JR

成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~40駅と知ってがぜんヤル気が

冠着駅の駅名標

※訪問は2024年3月6、7日

松本駅は気温3度

南豊科駅から松本駅まで戻ってきたのは16時前。本日は松本に宿をとっている。最初に松本駅に到着したのは12時半ごろ。その時はすでに雪はやんでいて、その後も雪には一度も見舞われなかったが、積雪はたっぷり残っている。駅に表示されている気温は3度。あくまで体感だが、この日に限っては豊科あたりより松本駅周辺の方が寒そうだ

ホテルは徒歩5分ほどのところだが、歩道に残る雪を避けていくのに時間がかかる。踏みしめられた後の方が氷のようになっていて油断するとスッテンコロリとなりそうだ。この日、観光で松本を訪れた人は松本城までの徒歩が大変だったと思う。ホテルのフロントの方に尋ねると「たまにありますけど、この時期(3月)の積雪はやはり珍しいですね」とのこと

大浴場付きのホテルにつき

早々に山賊焼きそして信州そばを熱燗とともに

翌朝は6時半の時間開始とともに朝食をモリモリ。いつものことだが、これでしばらくお腹はもちそうだ

篠ノ井線からスタート

昨日あまり降りられなかった篠ノ井線からスタート。この日は青春18きっぷである。松本駅で印をもらう

長野と松本という県内の主要都市を結ぶ幹線だが、道中は深い山の中を走る。道中の自治体も「村」がかなりある

雪と木造駅舎の組み合わせは美しい

難読駅。読めるようで、やはり読めない典型例。旧式の駅名標も残る

西条駅。読みは「にしじょう」。だから広島県の「さいじょう」とは同じ文字のまま。いずれも明治生まれと古い駅だが、広島県の方がわずかに早いため、きっぷについては「(篠)西条」と表示される

こちらは冠着駅のものだが、各駅とも委託化されていて駅員さんがいる時間帯はストーブが灯っていて暖かい

この日の目的のひとつは朝と夜の1日2本しかない快速に乗車すること。通勤用の車両が姨捨駅を通過する。稲荷山は篠ノ井のひとつ手前で長野市内にある。昨日来た時と同様、姨捨から長野方面に雪はない

旧駅名板が駅舎内にきれいに保存されていて、写真駅名標も残る明科駅で一段落

まだ11時になっていない。この日のうちに帰る予定だが、まだまだ時間はある。お次は、となり、昨日の続きでもう少しだけ大糸線に乗ってみるか、で松本駅まで一度戻る。篠ノ井線の各駅は大糸線の駅までタクシーで10分ほどのところもあり、そうすればショートカットで、より多くの駅を回れそうだが、せっかくの18きっぷである。「タダ」なのだから、これはいったん松本まで行く一手だろう

駅の待ち時間と電車内であらためて大糸線について学習。そこで知ったのは40もの駅があること(松本のぞく)。全線105キロで40とは随分と多い。うちJR西日本の大糸北線はすでに全駅訪問済み。今日も朝から篠ノ井線の駅訪問をしているぐらいなので、大糸線への「執念」はそれほどでもなかったが、だったらJR東日本の各駅もいろいろ訪ねてみたいという気になった

今日はお昼になろうとしているので、それほど時間はないが、できる限り回ってみよう

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~こんな足下こそ徒歩15分「あったかいんだから」

南豊科駅の駅名標

※訪問は2024年3月6日

本日の教訓は「急がば回れ」

大糸線の原型が信濃鉄道によって敷設された信濃大町~松本であることは、これまで何度も記してきた通りだが、基本形が私鉄ということで「駅間が短い」という特徴がある。一部を私鉄が造り、全線工事を国鉄が引き継いだ例としては福塩線(広島県)があるが、こちらも私鉄部分の駅間距離が短いのは、福塩線の項で記した通り

この時も駅間徒歩を2つほど行った。原型が私鉄だった福塩線の福山~府中と大糸線の松本~信濃大町には、もうひとつの共通項があって、昼間はほぼ1時間に1本の運行である。この1時間に1本という運行は駅巡りにはある意味、ちょうど良い本数で行ったり来たりを繰り返せば、ほど良い滞在時間で駅訪問ができる。もっとも行き詰まって結局は、ほぼ1時間の時間つぶしが必要となってしまうこともあるが、そんな時の最強武器は「徒歩」となる。まぁ、これについては駅間徒歩の距離限界には個人差があるので何とも言えないが、私の場合は1時間以上空いてしまうのなら4キロまでは歩いてみることにしている

さらに言うと、距離以上に重要なのは気候で、トシをとると炎天下に15分も歩けない。かといって風ビュービューの真冬もイヤだ。だから徒歩という手段を使うのは春の青春18きっぷ期間が多い

前置きが長くなったが、ここで豊科駅前の周辺案内図である

ふと見ると赤丸で囲った豊科と南豊科の駅間が極めて近いことが分かる。ここはグーグル先生の出番であろう

うーん、これは近い。実はちょうど前述した行き詰まりの時間帯で豊科駅で待ち時間が発生していた。この時は大糸線全駅訪問など考えていなかったので執念じみたものはなかったが、駅でボーッとするぐらいなら歩いてみよう。幸いなことに現在は15時。午後になって気温も上がり体感で10度近くにはなっているのではないか。もっと幸運なことに無風である。ちょうど良いではないか。ただし松本駅から北松本駅を歩く際、近道を行こうとして誰も踏みしめていない雪の路地に突っ込んでしまい大変な目に遭ったので、その学習機能を生かしてできるだけ広くて立派な道を行こう。スマホ液晶をできるだけピンアウトで広げた結果、地図では「18分」と表示されている線路から最も離れたコースを行くことにする。「急がば回れ」が本日の教訓だ

簡易的なようで簡易的ではない新駅舎

ということで実際には15分を切るペースで順調に広い道を歩き続けて南豊科駅に到着。かなり広い2車線道路で歩道もある。これだけ広いと積雪を避けながら歩くことも可能。もっともそこまで余裕がなく道路の写真を撮ってはいなかったけど

南豊科駅は真新しい駅舎だった。開業は1926年(大正15)。豊科駅の開業から10年以上遅れて豊科と中萱の間に設置された。4月14日で先に紹介した島高松と同日の開業。後から付け足す形で駅が新設されるのも大糸線の特徴である

現在の駅舎は2020年に新築されたものなので、まだ4年。一見すると簡易的なものにも見えるが

訪問時は時間外だったが、無人駅ではない。JR東日本の子会社による業務委託駅で改札も行われるようだ。周辺は新しい家が並ぶ住宅街で最寄りの高校が2つもあるため、1日の利用者は約1500人で実は豊科とそう大きくは変わらない

ホームは棒状の単式。貨物駅になったことはないが、島式ホームになる予定があったかのような構造だ

そしてふと目にとまったのは

きれいな待合室。先客がいる。入ってみるとエアコンが設置されていてポカポカだ。ちょっと前に流行した「あったかいんだから」のフレーズが勝手に出てくるほどだった。夏季は逆に涼しいのだろう。お手洗いもあるので安心して自販機で暖かい缶コーヒーをいただいた

ホームへの経路はスロープでバリアフリー対応

さて新築同様の当駅だが、気になるのはそれ以前の姿だ。戦前からの駅舎があったことは分かっているが一体どのような姿か、と思った方はグーグル地図で南豊科駅を指すとよい。ここの写真には旧駅舎の勇姿がしっかり残されている

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~安曇野市中心駅の地名由来に驚く

豊科駅の駅名標

※訪問は2024年3月6日

長野らしい地名だと思っていただけだったが

穂高の次は豊科で下車

前回の穂高駅の記事で「大糸線には知名度の高い駅が多い」と記したが、当駅もそのひとつ。見方によっては難読駅だが、かなりの人が読めるのではないだろうか。駅の所在地は、かつては豊科町だった。平成の大合併で周辺の町村と合併して安曇野市が誕生したが、市役所は豊科駅近くにある

長野県には「○料」という地名が多い。「更科」「蓼科」がパッと思いつく。安曇野市内には「明科」があり、こちらは篠ノ井線の駅にもなっている。「料」が多い理由としては、信濃の国で多く獲れる「科(シナ)の木」は「信濃の木」がなまったもので、地名にもよく使われるようになった、など諸説あるようだが、とにかく「豊科」も「科シリーズ」の一環だろうと勝手に考えていたが、この地名は明治になってからできたもの。複数の村が合併する際、それぞれの地名である「鳥羽(とば)」「吉野(よしの)」「新田(しんでん)」「成相(なりあい)」の頭文字をとって作られたという。新しい地名をそれぞれの頭文字をとって並べるというのは、よく聞く話だが、わざわざ長野らしい「科」を入れたことが凝っていて、なおかつニクい

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路線では貴重な管理駅

安曇野市内の駅では、観光客の多い穂高の利用者の方が多いが、鉄道駅としては豊科の方が上位となる。大糸線内では松本を除くと管理駅は豊科、信濃大町、白馬、南小谷の4駅のみ。うち白馬、南小谷の2駅が「村」に所在するのが大糸線らしいが、その4駅のうちのひとつ(JR西日本区間の各駅は北陸広域鉄道部の管轄となっている)

豊科駅は1915年(大正4)の開業。大糸線の駅紹介で何回か触れているが、大糸線の信濃鉄道は豊科~松本市(現北松本)を開通させたことが始まりで、その後、北へと線路を伸ばし国鉄によって全通された。いわば基礎となる駅

現在の駅舎は2007年(平成19)に大幅リニューアルされた。以前は無骨な駅舎だったが、いわゆる「スイス風」に変更

ただ駅舎の基礎部分は旧来のものをそのまま使用しているようだ。ちなみにワイン造りも行う安曇野スイス村は駅から車で数分の場所にある

また長野自動車道の安曇野ICも至近である

これもまた大糸線内では貴重な自動改札機が設置されている。現時点ではSuica使用不可の改札機である。指定席券売機も設置されているが、みどりの窓口は昨年に営業を終えていて、管理駅なので人は常駐しているはずだが、改札業務も含め早朝と夜は休み。おかげで夏の青春18きっぷのハンコをもらうのに苦労したが、それについては当該記事で触れるつもり

撤去が続くJR東日本ならではの写真入り駅名標もまだ現役。駅舎の駅名板にも白鳥が描かれているが、豊科は白鳥の飛来地として有名でもある

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~有名駅まで東京近郊区間延長か?

穂高駅の駅名標

※訪問は2024年3月6日

知名度「高」の観光駅

穂高駅に到着。大糸線には松本を中心とする通勤通学のほか観光路線としての役割も持つ。知名度の高い駅も多いが、当駅はそのうちのひとつ

島式ホーム構造で1日約2000人の利用がある。平日の昼過ぎながら、多くの人が電車を待っている。奥に見えるのが構内踏切。跨線橋はない

訪問日は曇り空でこのような美しい景色には出会えなかったが、晴天のホームからの眺めはこのようになるらしい。もし見られたら、これだけでも来た甲斐がありそうだ

当駅は安曇野観光の拠点となる。徒歩圏はもちろん、駅前からは各方面へのバスも出ているほか、東京や大阪からの長距離バスもある。大糸線沿線への長距離バスは安曇野と白馬がセットとなっている運行も多く、鉄道のライバルでもある

目を引く駅舎

駅舎は社殿をあしらったもの。地名の由来ともなった穂高神社を模したもので、駅から至近というか、ほぼ駅前である

駅の開業は1915年(大正4)。大糸線の前身ともなる信濃鉄道は同年1月に松本市(現北松本)~豊科を開通させた後、急ピッチで延伸。同年7月には穂高までを開業させた。現在の駅舎は1940年(昭和15)に改築されたもの。その後、化粧直しは施されているが、原型は変わらない。1940年といえば、すっかり戦時体制のころで、当時の観光や神社参拝がどのようなものだったかは分からないが、時代背景を考えると大きな工事である

みどりの窓口は営業を終えたが、指定席券売機が設置。もちろん1日1往復の特急「あずさ」も停車する

来年春からSuica利用可能に

訪問時は出ていなかった話だが、今年6月に「長野県におけるSuicaエリア拡大」の発表を行った

それによると2025年春以降に篠ノ井線の松本~長野、大糸線の松本~穂高がSuica利用可能エリアになるという。現在、都内から長野県に向けては、中央本線の松本までである。高崎からの信越本線については在来線がある横川まで。これまでの例だと、IC乗車可能ということは東京近郊の大都市近郊区間に含まれることとなる。現在、この区間の「北限」は常磐線の浪江駅

浪江から松本までの乗車券を購入した場合、途中下車ができないばかりか、きっぷの有効期限は1日のみとなる。現実的にこの区間の乗車券を買う人は「試してみよう」の同業者(鉄道ファン)意外は、ほぼ皆無とみられるが、新宿から中央本線に乗車して松本までのきっぷを買った場合、もちろん100キロは超えているが、甲府での途中下車は不可能となっている。そのため、当ブログの過去記事でも塩尻駅や松本駅までのきっぷを買う際には洗馬駅や北松本駅駅までの乗車券を購入すれば、途中下車も可能だということを当該駅の記事で紹介してきたが、松本駅とした場合の事情が大きく変わってくる。篠ノ井線については、東京から長野に行く際、わざわざ松本経由で行く人はあまりいないはずなので、それほど大きく事情が変わることはないだろう(長野経由で松本に行くと必然的に北陸新幹線に乗車するので東京近郊区間のルールからは外れる)。問題は東京方面から松本をゴールとして中央本線の各駅で途中下車したい人だ

松本~穂高間は約16キロもある。Suicaエリアではないお隣の有明までは約2キロ。松本~北松本は800メートルしかないので運賃に大した差は出ないが、18キロ分も余分に乗車券を買わなければならないので、最初に買う駅によっては負担が大きくなる

6月の発表時は「サービス開始は2025年春以降」となっているだけで、まだ正式な日時や内容は発表されていないが、気になる点だ

ちなみに「ほだか」と読む人が多いが、正しくは「ほたか」である

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~松本から至近もチェックもれの駅

島高松駅の駅名標

※訪問は2024年3月6日

路線図を見て気付く

私にはひとつの夢があって、それは「全国の高松駅を順番に訪問すること」

日本各地には高松という地名が無数といえるほどあって、その分「高松」が付く駅名は多い。それを順番に回っていこうという計画である。きっかけは子どものころに知った豊臣秀吉の「高松城水攻め」で、しばらくその地が四国にあると思い込んでいた。後に岡山だと知ったのが、各地に高松があることを知ったきっかけで、ほぼ同時期に当時の西宮球場そして西宮北口駅の住所が西宮市高松だということも知った

だったら各地の高松駅を順番に回ることはできないか、思い描くようになったが、これにはかなり膨大な経費と時間がかかる。一番有名なのは四国の高松駅で、高松市内には「高松」が付く駅がいくつかある(数は意外と少ない)。高松で暮らしていたこともあるので、これは漏らすことはないが、他の高松駅を調べると行き止まりとなる路線上に存在することが多い。山形県の左沢線、鳥取県の境線、宮崎県の日南線。これはひとつの乗車券としてまとめられないことを意味する。青春18きっぷのようなフリーきっぷを使えば、到達はできるが正規の乗車券として「高松駅から高松駅」がほしい。ただ、行き止まりとなる路線を含むと、かなりのお金がかかるし有効期間の都合上、旅を始めると、なかなか帰ってここられない。そうこうしているうちに全国の高松駅はかなり訪問するようになり、乗下車したことがないのは左沢線と日南線ぐらいになっていた。立川に行ったついでに多摩モノレールの高松駅にも立ち寄ったほどだ(さすがJRの駅ではないので単に「高松」という駅名で妙に感心した)

と、随分前置きが長くなったが、大糸線にふらり乗車して路線図を見た時、ここにも高松駅があったことを初めて知った。しかも松本からわずか3駅という至近距離。チェック漏れである。これはぜひ降りなければならないだろう

ということで島高松に到着

大いに逡巡したワケ

ただ降車に大きな逡巡があった。先にある一日市場でまず降りたため、車窓から駅が見えた。例によって予習することなく訪れているので、どのような駅かは知らなかったが、いざ車窓から眺めると、これは迷う、それでも「エイヤ」で降りてみたが

単式ホームと待合所のみの構造だったのだ。うーん、寒い

道路とはスロープで結ばれている。単式ホーム+待合所のみの駅が路線内に数あることは後に知ることになるが、その最初だった。このような気候の時の訪問は私には不向きである

松本市最後の駅

島高松は大糸線では松本市最後の駅となる

開業は1926年(大正15)4月。すでにあった島内と梓橋の間に信濃鉄道によって設置された。住所は松本市島内高松。島内とは2つの川に挟まれた三角地帯の意味で、そこにあった高松という地名が駅名になったようだ

駅はスタート時から私鉄らしい簡素な姿らしく、貨物や荷物を扱ったことはない

駅の入口にあった石碑。簡素な構造ながらお手洗いもあり、自販機で暖かい缶コーヒーを安心して飲むことができた

当駅で安心できたのは、かなり新しい待合所があること。滞在は30分に満たない時間だったが、それでも多くの時間をここで過ごせたのはありがたかった

外では鳥の活動が盛んで

冬の農地で多くの鳥が何かをつついている。新芽でもあるのだろうか

このような写真ばかり並べると終日閑散としている印象を持たれるかもしれないが、松本まで10分ということで周囲には住宅も広がり、1日に約500人の利用がある

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~引き寄せられる駅名を優先

一日市場駅の駅名標

※訪問は2024年3月6日

読めるようで読めない

北松本駅の次は

一日市場駅で下車。「ひといちば」と読む。読めるようで読めないのが訪問の理由。この日はとにかく興味がわきそうな駅で降りてみることを主眼とした。いくつか駅を降りているうちムキになって全駅訪問を目指すことになるのが、いつものパターンだが、この時点では全くそんな気はなかった

なぜかというと猛烈に寒いから(笑)。私は根性というのが全くない方で、ましてやトシとるとさらにその傾向が強くなる。基本的には寒い時に寒いところには行かないので、雪に見舞われるのは偶然というか、見込み違い。だから雪の写真というのは貴重だ。ホームにあったアルプスの眺望の解説。雪を払えば姿を現わす。自ら払っても他人様に雪がかからない限り問題はなさそうだが、冷たそうで払う気にもならない。もちろんホームにいる地元の方は当然払わない。だから全貌は分からないまま。雪を払ったとしても曇天で何も見えないというのも理由のひとつだけど

わずか数ヶ月で変わった駅名

一日市場駅は島式ホームを持つ

駅舎とは構内踏切で結ばれている

開業は1915年(大正4)。豊科と現在の北松本が信濃鉄道によって鉄路で結ばれた際に誕生。大糸線の原点の駅のひとつである。最初の駅名は「明盛」(めいせい)。当時の明盛村に基づく。明盛村は戦後まで続いた自治体で1954年(昭和29)に周辺の村と合併して三郷村となり、平成の大合併で安曇野市となった。現在も駅の住所は安曇野市三郷明盛。ただわずか数ヶ月で現駅名と変更されている。駅が設置された時はすでに明盛村となっていたが、明盛村は一日市場村など複数の村が集まって生まれていて中心地は一日市場村で役場も置かれた。駅の所在地もかつての一日市場村。駅名変更の理由を調べることはできなかったが、新たに作られた地名より、以前からの地名が優先されたのかもしれない。明盛村に参加した村には七日市場村もあり、こちらも公園や公共施設に名を残す。これは全国で見られる地名だが、毎月行われた市に由来するものだろう。岐阜県にも同じ読みの一日市場が存在する

地元の木材を利用した駅舎

駅舎は2017年に大幅に改修されている

それまでは開業から100年以上使用されていた駅舎だったが、サイズがコンパクトにされた。地元産のヒノキを使ったものだという

ただコンパクトにはなったが無人化されたわけではない

時間帯によっては無人となっているが、改札も行われる有人駅。松本まで15分と通勤通学にも十分な距離と時間で1日に約1200人の利用がある

駅舎に旧式の駅名標が掲げられ残されている

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~徒歩10分ちょっとのはずが

北松本駅の駅名標

※訪問は2024年3月6日

徒歩移動には理由がある

松本から北松本までテクテク歩き始めた理由はただひとつ、両駅間が極めて近いからだ

線路距離にして700メートルしかない。線路に沿って真っ直ぐ歩く道はないため、徒歩も700メートルというわけにはいかないが、いずれにせよ1キロちょっと。ちなみにグーグル先生に道案内をお願いすると、この地図とは異なるお城口からの徒歩を案内される。この地図は実際に私が歩いたものに、ほぼ沿っている

地図を見た時「歩くだけならアルプス口からの方が近いのではないか?」と思い、先生に抗ってこういう経路となった

しかし、まずの難関

川を渡る橋が、線路に近いところには1本しかなく、しかも車道と歩道が分かれている。しかも雪を踏みしめた跡がアイスバーン状になっている。私の靴は普通のウォーキングシューズ。そもそも雪の中を歩いた経験がほぼないので、こんなところでスッテンコロリンしたら危なすぎると、やや尻込み気味になっていると、幸運にも向かいから来たご婦人がスタスタと渡り始めた。明らかに地元の方。ということで、うまい具合に誘導員を得ることができ、橋は渡れたのだが、この後も悪戦苦闘

地図に「ABC松本白坂店」とあるのは、パチンコ店さんだ。できるだけ線路に近い方を、と歩くと駐車場に入ってしまった。客でもないのに誠に申し訳ない。結局、駐車場を横切って路地に入ると、そこは雪が降った後、誰も歩いていない道でズボズボと雪に足を突っ込みながら前進。今思うとその時の画像があると、よりリアルなのだろうが、当時はそんな余裕はない。ちょっとだけ広い道に出ると、泥ハネ注意状態だったりで、それでも何とか20分ほどで

北松本駅に到着した

信濃鉄道本社のあった駅

大糸線は敷設が信濃鉄道という私鉄だったこともあり、駅間は近いところが多いが、歩いてきた両駅の距離が特に近いのは、北松本駅がもともと同路線の終着駅だったから。1915年(大正6)に豊科と当駅間で開通。当時の駅名は「松本市」だった。それが1月のことだが、わずか3カ月で松本駅まで延伸された。そして松本駅と併設されているにもかかわらず、駅名は「南松本」。ちょっとややこしいが、現在の南松本駅が開業したのは随分後のこと。なぜ700メートルのみの延伸を行ったのかというと貨物輸送の便を図るためで、松本駅と併設されても貨物しか運ばないのだから、駅名は松本でない方が区別する上で、むしろ便利だった。と同時に南松本ができたのだから、こちらは北松本にしよう、ということになり、松本市駅はわずか3カ月で現在の駅名に。さらに翌年には貨物駅だけではもったいないので旅客も運ぼうと、旅客輸送も開始したため、駅名は松本に統一された。時系列だけ見ると簡単だが、かなり激動の駅名変更だった

ただし開業時のいきさつから、信濃鉄道の本社は北松本に置かれ、車庫も設置された。今はともに面影はないが、車庫については国鉄末期まで大糸線の車庫として利用されていた

松本駅と同様、北松本駅もアルプス口とお城口がある。地図で分かるように、松本城には松本駅より当駅の方がむしろ近いのだが、駅舎はお城とは逆側の現在のアルプス口側に設けられていた。駅周辺の渋滞が酷いため、道路は地下化、駅舎は橋上化されることになり、本社があった開業時からの駅舎は解体され、2000年に現在の姿となった

こちらはお城口

周辺案内図はお城口にあり、タクシーも停まっていた

こちらは改札口。駅員さんもいて1日に1200人の利用がある。きっぷ売り場の上に掲げられている駅名板は旧駅舎にあったものだろうか

ホームは島式の1面2線。写真だけ見ると3月のものとは思えない

線路だけが見えるのは篠ノ井線。この付近はまだ単線区間で当駅にも篠ノ井線の駅を、という声の実現の妨げとなっている

福島県の浪江駅から延々と続く大都市近郊区間は松本まで。現時点では北松本までのきっぷを買えば途中下車もでき、きっぷの有効期限も延びる駅として有名(変化があるかもしれない)だが、実はそれ以上に大糸線の歴史を語る上で重要な駅である

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成り行きで大糸線の全駅訪問になってしまった話~いったん消えた雪が再び

姨捨駅ホームからの眺め

※訪問は2024年3月6日

姨捨で車窓が一変

話はこの続き

新潟県の長岡あたりから長野県に入っても続く雪は飯山駅の横殴りの風雪である意味ピークを迎えたが、新幹線で1区間、長野駅に到着するとすっかり消えていた

随分と気候が違うのだと感じる

手には信州ワンデーパス。こちらもまた、なかなか使えるきっぷで特急券だけ別に買えば在来線はもちろん、新幹線にも乗ることができる。今日はこの後、篠ノ井線の駅訪問をしつつ、松本で宿泊予定となっている。今日は信州ワンデーパスのお世話になり、明日は前日に新潟駅で購入した青春18きっぷの2日目利用とするつもり(ちなみにこの春の18きっぷは、最後は芸備線そして福塩線でフィニッシュとなった。すでにルール変更が発表されていて、このように振り返るとややむなしさを感じてしまう)

実は道程については、あまり深く考えていなかった。時刻は11時前。篠ノ井線は幹線でありながらも篠ノ井~松本の普通本数は決して多くはない。ゆっくり回ると、あっという間に夕刻になってしまうはずだ

川中島駅。道路は濡れているが雪はない。想像するに雪は降ったが、c川中島駅。道路は濡れているが雪はない。想像するに雪は降ったが、そう多くはなくすぐに溶けてしまったのだろう

スマホで電車の時刻などを確認していると「おばすて」の声が聞こえる。ご存じ、日本三大車窓のスイッチバック駅だ。数え切れないぐらい来ているが、やはり車窓に目が行ってしまう。するとそこは

「ええ~っ」の光景。いつの間にか豪雪に戻っている

雪の姨捨駅は初めてだが、これは美しい。そしてやや分かりにくいかもしれないが、左側(長野側)奥の部分に注目。そのあたりは雪がない。対して右側(松本側)は雪。積雪の境目となっている。積雪の境界を肉眼で見たのはもちろん初めて。これは貴重な体験だった

雪の松本駅前から歩き始める

ただ貴重な体験をしたのはいいとして、となると松本の状況は、ということになる

独特のアナウンスとともに松本到着。駅の外に出るのは十数年ぶり

駅はまさに銀世界。時刻はすでに12時半を回っている。十日町からやって来たので、すでにフリーパスの元はとっているが、まだまだホテルのチェックインすらできない。車窓から気になるというか、以前から気になっていた駅が見えた。大糸線の北松本駅。洗馬と同じく「大都市近郊区間逃れ」の駅として同業者(鉄道ファン)の中では知名度が高い。この駅は篠ノ井線の線路が目の前を走っているのに大糸線しかホームがない駅で、よけいに目立つ

地図で見ると松本からそう遠くはなく、徒歩でも十分行けそうだ

アルプス口は初めてである。多くの人出にぎわう、お城口とは雰囲気が全く異なる

まさに「足下が悪い」のだが、歩き始める。思えば、これが大糸線の全駅訪問の第一歩となったわけだが、この時はそのようなことは全く考えていなかった

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塩尻駅の旧駅舎跡はハロウィーンでにぎわう街の中心部にありました

塩狩駅の駅名標

※訪問は2024年10月26日

貴重な特急も乗継割引廃止の余波で

朝8時半すぎの名古屋駅在来線ホームでの朝食はきしめん。これはこれで十分美味だが、乗継割引の影響はこんなところにも出ている。少し前なら割引分で千円以上の駅弁を食べられたのだが

9時発の特急「しなの」乗車。本日は10両編成というサービス編成だが、2日前に指定席が満席だということを知り、いずれにせよ2両しかない自由席の列に並ぶ。駅員さんも複数で自由席の案内。8時45分から並んで何とか通路側の座席を確保。多くの立ち客をデッキに積んで名古屋駅を出発。ちなみに途中駅でポツポツ下車があり、塩尻到着時は全員が着席できていた。ちょっと不思議だったのは、多治見や中津川でも下車があったこと。私より前に並んでいた人だったので、少なくとも20分はホームで待っていたことになるが、20分もホームで立っているなら在来線の快速なり普通に乗った方がいいのでは?

ただ私も過去数え切れないぐらいしなのに乗車しているが、しなのの自由席の混雑具合というのは年に数回の乗車では全く想像できない。今回は8両もある指定席が満席だったことで想像できたけど

約2時間で塩尻到着。当駅からJR東日本の区間に入るので必ず行われる運転士と車掌さんの引き継ぎ儀式。しなのという列車は名古屋と信州を結ぶ幹線らしい特急だが、長野~松本という県内の重要な移動も担う列車にもなっている。だからこその1時間に1本という頻発ダイヤだが、この区間は完全なJR東日本エリアでありながら、特急車両はすべてJR東海という貴重な乗り物にもなっている

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今のうちに見ておこう

塩尻駅には、ここ2、3年の間にも散々来ているが行ったことのない場所がある。旧駅跡だ。先に地図を示すと、この位置となる

1982年(昭和57)まで駅は地図で示されたロータリーの位置にあった。点線のように描かれているのが今も残る線路だが、旧駅のあたりの線路が多いことが分かる。そして中央東線と中央西線を結んでいる短絡線が、かつての中央本線だった。現在は中央東線と中央西線を直通しようとすれば、必ず塩尻駅でスイッチバックを強いられるが、駅移転までは中央本線の東西はそのままスルーできて、名古屋方面から松本方面に行こうとすれぱ(特急しなののコース)、塩尻駅でスイッチバックする必要があった

残った旧線は臨時列車や団体列車に使用されてきたが、今はほぼ使われていない。廃止の話もある。だったら今のうちに見ておこうと今回の訪問となった

駅前ロータリーを右に向かい、突き当たりを左へ折れると街がにぎやかになってきた。銀行があり商店街がある。このあたりが塩尻の中心部だということが分かる

それにしても人が多い。家族連れが目立つ。週末ということもあるのだろうが、何やら仮装ムード。この時点でも塩尻旧駅しか興味のない私は何のことやら理解していなかったが

先の道路が通行止めの歩行者天国となっていることで、ハロウィーンイベントだということをようやく理解した次第

そして通行止めとなっている大門八番町の交差点を右に折れると、そこに見えたのが

時計とロータリー。これは分かりやすい。どう眺めても駅前ロータリーの跡地だ

住所は大門一番町の1。駅の住所が1丁目1番地というのは、よくある事例だが、こちらも例に漏れなかったようだ

駅近くには、いわゆる駅前旅館があり、郵便局もある。商店街の近さから、駅が街の中心部にあったことが分かる

東線と西線がスルー構造だった理由

近づけるところまで近づくと、ここが貨物ホームのあったと思われる場所。旧駅付近の線路は貨物機関区となっている

特急「あずさ」が通過していった。旧駅の様子は中央東線に乗っているとよく分かる

踏切はもちろん渡れないが、奥に見える斜めにカーブしている架線が短絡線

現在というより、駅移転のかなり前から中央東線と西線を直通する定期列車は時刻表から消えていた。手元に1978年10月の時刻表(復刻版)がある。特急しなのはすでにあったが、新宿から松本へ向かう東線の特急あずさは塩尻通過列車があったにもかかわらず、しなのについてはスイッチバックの関係で全列車停車である。しかも塩尻駅では5分以上の停車を強いられていた

なぜ同じ中央本線なのにこのようなスイッチバック構造が生まれたかというと、長野から塩尻まで篠ノ井線を経由しての東京方面行きが中央本線だったのだ。長野と東京を結ぶ路線を信越本線と、もうひとつ設けようという目的だった。塩尻駅の開業は1902年(明治35)と古いが、松本から延伸された現在の篠ノ井線の終着駅だった。その後、岡谷からの線路(旧線)がつながった。現在の中央西線の登場は、さらに後。要は長野から松本を経由して東京へと向かう線路が先にできたので、松本から名古屋方面は塩尻でスイッチバック構造になった。名古屋までの全通を機に中央本線と篠ノ井線という路線名が付けられ、東京からだと松本へも名古屋へもスイッチバックなしで行けるようになっていた

ただ東京方面からも名古屋方面からも主要客は松本や長野を目指す。需要とは異なる不便なスイッチバックだったが、ずっと残っていた理由のひとつは中央本線が東海道本線のバイパス的な役割を担っていたため。日本の大動脈である東海道本線でトラブルがあった場合、旅客輸送も貨物輸送もストップしてしまう。そのための保険として中央本線は東西がスルー運行できるようになっていた。ただ東海道新幹線の開通によって、バイパスとしての存在感は薄れ、定期列車もなくなった

旧駅からの新駅まで、歩行者は線路沿いに歩いていくことができる。こちらが近道だ。現在、東西からの貨物列車も塩尻駅ホームに入る運行となっている。近年、わずかに短絡線を結ぶ臨時列車の運行があったが、ここ数年は運行されていない。短絡線の存在意義も薄れている

駅へ戻って気付いたのだが、改札近くの窓もズラリとハロウィーン仕様だった

旧駅跡は塩尻駅から徒歩10分もかからない。機会があれば、ぜひ訪れてみてほしい

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中央西線の駅をすべて訪問してみよう~1カ月遅れで本当のゴール 初めて知った「木曽」

日出塩駅の駅名標

※訪問は2024年9月8日

1駅の積み残し

青春18きっぷを利用しての中央西線各駅訪問から1カ月。無事に全駅を訪問した…はずだが実は1駅だけ回収しきれていない駅があった。塩尻の2駅手前の日出塩である。これは8月の時点で分かっていたことだった。自分の立てた旅程だと、どうしても贄川と日出塩のどちらかに行けなくなる。ちょっと迷ったが、洗馬から塩尻市のコミュニティバスに乗車する際、下車するのは「贄川駅前」か「日出塩上」のどちらか。これは当該記事でも書いたが、乗下車するなら「贄川駅前」の一択でもある。「○○駅口」や「○○駅上」という停留所は、駅から離れていることが多い。こういう時は無難な方を選択する

もともとはあまりの暑さに2024年夏の青春18きっぷは購入しない予定だった。それが9月上旬に全く別件で長野に行くことになり、ならば18きっぷを買ってみるか、となった次第。つまり9月の予定が入ったからこその8月の中央西線だったのだ。後から出てくる話だが、18きっぷの期限は10日で残り3回の権利を持っていたこの日が8日。強制的に今日から3日間は18きっぷの旅となる

日出塩訪問の後は篠ノ井線を北上して篠ノ井で下車するつもり。日出塩に立ち寄った後は後戻りするのではなく前身あるのみなのだが、ここで懸案事項がある。前夜は春日井に宿泊(名古屋のホテルが満員だった)し、8月と同様に6時13分に名古屋を出る中津川行きに乗車すると松本行きに接続して日出塩まで連れていってくれるのだが、先に当駅の時刻表を披露すると

このようになっている。日出塩到着が9時33分。その場合、次の塩尻行きは2時間以上後の11時42分で、ちょっと空きすぎだ。最初はそれでもいいと思っていた。なぜなら8月にコミュニティバスに乗車した際、日出塩と贄川の間に「これより木曽路」の石碑があることを知ったからだ

日出塩駅から徒歩約30分。ちょうど良いではないか。行って帰ってこよう、9月になれば暑さも多少は和らぐだろう、と考えていた。だが直前になっても暑さは相変わらずで、いくら標高800メートルとはいえ往復1時間歩くなんて絶対無理となった。そこで、ややゆっくりめに宿を出て中津川から塩尻まで特急ワープし、塩尻から普通で折り返し10時58分に日出塩着、11時42分に再び松本方面へと向かうことに。これなら滞在40分ほどだ

簡易駅舎がお出迎えもしっかり残る「S7年」

と、そんな思いをしてたどり着いた日出塩駅は

ご覧の通りの簡易駅舎

一応、扉は閉まるようになっていて寒さはしのげるようだ。中央西線では簡易駅舎は今のところ珍しい存在で、中津川以北の今回のシリーズでは落合川と当駅のみである。以前は開業時以来の木造駅舎があったが、10年以上前に現在の形となった。駅の歴史は1913年(大正2)に洗馬と贄川の間に信号場として設置されたことに始まる。1926年に駅に昇格した

ただ駅には古い建物も残されている。駅舎と反対側の中津川方面ホームにある

木造の待合所には

昭和7年(1932)の財産票が張られていた

「国」でないことを初めて知る

駅は高台にあり、ふもとには公民館。2022年度の1日あたり乗降者数は16人で、中央西線では37駅(塩尻、金山をのぞく)中の最下位だが、案内で分かるようにお手洗いの設置はある

ということで無事に全駅訪問が完了。とても恥ずかしいことだが、60歳を過ぎるこのトシまで「木曽」という旧国があると思っていた。「木曽路」はあっても「木曽国」はない。各駅のことを調べているうちに初めて知った。このように駅巡りは年寄りに、さらなる勉強をさせてくれる

また多くの明治からの古い駅舎が今なお残るという事実もあらためて知らされた。これらの駅がいつまで残るかは分からない。旧中山道の宿場町にちなんだ駅は大丈夫という気はしないでもないが、これはあくまで私の楽観的予測だ。耐震性を持ち出されるとどうしようもないのが古い駅舎の宿命でもある。基本的には普通しか停まらない駅ばかりだが、明治を表す「M」の入った財産票とともに、その目に焼き付けてほしい

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