復旧の南阿蘇鉄道にようやく初乗車~不自然な弧を描いて入線する終着駅

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※訪問は2025年8月26日

終着駅のいつもの感慨

終着駅の高森に到着。全国どこでもそうだが、国鉄由来の終着駅には旅愁が漂う。旅情というより、ここから先に線路はないという旅愁だ。国鉄が全国に線路網を伸ばしていく際、機回しの面倒もあって、港へ向かう路線以外はできるだけ終着駅は設置しない方針で敷設されていった。弊ブログでも各地の路線を紹介する度に触れてきたが、現在残るいわゆる「盲腸線」のJRや三セク路線の多くは、結果的に延伸をあきらめた未成線であることが多い

行き止まりなので利用客は制限される。地方の路線では苦戦が続く。結果的に多くの路線が廃線になったり三セク転換されている。「本当はこの先にも線路が伸びていて…」そう感じるからの旅愁かもしれない

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路線名にもなった駅

南阿蘇鉄道が運営する路線は1本のみのため、記事でもずっとその名を使用しているが、正式な路線名は「南阿蘇鉄道高森線」である。国鉄の高森線を引き継いだためのもの

高森線の線路は1928年(昭和3)に立野から高森までやって来た

こちらは立野駅のホームにあるイラストだが、阿蘇山を囲むように敷設されていることが分かる。豊肥本線と高森線が計画され、豊肥本線は大分へ高森線は高千穂を経て宮崎県の延岡へとつながる予定だった。ただ豊肥本線は高森まで線路が到達した1928年に全線開業したのに対し、高森線と接続予定の高千穂線は1935年の一部開業から戦争をはさんでジワジワと延伸が続けられ、1972年に高千穂まで到達。以降も高森まで延伸すべく工事は続けられたものの、県境を越える長大トンネルを造ることができず、それぞれ高森、高千穂が終点の盲腸線となってしまった

その原因はトンネルを掘る際の出水事故である

現在は高森湧水トンネル公園というとても分かりやすい名前の公園となっているが、元々はこのあたりに高森駅を設置し、高千穂に向けて延伸されるはずだったが、高千穂到達の後に始められた7キロ近い長大トンネルの工事中に相次ぐ出水事故があり、1980年に工事は中断。1985年正式に工事の凍結が決まった。1985年といえば、国鉄からJR移管(1987年)の目前。というか1984年にはすでに三セク移管が決定していた

1970年代というのは鉄道にとっては不思議な時代で、赤字ローカル線が各地で姿を消す一方、果たして採算がとれるのかという路線の工事が着々と続けられた時代でもあったが、工事凍結が1985年と知った私も今、この記事を書きながら少し驚いている。もっと早く断念したのかと思っていた

この公園は今、高森町の名所として多くの人が訪れる場所となっているが、工事凍結は思わぬ結果をもたらした

南阿蘇鉄道は、この公園のあたりで大きく弧を描いて高森駅へと向かっているが、これは最初の開業時に「いずれ延岡へ延伸されるが、それまで暫定的に街の中心部に駅を置いておこう」という理由で現在地に駅が設置されたもの。延伸されると高森駅は湧水トンネル公園近くであらためて開業される予定だった。普通は街外れを覚悟で駅を設置する。そもそも各地の国鉄駅は街外れにあることが多い。約100年近く前に将来のムダを覚悟で線路を不自然な形でよくぞ敷設したものだと感心してしまうが、別な視点だと1928年のトンネル技術では、全線開業は相当先になると考えたのかもしれない。このような経緯で街の中心部にやってきた線路は、恒久的に現在地で営業することになったのである

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