※訪問は2025年6月7日
今回の旅の終着駅
鮎貝駅から約30分で今泉駅へと到着

当駅はJR米坂線との分岐駅。ここで乗り換えて米沢に出るのでフラワー長井線とはお別れ、つまり最後の駅となる。クラシックな乗換案内があるが「小国 坂町」方面については番線の数字が隠されている。米坂線は現在、豪雨被害によって坂町方面が運休中だ
大正期からの木造駅舎

今泉駅は1914年(大正3)の開業。当時からの駅舎が健在だ。駅名標を見て分かるように管理はJR東日本。山形鉄道の社員はいない。自動券売機が置いてあるだけ。アンバランスとも思えるような巨大な駅名板は国鉄からの移管後、一時的に全国で流行った。新生JRをアピールするためのものだったのか、今となっては不明だが、このサイズの駅名板も徐々に姿を消しつつある
管理はJR東日本で山形鉄道はあくまで共同使用駅という形をとっているが、国鉄時代は所属路線は長井線だった。というのも長井線の方がわずかに先に開業したからだ。長井線が長井駅まで延伸され、途中駅の今泉駅が開業したのは1914年(大正3)。米坂線の開業はその2年後。三セク移管により長井線がJRの駅ではなくなったので、米坂線の駅となった。西大塚、羽前成田と開業時からの駅について紹介してきて、その度に開業時から残る駅の数について微妙な表現をしてきたが、それは今泉駅が山形鉄道の管轄ではないからだ
ただしJRの管轄となっていることで別の側面も残った

当駅はみどりの窓口が残る直営駅である。それは運行において重要な駅となっているからだ
14年前に当駅で待ちぼうけ
米沢からやって来た米坂線と赤湯からの長井線は今泉で合流。その後、再び別れるのだが、「別れ」にはちょっと事情がある
地図が分かりやすくなるよう車での移動ルートを掲載してみたが、見ていただければ分かる通り今泉を出た両線は、かなり長い区間同じ線路を走り川を渡ってからようやく二手に別れる。つまりこの区間はかつては両線、現在は両会社が共有していてしかも単線である。そのため今泉は(現在米坂線の列車は走らないものの)重要な駅となっている
この共有区間については強烈な思い出がある。データが残っているので2011年10月27日のことだ。米沢に宿泊することになっていた私は少し時間ができたので米沢~今泉を往復してみることにした。米坂線はこの日が初乗車。ダイヤ的によい感じの滞在時間で米沢駅へと戻れることになっていた-はずなのだが、今泉で下車したところ思わぬトラブル。この共有区間でフラワー長井線の列車が故障して動かなくなってしまったのだ。共有区間を塞いだ形になっているので米坂線も運行できない。しばらくすると「救出された」長井線のお客さんたちが今泉まで戻ってきた。それからかなりの時間を経て両社のお客さんはそれぞれの会社が手配した車で各地を目指した。米沢へは緊急の代行バスが準備され、各駅を訪問。米沢という町は駅と中心部がかなり離れている。私は中心部のホテルを予約していた。代行バスは鉄路とは異なり、その中心部を通るがそこにJRの駅はないため街並みを眺めながら通過である。すでに真っ暗の中「ここで降ろしてくれ」と心の中で叫んだことを昨日のことのように覚えている。なお写真については跨線橋から遠くに見える故障車両を撮ったが、豆粒すぎて何のことやら分からないので掲載見送りである
クラシックなたたずまいと現実

右が米坂線、左がフラワー長井線の車両。2022年の豪雨被害で、米坂線は現在今泉~米沢のみの運行となっているが、両線の接続は考慮したダイヤとなっているようだ

ホーム内特に長井線側には現在も古いものが残されて番線の行先案内はホーローのものが健在だ。大正期の雰囲気をそのまま残している一方で、現実に戻されるものもある

こちらはJRの時刻表。今泉から先、米坂線の列車は長期運休中。今後の形をめぐって話し合いが続いている

こちらは長井線ホームでの案内。国鉄時代の英語での番線案内が残されているが、坂町方面の番線は塞がれている。奥にはフラワー長井線の時刻表があるが、減便ダイヤとなった列車については線で消されている。大正、昭和から一気に令和に戻されたような思いを胸に米沢へと向かった。状況が好転することを祈りたい


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