紀勢本線

阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~私鉄から国鉄となって繁栄

和歌山駅の駅名標

2022年12月7日16時

高架線から和歌山駅へ向かう

紀和~和歌山間の高架区間の車窓は市内の様子が俯瞰できて楽しい

ただ高架区間はわずかで阪和線と交差する部分は昔ながらのアンダーパス。ここまで高架しようとすると和歌山駅そのものを高架化しないといけないので、阪和電気鉄道が造った堤築の下を行きます

和歌山駅に到着。夕方なので下校の高校生でにぎわいます。ただ紀勢本線である和歌山~和歌山市間に与えられたホームは和歌山線と同一面。メイン出口である西口に近い阪和線と紀勢本線のホームとは別となっています。阪和線と紀勢本線は特急をはじめ、直通運転が行われていますが、紀勢本線の終点である和歌山市駅へ向かう和歌山~和歌山市は支線扱いです

ちなみにこのホームには中間改札があるので青春18きっぷのシーズンは要注意

発展するJR駅

和歌山駅には東口と西口があり、メインは前述した通り西口です

写真は2018年のものですが、商業施設が入る総合ビルとなっています。また周辺は飲食店が並ぶ繁華街です

それに対し東口は

こぢんまりとしていて周辺に派手なネオンサインはありません(写真は2021年)

しかし近年、多くのホテルが東口に建設され、それに伴い飲食店も増えています。私も最近は和歌山に宿泊の際はもっぱら東口を利用します

このように和歌山駅周辺は発展を続けている印象があります

JRと南海2つの玄関口

さて和歌山市には南海の和歌山市駅という、もうひとつの玄関口があります

「暴れん坊将軍」で有名すぎる和歌山の中心は和歌山城で旧市街地はお城を中心にできています。こうして見ると、旧和歌山駅である紀和駅は街の外れにあり、紀勢本線も中心部を避けるように敷設されていることが分かります

徒歩ルートで表示しましたが、和歌山駅と和歌山市駅は車で10分程度。そしてお城へは和歌山市駅の方が若干近い。先に発展したのは和歌山市駅です。南海が紀ノ川を越えて和歌山市駅までやって来たのは1903年ですから、まだ明治期です。阪和電鉄が大阪から和歌山に到達したのは、それから約30年後なので、大阪から和歌山への「足」と「輸送」は南海が独占していたことになります(当時は車などないに等しい)

駅としての重要度も南海が上で、それはわざわざ終着駅だった和歌山(現紀和)から和歌山市駅へ1区間だけの路線が設けられたことでも分かります

ただ戦時買収で阪和電鉄が国鉄となり、戦後本格的に運用が始まると徐々に状況に変化が出てきます。東和歌山駅が和歌山駅へと改名された1968年あたりには戦後20年が経過して白浜や新宮に直接行ける国鉄利用者が増え、もともと複線電化のスピード優先で建設された阪和線の構造が通勤通学も含め、利用客増加に貢献することになります

2000年あたりから利用者も逆転が始まりました。つまり国鉄と一体化したことが繁栄につながったわけです

南海も挽回に

写真は2017年9月の和歌山市駅。この直前まで津や松阪といった近鉄の駅のようにJRと同一改札になっていたのですが、IC乗車が可能になったことを機に別の改札となりました

当時は105系。ただワンマンの2両編成、昼間は1時間に1本の運行というのは今とあまり変わりません

私が和歌山市駅を初めて訪れたのは15年ほど前と遅く、個人的なイメージで「JR駅より私鉄駅周辺の方がにぎやか」と思って和歌山市駅近くのホテルをわざわざとったのですが、ホテルで飲食店を尋ねたところ「繁華街はJRの駅近くですから」と言われるほど寂しい駅前になっていて驚いたことを鮮明に覚えています

和歌山のような歴史のある大きな都市で駅を中心とした繁華街が戦後数十年も経って「移動する」のは珍しいことです

こちらも2017年の写真。ターミナルビルの建て替えが始まっていました。こちらも1972年完成とは思えない大規模なもので、正面から駅に入る大階段はターミナルとしての威容を十分示すものでしたが、新駅舎が2020年にできました

和歌山の両玄関口の「新たな争い」が始まっています

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阪和線、日根野以南は魅力いっぱい~かつての和歌山駅は今

2022年12月7日15時

紀伊中ノ島から徒歩で旧和歌山駅へと向かう

前回記事の最後に紹介した紀伊中ノ島の駅前風景

一連の記事で「和歌山駅(現紀和駅)」と何度も書いています。「東和歌山駅の地位が上がって和歌山駅に昇格し、それまで和歌山の代表駅だった和歌山駅は紀和駅になった」と

しかし紀州藩で有名な和歌山という古くからの都市で代表駅の交代があるというのはあまり聞いたことがありません。これも何度か書いてきましたが、すでに町ができていると線路は街外れに敷くしかなく、大きな都市の代表駅が街の中心部から外れているのはよくあること。別にそのままでもいいのではないか、となりそうですが和歌山の場合は前回の紀伊中ノ島の項でも記した通り、大阪から真っ直ぐやって来た阪和電気鉄道が当時の和歌山駅への乗り入れを拒んだことで現在の形になりました

ただ、その和歌山駅はどうなっているのかを伝えないと、文字と地図だけでは何のことか分からない。ということで紀和駅は阪和線ではなく紀勢本線の駅ですが、リポートすることにします

先に書きますが、ここから紀和駅は実は近い

徒歩10分です。線路があるので携帯のアプリも必要ないでしょう

高架に沿って進む

最初の写真を左に折れるとすぐ紀勢本線の高架が見えてきます。左側にある建物がJRの社員寮で、紀伊中ノ島の旧和歌山線ホーム跡のあたり。その中を突っ切ると早いのですが一応、公道を進みました

後は高架に沿って進むだけです

結論から言うと途中で信号はひとつだけ。大きな通りを渡ります。新しいマンションや住宅街と古い建物が混在しています

時系列的には南方貨物線の探索から、それほど日は経っていなかったので高架ばかりを見ながら歩くと廃線か未成線かと錯覚してしまいますが、もちろん現役の紀勢本線です

すぐ高架下が遊歩道となり

左右が公園となって子供たちの歓声が。公園部分はかつての「和歌山駅」の敷地内だったのでしょう。かなり広い

子供の自転車にビュンビュン追い越される。奥に見える黒い部分が紀和駅です

ムダを省いた姿に

紀和駅に到着しました

15年前に高架化され、ホームへは階段またはエレベーターが向かいます

外から見るとこのような高架駅。かつての駅構内は一帯が公園化され、お手洗いもあります

まずはホームに行ってみましょう

「和歌山・和歌山市方面」と案内されています。駅には、そのどちらか行きしかやってきません

簡易型IC改札と券売機がたったひとつに、1面だけのホームは、もちろん無人駅。よく言えばスタイリッシュ、ムダなものはすっかり省かれていますが、ここが戦後20年経つまで和歌山駅だったとは誰も思わないでしょう

私は紀和駅になってからの地上駅時代に来たことがあります。駅舎はありましたがすでに往時の面影はありませんでした

南海と阪和電鉄の挟み打ちに

紀和駅の駅名標。こうして見ると両サイドが和歌山駅、和歌山市駅ってすごいですね

和歌山駅は1898年に現在の和歌山線の終着駅として誕生。歴史は古い。その当時、南海はまだ市内中心部まで入っておらず、文字通りの中心駅でした。なぜここに駅ができたかというと紀ノ川の存在です。当時の技術では、なかなか渡れなかった広大な河川。和歌山線は紀ノ川に沿って進んでいますし、将来の南方面への敷設も含め、旅客はもちろん、貨物の海運という意味でもここに駅を設置するあったのです

ただ数年後に南海が紀ノ川を越えて和歌山市駅を開設。大阪ともつながったことで優位性がなくなります。和歌山市駅との接続も考慮して当駅~和歌山市駅が開通。中間駅となってしまいます

その後は前記事の通りで阪和電鉄が東和歌山(現和歌山)での接続を選び、阪和線として国有化されると大阪~和歌山、さらには和歌山以南への列車は当駅を通らなくなり、やがては駅名変更。元々、街外れの駅だったので周囲のにぎわいも消えました

現在、周囲は新たな住宅地となっています

昼間は1時間に1本

時刻表を見ると朝夕の多客時間帯でも30分に1本、昼間は1時間に1本の運行しかありません。駅周辺から大阪方面へ向かう人は紀伊中ノ島まで歩いた方が便利なので、やむを得ないところ。紀伊中ノ島の利用者が一時よりは増えているのは、紀和駅周辺にできたマンションや住宅に住む人が利用するようになったからだと思われます

ターミナル駅の面影は

かつては急行「きのくに」という、南海の難波から出て和歌山市~和歌山を経て国鉄に乗り入れ、白浜・新宮に向かう、今では信じられない列車が運行されていましたが、国鉄末期に廃止され、その後は紀勢本線でありながら、当駅付近を通る優等列車はありません。和歌山市~和歌山は区間運転として独立した形になっている支線扱い

広大なターミナル駅だったことを思わせるものは何もありません。現役の駅なので解説文や碑を残すわけにもいかない。わずかに駅正面の通りにのみ面影が残ります

和歌山市行きがやってきました。私は和歌山へと向かうので折り返しを待つためホームにむ和歌山市行きがやってきました。私は和歌山へと向かうので折り返しを待つためホームに向かいます

2両編成のワンマン車がやってきました。実は今回利用しているICOCA定期券利用者の「どれだけ乗っても1000円」エリアには和歌山線も入っているのに当区間は外れていて「別路線」の感を強くさせます

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古風なたたずまいが残る駅舎~紀勢本線・高茶屋

高茶屋駅にはかつての貨物ホームが残る

10月29日8時50分

ここはどうしても降りたかった

当日は名古屋を早朝に出て、まだ快速みえの運行時間ではなかったため亀山経由で紀勢本線を南下したのですが、参宮線各駅訪問の前に紀勢本線の駅もいくつか降りています。中でも「どうしても」だったのが、この高茶屋駅。古風で堂々としたたたずまい。参宮線の田丸もそうですが、古い駅は入口に小さな階段を設けていることが結構あります。バリアフリーという意識のない時代のことです

駅名板はいつからのものでしょうか。お伊勢参りの際、台地状の付近にあって休憩所となっていた高台のお茶屋さんに由来するようです

県内では有名な地名も駅名とは異なる

駅名標です。普通の読みのようですが私は「あれっ?」と思いました

戦時中まであった高茶屋村に由来する駅名ですが地名は「たかぢゃや」と濁音となる。そして私は駅名も濁音だと思い込んでいました。少し前までここには運転免許センターがあり(現在は移転)、幼少期に三重県に住んでいた私は大人たちの会話で「たかぢゃや」をよく耳にしていたのです。子供に免許センターなど関係ないのですが、それほど三重県民の間では名の知られた存在だったということです。駅名は濁らないなんて最初に耳にしてから50年以上知らなかった

こちらは快速みえとの列車交換の場面

当駅は普通のみの停車ですが、2面3線と立派な構造をしています。おそらく過去にも優等列車が停車することはなかったはずですが駅にいると快速も停まる。ただしすれ違いのための運転停車で客扱いはもちろんなし

私の訪問時には2面3線構造を生かし、特急の通過待ちも行われていました

紀勢本線と参宮線の前身にあたる参宮鉄道が宮川まで開業した19世紀、開業と同時に設置された当駅近辺は明治期にいち早く複線化されています。近鉄などない時代で輸送力強化が求められたのでしょう。しかし戦時中の金属供給で単線化され、以降複線に戻ることはありませんでした

戦争といえば、戦時中に当駅から近鉄の久居駅の間に海軍の軍事工場が造られました

高茶屋駅により近い広大な用地で、それを機に高茶屋村は津市に編入となりました。立派な駅舎となったのはそのころだともされます

軍の施設は攻撃対象となりましたが、駅舎は何とか残り戦後は一時期、連合軍の傘下に置かれたこともあるようです

海に近いことと駅の施設が立派だったことから戦後は国鉄末期まで貨物輸送も続けられ

今も貨物ホーム跡が残ります

そんな高茶屋駅は戦後、一帯が住宅地と文教地域となり、海側にはイオンモールができたことでその最寄りとして週末はにぎわいを見せます

私の到着時は週末ながら、朝の9時前でイオンを目指すにはまだ早い時間で、10年以上前に無人化された立派な駅の改札は誰もいませんでしたが、イオンに人が多そうな時は臨時で駅員さんが派遣されることもあるようです

紀勢本線や参宮線でも簡易駅舎化は進んでいて、高茶屋に負けず劣らずの立派な駅舎だったお隣の阿漕や参宮線の山田上口が数年前にバス停のような姿になっています。現状、当駅については何の情報もありませんが、過去の経験からすると、この手の駅舎訪問はできるだけ早めに、が鉄則です

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