JR

宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その22(古風すぎる空港駅)

花巻空港駅の改札

※訪問は2024年7月6日

最初から決めていた道程

一昨年秋以来出会った釜石駅前の「鉄と魚とラグビーの街」の文字を見て花巻に戻る。滞在はわずか30分ほど

みどりの窓口も設置されている釜石駅だが、列車の本数はわずかにこれだけ。快速を除くと1日に8本の列車しかないため、限られた時間内で途中駅ウロウロというのはなかなか困難。本当は陸中大橋駅ぐらいは行きたかったが、今回はやむを得ない。花巻へと戻る

花巻駅で何か食べるのもありだったが、猛烈に暑くて食欲も出ない。売店でサンドイッチを買って、これが本日の昼食である。旅を始めてから連日のようにテレビで報じられていた東京の暑さが、北の地にもやって来たようで、この日の最高気温は30度を軽く超えるという。今日は帰る日なので、ある意味助かった

まだ時間があるため東北本線をちょっとウロウロして

花巻空港駅に到着。こちらについては5月に航空券を購入した時から決まっていた道程だった。まだ利用したことのない花巻空港へ空港アクセス駅から向かおう

ちょっと違和感の「空港アクセス駅」

花巻のお隣の花巻空港駅

複数パターンの駅名標が出迎えをしてくれる

空港アクセス駅だけあって、なかなか彩り鮮やか

だが駅舎を眺めると

実にクラシックな駅舎のお出迎え。空港アクセス駅というと近代的なコンクリート製を思い浮かべてしまう。近年、鉄道で空港にそのままアクセスが流行りとなったので、その印象がより強いが、こちらは開業時の1932年(昭和7)からの木造駅舎

駅はこの春から無人化され、券売機も撤去。ICリーダーだけが設置されている。戦前に空港駅があったのかも含め、違和感はある

違和感を解くカギは駅前ロータリーの石碑にある

「二枚橋駅開設50周年」とある

その隣には「花巻空港駅開業60周年」の石碑が並んでいる

駅の所在地は「花巻市二枚橋」。石碑で分かる通り、元々は二枚橋という駅だった

改名25年で本当のアクセス駅に

駅前のタクシー会社も二枚橋タクシー

大正期に設置された信号場が昇格した。もちろん当時、花巻空港はない。空港の開港は1964年。駅名にも変化はなかったが、JRとなった1988年に転機が訪れる。空港への近さから空港アクセス駅のような駅名へと改名されたのだ

とはいえ空港までの距離は2キロ。そして路線バスはあることはあったが本数は少なかった。2キロといえば徒歩30分ぐらいだが、空港へ手ぶらで向かう人はあまりいない。スマホで調べることなどできなかった時代。知らずに降りた人はタクシーで向かうしか手段はなかった。さらにその後、空港ターミナルビルが駅から遠い方に移転して距離約4キロとなった

駅舎内の地図には「距離4キロ 徒歩40分」とあるが

なかなか40分ではたどり着かないようだ。空港へは盛岡駅または花巻駅からの路線バスがアクセス手段とされ、単なるタクシー乗り場だった時代が長らく続いた(とはいえ、現行のタクシー料金も花巻空港HPによると花巻駅から1900円、花巻空港駅から1400円とそう大きくは変わらない)

転機が訪れたのは2013年のこと。花巻駅~空港のバス路線が廃止され、代わりに盛岡~空港のバスが当駅を通ることになった。現行の花巻空港への路線バスは当該便と北上駅からの2路線のみ。ただし後者の運行本数は多くはなく、また盛岡駅~空港のバス運賃が1500円なのに対して花巻空港駅~空港は320円と安く利用者の財布にも優しい。改名25年で本当の意味での空港アクセス駅となったのだ

私も多くの乗客とともに空港へ移動。無事、伊丹空港行きの飛行機で帰ることができた

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その21(想定外のJR完乗)

釜石駅の駅名標

※訪問は2024年7月5、6日

温暖差にギブアップ

小鳥谷から1時間で盛岡に戻る

時間はまだ13時20分。もう少しウロウロしてみようかと本数の多い東北本線の駅をまったり回り始める。ちなみに宿は盛岡駅とした。一昨日の経験で北上の宿が安いということは分かっていたが、せっかくの旅なので別の都市に泊まろう、と盛岡に。翌日の朝からIGRいわて銀河鉄道の駅をいくつか回りたかったこともある。ただホテル代は北上とは比べものにならない。小鳥谷から1時間の間に予約サイトをあれこれ見て回った結果、駅から徒歩10分で6000円台の比較的新しいホテルを発見したので予約を入れた

ということで盛岡以南の駅を回り始める。以前も記したが、盛岡~北上は昼間も1時間に2本の運行がある区間で本数も多い。だが

暑い

午後になったのもあるし、現地でサッと雨が降ったこともあるのだろうが、奥中山高原や小鳥谷とは比べものにならない暑さだ。昨年3月、盛岡駅周辺は雪ひとつなかったのに、いわて沼宮内駅のホームに立っている間に、目の前でどんどん雪が積もっていった場面を思い出した。こういう時、予約したホテルが駅前だったら荷物を預け、軽装備で行動できるのだが駅から往復で20分は大きな壁である

ということで15時15分には盛岡駅の改札を出てホテルへ一直線。24時間前の青森駅とは乗客の皆さんの服装が異なる。ホテルは大浴場付きだったので早々に風呂に入ってこの日は終わり。たまたま近くにスーパーがあったので、ビールや酒、食料を買い込んでこの日は終わりとなった

最終日の疲れが快速「はまゆり」に

そして翌日。この日は15時台の飛行機で伊丹空港へと向かう最終日

朝の盛岡駅。本数の多い時間帯を狙って朝の6時前には駅に行こうと考えていたが何のことはない、時刻は7時50分。大幅な寝坊である。ちょっと部屋で飲み過ぎたかもしれない。ホテルの部屋飲みは安上がりで結構だが、安い分、店より大量に飲んでしまうことが欠点

いずれにせよ、旅程は大きく変更である。ちょっと考えたが

昨日行けなかった矢幅駅へ。そしてなぜここで下車したかというと

ここから釜石線直通の快速「はまゆり」に乗車するため。1日3往復のはまゆりは、うち1本が盛岡~花巻を各駅に停車するが、残る2往復は東北本線内は矢幅のみの停車となっている。要は釜石線乗車にかじを切ったのだ

実は昨日の朝、盛岡駅ホームで出発間際のはまゆりと、たまたま出くわした。その時点では乗車予定は一切なく「ふーん、こんな時間に出るのか」としか思わなかったが、18きっぷシーズンでないとすいているのだな、が実感。その学習機能で

楽々と自由席に乗車である。花巻で降りる人もかなりいたので、隣席に誰かが座ってくる可能性もほぼなくなった。新幹線との乗り継ぎ駅である新花巻からの観光客らしき乗客もそれなりにあったが、皆さん指定席。観光地の列車でありがちな「指定席の方が客が多い状態」である

唯一の乗り残し路線

実はこの釜石線、現行のレールがあるJR路線で私が唯一、未乗車だった路線である。「レールがある」としたのは日田彦山線BRTが未乗車だからだ

本来は最後の路線ということで、じっくり乗りたい。途中駅でいくつか降りたりしながら完走、ゴールを味わいたいところだ。だから昨日の時点でも、あまり気にしていなかったのだが、寝坊のおかげで他の選択肢が、あまりなくなった。しかも最終的に花巻空港から飛行機に乗るため、釜石に行くとそのまま折り返さなければならないし、ダイヤ上、途中駅で降りるのも、なかなか難しい

それでも

知恵を絞り出したΩ(オメガ)ループの車窓からの眺めは壮観だった。今からグルリと回り込んで下に見える線路に行くのかと思うとワクワク感はある

そして10時52分、釜石到着。矢幅からは2時間の旅だった。釜石に到着した乗客の皆さんは目にした列車で撮影タイム

三陸鉄道のラッピング列車「三陸元気!GoGo号」

とにもかくにも寝坊のおかげでJR全線完乗ということになりました

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その11(北上から三セクの盛岡へ)

北上駅の駅名標

※訪問は2024年7月3、4日

宿泊地は北上

一ノ関から予約サイトとにらめっこしながら北上。本日の宿泊地はあっさり北上に決まった(北上して北上泊とか別にシャレではありません。偶然です)。こういうのは実際に現地を訪れてみないと分からないが、盛岡をのぞくとホテルの数は圧倒的に北上が多く、ホテルチェーンが続々と進出していることはサイトで一目瞭然。これはその後に知ったことで、過去2度、北上で下車したものの素通りばかりだった私は恥ずかしながら全く無知だったのだが、北上には東北新幹線のほか、東北自動車道、秋田自動車道が入っていて流通の拠点となっていて、多くの工場が進出している。ビジネス出張も多いのだろう。そこに宿泊するかどうかは別として、私の体験では多くのホテルチェーンが進出している地区は、食事やコンビニの有無も含め、まず間違いない。結局はあるチェーンのホテルを予約したが、5500円と盛岡より安価に宿泊できた

北上を選んだもうひとつの理由は列車の本数。一ノ関から盛岡を目指すと北上までは昼間は1時間に1本だが、北上からは当駅始発着の列車が加わり2本態勢となる。途中に花巻を含む距離にして48キロ、所要時間50分のこの区間は盛岡への通勤通学エリアと認識されているようだ

魚と日本酒で疲れを癒やすこの瞬間は最高だ

北上駅は1890年(明治23)と130年以上の歴史を有する。開業時は当時の町名に基づいて「黒沢尻駅」。1954年(昭和29)に付近の自治体が集まり北上市が発足したのに伴い駅名も変更となった。国鉄コンクリート式の駅舎が健在

もっとも黒沢尻が北上の中心であることには変わりはなく、住居表示のほか、施設名や学校名にも黒沢尻の名は残る。高校ラグビーの名門、黒沢尻工は有名だ

街中を歩いているとこのように説明文が残っていた。地名の由来は「クロサワジリ(畔沢尻)」から来ていて草の密生した湿地だったという。「黒沢」については「黒土の沢」「水が淀んだ湿地の沢」を意味するとされる

ラッシュ時とかぶる

翌朝はホテル出発が7時すぎと前日から1時間以上遅くなってしまった。それほど飲んだわけではないが、2日続けて5時台の出発となっていて、さすがに身体が動かなかった。事前に予定を決めている旅なら、設定は早い時間にしがちで、それに従って行動するだけだが、逆に言うと、朝も適当にというのは、こんなケセラセラ旅の良さである

とはいえ7時台には駅にいるので、それほどの寝坊ではないが、時間帯が悪すぎた

電車が着くと北上駅のホームは乗降客でいっぱい。私の選択も悪く、北上発7時23分、盛岡着8時18分という最も混雑しそうな時間帯の電車で、なおかつ北上始発ではないため、ドッと降りる人、乗る人が多過ぎて出発は数分遅れた(盛岡には定刻に着いたので、おそらく混雑込みのダイヤだと思われる)。途中、花巻を通るため、ここでも出入りは激しく、その他私が認識できていない学校最寄り駅もあるようで、単に満員というだけでなく、駅に着く度に人の動きが激しい電車で座れることなく過ごしたため、かなりの疲労度だった。とにもかくにも盛岡到着である。ここからIGRいわて銀河鉄道に乗り換え、三セク区間に入る

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その10(仙台は素早くパスして北上)

一ノ関駅の駅名標

※訪問は2024年7月3日

18きっぷシーズンと被らぬように

今夏は発売がないのではないか?という声すら出るほど発表がギリギリだった北海道&東日本パス。私なんぞは5月のタイムセールで早々に飛行機のチケットを買っていたので、最悪は大幅な手数料を支払っても飛行機をキャンセルしなければならないのか、とやきもきさせられた口だ。6月もかなり経ってから発売が発表された時はホッとした。飛行機も例年の利用期間の初日である7月1日にとっていたのだが、なんで初日スタートにしたかというと基本的には青春18きっぷの季節とかぶらないようにしたかったから。この北海道&東日本パスはJR区間で一人で乗る分には18きっぷと同じルールだが、有効期間が長いのが特徴のひとつである。有効期間といっても期間内のどこでも5回と、乗車したらその日から強制的に1週間では事情が違うが、できれば18きっぷの利用者と被らない方が、少しでも混雑を避けられるだろう。何より7月に入ったばかりで、まだホテルの稼働にも余裕がありそうな時期だ

鹿島駅から1時間15分。仙台に到着。いつのまにか東北本線に入っている。つまり普通だけで常磐線の約340キロを完乗した。鹿島のいわき寄りに一駅の原ノ町から出る普通列車はすべて仙台行き。日暮里からの常磐線は岩沼が帳簿上の終点だが、列車はすべて仙台まで直通する。岩沼から仙台までは20分で完全に仙台都市圏内だ。東北本線と合流する岩沼以北は運行本数も都市圏のもので昼間も常磐線の1時間に1本、東北本線の1時間に2本と、ほぼ20分に1本の運行で朝夕は両路線の列車が増える上に岩沼折り返しの列車が加わる。また名取からは仙台空港アクセス線も加わるので多くの電車が運行される

仙台ではランチのみ

早朝からコンビニおにぎりのみだったので、仙台駅構内の立ち食いそばでカレーそば。カレーなんで白いご飯を注文しようと思ったら自動的に付随してきた。この記事を書いている今の季節だったらカレーはちょっと…となったかもしれないが、この時期の東北地方は、テレビをつけると東京の猛暑ぶりを報道していたものの、まだそこまででもなかった。普通におかずと白飯として食べようと思ったら周囲の人々はそばを平らげた後、雑炊のようにして食べている。私も半分ほどは白飯として食した後、カレー雑炊に。なかなか満足

腹が満たされたら即北上である。そもそもあまり仙台で泊まりたくなかった。仙台が嫌いというわけではなく、過去何度も、まさに「美味しい」思いをしている。ただ少し前にホテル事情の記事を書いたが、仙台のホテルはやはり高い。午前中のうちに福島県を抜けられたので少しでも北へと向かおう

一ノ関は3月に泊まった

乗車電車は45分かけて小牛田止まり。というか東北本線を真っ直ぐ北へと向かうと昼間はほぼここで1度降ろされる。そして1時間に1本のダイヤに戻る

小牛田は石巻線、陸羽東線が交わり、気仙沼線も入ってくる鉄道の要衝駅。私も東北に来る度にここで乗り換えをしているため、本来はかなりの難読駅のはずだが、難読ではなくなってしまった

一ノ関行きに乗車。このあたりで本日の宿について真剣に考え始める。すでに13時半を回っている。このままだと14時半ごろに一ノ関へ到着するが、3月に泊まったばかりだし、時間的にはまだ北上できそう。明日は盛岡からIGRいわて銀河鉄道で北上の予定なので、盛岡泊が便利そうだが、予約サイトをチェックすると県庁所在地の盛岡はさすが結構な価格。となると盛岡の手前あたりがいいな、と思案しているうちに一ノ関到着。東北本線は必ず一ノ関で運行が分断されるので、こちらも強制下車となる

3月中旬に来て以来、3カ月半ぶりの一ノ関。そのころは雪が降っていてブルブル震えたが、当然ながら別世界。10分ほどで乗り継ぎ列車に乗車。ここはまだ宿泊したことのない北上か花巻で降りることとして後は予約サイトにかかりきりである

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宿もとらずに鈍行に揺られ飽きたら終わりの北海道&東日本パス旅~その9(気になる駅へ引き返す)

鹿島駅の駅名標

※訪問は2024年7月3日

原ノ町到着でひと安心

原ノ町に到着。浪江駅の項でも書いたが、常磐線は長年交通の要衝であり続ける当駅を境に運行本数が大きく変わる。昼間の普通列車は広野~原ノ町は2時間空きや3時間空きになってしまうが、原ノ町から仙台方面は昼間も1時間に1本程度は確保されていて、どうも最近、時刻表の読み間違えが多い私もここまで来れば「あっ!」となっても修正が可能だろう

と同時に普通は必ず原ノ町での乗り継ぎが必要となる。いわきを早朝に出てから、随分と長い時間が経っている気がするが、時間はまだ朝の9時すぎ。今日は下手すると仙台までかとも思ったが、もう少し先まで行けそうだ

原ノ町では30分以上の乗り換え時間があり、仙台行きに乗り込むと、お隣の駅を通りかかった際、古い駅名標がチラリと見えた。「お~」と思っているうちに電車の扉は閉まってしまったが、時間もまだ早いことだし、ここは出直しだろう

ここは戻って確認

ということで鹿島に到着

まずは先ほどチラリと見えた駅名標を改札口で確認。これはなかなかの年代ものだ。古い駅名標がそのまま設置されている駅を全国各地で、思い出したように見かけるのだが、こういうのって、どんなモチベーションというか理由で残るのか、知りたいものだ

平成の大合併により、現在は南相馬市鹿島区となっているが、それ以前は鹿島町。もちろん駅名も町名に基づく

鹿島といえば、サッカーで有名な茨城県の鹿嶋市が有名だが、JR鹿島線、鹿島臨海鉄道という路線はあるものの「鹿島」という駅はない。鹿島神宮駅をはじめ「鹿島○○」という駅はいくつもあるが、単独であるのは路線名だけ

鹿嶋市は1995年(平成7)に鹿島町から市になったが(つまり明治以来、鹿島町は茨城にも福島にも存在していた)、市制施行の際、佐賀県に鹿島市があったため、重複を避けるため「嶋」の文字を使用することになり、当時はかなり話題になった

そして佐賀県鹿島市にあるのは西九州新幹線建設の際に話題となった「肥前鹿島」駅である。福島県の鹿島駅が明治生まれだったのに対し、こちらは昭和一ケタの開業。この時期は全国で駅名の重複をできるだけ避けるようになっていたので、先頭に旧国名がついた(ちなみに開業当時は佐賀県鹿島町だった)

また東北本線には鹿島台駅(宮城県)があり、鹿島駅より歴史は古いが、こちらは元々の自治体名が鹿島台である

話が茨城県から佐賀県そして宮城県まで飛んでしまったが、要は「鹿島駅」はここだけである

古典の宝庫

鹿島駅の開業は1898年(明治31)。周辺は旧鹿島町の中心部となっている

駅舎はおそらく開業時からの木造駅舎

なぜそのように考えたのかというと、あまりにも渋い財産票が残っていたからだ

この財産票そのものが財産ではないかと思えるほど古いもので「M30」と記されているというより、刻まれている。駅の開業より少し前に駅舎ができたということなのだろう。駅の財産票についてはJR各社で姿勢が異なり、JR東海では簡易駅舎はもちろん倉庫やお手洗いにも細かく張ってあり、JR西日本もなかなか頑張っているが、私見ではJR東日本は探すのに苦戦することが多い。ただその分、このようなクラシックな財産票にまれに巡り会えることもある

屋根に乗っかっている駅名板も明治のものとは言わないまでも国鉄仕様。駅そのものが古典の宝庫となっている

駅は2面2線。かつては貨物の取り扱いがあった雰囲気が残る

現在は無人駅で窓口は閉ざされているが、原ノ町のお隣にこんな素敵な場所があるとは知らなかった。こんな気ままな旅だからの発見である

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まる一日費やして福塩北線の残り2駅回収を目指す~「列車では行けない」駅でシメ

備後矢野駅の駅名標

※訪問は2024年4月3日

最後にもう一駅

福塩線の全駅訪問は終わったが、列車のダイヤを利用してもう一駅。こちらは訪問済みではあるが、列車で下車したこともなければホームから乗車したこともないので、ぜひこういう機会に行っておきたかった

それは備後矢野駅。なぜ、そのようなことになったかというと、そもそもの本数の少なさももちろんあるが、駅舎内に入店している食堂によるところが大きい

「福縁うどん」という餅入りうどんが有名なこのお店は人気店で、私の訪問は4月初旬の週末で、まだコロナ禍にあったが、お昼時はかなりの列となっていた。私もその1人だったのだが、お客さんのほぼ全員がマイカーで公共交通機関での訪問は私一人だったと自信を持って言える

もっとも公共交通機関といっても列車ではなくバスである

停留所から、それなりの距離はある。にもかかわらず、朝夕を待たずにバスでの訪問にしたかというと福塩線を利用しては飲食ができないからだ

備後矢野駅に来る列車は午前は上下とも7時台で終わり、午後は三次行き15時39分、府中行き15時53分が始発。お店はお昼の営業で夕方も15時か16時までだと思うので、列車でやって来てお昼を食べ、食べ終わったら列車で去るというのは、かなり困難な作業。駅舎内に店舗がありながら、そこへは列車での到達が困難だという「列車で行けない」駅となっている

もっとも飲食が目的でないのなら、三次方面からの列車を降りると10~20分後に折り返しの列車がやって来ることが多い効率の良いダイヤではある

備後矢野到着は18時前で、日没が近づいていた

この日はお店は休み。というか営業日でもすでに閉店している時間だが、後片付けや翌日の仕込みで誰かがいてもおかしくはないかもしれない。ただし、休業日ということで駅舎内は真っ暗。どちらかというと暗すぎて驚くレベルだった

車内の写真展

18時。そろそろ去る時が来たようだ。この後は府中経由で福山に出て、さすがに福山からは新幹線で帰る

さてキハ120の中では、このころ福塩線の写真展が行われていた

過去の沿線風景が車内に展示されていて、見とれてしまうものが多かったが、ポスターとなっている昭和45年の備後三川駅のラッシュアワーに目をひかれた

現在、備後三川駅の1日の利用者数は48人(2022年)。写真を見る限りではひとつの列車で軽くその数字を超えそうだ。区間運転も含め、1日に10往復以上が福塩北線を走っていた時代のものだ

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まる一日費やして福塩北線の残り2駅回収を目指す~淡水浴場って?

河佐駅の河佐峡案内

※訪問は2024年4月3日

湖に沈んだ駅

河佐駅前にあった周辺案内図

駅の開業は1938年(昭和13)。上下~府中町(現府中)がつながり、福塩線が全通した際に設置された。1956年に府中市となった河佐村に基づく。梶田、中畑そして八田原の3駅は戦後の開業で、まだ生まれていない。それまでは福山~府中が福塩南線、塩町~上下が福塩北線という名称だったが、全通したことで正式に路線名が福塩線となった。当時からすでに府中以南は電化されていて、府中以北は非電化だったが、通称とはいえ北線、南線という言葉が80年以上後も、そのまま残っているとは多くの人が考えなかったに違いない。というか現在の方が沿線風景が違いすぎる上、運行が完全に分断されているため北線、南線の色合いがより濃くなっている

そして先述した八田原駅はこの案内図だと芦田湖の底に眠っている。新たに建設された八田原ダムによって廃駅となった。1963年10月に開業して1989年4月に廃駅とという、わずか35年の駅だった。周辺案内図では河佐~備後三川の間は線路が描かれていないが、この区間はダム建設による新線付け替えに伴うトンネル区間となっている。八田原トンネルという名称に鉄道としての名を残す。約6キロにも及ぶローカル線では異色の長さで、キハ120でトコトコ揺られると、その長さが実感できる。当然だが、トンネル内は携帯も圏外。そのようなサービスは採り入れられていない

地元で親しまれる河佐峡

減築された駅舎内

この日の私には雨をしのげるありがたい場所ではあったが、基本的には無機質。ただしに写真の左手に見える文章が残されている

「小生 河佐峡の旅」とある。文章の書き手については私の知識では分からないが、夏に河佐峡を訪れた時の思い出だ

途中の農家で取れたての野菜を分けてもらったという話が、以前の日本の風景を思わせる

河佐峡とは駅から徒歩15分(府中市観光協会HPによると20分)のところにある淡水浴場である。実は3年前に福塩線沿線をウロウロしていて「淡水浴」という言葉を人生60年で初めて知った。文字の通り、海水浴に対して淡水での遊び場。当たり前だが福塩線沿線は当然、範囲を広げても地元では有名なレジャーの場だ

そして私の計画では列車を待つ間の80分は現地まで足を運び「河佐峡」と書かれた赤い橋を見ることになっていた。道としては分かりやすそうだし、この季節(4月3日)にまさか水に浸かることはないので、ちょっと滞在すればちょうど良い

だが、この時間帯は雨が激しく断念。この日は午前の三江線遺構訪問といい、雨に道中を遮られる1日となったことが悔やまれる

ということで、サムネの写真にもある通り「奥備後の行楽地」である河佐峡の情報は観光協会HPによるものだが、ウォータースライダーを備えた川の水泳以外にもキャンプ、バーベキュー、釣りが楽しめるという

そして先ほどの訪問記に戻るが、こちらの筆者がハムと肉を買い込んだであろう「こざっぱりした」商店は今も現役である。駅前には店舗が2つも並んでいて、ともに今ならコンビニ、昔の言い方をするとよろず屋になってしまうのだが、1日に5往復の列車しか来ない駅前で買い物に困らないというのは、なかなかないことだ

ちなみにリュックを背負って歩いていた当時の夏とは違い、近ごろの夏は20分も歩くと、それだけで干上がってしまいそうだが、Xのフォロワーさんの情報だと夏場はありがたいレンタサイクルがあるという

時間となったのでホームで列車を待つ。構内踏切による2面2線。これで福塩線の駅は全駅訪問となったが、赤い橋を見られなかったことだけが心残りというか、ちょっと達成感に欠ける全駅訪問となってしまったことが残念でもあった

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まる一日費やして福塩北線の残り2駅回収を目指す~ようやくたどり着いたラストピース

河佐駅の駅名標

※訪問は2024年4月3日

三次から1時間半

7時間の待機(というか時間つぶし)を経て、ようやく三次から福塩線に乗車。14時40分発に乗り込み

河佐に到着したのは16時8分。約90分間のキハ120旅。正直長かった。1時間半とい乗車時間も長いし、たった2駅を巡るための朝7時からの活動時間も長い。ただ長い分、これで福塩線も全駅訪問可能かと思うと、それなりの感慨はある。日没まではまだまだ時間があるはずだが、雨の空は暗く、かなり薄暗い

その河佐駅は写真で分かる通り、すれ違い可能な構造を持つ2面2線。貨物ヤード跡もレールが敷かれたまま残っている

河佐駅は鉄道以外の訪問手段がないことが特徴。3年前の訪問時、府中~上下を走る路線バスのお世話になったことはすでに書いたが、そのバスは河佐、備後三川の両駅付近からはかなり離れた所を走っていて備後矢野付近で再び近づく

最も近いと思われる落合という停留所から2キロ、徒歩で約30分(日本全国、落合はあちこちにある)。まぁ、歩けと言われれば歩ける距離ではあるが、鉄道とバスとの時間がなかなか合わない。バス利用の場合、バス停で降りて鉄道駅に向かうのは目標も時刻もはっきりしているが、その逆はなかなか不安である。山中であればなおさら。そもそも停留所がどのような形で設置されているのかも分からない。私の過去記事でもバス停もしくは、その付近でウロウロしたことを何度か書いている

それに対し、備後三川は若干事情が異なり、広島駅から世羅町の中心部を通り、上下、甲奴を結ぶ「ピースライナー」という路線バスが1日4往復運行されていて備後三川駅の近くを通る。3年前はわざわざバス会社に電話して「上下~三川局前」の区間だけの乗車が可能なのかどうか尋ねたほど。結果的には鉄道のダイヤとうまく合わずに乗車はしなかったが、3年前に河佐と備後三川の二択で選択肢の多い備後三川を残さなかったことが悔やまれる。というか、1月の福塩南線全駅訪問の際、府中駅あたりで2時間ほど時間をつぶせば良かっただけなのだが

河佐で待機80分

こちらが河佐の時刻表。16時8分着でやって来て、この後は福山に出るつもりなので、となると18時15分の乗車とだが、さすがにそこまで待機していられないので17時30分でいったん三次方面へ向かい、どこかの駅を再訪するつもり。要は約80分の待機となる

順番が後になったが、こちらが河佐の駅舎。かなり減築されたようだが雨は十分凌げそうで、隣に立派なお手洗いもある

本来はこの80分を利用して行きたいところが明確にあったのだが、それは雨の振り方次第となってきた

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まる一日費やして福塩北線の残り2駅回収を目指す~7時間の時間つぶし

神杉駅の駅名標

※訪問は2024年4月3日

どうする7時間

福塩北線の残る2駅の回収。1駅目の吉舎は無事終わったが、問題は残る1駅の河佐駅。ただ

時刻表で分かる通り、現在は8時過ぎ。次の河佐方面は15時11分で7時間後だ(12時58分は臨時列車で本日の運行はない)

さすがにここで7時間過ごすわけにはいかないので、あの手この手の時間つぶしを発動することにする

まずは芸備線の神杉駅で降りてみる。こちらは2年前に芸備線の三次~備後落合の全駅訪問を行って以来の訪問だが、塩町と神杉の二択で前回は神杉で乗車したものの下車はしていなかったため、下車することにした。また塩町は場所的に過去複数回降りていて、神杉の桜がきれいだったこともある

なぜ下車しなかったかというと、前回はなかった石碑にその理由がある

立派な石碑だ。元々は塩町を名乗っていたが、それまでの田幸駅が福塩線の接続駅となって塩町に改称。それに伴い当駅は神杉駅となった。田幸駅は後からできたので、駅間距離は短く1・5キロしかない。ゆえに列車を待っている間に徒歩移動となった

線路沿いには歩けないが、それでも20分で到着してしまう。もっとも私は近道を行こうと田んぼのあぜ道チャレンジを決行。例によって(?)失敗したので30分以上かかってしまったのだが(笑)

本日二度目の体験

神杉は駅舎とホームまで距離があり、その間には旧貨物ヤードや留置線が残っている。駅舎側からのホームの姿が私は好きである。2年前の写真にも右側に見える無蓋車があったので、これはしばらく「不動」なのかもしれない

三次に戻る

と、本日2度目の貸切体験。青春18きっぷシーズンのローカル線ではなかなかできない体験を1日2度もしたことになる

三次で乗り換え

ひとつお隣の西三次駅へ。かつてはここが三次駅だった。現在の三次駅は備後十日市を名乗っていたが、三次町と十日市町、他の6村が合併して三次市が成立した1954年に駅名変更。3年前までは三次駅時代の面影を残す立派な駅舎があったが解体され、ホームのみが残る駅となっている

周辺は住宅街だが、三次駅に近すぎるためか利用者は三次~広島で最少の1日10人(2022年)となっている。貨物輸送でも栄えた駅で、広めの構内に雰囲気は残るが、切り株だけにされた木と雨ざらしのベンチがやや寂しい

三江線跡と三次名物も

再び三次に戻り

バスに乗り込み三江線の駅跡訪問。こちらはすでに記事化した

またまた三次に戻り、今度は昼食。三次名物の唐麺焼き。お腹は満たされたが、まだ時間はある。7時間というのは長い

向原駅へ

「山陽新幹線開業記念 向原町国鉄職員一同」とある

時代の転換期を表している

そして今日何度目になるのか、三次に戻ってようやく福塩線の午後の部が始まる

待ちに待った府中行き。ようやく乗車となるが、青春18きっぷというのは実に便利なもの、偉大なものだと改めて思った

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まる一日費やして福塩北線の残り2駅回収を目指す~素晴らしき駅舎と後鳥羽上皇

吉舎駅の駅名標

※訪問は2024年4月3日

福塩北線では利用者最大

吉舎駅に到着。この列車は、ここでしばらく待機して三次へと折り返す

吉舎駅の時刻表。朝の府中方面への時刻表がなかなか壮絶だ。5時台に1本、6時台に1本しかない。前記事でも紹介したが、これは1本が吉舎止まりになったため。6時33分が朝の「終電」となっているが、この列車は7時50分に府中に到着するため府中に近い所では通勤通学、主に高校生の通学に利用される。ということは吉舎以南の福塩北線の利用者が極めて少ないと簡単に予想できてしまうのだが、福塩北線で最も利用者が多いのは、ここ吉舎である。2022年の1日あたりの乗降数は242人。芸備線との接続駅である塩町の262人とあまり変わらない。福塩北線の沿線で町としては最も大きい上下駅でさえ114人。以下は2ケタ前半の数字が並び、備後安田は2人、中畑はデータなしとなっているので限りなく0人なのかもしれない(ただし私は3年前の訪問で中畑駅から地元のご婦人と一緒に列車に乗った)

吉舎駅の利用が多いのは前記事でも触れた広島県立日彰館高校の最寄りだから。周辺駅の利用者数を見ても、当駅の利用者の多くが高校生の通学のためだということが分かる

なお12時58分の府中行き、14時1分の三次行きがともに斜体文字で記されているが、これは臨時列車

試験日や入学式など早めに終わりそうな学校の日程に合わせて運行されるもののようで、学校があるということは青春18きっぷで利用するのは難しいということになる。もちろん私の訪問日は当然運行されていない。その一方で福塩北線の訪問には実に便利な乗り物でもあるのだが、JR西日本のHPには掲載されておらず、運行日は調べるには現地の人に聞くしかないという、なかなか難易度の高い乗り物でもある。ただ今回の旅にあたり携帯アプリの時刻表を順に眺めていくと、アプリには時刻がしっかり掲載されていて驚いた。一体どうやって調べるのだろう

後鳥羽上皇の言葉に基づく

その吉舎駅は1933年(昭和8)の開業。塩町(当時は田幸駅)から当駅まで福塩北線が開業。以降2年は終着駅だった。駅舎は当時からのもののようだ

駅名板と入口ののれんが目を引く。のれんは日彰館高校の皆さんによるものだ

中央に「よきやどりかな」と書かれている。これは地名の由来で、承久の乱で後鳥羽上皇が隠岐へと流される際、ここに宿泊し「吉(よ)き舎(やど)りかな」と語ったという。駅が設置された際は吉舎町で平成の大合併で三次市となった

のれんはホーム側の改札にもあって

こちらは「銀山街道 吉舎」と記されている

銀山街道は石見銀山と港を結ぶ道で中国山地を抜け笠岡へ向かうコースと尾道へ向かうコースがあったとされ、途中の街は福塩線の路線とかなり一致する。街道があって集落と街ができ、ずっと後になって街を結ぶ鉄路が敷設された

息吹は今も残る

無人駅だが、事務所は残り木製の手荷物受付もそのままの姿。「精算口」の文字も残る

ホーム案内は手作りのようだが、こちらもかなり歴史を重ねている

3年前の同時期、福塩線の沿線はほぼ葉桜となっていたが、今年の開花はやや遅いようである。貨物ヤードもそのまま残る。福塩線ではJR移管とほぼ同じタイミングで貨物輸送が廃止された。役割を終えて40年近くが経とうとしている貨物ヤードの向こう側には自動車道の高架が見える

町の中心部を国道184号が貫くと同時に尾道自動車道も横断している。2014年に吉舎ICと三次がつながり、翌年に尾道へも全通となった。全線無料で吉舎からだと三次まで約10キロ、尾道までも約40キロで車だとあっという間に着いてしまう。福塩線の沿線も甲奴、世羅、尾道北の各ICを利用すれば上下や府中までもすぐである。ただ後鳥羽上皇や銀山街道は車で通過すると、気付かないものだというのもまた事実だと駅を降りてそう強く思った

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