高森駅

復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~再度高森まで乗車し2日間の総まとめ

※訪問は2025年8月27日

週末にはカフェオープン

昭和初期からの駅舎が残る長陽駅の入口を入ると

駅舎内にはカフェがある。週末の営業。こうして沿線の駅を訪ねていくと週末は昼食や休憩に困らないことが分かる。「村」で食事に困らないのは貴重なことだ。逆に最も来てはいけないのは火曜日のようだということは、来て分かった(笑)

訪問した時は駅舎内で地元農産物の販売を行っていた

スポンサーリンク

残された古い駅名標

駅舎には古い駅名標が残されている。青地に白文字。思えば各地で標準形のものだったが、いつの間にか絶滅危惧種になっている。鉄道会社や管理を行う自治体の好意に頼っていて、三セク化した路線や駅の管理を自治体が担っている駅でしか見かけなくなりつつあるのが実情かもしれない

「たての」は従来のものだが、「かせ」については南阿蘇鉄道になって開業した駅なので「あそしもだ」だったようだ

ホームも従来からのものが、そのまま使用されている。ベンチも置かれていて、これはカフェ利用者も使えるようにしたものか

暑さに耐えられず

さて駅にたどり着いたのは9時すぎで、この後は立野経由で熊本市内方面へと向かうだけなのだが、次の立野行きは10時54分。加勢駅からの徒歩の際「次の列車まで2時間ある」と記したが、まさにその通り。最初はぼんやり待つ気でいたが、徐々に夏の猛烈な日差しが駅舎と周辺を包みはじめ、もうたまらん

実は9時50分の高森行きが、その1時間前にやって来て、この列車は高森で折り返し、当駅を10時54分発となる。つまり高森まで行って戻ってきても、最初に予定していた列車となる。となると答えはひとつ。列車はもちろんエアコン完備だし、高森駅は駅舎内にもエアコンが効いていて快適だ。そして私はまだ本日利用している旅名人きっぷにハンコをもらっていない。最初の肥後大津はドタバタしていてもらいそこね、南阿蘇鉄道の車内で尋ねると「最初に降りる駅員のいる駅でもらってください」とのこと。となれば、下手をすると豊肥本線へと戻ってきて、どこかの駅になるかもしれないと思っていたが、南阿蘇鉄道では唯一、高森駅なら駅員さんがいる

ということで高森駅で無事にハンコをもらい、そのまま立野まで折り返して熊本方面へと向かった。何度も利用している旅名人きっぷは、九州内のJR以外の路線が、ほぼ乗り放題となるきっぷで、大変愛用させていただいているが、JR以外の駅でハンコをもらう機会はなかなかなく、松浦鉄道以来かもしれない

高森駅の紹介で「翌日にも訪れた」し記したのは、こんな事情からだった

こうして南阿蘇鉄道の全駅訪問は無事に終了。初日の奇跡があったおかげで2日目の午前中には達成することができた。早着したおかげで白川水源の観光もでき、美味しい水も味わうことができた。心残りは高森の湧水トンネル公園に行けなかったこと

繰り返しとなるが、観光の村、観光の町ということもあって路線内では食事にはあまり困らない。次回は週末に訪れてみたい

こちらは長陽駅の南阿蘇村マップ。村以外の場所も描かれているが、まだ訪れたことのない草千里はこんなところにあるんだと、あらためて思う。鉄道ブログでこのようなことを書くのも妙な話ではあるが、あらためてドライブでの沿線巡りもしてみたいと思ってしまった

国鉄末期は1日わずか6往復だった高森線は南阿蘇鉄道となって本数を大幅に増やし、駅舎も改修した。再出発の路線は熊本地震そしてコロナ禍によって鉄道だけでなく、観光の街である沿線も大きな被害を受けたが、今は新たな再出発をしたばかりである

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります



      </section data-src=

復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~路線の顔役は唯一の有人駅

※訪問は2025年8月26日

全線復旧直前に新装

高森駅である

現在の駅舎は3代目。国鉄時代は1928年(昭和3)の開業からの木造駅舎が長らく使用されてきたが、1986年の三セク移管直後に時計台のある駅舎に全面改修。施設の老朽化と熊本地震による被災もあったことで建て替えとなり、震災からの全線復旧となった2023年に現在のものとなった。つまりまだピカピカの2年目

スポンサーリンク

本社の所在地

開放感のある駅舎内はエアコンも完備。休憩スペースには充電コーナーもある。南阿蘇鉄道が入居する路線内唯一の有人駅。乗車券の販売も行うが、改札業務は列車の乗務員が行うため、外からダイレクトにホームに入ることも可能で開放感が漂っている

なお言い忘れたが、私は翌日にも高森駅を訪れている。その事情は後の記事で紹介するが、駅の内外の写真については2日分が混じっていることを了承願いたい

駅の外には

ワンピースのフランキー像。大変な人気者で撮影の人が絶えなかった。もうひとつの人気は

ワンピースのキャラクターによるサニー号トレイン。こちらもカメラの放列。ワンピースの作者尾田栄一郎さんが熊本出身という縁で全線復旧となった2023年から運行を開始。主に週末に運行されていて私が訪れたのは平日だったので留置線で休憩中だった。1日1往復と2往復の日があり、2往復の場合は1往復が全席指定となり、指定席料金510円が必要。それ意外の便は全席自由席で乗車券のみの追加料金不要となっている。運行日など詳細は南阿蘇鉄道HPを参照していただきたい

また車窓からキャラクターを探すという企画も行われていて、南阿蘇白川水源駅での記事で紹介したキャラクターはそのためのもの

この車両は定期運行での運用に入ることもあるそうで密かに楽しみにしていたが、残念ながら私の2日間で出会うことはなかった

広大な敷地

サニー号トレインの写真で分かるように国鉄以来の路線の顔として広い敷地を有する

靴を脱いで入る交流施設は展示コーナーのようになっていて

九州内の三セクからの全線復旧を祝う声が届き

アニメの人気キャラも再開を祝っていた。2016年4月の熊本地震から2023年7月の全線復旧まで7年もの歳月を要した。地方の鉄道がこれだけの空白期間を経て復活するのは現在では、なかなか貴重なことである

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります



      </section data-src=

復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~不自然な弧を描いて入線する終着駅

※訪問は2025年8月26日

終着駅のいつもの感慨

終着駅の高森に到着。全国どこでもそうだが、国鉄由来の終着駅には旅愁が漂う。旅情というより、ここから先に線路はないという旅愁だ。国鉄が全国に線路網を伸ばしていく際、機回しの面倒もあって、港へ向かう路線以外はできるだけ終着駅は設置しない方針で敷設されていった。弊ブログでも各地の路線を紹介する度に触れてきたが、現在残るいわゆる「盲腸線」のJRや三セク路線の多くは、結果的に延伸をあきらめた未成線であることが多い

行き止まりなので利用客は制限される。地方の路線では苦戦が続く。結果的に多くの路線が廃線になったり三セク転換されている。「本当はこの先にも線路が伸びていて…」そう感じるからの旅愁かもしれない

スポンサーリンク

路線名にもなった駅

南阿蘇鉄道が運営する路線は1本のみのため、記事でもずっとその名を使用しているが、正式な路線名は「南阿蘇鉄道高森線」である。国鉄の高森線を引き継いだためのもの

高森線の線路は1928年(昭和3)に立野から高森までやって来た

こちらは立野駅のホームにあるイラストだが、阿蘇山を囲むように敷設されていることが分かる。豊肥本線と高森線が計画され、豊肥本線は大分へ高森線は高千穂を経て宮崎県の延岡へとつながる予定だった。ただ豊肥本線は高森まで線路が到達した1928年に全線開業したのに対し、高森線と接続予定の高千穂線は1935年の一部開業から戦争をはさんでジワジワと延伸が続けられ、1972年に高千穂まで到達。以降も高森まで延伸すべく工事は続けられたものの、県境を越える長大トンネルを造ることができず、それぞれ高森、高千穂が終点の盲腸線となってしまった

その原因はトンネルを掘る際の出水事故である

現在は高森湧水トンネル公園というとても分かりやすい名前の公園となっているが、元々はこのあたりに高森駅を設置し、高千穂に向けて延伸されるはずだったが、高千穂到達の後に始められた7キロ近い長大トンネルの工事中に相次ぐ出水事故があり、1980年に工事は中断。1985年正式に工事の凍結が決まった。1985年といえば、国鉄からJR移管(1987年)の目前。というか1984年にはすでに三セク移管が決定していた

1970年代というのは鉄道にとっては不思議な時代で、赤字ローカル線が各地で姿を消す一方、果たして採算がとれるのかという路線の工事が着々と続けられた時代でもあったが、工事凍結が1985年と知った私も今、この記事を書きながら少し驚いている。もっと早く断念したのかと思っていた

この公園は今、高森町の名所として多くの人が訪れる場所となっているが、工事凍結は思わぬ結果をもたらした

南阿蘇鉄道は、この公園のあたりで大きく弧を描いて高森駅へと向かっているが、これは最初の開業時に「いずれ延岡へ延伸されるが、それまで暫定的に街の中心部に駅を置いておこう」という理由で現在地に駅が設置されたもの。延伸されると高森駅は湧水トンネル公園近くであらためて開業される予定だった。普通は街外れを覚悟で駅を設置する。そもそも各地の国鉄駅は街外れにあることが多い。約100年近く前に将来のムダを覚悟で線路を不自然な形でよくぞ敷設したものだと感心してしまうが、別な視点だと1928年のトンネル技術では、全線開業は相当先になると考えたのかもしれない。このような経緯で街の中心部にやってきた線路は、恒久的に現在地で営業することになったのである

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります



      </section data-src=