信濃森上駅

大糸線全40駅訪問最終章~特急停車駅でもあったなごりと現在

※訪問は2024年10月10日

目につく写真入り駅名標

あらためて白馬大池駅。目につくのは駅舎の右側にある外向きの写真入り駅名標だ。一時はJR東日本の駅で数多く見られたが、最近になって急速に姿を消している。長期間使用して色あせると更新に手間がかかるのだろうか

例によって、ほとんど下調べはせずにやって来た。分かっているのは立派な駅舎に相反して無人駅だということだが、それは全国でよくある姿だ

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栄華の跡が残る

当駅の位置はというと姫川に面している。駅を出ると国道があつて、すぐ姫川。信濃森上の北あたりで大糸線に急接近する姫川は、この後、大糸線に寄り添うように糸魚川まで到達して日本海に注がれる。ここから北の車窓はずっと姫川にお付き合いだ。正確には太古の昔からあった姫川に千国街道である国道148号と大糸線が寄り添っているわけだが、暴れ川でもある川沿いにしか道路や線路を通す場所がなかったとも言えるわけで、それだけ人の住む所は少なかったことになる。当駅付近にも民家は数少ない。ちなみに糸魚川の地名は、氾濫を繰り返す「厭い川」から来ているという説もあるほどだ

そのような場所に駅があるため、周囲に人家はほとんどない。にもかかわらず、よくこのような立派な駅舎ができたと思ってしまうが、前記事で書いたように当駅をスキーも含めた栂池高原の最寄りとしてレジャー拠点にしようという目論見からだ

信濃森上駅の記事でも参照した1978年10月号と1988年3月号の時刻表を開いてみると、国鉄時代の78年に比べてJRとなった88年の方が多くの優等列車が停車していることが分かる。週末を中心にした運行の新宿行き「あずさ」や名古屋行き「しなの」は南小谷始発で当駅から信濃森上、白馬と3駅連続の停車。スキーシーズンの終わったGWも停車があるので、栂池(つがいけ)高原リゾートの最寄りとして重要視されていたのだろう

駅舎内の待合室にあたる部分は広い。椅子が並べられている場所にきっぷうりばの文字がある。右側のやや低くなっている窓口は手荷物受付だ

きっぷ販売の窓口は2つあったようで規模も推察される

逆側に目を転じると

おそらく売店の跡だ。いつまで営業していたのか分からないが、売店があるほどにぎやかな駅だったと推察される

ホームは単式。駅舎と逆側には山が迫っていて、もちろん民家はない。長いホームが優等列車が停車したころをしのばせる

当駅訪問の注意点

駅舎の外から見えない側にも写真入り駅名標がある

そして時刻表

荷物扱所の文字(貴重なものだと思う)の下に掲げられているが、私は8時40分着の増便バスでやって来た。次の電車は10時13分で1時間半の待ち時間があった。そして何度も書いているように10月上旬とは思えない寒い朝だった。寒さは駅舎の中でしのぐことができるが、問題は冷えからの生理現象である。増便バスを利用しての移動候補には当駅とさらにひとつ北の千国駅があり、どちらに行っても道程はほとんど変わらない。ただ千国駅の停留所が駅からやや離れていること、そして駅の写真を見た時にお手洗いがあるとしたら白馬大池だろうと思ったこともあって、こちらでの下車となったのだが、結果からすると、それは大間違い。お手洗いはなかったというか閉鎖されていて使用できないのだ(厳密に言うと、その手前にも行けない)。もちろん悶絶である

訪問当日は道路の補修工事を行っていた。手前が駅で道路の向こう側は姫川である。栂池高原への公共交通機関によるルートは白馬からのバスがメインになっていて当駅をレジャー利用する人は、ほとんどいないと思われる。最近の利用者数は不明だが、周辺にほとんど民家は数少なく10年以上前の時点で1日20人を切っていたので、それから増えてはいないはず。10時を過ぎてやって来た信濃大町行きに乗車したのは私だけだった。要はずっと貸切だったのだ

信濃森上駅ではすっかり簡易化された駅舎に寂しさを感じたが、こちらでは立派な駅舎にかつての栄華を感じさせるだけ、別の意味で寂しさを覚えたのである

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大糸線全40駅訪問最終章~優先的に電化された急行の終着駅

※訪問は2024年10月10日

降りるころには

信濃木崎から白馬も越えて1駅。約40分で到着したのは

信濃森上駅。8時5分の到着でダイヤ的には通勤通学用なのだろうが、白馬まででほとんど降りてしまい下車したのは私一人。要は閑散としているのだが、南小谷まであと3区間というこの駅が主役だった時代が確かにあったのだ

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突貫工事の電化

当駅は1932年(昭和7)に大糸南線(当時)が神城から延伸された際に開業した。線路がさらに伸び、中土まで到達したのは1935年だったので、3年間、終着駅の役割を果たしていた。そのまま戦争に入り、大糸南線と大糸北線がつながって大糸線となったのは1957年(昭和32)。これは何度も書いているが、国防のために敷設が始まった大糸線が全通したのは戦争が終わって10年以上も経ってから。では沿線人口の少ないこの路線を今後どうしようとなった時に出た発想が観光レジャーとしての活用だった

沿線にはスキーや登山もある、温泉もある、湖もあるということで利便性を図るため信濃大町以北も電化することになり、突貫工事で進められた作業は全線開通からはや2年後の1959年には信濃四ツ谷(現白馬)までが電化。1年後の1960年には信濃森上までが電化された。さらに…といきたいところだが、ここでいったん電化の作業は急停車。南小谷までが電化され、現在の形となったのは1967年で7年も要した。つまりは信濃森上までの電化が急がれたのだ。理由は周辺のスキー場などを抱える白馬岩岳の存在である

地図では点と線しか分からないが、信濃森上駅の駅舎と逆側、国道148号線の北側はリゾート地域となっていて宿や飲食店が並ぶ。スキー場までも車だとあっという間の距離である。そのため東京、大阪からの夜行の急行は白馬ではなく当駅を終着駅として、夜の遅い時間に新宿や大阪を出た列車は早朝に当駅まで多くの人を運んでいた

手元にすでにJRとなった1988年3月号の時刻表(復刻版)があるが、GWまで臨時の急行が多数運行され、信濃森上止まり以外にも南小谷行き、南小谷行きだが白馬から普通として運用されるものもあり、朝の5時台から6時台にかけて信濃森上駅は大にぎわいだったことが想像できる。もちろんすべてが電車車両。さかのぼること10年の1978年10月号においては主要駅を表す太字表記は白馬ではなく信濃森上である

主要駅の現在

そんな「主要駅」の現在はというとホームを出ると階段があり駅前ロータリーへ出られるのだが、外から見ると

これを駅舎と言って良いのかどうかという状態だ。2007年(平成19)に開業時からの駅舎は解体され、現在の姿になった。もちろん無人駅で優等列車の停車はとうに終わっている(今春のダイヤ改正で白馬以北の定期優等列車は姿を消した)

時代とともに白馬岩岳スキー場(夏季はリゾートとして営業)へはマイカー利用が主流となり、公共交通機関利用の場合も白馬駅からが主なアクセスとなっている

往時を思わせるホームも

ホームには待合所があり

前記事の信濃木崎駅と同じ内容になってしまうが、そこにあった駅名板だけが旧駅舎から引き継がれたものだと思われる

ホームはもともと2面3線で柵の向こう側にあったホームは使用されなくなっているようだ

主要駅以外は構内踏切の多い大糸線だが、こちらは跨線橋で結ばれていて、かつての規模の大きさがをしのばせる。時間はあるので向かい側のホームも見てみようと歩を進めると、そこで待っていたのは

通行止めのネット。現在の運用は棒状ホーム扱いである

あらためて見ると、なるほどレールは錆びている。車掌さん用のモニターがあるので、最近まで利用されていたようではあるが…

背後の美しい山の稜線とのコントラストがちょっと寂しかった

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