2024年 9月 の投稿一覧

わたらせ渓谷鐵道に初乗車~その4(意外な難読駅は郵便局との合築 路線概要も)

沢入駅の駅名標

※訪問は2024年6月15日

読みは「そうり」

大間々を過ぎると急に山深くなるわたらせ渓谷鐵道。大間々からググッと栃木県との県境まで乗車。沢入駅で下車する。「沢入」と書いて「そうり」と読む意表を突かれる難読駅。かつては東村にあったが平成の大合併で現在はみどり市

渡良瀬川を渡ったところに駅があり、川を挟んで集落が広がる

開業は1912年(大正元年)。現在の駅舎は三セク転換後に改築されたもの。三セク転換後、もうひとつ改められたことがある。開業から80年近く、当駅は「そおり」駅だった。地名は「そうり」だが最初に付けられた駅名が足尾鉄道→国鉄→JRとずっと維持されていた。地名と駅名の読みが微妙に異なる例は各地にあるが、JRだと日本中にある駅の、たった1駅の名前を変更するだけで、いろいろ面倒なことが起きるので、そのままというケースが多い。当駅も同様の扱いだったが、JRから切り離されたことで地名と同じ読みとなった

群馬県と栃木県の3自治体を通る

わたらせ渓谷鐵道は全長が44・1キロ。群馬県の桐生駅から栃木県の間藤駅までを結ぶ。平成の大合併があったおかげで通過自治体は群馬県の桐生市、みどり市、栃木県の日光市の3つしかない(ただし地形の関係で桐生市から出た列車はみどり市に入った後に再び桐生市に入り、またみどり市に戻るという形となっている)

多くの説明は必要ないだろうが、元は国鉄そしてJRの足尾線。足尾銅山の鉱山を運ぶために足尾鉄道という私鉄が1911年(明治44)から徐々に線路を延ばし1914年に全通させた。ただ鉱山は国策として重要ということで、わずか4年後に国有化された

足尾銅山については全盛期は国内の3~4割を占める全国一の銅産出地だった一方、日本で初めてとされる公害の地としても有名。足尾線も多くの鉱山物資を運搬する路線として活躍したが、やがて銅は掘り尽くされ銅山は1973年(昭和48)に閉山。その後も精錬事業は続けられたが、徐々に事業は縮小。足尾線も1984年に廃線対象となる第2次特定地方交通線の指定を受け、1987年に一度JRとなったものの1989年(平成元年)に第三セクターわたらせ渓谷鉄道となった。と同時に貨物輸送は完全に廃止。現在は地元の旅客輸送だけでなく観光輸送にも力を入れる路線となった。愛称、通称は「わ鐵」で沿線の各駅でもこの表記はよく目にする

郵便局と一体

話を沢入駅に戻そう

当駅には郵便局が入居している

訪問が週末だったこともあり、郵便局はお休み。過去何度か郵便局が入居している駅を紹介したが、こちらもあくまで入居しているだけで駅業務は行わない

駅舎は後らしいものだがプラットホームと待合室は登録有形文化財となっている。なぜか列車とかぶり、待合室単独の写真を見つけられなかった

ここからもう一度桐生方面へと戻る。時刻は12時半を回った。お昼の時間となっている。となると向かうは「あの駅」だろう

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今年も抜海で待っていた悲劇と稀有な体験~その2(こんな奇跡ってありますか)

※訪問は2024年8月27日

抜海駅百周年

「この先、豪雨のためしばらく停車します」の運転士さんのアナウンス(単行でお客さんは私を含め10人ぐらいだったので、アナウンスというより、ほぼ肉声である)

ということで、これからしばらくはお客さんたちによる朝5時台の「雨中抜海駅撮影会」となった。見た感じではかなりのお客さんが同業者(鉄道ファン)と思われる。皆さん、過去に抜海で降りたことがあるかどうかは分からないが、初めての方は、思わぬ貴重な体験となったかもしれない

私は昨年も来ているし、列車到着の20分前には駅に着いているので、もう撮影することはないが駅舎内にこのようなものがあった

「開業100周年おめでとうございます」

去年これがあったかどうか記憶にない。抜海駅の開業は1924年(大正13)6月。つまり今年の6月で100歳の誕生日を迎えた。もしかすると今年になってからのものかもしれない

確実に今年になってのものは駅前の通りを数十メートル進んだところにある

記念の石碑。地元有志によって建てられた。駅前ではなく、やや離れたところにあることが駅そして駅舎の置かれた現状を物語る。抜海駅はここ3年、稚内市の負担によって駅の維持管理が行われてきたが、市はすでに今年度で限りでの費用負担終了を表明。少なくとも現時点では9月24日から構内が棒状化されることだけは正式決定しているが「最北の木造駅舎」の将来は不透明である

代行タクシーで160キロの大移動

ということで抜海駅で1時間の待機を経ての結果は代行タクシーによる輸送。名寄以北はしばらく運行が難しいとのことでJR北海道さんが用意してくれたタクシーに分乗して名寄と稚内を目指すことに

北海道の地図は他の地域に比べると縮小サイズが異なる。抜海から名寄はすぐのように感じるかもしれないが

なんと160キロ以上もある。これは東京から東海道本線に乗車すると富士を軽々と越え、清水あたりまで行ってしまう距離。しかも高速道路はない。ただ途中はバイパスもあって国道40号もほとんど信号はないので2時間半で到達してしまう

つまり何のことはない、今年も稚内市からの南下(脱出とも言う)は鉄道ではなく自動車だった。「抜海駅から乗車」の目標はかなったが、乗車までだった。当然、雄信内も南幌延はバスである

突然声をかけられ

ということで名寄駅に到着。2時間半もタクシーに乗車するという、なかなか稀有な体験となった。とにもかくにも朝の9時半にここまで運んでくれたJR北海道さんに感謝である

駅には運休情報が並ぶが旭川に向けては特急以外は通常運行を行っているようで無事に南下できそうだ(結果的に午後からは全線で運行を再開した)

と、普通はここで話は終わりとなるのだが、最大の驚きはこの後。名寄から旭川行き列車に乗っていると、突然「高木さん」と声をかけられる。見ると2013年まで東京で勤務していた時の同僚

「何してるのですか?」

それはこちらのセリフだ。彼はロードのサイクリングが趣味で夏季休暇をとり北海道までやって来て、早朝に西興部を発ってここまで輪行で来たという

「オ、オコッペ?」

「いやぁ、朝からずぶ濡れで50キロ。大変でした」

と笑う。彼の趣味は知っていたが、思わぬ再会よりも、その元気さに驚いた。それにしてもピンポイントで名寄からの列車で会うかね。実は彼と私は結構ご近所さんで街でバッタリ会って食事をする機会もちょこちょこあったのだが、高円寺や阿佐ヶ谷の駅で出くわすのとは訳が違う。ここは名寄である。そもそも宗谷本線が通常通り運行していたら、この出会いもなかったのだ。私は旭川まで至る途中で下車。彼は苫小牧まで出てフェリーで帰京するという。10年以上前は世間に浸透していなかったLINE交換をオッサン同士でして別れた

それにしても宗谷本線は私に稀有な体験させてくれる路線である

その日は旭川で宿泊。当日の夜、実は少し悩んだ。翌朝の始発から行動すれば少なくとも雄信内へは行くことができる。天気予報も大丈夫そうだ。ただ問題は私と宗谷本線の相性である。昨年は旭川までたどり着いた翌日からは好天で根室本線の廃駅となる駅や、同じく根室本線の今となっては貴重な東滝川駅訪問、特急ニセコ乗車などを暑いぐらいの太陽の下で行うことができた。今年についてもこの日以降は雨とは全く無縁。要は宗谷本線乗車の際だけピンポイントで悪天候に見舞われた。しかも両日とも天気予報は良くはなかったが、決して運行ストップとなるものではなかったのだ

私が行くと、またストップするような気がしてヤメ。結果的には通常通りの運行となっていたようだが、これはこれで正解だったと思い、思い出だけを胸に秘めるとしよう

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