JR

加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その3 早朝から単行電車に乗車したわけ

黒田庄駅の加古川線100周年を祝う張り紙

※訪問は2024年12月10日

薄いダイヤ

福知山線の分岐駅である谷川駅の時刻表

パッと見ただけで本数の違いは一目瞭然。福知山線も昼間は1時間に1本の運行となっているが、さらに少ない

拡大するとこのようになるが、時刻表の空白部分に告知などを掲載するのは全国共通である

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9時発では次がない

このダイヤを見ると利用状況の調査うんぬんよりも、これに乗らざるを得ないことがよく分かると思う。平日のみ運行の6時9分は物理的に乗車できないし、次の9時ちょうどでは単純に西脇市まで乗って終わりになってしまう。「次」がないのである。西脇市以降は1時間に1本の運行が確保されているが、過去に全駅訪問済みとはいえ、せっかく来たのだから、特に本数の少ない谷川~西脇市はいくつかは降りてみたい

9時ちょうどに乗ってしまうと次は3時間以上空いて12時10分、さらにその次は再び3時間以上の空白で15時13分。朝が終わると夕方までほとんど運行がない、これまでも当ブログでたびたび出てきた典型的なローカル線の運行パターンだ。西脇はそう遠い場所ではなく、神戸の中心部からだと車なら1時間ちょっとで行けてしまう場所なのだが、もちろんそれは高速道路の使用があるからで、鉄路でも神戸の中心部である三ノ宮からだと15分に1本の新快速に乗り加古川まで30分、加古川からの乗り換えも1時間に1本の運行があって西脇市まで50分と、乗り換えを入れても90分もあれば行ける場所のイメージがあるが、少し離れただけで、このような現状が待っている

JRでは貴重な単行可能な新車の電車

今回主に乗車したのはJR西日本の125系である。ご覧のように単行での運転が可能で加古川線内では主に単行の運用となっている

電車というのは車内にいろいろな装備を詰め込む必要があるため、長らく最低の運行単位は2両とされてきたが、近年は技術の進歩で単行でも可能な車両が生まれたり改造されたりしている。ただJRでの新車となると四国の7000系と、この125系しかない

JRの単行電車といえば

今も現役で宇部線、小野田線を走るJR西日本の123系が有名だが、これは余剰戦力となった郵便荷物用の電車を改造したもので新車ではない。JRで単行可能な電車の新車が生まれない理由は、基本的な考えとして電化区間=利用客の多い路線だからだ。古くから電化されていて現在は乗客の少ない区間や路線はできるだけ最低単位の2両で運行するか、古い車両の改造で対処するというのが基本的なスタンスである。電車の新車を投入するなら利用の多い路線となる。近年は蓄電方式の車両も登場しているが架線は不要である

だが、この125系は2003年デビューと近年になってからのものだ。投入は小浜線と加古川線。JR四国7000系は四国内で電化が進む中で製造されたもので、同じ路線には特急列車も走る。特急車両が電化なら、普通用も電化となる道理だが、小浜線と加古川線に優等列車は走らない。ではなぜ21世紀になって新車が投入されたかというと、両線がほぼ同時期に電化され(小浜線が2003年、加古川線が2004年)、しかもそれは地元負担によるものだった。加古川線に話を絞ると、当時すでに西脇市~谷川は利用者の少ない区間だったが、それでも電化された。それには30年前の阪神淡路大震災が大きくかかわってくる

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その2 朝の通勤通学帯の利用者数は?

加古川線の100周年ラッピング車

※訪問は2024年12月10日

乗継ぎを待って出発

同一ホーム乗り換えができる谷川駅での福知山線と加古川線の乗り換え。谷川駅の福知山線列車は上下とも駅舎側つまり加古川線ホームのある側のホームに到着するが、列車交換の時間帯では跨線橋を渡ったホームも使用される。ちょうどその時間帯だったようで、私が乗ってきた福知山線の普通は7時32分に到着して6分間停車する。その間に大阪行きの快速がやってきて7時38分に上下列車が同時に出発。加古川線列車は乗継ぎを待って7時42分に出発する

私が車内で出発を待っていると、おそらく大阪行きからの乗継ぎだろう。あわただしく2人の夫婦らしき方が乗り込んできて、その直後に出発となった

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出発時の利用者数は?

さて、その出発時の乗車人員はというと

6人

である。もちろん私も含まれている

私が最初に車内に乗り込んだ時の様子。1人死角に入っているが、私を入れて4人。ここに前述の2人が加わった。18きっぷの初日だが、同業者(鉄道ファン)はいない。最初の3人は地元の方のようだ。後からのご夫婦は、どうも跨線橋を降りて一度逆方向に行ってしまったようで「危なかった」と話しているので地元の方ではないようだ

今回のテーマは加古川線の西脇市~谷川の利用状況を見ること。後に触れるが、全線50キロに満たない加古川線は、加古川~西脇市と西脇市~谷川で歴史も異なれば、利用者数も大きく異なる。ほとんどの電車は西脇市で運行が分断される。利用者の少ない後者は7駅しかない(西脇市と谷川をのぞく)が、過去の体験でも着席が困難だった記憶はない。ちなみに全駅訪問済みである

中吊り広告の位置に素晴らしいものがあった。途中7駅のうち久下村だけが丹波市に所属し、他はすべて西脇市にある。現地の校区のことは分からないが、西脇の高校に通うのなら船町口あたりから高校生が乗ってくるのだろうか。乗車車両の西脇市到着は8時12分。まさに通学に乗ってください、という列車でだ。次の電車は1時間以上後なので高校には行けない。この電車に乗るための早起きだった

結果を書くと

久下村 乗車1 降車0

船町口 乗車2 降車0

本黒田 乗車6(すべて高校生) 降車1

黒田庄 乗車7(高校生6) 降車0

日本へそ公園 乗降ともに0

比延 乗車1 降車2

で、いったん下車。つまり降車客のうち1人は私だ。西脇市までは、この後は新西脇駅のみしかないが、新西脇駅近辺からなら自転車通学だろう。結論から言うと高校生の12人を含めても20人ちょっとの利用者だった

比延で下車した後の私は一度黒田庄まで戻り、黒田庄から再び西脇市行きに乗車して新西脇で降りた。このあたりの過程は後に記すが、その道中の利用は

8時26分比延発谷川行き

先客8人

比延 乗車2(私を含む) 降車0

日本へそ公園 乗車0 降車2

黒田庄 乗車0 降車1(私)

9時16分黒田庄発西脇市行き

先客4人

黒田庄 乗車1(私) 降車0

日本へそ公園 乗降ともに0

比延 乗降ともに0

新西脇 乗車1(私) 降車0

という状況。周囲は公園のみの日本へそ公園で朝の8時台に2人降りたのは驚いたが、公園内で働いている方々だろうか

それを除くと「私」がドアの開閉に重要な役割を果たすことになってしまった。これは想像を大きく下回る結果だった

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加古川線100年、阪神淡路大震災から30年~その1 新生18きっぷの旅は早朝から

谷川駅の駅名標

※訪問は2024年12月10日

早朝の尼崎駅からスタート

時刻は朝の6時前。冬至目前のJR尼崎駅前は真っ暗だ

手には改訂されて初めて手にする青春18きっぷ。たまたま18きっぷ期間の初日となったわけだが、それは今回の件とあまり関係ない。少しでも寒さがマシなうちに、というのが本音である。さらに言うと3日間利用のこの日がメインイベントであって、朝の時点では翌日と翌々日のことは考えていなかった。前日の時点では天気が悪ければ、訪問日を翌日か翌々日に変更してもいいと思っていたほどだ

前記事で三岐鉄道北勢線での自動改札機におけるオペレーターとの通話システムについて記したが、その時に例として挙げたJR西日本の同システムは尼崎ほどの大きな駅にもある。西口は有人だが、東口はほぼ無人状態で、ここを通らなければならないが、新生18きっぷはここでの面倒な作業は必要なくなった

とにかく6時1分の福知山線福知山行きに乗車して出発である

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多くの高校生でにぎわう

大阪から福知山に行くには、この列車が事実上の始発となる。福知山線のさらに早い便もあるが、宝塚や新三田止まりで福知山まで行かない。また時間が経つと福知山線は篠山口での乗り換えが必要となるため貴重な1本。過去何度乗ったか分からない。ただ4両編成という窮屈さで朝の5時台という時間ながら、かなりのお客さんがいる。今日は座れないということはないだろうが、18きっぷの最盛期は大阪から乗らないと着席に危険信号が灯る列車である

何とか座席にはありついて篠山口も通り過ぎて下車したのは

1時間半後の谷川駅。「たにがわ」ではなく「たにかわ」と読む

広い待合室がある。5年以上前に来た時は自販機が並んでいる場所が売店だったはずだ。待合室で多くの人がテレビを見ていた。今もテレビはあるようだが、訪問時は消えていた

それでも1899年(明治32)の開業で昭和初期に改築された立派な駅は多くの高校生でにぎわっていた。過去、高校生の記憶がないのは当駅訪問が週末ばかりだったからかもしれない。自宅からご両親に駅まで送ってもらう地方都市ではおなじみの光景

緑の窓口もあって一部の特急も停車する

にぎわうホームの片隅に

ただ私が用事があるのは

跨線橋の隣を抜けての切り欠きホーム

西脇市行きの電車が待っていた。100周年のヘッドマークが付いている。加古川線は昨年暮れの12月27日に100周年を迎えた。式典のニュースもテレビで流れていたが、厳密に言うと全通100周年で、野村(現西脇市駅)~谷川が開通して現在の加古川線の形となった。手がけたのは播丹鉄道という播磨と丹波から1文字ずつとった会社である。国鉄の谷川駅に間借りの形となった。それゆえ福知山線と加古川線の線路はダイレクトにはつながっていない

線路そのものはつながっているが、スイッチバックのような形をとらなければならないので旅客列車は直通できないのに等しい。それが問題になるとは、30年前の阪神淡路大震災まで誰も予想だにしていなかっただろう

加古川線ホームは現在、番線の数字も与えられず単に「加古川線のりば」となっているだけで、まるで別会社のようで現状を物語っているようでもある

30年前は多くの人が谷川線と福知山線の間にあるホームを慌ただしく行き来していた。今回は再確認の半日旅である

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~番外編 不思議なJRと名鉄の線路共用

小坂井駅の駅名標

※訪問は2022年6月12日

※動画あり音声注意

豊橋駅の不思議な構造

豊橋駅の写真なら、いくらでもあると思っていたが意外と撮っていなかった。こちらは2019年6月30日のもの

豊橋駅は初めて来る人は面食らってしまう構造となっている。名古屋まで完全なライバル関係となる名鉄と改札を共有するどころか、名鉄のホームは飯田線と東海道本線に挟まれる形で存在する。三重県でも津や松阪、伊勢市でも改札の共有が行われているが、両社のホームは別で、厳密にはそれぞれが駅舎を所有していて、桑名のように自由通路を設けることで改札口も別にすることは可能だが、豊橋だけは永久に変えられそうもない

JRの構内の一角というか真ん中に名鉄のICリーダー(乗り換え用)やきっぷ売り場があったりするが、これも歴史の積み重ねのひとつ。なかなか飯田線を扱う機会がなく、お蔵入り気味になっていた平井信号場の紹介を番外編として取り上げることにする(訪問は2022年6月12日)

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かつては重要駅だった小坂井

豊橋から飯田線で3駅目。小坂井で下車

駅舎は平成になってから建て直されたもの。コンクリート構造の簡易的なもので無人駅。1日の利用者数(2022年)は787人。周辺は主に住宅街だが、近くにある名鉄の伊奈駅や東海道本線の西小坂井駅に比べると、両駅が名古屋から直通できることもあって少ない。ただ、かつては名鉄の乗り換え駅の時代もあり、また運行の重要駅でもあった

平井信号場へ

冒頭で豊橋駅のホームについて触れたが、小坂井に至るまでの飯田線の2駅である船町と下地のホームに立っていると名鉄の車両がやって来る。営業列車でお客さんも乗せている。あまり旅人が行く駅ではなく、日々利用している方にとっては日常の光景なので驚く方はほとんどいないが、初めて遭遇するとビックリするはずだ。そして名鉄の車両は普通もすべてこの両駅を通過するのだが、JRと名鉄が同じホームを走行するシーンは飯田線のひとつのハイライトともいえる

ではJRと名鉄は一体どこで分岐するのか。その分岐点が平井信号場。信号場というと山中の近寄りがたい場所にたたずむイメージがあるが、平井信号場は違う

10分もかからず歩けてしまう。通行量の多い道路で歩くには注意が必要なほどだ

信号場とは平井踏切。名鉄、JRともに複線区間となっていて、こちらは下り線(名古屋方面)の分岐地点。踏切の上で分岐するという見やすい構造

さっそく踏切が降りて列車が来るようだ

名鉄車両が来て

あっという間に通過

去っていった。右に行けば飯田線である

元々は民民協力事業

これまでの記事で何度も書いているが、飯田線は4社の私鉄が戦時買収で国鉄となったもの。この部分を「担当」したのは豊川鉄道という会社だったが、その後に名古屋から豊橋へと線路を伸ばしてきたのが愛知電気鉄道(現在の名鉄)である。当初は伊奈から小坂井へと敷設され、豊橋(当時の駅名は吉田)へと向かうには小坂井で乗り換える形をとっていたが、やがて直線で豊橋と結ばれるようになったのが1927年(昭和2)。豊橋へは豊川鉄道、愛電ともに単線だったが、この部分は両社で共有して利便性を向上させようということになって現在の形が出来上がった

現在のJRの線路を名鉄が走る形となったのは、戦時買収で豊川鉄道が飯田線という国鉄路線となったため。吉田駅は国鉄の駅名だった豊橋に変更されて同じ駅となったが、線路の共有だけは変えようがないので南側の部分は国鉄が、北側の部分は名鉄(1935年から名古屋鉄道)が所有することになり、JRになった今もライバル同士が同じ線路を共有するという形態が続く。グーグル地図では両線からの点線部分が重要で注目点である

今度はJRの車両がやって来て右側へと進路をとっていった

小坂井駅と伊奈駅を結んでいた名鉄の線路は名鉄が戦後、独自に豊川線を敷設したため廃止。分岐の操作を行っていた小坂井駅もCTC導入によって分岐をつかさどる役割を終えた

なおライバルが呉越同舟する形となっている豊橋駅だが、飯田線との線路共有のため名鉄は豊橋駅への乗り入れが毎時6本に制限されているジレンマを抱えているため、普通列車の多くは隣の伊奈駅で折り返すという形式をとっている

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その15 戦時買収から外れ私鉄のままだった路線

本長篠駅はふだんは有人駅

※訪問は2024年10月27日

バスの路線図が物語るもの

本長篠の駅舎内にはバスの路線図と時刻表が大きく張り出されている

これはかつてあった豊橋鉄道田口線の代替バスだ

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鳳来寺参拝と材木運搬

こちらがバスの時刻表。すべてのバスが鳳来寺の参拝道と田口に行く

豊橋鉄道田口線は前身を田口鉄道といって現在の本長篠駅から設楽町の中心である田口を結んでいた22キロの路線。現在、県道32号が土砂崩れで通行止めとなっているようだが、元のルートは県道32号とほぼ同じでUターンして寄り道するようになっている箇所が鳳来寺の参拝道にあった鳳来寺駅。終点の三河田口駅は木材の集積に便利なように田口の町からかなり離れた豊川に近い場所にあったようだ

田口鉄道は資本的にも飯田線の前身となる豊川鉄道、鳳来寺鉄道と密接で鳳来寺鉄道は1929年(昭和4)の田口鉄道開業時に、それまでの「鳳来寺」という駅名を田口鉄道に譲り「鳳来寺口」と改めたほどである。鳳来寺までの参拝客と材木の運搬が目的だったが、豊川鉄道、鳳来寺鉄道と同じく国鉄と同じサイズの狭軌、しかも電化されていたという。この規格のおかげで戦後、豊橋鉄道に引き取られることになったが、戦時買収の対象から外れ国鉄にならず、国鉄が運行を管理するというハンパな扱いとされるだけだったことが後に影響する。国鉄の運行管理は戦後に終了。豊橋鉄道田口線として再出発したものの、材木運搬や利用者の減少そして台風による水害の影響で1968年(昭和43)に廃線となった

本長篠駅は構内踏切を渡ったところに島式ホームがあるが、駅舎に面したホーム跡らしき場所にぽっかりとスペースがある。これが田口線の跡らしい。規格が国鉄と同じであるため、鳳来寺観光の直通列車も運行されていたらしい

来春に訪れる変化

その一方で当駅は来春、変化を迎える

すでにスタンバイ完了に見える。これは分かりやすい。ICリーダーの読み取り機だ。来春に当駅までIC乗車できるようになる見込み。飯田線は現在、豊橋~豊川の8・7キロのみIC乗車ができるが当駅まで拡大される。23キロもの延伸だ。この区間内にはさすがに1日の利用者数が1ケタという駅は存在しない。本長篠も2022年の利用者は419人と92駅(豊橋、辰野をのぞく)中28位

ただ立派な駅舎がありながら、改札付近にリーダーを設置するのではなく雨ざらしの構内踏切に設置するあたり、すでに駅舎移転と取り壊しが念頭にあるのか、などといろいろ考えてしまうのだ

18時前、豊橋到着。すでに大都会。前日の塩尻旧駅跡、リニア新幹線予定地、ダッシュ疑似体験から始まり、飯田からの各駅訪問と起伏に富んだ2日間だった。駅近辺で夕食を兼ねて一杯やった後に帰宅。ただしすぐには新幹線には乗らない。せっかくの青空フリーパス。せめて名古屋までは在来線で向かおう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その14 100歳を超えた駅舎訪問は今のうちに

本長篠駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

ゴールは見えた豊橋まで32キロ

本長篠に到着。時刻は16時を回り、秋の日は暗くなり始めている

ホームのかたわらにある32・1キロのキロポストは豊橋までの距離。飯田から195・7キロもある飯田線のゴールはもう間もなく。これは大阪~神戸(33・1キロ)と、ほぼ同じ距離だが、残念ながら飯田線には25分で結んでくれる便利な新快速はないので、トコトコと1時間かかる

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急増する運行本数

本長篠駅の時刻表。左が豊橋方面、右が飯田方面だが運行本数が大きく異なることが容易に分かる。当駅折り返しの列車が多数あるためだが、当駅が運行の重要駅だということも分かる。もちろん特急「伊那路」停車駅

開業時からの駅舎

本長篠の駅舎。少し離れて撮らないと全景が入らないほど横長の木造駅舎は開業時からのもの

当駅は1923年(大正12)に鳳来寺鉄道によって設置された。鳳来寺鉄道は飯田線の原型となる4私鉄のうちのひとつで、当駅をはさむように大海~三河川合を結び、それぞれ両端で豊川鉄道、三信鉄道と接続した当時の駅名は「鳳来寺」。会社名を名乗る駅となった。鳳来寺は当駅から車で約20分の名刹だが、現実的には湯谷温泉駅からの方が近い。ただ路線バスは本長篠駅から出ている

駅舎にある財産票は

大正12年12月となっている。開業は同年3月なので微妙なズレがある

駅名は開業から6年後に「鳳来寺口」となった。さらに1943年(昭和18)の戦時買収時に「本長篠」と変更。ちょっと話はややこしいが、当時の駅の所在地は「長篠村」で、別に「鳳来寺村」があったため、駅名変更は現状に基づくものだった。しかし戦後にこれらの村が合併して「鳳来町」が発足。過去に手放した駅名が自治体名となった。以降、本長篠駅は鳳来町の中心駅となった(平成の大合併で新城市となる)

駅舎建替えか

そのような歴史を持つ本長篠駅は今年で101歳。鳳来寺鉄道が建設した貴重な駅舎となっている

かつては管理駅でもあったが、現在は新城市の簡易委託駅

この駅舎が移設、建て替えの対象になっているという。現在の駅舎は老朽化している上、地形的に地滑りの可能性があるため、駅そのものを現在の位置から少し北に移動しようという案があるのだが、その場合、JR東海は窓口もお手洗いも設置する予定はなく、早い話が簡易型の駅舎とする構想だという。もし窓口やお手洗いを設置したいのなら、新城市に費用負担が求められる

新城市の答えはまだ出ていないようだが、建て替えの理由が地滑り危機という自然災害が影響している以上、何らかの形での駅舎の変更は免れることはできない。豊橋から1時間で行ける上に本数も多い。101歳の勇姿には早めに会いに行くことをおすすめします

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その13 超難読駅は路線ナンバーワンだった

出馬駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

静岡県へ一度戻る

東栄駅から1駅戻る。1駅戻るということは静岡県に再び入るということになるが、ダイヤ的には東栄で、そのまま次の豊橋行きを待つと1時間20分の待ち時間。だったら約40分の待ちで静岡県の出馬駅へ向かい、出馬で30分過ごせば、もともと乗車予定だった豊橋行きに乗れる

初めて降りる駅となったが、大きな目的のひとつが駅名標の撮影である

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選挙には関係ありません

真っ先にサムネ写真で紹介しているように「出馬」(いずんま)と読む。まず駅名を見て「まさか『しゅつば』ではないよね」とは思うだろうが、それ以上は無理というもの。駅名が学業向上にあたるとの理由で知名度が上がるという話はよく聞くが、こちらはあくまで「出馬」であって「当選」ではない。だから縁起担ぎや必勝祈願で選挙に出た人が訪れたという話もあまり伝わってこないので、知名度的には、難読駅としての存在が上となる

しかしいざ駅で降りてみると、存在感はなかなかのもの

こうして見ると単式ホームと待合所のみという、お決まりの駅の姿。かつては交換可能駅だったという話もあるが、確認ではなかった。問題は駅への出入り口

ホームの端まで歩くときっぷ集札の箱があり、そこが出入口。細い道が続く。写真で分かる通り、左手には民家が並んでいるが、右側は農地そして川で生活感はあまりない

振り返るとこんな感じ。当然だが、車で近づくことは不可能である。さらに進むと踏切があり

ここが本質的な出入口。遠くにホームが見える

隣駅への距離は路線最短そしてもうひとつの最○

出馬駅は1934年(昭和9)の開業。三信鉄道が北へと線路を伸ばす過程で東栄(当時は三信三輪)~中部天竜(当時は佐久間)開業時に設置された。敷設と同時からあった駅となる

難読の駅名については「馬を飼育する牧場があった」「川から泉が湧き出た『いずみ』がなまった」などあるようだが、詳しい由来は分からなかった。

当駅のポイントのひとつは隣の上市場駅との距離。600メートルしかなく、駅間距離が1キロを切ることが多い飯田線でも最短となる。徒歩だと線路の上をまさか歩くわけにはいかないので、もう少し長くなるが、それでも1キロを切っている(ただし県境越えとなる東栄へは4キロ以上の距離がある)

踏切を渡ってみても集落の逆側にホームと出入口が設けられた理由は分からずじまい。普通は人の生活のある側に設置される。交換設備をなくす際、道路拡張のじゃまになるから出入口ごと逆側にされてしまったのか

いずれにせよ付近の住民にとっては不自由な構造となっているわけだが、実を言うと、ここ最近の利用実績は不自由も何もないのである。とにかく、ここ数年の1日あたりの平均利用者は、限りなく「0」に近い「1」なのだ。2022年のデータでは「金野」「伊那小沢」と並ぶ「1」は飯田線92駅(豊橋、辰野をのぞく)で最下位タイ。秘境駅号停車駅と並んでいるのだ。ちなみに「田本」は「2」、「小和田」は「9」である

さらに言うと、この「1」にはしっかり順位付けがあり、小数点以下の数字は分からないが、出馬は堂々の92位である。これは帰宅して調べてから分かったものだが、周囲にこれだけ民家がありながら限りなくゼロに近く、なおかつ最下位とは知らなかった。小数点以下の数字はすぐ変わりそうで2023年以降がどうなっているかは分からないが、てっきり金野が最下位だと思っていたので驚いた

駅にあった周辺案内図。いつのものかは分からないが、出馬駅の案内図というより、お隣の上市場駅の案内図となっている。周辺に民家がありながら、利用者がほとんどいないという駅は珍しくはないが、民家もあって、上下11・5往復あっての「0」はあまり見かけない。おそらく周辺の民家から通学する生徒がいなくなってしまったのだろう。訪問して、そして帰宅してなお一層驚かされた駅となった

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その12 車窓から目をひく駅舎は「鬼」

東栄駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

愛知県最東端の駅

東栄駅に到着。家族を見送るお子さんの姿が絵になる。ここから飯田線は愛知県。ようやくという感じだが、豊橋までまだまだ先は長い。そして駅名標で分かる通り、ここは北設楽郡東栄町。小和田駅から当駅隣の出馬駅までは静岡県だが、静岡県内の飯田線はすべて浜松市天竜区に所在。つまり政令指定都市の「区」にあたるわけだが、平成の大合併が昨日のように感じる私のような世代にとっては政令指定都市=都会のイメージがこびりついていて違和感を持ってしまう

そして当駅は愛知県最東端の駅である

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目が釘付けの駅舎

当駅を語る上で絶対なのが、利用者を迎えてくれるあまりにも特徴的な駅舎。当駅には特急は停車しないが、ぼんやり車窓を眺めていると「エッ!」と身を乗り出してしまう。今回、下車駅に利用したのは、もちろんそれが理由なのだけれど(笑)

東栄駅は1933年(昭和8)に三信鉄道によって開業された。当初の駅名は「三輪村」。三輪村に所在したので三輪村となったのだが、その後「三信三輪」となり、国鉄に戦時買収された際に「三河長岡」となった。長岡とは町村制施行以前にあった村名で、当時の地域名でもあった。1956年に三輪村は編入される形で東栄町の一部となり、直後に駅名も現在のものとなった

地図を見ると、すぐ近くに静岡県との境界があり、愛知県最東端だということがよく分かるが、東栄町の中心部である旧本郷町とはかなり離れている。それでも町内にただひとつの駅ということで、地元で愛される存在だということは駅舎を見れば容易に分かる

車窓からはインパクト絶大な駅だが、外からはかなり普通で、工夫が施されていることがかえって分かりやすい。無人駅だがカフェが入居している

これが財産票のようなものだが、1992年(平成3)に地元の木材を使用して建てられたそうだ

もちろんJR東海らしく「正式な」財産票もしっかり張られていることは言うまでもない

モチーフは鬼

ホームに降り、構内踏切を渡ると駅舎前で待っているのは

チェーンソーを持った鬼。凶器を持った鬼に「WELCOME」と言われても、となるが

傍らに解説がある。この鬼はオニスターという町のゆるキャラ

駅前の観光案内図を見ると、鬼は木を切るだけでなく、山に登ったり温泉に入ったりと大忙しである。鬼は地域に伝わる花祭で鬼の舞を行う重要な役割を担う。花祭は奥三河の重要行事で各地で11月から1月にかけ各地で開催。また東栄町はチェーンソーアートでも知られ、駅にチェーンソーを持った鬼がいるわけである

こちらは駅舎内のカフェ入口。駅前には民家以外、これといったものはないが、町の中心部まではコミュニティバスが運行されていて、このバスは豊根村まで運行されている。豊根村といえば、飯田線では静岡県にあるのに愛知県の村の入口として有名な大嵐駅があるが、豊根村は旧豊根村、旧富山村と2つの村域に分かれていて、旧豊根村は東栄駅が、旧富山村は大嵐駅がそれぞれの最寄りとなっている

かつての貨物用線路が今も残る当駅の1日あたりの乗降客数は108人(2022年)となっている

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その11 私が「秘境駅」の言葉を使用しない理由

平岡駅の駅名標

※訪問は2024年10月27日

当駅は秘境駅ではありません

小和田から15分ほどで平岡駅に到着。再び長野県に戻った。山中の飯田線をウロウロしていると、運行がしばらくないという時刻表の壁に必ず直面する。その時間をうまく昼食の時間に充てられたらベストなのだが、当然ながらそううまくはいかない。これだけの規模の町なら何とかなるだろう、と思って何もないというのは全国のローカル線(かなり利用者の多い駅でも直面する)あるあるで、その場合は主要国道のような幹線が近くを通っていれば、コンビニも含め何とかなるケースが多いが、天竜峡~本長篠の県境部分はそうもいかない。その意味では

温泉、宿泊施設の龍泉閣と一体となった当駅は心配無用。ここでは11時36分に着いて13時25分に去るという日程で、もちろんレストランもある。水窪で降りれば何とかなるかも、という道程も作りかけたががギャンプルは止めておいた。どの駅で降りても2時間潰さなければならないのだから、食事だけでは時間は潰れない。週末は昼間も温泉に入れるという平岡駅が安心である。当然ながら、当駅は秘境駅ではない

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飯田線6駅

平岡駅は1936年(昭和11)に満島駅として開業した。三信鉄道が北から延伸。間もなく小和田まで延伸されたので約半年間の終着駅だった。満島とは明治初期まであった村の名前。明治の町村制施行と同時に平岡村が誕生。それでも当初の駅名は満島だったが、1952年(昭和27)に現駅名へと変更された。自治体としては、その後の1956年に天龍村となった。特急「伊那路」であることはもちろん、秘境駅号の停車駅でもある。早朝と夜には当駅始終着の設定もある

駅舎には構内踏切で向かう

飯田線には「秘境駅6駅」と呼ばれる駅があり、それは「小和田」「田本」「金野」「中井侍」「為栗」「千代」の各駅。うち中井侍と為栗が天龍村に所在し、最近になって伊那小沢駅も秘境駅号の停車駅となったため、天龍村にある5駅のうち3駅が秘境駅になったことになる(もう1駅は難読駅として名高い鶯巣〈うぐす〉駅だが、こちらもなかなかである)

私は当ブログやX(旧ツイッター)でも秘境駅という言葉は基本的に使用しない。とても素敵な言葉だと思うし、名付け親とされる牛山さんの本はすべて楽しく読み、旅の情報源として大いに役立っている。CSで放送された番組も録画して見たほどだ。ただ地元の方や、(ほとんどいないだろうが)その駅を利用する方が「秘境」と呼ばれてうれしいのか、という気はする。だから「周囲に何もない」「利用者はほとんどない」という表現にしているのだが、飯田線については少し事情が異なる。JR東海公認なのだ。豊橋駅では秘境駅弁当という駅弁も売られている。これは秘境駅と表記しても問題ないだろう

大谷選手の応援で活気

お昼はトンカツ。レストランは大いに繁盛していた。お客さんの様子を見ると地元ナンバーの車で日曜のランチタイムを楽しんでいらっしゃるようだった

駅は無人化されているが、駅舎内には売店や土産物売り場もある。秘境駅号の到着時は大いににぎわう。価値があるのは三信鉄道の歴史を記した大きなパネル。過去の写真も含め、鉄オタならずとも歴史として見入ってしまうもの

そして肝心な時間つぶしだが、食事以外の時間も実は全く問題なく過ごすことができた。というのは、ちょうど野球のワールドシリーズ第2戦の開催日、開催時間となっていて駅舎の休憩スペース、レストランともに中継中。しかも大谷選手がスライディングの際に肩を負傷した、ちょうどそのタイミング。応援にも熱が入る。試合は食事の時間には終わったが負傷の具合は気になるところである。秘境路線でもこれだけの応援と関心があるのは凄いことだと思った

ということで2時間はあっという間に経過。午後になって時間はあるようでない。愛知県へと向かおう

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10年以上後のリニア駅を訪問して飯田線を南下~その10 そして駅舎が残った

小和田駅に放置されたカブ

※訪問は2024年10月27日

※動画あり。音声注意

風格ある駅舎を支える

鉄道ファンを引きつける風格ある駅舎。そんな木造駅舎を支えるように足下にはしっかり点字ブロックが存在するところに妙に感心してしまった。かたわらに放置されているカブとの対比が何ともいえないが、5年前の写真にはなく、見た目とは違い意外と最近になってから置かれたもののようだ。ただ産業廃棄物のようなものを一体誰が何のために、ここに置いたのか?しかもどうやってここに運んだのか?電車に乗せると車掌さんに怒られる。まさか、この山道を延々と運んだのか?

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5年前はできなかったことを…

こちらが小和田駅の時刻表。10時11分に到着して11時16分の天竜峡行きで飯田方面へと戻る。戻らないと次の列車は3時間半後。次も2時間半ない。天竜峡~中部天竜の長野と静岡の県境区間はとにかくダイヤが薄いので、さすがに時刻表の見誤りは許されない。実は金野から当駅への道中で行き違い列車に遅れが出ているとのことで10分近く遅れたが、元々1時間の滞在時間があるので影響はない。5年前は豊橋方面から13時19分着の電車で来て同42分で戻るという楽々コースを利用。駅が駅だけに20分の滞在では物足りなかったので本日は周辺も見てみよう(ただ5年前は20分で良かったといえば良かった。それについては後述)

一躍「時の駅」に

駅名標の隣には「恋成就駅」の木柱。説明するまでもないが、当駅は1993年(平成5)のロイヤルウェディングの際、一躍時の人ならぬ時の駅となった。当時皇太子妃となった雅子さまの旧姓は「小和田(おわだ)」で厳密には違うが、漢字が同じということで多くの人が押し寄せることとなった。今のようにネットがある時代ではなく情報の拡散は遅いはずなのに、多くの人がやって来る映像が連日ワイドショーで報じられた

かなり色あせてしまったが「愛」と記されたベンチが登場。ここに座るためにこぞって人がやって来たが、今は汚れが目立ち座るには勇気が要りそうだ

探索開始直後に足がすくむ

ここから少し歩くとお茶の廃工場と廃屋がある。5年前は時間がなく行けなかったので、今日は行こうと、このベンチ前を通り過ぎようとした瞬間のことだった。目の前の小径を悠然とヘビがニョローリ。灰色のサイズ大のもの。これには足がすくんでしまった。慌てて駅舎へと戻る。駅舎には「ヤマビル注意」の看板も掲げられている。実は5年前に来た時は、ちょうど雨というタイミングもあってか、空中を舞う虫が凄かった。トンボや蝶のような優雅なものではない。どちらかというと人間にまとわりつく系統のものだ。6月終わりなので、もちろん半袖である。これには参った。人の営みも全くなくなった山中。大型の哺乳類だけでなく昆虫もは虫類も生息するのは当然なのだが、いきなり都会から放り込まれると、こういうことへの対応力はゼロである。現在はプラチナきっぷと化している秘境駅号は現在、春と秋のみの運行。以前は8、9月の夏も運行があったが、いつの間にかなくなった。もしかすると生物の活動が影響しているのかもしれない

ということで駅舎でおとなしくすることに。当駅で結婚式を挙げたカップルの写真が飾られている

今はオフィスでもなかなか見られなくなったデスクとパイプイス。立派な駅ノート入れがある

古い駅名標も残されている

特急「伊那路」が通過。駅舎と良い並びだ。考えてみれば私にとってはテレビに映る騒ぎは昨日のことだが、現在35歳以下の人にとってはリアルタイムで体験していない歴史上の事実でしかない。ただ歴史がこの駅舎を残したことは、まぎれもない事実だと思う。ロイヤルウェディングがなければ、おそらく駅舎は残らなかっただろう。もちろん核となる小和田駅の駅舎がなければ秘境駅号も運行されていない。なぜこんなところに駅があるのかを含め、いろいろな価値を残してくれた駅である

5年前の動画を置いておきます

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