JR

日豊本線のもうひとつの難所を訪ねる4~大いにバズった駅でのフレッシュな感覚

西屋敷駅の駅名標

※訪問は2024年4月24日

国道が国と市の境界

雨の中を国道まで出てみる。駅とほぼ隣接するようにビュンビュン車が走る国道10号が並行している

これが国道から見た駅の待合室の様子。後に触れるが、右奥に進んだところが下り線ホームの入口。かつて駅舎があった時代があり、写真の中央部に建っていたとされるが、私は資料を見つけられず、現地で痕跡も探せなかった

そして国道に出る

「西屋敷駅前」という交差点がある。押しボタン式。話はそれるが、押しボタン式信号というのは、押してしばらく経ってから横断歩道が青になるものと、押した瞬間に青になるものに二分されるが、地方に行くと圧倒的に後者の方が多い印象だ。渡る人が少ないからだろうか。この後も2度ほどボタンを押すことになったが、すべて利用者は私のみ。何か申し訳ない気持ちになってしまう

宇佐駅や宇佐神宮への案内表示もある。国道沿いにある左の建物はレストランで、その奥にはラーメン店。訪問時は9時で、まだ開いていなかったが、どちらも現役の店舗のようだ

そして駅と店舗は所属自治体が異なる

西屋敷駅は宇佐市なのに対し、店舗は杵築市である。立石駅の紹介で立石峠を豊前の国と豊後の国の境界と記したが、厳密には峠を下りたこのあたりが国境というか、峠を下りた西屋敷駅付近まで杵築市が食い込んだような形となっている。国道が市境になっていて、雨が激しく歩を進めることができなかったが、国道沿いに国境の碑があるのは、そのためだ

SNS上で話題を集める

さて、この西屋敷駅。昨年SNS上で主役の駅となったことがある。出張で当地を訪れた方が逆方向の電車に乗ってしまい、それに気付いて慌てて降りたのが西屋敷。明るい時間帯だったが、あまりの何もなさと逆向きホームへの移動地下通路の不気味さを投稿したところ、大いにバズって、さらには有名ユーチューバーも後に現地訪問して「凄いところだ」となった

実際には下り線ホーム(大分行き)で降り、上りホーム(小倉行き)へ移動したそうで、私の行動は逆というか乗下車はともに上りホームだったので、上りホームから下りホームへの移動を体験してみた

まず上りホームから下りホームを眺める。写真の右手が国道方面。上りホームからはすぐだが、下りホームの先端はかなり遠くにあるように見える

国道方面へと歩くと、記事の最初の写真の右端にある分岐点へ

国道とは逆方向に。そこには巨大水たまり。これはバズったSNSにもユーチューブにも出てこなかったが、現実的にはかなり前進意欲をそぐものだった

ただ、ここまで来て行かないという選択肢はないので左手を見ると(真っ直ぐ行くとナゾの空き地)

これが下りホームの入口。カーブミラーが丁寧に付いているのが、ちょっとウケた。二輪車の通行ならあるかもしれない

そして何の表示もないが、これが下りホームへの出入口

ちなみにホーム方面の階段を利用せず、真っ直ぐ行くと

田園地帯が広がる。足下はかなり悪いが、いわゆる「自由通路」である

これが下りホームから通路へと至る歩道部分で確かに遠い。最初に下りホームで降りると不安でいっぱいになりそうだ

あらためて知った普通の感覚

ユーチューブでも、駅の構造や本数の少なさが詳細にリポートされていた

ただし私の感じでは、地方の駅にありがちというか、あっても別に不思議ではない構造である。本数が少ないとはいっても1日に10往復以上がある。バス路線は駅付近にはないようだが、その気になれば宇佐駅まで50分ほどで歩けるし、駅の近くには飲食店もある。食事もできるし、頼めばタクシーも呼んでくれそうだ。いわゆる「秘境感」はない

それでもSNSでの投稿やユーチューブを拝見して知ったのは「一般的な普通の感覚」だ。いつの間にか自分自身、このぐらいでは何も感じなくなってしまっていることを改めて教えられた。この記事を読んでくださっている方も、どちらかというと私寄りの人が多いのかもしれないが、考えてみれば1両編成の単行列車に驚く人や、電化と非電化の区別が分からない人も普通にいるのだ

上りホームの「昭和14」の待合所へと戻る。ここには日豊本線でたびたび見かける青い駅名標がある。1時間はあっという間に経過した。ちょっとフレッシュな気分になってやって来た電車に乗る。もっとも下車時と同じで乗車は私一人のみだったけど

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日豊本線のもうひとつの難所を訪ねる3~集落のない元信号場駅には待合所のみ

西屋敷駅の駅名標

※訪問は2024年4月24日

私以外に乗降なし

立石からひとつ小倉方面へと戻り西屋敷で下車。時間は8時50分。事前に予想できたことだが、降りたのは私のみ。入れ替わりに乗車した人もいなかったと思う。小倉方面への隣駅は宇佐。そこまで行けば同駅での折り返しもあるし、手元の「福岡・大分DCオフろう!きっぷ」は特急も乗り放題なので、おそらく移動に苦労することはないが、だからこそ西屋敷で降りたのである。立石と並ぶ日豊本線ダイヤのボトルネック区間を訪れるのが趣旨だ

最初に記しておくが、当初の予定はしばらく来ない電車には見切りをつけ、宇佐まで歩くことだった

この区間の日豊本線は国道10号とほぼ並行して走っている。立石峠も越えた平坦コース。駅間徒歩で最も有効なのは線路とともに歩くことが可能な区間だ。道を間違うこともなく、最短距離で隣駅まで行ける。日豊本線のように電化区間だと少々それても見失うことはないのだが、今回の場合は道路の隣を線路が走っているので、そちらの条件も必要ない。しかも平坦。これだと50分の徒歩もそう苦にならない

しかし残念ながら、この日は雨だった。中津では降っておらず、立石でもパラパラ。天気予報は午後から晴れ。ただ、いい流れだと感じたのもつかの間。西屋敷に到着した私を待っていたのは本降りの雨だった。西屋敷は駅舎のない構造。よりによって、この駅でなぜ?と言いたくなったが、とにかく宇佐への徒歩移動は中止となった

こちらは西屋敷駅の時刻表。8時52分で到着して次は10時9分。1時間20分の待機である

戦後の駅昇格も財産票は戦前

上りホーム入口と下りホーム上にある待合所のみが駅の建造物。というか、この日においては雨を凌げる唯一の場所。ICリーダーが設置されている

駅の開業は戦後の1947年(昭和22)だが、待合所には

かなり年季の入った財産票がある。かなり薄くなっているが、「待合所」「S14 5.2」とある。当駅は1926年(大正15)に信号場として設置された。立石~宇佐が10キロもあるので信号場が必要だったのだろう。臨時や仮の乗降場となった記録は探せなかったが、駅への昇格は1947年(昭和22)。その過程で待合所が必要となった事案があったのだろう

こうして列車が過ぎ去った後の様子だけを見ると一見、単式ホームの駅にも見えてしまうが、右側のちょっと高い所にあるのが下りホーム。そもそも信号場としてスタートしたのだから単式ホームのはずはないが、立石~宇佐が複線化された際にこの位置にホームが設置された。立石駅の記事でも記したが、立石~当駅は複線化の際に下り線は立石峠をトンネルで貫く形にしたため、上り線と下り線が大きく離れている。当駅のすぐ立石側で線路は再び出会う

とにかく、ここから時間をやり過ごさなければならない。信号場としてスタートしただけに付近に集落はなく、私の貸切状態となったのも当然といえば当然だが、傘を手に周辺の散策に入る

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日豊本線のもうひとつの難所を訪ねる2~まるで乗り換え分岐駅のような広い構内

立石駅のホーム

※訪問は2024年4月24日

開業は明治期

あらためて立石駅の紹介を。日豊本線は1895年(明治28)に小倉から大分方面を目指し徐々に開業が始まり、1910年(明治43)に宇佐から立石峠を越えて中山香まで到達。その際に立石駅も誕生した。立石駅が誕生したのは、峠越えの拠点としての駅が必要だったからでもある。立石から中山香まで約5キロ。一方の宇佐までは10キロ以上も離れていた(西屋敷駅はまだない)ため、当時の立石町に当然のように駅ができた

全国の峠越えの駅で見られたように、立石は開業以来、SLの補機を付けたり外したりする重要駅だった。立石峠の逆側にある宇佐駅も広い構内を持つが、同じ理由である。ただ複線電化の時代が訪れると事情は変わってくる。戦後に入って日豊本線に訪れたのは、まず複線化で次が電化。複線化の工事も各地で少しずつ行われ、1966年(昭和41)の7月に宇佐~西屋敷が、9月に西屋敷~立石がそれぞれ複線化。翌年には電化された。現在のいかにも国鉄といったコンクリート駅舎は1965年にできたものだが、真新しい駅舎の完成直後から峠越えの拠点としての機能は失われつつあった

線形の異なる複線

跨線橋からの眺め。2方向に向かって伸びる線路はまるで分岐駅のようだが、目指す場所は同じである。右側が宇佐方面からやって来て大分を目指す下り線で左側は小倉を目指す上り線

立石から西屋敷つまり宇佐へ向かうルート。あえて国道10号での車利用としたのは、国道がぴったり上り線に寄り添っているため。その上に真っ直ぐ敷かれているのが下り線の線路だ。真っ直ぐというか、この区間はほとんどがトンネルである。上り線は開業時のルートでトンネルも約300メートルのものがあるだけ。しかし明治の技術なので何とかトンネル作りを避けるべく川沿いにクネクネと敷設したのに対し、新たに設けられた下り線は3キロ以上ものトンネルを主に走るため、車窓も全く異なる

いずれにせよ複線電化によって峠の拠点としての立石駅は役割を減らしていく。上の写真だと2面4線の構造だが、現在は対面ホームの2面2線

かつては駅舎側から上りホームへ行く際も跨線橋を必要としたが、現在は線路があった部分が埋められバリアフリー化している

駅舎から上りホームへの跨線橋は奥の電柱とともに骨組みだけが残されている

こちらは跨線橋から大分方面を見たもの。左端の線路はすでに現役ではない。線路はこの先、隣駅の中山香まで単線となっている。小倉~大分は原則的に複線だが、当駅~中山香と、その先の杵築~日出の計3区間のみが単線である

駅舎内には地元の手による絵画

駅の周辺は旧立石町の中心地で小さな商店街となっている。まだ朝の8時半で人通りは少ない。駅の1日の利用者は100人を切っている

駅前のロータリー部分も広い。所々遺構が残る

駅舎内には地元の皆さんによる絵画が飾られている。これはかつてのきっぷ売り場と荷物受付の窓口

待合室も同様。とにかく駅前も含め充実した施設だったことは分かる

改札部分には食券式の券売機とICリーダー

ホーム上の木はいずれも伐採されて切り株のみが残る

長大ホームは使用されることのない部分が多くなっている

猛スピードで駆け抜けていった特急を見送り、その後の普通で今度はひとつ隣の西屋敷へと向かう

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日豊本線のもうひとつの難所を訪ねる1~時刻表のちょっとした空白地帯

立石駅の駅名標

※訪問は2024年4月24日

福岡・大分DCオフろう!きっぷ

朝の中津駅。前夜はこちらに宿泊した。一昨日に宮崎空港に到着して以来、ずっと雨。この時点では雨がやんでいてホッとしたが、この後も雨に行動が縛られることになる

手にしているのは「福岡・大分DCオフろう!きっぷ」。現在、9月までの期間限定で発売されている。発券は宮崎空港の券売機だが、ご覧のように福岡県と大分県の新幹線を除くJR線が特急も含め(指定席は3回まで)3日間、乗り放題という、なかなか便利なきっぷである

発売はインターネットのみでJR九州の会員になる必要がある。購入は1週間前までと規定はあるが、クレジットカードが1枚あれば会員登録できる。3日間で8000円はかなり安価で使い勝手があるが、7月からは1万円になるので注意が必要(それでも安価ではある)

大分県内なので宗太郎駅まで有効だが、大分県側から宗太郎まで行くとエリア内に戻ってくる手段はないので、この付近に行くなら宗太郎をまたいで超過料金を支払うというのが現実的な選択になる

ちなみに私は前日

延岡~宗太郎間の最後の2駅訪問を終えた後、延岡まで一度戻って大分県へと入ったが(記事で記した通り、延岡から北川、北延岡への移動は乗車券の現金購入)、大分県へ入る手段は特急しかないため、延岡~宗太郎の乗車券と延岡~佐伯の特急券を別途購入した

宗太郎越えと並ぶ難所の立石越え

本日の最終目的地は博多だが、この旅のひとつの目的地へと向かうため南下。7時51分の電車に乗って

8時27分に立石に到着

先に駅舎を紹介すると

大きく立派な国鉄型コンクリート駅舎である

ただ時刻表を見ると

とても寂しい。小倉から鹿児島まで460キロもを走る日豊本線は南下すればするほど本数が少なくなっていく路線だが、小倉~大分は原則的に複線(ほんの少しの単線区間については次の記事で述べる)で本数も比較的多い。にもかかわらず当駅の時刻表を見ると、特に大分方面においては4時間近くも普通列車の運行がない時間があり、小倉方面についても最大で2時間40分も運転間隔が空いていて、この間は特急のみが30分に1本の高頻度運転を行うという極端なダイヤとなっている

これはなぜかというと、小倉方面からは当駅から2つ隣の宇佐止まりの列車が多く、大分方面からは1つ手前の中山香で折り返す列車が設定されているからだ

宗太郎越は極端すぎるにしても、こういうダイヤは高校生の流動がない県境で出会うことが多いが、この間はずっと大分県である

にもかかわらず、このようなダイヤになっているのは、立石とお隣の西屋敷が立石峠越えという交通の難所に入っているため、現在は鉄道もトンネルと電化があり、道路も立派な国道10号があるため楽々と越えていける区間となっているが、現在は同じ大分県だが、元はというと豊前の国と豊後の国を隔てる国境だった。往来の少ない地域でもあった。このため今も普通の利用者が少ない区間となっている

つまり停車の少ない立石そして西屋敷の両駅を訪ねてみようというのが今回の企画。まずは立石駅をゆっくり見ることにする

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師走の外房線各駅訪問~ドデカホーロー駅名標を見に行きましょう

新茂原駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

冬至前の日の入りは早く

八積から茂原をやり過ごし新茂原に到着。お隣は本納で外房線の各駅訪問を始めた駅。本納で降りたのが8時20分で現時刻が16時20分なので、途中モバイルバッテリーの不調によりロスタイムはあったものの、8時間をかけて元の場所に戻ってきたことになる。冬至寸前なので、この時間帯で暗がりが始まっている。冬の東北や北海道にはあまり縁がない日常を送っているが、東京は住んでいたこともあるし、出張で来る機会も多かった。この季節になると関西と関東の日の入り時刻の違いをいつも感じていた

そんなこともあって本日最後の訪問駅。後は宿泊地の茂原へ行くだけ。外房線の各駅紹介をしていく中で上総一ノ宮を運行の重要拠点駅として何度も紹介してきたが、人口や産業を見ると重要駅は茂原である。昼間に上総一ノ宮以南から北上していくと上総一ノ宮を境に1時間に1本の列車が1時間に2本となり、そこに茂原折り返しの電車が加わって1時間に3本となる。基本形は普通が2本と京葉線直通の快速が1本(蘇我まで各駅停車)。もうひとつ総武本線から東京駅へと向かう快速があり、こちらは上総一ノ宮を出ると大網までは茂原のみの停車となるが、昼下がりは運行されていない

とにかく新茂原には1時間に3本の電車が停車するので訪問は容易である

工場線の歴史も

島式ホームの1面2線駅。茂原市は天然ガスの採取地、生産地としては世界屈指であり、戦前は軍事的にも重要な都市となっていた。ただ当駅は戦後の開業。1955年(昭和30)のことだった。戦後といっても当駅付近はまだSLが走っていて単線非電化の時代。駅は高まりつつある需要に応えたものだったが、やがては茂原に集約されていた天然ガス関連の貨物輸送が手一杯となり、茂原は旅客専用となり当駅が分岐となった

分岐というより線路の付け替えで、茂原駅から三井化学の工場へと向かっていた線路を新茂原駅の北側から分岐する形とした。地図では廃線跡は分からないが、工場の西側を流れる阿久川沿いに線路が走り、新茂原駅の北側で外房線と合流していた。だから新茂原駅そのものには工場線の名残はない。ちなみに三井化学の工場は戦時中は茂原海軍飛行場があった場所で、元々の茂原駅からの貨物線は飛行場へ向けた線路だった

首都圏防衛のための飛行場は突貫工事で建設され、戦時中の1942年からわずか3年間利用されただけだった。工場への新茂原からの専用線も1981年から利用が開始され、JR移管後も貨物輸送が行われたが、1996年(平成8)に廃止。こちらも15年だけの利用だった

駅舎に残る旧駅名標

駅舎は開業時からのもの

1日に2000人以上が利用する駅で有人の営業時間は16時30分まで。閉店ギリギリの訪問だった

そして当駅で価値あるものは

現在も駅舎に掲げられているホーローの駅名標。古い駅名標の保存はどのような基準があるのか私には分からないが、ホーローの駅名板はたまに見かけるものの、これだけ大きいホーロー駅名標は、なかなか出会えない。これを見るだけで十分に価値があると思う。なお以前のローマ字表記は「shin」で現在は「shim」である

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師走の外房線各駅訪問~千葉県唯一の村は複線電化区間の道中

八積駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

東京まで乗り換え、追加料金なしで80分

日が傾いてきたので今日の宿泊地である茂原へと向かうが、ここで茂原近辺の駅訪問も行うべく八積駅で下車。車両を見て分かる通り、京葉線の電車。このまま乗ると東京駅まで乗り換えなしで連れていってくれる。時間帯にもよるが80~90分ほど。運行の要となる上総一ノ宮の一つ千葉寄りなので本数も多い。総武本線の快速は通過だが、京葉線の快速は停車するため昼間も1時間に2本の電車が発着する

なぜ東京までの直通や本数にこだわるかというと、当駅は長生(ちょうせい)村という村にある駅だからだ。長生村は千葉県唯一の村。駅の開業は1898年(明治31)年と古い。その1年前に上総一ノ宮(当時は一ノ宮)まで開通しているので、茂原と上総一ノ宮の間に新設されたことになる。ここまでいくつかの駅で紹介しているように、当時は外房線の沿線は村がいくつもあったが、現在は長生村だけとなった

開業時の駅名は岩沼。これは現在も住居表示として残る駅付近のいわゆる大字で、1915年(大正4)に現駅名となった。八積は当時存在した村の名前で8つの村が合併した成立したことに基づく(8つの村といっても町村制施行の時なので1つの村は小さい)。戦後に他の2つの村と合併して長生郡長生村となり現在に至る

立派な合築駅舎

長生村コミュニティセンターとの合築駅舎を持つが、駅の業務は同センターに委託しているわけではなくJR東日本の系列会社への業務委託で、つまりJR東日本独自である

改札口は小さいが、夕方までは有人

私の訪問時はちょうどその境目で駅に到着して外の写真などを撮っていると

先ほどまで営業していた券売機にはシャッターが降りていた。券売機も営業時間があるのはJR西日本では、あまり見ることのない光景だが、破損されると、いろいろな意味で高くつきそうなJR東日本の券売機に対し、簡易型の食券タイプの券売機を置くことで有人駅の業務を軽減しようという考えの違いだろう

コミュニティセンターのロビーが待合室を兼ねる形となっているようだ。当然ながらエアコン完備で心地よい空間である

長生郡では最大の人口

コミュニティセンターには2023年で、村が70周年を迎えた記念のイラストが張られていた

ただ県内唯一の村とはいっても人口は1万3000人を超えていて、これはお隣の一宮町より多い。それどころか長生郡にある5町1村の中で最も多い。一宮町以外の町には鉄道が通っておらず、千葉方面への通勤通学という意味では鉄道の役割は大きい。2022年の1日の利用者は乗車604人。つまり1200人の利用があるということになる

複線電化上にあることで高速での通過が可能なようである。ホームにいると猛烈なスピードでわかしおが過ぎ去っていった

福島県の西郷村には新白河駅という東北新幹線と東北本線の駅がある(ただしホームの一部は白河市にある)が、村に複線電化の駅があって30分に1本電車がやって来る例は、そう多くない。東京から手軽に行ける貴重な存在である

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師走の外房線各駅訪問~開業時からの木造駅舎と不動のフラミンゴ

上総興津駅の駅名標

※訪問は2013年12月13日

元々は「上総国」南端の駅

太東駅から一気に8駅も南下して上総興津に到着。房総半島で目立つイメージがある「上総シリーズ」だが、外房線では上総一ノ宮と当駅の2駅しかない。そして外房線における上総の国と安房の国の「国境」という位置付けで、この後は「安房シリーズ」となるというか、なっていたのだが行川アイランド駅の誕生で微妙に事情が異なるようになったが、それについては行川アイランド紹介の際に記したい

駅舎は屋根のひさしの部分など、房総半島でよく見かける木造駅舎だが、水色塗装は内房線では駅に着く度に出会っていたが、外房線では初めて。結果的には、これが最初で最後となったが、なにゆえ当駅のみ水色になったのかは不明

旅から戻って気付いたのだが、閉鎖されていたような改札内の精算所の上に財産票があった。大正15年4月と記されている

ただし駅の開業は1927年(昭和2年)4月。昭和元年は1週間ほどしかなかったので、駅舎が竣工してから1年間、レールの到着を待ち続けていたことになる

何度も書いてきたが、外房線は房総鉄道という私鉄によって敷設が始まり、同社によって大原までが開業したのが1899年(明治32)。以降、国鉄への移管が行われ、さらに南下する工事が開始されたが、勝浦到達が10年以上が経った1913年。勝浦~上総興津が1927年で、こちらも10年以上の歳月が流れている

こちらは駅前にあった勝浦町の地図だが、これまで伝えてきた九十九里浜に近い地形とは異なり、細かい湾が連なる地形となっている。狭い場所に線路を通すのは、かなりの難工事だったのだろう

かつては興津町の駅

駅名は1955年まであった興津町に基づく。その後の合併で勝浦町となり現在は勝浦市。興津については「興」は「沖」を意味し、「津」は「港」の意味になるという。鉄路の建設は大変だったが、その分、天然の良港そして上総の国の南端として戦略的にも重要視され、戦後時代には攻防戦があった。また江戸時代には東北の各国からの船が江戸湾に入る際の寄港地として栄えた。また明治以降は遠浅で透明度が高い上、年に何回か干潮時に島とつながる景色が見られる守谷海水浴場に人が押し寄せるようになった

守谷海水浴場は現在も人気の海水浴場だが、駅からの距離がもっと近い興津海水浴場もあり、先の写真で精算所の窓口が2つもあるのは十分うなずける。ふだん通勤通学で使用している定期券を提示して精算を行う姿が目に浮かぶ

有人駅で営業時間は、これまでの外房線の駅で紹介したのと同じ9時20分から16時30分で、途中に休憩がある。朝夕に一部の特急わかしおが停車する

ホームは2面3線構造だが、端のホームは長期間使用されていないようで、そもそもホームらしい舗装も見えない

朝のモバイルバッテリーのトラブルのおかげで昼食は強制カットとなった。徒歩数分の町の中心部と思われる場所まで歩くと、地方都市でおなじみのヤマザキショップがあったため、パンとボトルコーヒーで飢えを凌ぐ

駅前の池を改めて眺めた

冬場で生い茂るものはなく、夏場の手入れについては分からない。石碑はそれなりに古いもののように感じたが、傍らにはフラミンゴの姿。姿といっても置物。実を言うと、どうしてここにフラミンゴの置物がわざわざあるのか全く理解できなかった。「フラミンゴの謎」が解明するのは、この後、電車に乗ってからである

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師走の外房線各駅訪問~岬町のもうひとつの駅は「いかにも」の木造駅舎

太東駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

町名は有名すぎる岬から

冬の柔らかな日差しとともに長者町のお隣の太東に到着。各地を訪れる度に酷い雨に遭って、列車が止まったり、時には帰宅できずにもう1泊を強いられてしまうようなことも多い私だが、なぜか千葉県では好天に恵まれる。四季を通じて数え切れないほど千葉県の各地を訪れているが、仕事も含め、千葉の雨で記憶にあるのは、この1年前の2022年12月に行った内房線訪問の2日目ぐらいだ

その太東駅は旧太東町の駅で駅名もそれに基づくが、駅が開業した1899年(明治32)は太東村だった(長者町駅と同時開業)。自治体の変遷をたどると日本中に自治体が誕生した町村制施行時が太東村で、その後の合併を繰り返していく中で戦後に太東町となり、次いで長者町と合併して岬町に。そして平成の大合併でいすみ市となった

太東村の自治体名は昔からあったものではなく、九十九里浜の南端として知られる太東岬から付けられた

灯台と岬まで歩いて行く人はあまりいないだろうが、車だと10分もあれば十分に到達できる。ただし公共交通機関でのアクセスは悪いようだ。初日の出の人気スポットでもある

国鉄らしい木造駅舎

木造駅舎が健在。豪華すぎず質素すぎず、駅員さんの寝泊まりも可能-という地方の国鉄駅でよく見かけるスタイル。駅の設置は房総鉄道の手によるものだが、少なくとも駅舎は明治からのものではないと思われる。内房線、外房線ともに財産票を見つけられずに苦労した

駅名板は三角屋根の下、入口部分に掲げられている。こちらも年季もの

駅の所在地は「いすみ市岬町椎木」。駅舎は海とは逆側にある。「しいぎ」と読むそうで商店街がある。公共物の所在を見ても線路を挟んだ海と逆側が太東町の中心地だったようだ

駅舎内にも注目

外観とは対照的にホーム側の駅舎の風景は年代を感じさせる。ニャンコが爪とぎでもしたのではないかとも思ってしまう木製の柱も全国で見られる。なお番線案内に「3」とあるが

かつての2面3線構造は形こそ残るものの、中間にある2番線は写真で分かるように錆びたレールがあるだけで、事実上の廃ホームとなっていて1番線と3番線のみの運用となっている

有人の時間帯は長者町駅とほぼ同じの9時20分から16時30分までで、昼休みがある

何気なく貴重なのは精算窓口が有効なこと

駅舎内は有効スペースとして利用されていて

最寄り(といっても歩くのはちょっと遠い)の飯縄寺の解説のほか

や写真。さらには

地元の中学生による「今月の一冊」コーナーまで。いろいろな意味で飽きない駅となっている

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師走の外房線各駅訪問~木造駅舎のたたずまいと屋根の上の駅名板は特Aランク

長者町駅の駅名標

※訪問は2023年12月13日

素晴らしい駅舎紹介していきます

長者町駅に到着

さて駅の紹介は、どの路線も基本的に旅程通りに報告しているのだが、ここまで上総一ノ宮以南の駅を浪花、三門、東浪見と訪問。いずれも簡易的な駅舎ばかりだった。続けて読んでくださっている方は「なんだ、外房線は簡易駅舎ばかりか」と思われかねない。しかし、これはあくまで偶然。外房線の25駅(千葉と安房鴨川をのぞく)のうち、駅舎のない駅は圧倒的に少数で、たまたま電車のダイヤの都合でこうなってしまっただけ。ここからは素敵な駅舎を紹介していきます

そんな駅舎の中で私の中で特Aランクに入るのが、ここ長者町駅

趣のある木造駅舎。開業は1899年(明治32)と19世紀。上総一ノ宮(当時は一ノ宮)~大原が房総鉄道によって延伸された際に設置された。駅舎がいつからのものかは調べられなかったが、かなり古いものであることは間違いない

現役感あふれる

入口に乗っかっている

駅名板がいい感じ

当駅の良さは、時間制限があるとはいえ、基本的には有人駅であることだ。現在はいすみ市だが、平成の大合併まで存在した岬町の町役場最寄り駅で、今も「現役感」にあふれている。地元の観光協会や商工会の看板にもそれを感じる

順序が前後するが

電車を降りたホームからの景色も良い

改札口にもかわいい駅名標。こちらは「おかえりなさい」である

元々は東京の地名

全国で見かける長者町。地域によって由来はさまざまなようだが、こちらの長者町は江戸の地名に由来する。1回目の東京五輪直前まで住居表示として存在した下谷長者町(御徒町駅の南側にあった)は江戸幕府ができる前、「長者」という名前の方の豪邸があったらしく、できすぎの名前ではあるが、そのまま地名となり、江戸時代に入ってからは幕臣の邸宅が並ぶ町となった。幕臣の一人の領地が、ここ千葉県にあったため、江戸の邸宅の地名をいただき長者町となった。ちょっとややこしいが、当時から明治にかけての当地と付近一帯は漁村と農村が続いていたが、それぞれが「○○村」を名乗る中、当地はずっと長者町だった

線路がやってきたころは、いくつかの村と合併し、長者町として統合されていた。1961年(昭和36)に太東町と合併して岬町が誕生している

現在はいすみ市の岬庁舎となっている旧岬町役場までは徒歩10分ほど。駅前は町が広がる

JR東日本のHPによると有人時間帯は9時20分~11時30分と12時30分~16時30分。訪問時は有人時間帯だった

東京の長者町は住居表示から消えてしまったが、当駅の住所は今も「いすみ市岬町長者」である

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師走の外房線各駅訪問~超難読駅は関西人向け?不思議な複線区間上に存在

東浪見駅に到着

※訪問は2023年12月13日

これは読めません

三門から上総一ノ宮の1駅お隣まで戻って東浪見で下車。これで「とらみ」と読む。レベル高の難易度だ。浪花駅を前々記事で紹介したが、「ナニワ」と来て今度は「トラ」である。関西人にはなじみの深そうな感じもするが、こちらにおいては、そもそも読めないのだから、なじみも何もないかもしれない

所在地は一宮町だが、駅が開業した1925年(大正14)は、まだ東浪見村だった。戦後の1953年(昭和28)に一宮町と合併して自治体としての東浪見村はなくなったが、駅の所在地は今も「一宮町東浪見」である

九十九里の海岸に泥がたまり「泥海(どろうみ)」と呼ばれていたものが、なまって「とらみ」となり、当初は「虎見」と表記されていたのものが、やがて「東浪見」になったという。古い文献には虎見の地名も残っているそうで、そのままだったら、浪花→虎見という乗車券が売れる時代が訪れていたかもしれない。とにかく海は東にあって、そこの浪を見るわけだから、西浪見はあり得ないのだ

駅は小高い丘の上に設けられた形となっていて階段とスロープで駅舎へと向かう

駅舎は内房線や外房線でおなじみの簡易的なスタイル。といっても前者も貨車改造タイプなので簡易的駅舎には変わりない。かなり早い段階から無人化されていたようだ。上総一ノ宮からわずか1駅だが、当駅から運行本数が大きく減る

駅のホームは山に面したようになっているが、駅舎を出ると東浪見の街となる。九十九里浜までの距離は両隣の上総一ノ宮駅や太東駅よりも近い

こちらはホーム階段からの眺め

ICリーダーとベンチを備えた簡易的な駅舎。お手洗いもある。ちょっとオシャレな駅名標があるが、暑さ寒さを凌ぐという駅舎ではない。かつては貨物も取り扱いを行っていたようだが、面影は見られない

全線複線化の夢

跨線橋から構内を俯瞰すると複線区間にあることが分かる。外房線は東京からの直通電車がやって来る上総一ノ宮までが複線で、そこから先が単線というイメージだが、実は上総一ノ宮から1駅目の東浪見から複線となる。複線部分は長者町までの2区間、わずか6キロ。その先の御宿~勝浦の1区間約6キロも複線化されているが、上総一ノ宮から1区間が単線で再び複線区間が少し続くという、ちょっと変わった構造となっているが、これは全線複線化の夢の一端である

千葉方面から上総一ノ宮まではベッドタウン化が広がるとともに、部分的な複線化が続けられていたが、全線が複線化されたのは1986年(昭和61)の10月で民営化のわずか半年前。もちろんJR転換は決まっていて、このころは国鉄からJRへの手向けとして各地で追い込み工事や新駅の設置が行われていた時代

これで外房線の複線化は一度終わったが、民営化から数年が経って再び複線化の機運が高まり、1995年から1996年にかけて一部複線化が行われた。この複線化は特急のスピード向上には多少役立ったが、それから30年近くが経過しても複線化は進まず、現在の2両編成による1時間に1本の運行には設備を持て余し気味だ。ある意味、夢の跡となっている

なおマージャン愛好家にとっては、東浪見駅はかつて存在した麻雀博物館の最寄り駅として知られる駅だった

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