2024年 11月 の投稿一覧

成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~いったん消えた雪が再び

姨捨駅ホームからの眺め

※訪問は2024年3月6日

姨捨で車窓が一変

話はこの続き

新潟県の長岡あたりから長野県に入っても続く雪は飯山駅の横殴りの風雪である意味ピークを迎えたが、新幹線で1区間、長野駅に到着するとすっかり消えていた

随分と気候が違うのだと感じる

手には信州ワンデーパス。こちらもまた、なかなか使えるきっぷで特急券だけ別に買えば在来線はもちろん、新幹線にも乗ることができる。今日はこの後、篠ノ井線の駅訪問をしつつ、松本で宿泊予定となっている。今日は信州ワンデーパスのお世話になり、明日は前日に新潟駅で購入した青春18きっぷの2日目利用とするつもり(ちなみにこの春の18きっぷは、最後は芸備線そして福塩線でフィニッシュとなった。すでにルール変更が発表されていて、このように振り返るとややむなしさを感じてしまう)

実は道程については、あまり深く考えていなかった。時刻は11時前。篠ノ井線は幹線でありながらも篠ノ井~松本の普通本数は決して多くはない。ゆっくり回ると、あっという間に夕刻になってしまうはずだ

川中島駅。道路は濡れているが雪はない。想像するに雪は降ったが、c川中島駅。道路は濡れているが雪はない。想像するに雪は降ったが、そう多くはなくすぐに溶けてしまったのだろう

スマホで電車の時刻などを確認していると「おばすて」の声が聞こえる。ご存じ、日本三大車窓のスイッチバック駅だ。数え切れないぐらい来ているが、やはり車窓に目が行ってしまう。するとそこは

「ええ~っ」の光景。いつの間にか豪雪に戻っている

雪の姨捨駅は初めてだが、これは美しい。そしてやや分かりにくいかもしれないが、左側(長野側)奥の部分に注目。そのあたりは雪がない。対して右側(松本側)は雪。積雪の境目となっている。積雪の境界を肉眼で見たのはもちろん初めて。これは貴重な体験だった

雪の松本駅前から歩き始める

ただ貴重な体験をしたのはいいとして、となると松本の状況は、ということになる

独特のアナウンスとともに松本到着。駅の外に出るのは十数年ぶり

駅はまさに銀世界。時刻はすでに12時半を回っている。十日町からやって来たので、すでにフリーパスの元はとっているが、まだまだホテルのチェックインすらできない。車窓から気になるというか、以前から気になっていた駅が見えた。大糸線の北松本駅。洗馬と同じく「大都市近郊区間逃れ」の駅として同業者(鉄道ファン)の中では知名度が高い。この駅は篠ノ井線の線路が目の前を走っているのに大糸線しかホームがない駅で、よけいに目立つ

地図で見ると松本からそう遠くはなく、徒歩でも十分行けそうだ

アルプス口は初めてである。多くの人出にぎわう、お城口とは雰囲気が全く異なる

まさに「足下が悪い」のだが、歩き始める。思えば、これが大糸線の全駅訪問の第一歩となったわけだが、この時はそのようなことは全く考えていなかった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

塩尻駅の旧駅舎跡はハロウィーンでにぎわう街の中心部にありました

塩狩駅の駅名標

※訪問は2024年10月26日

貴重な特急も乗継割引廃止の余波で

朝8時半すぎの名古屋駅在来線ホームでの朝食はきしめん。これはこれで十分美味だが、乗継割引の影響はこんなところにも出ている。少し前なら割引分で千円以上の駅弁を食べられたのだが

9時発の特急「しなの」乗車。本日は10両編成というサービス編成だが、2日前に指定席が満席だということを知り、いずれにせよ2両しかない自由席の列に並ぶ。駅員さんも複数で自由席の案内。8時45分から並んで何とか通路側の座席を確保。多くの立ち客をデッキに積んで名古屋駅を出発。ちなみに途中駅でポツポツ下車があり、塩尻到着時は全員が着席できていた。ちょっと不思議だったのは、多治見や中津川でも下車があったこと。私より前に並んでいた人だったので、少なくとも20分はホームで待っていたことになるが、20分もホームで立っているなら在来線の快速なり普通に乗った方がいいのでは?

ただ私も過去数え切れないぐらいしなのに乗車しているが、しなのの自由席の混雑具合というのは年に数回の乗車では全く想像できない。今回は8両もある指定席が満席だったことで想像できたけど

約2時間で塩尻到着。当駅からJR東日本の区間に入るので必ず行われる運転士と車掌さんの引き継ぎ儀式。しなのという列車は名古屋と信州を結ぶ幹線らしい特急だが、長野~松本という県内の重要な移動も担う列車にもなっている。だからこその1時間に1本という頻発ダイヤだが、この区間は完全なJR東日本エリアでありながら、特急車両はすべてJR東海という貴重な乗り物にもなっている

スポンサーリンク

今のうちに見ておこう

塩尻駅には、ここ2、3年の間にも散々来ているが行ったことのない場所がある。旧駅跡だ。先に地図を示すと、この位置となる

1982年(昭和57)まで駅は地図で示されたロータリーの位置にあった。点線のように描かれているのが今も残る線路だが、旧駅のあたりの線路が多いことが分かる。そして中央東線と中央西線を結んでいる短絡線が、かつての中央本線だった。現在は中央東線と中央西線を直通しようとすれば、必ず塩尻駅でスイッチバックを強いられるが、駅移転までは中央本線の東西はそのままスルーできて、名古屋方面から松本方面に行こうとすれぱ(特急しなののコース)、塩尻駅でスイッチバックする必要があった

残った旧線は臨時列車や団体列車に使用されてきたが、今はほぼ使われていない。廃止の話もある。だったら今のうちに見ておこうと今回の訪問となった

駅前ロータリーを右に向かい、突き当たりを左へ折れると街がにぎやかになってきた。銀行があり商店街がある。このあたりが塩尻の中心部だということが分かる

それにしても人が多い。家族連れが目立つ。週末ということもあるのだろうが、何やら仮装ムード。この時点でも塩尻旧駅しか興味のない私は何のことやら理解していなかったが

先の道路が通行止めの歩行者天国となっていることで、ハロウィーンイベントだということをようやく理解した次第

そして通行止めとなっている大門八番町の交差点を右に折れると、そこに見えたのが

時計とロータリー。これは分かりやすい。どう眺めても駅前ロータリーの跡地だ

住所は大門一番町の1。駅の住所が1丁目1番地というのは、よくある事例だが、こちらも例に漏れなかったようだ

駅近くには、いわゆる駅前旅館があり、郵便局もある。商店街の近さから、駅が街の中心部にあったことが分かる

東線と西線がスルー構造だった理由

近づけるところまで近づくと、ここが貨物ホームのあったと思われる場所。旧駅付近の線路は貨物機関区となっている

特急「あずさ」が通過していった。旧駅の様子は中央東線に乗っているとよく分かる

踏切はもちろん渡れないが、奥に見える斜めにカーブしている架線が短絡線

現在というより、駅移転のかなり前から中央東線と西線を直通する定期列車は時刻表から消えていた。手元に1978年10月の時刻表(復刻版)がある。特急しなのはすでにあったが、新宿から松本へ向かう東線の特急あずさは塩尻通過列車があったにもかかわらず、しなのについてはスイッチバックの関係で全列車停車である。しかも塩尻駅では5分以上の停車を強いられていた

なぜ同じ中央本線なのにこのようなスイッチバック構造が生まれたかというと、長野から塩尻まで篠ノ井線を経由しての東京方面行きが中央本線だったのだ。長野と東京を結ぶ路線を信越本線と、もうひとつ設けようという目的だった。塩尻駅の開業は1902年(明治35)と古いが、松本から延伸された現在の篠ノ井線の終着駅だった。その後、岡谷からの線路(旧線)がつながった。現在の中央西線の登場は、さらに後。要は長野から松本を経由して東京へと向かう線路が先にできたので、松本から名古屋方面は塩尻でスイッチバック構造になった。名古屋までの全通を機に中央本線と篠ノ井線という路線名が付けられ、東京からだと松本へも名古屋へもスイッチバックなしで行けるようになっていた

ただ東京方面からも名古屋方面からも主要客は松本や長野を目指す。需要とは異なる不便なスイッチバックだったが、ずっと残っていた理由のひとつは中央本線が東海道本線のバイパス的な役割を担っていたため。日本の大動脈である東海道本線でトラブルがあった場合、旅客輸送も貨物輸送もストップしてしまう。そのための保険として中央本線は東西がスルー運行できるようになっていた。ただ東海道新幹線の開通によって、バイパスとしての存在感は薄れ、定期列車もなくなった

旧駅からの新駅まで、歩行者は線路沿いに歩いていくことができる。こちらが近道だ。現在、東西からの貨物列車も塩尻駅ホームに入る運行となっている。近年、わずかに短絡線を結ぶ臨時列車の運行があったが、ここ数年は運行されていない。短絡線の存在意義も薄れている

駅へ戻って気付いたのだが、改札近くの窓もズラリとハロウィーン仕様だった

旧駅跡は塩尻駅から徒歩10分もかからない。機会があれば、ぜひ訪れてみてほしい

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

中央西線の駅をすべて訪問してみよう~1カ月遅れで本当のゴール 初めて知った「木曽」

日出塩駅の駅名標

※訪問は2024年9月8日

1駅の積み残し

青春18きっぷを利用しての中央西線各駅訪問から1カ月。無事に全駅を訪問した…はずだが実は1駅だけ回収しきれていない駅があった。塩尻の2駅手前の日出塩である。これは8月の時点で分かっていたことだった。自分の立てた旅程だと、どうしても贄川と日出塩のどちらかに行けなくなる。ちょっと迷ったが、洗馬から塩尻市のコミュニティバスに乗車する際、下車するのは「贄川駅前」か「日出塩上」のどちらか。これは当該記事でも書いたが、乗下車するなら「贄川駅前」の一択でもある。「○○駅口」や「○○駅上」という停留所は、駅から離れていることが多い。こういう時は無難な方を選択する

もともとはあまりの暑さに2024年夏の青春18きっぷは購入しない予定だった。それが9月上旬に全く別件で長野に行くことになり、ならば18きっぷを買ってみるか、となった次第。つまり9月の予定が入ったからこその8月の中央西線だったのだ。後から出てくる話だが、18きっぷの期限は10日で残り3回の権利を持っていたこの日が8日。強制的に今日から3日間は18きっぷの旅となる

日出塩訪問の後は篠ノ井線を北上して篠ノ井で下車するつもり。日出塩に立ち寄った後は後戻りするのではなく前身あるのみなのだが、ここで懸案事項がある。前夜は春日井に宿泊(名古屋のホテルが満員だった)し、8月と同様に6時13分に名古屋を出る中津川行きに乗車すると松本行きに接続して日出塩まで連れていってくれるのだが、先に当駅の時刻表を披露すると

このようになっている。日出塩到着が9時33分。その場合、次の塩尻行きは2時間以上後の11時42分で、ちょっと空きすぎだ。最初はそれでもいいと思っていた。なぜなら8月にコミュニティバスに乗車した際、日出塩と贄川の間に「これより木曽路」の石碑があることを知ったからだ

日出塩駅から徒歩約30分。ちょうど良いではないか。行って帰ってこよう、9月になれば暑さも多少は和らぐだろう、と考えていた。だが直前になっても暑さは相変わらずで、いくら標高800メートルとはいえ往復1時間歩くなんて絶対無理となった。そこで、ややゆっくりめに宿を出て中津川から塩尻まで特急ワープし、塩尻から普通で折り返し10時58分に日出塩着、11時42分に再び松本方面へと向かうことに。これなら滞在40分ほどだ

簡易駅舎がお出迎えもしっかり残る「S7年」

と、そんな思いをしてたどり着いた日出塩駅は

ご覧の通りの簡易駅舎

一応、扉は閉まるようになっていて寒さはしのげるようだ。中央西線では簡易駅舎は今のところ珍しい存在で、中津川以北の今回のシリーズでは落合川と当駅のみである。以前は開業時以来の木造駅舎があったが、10年以上前に現在の形となった。駅の歴史は1913年(大正2)に洗馬と贄川の間に信号場として設置されたことに始まる。1926年に駅に昇格した

ただ駅には古い建物も残されている。駅舎と反対側の中津川方面ホームにある

木造の待合所には

昭和7年(1932)の財産票が張られていた

「国」でないことを初めて知る

駅は高台にあり、ふもとには公民館。2022年度の1日あたり乗降者数は16人で、中央西線では37駅(塩尻、金山をのぞく)中の最下位だが、案内で分かるようにお手洗いの設置はある

ということで無事に全駅訪問が完了。とても恥ずかしいことだが、60歳を過ぎるこのトシまで「木曽」という旧国があると思っていた。「木曽路」はあっても「木曽国」はない。各駅のことを調べているうちに初めて知った。このように駅巡りは年寄りに、さらなる勉強をさせてくれる

また多くの明治からの古い駅舎が今なお残るという事実もあらためて知らされた。これらの駅がいつまで残るかは分からない。旧中山道の宿場町にちなんだ駅は大丈夫という気はしないでもないが、これはあくまで私の楽観的予測だ。耐震性を持ち出されるとどうしようもないのが古い駅舎の宿命でもある。基本的には普通しか停まらない駅ばかりだが、明治を表す「M」の入った財産票とともに、その目に焼き付けてほしい

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります

中央西線の駅をすべて訪問してみよう~ゴールは事実上の長野県入口

南木曽駅の駅名標

※訪問は2024年8月7日

列車本数が大きく変わる

原野駅から南下して南木曽駅で下車。この間も電車で50分揺られた。駅で降りる度にまた50分移動を南北で繰り返していて生産性があるようなないような行動をとってきたが、もう北へ向かう列車に乗ることはない。ここがゴールだからだ

到着時刻は16時44分。朝6時13分に名古屋駅を出たのだから10時間以上が経過している。まずはこの日のダイヤが通常通り運行されたことに感謝である。6月の訪問ではダイヤ乱れがあって、予定が予定でなくなって困った。その時に学習したこともあってダイヤが乱れても対応できるように各駅を巡る度に30分以上の電車旅をした側面もあったのだが、とにかくホッと一息。安堵したのは無事に道程をこなせたことも大きいが、当駅から南は列車本数が増えるということもより大きい

これまでの記事でも書いてきたが中央西線は名古屋~中津川と中津川~塩尻(多くの列車は松本まで直行)で運行が分断される。と同時に中津川以南と以北で本数も大きく変化するが、本数が減る中津川以北でも岐阜県で最も北となる坂下そして南木曽と二段階で列車が減少する。つまり、南木曽まで来れば当駅発の列車もあるため名古屋方面そして新幹線経由での帰宅がほぼ確定となる。現行ダイヤでは当駅発の中津川行き普通18本のうち8本が当駅始発となっている。もっとも8本のうち5本は5時台、6時台のもので。これは坂下駅の項でも記した通り、2年前まで存在した早朝の南木曽発名古屋行きの名残である

元々は読書村

今さらだが「なぎそ」と読む「みなみきそ」ではない。コンクリート製ながらも観光地としての雰囲気を壊さないようにデザインが工夫された大きな駅舎を持つ。たまたまいなくなった時間に撮った写真だが、駅前にはタクシーが常駐している。駅前には商店や飲食店、土産店が並ぶ。中央西線で駅近くで、すぐ飲食店や商店が見つかるのは、他には木曽福島と奈良井ぐらいで、旅人には貴重な存在

駅周辺は中山道の三留野(みどの)宿が広がり、約4キロ離れた場所には妻籠(つまご)宿がある。妻籠宿へは当駅からの路線バスも発着していて観光客には当時の雰囲気が今も色濃く残る妻籠宿の方が人気があるようだ

駅は1909年(明治42)の開業。坂下から当駅まで岐阜県と長野県の県境を越え鉄路が入ってきた際に設置された。当時の駅名は宿にちなんで三留野駅。岐阜県側から入って長野県最初の駅は田立だが、田立駅は信号場としてスタートし戦後に駅昇格している。事実上、長野県の入口の駅となる。もちろん南木曽町の中心駅。長らくこの駅名が使用されてきたが、戦後の1961年(昭和36)に周辺の村が合併して南木曽町が発足。これに伴い1968年に駅名も南木曽に変更された

ちなみに駅の所在地は「南木曽町読書」。一体どう読めばいいのか戸惑ってしまうが、普通に「よみかき」。かつては読書村だった。明治初頭に「与川(よかわ)村」「三留野(みどの)村」「柿其(かきぞれ)村」の頭の3文字をとって「よみかき=読書」としたという

現在、駅は簡易委託化されている

観光案内所が入居する一部特急停車駅ではあるものの、窓口は無人の時間帯も多いが、昭和50年代を感じるステンレスの改札が残る

国鉄時代を感じる事務室の表示。そしてもうひとつ、これはぜひ注目してもらいたいのは跨線橋

いわゆる「団子鼻」の新幹線のイラスト。開業から長らく新幹線といえば、この顔つきだった。年代的に駅舎改築の時に描かれたものと思われるが、新幹線が近くを通るわけでもないのにわざわざ描かれている。それほど国鉄を象徴する乗り物だったのだろう

さぁ帰ろう。ダイヤ的には、たまたま特急が停車する時間だったが、手にある青春18きっぷをギリギリまで使用するため、数千円の出費は惜しんで、その後の普通で帰ることにする。中津川まで行けば、後は何とでもなる。帰宅は数時間後となるが、南木曽駅が長い1日の終わりだった

にほんブログ村 鉄道ブログへ

にほんブログ村 鉄道ブログ 駅・駅舎へ

↑2つクリックしていただけると励みになります