大糸線

大糸線全40駅を訪問するお話~松川村の中心駅は、かつて池田町との合成駅名

信濃松川駅の駅名標

※訪問は2024年9月9日

みどりの窓口も備える

信濃松川駅に到着。島式ホームとなっているが、構内踏切があるため、踏切ができるだけ降りないように、上り下りとも多くの列車が踏切と逆側のホームを使用するように配慮されている

松川村の代表駅で村役場もえきからすぐの場所にあり、営業時間は限られているものの、みどりの窓口も備えられている

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元の名前は池田松川

真新しい駅舎を持つ。開業は1915年(大正4)で110歳になる。長らく開業時からの駅舎が使用されていたが、平成を迎えて2度にわたってリニューアル工事が施された

駅前には立派な観光協会の建物があり、観光案内所も入居している

松本側から延伸させてきた線路が当駅までたどり着いた時の駅名は「池田松川」。池田町と松川村の地名を合成したものだった。池田町は高瀬川を挟んだ対岸の町(厳密には対岸の一部も松川村に所属する)。大糸線の原型ともいえる千国街道の宿場町として栄え、信濃鉄道の敷設直前に「町」になっていることで分かる通り、当時の町の規模は池田町の方が大きく、本来大糸線も池田町側を通る予定だったが、高瀬川を渡る工事の都合や地盤の問題があったことで松川村を通ることになり、元々の通行予定だった池田町の名前も入れて自治体名を二つ並べる駅名となった。新幹線の駅名などで複数の自治体名を入れ込むことは今も珍しくはない

ただ1937年(昭和12)に国有化されると駅名は現在のものにされ、池田の名前は外れてしまった

これには安曇追分駅の記事でも触れた池田鉄道の影響があるとされる

大糸線が国有化された当時、安曇追分駅から池田鉄道という池田町の中心部へと至る私鉄路線があった

これは池田の町に鉄道がなく不自由をしている住民のために敷設された路線で、池田松川駅の開業から11年後の1926年(昭和11)の開業。北池田、信濃池田、南池田という3駅があり、町の中心に近い駅が信濃池田。「池田駅がすでにあるからややこしい」と、池田松川は信濃松川へと駅名変更。ただ開業時から利用者の少なかった池田鉄道は国有化されることもなく、駅名変更の翌年に廃業されてしまった。わずか12年のみ存在した鉄路だった

池田町からは大糸線や篠ノ井線の駅へのバスなどを利用して鉄道を利用できるようになっているが、地図でも分かる通り、池田町役場の最寄り駅は信濃松川である

特急停車のなごり

2つの自治体の役場の最寄りとなっている当駅は1日の利用者は約1000人と大糸線の周辺駅では規模の大きな駅となっていて、みどりの窓口があるのもうなずける

駅のホームは長い。これはかつて特急「あずさ」が停車していたなごりである。

2005年に当駅は開業以来、初めて特急が停車するようになった。ただ当該列車の利用者が伸びず、2010年に始終着駅を信濃大町から松本に変更したことで停車そのものもなくなってしまった

ホームの向こうには側線も見えるが、周辺では製糸業が盛んで、貨物駅としても栄えたなごりで

駅名板は池田工業高校の皆さんの手によるもの。2つの自治体を支え続けてきた駅である

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大糸線全40駅を訪問するお話~残ってほしかったユニーク駅名

北細野駅の駅名標

※訪問は2024年9月9日

隣駅とわずか1キロにわざわざ設置

信濃大町から松本方面へと戻って5駅。約20分揺られて北細野駅に到着

お隣の細野駅の紹介の際に隣駅の北細野駅までわずか1キロと紹介したが、その理由を調べるとユニークかつ重要な歴史があった

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開業時の駅名はひらがな

当駅も「おなじみ」の単式ホーム+待合所のみの構造

ホームへの出入りはホーム端にある小さな階段で行い、すぐ踏切がある。左に見える建物はお手洗い。繰り返しになるが、大町市内の駅にはこのような真新しいお手洗いが多くて助けられる

開業は1930年(昭和5)。細野駅が当地に鉄路がやって来た1915年(大正4)に開業したことを思うと15年以上後のこと。南大町駅の紹介で、当地にできた工場への通勤のために信濃大町駅駅から1・1キロにもかかわらず開業したと記したが、北細野駅を降りると駅周辺は住宅街。わざわざ1キロしか離れていない場所に新駅を設ける理由は見当たらないが、開業時の駅名が「おかめ前」だったことを知ると、いろいろナゾが解けるのである

ひらがなのほっこりするような名前だが、このおかめとは最寄りの「鈿女(うずめ)神社」に由来する。地元では「おかめさん」と親しまれ、多くの参拝客が訪れていた。その様子を見聞きした当時の信濃鉄道が「ここに駅があるとと儲かりそうだ」と設置したという。そして駅名は神社名ではなく「おかめさん」の愛称が採用された

「鈿女」という文字は、なかなか難読である。昭和初期に「難読なんで駅名はやめよう」という感覚があったのかどうかは分からないが、駅名はひらがなに落ち着いた

決して「前」ではない

その鈿女神社は駅から徒歩で10分弱の場所にある

駅を出て真っ直ぐ歩くと間もなく国道に出て、そこにコンビニがあり

神社の入口を示す看板がある。ただ北細野駅到着から次の乗車予定の電車までは25分。突然目の前に現れたコンビニに驚いてちょっとした買い物をしているうちに微妙な時間となってしまい

黄金の稲穂の向こう側に見える神社を望んだところで引き返すことになったのは、やや残念。どうもローカル線の駅で思わぬ形でコンビニに遭遇してしまうと「今のうちに」と買い物をしてしまう癖が出てしまう

「鈿」は「かんざし」と読むのだが、当神社に祀られているのは「天鈿(あまのうずめ)」という女神である

とても親しみやすい「おかめ前」駅だが、長くはなかった。1937年に国有化された際に現駅名へと変更となった。わずか7年の駅名だった。駅名変更の理由は分からないが、せめて「鈿女神社前」だったら、神話にも出てくる神でもあるし、そのまま残ったかもしれない。それ以上に、おかめ前のままだったら、かなりの有名駅になっていたことは間違いなかっただろう

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大糸線全40駅を訪問するお話~路線内最大の駅にして最重要駅は駅名標でいっぱい

信濃大町駅の駅名標

※訪問は2024年9月9日

大糸線はここから

信濃大町駅に到着。久しぶりに自動改札機を見た、というか駅員さんを見た気がする。大糸線で最も規模の大きな駅で、なおかつ最重要駅。列車の運行本数も当駅を境に大きく変化するのは何度も触れてきた通り。1日に2000人以上の利用がある。そして、こちらも触れたきたが、大糸線の「大」は、当駅から付けられているのである意味、大糸線はここからである

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駅名標を見つけよう

当駅には数多くの駅名標がある。こちらはJR東日本の管内で今もよく残る形のもので、駅によっては、この形式しか残っていない所もある

当ブログでは駅名標についてはあまり一般的ではないので第一種、第二種などの表記はせず、このように両隣の駅が記された、ホームに設置してあるものを駅名標、駅舎の入口に張られている駅名を記したものを駅名板と表記していて、ホームの柱で見かける縦のものを縦式駅名標などとしたり、あえて平仮名の読み、という表現で使用するようにしているが、基本的には駅名が記されているものは、すべて駅名標である

こちらは跨線橋に掲げられたもの。跨線橋に印字されたような形になっているものをスタンプ式駅名標と勝手に名付けて過去の駅で紹介してきたが、それも姿を消しつつある。こちらは立派な木板で作られている

写真入り駅名標。自分の中ではJR東日本名物なのだが、最近取り外しが進んでいるようで、どちらかというと生き残りの印象が強い。駅からの風景が変わると更新が面倒なのか、維持にお金がかかるのかは分からないが、JR東日本の駅で降りると楽しい気持ちになれたので残念なことではある

駅名標については良い機会なので私的な意見を言うと、かつてホームの両隣要りの駅名標には、当記事の最初のもののように必ず所在の自治体名が記されていたが、JR東日本とJR東日本、JR北海道については自治体名を記していない。平成の大合併で見られたように自治体名は合併などで変化していくもので、その度に更新するのは手間も経費もかかる、ということなのだろうが、駅に降りることはなくても車窓に見える駅名標の自治体名を見て「こんな名前の自治体があるのか」「このあたりは村なんだな」「どう読むのだろうか」などと考えるのは鉄道旅の楽しみのひとつだと思っているのだが、どうだろう

観光拠点としても有名

時間は13時半になっている

待合室の駅そばでお昼とする

長野らしく山菜そばをいただく。当日は猛烈に暑い日だったが、待合室はエアコンが効いて熱いそばでも美味しく食べられる

開業は1916年(大正5)。実はこれより先に別の場所に初代の信濃大町駅があった

初代の駅はさらに南の松本側から見ると高瀬川を渡る手前あたりに1915年に設置。川を渡る前の最も大町の町に近い場所で暫定的に開業したようだが、翌年に現在の位置であらためて信濃大町駅が開業すると、仏崎と駅名変更された上に1917年に廃止となった

信濃大町駅が脚光を浴びるようになったのは1971年(昭和46)のこと。当駅からの立山黒部アルペンルートができて多くの観光客が訪れるようになった。観光客だけでなく多くのスキー客も運ぶ大糸線優等列車の全盛期もこのころからやって来る

現在は長野からのダイレクトコースも

ホームにあるこちらも駅名標のひとつ

ホームは国鉄らしい2面3線構造。駅舎側の1番線と島式ホームの間にはホームのない線路があるため、2番線のホームはなく島式ホームは3、4番線となっている。特急は上下とも1番線からの発着だが、上り下りともすべてのホームが使用されるため乗車の際は注意が必要

また島式ホームからの発車は跨線橋の片側からしか出ないため、こちらも注意を要する

駅舎には当駅を拠点に登山を行う人のための登山届入れがある

こちらは島式ホームの写真入り駅名標

大糸線の路線名は信濃大町と糸魚川から1文字ずつとられている。中間駅が路線名に入るのは珍しい例で、信濃鉄道が松本~信濃大町を敷設したところで延伸をあきらめ、国鉄がそれ以降を引き継いだために「大」の文字が入ったもの。敷設については福塩線(広島県)の成立と似ている

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大糸線全40駅を訪問するお話~各地で見られる地名の意味は?

安曇沓掛駅の駅名標

※訪問は2024年9月9日

再び信濃大町以南へ

海ノ口駅から松本方面へと折り返し、7駅目の安曇沓掛駅で下車。大糸線は信濃大町駅を境に本数が大きく減ることについては何度か触れているが、松本から南小谷まで乗り換えなしで行ける列車と信濃大町での乗り換えが必要な列車に分かれている。この直通列車については上下で変則的な運行が行われていて、ともに昼間のみの運行だが、訪問時のダイヤでは松本→南小谷が3本だったのに対し、逆は1本しかなかった。といっても信濃大町での長時間停車があったり、スムーズな乗り換えがあったりで、それまで座っていた座席に座れないこと以外は乗車にそれほど問題はない。沿線の高校の行事次第だが、平日の昼間に信濃大町で座れないことは少ないだろう

そしておなじみの棒状ホーム+待合所のみの駅の登場である

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いろいろ工夫を凝らされた駅名

真っ直ぐの線路と棒状ホームそして待合所。1915年(大正4)の開業。信濃鉄道によって信濃大町(現在の信濃大町とは場所が異なり、松本寄りにあった)まで延伸された際に設置され、当時の駅名は「常盤(ときわ)沓掛」。これは駅の場所が常盤村にあったため(常盤村は1954年の大町市発足で自治体としてはなくなった)

駅の位置としては大町市の最も南側にある

沓掛の「沓」とは、馬に履かせるわらじのこと。かつて旅人や兵士は馬に休息を与える際、古い沓を木の枝にかけ、旅の安寧を祈ったという。各地の街道ではこの地名が残り、駅名では日豊本線の日向沓掛がある(こちらは戦後生まれ)。有名な地名では軽井沢の沓掛宿があり、中軽井沢駅(しなの鉄道)はかつての駅名は「沓掛」だった(1966年に現駅名に改称)。現在のしなの鉄道と大糸線を敷設した信濃鉄道は全く別の会社だが、軽井沢の沓掛駅は明治生まれで当時から国鉄の駅。こちらは信濃鉄道という私鉄駅で、気にせず沓掛駅にしても良さそうなものだが、同じ長野県内で同名駅はまぎらわしいということで村名の常盤が付けられた

駅名変更は1937年(昭和12)に信濃鉄道が国有化された際のこと。頭には村名から地域名の安曇が付けられた。ちなみに同じタイミングで両側の隣駅は単なる「常盤」から「信濃常盤」へと、「池田松川」は「信濃松川」へと変更された。こうして「信濃○○」駅の間に「安曇○○」が誕生することとなった。常盤というのは沓掛以上に日本中にある地名。パッと見た目で間違いやすい常磐と合わせると数え切れないぐらいある。どうも国鉄としては、あまり常盤という文字を目立つようにしてがらなかったようだ。信濃2駅の間に安曇駅ができたのは、当時はまだ軽井沢の沓掛駅が現役で、同じ長野県内に「信濃沓掛駅」とするわけにはいかなかったからと思われる

ちょっと事情は異なる

安曇沓掛駅にも駅の外にお手洗いが設置されているが、その前は駐車場となっている

駅周辺は農地と住宅街となっていて、駐車場があるのはどうも不自然な感じで、他の待合所のみの駅とは異なり、かつては駅舎を有していたと思われる

植え込みや花壇はきれいに整えられていた

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大糸線全40駅を訪問するお話~信濃大町を越えて広がる景色と見どころ十分の駅

※訪問は2024年9月9日

大糸線の見どころのひとつ

海ノ口駅で下車。信濃大町をずっと越えた。何度も記しているが、大糸線は旧信濃鉄道が敷設した松本~信濃大町は観光と同時に松本へと通う生活路線にもなっているため、昼間も1時間に1本の運行があるが、信濃大町から北への白馬を経ての南小谷にかけてはグンと本数が減ってしまう。南小谷から糸魚川へのJR西日本による非電化区間はさらに本数が減り、山岳路線のようの車窓が広がる。大糸南線の松本~信濃大町、信濃大町~南小谷そして大糸北線の南小谷~糸魚川と3つの性格があると考えていい

ただ全駅訪問をしようというのだから、本数が少なかろうと多かろうと、そこは行くしかない。すでに信濃大町駅から北にかけてき10月に鉄道の日記念きっぷで巡ることを決めていたが、最終的には南小谷から大糸線増便バスで糸魚川まで行くのだから、時刻表が合えば、いくつかの駅は回収しておきたい。ということで選んだのが、ここ海ノ口だが、当駅は車窓やホームからの景色、駅内の展示だけで原稿がかけてしまう駅である

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車窓に広がる木崎湖

ホームの前には木崎湖が広がる。松本側から木崎湖、中綱湖、青木湖の3湖が並び、大糸線の車窓のハイライトにもなっている。大糸線が糸魚川静岡構造線に沿っているのは、大糸北線の根知駅付近で学習できるが、この3つの湖は活断層の動きでできた溝が湖となったそうだ。もちろんレジャーのメッカにもなっていて、湖畔にはレジャー宿や温泉宿も多い。結果的に10月になって、そこに宿泊するのだが、それについてはその時に報告させていただこう

海ノ口駅は1929年(昭和4)の開業。国鉄大糸南線の駅として設置された。信濃鉄道が信濃大町まで敷設し、信濃大町~糸魚川にかけては国が開業させた大糸線だが、大糸南線は現在の感覚とはやや異なっていて、信濃大町~中土のことだ。戦後に糸魚川~小滝の大糸北線がつながって大糸線となった

長野県に海はないのに駅名に海が付くことについては、ここまでの説明で十分だろう。海とは木崎湖のこと。駅の住所も海ノ口

電車から降りて立ち止まってしまう

電車を降りて駅舎に向かう時点でまず立ち止まってしまう

国鉄時代からの駅名標に加え、目を引く駅名板そして解説

詳しすぎる解説がある

無人駅ながらきれいな駅舎には、ホーム側とはやや異なる駅名板があり、白鳥の写真がある。その下には付近を描いた手書きのイラスト

いつもはグーグル地図を掲載するところだが、今回はこれで十分だろう。ただ白鳥の写真の解説には、ちょっと複雑な気持ちになった

駅名板ができたころには毎年飛来して越冬していた白鳥が、ある年から来なくなってしまったという。私は給餌を行っていれば、毎年白鳥はやって来るものだと思っていただけに、柄にもなくセンチメンタルな気分になってしまった

こちらが駅舎。木造で内外とも、かなり手が加えられているが開業以来のものだと思われる

駅舎に掲げられている駅名板は、それこそ開業以来のものかもしれない

冒頭に書いた通り、降り立つだけで、ほとんど調べもなく記事が1本書けてしまう駅である。ということは魅力が高い証明でもある

時系列は前後するが、海ノ口駅へ向かう電車の外を走りながら手を振ってくれた方がいたので、そう多くはない車内の人々も皆で手を振った。季節は稲の収穫前の晩夏。田んぼだけでなく湖そして山並みも四季に応じて、それぞれの景色を見せてくれるのだろう。ぜひ訪問をおすすめしたい駅である

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大糸線全40駅を訪問するお話~田んぼの中の簡素な駅でちょっと凝らされた風景

※訪問は2024年9月9日

棒状ホーム+待合所が続く

南大町から松本方面へ折り返すこと5駅目。細野に到着した。写真で想像がつくように単式ホーム+待合所のみの駅である

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こちらも隣駅とは極めて近い

簡素な構造で最初から旅客扱いのみの駅だった細野だが、歴史は古く信濃鉄道が有明から池田松川(現信濃松川)まで延伸した1915年(大正4)に開業した、つまり最初に敷設した際に設置された時に開業した駅のひとつ。おそらく設置時から駅の構造は変化していないと思われる

ホームからの光景は田んぼ。美しい稲穂が収穫を待っている。田んぼが広がる景色からは、ここに駅舎があったと想像しにくい。そして前記事の南大町以上に隣駅との距離が近い。北細野駅とはわずか1キロの距離しかない

こちらは比較的線路に近いところに道路があるので徒歩15分ほど。大糸線の松本~信濃大町は昼間は1時間に1本の運行。駅を回るには絶好の距離で、もし3月にここまで来ていたら雪で多少足下が悪くなるのを承知の上で歩いたはずだが、今回はやめておいた。とにかく暑いのだ。時間にして正午前。体感での気温はとっくに30度を超えている。老体に10分以上の徒歩は無理である

ちなみに北細野駅は当駅より10年以上後の開業だが、設置の経緯については北細野駅に到着してから紹介することにする

ちょっとした工夫が

松本から22・8キロのキロポスト

気持ちいいほどの直線ホームだが、少し小高いホームは鉄やコンクリートの柵ではなく、2枚の写真で分かるように植え込みが並べられている。きれいに整えておくには、駅舎の維持以上にかなりの手間がかかると思われる。所在地は松川村。開業時から変わらないが、松川村ができる前の明治初期までは細野村が存在した。駅はその地名に基づく。地図を見れば一目瞭然だが、すぐ近くには高瀬川があって大糸線の敷設にも大きく影響した。川の対岸へは、今も行けそうで行けない。細野という地名は川沿いにできた細長い集落にちなんで付けられたという

待合所から階段で道路に降りると(今、写真を見て気付いたのだが、窓も出入口も全開。虫もやって来る季節にもかかわらず、開いているのは相当暑かったのだと思われる)、そこは道路

ホームの裏側もきれいに草は整えられている

毎度毎度で申し訳ないが、個室1個ながらもお手洗いは設置されている。この時期は暑いからまだいいが、降り鉄にはお手洗いと自販機の情報は極めて重要なので掲載しておく。特に待合所だけの棒状駅では本当に助かる。その手前には歌碑とベンチが置かれていた

真新しいもののようだ。細野駅に娘さんの姿を読んだものなのか。出典や設置の経緯を知りたかったが、こちらについては今も調べきれずにいることが、やや残念である

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大糸線全40駅を訪問するお話~名称変更の小さな駅は思わぬ神駅だった

※訪問は2024年9月9日

松本から1時間

南大町駅で下車。時刻は11時を過ぎている

キロポストで34キロと表示されているから、それなりの距離をトコトコやって来たことになる。松本からちょうど1時間の電車旅となった

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短距離区間にわざわざ駅を設置

安曇追分駅までで一度大糸線の旅を打ち切ってからちょうど半年。雪景色はすでにない。ここから残った駅の回収となるが、いつものことながら、いくつかの駅で降りているうち急に全駅訪問のスイッチが入るので、残った駅はホームと待合室のみという駅が多い。そして元々は信濃鉄道という私鉄によって開業した路線だけに、その構造の駅がこれから次々と登場する

当駅はログハウス風の待合室と棒状ホームを持つだけの構造で、しかもホームはカーブ状に半ば強引に設置された形になっていて、さらに言うとお隣にある地域の中心駅でもある信濃大町駅からは線路距離は1・1キロしかない

線路に沿って道路があるわけではないので、歩くと1・6キロのコースになってしまうようだが、それでも徒歩20分と近いところにわざわざ駅が設けられた

開業は1934年(昭和9)。現在の松本~信濃大町が信濃鉄道として全通したのは1916年(大正5)のことで、18年も経ってから頑張って駅が設置されたのは今も駅前にある「レゾナック・グラファイト・ジャパン」の存在だ。2023年に現在の社名となったが、それまでは昭和電工の大町事業所。社名(工場名)は、最初の昭和アルミニウム工業所から昭和電工大町工場を経て大町事業所と変遷している。日本で初めて国産アルミニウムの工業的生産に成功した工場でもある(レゾナック・グラファイト・ジャパンHPから)。この工場ができたのが1933年。当駅は工場への通勤目的で設置され、当時の駅名は「昭和」。1937年の国有化の際に現在の駅名となった。この後も出てくるが、路線内には他にも名称変更された駅があり、特定の固有名詞は避けられたようだ

背中しか見えないが

こちらは待合所内にあった時刻表。11時8分に到着して32分の松本行きで折り返す。信濃大町までは昼間も1時間に1本が確保されているので、駅訪問もそれほど頭を悩ますことはない。もっともその分、信濃大町から北はかなりの予習と準備が必要となる

立派なお手洗いがある。自治体による設置だろうが、大町市内の駅はホームと待合所のみの駅でもお手洗いの設置が多く助けられた。早速お借りして出たところに建物が見えた

コンビニだった。ローカル線沿線でバッタリ出くわす貴重なコンビニ。その最寄り駅を個人的に「神駅」と呼んでいるが、その神駅だった。コンビニのさらに向こうには国道147号があり、国道を挟んでレゾナック・グラファイト・ジャパンの大町工場がある。工場で勤務する人の利便性もあってのコンビニかもしれないが、後でこの存在がとても貴重だということに気付く。なぜなら松本を除くと路線内で最も大きい駅である信濃大町の駅近くにはコンビニはない。構内に売店はあるが、コンビニを求めようとすると10分近く歩くことになる。そのような事情は全く知らない私だったが、たまたまサンドイッチなど、ちょっとした食料を買いそろえたため、この後、大いに助けられたのだった

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大糸線全40駅を訪問するお話~雪景色から半年後は残暑というより猛暑

※訪問は2024年9月9、10日

屋代高校前駅からスタート

9月9日の朝8時すぎ。私はしなの鉄道の屋代高校前駅にいた

月曜の朝なので

ちょうど通学時間帯となったため、電車が到着するとホームは高校生で埋め尽くされる。長野県の友人宅を訪問すると、いつもこの駅まで送ってもらうのだが、通学時間帯の訪問は初めて。しなの鉄道は三セクの優良企業なのだが、このような光景を見ると納得する。私は逆方向の篠ノ井方面行きホームにいたが、こちらはこれから長野市内へと通勤する人でにぎわう。しなの鉄道の路線はお隣の篠ノ井までだが、列車は長野駅まで運行される

今日はここから松本経由で大糸線の各駅訪問を行い、そのまま大糸線増便バスで糸魚川まで抜ける予定だ

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18きっぷのルール変更を先取り?

9月の声を聞いて10日近くが経つというのに、この日も朝から猛烈に暑い日だった。この記事を書いている傍らのテレビでは全国を覆う寒波と豪雪のニュースが繰り返し流れていて、季節は真逆になってしまった。季節に合わないと秋以降、記事化を先送りしてきた。その間、前回までお伝えしてきた「サンキュー♥ちばフリーパス」や阪神淡路大震災と加古川線のように、先に伝えなければいけないことが多かったのも事実ではあるが、そろそろ記憶も薄れてマズい。結局は寒波の中での振り返りとなってしまった

時系列から振り返ろう。長野入りしたのは前日の8日

中央西線で最後に1駅だけ残った日出塩を訪問。その足で塩尻から篠ノ井へと向かい、篠ノ井駅まで友人に迎えに来てもらった。昨夏の青春18きっぷの使用期限は9月10日までで8日の時点で残り3回分の権利があった。つまり3日連続の使用である。この時はまだ18きっぷのルール変更は発表されていなかったが、知らず知らずのうちにルール変更に対応していたことになる

ただ何か予感が働いていたわけではなく、もともとあまりの暑さに夏の18きっぷは購入をやめようと思っていたところに、9日から友人の元を訪れることが決まり、だったら買いましょうとなった次第。最初の2日分は中央西線に充て、最後の3日間は大糸線から増便バスに乗ることを決めた。もっとも3連投の初日は春日井からスタート(名古屋市内のホテルが空いていなかつた)。篠ノ井での待ち合わせ時間を考慮すると中津川から特急でのワープ作戦を使わざるを得なかったため、18きっぷ1日あたりの料金とを考えると「元本割れ」となってしまった(ただし残る4日で大幅に元はとっている)

半年前とは全く異なる松本駅へ

屋代高校前駅では篠ノ井までの1区間だけのきっぷを購入。改札でそのきっぷを手渡すと同時に4回目のハンコをもらい、ホームへと逆戻り

トコトコと篠ノ井線を走り松本に到着。屋代高校前のホームに立ってから2時間近くが経過していた

ホームからアルプス口を見る。半年前は3月だというのに松本駅前は積雪に見舞われていて、足下のおぼつかない中、北松本駅まで歩いた。まさに真逆の季節。ここから大糸線各駅の回収をスタートさせる。好天で足下を心配する必要もなさそうだが、これだけ暑いと、いくら足下は良くても前回のように1駅徒歩とかは絶対に無理である

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大糸線の増便バスに再乗車、キハ120と組み合わせる~その6 やっぱり列車でゴールしなきゃ

糸魚川駅に到着

※訪問は2024年10月11日

2つの駅名板

中土駅の駅舎には2つの駅名板がある。ひとつは前記事のサムネで掲載したもの。そしてもうひとつは

年季が入ったもの。前者は駅舎の外に、そしてオールドバージョンは

駅舎の外側つまり列車で降り立つと、こちらが迎えてくれる

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シールを張って一路糸魚川へ

中土駅ともサヨナラの時間が来たようだ

南小谷駅でも同じものがあり、1カ月前に張った。今回ももちろん張る。来た全員が張り付けるとは思わないが、南小谷より利用者が圧倒的に少ない当駅なので、見かけたら思わず張ってしまうのではないか。首都圏や近畿圏は重ねて張るしかないのだが、遙か彼方からの人もいるようだ。対馬はビックリ。福岡からの方は「ネタじゃねぇぞ」との書き込みも

駅でともに降りた同業者の青年は、この後北小谷まで行き、増便バスの停留所まで歩き(徒歩10分ほど)、白馬から松本経由で東京に帰るという。前日からの旅程を聞いたが、若いとパワフルでいいな、と思った

中土から1区間、同乗してお別れである。私はこのまま糸魚川へと向かう。ふと顔を上げるとキハ120の車内は私を含め4人

そういえば中土駅ではこのような注意書きがあった

頭の中が鉄道だらけになると「通過」という意味が間違って脳内に伝わってしまうが、バスの世界では、ここには立ち寄らないという意味になる。今は国道から離れてしまうと、何かと不自由な時代である

大糸線の現状

私が乗車したのは中土を10時10分に出て11時3分糸魚川着のキハ120。10時4分に南小谷を出ているが

こちらの記事でも記したように白馬方面からの接続が極めて悪い列車で乗車が少ないのもうなづける。この後、根知で2人、姫川で1人の乗車があった

ここで糸魚川と南小谷をのぞく2022年度の非電化区間である大糸北線各駅の利用者数を記すと

中土 2人

北小谷 4人

平岩 4人

小滝 4人

根知 8人

頸城大野 16人

姫川 4人

この中には今回私が使用した秋の乗り放題パスや青春18きっぷなどのフリーきっぷの利用者は含まれていない。また中土で出会った同業の青年は途中下車を繰り返していたが、そちらも含まれないので実際に乗降した人の数とはかい離があるが、日常ということを考えると決して良い数字とは言えない

一方、増便バスについては長野県のHPに9月12日の記載があり、6~8月の利用状況について

6月 1日平均約25人(1便平均3人)

7月 1日平均約48人(1便平均6人)

8月 1日平均約112人(1便平均14人)

となっている。認知度が増して夏休みに入ると利用者が増えていることが分かる。現に9月に私が利用した日も18人の乗車があった。もっともこちらはあくまで白馬~糸魚川全体の利用者であって各駅の利用者数とは異なることに留意が必要。鉄道もそうだが白馬や信濃大町から大糸線を経由して糸魚川から新幹線に乗り換えると各駅利用者には入らない。また私見だが、バスの数字にはフリーきっぷ利用者も含まれている気もする

景色を眺めながら糸魚川へ

平岩駅を過ぎると姫川温泉が見えてきた。3年前に宿泊した際、部屋から「お~い」と手を振った。翌日、乗車すると車窓から部屋で手を振る浴衣の宿泊者がくっきり見え、私もそんな風に見えていたのかと、ちょっと恥ずかしくなったことを思い出す

12月から増便バスは冬季期間となり停留所が変更される。現在は白馬から南小谷までの各駅に停車しているが、南小谷までノンストップとなり、代わりにスキー客の利用が多い白馬八方バスターミナルが新たな停留所となる。また平岩、小滝の両駅は通過するが、駅とは離れた場所の温泉施設や道の駅が停留所となっている中土、北小谷の両駅は停車が続く

大糸線用となっている糸魚川の切り欠きホームに到着。やはり列車の到着は気分が落ち着く。大糸線については非電化区間であるJR西日本の大糸北線ばかりが何かとクローズアップされるが、JR東日本の区間も信濃大町から北上していくと、一定の乗客がある途中駅は白馬と神城ぐらいで、この後の記事でも出てくるだろうが、多くの駅で「ぼっち」を体験した。沿線には多くの温泉があるにもかかわらず、もったいない気もする

手元に1988年3月号の時刻表(復刻版)がある。すでにJRへの移管は行われていたが、南小谷をまたぐJR東日本、西日本の両線を走る列車がまだ1日2往復残っている。大阪から北陸本線、大糸線を経由してのシュプール号も健在。このシュプール号、いつも大阪駅で多くのスキー客が列車を待っていた光景は覚えているが、始発駅が西明石だということを知ってちょっと驚いている

増便バスを出すぐらいなら、大糸線そのものを増便すれば良いではないか、との声も聞こえてきそうだが、平岩、中土の両駅でも紹介したように大糸北線では駅の交換設備がなくなっていき、現在すれ違いができるのは根知駅のみで列車本数を簡単には増やせない状況にある。ただ白馬行きの増便バスで分かる通り、JR東日本と西日本をまたぐ列車があれば需要は少し増えるのではないか。それが無理なら、せめて接続の便を図るべきだと思えてならない

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大糸線の増便バスに再乗車、キハ120と組み合わせる~その5 大糸南線で唯一の非電化駅

中土駅の駅名板

※訪問は2024年10月11日

国道は離れた場所を行く

中土駅の駅前

3年前は「交通 安全宣言」の向こうから南小谷駅へと向かう小谷村村営バスがやって来たことを覚えている

ただ交通安全をうたうほど車の交通量があるわけではない。いわゆる「塩の道」で大糸線とほぼ並行して走る国道148号は中土駅から離れた場所を走る

増便バスは駅前まで来て再び国道に戻るのにはかなりの回り道となるため、停留所は温泉施設「サンテインおたる」に設けられている。同所から中土駅までは1・2キロ離れていて徒歩なら15分以上かかりそうな距離である

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元は合成地名

駅名は、かつてあった中土村に基づく。これはいわゆる合成地名で「中谷」「土谷」の2つの地名の頭文字をとって村名にしたもの。1958年(昭和33)に北小谷村、南小谷村と合併して小谷村が発足した際に自治体としては消滅しているが、駅が開業した1935年(昭和10)はまだ中土村が存在した。ただし駅の所在地は南小谷村だった

村の中心地は徒歩なら小1時間ほど離れた場所にあったが、地形上、中心地に鉄路を通すことは不可能だったのだろう

こちらは駅舎内の様子。きれいにまとめられていてテーブルもある。こちらは少なくとも開業時のものではない。そしてきれいに清掃されている

かつての駅の写真が飾られている。戦争を挟み20年以上も終着駅だったことで写真にも重みがある。駅員さんの姿も写っているが

もちろん現在は無人駅。国鉄末期には無人化されていたがきっぷ売り場の窓口跡に

かつてホームにあったと思われるホーロー駅名標が保存されていた

きれいな駅舎内とともに地元の方の愛情を感じる

電化、非電化の分かれ目

駅前には商店そしてタクシー会社があるが、商店については現役ではない。たばこ店のホーローと遠くからも識別できる「たばこ」の文字はローカル線の定番である

再びホームに出る。時刻は10時を回ってきたが暑くなってきた。先ほどの商店前には自販機はある。冷たい缶コーヒーを買って白馬から着てきたセーターを脱いでバッグにしまう。2時間ほど前、一ケタの気温に白馬駅でブルブルしていたのがウソのようだ

島式ホームだが、平岩駅と同様に片側は役割を終えていて、と同時に構内踏切もすでに踏切ではなくなっている

大糸線では1957年(昭和32)の全通から間もなくして電化の機運が高まった。元より松本~信濃大町の信濃鉄道が敷設した区間はすでに電化されていたため、工事は延伸という形で進めめことができる。当初の目的だった国防の意義はなくなっていたが、温泉、登山、スキーと当時の観光の要素がすべてそろっていたため、国鉄によって敷設されたしなの信濃大町以北も電化して観光路線として強化することになった。工事は順調に進み、白馬(当時は信濃四ツ谷)までは早くも1959年に、翌年には信濃森上までが電化された。その後は少し時間がかかったが、1967年に南小谷までが電化。そして…と言いたいところだが、電化はここまで。現在の形となった

当駅も含め、大糸線の県境部分は数々の自然災害が発生した場所でもある。豪雨に山崩れ、地震。中土駅も豪雨で何度か水浸しになった。駅舎が新しく感じるのは、その度に修復が行われたからだろう。電化に伴う難工事と自然災害への危機感が電化の歩みを止めた。その結果、戦前に開業した松本から当駅までの大糸南線で南小谷~中土のみが非電化区間となった

かつては転車台もあった終着駅に現在やって来る列車はキハ120の単行。民営化時に電化区間と非電化区間で、かつての大糸南線で1駅だけ所属会社も変わることになるとは、電化工事がストップした時点では誰も考えなかったに違いない

2022年度の中土駅の1日あたりの利用者は2人となっている

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