を残すのみとなっている

東明車庫→石屋川車庫に

東明の交差点から現在の高架線へと北上すると

佃煮のお店とビルがあって実は石屋川の高架車庫はすでに終わっている。東明郵便局の北側が石屋川車庫。日本初の高架車庫として線路が付け変わった1967年(昭和42)に誕生した

今回の散策コースはこのようになる

ちょっと寄り道が多いが、線路は浜田公園から東明公園を通って石屋川駅に向かっていた。石屋川車庫という名前が付いているが、地図で分かる通り新在家駅の方が近い。線路付け替え前は地上に車庫があり、最寄りは新在家とされ、車庫の名称も新在家車庫もしくは東明車庫だった(調べると両方の名称が出てくる)

高架車庫には「阪神電鉄石屋川事務所」と記されている

こちらは事務所側から新在家駅方向の景色。高架下は以前は家電量販店だったが、現在は阪急系列のスーパーとなっている

合流地点へ

再び佃煮のお店に戻ると道路を挟んだ向かいは東明公園という長方形の公園で奥は保育園。経緯は分からないが、廃線跡はほとんどが公園もしくは学校や幼稚園などの公共施設となっていて民間利用は少ない。あくまで想像だが、廃線時は都会の一部としての町が出来上がっていて、線路跡の形が民間利用に不向きだったのだろう

ただしすでに高架化されていた石屋川駅との合流地点は趣が異なる

タクシー会社となっていて、形状は明らかに線路への合流地点である

そして石屋川駅に到着。当駅も石屋川をまたぐ形でホームがある

1995年の阪神淡路大震災で石屋川駅は石屋川車庫とともに甚大な被害を受けた。崩壊といってもいいほどの被害で車庫は再建まで1年以上を要した。震災で復旧に最後まで時間がかかったのは西灘~御影の主に線路付け替え部分だった。石屋川駅は2面2線構造から島式ホームに姿を変えている

当駅は普通のみしか停車しないが、車庫があるため始終着の設定があり、現在も早朝には当駅始発の普通が運行されているが、終電は2年前のダイヤ改正で廃止された。大阪からの終電は石屋川止まりで、普段は静かでロータリーもない駅周辺に深夜零時ごろからズラリとタクシーが並ぶ光景が見られた(先に行く客よりも寝過ごし客が主な利用者だった)が、今は御影止まりで車庫までは回送扱いとなったため、その姿も消えた

駅のすぐ北側は国道2号で空襲にも震災にも頑張った御影公会堂があり、食堂のオムライスとハヤシライスが有名である

記事は4回に分けたが実際に歩くと、ゆっくりでも1時間もあれば楽に歩けてしまう。道中には飲食店も多い。都会の廃線跡はあっという間に道路や住宅、店舗に転用されてしまうものだが、半世紀以上が経過しても、その痕跡をたどることができる。あくまでも廃線ではなく付け替えなので記念碑などはないが、初夏の過ごしやすい季節にちょうど良い散策路である

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今もくっきり残る阪神電車の廃線跡をたどる その3~線路上には小学校

※訪問は2024年4月15日

エポックを見越して造られた新駅

阪神の大石駅。大石駅は2面4線構造。線路の付け替えで都賀川の上にホームができた際に現在の形となった。なぜ2面4線構造になったかというと1968年(昭和43)に山陽電車の乗り入れが始まったからだ。この昭和43年というのは神戸市の鉄道にとってはエポックな年で、神戸高速鉄道が開業。山陽電車と阪急、阪神が線路でつながった。山陽電車は元々、兵庫駅がターミナルそして国鉄(当時)との連絡駅となっていて、姫路方面から来ると、神戸市中心部のやや手前で線路が終わる形になっていたが(戦前までは神戸の繁華街の中心は新開地だったので新開地まで徒歩圏内の兵庫駅が終点でも正しい姿だった。兵庫駅前には山陽電車の廃駅跡を思わせるものはほとんど残っていない)、神戸高速鉄道という第三種事業者によって三宮まで乗り入れることが可能となった。その頃は三宮が神戸の中心になっていたので山陽電車は三宮まで入れることになったのだ

ただ姫路から山陽電車の特急が乗り入れることが可能にはなったが、阪神、阪急ともにホームは手狭で、そもそも大阪側へと折り返す態勢はあるが、姫路方面へと折り返す態勢はなかった。そこで選ばれたのが阪急は六甲、阪神はここ大石だった。姫路発の山陽電車の特急は阪神、阪急ともに三宮が終点ではなく、六甲と大石のどちらかに向かう形式をとっていた。つまり山陽電車で三宮にやって来ると乗る電車によっては阪急か阪神か、どちらかの三宮駅で下車するというユニークな形となっていた。ちなみに山陽電車の特急は三宮から東は阪急、阪神ともに各駅停車だったが、阪神の西灘駅だけは規格が異なるということで山陽電車の普通も通過していた時代があった

大石駅の現位置への移転は1967年で神戸高速鉄道開業の1年前。山陽電車の当駅折り返しを見越しての2面4線構造だった。しかし、その後に山陽電車が原則時に乗り入れを三宮までとし、特急については姫路から大阪までの阪神の直通特急にほぼ一本化。朝のラッシュ時に停車していた阪神の急行については、急行という種別の電車がこの区間で消滅したため普通のみの停車となった。つまり2面4線の設備そのものが不要となったわけだが、今も山陽電車の一部はこの設備を利用して当駅で折り返す。ただし客扱いはせず回送扱いである

線路の延長上には小学校があるが

都賀川を西側から見ると、一部が石積みではなくコンクリートであることに気付く。この部分はかつて阪神電車の橋脚があった場所とも思えなくもないが、線路が付け替えられたのは50年以上も前の話でコンクリートが妙にきれいすぎる。実は、この付近が散策でちょっとしたナゾだった

今回紹介するのは、この徒歩コースだが廃線跡らしいコース上に小学校そして幼稚園がある。写真で分かるように、校舎の形がいかにも線路の場所に建てましたという形をしていて私も長年、そう信じていたのだが、神戸市立西郷小学校のHPによれば、明治31年(1898)に「現在地に新校舎完成」とある。当時は神戸市ではなく大石村。その後、付近が西郷町となって西郷尋常小学校に。ちなみにHPを見ていて自分の無知に驚いたのは西郷町が神戸市に編入されたのは1929年(昭和4)だということで、結構最近のことだった

その後の歴史では1963年の国道43号開通、1970年の阪神高速道路開通は記されているが、校舎の全面改築開始が1988年とあるだけで阪神電車の線路付け替えによる校舎の変化は書かれていない

ただし小学校と幼稚園を過ぎると現れる東町公園は地図の形状で分かる通り、明らかに廃線跡に設けられた公園である

旧新在家駅の跡へ

「いかにも」の遊歩道を歩いていく。新しいマンションの建築中のようだが、マンションの間にある廃線跡というのがミスマッチである

やがて廃線跡の先に阪神高速が見えてきた。阪神高速と国道43号はセットになっているので、廃線跡は国道43号に合流することになる

ここで廃線跡が一度消える

なぜかというと新在家駅が国道43号の拡張に場所を提供したためだ。このあたりが利用された場所だと思われるが、当然ながら道路があるだけで痕跡はない。国道43号は手狭になった国道2号のバイパス線でもあるが、この頃は社会全体がモータリゼーションに突入している時期で、後に国道43号の騒音が社会問題になるとは思われていない

新在家の交差点に到着。奥に見えるのが現在の新在家駅である

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今もくっきり残る阪神電車の廃線跡をたどる その2~グラウンドと横長の公園

※訪問は2024年4月15日

公園の姿で一目瞭然

阪神電鉄は本線と阪神なんば線、武庫川線の3線からなり、すべて合わせても50キロに満たず、いわゆる大手私鉄では長らく最も短い営業キロだった(1990年に相模鉄道が大手私鉄となり、わずかに阪神が上回る)。そのため廃線区間も少ない。路面電車を除くと完全に廃線となったのは武庫川線の武庫川駅(西宮市)以北と出屋敷駅(尼崎市)から出ていた海岸線の2路線ぐらいだが、ともにわずかな距離しかない。今回歩いたのは付け替えルートで廃止になった駅があるわけではなく(初代の新在家駅は廃駅となっているが、それは昭和初期の話)、厳密には廃線ではないが、それでも貴重な遺構といえる

前回記事で最後に掲載した西灘駅東側の、かつての線路コースを歩くとすぐにグラウンドに出る。これは西灘公園の一部のようだが、この先の地図を示すと

まさに一目瞭然。スタート地点が、かつて地上を走っていた分岐点で、グラウンドだけでは分からないが、その後の西灘公園の横に長い形は、くっきりとかつて線路が走っていたことを示している。それにしてもグーグル地図での表示がわずか7分。駅間は短い

グラウンドを抜け(正確にはグラウンドを突っ切るのではなくグラウンド北側の小径を歩いた)、道路を挟んだ西灘公園の入口に到達。いかにも「廃線跡でございます」の風情。振り返ると

グラウンドはこのような感じで見える。道路を挟んだ両側の階段はちょうど向かい合わせだ

震災の慰霊碑

公園内を進む。もう1週間早く訪れれば写真的には桜で彩られていたかもしれない

やがて

公園の小径は広くなる。この幅は、駅があったためだと想像できる。かつての大石駅跡地だろう。この付近も1995年の阪神淡路大震災で甚大な被害があった場所で

亡くなられた方の慰霊碑がある。震災から来年で30年。つまり震災後に生まれた方も30歳になる。神戸市内の公園には所々で震災に関連した碑を見かけるが、歳月を感じてしまう

公園を出ると都賀川に到達して広い道路に出る。道路の北側には現在の大石駅。1905年(明治38)と120歳になろうとしている駅だが、現在の高架ホームは川の上にある。各地の川の上にある駅が珍しいとされるが、阪神だと有名な武庫川駅以外にも芦屋駅、香櫨園駅が川の上にホームがある。10代のころから、ずっとそんな景色を見ていたので珍しいという感覚がない

この後、都賀川を渡って新在地駅へと向かう

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今もくっきり残る阪神電車の廃線跡をたどる その1~西灘からスタート

阪神の西灘駅の駅名板

※訪問は2024年4月15日

かつての路面電車乗り継ぎ駅

こちらは国道2号の西灘交差点。奥が芦屋方面で手前にある阪神の西灘駅を超えると国道43号との合流点と阪神高速の摩耶ランプがある。合流点は43号の終点でもある岩屋交差点だが、三宮方面から車で来ると、道なりで進むと43号に入ってしまう形となっている。これが今回の散策のポイントにもなっているのだが、それに関しては後述する

阪神の西灘駅。この日はJRでやって来て摩耶駅から歩いた。その間はビッシリ住宅街で初めて降りるとさっぱり分からないかもしれないが、摩耶と西灘、この両駅は極めて近く徒歩5分ほど。西灘駅の誕生は1927年(昭和2)で摩耶駅は2016年(平28)と、ついこの間だが、大阪へは摩耶駅の方が利便性が高く、利用客を奪う形となっている

摩耶駅の誕生もあって西灘駅は神戸市内の阪神の駅では利用者は住吉に次いで2番目に少なく1日の利用者は3000人にも満たないが、かつては1枚目の写真の国道を阪神国道線という阪神電鉄の路面電車が走っていて、私が小学生の頃は西灘が終着駅で、乗り換え駅だった(当駅付近は1974年に廃線)。もうひとつ西灘駅について説明すると、阪急にも西灘駅があって現在の駅名は王子公園。私の高校時代は西灘駅だった。ただし阪急の西灘駅に対応する阪神の駅は岩屋駅で、このあたりはちょっとややこしい

今回は、ここから阪神電車の廃線跡をたどりことにする。三宮からわずか3キロ。都心部の廃線は、そう例は多くないが、正確に言うと線路の付け替えである。阪神の神戸三宮駅は地下で2駅目の岩屋が堀削駅となっていて、続く西灘駅までの間に地上に姿を現し、ここ西灘から高架となる

しかし以前は国道2号を高架でまたいだ後は地上を走っていた。1967年に西灘~石屋川が高架化された。4歳のころだから、私には記憶がない。半世紀以上も前のことなので、おそらく人々の記憶からもほとんど消えているだろう。都会の廃線というのはあっという間に住居や施設に変わってしまうので痕跡を探すのも容易でなくなるのだが、実は石屋川までの3区間は、しっかり廃線跡が残されているのだ。今回はそこを散策する

徒歩の前に腹ごしらえ

3区間といっても阪神の駅間距離は短く、この付近は線路で1キロにも満たない駅間が並んでいて、西灘から石屋川まで線路だと2・5キロ。線路を歩くわけにはいかないので若干遠回りになるが、それでも大した距離ではない

今回の徒歩コースはおおよそこんな感じとなる。阪神の線路は現在の高架線から南側を走っていた。特に新在家駅は現在の国道43号に食い込んだような場所に駅があり、駅の跡地は道路の拡幅に利用された。散策のポイントとなると記したのは、このためである

西灘駅のすぐ東側にはこのようなスペースがある

奥に見えるのが西灘駅。どう見ても、ここから線路が地上に降りていた跡

その延長上に民家が並んでいて分かりやすい

ここから廃線跡巡りとなるわけだが、時間はちょうどお昼どき。付近は住宅街だが、廃線跡を回るのなら、ぜひ来てください、と言わんばかりの位置にスシローがある

腹ごしらえをして改めてスタートである

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